夜明け前 Ⅳ
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想い出の処理と偵察班の記録のお話です
——パチパチと暖炉の炎が燃えている。
鼻を刺すような薬品臭と、久しく嗅いでいなかった腐敗臭。
何も知らない第三者がこの部屋の惨状を目にすれば、この部屋の主は「狂っている」と考えるに違いない。
床に転がった無数の羊皮紙
用途不明の研究器具
物言わぬ死体
部屋の窓は完全に閉め切られ、外の様子を確認することは叶わない。
研究室であり、執務室。
この部屋の主——ミリア・エインズワースは死体を検分するように見つめながら、注射器に入った液体を物言わぬ死体に投与していく。
液体は血のように、紅い。
一人、二人、三人——
投与された液体の正体は、彼女が造り出した麻薬だ。
帝国全体に浸透している粉状のものとは違い、彼女自ら調合・投与するそれは、従来よりはるかに強い効力を発揮する。
強大な身体強化と引き換えに、強烈な依存性。
耐えられなければ死に至る、諸刃の剣。
——もっとも、この死体に依存性の有無など関係ないだろうが。
「ねぇ、レン」
突然呼びかけられた声に、思考を中断せざるを得なかった。
ミリアは視線を注射器のシリンダーに落としたまま、俺の返答を待たずに続ける。
「国境線は抜けられるかしら」
歌うような声で彼女は問う。
紅い瞳は俺ではなく死体に向けられ、纏められた金の髪が僅かに揺れている。
まるで世間話をするような問いかけではあるが、その実、彼女が求めている答えは「実際問題どうなのか」という現実だ。
ご機嫌取りをしたところで、彼女の機嫌を損ねるだけだ。
——それは、俺の真意じゃない。
「…………無理だと思う」
「へぇ?」
ピタリと彼女の動きが止まり、そのまま注射器が無造作に、難解な術式が記された羊皮紙の上に置かれた。
そこで初めて、彼女の瞳に俺の姿が映る。
——答えを求められている。
彼女の意図を読み取ることに成功した俺は、一度深い息を吐いた。
次いで、現在の状況とこれまでの情報から導き出した思考を口に出す。
それは演算結果というには程遠く、予測というには精密すぎた。
「まず第一に兵の質が違い過ぎる。兵力で上回っても個体差で負ける」
「そんなに強いの?」
「化け物だよ」
長期間というわけではないが、短期間とも言えない期間を王国で過ごしたからこそ理解できる。
正騎士はもちろん、見習い騎士の実力は明らかに帝国兵より格段に上だ。
隊長クラスの騎士に至っては、帝国の将校が束になってようやく相手になるかどうかだろう。
「おまけに後方の魔術師が厄介極まりない。近づく前に蜂の巣にされる」
「——魔術師」
「魔術師」という言葉が俺の口から落ちた瞬間、周囲の温度が数度下がる。
言葉の選択を誤った、と感じた頃にはもう手遅れだった。
「やっぱり、殺さなきゃ」
「…………」
「夜が明けたら仕掛けるわ」
憎悪、嫌悪、怒り——あらゆる負の感情が、その小さな身体に渦巻いている。
「……このままだと帝国は勝てない」
俺は明確な事実を口にしたが、聡明な彼女がこんな簡単な答えを知らないはずがない。
しばらくの沈黙の後、幼さの残る美しい横顔が——
心底嬉しそうな笑顔に塗り替えられた。
先程まで負の感情に支配されていた者とは思えないほどに。
「帝国はね」
その言葉の意味を読み解く必要はない。
ミリアは帝国の存亡などハナから考えてなどいないのだ。
——王国の次は帝国か
どう足掻いても帝国の戦力では王国を攻め滅ぼすどころか、国境線の突破すら不可能だ。
冷静に考えれば理解できるのに、彼女は数の暴力で押し切ろうとしている。
「……ミリア、せめて今仕掛けるのは——」
「情でも湧いた?」
そこに怒りはない。
純粋な疑問であるかのような、世間話の延長線であるかのような問い。
——記憶はおぼろげだ。
曖昧で。
かといって、何も覚えていないほど記憶が薄れているというわけでもない。
——覚えている。
眩しい太陽が瞼を焼く感触を。
香ばしく焼けた小麦の匂いを。
朝礼の場で鼓舞激励する男を。
だが、今さら何だと言うのか?
王国の剣は借り物で、過ごした期間は紛い物。
全ては敵戦力の調査と分析の為に行ったことだ。
そこに、情などない。
そこに、親愛など感じない。
そこに、甘さや躊躇は存在しない。
「——貴方はあたしの人形」
「……うん」
——おはよう! 君が団長の言ってた新入りだね!!
煩い声だ。
——初めまして! レン先輩。
煩わしい。
——俺は一度の敗北や失敗くらいで、部下を無価値なんて絶対に思わない。
よりにもよって脳裏に蘇る忌まわしい記憶の声は、驚くほど鮮明で。
無意識にグッと手を握りしめていた。
麻薬の副作用で痛覚が鈍くなっていたはずの肉体は、いつの間にかすっかり痛みを感じるようになっていた。
——人形だ、俺は人形だ……!
自分に言い聞かせるように、何度も何度も。
俺は呪文でも唱えるように心の中で繰り返した。
ミリアに造られて、ミリアの為に生きて——
——お前は騎士団にいたいと思うか?
いつかの執務室での光景が、走馬灯のように甦る。
あの時、俺は……何と答えたのだったか?
自然と動悸が速くなるのを感じると同時に、冷たい汗が背中を伝う嫌な感触がした。
無意識に、服のポケットへと手が伸びていた。
僅かな返り血で汚れた騎士服。
何もないはずのポケットの底に、柔らかい布地があることを手のひらが伝えてくる。
なぜか無性に気になって引っ張り出し、確認してみる。
「————ぁ」
自分でも理解できない乾いた声が漏れた。
金の毛並みの狼が精巧に刺繍された守り袋。
吸い込まれそうな紅い瞳が、ふとミリアの瞳と重なった。
あの日——連れ出された王都で、二人の敵兵から贈られたものだった。
「――――」
ミリアは何も言わなかった。
沈黙が数秒間だけ続く。
このままこの守り袋を所持していたら、手元が狂ってしまう。
何より、激しい頭痛がする。
騒がしい食事の場。
奪うばかりだった食べ物を、互いに与え合った。
人混みの中を三人で駆け抜けた。
色の無かった世界に、様々な彩りがあることを知った。
夕闇の中、二人の背中を追いかけて。
並んで歩いて——
俺は、あの時どうしていたんだっけ?
「レン」
「————……な、に?」
その声はやけに耳に残る。
主からの起動を促す命令に、人形ならば応えなければならない。
「あたしのお願い、聞いてくれるでしょ?」
——たくさん殺して、たくさん奪って。
そうだ。それだけが彼女の願いだったはずなのだ。
揺らいでいた意識がスッと元に戻る。
混濁する記憶を払うように守り袋を強く握りしめ——
パチパチと炎が失敗作の不良品を焦がす臭いが、鼻を突き抜けた。
——余計なノイズは処理しなければ。
俺は暖炉の前までゆっくりと歩を進める。
理由は分からないが、足が異様に重かった。
手に持っていた守り袋を——
「…………」
俺は暖炉にくべた。
薄い布地は瞬く間に燃え上がる。
守り袋だったものはすぐに炎に巻かれて黒く変色し——
やがて灰に変わり、視認できなくなった。
「良い子ね」
その声で満たされる。
いつもなら、そうであるのに。
視線は暖炉の炎から離れない。
——もう守り袋は炎に焼かれて灰に還ったというのに。
◇ ◇ ◇
「で、お前の見立ては?」
騎士団長の執務室へ続く王宮の廊下を進む傍ら。
隣から投げかけられた声に、手にしていた報告書から視線を上げた。
「わざわざ答える必要が?」
「一応? 先遣隊の報告を見る限り、苦戦はしないだろうけど」
欠伸を噛み殺しながら僕の問いに答える彼の瞳には、どこか憐憫の色が伺えた。
間もなく開戦する王国と帝国の戦いにおいて、帝国に勝利の可能性は微塵もない。
王国の驕りでもなければ、帝国を軽視しているわけでもない。
出撃すれば確実に死ぬ戦いに身を投げなければならない帝国の兵に、彼なりの憐れみを感じているのだろう。
——と、言っても、彼の剣筋が鈍ることはないのだろうけれど。
「……帝国が兵力で上回ったところで、個々の実力はたかが知れています。彼らが打てる唯一の手として考えられるのは、戦力を集中させた一点突破でしょうね」
どう考えても敗北が見えている戦い。
それでも国境線付近では、既に帝国兵の影が確認されたとの報告が入っていた。
つまり、帝国の狙いは勝利ではなく——
「同感。でも腑に落ちないよな。どうしても裏があるとしか思えねぇ」
「警戒が足りていない、と。流石『隊長補佐』です。君の慧眼には頭が上がりません。僕も見習わなければ……」
「そういうのいいから」
聖ラウラント王国騎士団において、「副隊長」が隊長不在時の指揮を執る第二の顔であるならば、「隊長補佐」とは指揮官の思考を最も近くで支える参謀を意味する。
彼——クリスハイト・オルティは事務仕事に関しては論外という他ないが、補佐官としての観察眼と洞察力は実に優秀だった。
軽口を交わしながら、僕たちは騎士団長の執務室の前へ辿り着いた。
手に持った報告書の束が、ズシリと重くなったような気がする。
報告書の重み自体は変わっていないというのに、不思議な感覚だった。
「ミカ、お前斬れるか?」
クリスの言葉には、重要な意味が省略されている。
それは——帝国に寝返った形になった彼を斬れるか? という問いかけ。
「無論。躊躇する理由など一つもありません」
僕の即答に、彼は満足したような笑みを見せ、執務室の扉に手を伸ばした。
「良かった。情でも湧いたのかと思った」
「世迷い言を」
三回、ノックの音が静まり返った王宮の廊下に鳴り響く。
——窓から見える空が、静かに白み始めている。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




