夜明け前 Ⅱ
この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨
老賢者と一人の魔術師が盤上で語り合うお話です
周囲には鼻を突くような死臭が漂っている。
早くも黒く変色し始めた血痕だけが、怪物に変えられた人間が存在したことを示唆していた。
——眩しい。
傾きかけた陽の光が目を焼いている。
視界を茜色に染め上げる夕闇の気配が鬱陶しい——そう思うのは、同胞を説得できなかった無念から生じたもの。
そこまで考えたところで、苛立ちの要因の一つが現れた。
わざとらしく肩を回しながら、周囲を見渡している。
数人の騎士たちに外傷が無いことを確認した彼——ロディは、大袈裟な溜め息の後に私を見た。
まるで「こりゃ相当怒ってるな」と言うような顔でありながら——申し訳なさの欠片も感じないような表情。
「いやぁ……悪い、悪い! 流石に数が多すぎ——」
「猿芝居は止めなさい。貴方とテオがいて、前線を抜けられるわけがないでしょう」
この男は騎士団長を務めているだけあって実力は確か。死体の増援速度から考えても、一人でも対処は可能だった。
さらに《十二勇士》の助力があったのだ。
これだけの敵が前線を突破することなど、本来あり得ない。
けれど実際、相当の数の死体がここまで到達できた。
間違いなく彼が手心を与えたが故に他ならない。
テオが自らの領域の侵入を許すとは思えないが、この男が口車に乗せたのだろう……
テオが騙されたとは思えないので、理解した上での黙認ではあるのだろうけれど。
「そう怒るなって……何事にも例外ありき、だろ? お前ほどの知恵者でも読めない戦況ってのがある」
白々しい言葉と共に、ロディはエルンや周囲の騎士たちに身を案じる声をかけていく。
彼女たちは心底安心するように騎士団長を見上げていた。
——前線を突破されたのは不可抗力、他意はないと言いたいのね。
一言、二言、言葉を交わしたロディは、私の機嫌を窺うように蒼い瞳を向けた。
——そこに、血に濡れた支配者はいない。
その瞳の奥にある彩が答えであり、この男が全力で剣を振るっていない証拠。
「逃げられちまったけどさ、あの類いはまた来るだろ? その時に——」
「いいえ、違う」
「なにが違う?」
今の今まで少しふざけた様子で語っていた彼の蒼い瞳が、僅かに細められる。
「貴方はわざと逃がした。何故なの?——答えなさい」
単に問いを投げかけたところで誤魔化される。
この男とはそれなりに長い付き合いなので、この程度では答えないのも知っている。
一瞬で練り上げた魔力が大気を凍てつかせ、手元に極細の氷の刃を形作っていく。
そのまま、研ぎ澄まされた氷剣の先端をロディの首筋へピタリと突きつけた。
——真実を答えなければ殺す。
そんな意味を込めての行動だった。
しかし彼は全く動じず、それどころか笑ってみせた。
「なんだそれ? お前が俺に剣を向けるのか?」
「私が貴方を殺せないとでも?」
握る氷剣に力を込める。
少しでも動けば容赦することはないという意思を込めて。
それでも彼は、まっすぐに答えるだけ。
「殺せねぇよ」
その声はどこまでも真剣で——
あまりにも無垢だった。
◇ ◇ ◇
夜の帳が落ち、空に星が瞬き始めた頃
王宮の長い廊下を歩く。
星の塔から目的の執務室まで、徒歩であれば約五分。空間転移を行使すれば一瞬で辿り着ける。
されど、今回の呼び出しに関しては空間転移を使う気になれなかった。
無人の——人払いされた廊下。
磨かれた大理石の床をブーツがコツコツと鳴らす音だけが耳に届いている。
——あの日視てしまった可能性がいよいよ現実に昇華しようとしている。
「……ハッ、ざまぁねぇな」
誰に聞かせるわけでもなく、一人で悪態をついた。
——我ながら上手く演じられていると思う。
ミリア・エインズワースの行動も傀儡の離反も魔女の葛藤も。
全て予想通りで、面白みの欠片もない。
長い廊下が鬱陶しく感じ始めたボクは、少しだけ歩幅を早めてみた。
廊下を照らすのは、設置された魔道灯の光のみ。
——その光はあまりにも頼りない。
魔道灯の頼りない光と彼らの歩む道筋が皮肉にも同じように感じられて、ただでさえ不機嫌だった情緒が更に不安定になった。
歩くのが面倒だとか、呼び出されたのが腹立たしいとか、そんな些細な理由ゆえではない。
——また繰り返すのだろうか?
胸に抱いた一つの疑問。
同じ過ちだ。
立場が変化しただけで罪の重さは変わらないし、赦しを与えられないばかりか新たな火種になり——
「——怨嗟の声は、滅びの炎を招く、か」
ボクが思わず口にした一節に応えたわけではないだろうが、自身の存在を示すようにわざとらしく鳴らされた靴底の音が静寂に響いた。
「お待ちしておりました、シリウス様。プトレマイオス様がお待ちかねでございます」
無駄の一切ない所作で一礼を捧げた主席メイドは、枢機卿の執務室へ繋がる扉を指し示しながら告げた。
「どうぞ、こちらへ」
僅かに響く扉の開閉音。
同時に、防犯対策用に仕掛けられていた防御結界による魔力波が肌を撫でたことで、一層不快感が増した。
「おい爺、結界外しとけよ。気持ち悪ぃ」
入室早々、当て付けのように毒ついてやった。
主席メイドが静かに煌びやかな椅子を少し引いたので、視線を向けることで礼とし、体を投げ出した。
ドサッ、という大袈裟な音。
ボクの小さな反抗にも、目の前に佇む老年の妖精は気分を害した様子もなく微笑んでいる。
——気に入らない、少しは気色ばめばいいのに。
ボクの苛立ちなど知り得る由もない爺——プトレマイオス・ロートレ・アモンは、卓上に設えられた遊戯盤をコンコンと叩いた。
その音色は軽やかで、まるで遊戯を楽しむためだけにボクを呼び出したのかのように感じられる。
——ふざけるなよ、爺……。
気乗りしない中星の塔から重い身体を引きずり出してきたボクに、最初に起こすアクションが遊戯だと?
彼の金の瞳は無邪気に「チェスでも一局どうじゃ?」と物語っている。
——勘弁してくれ……。
「失礼いたします」
メイドが静かに差し出した紅茶。
それだけが、唯一の温かい労いだった。
「はぁ……あのなぁ」
「たまには良いではないか」
爺は黒と白の駒に視線を投げながら、湯気が立ち上る紅茶に口をつけた。
どうやら逃がしてくれる気はないらしい
……腹を括ることにした。
「黒」
ボクは迷いなく後攻を選択し、黒の駒を手に取った。
星の塔でもチェスを指す機会はあり、ゲーム自体はそこまで嫌いではない。
だが、今から始まる遊戯は単なるお遊びではないのだろう。
この老賢者が遊戯を装って、ボク——正しくは《十二勇士》の総意を探ろうとしているのは間違いない。
「ほう……? よいのじゃな? 白の方が一手早く動かせる分——」
「有利なんだろ? 知ってる」
ボクは爺の声を遮って八つある歩兵の内一つを手に取ると、先ほどの爺のようにコンコン、と急かすように音を鳴らした。
その様子を見た爺は納得したのか、大人しく白の歩兵に手を伸ばした。
「それに……どっちでも同じだ。盤面の主導権を握るのに、一手の差なんて関係ない」
「随分自信があるようじゃな。これは、わしも危ういかの……」
——よく言う。最初からその気がないだろうに。
口には出さなかった。
どうせ言葉にしたところで、はぐらかされるのは目に見えている。
一手目、歩兵を一マス押し進める。
——定石。どの試合でもオープニングは変わらない。
ボクは手で遊んでいた歩兵を二マス進ませる。
八つある歩兵の内の一つを初回から使うことになるが、まどろっこしい真似は嫌いなのでこれでいい。
「強気じゃな」
「時には正面から向き合う必要があるだろ? ——そう思わないか、鏡の賢者殿?」
耳が痛いのか——それとも特に思うところがないのか……
爺は騎士の駒をL字に跳ばせ、歩兵の頭上を越えさせて中央へ配置した。
堅実と言えば聞こえはいいが、面白みもない教本のような動き。
対してボクは開いた道を伝って黒の僧侶を斜めに滑らせ、爺の陣形の死角へと滑り込ませる。
「実にお主らしい手じゃが……些か急いておるようにも見えるの?」
「『急いては事を仕損じる』とでも言いたげだなぁ? ——だから壊れたんだよ、彼女は」
「…………そうかも知れぬ、な……」
主席メイドが僅かに息を吐いた気配を感じたが、気にせず爺を睨み付ける。
確かにこの老賢者だけに責任を問うのは間違っているし、今さら過去を変えることはできない。
だとしても、目を背けていい理由にはなり得ない。
爺は眉をひそめ、僧侶のラインを遮るように歩兵を一マスだけ前進させた。
——盤面も時間も育てた結果。
守りに傾きつつある爺の動きに、ボクは手を緩めない。
黒の騎士をL字に跳ばし、爺がせっせと築き上げた防壁のすぐ脇へと滑り込ませる。
「守りを厚くするのはいい、逃げることも悪くねぇよ。でも、さ」
ボクは老賢者の怜悧な光を宿した金の瞳を凝視する。
——かつて希望を示した賢者、鏡の賢者。
「今の貴方は、何を映している?」
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




