夜明け前 Ⅰ
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まだ家には帰れない二人のお話です
——確かな幸福があった。
緑豊かな森と静かな湖、色鮮やかな花々と温かな陽の光に満ちた楽園。
鳥の歌声が優しく響き渡る、穏やかで満ち足りた、安寧の大地。
——私たちの家。私たちの楽園。
だけれどその幸福は、一つの過ちで崩れ去った。
◇ ◇ ◇
「恨んでいるのか?」と問われれば、否定はできない。
でも、それでも。
「『滅んで欲しい』とは思っていないわ」
ミリアの問いかけに私は答える。
人間の罪は未来永劫消えない。犯した罪も所業も永遠に残り続ける。
「…………どうして?」
震えた声、今にも泣き出してしまいそうな表情で。
「喪失の痛みを覚えているから」
——その後に生まれる何も知らない者たちにも、背負うべき罪はあると思う?
あの夜の問いかけが頭の片隅に浮上する。
未だその答えを出せそうにない。
「覚えているというなら、あたしたちの苦しみも分かってくれるよね?」
懇願だった。問いかけのようで——違う。
あの殺戮を生き延びたのであろうミリアは、家族を奪われた苦しみの中で生きてきたのだろう。
数百年余りの時間は精神を擦り減らし、悲しみは再び怨嗟へと変わっていったかもしれない。
「……間違ってるわ。ミリア」
「……なら! 何もかも忘れて『人間と仲良く暮らせ』と言うの!?」
「彼らは滅びた。《アルビオン》が全て焼き尽くした。……貴女の復讐相手はもういないの」
ミリアの行いは復讐と称した殺戮であり、侵略。
このまま続ければ、ミリアが忌み嫌う「人間」になってしまう。
彼女は自身の行いがもたらす真の意味に気付いていない。
「……そう。分かってくれないのね」
「大人しく投降しなさい。……今ならまだ——」
「やり直せるって? 冗談でしょう?」
私の言葉はミリアの声に掻き消される。
先程まで泣きそうに訴えていたミリアはもういない。
感情が次々と変化し、精神も不安定。
これ以上追い込んではいけないと判断した時には、もう手遅れだった。
——気付けば失くしてばかりね、私。
自暴自棄な思考が生まれて——消える。
諦めたような自嘲にも似た笑みの後、ミリアが指を鳴らした。
その音が合図。
周囲で動きを止めていた死体が一斉に襲いかかってくる。
かつて人間だったモノ。
ミリアによって麻薬を投与され、物言わぬ怪物に変貌させられてしまった哀れな人間。
「る、ルーシャ様!」
少女の切羽詰まったような声が耳に届くと同時に、広範囲に魔力の渦を流した。
鋭い爪が目前に迫るより先に、死体は溶けるように霧散する。
そこには、呻き声も苦痛を訴える自由さえない。
命じられるまま、血を求める。
人間から怪物に変わり果てた彼らは、自身の意志さえ持たず、同族を殺し——同族に殺される。
「……ミリア。貴女の行いは『復讐』ではなく『殺戮』だわ。——かつての彼らと同じ罪を犯している」
その言葉が決定打だった。
「……そう」
同意を得られなかったことに落胆したかのように、小さく肩を落とす。
だけどそれは、昔何度も見たミリアの戦術だった。
諦めたかのように項垂れて、私が手を伸ばす直前に不意打ちの魔術を撃ち込んで来たものだ。
——悪戯が成功したかのような無邪気な笑みで。
でも、今は——
「——! な、何!?」
「もう嫌だ!! 何なんだよ! これ!!」
「勘弁してくれ……!」
今まで腰を抜かしていた騎士たちが、恐怖に耐えかねて絶叫する。
そしてその視線が指し示す先からは、異様な死臭が漂ってきた。
この場にいる死体は今しがた殲滅した。
周囲の警戒にはミカとクリスに当たらせている。
——あの二人が見落とした……? いいえ。
生まれた思考は即座に切り捨てた。
仮に見落としたとしても二、三体だろうし、気配からして少数ではない。
「なに……これ……?」
エルンの乾いた声と同時に、死臭の原因と思わしき物体が姿を現し始めた。
十や二十では利かない。
目視で数えられるだけでも、百は超えていた。
「…………あの男」
死体の大量発生を偵察部隊から伝えられた際、一番反応が多いと予測された前線に志願したのは、騎士団長——ロディ・グランベルクだった。
血を浴びたら理性を忘れて敵が視界からいなくなるまで剣を振り回すあの男が、これだけの数を通すとは思えない。
つまり、故意。
「…………結局、あたしの声を聞いてくれるのは滅びの炎だけってことなのね」
ミリアの気配が遠くなるのと入れ替わるように、集団の先頭にいた個体がいよいよ目と鼻の先まで近づいていた。
このままミリアを逃すのは惜しい。
だけれどそれ以上に、このままエルンたちを放置することはできない。
「ルーシャ様!!」
再び名を呼ばれたことで、一度迷いを切り捨てる。
数だけは多い死体の群れに向かって、手をかざした。
魔術の行使は高威力になればなるほど、体内の魔力回路を限界まで活性化させなければならない。
場合によっては長大な詠唱も必要になるが、広範囲の魔術を行使するたびに詩を紡ぐなど、私には到底煩わしかった。
——面倒であるなら、詠唱などしなければいい
そんな単純な思考から、魔術師は無詠唱による魔術行使を編み出したのだ。
要するに、頭の中で解像度さえ完璧であれば詠唱など不要。
自身の中に確固たる構築像があれば、魔力を通すだけで即座に行使が可能となる。
もちろん、それを戦場で体現するためには、並大抵ではない年月と才能が必要ではあるけれど。
「ぐ……ぅ……あ゙あ゙あ゙……!!」
「騒がしいわね」
鼻を突く酷い死臭と、立ち込める重苦しい血の匂い。
私は目の前に迫る死体に向かって片手を掲げ、魔力を一気に練り上げた。
——氷柱が冷気の激流を伴い、空間を破砕して撃ち出される。
脳内で明確な全体像が展開された瞬間、現実に解き放たれる巨大な氷塊の群れ。
——シュゴッ!!
一本、二本、三本——。
「グッ……ゥ——あ゙あ゙あ゙……!!」
死体が巨大な氷柱に叩き潰され、まるで苦痛を訴えるかのように断末魔を漏らす。
百を優に超えていた敵の群れは、数秒と経たずに半分以下へと叩き伏せられていった。
「——————」
目の前に広がる圧倒的な光景が、よほど信じられないのだろう。
エルンを含めた幼い騎士たちは、まるで極上の美術品でも鑑賞するかのように、氷柱が次々と死体を粉砕していく様を呆然と凝視していた。
——間違いなく「虐殺」だというのに……子供はどこまでも無垢ね。
押し潰された肉体から溢れ出た血すらも瞬時に凍結し、白銀の塵となって霧散していく。
その最中。
氷柱が巻き起こす白の霧の向こう側で、私の瞳は新たな影の蠢きを捉えていた。
私がこの場に到着したのを見計らったかのように増える敵の気配。
どう考えても、前線に置いたあの男が仕事をしていない。
——まったく……つくづく苛々させてくれる男ね。
「まだ足りないようね? ……いいわ、纏めて薙ぎ払ってあげる」
氷柱の追撃として編み出すのは、先端が鋭利に研ぎ澄まされた無数の氷の槍。
高低差をつけて扇状に展開しつつ、増援として群がる招かれざる客たちへ惜しげもなく放った。
直撃した氷槍が炸裂し、凄絶な轟音が周囲一帯を揺らす。
少女たちの悲鳴すらも、すべては極寒の旋風と打撃音の中に掻き消された。
「…………潮時、ね」
ミリアが諦めたように呟いた、微かな声だけが耳に届く。
そして——
「ミリア、戦況が良くない。撤退した方がいい」
先ほど放った氷槍の隙間を滑るように潜り抜け、ミリアの傍らへと瞬時に駆け寄る影があった。
——人形。ミリアによって造り出された、哀れな人形。
「……あの子は始末したの?」
「……まだ、殺せていない」
「殺してって言ったじゃないッ!! あたしの言うことが聞けないの!?」
やはりミリアの精神状態は良好とは言えない。
冷徹さを取り戻したかと思えば、ふとした瞬間にヒステリックに激情を剥き出しにする。
情緒不安定なのは、禁忌の術を乱用した代償か。
「……ごめん。でも、今は……撤退を——」
二人が言葉を交わしている最中も、死体の数は減るどころか木々の間や岩陰から溢れ続けている。
私も魔術の手を緩めるわけにはいかない。
——ロディの動きが想定外だわ。
「……ミリア。互いに言うことを聞かない駒を持つと大変ね」
「…………いいわ。今回は手を引いてあげる」
「『尻尾を巻いて逃げる』の間違いでしょうに」
捨て台詞のつもりなのか、ミリアは不満そうに鼻を鳴らした。
だが、撤退を進言した青年——レンに手首を引かれたことで諦めたように息を吐き、《空間転移》の術式を展開させる。
「またね、ルーシャ」
どこか名残惜しそうに告げられた、哀しい別れの言葉。
二人の姿が空間の歪みへ消え去るのと、周囲を埋め尽くしていた死体を完全に一掃できたのは、ほぼ同時であった。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




