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夜鷹の夢  作者: 首藤環
一章
16/47

15 敗北者

 冷たいコンクリートに汗の水滴が絶え間無く流れる。



 基礎体力錬成と称した、筋トレづくめの朝をジンとオリガは過ごしていた。

 早朝日の出と共に、昨日の深夜に渡された無線機で呼び出され、有無を言わせず腕立て開始である。

 汗水流すジンの傍らには百七十回前後で力尽きたオリガが荒い息をついて倒れ伏している。

 オリガもAランカーとして、体力には自負があったが、常人離れしたジンの前では霞んでしまう。

「……まだやるのか……?」


 延々と腕立て伏せを続けるジンの腕回りの筋肉は膨れ上がり、大きく隆起している。

 

 顔色一つ変えずにジンは一秒一回のペースを厳守して一心不乱に腕を動かす。


「せめて二百回は出来るようになれ……」


 自分のノルマを済ましたジンはやや埃の散見される床に正座して呼吸を整える。


「鍛えるのがそんなに好きか?」

「好きじゃない。キツいし面倒だ。だが俺は勿論、お前もこれからは誰かを守るんだ。必要な時に力が足りなくて、守るものも守れないのはもっと嫌だろう」

 上体の健を延ばす。

 ジンが腕の柔軟をすれば、汗に濡れた半袖のシャツが張り付いてしなやかな体の輪郭が、くっきりと浮き彫りになる。


「そう、だな」

「だから俺は自分を鍛えるし、仲間のお前にもそう在って欲しい」


 ジンは立ち上がりオリガに手を差し伸べる。


「期待に沿えるように精進するよ」


 コンクリートの冷たさが別れ惜しい。


 オリガも起き上がり、首を振って癖の付いた髪を揺らして戻す。

「お次は?」

「走るのもいいが、その前に軽く組手だ」

「構わないが、どんなルールでだ?」

「簡単だ。俺の首を絞めろ。どんな方法でもいい」


 腕を伸ばし脇を開いた体勢でオリガに背を見せる。

 ジンは暗に背中に乗れと示しており、それに気づかないオリガでもないが、戸惑っていた。 後ろから肘の内側を使って首を締め、後頭部を押している反対の腕とロックするのは単純故に効果的で、普通は返すのが難しい。


「安心しろ。暴れたりはしない」

「あ、ああ。その心配はしてないが……」


 これがきっちり極まれば女の力でも大の男を昏倒、または死に至らしめられる。

 正攻法だけに反撃の難しい技。自信に満ちているかに見えるジンの行動が想像もつかないが、言われた以上やるしかない。

 汗の浮いた褐色の肢体をジンの背に被せて組み付く。


 その第一印象は弾力のある岩だった。


 女の自分としては不本意ながら、体重は――筋肉のせいでだが――重い方だとオリガは自覚している。

 そしてそれなりの勢いで取り付いたつもりだったが、ジンの軸は微塵も揺るがず、衝撃のことごとくが自分に返ってきた。

 壁にぶつかったような錯覚がした。


「フム……全力で絞めろ。俺はそれから抵抗する」

「分かった……やるぞ」


 やり方は義父に習って練習もしたことがある。

 教わった通りにジンの首に腕を回して徐々に力を加える。


 余った脚はジンの腹に巻き付けている。

 紺のタンクトップに包まれた胸が圧縮されて歪む。


「……む?」


 腕が完全に頸動脈を捕捉している拍動も感じる。

 しかしジンの異様な首の堅さに一定以上は絞まらないのだ。


「う……ぐぅ!」


 意地になって最大の力で絞めてもぐらつきもしない。

 常人なら首の骨がへし折れるような負荷がかかっているにも関わらずだ。


「こんな所か」


 頸動脈を圧迫するオリガの左腕をジンは片手で掴む。

 剥がされまいとさらに力を籠めるべく、オリガが力もうとした矢先。


 ギジッ。


 鋼線の束を捩ったような音がジンの体から肌を通してオリガに響いた。


「!」


 かと思えば、気がついた時は既に腕を外され、脚のロックまで解かれて片手で背中から投げられていた。


「なッ!?」


 咄嗟に受け身を取るのも忘れていたオリガを、ジンは右腕一本で優しく受け止める。



「大丈夫か?」

「あ、ああ…」


 立たされてもオリガは呆けていた。

 何が起きたかを理解したのは、手首に鈍い痛みを感じた時だった。

 うっすらと赤く手首に跡が残っている。

 腕を剥がす時にジンが発揮した超人的な握力によるものだったらしい。

 しかもコンクリートにオリガが叩きつけられるのを避けるために右腕を使ったということは、つまりは、ジンは左腕一本で投げたということ。


「はは……どんな筋力だ…」


 自分とジンの強さの間に広がる千尋の谷のような開きを直感する。


「今のような窮地も、体力次第では力技で切り抜けられる。実感したか?」

「とんでもないな……」

「小細工もしたがな」

「どのタイミングでだ?」


 そんな事をされた記憶は無い。


「人が力む時にはな、直前に少なからずの脱力する隙がある。お前のそれを利用した」

「そんなのは私自分でも感じないぞ?」

「あれだけ肌が重なれば、多くの情報が分かる。心拍数、体温、重心、呼吸、その他もろもろだ。本人でも無意識の内にやってる行動は多い」

 渾身の力を使うとなれば、それらが大幅に乱れるということだ。


「体力には限界がある。最小限の労力で効率を求めろ」

「なるほ。ジンが強い訳だ」


 強いという単語にジンがピクリと動いた。


「強い…か。それは間違いだ」

「本気の父さんよりも上なんだろう?」

「それだけの暴力でいい世界なら、ここは大層な天国だ」


 ジンが何歩か歩いて柱の鉄骨に触る。


「俺にはこの世界が地獄としか思えない」


 腰を入れて右手の四指を揃えて放った。


 横合いから観ても肩から先が視認不可能な速さで打ち込まれた貫手。


 勝ったのは指だった。

 鉄骨に指の付け根まで深々と刺さった。


 オリガは目を疑った。

 鉄を指で指し貫くなど、もはや人間業ではない。


 鉄骨から指を引き抜いたジンは、技を誇るでもなく力無く腕を下げる。


 指先は微かに震えていた。


「こんな力を持ちながら、俺はたった一人の女も……守れなかった……」


 伸びた前髪の間から疲れたような視線を爪先に向ける。


「嫌な事を思い出させた。悪かった……」


 義父からジンの現在に至るまでの過去については聞き及んでいた。


 楽しかったこと。

 強大な敵に共に立ち向かったこと。

 多くの仲間を失ったこと。

 戦いに敗れたこと。

 大切な人を亡くしたこと。

 その心は夢破れた時間のまま凍りついていること。


 己の『無力』を恨む男に対して、なんて無神経な言葉を口走ってしまったんだ。

 ジンが生きているのは、生きる気力があるからではない。

 託されたものを守るために、どれほどの苦難が待ち受けようとも、生きなければならないからだ。

 その彼の決意を私は穢した。

 愛する人が義父の他に居ない私が口にするなど。


 軽はずみな発言にオリガは自省して俯く。

「本当に済まない……」

「いや、俺の事はいい。気にするな。もう、終わった事だ」


 マグカップを二つテーブルから拾う。


「朝食にする。コーヒーを淹れている間に汗を流してこい」


 一見落ち着いたかに見えるジンがオリガの肩を叩いて促した。


「ああ……」


 ジンは何でもないようにしているが、自分の心理を制御しているからだろう。


 私も自分の過去に心の整理がつかない時がある。


「さっさと入れ。それともまた俺が洗おうか?」

 セクハラ紛いのセリフだが、後ろ向きであからさまに興味無さげに言われては、嫌悪感よりも悔しさが勝る。

 そもそも、シャワーカーテンすらない。

 交際もしていない若い男女が、互いに気兼ねすることなく肌を見せるのは一般的にどうかと思う。

「私がオンナノコだって忘れてやしないか? 私にだって恥じらいが……」

「捨てちまえ、そんなもの」


 恥じらいで飯が食えるなら評価するが、冒険者に恥じらいなど邪魔なだけだ。

 上流階級の人間の痩せ我慢を真似する意味は無いだろう。


 なげやりにそう言われて、オリガは苦笑してしまう。

「ハハ、ならお姫様にでもなろうかな」

 汗でベタベタの服を脱いで水を被る。

 身の引き締まる冷水の心地よさを感じながら艶やかな黒髪を手櫛で透く。


「跪いてくれる騎士様を探す所から始めるんだな」


 湯を沸かしている間にも、オリガに律儀に受け答えをしている。

 元々こういった仲間内の会話のキャッチボールは嫌いな質ではなかった。


「ジンがなってはくれないのか?」


 オリガは肢体を撫でて塩分を落とし、ジンは缶詰めを開ける。


「俺はもう手一杯だ。よそを当たってくれ」


 インスタントコーヒーの顆粒をマグカップに落としてかき混ぜる。


「両手に花、幸せじゃないか」

「馬鹿言え。剣を持たずに花で戦えるかよ」

「確かにそれは騎士じゃなくて詐欺師だな」


 髪を絞って水気を切る。


「それか政治家だ。できたぞ、食え」


 湯気の立ち上るマグカップとスプーンが刺さった豆の缶詰めをテーブルに置いて、オリガに伝える。


「分かった。今……」

 テーブルに乗った缶詰めから滑らせたオリガの視線は、自然とジンのそれと交わる。

「……」

「……」

 一糸纏わぬ姿を間近で堂々と眺めるジンに、しばし言葉を失っていたが、眉間を揉んで気を取り直す。

「……何か言いたいことは?」

 ここで悲鳴を上げない私もどうかしてきたな。

 目の前で失禁して丸洗いまでされたんだから、もう恥ずかしい事なんて……ほぼ無い。


 オリガの第一声は正解の不明瞭な疑問。

 非常識な義父の英才教育を受けた下地が、ここ数日で更に塗り固められていた。


「後背筋と大胸筋、大臀筋も欲しいな」

 ジンは疎らに伸びてきた薄い髭をコンバットナイフで剃りながら真顔で答えた。

「その心は?」

「歳を食うと胸と尻が垂れる」

 あのモッサリ金髪ババアみたいにな。

「……ハハハ、そんな事だと思ったよ。もっとこう、ムラムラするなんて感想は出ないのか? いや何言ってるんだ私は」


 混乱して言語中枢が暴走して赤面するオリガにバスタオルにジンが投げつける。


「抜かせ。そういう言葉は二千人は寝たビッチになってから言え」

「それって、とんでもない悪女じゃないのか?」

 大雑把に体を拭いて下着を着たオリガはペタペタとソファーまで行き、入れ違いにジンが服を脱いでシャワーの栓を開けた。


 どうやら、ビッチを間違って認識しているようだな。

「それは違うな。ビッチは気高く、そして慈愛に溢れている」

「え? いやいやどうしてそうなる」

 何だか話がおかしい方向に進んできたぞ……。

「不特定多数の男とその……そういうコトを繰り返すんだろ? まずくないか?」

 頭をタオルで擦って、怪訝そうに訊く。

「それは穴っぽこどころか、性根まで真っ黒の尻軽女だ。そうしてまで利益にすがりつくクズ女はビッチじゃない。一緒にするな。いいかオリガ、良く聞け」

 真のビッチとは何か。


 シャワーを止める。


「真のビッチとは、自分の身を汚すことも厭わず、男を癒す女を言う。男を奮わせるのはいつだって良い女だ」

「酒を飲んでるのか?」

「シラフだ」

 俺はいつでも大真面目だ。


「その論法だと、つまり……ヒモが駄目で、娼婦はいいってなるのか?」

「そうだ。分かりやすく言えばそうなる。だから俺は優秀な娼婦には最大限敬意を払う」


 無駄が削ぎ落とされた腰に手を当て、射し込む朝日に下半身が照らされる。

 無論、何も着ていない。

「前衛的というか、哲学的というか……」 

 父さん。

 父さんの旧友は変な男だったよ。

 順序を逆にして考えると、変人だから、やれ破天荒だの、白髪の問題児だの言われる父さんの仲間が務まったのか?


「総じて女は素晴らしいものだ。お前もきっとイイ女になる」


 ジンにそう言ってもらえるなら嬉しい。

 しかし、嬉しいは嬉しいが、少なくとも、真っ裸で宣言することじゃない。

「そう”揺らされ“ては落ち着かないんだが」

 すぐ近くの顔の高さで揺れてると視界にチラチラ入って困る。


「見るに耐えない貧相な代物で悪かったな」

「そ、そこまで言ってないだろう!」

 昔に父さんと一緒に風呂に入った時に見たぐらいしかないから、よくは分からないが。

「べ、べべ、別に小さいとか思ったわけじゃーー」

「顔、赤いぞ」

「へ?」

 そう言われて触った頬が熱い。

 そこはかとなくしてやったりな、ジンのタオルを取り出す後ろ姿にはっとなる。


 なるほど、からかわれてたのか。


 汗が染み込んだ服を簡易シャワーの横にまとめた全裸の男が服を着る。

 オリガは思い出したように、缶詰めから汁が滴る豆を掬って一口食べる。


「やっぱり、酷い味だ」


 流し込むために深くマグカップを傾けたコーヒーは少し冷めていた。


 気持ちオリガ目線でジンがPTSD気味な回。

いっそ殺せよぉ!って言いたくなるぐらい色々過去を背負っている模様。


 ちょっとしたやりとりもあって、少しだけ距離が縮んだかもしれない。

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