第9話 異世界の飯は、まだ食えない
異世界へ来てから初めて、航平は本気で腹を立てそうになった。
原因は魔物でも、未知の魔法でもない。
串焼きだった。
東門から町へ戻る途中、通りの屋台では昼間から気になっていた肉がまだ焼かれていた。香辛料の混じったたれが炭火へ落ちるたび、空腹にはかなり効く匂いが漂ってくる。
「スリード。一応聞くけど、あれは?」
『食べないでください』
「即答か」
『未知生物圏の食品です。大気と接触しただけの物より、考慮すべき要素が増えます』
「よく焼いてあるぞ」
『加熱で失活する微生物だけとは限りません。現地人には無害でも、船長には有害な成分が含まれる可能性もあります』
分かっていた答えだった。
分かっているからこそ、反論できない。
航平が屋台から視線を外すと、隣を歩くエルナが首を傾げた。
「食べないんですか?」
「今はな」
「ずっと見ていたのに」
「身体に合うか調べてからだ。毒が入ってるって意味じゃないぞ。エルナたちには平気でも、俺には駄目なものがあるかもしれない」
「そんなに違うものなんですね」
「そこもまだ調査中」
エルナは納得したような、していないような顔で串焼きを見た。
その横でワンスは余計なことを言わず、店先の商品や通行人へ視線を配っている。エイトもテンスも同じだった。
航平はその方がありがたかった。
腹が減っている時に食べ物で弄られると、本気で腹が立つ。
政庁へ戻ると、ローディンが手配した謝礼はすでに用意されていた。
街道での魔物討伐への協力と、共同水場の破損箇所を発見した分。革袋の中には大きさの違う銅色の硬貨と、少数の銀色の硬貨が入っている。
職員が紙へ簡単な図を書きながら、硬貨同士の換算方法を教えてくれた。
航平は実物を手に取る。
「ナイン、記録頼む」
『重量、寸法、表面模様まで取った。金属組成は帰艦後に非破壊で詳しく見る』
「物価の方は?」
『まだサンプル不足。今見えてる食料品と安い宿の価格だけなら、この謝礼で数日は困らなそう、くらい』
「それで十分だ」
最初から正確な生活費が出るわけではない。
同じパンでも場所や品質で値段は変わるだろうし、魔道具や宿泊費まで含めれば事情も違う。
それでも、この世界で初めて使える金が手に入った。
「これで飯は買えるな」
「検査に通れば、ですが」
ワンスが静かに付け足した。
「分かってる」
ローディンが机越しにこちらを見る。
「宿も手配してある。東側の客館なら、警備も付けられる」
「それなんだけど、悪い。今夜は船へ戻る」
ローディンの眉が上がった。
「先ほどは泊まると言っていたはずだが」
「そのつもりだった。でも医療担当に確認したら止められた」
航平は通信を切らずに続ける。
「俺たちが町の病気をもらう可能性だけじゃない。俺たちが持ち込んだ微生物が、ここの人たちにどう作用するかも分からない。安全が確認できるまでは、長時間同じ建物で過ごさない方がいいって判断になった」
ローディンは少し黙った。
「こちらから君たちへ、ではなく、君たちからこちらへの危険も考えているのか」
「当たり前だろ」
「当たり前と言われても、そこまで考えて異国から来る者は珍しい」
「異国どころじゃないから慎重なんだよ」
ローディンは客館の手配を取り消すよう職員へ伝えた。
「なら、町へ来る時間だけ決めておこう」
「明日の朝、また東門から入る」
「代官と神殿への連絡はこちらで始める。すぐ返事が来るとは思わないでくれ」
「分かってる。古き門へ勝手に入るつもりもない」
用事を終えた航平たちは、日が落ちるまでの短い時間を使って市場へ向かった。
目的は観光ではない。
食料や日用品の値段を知り、生活用の魔道具を実際に見るためだ。
パン、野菜、干し肉、薪、布、革靴。
値段を一つずつ拾っていくと、貨幣の価値が少しずつ輪郭を持ち始める。ナインも「確定」ではなく価格帯として記録していた。
エルナに案内された魔道具屋は、想像していたより普通の店だった。
棚には武器らしい物はほとんどない。
透明な石をはめ込んだ照明、小さな加熱器具、衣服を乾かすための板、保冷用の箱へ組み込む薄い魔道具。どれも生活用品だ。
「これ、魔法が使えない人でも動かせるのか?」
航平が小さな灯具を指すと、店主が棚から取り出した。
「家庭用の灯石なら誰でも使えますよ。ここを押すだけです」
金属部分に触れると、透明な石の中に柔らかな白い光が灯った。
周囲では未知反応が確かに立ち上がっている。
『観測できています』
ファイヴの声はいつもより低かった。
『可能なら、使用前後の状態を比較できる個体が欲しいです』
「いくら?」
店主が値段を告げる。
航平は先ほど覚えたばかりの貨幣を数えた。
「新品を2個買うほど余裕はないな」
「古い物でよければ安くできますよ」
店主は奥へ入り、表面に細かな傷のある灯石を持ってきた。
「光が少し弱くなっています。魔石を交換するか、充填すればまだ使えます」
「充填?」
「魔力を戻すんです。店でもできますし、術士なら自分でやる人もいます」
航平は新品と中古品を見比べた。
「両方買う」
『ありがとうございます』
ファイヴがそれだけ答えた。
航平は少し意外に思ったが、わざわざ口にはしなかった。
「冷やす道具もあるって聞いたけど」
「あります。ただ、高いですよ」
見せられた冷却板は、灯石より明らかに値が張った。
「家庭で普通に買える値段じゃないな」
「裕福な家か、魚屋、薬屋、宿が使う物です。村ではまず見ませんね」
エルナが横から補足する。
「エルディアでも、全部の家にあるわけじゃありません」
航平は頷いた。
魔法が存在するからといって、誰もが同じ便利さを享受できるわけではない。
道具には価格があり、維持にも金が掛かり、都市と村で普及の差もある。
それは航平の知る社会と大して変わらなかった。
「冷却板は今日はやめとく」
『賛成です』
ナインが答える。
『現地通貨の収入手段がまだないからね』
「そのうち考えないとな」
ただ助けてもらい続けるつもりはない。
機械技術そのものを売る気はないが、持っている知識や作業能力の中には、この世界で対価を得られるものもあるだろう。
何を出し、何を出さないか。
そこは慎重に決める必要がある。
店を出た航平は、例の屋台へ戻った。
「1本くれ」
エルナが嬉しそうに見る。
「食べられるようになったんですか?」
「いや。持って帰って調べる」
「食べ物を?」
「安全なら明日食う」
屋台の主人は「食べないのに買うのか」という顔をしたものの、金を受け取れば商売は成立する。
焼きたての串焼きは、ワンスが用意した密閉式の試料容器へそのまま収めた。
『食品試料として受領予定に登録しました』
スリードから連絡が入る。
「頼む」
『もう一件あります』
「何だ?」
『救助した12名ですが、全員の容体は安定しています。意識のはっきりした方々から、船長と話したいという希望が出ています』
航平の足が止まった。
「今日中に会える?」
『可能です。治療区画から動かさない方がよい方もいますので、船長に来ていただく形になります』
「分かった。戻ったら行く」
彼らを忘れていたわけではない。
ただ、地上の調査に集中している間、説明をスリードたちへ任せきりにしていたのは事実だった。
海賊に捕まり、救助された直後に知らない星系へ投げ出されたのは、航平たちだけではない。
12人も同じだ。
東門へ戻ると、エルナが小艇まで見送りに来た。
「明日も来るんですよね?」
「ああ。朝には来る」
「食べられるといいですね」
エルナの視線が試料容器へ向く。
「ほんとにな」
「そんなに食べたいんですか?」
「匂いを嗅がされて一日我慢してみろ」
「私は普通に食べましたけど」
「今それ言う?」
エルナは笑って手を振った。
航平も手を上げ、小艇へ入る。
ローディンたちを乗せたあとから閉鎖していた隔離区画では、無人の除染工程がすでに完了していた。それでも地上へ出ていた航平たち4人は汚染側から乗り込み、バトルスーツを密閉したまま帰還手順へ入る。
購入した灯石2個と串焼きは、それぞれ別の密閉容器へ収めた。
小艇が上昇すると、エルディアの城壁が次第に小さくなっていく。
航平は外部映像を眺めながら、通信を開いた。
「シクサ。本船の状況は?」
『問題ありません。軌道維持、船体、主要設備とも正常です』
「12人以外で何か変化は?」
『セヴンの観測機が引き続きエルディア周辺を監視しています。急接近する大規模な武装集団や大型魔獣は確認していません』
「了解」
しばらくして、小艇は軌道上の本船へ接近した。
収容区画へ入ったあとも、すぐ船内へ出ることはできない。
小艇の外装処理を終え、4人はそのまま除染区画へ移る。バトルスーツ表面の処理、採取試料の分離、環境データの提出が順番に進められた。
ようやくヘルメットを外した時、航平は大きく息を吐いた。
「やっぱり船の空気は落ち着くな」
待っていたスリードが端末を確認する。
「お帰りなさい、船長。食品と魔道具はこちらで預かります」
「串焼き、なるべく早く頼む」
「検査結果を急がせる理由が食欲でなければ、もう少し格好がつくのですが」
「安全確認も立派な理由だろ」
「否定はしておりません」
スリードはそれ以上弄らず、医療区画へ航平を案内した。
「12人には、どこまで説明してる?」
「既知星図と一致しない星系へ移動したこと、本船が正常に運用できていること、帰還手段が未確認であることまでです。地表文明については、船長から説明していただいた方がよいと判断しました」
「分かった」
医療区画の扉が開く。
ベッドや簡易席にいた12人の視線が、一斉に航平へ向いた。
全員が元気というわけではない。
まだ治療機器を付けている者もいる。それでも、海賊船から救出した時に比べれば、顔色は明らかに良くなっていた。
「船長」
年長の男性が呼ぶ。
「ここは、本当に元の星系じゃないんですか?」
航平は空いている椅子を引き寄せた。
「今確認できてる範囲では、そう判断してる」
「地球圏からどれくらい離れてるんです?」
「それも分からない」
ざわめきが起きた。
航平は誤魔化さずに続ける。
「既知の星図と一致しない。航法装置が壊れてる可能性も調べたけど、複数の観測結果が同じだ。少なくとも、普通の航行で迷い込んだとは考えにくい」
「帰れるんですか?」
今度は若い女性だった。
航平はすぐには答えなかった。
「帰る方法を探してる。ただ、今の段階で『帰れる』とは約束できない」
室内が静かになる。
聞きたい答えではないことくらい分かっている。
だが、安心させるためだけの嘘を言っても仕方がない。
「その代わり、船は無事だ。生命維持も医療設備も動いてる。食料と水も今すぐ困る状態じゃない。まず全員の身体を治して、その間に俺たちは情報を集める」
「情報って……何を?」
「近くに、人間が暮らしてる惑星がある」
何人かが顔を上げた。
「人間?」
「ああ。町もあるし、言葉もある。もう現地の人間とも接触してる」
「文明レベルは?」
航平は少し考えた。
「見た目だけで答えると間違える」
「どういう意味です?」
「馬車も石造りの城壁もある。でも、怪我を光で治す人間がいて、道沿いには遠くへ警報を送る石がある。荷馬車の負担を軽くする道具も、家庭用の照明もある」
12人の表情が揃って変わった。
「……それ、何ですか?」
「現地では魔法と呼ばれてる」
今度こそ、誰もすぐには言葉を返さなかった。
一人が冗談を待つように航平を見る。
航平は肩をすくめた。
「俺も最初は同じ顔をしたよ」
「本当に、魔法?」
「少なくとも俺たちの知ってる物理現象だけでは、まだ説明できてない。ただし、何でもできるわけでもない。向こうにも技術体系と制約がある」
航平は《古き門》についても話した。
ただし、帰還装置とは言わない。
人や物が消えたという古い記録があり、その周辺では軌道上からも他とは違う未知反応が観測されている。それだけだ。
「調べる価値はあると思ってる。ただ、現地政府の管理下だから勝手には入らない。まず許可を取る」
「もし、それが帰る手掛かりじゃなかったら?」
「別を探す」
航平は男性の目を見た。
「一つ外れたくらいで終わるつもりはない」
張り詰めていた空気が、それで少しだけ緩んだ。
別の男性が手を上げる。
「俺たちは、どうすればいいですか?」
「今は治すことを優先してくれ」
「治ったら?」
航平は少し考えた。
12人は乗客ではない。
元の社会へ帰すべき救助者だ。
だからといって、何もさせず閉じ込め続ける必要もない。
「身体が戻って、それでも何か手伝いたいなら、その時に相談しよう。ただし強制はしない。地上へ降りるのも、危険な仕事をするのも本人の意思で決めてもらう」
何人かが頷いた。
航平は席を立つ。
「今日はまず休んでくれ。明日以降、分かったことはちゃんと共有する」
医療区画を出ると、スリードが後ろから付いてきた。
「適切だったと思います」
「何が?」
「帰還を保証されなかったことです」
「できない約束はしないよ」
航平はそこで腹が鳴った。
スリードが何も言わず、端末へ視線を落とす。
「笑いたきゃ笑え」
「いえ。船内食を用意します」
「串焼きは?」
「検査中です」
「まだ?」
「未知惑星の食品を数十分で安全認定するつもりはありません」
「分かりました」
航平は素直に食堂へ向かった。
背後では、隔離された研究区画へ灯石2個が運ばれていく。
現地の食事を口にするのも、《古き門》へ近づくのも、もう少し先になりそうだった。
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