夜明け前 Ⅲ
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対局の終わりと無垢だった少女のお話です
「よく笑う子じゃった」
老賢者はチェスボードに視線を落としながら、静かに告げる。
金の瞳に映すのは後悔か、無念か。
——少なくとも、怒りではないだろう。
「人の子に花を貰ったのだと喜んでおった。黄昏時の夕闇をよく見ておった」
戻れない過去を思い出すように語る老賢者は、白の女王に手を伸ばし——止めた。
「人をどこまでも愛していたのじゃ」
皮肉なものだ、と思う。
復讐や悪意は、愛ゆえに生まれるもの。
彼女が人を愛していなかったのであれば、「復讐しよう」と立ち上がることもなく、怨嗟が生まれることもなかった。
「…………『愛した』結果があの結末だ」
妖精が口にする楽園とは——すなわち家だ。
彼女が綴った絵本の一節にも、楽園の情景がこと細かく書き記されている。
曰く——。
緑豊かな森と静かな湖、色鮮やかな花々と温かな陽の光に満ちた楽園。
鳥の歌声が優しく響き渡る、穏やかで満ち足りた、安寧の大地。
最初は、妖精の力を借りるだけで満足していた。
だが……人間とは時として、果てしなく欲深い者。
妖精の持つ神秘性、届かない絶対的な力。
どれほど求めようが、それらは借り物に過ぎず。
もっと欲しい、もっと効率的に。
「人間の繁栄を選んだために、世界は混沌に堕ちた」
「然り。そして守るべき幼子を選別したわしは、お主の言う通り責任を果たせなかった」
会話を続けながら手番が回る。
二手目あたりから推測はしていたが……やはり。
——わざと負けるつもりかよ。贖罪のつもりか?
「……『全部守れ』なんて不可能だ。どちらかを救えばもう一方は救えない。爺、てめぇが理解していないわけがねぇだろ」
一向に攻めてこない爺の駒を睨み付けながら、ボクはお構いなしに駒を進めた。
取った駒の数を数える気にもならない。
まるで勝ちを譲られているようで、それが更にボクの苛立ちを誘っている。
すっかり冷めた紅茶で喉を潤すことで、なんとか冷静さを取り戻した。
「わしは……あの子に……ミリアに真実を語らんかった……逃げたのじゃ。当時は酷だと思っての……じゃが」
爺の王が、事実から目を背けるように一歩後退した。
既にボクの歩兵は王にまで差し迫っている。
そして——
「誰かの定義する『悪』は、同時に誰かの『正義』でもある」
「それもまた、然り。……じゃな」
——確かに救われた者がいた筈だ。
黒の歩兵を静かに爺の陣地の一番奥——これ以上は進めない、行き止まりのマスへ滑らせる。
「昇格」
「さて、何を選ぶ?」
くだらない質問だ。
どう考えても、最強の駒以外選択しないだろうに。
ここで騎士の駒を選ぶ変態思考はシルフィだけでいい。
ちなみにその試合は負けた。あいつの思考は読めなさすぎる。
ボクは爺の問いに答える代わりに、一番奥に届いた歩兵を持ち上げた。
そして、あらかじめ盤外に準備されていたスペアの女王を持ち上げ、その位置へと叩き据えた。
既に盤上で牙を剥いている一枚目に加え、最前線で誕生した二枚目の女王。
二頭の黒き女王が挟み込む盤面は、まさに逃げ場のない処刑場だ。
「純粋無垢だった歩兵は、残虐非道な女王に変容した」
爺の王が討ち取られる。
——まるで現実でも、彼女からの罰を受け入れるかのように。
「チェックメイトだ、爺」
「見事」
よく言う。最初から負けるつもりだった癖に。
「彼女はてめぇの首を狙ってるぞ。気付いてんだろ?」
このまま死を大人しく受け入れるのか? とは聞けなかった。
枢機卿という立場にいる以上、背負うものが多すぎる。
爺にとって死ぬこと=責任の放棄に他ならない。
「今一度、あの子に会わなければならぬ」
「ボクの見立てなら、すぐにでも動くだろうさ」
爺は倒れた王の駒に視線を落としながら問いかけてくる。
金の瞳に、もう迷いは見られなかった。
「お主ら《十二勇士》は、この件に介入するのかの?」
予想とは少し乖離した質問だったので、思わずフッと笑みがこぼれてしまった。
もっと行軍について問われると思っていたのだが。
「……帝国が国境線を抜けてきたら考えてやる。——ま、そんな可能性、砂粒ほどもないけど。騎士団長が指揮を執るなら結果は目に見えているだろ」
「それもお主が与えられた権能で視た未来かの?」
——今日の爺はやけにボクの癇に障ることばかり言ってくれる……これだから無自覚な妖精は……!
「……チッ、あのクソ野郎の話はするな」
ボクが目に見えて憤りを感じているからか、空気を和ませるように爺は「フォフォフォ」と笑いだした。
解せない。
「お主の魔眼は——」
「勘違いすんなよ、爺。…………ボクの権能、《可能性の魔眼》は、あくまで『可能性を視る』ものだ。現状で最も高い可能性が——…………いや、いい」
ボクら《十二勇士》は原則として「個人の問題や後押しに《勇士として》干渉すること」が厳しく禁じられている。
これ以上は介入すべきでもなければ、干渉も不要。
残り少ない紅茶を一気に飲み干すと、席を立った。
ボクの行動を察知した主席メイドが素早く扉を開け、一礼を捧げてくる。
——流石主席メイドを名乗るだけあるな、有能。
「用が済んだならボクは帰るぞ」
「呼び立ててすまんかったな。お陰で迷いは晴れた」
詫びのつもりなのか頭を下げようとするので、ボクは片手でヒラヒラと振り、礼は無用と伝える。
「次は本気で一局付き合ってくれ」
答えを待たずに、開け放たれた扉の先へ。
——ボクが視たのは、一つの可能性。
——これから道を築き、歩み、答えを示すのは彼らだ。
——彼らは、どんな可能性を魅せてくれるのだろう?
ほんの少しだけ、胸が高鳴った気がした。
◇ ◇ ◇
——愛していた。
——本当に、心から。
——愛していたの。
辺り一面に広がる花々と、透き通るほど美しい湖。
鳥たちの賑やかな歌声で目覚め、月の光が優しく照らす頃に眠りに落ちる。
「今日あの子から花を貰ったの!!」
手に持った一輪の花を見せると、鏡の賢者はあたしの頭を優しく撫でてくれる。
微笑んで、自分が貰ったわけでもないのに我が事のように一緒になって喜んでくれる。
「それは良いことじゃ。大切にするのじゃぞ」
「お返しをしなきゃ! ——ねぇ、お姉ちゃん! 何がいいかな?」
透き通る銀の髪、淡い藤色の瞳。
あたしよりほんの少しだけ背が高い少女は、難解な魔術本に視線を落としたまま静かに答えた。
「…………さぁ、でも……貴女が選んだものなら何でも喜ぶのではないかしら」
「えー! もうちょっと真剣に考えてよ!!」
あたしは素っ気ない姉の返事に頬を膨らませる。
不機嫌になったあたしを嗜めるように、お爺様がまた優しく頭を撫でてくれるから。
それだけであたしは——「ま、いっか」と呑気な思考に心変わりする。
人間たちは優しい。
あたしたちが知らない事をたくさん教えてくれる。
あたしの魔術を褒めてくれた。
「凄いね」「羨ましい」って、キラキラした笑顔でそう言うのだ。
——まだまだ、お姉ちゃんとお爺様に比べれば全然だけど……。
それでも、褒められるのは嬉しくて。
それが本当だと解るから。
「それでね! 今日も『その力が欲しい』ってあの子が——」
「……ミリア、また心を覗いたの?」
「…………ダメ?」
「駄目よ。人の心を安易に覗いては」
少しだけ、いつもより声が低かった。
怒っているのだ、と気付くのに時間がかかった。
「でも……」
お姉ちゃんは首を振って、あたしの行いを否定した。
あたしは、あたしたちはこの瞳で心を覗ける。
相手が何を思っているのか、どんな気持ちなのか。
お姉ちゃんはダメだと言うけれど、時おり我慢できなくて覗いてしまう。
人間たちの思いは様々で、中には複雑怪奇なものもあるけれど。
共通した感情があった。
——愛している。
「その瞳は、確かに万物を見通す。……だからこそ、真実を暴くのは止めなさい」
「言ってる意味が分からないよ。……ねぇ、お爺様! お爺様は分かる?」
理解できない物事がある時、決まってあたしはお爺様に尋ねていた。
だってお爺様は《鏡の賢者》、何でも知っている凄い妖精で、あたしたちを導く先導者。
「……ミリア、それはの——……いや」
「?」
何でも教えてくれるお爺様が、珍しく言葉を濁した。
しばらくの間、誰も話さなかった。
「ともかく……ルーシャの言う通り、あまり行使してはならん。……目が痛くなってしまうぞ。腫れて、いずれ硝子細工のようにひび割れて——」
「えぇ!!?」
「お爺様、冗談は止めてください」
温かな日常。
下らない冗談で笑顔が絶えない、安寧の日々。
——ここはあたしたちの楽園。
人間と妖精、仲良く手を取り合って生きていくの。
これからも、ずっと——
怨嗟の声が響く前、確かにあった愛の記憶。
——本当に、貴方たちを愛していました。
◇ ◇ ◇
その瞳は万物を見通すが故に、数多の人間に求められた。
ある時は、世界を巡る星と魔力の壮大な流れを。
ある時は、地に眠る眩い金の在処を。
そしてまたある時は、言葉の裏に隠された、浅ましい人の心でさえも。
万物を見通す神秘の瞳は、吸い寄せられるようにあまねく人々を惹き付けた。
持ち主はただ静かに微笑みながら、求められるがままにその力を貸し与えた。
————だけれど。どれほど力を貸し与えても。
————人間たちの欲望には到底足りなかった。
————その瞳は、数多の瞳は、やがて持ち主の手を遠く離れて。
————奪われ、削ぎ落とされ、ついに彼らの物になった。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




