18 悪意の依り代
異常に成長した広葉樹が満天の夜空を遮り、降り注ぐ星明かりさえも地上には届かない。
足元も覚束ないほどに暗い樹海はここが魔の領域に近いことを教えている。
過酷な灰降り山脈を越えてきた強力な魔物が生息するナヴァロ大森林。
気の遠くなるような悠久の刻を経た木々は根を張り巡らせ、難解な迷宮を造り上げた。
外縁部は林業のために切り開かれもするが、奥地となれば人の手が入った公的な記録はない。
そんな僻地で獲物を猛追する狩人が二人。
脇目で折れた草花や刻また足跡を一瞥しては方向を微調整する。
「こっちだ」
樹海も浅い領域ならば土が剥き出しで痕跡も残りやすいが、一面を苔が覆う深部はそう簡単にはいかない。
緑一色の中から不自然な場所を見抜くのは一筋縄ではない。
しかしジンの脚は鈍らない。
根を滑り込んで潜り抜け、沢を一歩で飛び越え駆け抜ける。
背中を押すのは膨大な経験に裏打ちされた自信。
獲物の手がかりを寸分の狂いなく看破し、尚且つ樹海の生物を避けて最短の道を走る。
「ハァ……ハァ……」
もう二時間は走っているだろう。
ジンは速度と体力の両方にまだ余力が見えるが、オリガは限界を感じている。
否、感じているのは不甲斐なさか。
落ち着いて回避に専念するならば一時間やそこらでバテる自分ではない。
だが、姿が見えないゴールを追っての追走劇は苦痛そのものだった。
一時間を超えた辺りで疲労が全身を支配し、二時間が経った頃には汗でうなじや額に張りつく髪に構う余裕も消えた。
蒸れる鎧を脱ぎ捨てたい衝動に駆られるが、歯を食い縛ってジンを追いかける。
しかし、起伏に富んだ山麓の森は険しく、弱音は喉元まで登って来ている。
二時間も全力で走れることは、常人なら驚異に価する。
もう充分によくやったと言える。
誰だって責めはしないだろう。
己が倒れてもジンが後を引き受けてくれる。
だから、だから。
「……いいや……まだだ……!」
〝ここで倒れたら〟
荒い息を吐いて重力の甘い誘惑を振り切る。
〝自らを犠牲にしてまでも子供を守ったマルコに合わせる顔がないッ!〟
重たい足を精一杯回して、なりふり構わずジンに追い縋る。
ジンは一度たりとも振り向きはしなかった。
乱れる呼吸と足音を聞きながら、常にオリガが追い付けるギリギリの速度を維持した。
途中、オリガが足をもつれさせても絶対に止まらず振り向かず。
苦しくても乗り越えるのを信じる。
それが背中を預けるということ。
それから更に十五分は走っただろう。
ジンが初めて足を緩めた。
「どう……した……?」
息も絶え絶えで訊くとジンはコートのジッパーを下ろした。中の野戦服の緑と黒のまだらの生地が覗く。
「近い。足跡の間隔が狭くなってきている」
極力殺した声で囁き、無造作に雑草をむしると宙に放った。
支えを失った草は空気抵抗で不規則に揺れて、ほぼ垂直に落ちた。
つまりは無風。
加えて真っ暗闇ときている。
絶好の狩り日和だ。
天は人に微笑んだようだ。
もっとも、オリガの目には物の輪郭すらもぼんやりとして見えない状態でジンとはぐれたら右も左も分からない。
が、ジンには暗所で追跡し、戦闘するなど造作もない。
この四半世紀で目まぐるしく動いた歴史の舞台裏、暗闇の中で狩りをして生きてきたのだ。
「先手必勝だ。風向きが変わる前にギリギリまで接近して奇襲する。視界の確保にこれを使え」
ジンは腐った倒木の陰にしゃがみ、コートの懐から円柱形の金属缶を出して地面に繁茂する湿った苔の上に置いた。
頭の多角的な出っ張りにはフックや輪の付いたピンが刺さり、胴は赤く塗られている。
「これは……?」
オリガの見たこともない道具だ。
ランタンの一種だと思ったが、効果や使い方は皆目見当もつかない。
ギルドナイトの定例会で交流する一流の職人達でさえ、この精緻な缶を作れないだろう。
「焼夷手榴弾という兵器だ」
ジンはその缶のピンを叩き、指をかける。
「このピンを抜くと安全装置を兼ねたフックが外れるからキメラに投げろ。注意点は二つ、開けた場所で使うこと、最低でも五メートルは離れた所に投げることだ」
簡潔に述べて筒を手渡す。
「五メートル以内だとどうなる?」
手〝榴弾〟という呼び名が既にランタンのような文明の利器とはかけ離れた物騒な響きが籠っている。
しかも今、ジンは兵器と言った。
兵器とは、目標を確実に殺害する威力を追求した高純度な殺意の塊だ。
十五年前の大戦でも猛威を振るったという。
古来より使われている剣でさえも扱いを誤った使い手を傷つける事はままある。
ましてや未知の道具となれば間違いも起きやすいのは想像に難くない。
手に収まった殺意が暴発したらどうなるかを、オリガは聞かずにはいられなかった。
「飛散する破片で怪我をするか、火炙りになる。気を付けろ」
注意を喚起するにはあまり気持ちの入っていない言葉を口にして腹這いになる。
予想外に危険だった金属筒に、オリガは口をへの字にする。
「火って……大丈夫なのか? 山火事とか……」
「これだけ湿度が有れば延焼することはまずない」
焼夷弾手榴弾のフックを腰のベルトに引っ掻けたオリガは、猟犬宜しく鼻を利かせながら匍匐で進むジンを慌てて追いかける。
夜霧に濡れた草むらの根元を這いずり進むこと十五分。
体の前面に泥を塗りたくった二人は、古木が倒れかかった岩の裏に隠れている。
隙間から様子を伺う視線の先には、背の低い草が敷き詰められやや開けた草原がある。
オリガが見つめるのは、草原の奥にそびえる樹齢数千年の巨木の根に口を開ける虚、その前に佇む一体のキメラ。
他の場所よりは幾分葉の天蓋が薄く、射し込む月の光でキメラの姿は朧気に浮かび上がる。
丸太のように太い四肢の上に乗るコンテナ染みた巨大な胴体。
ルカ村の地獄絵図を作り上げた、それぞれが鉈程もある爪と牙。
全高二メートル全長六メートル半の四足で地を駆ける、人に仇なす害獣。
正に怪物という名を冠するに相応しい、筋骨隆々の堂々たる体躯。
人の血をたっぷりと染み込ませた体毛に目を引かれ、オリガは思わず息を飲む。
冒険者をしてきた八年のキャリアでも最大の獲物だろう。
息は整ってきたが、ベストコンディションには程遠い。
この体調で格上の強敵と戦うのは厳しいと言わざるを得ない。
しかし、それでもオリガの胸は熱く滾る。
一方、ジンが目を走らせるのは森の上部。
漫然と俯瞰しているのではなく、視線を蛇行させて注意深く枝の一本一本を選り分ける。
一点に目を留めた。
際立って高い位置の枝。
身を潜めるにあつらえ向きの暗がりにありながら、草の広場を一望出来る絶妙な監視地点。
培ってきた経験があればそのポイントに当たりを付けて割り出すことは容易い。
だがそれは結果論であり、マルコが教えていなければ、速度を優先して突入していただろう。
黄泉の淵に居ようとも、他人を助けるようとしたマルコの最後のメッセージを、二人は確かに受け取った。
声を出すことも叶わなかったマルコのそれは、指で数パターンのリズムを刻む単純なシグナル。
叩くよりも地面に当たると言うべき弱々しさでも届かせた意地と執念。
予想通り、そこにも二つの目が光っている。
それを認めたジンは最終的な確認のためにオリガの肩を叩く。
振り返るオリガの視線をハンドシグナルで誘導する。
ハザウェイに仕込まれたなら、ハンドシグナルは扱えるだろう。
木の上の目玉を垂直にした平手で指して指を一本立てる。
〝上にも敵が一体〟
それを見て目を凝らすがオリガの目は闇を見通せず、よくわからなかった。
〝私にはあのキメラしか見えない〟
二本指で目を指して手を振り、地上にいるキメラを手で指して指を立てる。
久しく使っていなかったために埃を被っていた記憶を引っ張り出して、たどたどしく手を動かす。
少しだけ地上のキメラを凝視したジンはオリガに指を指してから地上のキメラへ拳を突き出した。
〝お前はあれを倒せ〟
次に自分を指して拳を手のひらで覆った。
〝俺が援護する〟
オリガは頷くと親指を立てる。
〝了解〟
腰から抜いた焼夷手榴弾のフックを握ったままピンを抜き待機する。
指先で円を描いたジンは三本指を立てた後に拳を作る。
〝カウント三秒で行くぞ〟
〝ああ、いつでも来い〟
オリガは握りを変えて焼夷手榴弾の重さを確かめるとそれに頷いた。
〝三……二……一……〟
ジンにとってはここは修羅場ですらなく、最適な緊張を保っている。
ジンがいつもと変わらない鉄面皮で一本ずつ指を伸ばすのを、高鳴る胸を感じながらオリガは見ていた。
緊張や武者震いのそれとは違う感情でオリガはうち震えていた。
それはオリガに落ち着きをもたらし、高い次元での集中を生み出した。
〝零〟
拳を出して零秒を数えたのと完全な同タイミングにオリガはスタートを切った。
かつてない最高のモチベーションは滑らかな動きを作り、古木を飛び越えると同時にフックを放して焼夷手榴弾の投擲動作に入った。
匂いもなく、音も極僅かに抑えられた奇襲にキメラは反応が遅れ、無防備な背中を晒している。
躊躇なく投げた手榴弾は空中に緩やかな放物線を描いて飛び、背中に当たる直前で炸裂した。
新しい太陽が生まれたような熱波が走り、閃光が錯綜する。
キメラを中心に火が燃え広がる。
キメラは火を嫌がっているようだが毛皮は健在で火傷は無い。
ダメージがあるわけでは無いのだろう。
生半可な火では強力なキメラは殺せない。
効力は照明の域に留まっている。
「なら首を落とせばいいッ!」
炎の中でもがくキメラへ、抜刀しもはや足音も隠さず殺到するオリガの右手から、目の前のキメラよりもさらに巨大な影が飛び掛かった。
マルコは死に際に二人に伝えた。
〝二体だ、気を付けろ〟と。
最期の力を振り絞り、指を動かしたモールス信号で。
キメラは二体いた。
それが多くの未確定な情報が報告された事の真相だった。
飛行能力を持つタイプのキメラは枝の上に潜んでいた一体。
巣穴の周囲を警戒していたキメラの番だ。
肩甲骨から生えた猛禽類の翼で滑空して襲い掛かる飛行型キメラは、地上のキメラより一回り大きい。
恐らくは雄。
細身のオリガなど一口に収まるほどに開かれた顎で食らいつく。
「■■■■■■■ーーーーッ!!!」
威嚇かはたまた勝利を確信してか、草花を震えてるような咆哮を轟かせる。
しかし、オリガは真っ直ぐに走った。
ジンは援護すると言ったからだ。
そしてジンは信頼に足る男だ。
「■■ーーー■ッ!?」
雄のキメラが空中で突然急停止した。
「あいつはケジメを付けようとしてる。邪魔してやるな、猫」
キメラの首筋に巻き付く、物が炎に照らされて微かに反射する。
腰を落として引き絞られたジンの手から伸びるそれは、普段なら目に見えないほど細く編まれた鋼の糸。
羽ばたきながらしばらく暴れるが、無駄だと悟ったのか、狙いをジンに切り替え地上に降り立つ。
「そうだ。お前の相手は俺だ」
キメラの瞳孔が開いている。
雄のキメラの食指はオリガから自分に移ったのだろう。
ジリジリと足を動かせばキメラも身を低くして着いていく。
「来い」
〝場所を変えるか……〟
ジンは軽く地を蹴り、広場から森へ入るとキメラもすかさず後を追う。
「■■■■■ッ!」
この黒くヒラヒラした生物は今日食らった有象無象とは格が違う。
並走して追うキメラに野生の直感が警鐘を鳴らし、岩に囲まれた窪地でジンが足を止めた瞬間に牙を剥いて噛みつく。
この生物に戦いの用意をさせてはならぬと踏 んでの、高所からの先制攻撃だったが、遅い。
闇の中でジンの目が光った。
避ける余裕は無い距離まで間近の牙を引き付け繰り出されたのは。
「遅い」
はためくコートの裾から剃刀よりも鋭く放たれた、何の変徹もない上段回し蹴り。
ただし、途方もない破壊力を秘めていた。
キメラの上顎の犬歯に当たり、それを根元からへし折ると、そのまま横並びの前歯を反対の犬歯に至るまで全て破壊した。
「■■■■■!?」
歯茎に流れる激痛と衝撃に堪らずキメラはのけ反り倒れる。
何が起きたのか獣の思考力では理解出来ず、キメラはただ戸惑うばかりで足を竦めている。
はっきりと分かるのは、〝コレ〟には勝てないということ。
「■■■っ……」
総毛立つ戦慄から逃れようと再び羽ばたくが、首に絡み付く戒めはそれを許さなかった。
「どう足掻こうが敵わないと見るや逃げる。その判断は間違いじゃない……」
キメラの首を絞めるワイヤーを持つジンの手が一瞬だけ淡く発光した。
「■■!? !??」
キメラの体が飛び立とうとするその意思に反して激しく痙攣し、地響きを上げて地に落ちた。
硬い被毛と強靭な肉体に守られたキメラであっても、動けないのなら、屠殺される家畜と何一つ変わらない。
立ち塞がる木の根を潜り、戦慄するキメラの鼻先に立つ。
気を動転させて目を剥くキメラの、たてがみが隠している首筋をそっと撫でた。
温暖期と言えど、夜になると山の麓は冷え込んで肌寒く、キメラの体温だけが暖かい。
「が……相手が悪かった」
コートが揺れ、ジンの右腕が消えた。
「■……」
キメラに苦痛は最後まで訪れなかった。
痛みもなく、優しい静寂が永遠の眠りへと落ちた。
顔の前に行き、鼻面を撫でる。
瞳から光が消えたキメラの首に赤い線が現れる。
ゴトリと、重量物の落ちた音がしてキメラの首が転がった。
〝お前も、俺と同じだった。悪意に利用され、翻弄されてきた〟
首の断面から粘っこい血が流れ出る。
運命を悪意に操られ生きた怪物は、同じ存在にその生の幕を閉じられ息絶えた。
〝せめて……安らかに眠れ〟
闇夜に広がる黒々とした血の海を歩き、オリガと雌のキメラの打ち合いが未だ聴こえる広場へジンは向かう。
何とか投稿。
全面改稿したいけどそれは失踪フラグなんだよなぁ…。
圧倒的すぎて主人公の戦闘シーンが戦闘にならないという事態が発生しております。
ご容赦ください。
武装や体の秘密を含め、ジンの立ち位置や生まれが明かされるのはもう少し先になります。
それまでに伏線は張りまくります。
回収出来るかは別ですが(ゲス顔)
純粋な筋力で四トントラック級の生物と対抗してる時点でいろいろおかしいですけど、その辺も理由が判明するのでもう少々お待ちを。
あと十万字から二十万字で第二章に入るのでその辺りで大まかな説明が入るかと。
では今回はここらで失礼します。
感想、誤字脱字、文章がおかしいなどの報告をいただけると失禁して喜びます。
つまんねーんだよボケが!
などといった手厳しい評価も嬉しいです。




