過越し方を抱き、前途を拓く 前編
この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨
番外編の投稿が続いていましたが、今回から本編(回想編)です。
時間軸がややこしいですが、『騎士の剣 後編』の続きとなっております。
今回のお話はパロディ要素が含まれます。
苦手な方はご注意くださいませ。
不変の過去、可変の未来
流れた血は戻らず、剣を以て意思を問う
はじまりの声は高らかに
————終わりの音は、刻々と
◇ ◇ ◇
静まり返った部屋の片隅、窓際の鳥籠で体を丸めて休んでいた伝書鳩が、ふと微かに羽を鳴らして小さく鳴く音で、不意に動かしていたペンを持つ手がピタリと止まる。
ふと我に返り、視線を卓上の羊皮紙に落とせば、ペン先から落ちたインクの黒い色が紙の繊維へとじんわり深く滲んでいた。
宿舎の風が吹く二階のテラス席から部屋へ戻ったのはほんの先程のことだと思っていたのだが、机の上に積み上がった出来上がった清書の枚数から見ても、自分が思っていた以上にかなりの時間が経っていたようだった。
同室のラバックは既にベッドで泥のように休んでおり、規則正しい静かな寝息を立てて熟睡している。
課された清書の残りはあと数枚といったところで、この調子なら今夜中にはどうにか終わるだろう。
もっとも、部屋の壁に置かれた古びた置時計の針は、すでに真夜中の二時を指しているわけだが。
思えば、プトレマイオス枢機卿のあの難解な法律や講義の内容も、出された『強者とは何を示すか』という課題の意味も、そしてそれに対する俺自身の考えも、あの頃の当時と比べれば随分と変わっている。
講義を初めて受けた当初の俺は、『理解できない』と不器用に突っぱねていたし、そもそも本気で理解しようとする努力すらしていなかったように思う。
だが、あのクリスハイトの圧倒的な敗北からはじまり、騎士団長の厳しくも温かい教えを通じ、果ては一人の騎士の真の強者の所以を知った。
帝国にいた時とは、自分でも驚くほど随分と考え方が違ってきたものだ。
しかし、それが決して悪い意味ではなく、自分の中でどこか『良いものだ』と素直に感じられるくらいには、俺は今のこの温かい居場所を、自らの手で護りたいと思っている。
水曜日の講義で出されたその課題の提出期限は金曜日。
つまり明日——実際には既に深夜の日付が変わっているため今日なわけだが——なのだ。
既に俺の頭の中には、導き出した確かな答えがある。
残り少ない清書を最後まで丁寧に書き上げて、明日提出するレポートも完遂させる。
おそらく今夜の俺の睡眠時間は、雀の涙ほどしかない。
おまけに、明日の朝に遅刻などした日には、とんでもないくらい痛烈に叱られるのだろう。
真面目なエルンやラバックはもちろんのこと、俺に人生の道標となる答えをくれたあの騎士団長に。
『失敗こそ最大の経験だ』と、彼はあの時まっすぐに言った。
『一度の失敗で、お前という存在が無価値になることなど絶対にない』とも。
もしも今の俺に、確かな人生の生き方というものが定義としてあるとするなら、彼のその言葉は明らかに俺の歪んでいた人生の海図を、ガラリと変えたものだった。
かつて帝国にいた頃の昔は、一度の失敗すら決して許されない極限の状況ばかりだった——というより、失敗すれば即座に捨てられると自分自身で思い込んでいた。
失敗=人としての無価値という恐ろしい烙印を押されるという、抗えない決定事項。
——国が変われば、価値観が変化するのは当然のこと。
この言葉はたしか、ミカの言葉だった。
生きる国が変われば、人間はここまで生き方そのものが変わるものなのか。
その巡る思考を胸に深く抱きながら、俺は今までこの国で得た学びと自分なりの答えを、手元の未だ白い羊皮紙へと一文字ずつ記していく。
お世辞にも綺麗とは言えない武骨な文字であり、焦りから所々にインクが掠れた黒い跡がついてしまうが、不思議と『それも決して悪くない』などという温かい感情が胸の奥に芽生え、またペンを動かす自分の腕にキュッと力が力が入る。
——強者とは、その力を以て他者を導く者。
それが、幾度も迷い、挫折を繰り返した末に俺がようやく見つけた一つの答えだった。
きっと、これだけが唯一の正解ではないのだと思う。
他の誰かが導き出す別の答えだって数多く存在するし、それもまた一つの尊重すべき答えとして、あの枢機卿ならきっと認めてくれる——そんな確信めいた予感が、確かに胸の中にあった。
じわじわと強い眠気が頭を不規則に揺さぶる。
今日一日、深く考えさせられる事の連続だったからかもしれない。
ここで睡魔に負けて寝てしまえば、これまで積み上げてきたすべてが水の泡になってしまう。
俺は己の手で、頬を思いきり引っ張った。容赦なく、かなりの力を込めて。
「…………痛いな」
そこには、眠気を吹き飛ばすような確かな激痛が存在していて。
——俺は、今ここで、確かに生きている。
暗闇の静寂の中、自分の胸の奥にそんな温かく漠然とした噛み締めるような感情が、強く残った。
◇ ◇ ◇
早朝、同室のラバックに手厳しく叩き起こされる形で豪快にベッドから床へと転がり落ちた上で、大急ぎで身支度を終わらせて、朝礼の場につき、厳粛な唱和を無事に終わらせたところまでは実に順調だった。
昨夜、遅くまでかかって課題の清書を最後まで書き上がる段階で、あの唱和の持つ本当の意味を自分なりに少し理解できたことで、声も前回より自然と張り上げることができたのも、自分としては良好な手応えだった。
それでも、世の中というものは良いことの後には必ずと言っていいほど悪いことが起きるようで。
「ぐわぁぁぁ!!! ……また! また! この恐ろしい日が来てしまうのかぁぁぁ!!!」
「俺……もうダメだ……また大勢の皆の前で悲惨で恥ずかしい思いをするんだ……」
「また一人……正気を失い精神を崩壊させる哀れな騎士が生まれてしまうのか…」
朝の基本訓練である外周三十周を全員で終え、腹を空かせた騎士団専用食堂に雪崩れ込む直前の騎士たちが、今後の行事や通達予定などが張り出される大きな掲示板の前で急に足を止めたのがすべてのはじまりだった。
「……なんだあれは?」
掲示板の前で大袈裟に天を仰ぎ、悲壮感を漂わせて十字を切り、どこか白々しさすら覚える大げさな動きでこれみよがしに膝をつく騎士の集団に強い狂気を覚えた俺は、たまらず隣にいたラバックに問いかけた。
今度は一体どんな奇怪で厄介な問題が起こるのか?と。
「——……月例報告会だ」
「……っ!?? ら、ラバ先輩……っ!! うそ、嘘ですよね……!?」
「なんかまたはじまった」
ラバックの口から漏れた「月例報告会」という静かな言葉に、普段は真面目なエルンが迫真な様子でガクガクとラバックの肩を激しく揺さぶるという——
昔、帝国で数回見る機会があった安っぽい演劇に酷く似ていた。
あれはまったく面白みの欠片もない退屈な演劇だった。
別に俺はこの目の前の一連の異常な状況に面白みを求めているわけではない、というよりこの国は根本から色々と巡っている構造がおかしいので、月例という呼称からして定期的に行われている行事であろうとも絶対に警戒を怠ってはいけないのだ。
どうせ、ろくな行事ではないのだろうから。
「……いいか、レン。お前はまだ参加したことがないから分からないかもしれないけど……あれは——地獄だ」
「普段からそこそこ地獄だと思うが」
「今回は何人消されるんでしょうか……」
「……分からない……けど、金曜日に中央門を担当していたあの気さくな衛兵……彼と笑顔で会うのは今日が最後かもしれない…ッ!!」
「そ、そんな……!!? どうして……!!」
「……………………」
消されるやら、笑顔で会うのは今日が最後、といった物々しい言葉がなぜ《月例報告会》というごく普通の行事に関連にして発せられるのだろうか。
名前の字面だけを見れば、日頃の成果を報告する報告会という極めて普通の、どこにでもある一般的な行事ではないのだろうか?
そんな悲痛感と絶望の漂う重苦しい雰囲気が周囲を満たしたと思ってたら、当の食堂の内部ではいつものように騎士たちが大声で馬鹿騒ぎをしていた。
……何なんだコイツらは、全員揃って二重人格か何かなのか?
不気味に思いつつも、食堂の入り口付近に設置されたテーブル席に本日の目的の人物を見つけた俺は、急いでそこへ駆け寄っていた。
着ている服の懐からは、昨夜苦労して仕上げた三十枚の清書の束を持って。
「……よぉ、その様子じゃ、しっかり書き上げてきたみたいだな」
「言われた通り三十枚だ。確認してくれ」
まだ完全には乾ききっていないインクで指や表面が汚れた羊皮紙を気にも止めず受け取ったクリスハイトは、一枚一枚じっくりと目を通した。
実際、適当に流し目でサッと見られると思っていたのでかなり意外だった。
「……ん、合格。字が汚ないのは目を瞑ってやる」
「……それはどうも」
実際その通りでぐうの音も出ないので、俺は何も言えない。
彼の満足そうな様子からして、先日の規律違反(実際は敷地内である宿舎の庭を夜風に当たって歩いただけなのだが)はお咎めなしと考えていいだろう。
クリスハイトの隣では、この会話に一切関わるつもりがないミカが、静かに朝食を続けていた。
彼の手元にはとんでもなく分厚く、圧倒的な質量もある書類がずっしりとクリアファイルに納められていた。
「……なぁ、それも偵察報告書か何かか?」
「これですか? これは——」
「おっと、そろそろ仕事の時間だ。この後合同会議があるだろ!?」
「急に大声を出さないでください、クリス。それに開始時刻にはまだ充分余裕が——」
「余裕があるのはいいことだろ!! 早く!今すぐ!」
急に青ざめて血相を変えたクリスハイトが、捲し立てるようにミカを急かすと、彼の腕を強引に引っ張るようにして勢いよく立ち上がらせた。
「……はぁ、何なんですか一体。普段はギリギリまで移動しようとしない、サボり魔の君が。頭でも強く打ちましたか?」
「もうそれでいい! 打ちました!!」
「ならリリアン医務官の所へ——」
「ざけんな!! 誰が行くか!! 俺だって人間としての最低限の威厳があるんだよ!!」
「情緒不安定になるの止めてください」
目の前で繰り広げられる理解不能の怪しい言葉の応酬に、俺は完全に気を取られ、何の反応もできずにただ呆然と立ち尽くしていた。
同じテーブル席には他の偵察部隊の面々も座っているが、誰一人として声を上げようとしない。
普通、止めに入りまではせずとも、少しは突っ込んでしまうものではないのか?
彼らは、精錬された精密な機械とも思える無機質な様子で、朝食を淡々と腹に収めていた。普通に怖すぎる。
「——もういいです。少し早いですが移動しましょう。総員、事前指示の通りに行動してください。例の件の報告書は執務室に置いておくように」
「「「了解しました」」」
ミカの冷徹で的確な指示に、示し合わせたように揃って素早い反応を見せる偵察部隊。
自分たちより遥かに年下である隊長に対しても極めて従順なのが見て取れるが、それにしても全員が無表情すぎてやっぱり怖い。
彼らは自分の食器を黙々と手早く片付けると、まるで影のように静かに去っていった。
「ではレンさん、僕たちはこれで失礼します」
「ま、頑張れよ——……色々な」
クリスハイトのどこか哀れむような含みを持たせる発言こそ大いに気になったが、俺は律儀に丁寧な別れの挨拶をしていく二人の騎士の背中を見送った。
直前に浴びせられたクリスハイトの言葉の本当の意味を真剣に考えようとして——背後からのラバックとエルンの切羽詰まった呼び声に、俺の思考はあっさりと中断されたのだった。
◇ ◇ ◇
朝食を終わらせた後、今日は城外に出る予定がない、というラバックとエルンと共に先日の講義の課題レポートを提出するために枢機卿の執務室へと向かっていた。
二人に案内されるがまま、相変わらず複雑に入り組んだ迷路のような王宮の長い廊下を歩く。
その途中、どこかこの世の終わりのような悲壮感に満ちた声が廊下の先から重々しく響いてきた。
——ものすごく無視したい。
「ば、バカな……ッ!? なぜあの件がバレているんだ!?」
「お、落ち着け……! 暴露会まではまだ時間がある……それまでに何とか——」
「無理だ!! あの無機質・機械的で人の不幸を肴に酒を飲んでそうな偵察部隊がこの件を上官に報告していない筈がない……!!」
二人の会話の内容が、静かな廊下に響き渡ってしっかり丸聞こえである。
そんなに他人に知られたくない切迫した内容の話を、なぜ王宮の廊下のど真ん中で堂々と行うのか……真底、理解に苦しむ。
ラバックは「また犠牲者か……」と深い溜息と共に肩を落とし、エルンも「予知夢の通りですね……」と悲しげな視線を廊下の先に向けている。
俺はこれ以上無用な面倒事に関わりたくないと思いつつも、どうせ参加拒否などできるはずもないであろう《月例報告会》とやらの情報を少しでも集めておくことにした。
…………覚悟は今のうちに決めた方がいいからだ。
「————なぁ、その月例報告会ってなんだ?」
「………別名《暴露会》一ヶ月の間に犯した醜態や恥ずかしい秘密を、団長と魔術師管理局長の前で赤裸々に報告させられ、全員で共有して反省する会という地獄の行事の一つさ」
「……行われる度に犠牲者が……! 先々月なんて報告された厨房の方がその場で泡を吹いて倒れられたんですよ……」
ラバックの口から出た『地獄の行事の一つ』という物々しい言葉に深く追求したい気持ちに駆られるが、今はまず情報収集を優先する。
いや、ぶっちゃけ追求などしたくはないのだが。
知らないまま何かしらの——例えば規律違反の類いは犯したくないのだ。
先日の一件で、夜の庭を歩いただけでこじつけのように規律違反扱いされた苦い経験からの判断だった。
「なんだよそれ……それで、何か気を付ける事とかあるのか? 例えば事前に何かしなきゃいけないとか、報告会中は私語厳禁だとか」
「——しいていうなら、精神安定剤を持っていくことをお勧めする」
「報告会で?」
「報告会で」
にわかには信じられない恐ろしい内容の話を聞きながら、静かに廊下を進む。
少し遠くなった廊下の奥で『終わりだぁぁぁ!!!』という哀れな絶叫が響き渡っていた。
一体彼らは何をそんなにやらかしたのか。彼らの醜態も次の報告会で無慈悲に明らかになるのだろうか。
「もっとまともな情報教えてくれよ」
「そうですねぇ……といっても真面目にお話を聞くだけですよ。会場は阿鼻叫喚の地獄絵図になるので、普通に会話する分には咎められません」
「それ周りの音が煩すぎて聞こえないだけだろ」
エルンがあまりにも澄んだ真面目な表情で話すので、うっかり信じてしまいそうになる。
おかしい、名前だけ見ればただの報告会の筈なのだ。
「あ、でも遅刻は厳禁だから! 報告会にはアルハイサム書記官も出席するんだ。コンマ数秒でも遅れたらしっかり記録されちゃうんだぞ!!」
「……ただの書記官だろ? そんなに慌てることか?」
「慌てるよ! 騎士生命が懸かってるんだよ!?」
「そんな大袈裟な……」
……しかし、今までの経験――この王国に来てまだそんなに経っていない気がするが――からして、その書記官とやらも間違いなく酷い癖のある人物に違いない。きっと。
「レン先輩……本当に大袈裟じゃないんです。——過去には怪我人が出たという話も………」
「は? ……暴動でもあったのか? あまりの羞恥に耐えかねてとか……」
そこでラバックとエルンの表情が、さらに深く悲痛に歪んだ。
ここまでのどこかふざけた——ではなく、単なる笑い話で済むような甘い空気感ではないような雰囲気が二人を包む。
「……俺が入団してすぐの頃だけど、骨を折るくらいの怪我人が出たんだ……幸い大事には至らなかったみたいだけど……」
「私が他の先輩から聞いた話では、その場で解雇通知を言い渡されたとか……」
「怪我人に解雇通知? 報告会で?」
「「報告会で」」
いくらなんでも、これが普通の報告会などではないことが完全に確定した。
だが、いくらなんでもやり過ぎではないのか?
ラバックの話では団長と局長が出席するという。
そんな国の重鎮が出席していて、なぜそこまでの大問題に発展するものなのだろうか?
……この国は常識外れも甚だしいので、真面目に考えても詮無いことかもしれない。
「どうなったらそんな事が起こるんだよ……暴動なら騎士団長が力ずくで止めるんじゃないのか?」
「いや、流石に団長でもそんな簡単にはいかないよ」
「何でだよ? 騎士団長だぞ、明らかに——」
そこでエルンが力なく、諦めるように首を振った。
それは、あの圧倒的な強さを誇る騎士団長という偉大な存在でも、物理的に止められない何か恐ろしいものが存在するという答えだった。
「《十二勇士》の御方が相手では団長と言えど、簡単には対処できませんから」
——十二勇士。
王国の知識に疎い俺でさえ、一度は耳にしたことがある。
各勇士が単独で魔神を討伐したという、圧倒的な実力を持つ化け物集団。
「——特にあの方は十二勇士の中でも……ね」
ラバックの声は、あまりにも真剣で。
俺はいつものように言葉を返せなかった。
「その十二勇士っていうのは……」
「そうか、レンは知らない——いや、普通の人は遭遇する機会もそうそうないよね。面に出てる方々も今は遠征でいないし」
ラバックの声はいつもより真面目で真剣な声色だった。
隣を歩くエルンもコクコクと小さく頷いている。
そんな滅多に遭遇する機会がないという十二勇士が、報告会如きに出席するものなのだろうか?
俺はどうしても気になって二人に問いかけた。
「その十二勇士が報告会に出るのか? 月例と言うからには、毎月あるんだろ?」
「そりゃね。でも毎月出席されるわけじゃないんだ。忘れた頃にやって来るんだよ。……あれは心臓が止まる——」
ラバックの言葉が言い終わる直前——
鼓膜を直接刺激するような衝撃音が届いたのと同時に
———少し前の王宮の壁が……勢いよく崩れた。
というより破壊された、と表現した方が正しい。
俺は反射的に後ろへ飛び退くことで瓦礫等の破片から回避することに成功する。
ラバックとエルンも鍛え上げられた経験故か即座に回避行動を起こした事で怪我などはしていないらしい。
ラバックに至っては抜刀こそ見せていないが、剣の柄に手を添えている。
王宮の廊下を歩いていて目の前の壁が崩れるというのはどう考えてもおかしい。
そして壁の崩れ度合いから見て、劣化の類いではないのも明白だった。
「——あのさぁ……属性について基本の理解もないとか……お前、魔術師向いてないよ。さっさと辞めれば?」
諭すなどという優しい声ではない。
拒絶だ、心底腹立たしいという心情がこちらにも伝わってくるような、怒りを隠そうともしない怒気。
その声を聞いた瞬間ラバックが俺の腕を掴んで無事な方の壁まで下がらせた。
エルンも習うように避難し、その様子からただ事ではない。
そのあまりの反応速さに俺は驚愕しながらも、しかし素直に従った。本能が警鐘を鳴らしているのが分かってしまう。
「……し、しかし……! シリ——」
「黙れ。無能に呼ばれる名はない。首、落とされたくなかったらさっさと消えろ」
おそらく魔術師とその指導者——かどうかは知らないが——のやり取りだと思われる。
どう考えてもやり過ぎだ。
壁を破壊したのは間違いなく激怒している人物なのだろう。
ラバックやエルンの反応からして相手は相当地位の高い人物なのは、知識に疎い俺にも理解できた。
「……おいラバ——」
「静かに」
状況の確認のためにラバックに説明を求めようと声をかけたが、当の本人は俺を静かに忠告の意味をもって言葉をこぼした。
すると、項垂れた様子の魔術師と思わしき男がこちらにとぼとぼと歩いてくる——が
「あぁ、忘れ物だ」
そんな軽い言葉と共に。
「————!? お、おい!!」
刹那、電撃が走った。
いや、その表現は正しくない。
正確には雷のような槍が無数に床を走った。
大地が揺れるような衝撃、目の前を流れた魔力の本流は伊達ではない。
吹き飛ばされたであろう男の影が、一瞬で目の前を通り過ぎていった。
直接命中していない筈の——『ただ見ていた』だけの俺にも激痛を感じると脳が錯覚を起こすような感覚。
当然、そんな雷槍を直撃した人物は怪我では済まされないだろう。
俺は恐る恐る件の人物に目を向け——
意外なことに出血はしていても、全身真っ黒の丸焦げに至っていないことを確認した。
運が良い——というわけではないらしく、周囲の破損具合からしてこの雷槍を放った人物はかなり手加減したのだろう。
もっとも―—
幻痛を感じる。
大理石の壁を破壊する。
直撃した人物が出血する――それもかなりの量。
という時点で手加減しているとは、にわかに信じがたいが。
「っ……!! あぁ……ぐぅ——! ……わ、わたしの魔道章が……!!」
「悪いな、手元が狂っちまった。でもボクはちゃんと返したからな?」
「し、シリウス様! ……っ! うぅ……! い、いくらなんでも——」
「あ゙? 無能に呼ばれる名はないって言ってんだろ! ——さっさと消えてくれよ!! 魔道章を所持していない以上、もう魔術師じゃねえだろ?」
「…………ぁ、で、でも……」
「魔力回路ごと焼き殺されたいか?」
「——ひっ!!」
その言葉が最後の一押しだったように。
男は身を引きずるようにして立ち上がる。
相当な傷なのだろう、血が廊下を濡らしていて、見ていて痛々しさすら覚える。
何よりラバックやエルンがその光景を見ても手を貸さないのが何よりの衝撃だった。
二人の性格なら助け起こしたり、駆け寄って声をかけるだろうに。
二人が沈黙を貫く理由は——
未だに魔術師だった男を葵色の冷たい瞳で眺めている——銀髪の少年の機嫌を損なわないためだろうと思われた。
暫くの間、重い重い沈黙が崩れた王宮の廊下を支配した。
数秒前まで話の内容はさておき、世間一般的に談笑と呼べる会話をしていたとは思えない状況。
まず廊下には血溜まりが、続いて雷槍——おそらく高位の魔術だろう——と思われる焦げ痕が無数とも思える程廊下に広がっている。
瓦礫や壁の塗装が剥がれ、気付けば窓硝子の類いも粉々に破壊されており、この地帯だけ天変地異でも起こったと錯覚させるには充分な光景が広がっていた。
この一帯を作り出した張本人、確か「シリウス」と呼ばれたまだ少年と思われる見た目の人物は、雷槍の影響で降りかかったと思われる塵や灰を煩わしそうに叩いた。
こちらの様子など気にした素振りは微塵もない。
そんな中、ふと少年が視線をこちらに向けた。葵色の瞳とバッチリ目が合ってしまう。
それがとても危険な行為のように感じてしまうのは、先程の暴力と同義の魔術行使をこの目で見たせいかもしれない。
「————へぇ?」
少年の目は『面白いものを見つけた』と言わんばかりの色を見せた。
どう考えても関わり合いを持ってはいけないタイプの人間だ。
おかしな頭の作りをしている王国の人間の中でもトップクラスの——
「…………(まずいよ、レン!今すぐ一礼して引き返そう!)」
小声でラバックが呼びかけるが時既に遅し、少年が一歩近づき、二歩目を踏み出す寸前でピタリと少年の足が止まった。
先程の興味深そうな色は一瞬にして四散し、今度は『心底不愉快だ』と物語っていた。
この数秒で漂う空気感も、読み取れる感情の変化も百八十度変わっている。
俺たちは何もしていないし、なんなら被害者である。
位置がずれていたり、回避が遅れていれば今頃は血まみれで大理石の床に転がっていたのだから。
「……お前、相当入ってるなぁ…異物混入なんてレベルじゃない」
「…………それは、どういう——」
明らかに俺の目を見て話しているので、異物混入云々は俺を指しているのだろう。
おそらく麻薬——《エーデン》の事だと思われる。
そういえば、麻薬の摂取を完全に断ってからそれなりに経つがこれといって副作用の症状が出ていない。
摂取していたのが最新型だからかもしれない——といった現実逃避を試みるが、目の前の少年の顔色は不機嫌極まりないし、ラバックは顔面蒼白でエルンも困惑と恐怖が隠せていなかった。
「お、恐れながらシリウス様……!」
「俺は今、コイツと話してる。黙ってろ」
「……はい」
状況に耐えきれなくなったラバックがたまらず進言するが、短い言葉でピシャリと拒否された。
これ以上は先程の件の二の舞だと感じたのかラバックはなんとか引き下がった。
その様子がいよいよ現状がまずいものだと否が応でも脳に理解させる。
「見ちまったもんは仕方ねぇ。——お前、そこの帝国生まれのガキ」
「……俺……ですか」
帝国生まれというワードに合致するのはこの場では俺しかいない。
そもそもそれ以前に少年が俺に向けて言葉をかけているのは明白だった。
帝国を危険視あるいは嫌悪する者も多数いるので見た目から迫害紛いの扱いを受けるのは当然だし、それについて文句を言うつもりはない。
「そ、お前。忠告しといてやる」
不愉快というより面倒臭いといった様な……いや
——惜別の念、無念さ、悔しさといった彩りが、ほんの一瞬少年の瞳に映った気がした。
そんなわけがないのでやはり幻覚だ。
幻痛やら幻覚を覚える時点で、麻薬の副作用は俺が自覚していないだけで既に身に起こっているのかもしれなかった。
「——今の内に死んでおけ」
「————……は?」
まさか死を勧められるなど思ってもみなかったので口から素頓狂な声が思わず漏れた。
礼儀を欠いた発言だと感じる前に言葉の意味を考える。
——死んでおけだと? 帝国は王国の敵国だからかもしれないが、一応騎士団に籍を置く身だ。
そもそも『今の内に』とはどういう意図があるのだろう? 敵国の人間として始末されるなら今も後もさほど差が無いように思えてしまう。
「……理解していないだけ、まだ救いがあるか——ボクが今、ここで、終わらせてやろうか?安心しろ、楽に逝かせてやる」
「まずい!!レン、避け——」
少年が僅かに片手を動かすのとほぼ同時にラバックが俺に手を伸ばし、反射的にその手を取ろうとするが……
——間に合わない。
だってさっきの雷槍だって一瞬だった。
目にも留まらない神速で、何が起きたか脳が理解するまでたっぷり数秒を要したのだ。
あとコンマ数秒も経たずに俺の首と胴体は綺麗にお別れしているのではないか——そんな他人事のような思考が生まれる。
同時にエルンの息を呑むような叫び声が耳に届いたような気がして。
目の前の視界全体が淡い竜胆色の光に包まれた。
◇ ◇ ◇
本来やって来る筈の痛みがいつまで経っても訪れないことに違和感を覚えた俺は、本能のまま閉じていた目をゆっくりと開けた。
豊かに蓄えられた白い髭、身に纏うのは気品溢れる竜胆色のローブ。
「爺、邪魔するなよ。ここで殺しとくのが、お得意の『慈悲』ってやつじゃねぇの?」
現れたのはプトレマイオス・ロートレ・アモン枢機卿。
王国の最高指導者が目の前に、俺たちを守るように立っていた。
後ろ姿しか見えないため、表情までは確認できない。
少年の呼びかけに答えた枢機卿の声は、以前第三講義室で聞いた穏やかなものではなく、とても真剣な声色だった。
「シリウスよ。貴殿の心情も理解しておるがの。彼の件はわしが責任を持って見ておる。ここはわしの顔に免じて退いてはくれんかの?」
間違いなく、懇願。
枢機卿という国の最高峰に位置する人物が少年に懇願するという、絵面だけ見るなら目を疑う光景である。
更に言えば枢機卿は先程の少年の魔術行使から俺たちを守ってくれたのだ。
彼らの関係性も力関係も不明だが、一触即発という状況だけは理解できてしまった。
「責任ねぇ? 過去にその責任を果たせなかった奴の言う台詞か?」
「……シリウス、わしは——」
枢機卿の次の言葉が口から放たれる前に
再び雷槍が走った。
規模自体は本当に小さく、なんなら目に見えて辺りに影響は及ぼしていない。
しかしチラリと見えた枢機卿の頬には鋭い、赤い線が刻まれていた。
俺も、ラバックもエルンも言葉を、口を挟むことができなかった。
漂う空気感も雰囲気も人間が激怒したといったものを完全に越えている。
一歩でも動いた瞬間、次こそ本当に死んでしまうのではないか——そんな予感さえ感じてしまうくらいにはこの状況が危険極まりないのだ。
「信用がねぇな……爺、てめぇにも多少の責がある。——そのガキにお優しい慈悲を与えて、罪滅ぼしをしてる気になってんじゃねぇよ」
少年——シリウスの叱責は止まることを知らない。
会話の内容からして過去に何かあったようだが、当然問いただすことができる筈もなく。
「罪滅ぼしなどではなく、《大臣決議》で決まった事じゃよ。そして彼はその課題を乗り越えた」
ようやく振り向いた枢機卿が俺を見て微笑んだ。どうやら提出する予定のレポートを指しているらしい。
どこまでも心を見透かされているような気がしてならない、安心させるような微笑みもそれを物語っているのだから。
「あぁ、あの無駄な時間? アルトから聞いた……決議を取らず、始末すればいいものを」
「何事にも一度の【機会】は与えられるべきじゃろ?」
「それが酷だって話だろ? 加えて『課題を乗り越えた』ねぇ?」
シリウスは嘲笑うように鼻を鳴らした。彼は俺の懐にあるレポートを見透かすようにその葵色の瞳を向ける。
「その程度で【騎士】を名乗るなら半人前以下だ。——基本の剣さえ理解していないとはな?」
全身の筋肉が硬直するような怒気。蛇に睨まれた、という比ではない。
まるで死刑宣告のような響き。
俺は仮にも騎士団に入団していて、少しずつではあるが成長を実感している。
強者とは何を示すかというのも、経験の大彩さも、自身の未熟さも。
それでもまだ、【騎士】にはなり得ない——と。
「シリウス。わしは貴殿と魔を競いたくはないのじゃが」
「勝てねぇなら、ちゃんと言えよ。その時は——」
「ちょっと!さっきから煩いわよ! あたしの睡眠時間を邪魔しないで!!」
凛とした声、どう考えても怒りに震えているようだが、驚くべきなのはシリウスの言葉を遮ったことだ。
枢機卿を前にしても微塵も退かないばかりか優勢にさえ見えたシリウスが声の主に視線を向けた。
「——チッ、邪魔するなよ、サラ」
「それはこっちの台詞よ! 今何時だと思ってるわけ!?」
「知らん、何時?」
「知らないわよ! でも日が昇ってるんだから、あたしの寝る時間なの!!」
一体何が起きているのか。
現れたのは灰色より色素が薄い髪に夏場の湖を思わせる瞳を持った、見た目十六、十七歳の少女だった。
姿格好からして、今の今まで眠っていたのかもしれない。
どうやらシリウスとはそれなりに仲が良好らしいく、それは彼らの会話を聞く限り明らかだった。
先程の枢機卿や俺に向ける視線も表情も少女に向けるものとは段違いだ。
「そうかよ。睡眠を邪魔されたくなかったら|《星の塔》《アスター》に行け」
「言われなくてもそのつもりよ! 大体なんなの!? この騒ぎと壁の損傷は!?」
「……ボクは悪くない」
「アンタまたやったわね!? これで今月何回目!!? 日常的に破壊行為はするなって言われてんでしょうーが!!」
「知らん。いちいち数えてない」
「白ばっくれるんじゃないわ!! 来なさい!! 今回は許さないわよ! あたしの睡眠時間を邪魔したのも含めてね!!」
急に現れた少女はシリウスの腕を勢いよく引っ張ると、ズカズカと焦げ痕が残る廊下を歩いていった。
シリウスは面倒臭そうにしつつも、抵抗しないあたり少女はとんでもない大物か、シリウスより立場が上の存在なのか——
そんな思考をする間に少女とシリウスの背中はみるみる内に小さくなり、やがて消えていった。
嵐のような数分間、確実に寿命は縮んだ。
「……やれやれ、サラのお陰で助かったの」
何でもなさそうにほっと息を吐く枢機卿。
彼の頬からは先ほど走った雷槍による血が出ていたが、それも一瞬で元に戻った。
どうやら治癒魔術の類いを使ったらしい。
「——……はぁ!! し、死ぬかと思った……!!」
「ほ、本当です……! これが噂をすれば影……ですかねぇ……!!」
膝に手をつき、胸をなでおろしたラバックとエルンがようやく水を得た魚のように安堵の言葉をこぼす中、俺は枢機卿の深みのある金の瞳をまっすぐ見つめた。
俺の真剣な視線に気づいた枢機卿も、こちらの意図を察したのか穏やかに向き直った。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「あ……! ありがとうございました!」
「お陰で生きてます!! ありがとうございました!!」
「よいよい、それよりお主ら怪我はないかの?」
各々の感謝の言葉に優しく頷きつつ、親身に怪我の有無を確認してくれるその温かさに、胸の奥で安堵を覚えると同時にピンと張り詰めていた緊張も解かれていく。
俺は先程のシリウスとの会話について尋ねようと考え、口を開こうとしたその時——
「そうじゃった、レン。レポートの提出に来たのじゃろう、受け取ろう」
「あ、はい……」
俺は少し汚れてしまったレポートを少し申し訳ないと思いつつ、恐る恐る差し出した。
枢機卿は気にした様子を全く見せずにそのレポートを受け取り、慈愛に満ちた目で目を通した。
普段から報告書やレポートといった書面を見慣れているからだろうか、読む速度が圧倒的に速い。
レポートの出来栄えに対する不安を感じる暇もないまま、全て読み終えたようだった。
「——ふむ。課題は合格じゃ! よく頑張ったの」
「……でも、さっき——」
「気にせずともよい。——ゆっくりでいいんじゃよ」
そのすべてを包み込むような安心させる微笑みのせいで、俺は聞くべき疑問も喉まで出かかった不安も、すうっと溶けていくような感覚を覚える。
「それにしてもシリウス様と遭遇しちゃうなんて…」
「はい……なんていうか……運が悪かったですね……」
「そう気を落とすな。——おっと、すまんの。そろそろ講義の時間じゃ! 魔術師の子どもたちに叱られてしまうでの、失礼するぞ」
そう言うとプトレマイオス枢機卿は一瞬で姿を消してしまった。
—————— 一瞬で。
更に言えば、崩れていた瓦礫や惨たらしい血溜まりも全て綺麗に元通りになっている。
事情を知らない者がここを通れば、『いつもの廊下』だと認識するくらいには。
「——い、今のは……!?」
「わぁお……さすが枢機卿様だなぁ……」
「ラバ先輩は能天気ですね……」
「いや、お前らもうちょっと突っ込めよ!」
まるで先程の恐ろしい事件そのものを最初から無かったことにするように。
まるで先程の不可解な会話を完全に隠蔽するように。
——そこにはいつも通り、格式ある大理石の廊下と新品同然の窓硝子が、暖かな陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
◇ ◇ ◇
先日の騒動から速いもので一週間が経過している。
あれから鍛練と簡単な王宮の見回り警備を繰り返す日々を送っていた。
一時はまたあの銀髪の少年——シリウスが現れるのでは、と警戒していたがそれも杞憂に終わった。
——しかし何も問題は解決していない。新たな問題はすぐそこまでやってきていたのである。
「——ついに、来てしまったか……」
「心が痛いです……予知夢では赤、青、黄色が見えました……!」
「なんだよそれ!? ……エルンの予知夢は当たるんだよな……」
優に千人以上は収容できる会議室。
中央には巨大な魔道モニターが設置されており、『暴露会』という物騒な別名があることから、あそこにそれぞれの罪状や恥部が映し出されることになるのだろうか。
「はぁ……これどのくらいあるんだ? 一時間? 二時間?」
「さぁ? いつもバラバラだからね……ほら見てよ、アルハイサム書記官。開催期間が未定だから凄い顔してるよ」
「定時の鬼ですからね……」
書記官たちが複数人集まっている席には、明らかに一人だけ浮いた筋肉ムキムキの人物がいる。
おそらくあの人物がアルハイサム書記官なのだろうか?これは俺の勝手な想像だが、書記官というのはデスクワークで頭を使う職業であって、ここまで鍛え上げる必要はないはずだ。
中には自衛のために多少体を鍛えている者もいるのだろうが、彼の姿はあまりにも規格外すぎた。
「……そろそろ始まるみたいだよ」
「そういや、司会進行は誰なんだ? 枢機卿とか、担当の官僚がいるのか?」
「ミカ様ですよ。個人の恥ずかしい秘密や醜態を調べ上げるのは偵察部隊のお仕事なんです」
「偵察部隊の偵察能力をこんなことに使うな」
そして、いよいよ——地獄の蓋が開かれた。
「——では、定刻となりましたので月例報告会の開始を宣言します」
きっとこれから開催の挨拶とか、そういう堅苦しい形式があるのだろう——と俺は思ってました。
「今月二日、午前五時三十四分。厨房にて朝食用のベーコンを盗み食いした不届き者の報告から始めます」
最初に告げられたのは、つまみ食いという何とも情けない違反報告だった。
しかし驚くべきことに、室内の騒ぎは想像していたよりも少ない。
阿鼻叫喚の地獄絵図だとか、その場で消されるとかいった脅し文句は何だったのか。
「なんだよ……この程度か?」
「まだ最初だからね。今の内に精神安定剤を服用しないと……すぐに効き目が出ないし……」
「ですね。レン先輩もどうぞ」
「まさか精神安定剤をお菓子感覚で勧められるとは思わなかった」
その後も下らない報告が次々と続いた。
任務への遅刻だとか、廊下の調度品を割っただとか。
中には口にするのも恐ろしいほど生々しい報告もあり、一体どうやって調べ上げたのかその情報網の出所すら不明瞭なものまで含まれていた。
やはりどう考えても偵察部隊の能力の無駄遣いではないだろうか?
「続いて、十六日、午前三時六分。魔術師監理局、第八魔術礼装保管庫において《記録定着型・導力面麭》を持ち出し、同日午後に行われた《属性分類試験》の範囲を礼装を使用して暗記・記録し不正を行いました。更に同日午後九時四十一分に元の位置に戻す直前に、半月書房にて販売されていた……《月刊Secret Desire》の画像を暗記・記録しました」
「えぇ……嘘でしょ……」
「キモ……」
「本の記録?」
「ただの本じゃないわよ! 卑猥なやつよ!」
周囲から——特に女性陣を中心として、突き刺さるような冷ややかな視線と容赦ない軽蔑の言葉が投げかけられる。
巨大な魔道モニターには、顔面を真っ青にして俯く犯人と思わしき魔術師たちの姿がしっかりと映し出されていた。
ちなみに彼らは、先日王宮の廊下で暴露会に怯えていた連中その人たちである。
彼らの醜態は、こうして無事に白日の元へと晒されたようだ。
「あ……あ……」
「い、いや! これは何かの間違いで——」
冷え切った空気が漂う中、中央付近の特等席に座っていた魔術師管理局長——ルーシャ・ルナリスが、氷点下の苦言を放った。
その声と眼差しは、会場全体が永久凍土に閉ざされたかと錯覚させる程に冷徹だった。
「魔術礼装は貴方たちの猥褻でみだらで下品な用途を目的として制作されたものではないのだけれど」
「あ、えっと、お、俺は、とめ、止めました」
「い、いや……わ、わたしも、とめた! 止めました!」
「何で皆暴露される時、ちょっと優しいゴーレムみたいな喋り方になるの?」
「何を今更……それよりクリス、次の資料を魔道モニターへ」
「……うわ、まじかこれ……」
「「「(一体どんな内容なんだ……)」」」
未だに苦しい言い訳……にもなっていない言葉で必死に足掻く変態コンビ。
その傍らで、書記官たちがカツカツと羽ペンを動かす音が、無慈悲に静まり返った室内に響き渡る。
司会進行を務めるミカは無心で冷酷な報告書を淡々と読み上げるが、時たまあまりの内容に言葉を詰まらせ、絶句している。
……無理もない。
それくらい正視に堪えない酷い代物なのだ。
そして魔道モニターに証拠の品々と犯人の醜態を映し出す、司会進行補佐のクリスも顔を引きつらせていた。
「——次だ。聞くに耐えん」
「まったくね。毎月毎月……よくもこんな醜態が絶えないものだわ」
騎士団長と局長が揃って深い溜め息と共に苦言をこぼす中、会場は徐々に現実を受け入れた者たちの悲鳴と絶望に満ちた阿鼻叫喚の渦へと包まれていく——
「ち、違うんですこれは!!」
「うわぁぉだずえくこじ!!」
「―――――――」
衆目の前に晒し上げられた者も、そのあまりの悪趣味な醜態を見せつけられる者も、耐え難い恐怖と嫌悪によって声のボリュームを大きくしていく。
だが、これはまだほんの序の口、前哨戦に過ぎない。
——本当の恐怖と真の地獄は、これから始まるのだから。
「——では続いての報告に移ります」
進行役のミカが次の報告に移る直前、入り口付近から見張りの衛兵と何者かが言い争う声が聞こえた。
「ちょっと! 困ります!」
「奥さん、ここに彼がいます。——踏み込みますか?」
「当然よ!! もう黙っていられないわ! あの糞○○(←自主規制)!!!」
——バタン!!!という扉を蹴破らん勢いで侵入してきたのは、ふくよかな体型の女性と魔道カメラを抱えた眼鏡の男、そして機材を抱えた屈強な男たちであった。
何が起きたか脳内の処理が追いつかないまま、衛兵の守りを突破してズカズカと侵入してくる。
「ちょっとあんたぁぁ!! 最近帰りが遅いと思ったら、王宮のメイドとイチャコラしてるらしいじゃないの!!」
「ひっ!! お、おま——何でここに!? 王城許可証がないと門を通れないはず!!」
「おい! 勝手に入ってくるな!! ここは立ち入り禁——」
たまらず一人の騎士が制止の声を上げたことで、女性は思い出したかのように首に下げていた物を提示した。
それは
「ご心配なく。彼女は王城許可証を所持しています」
「な、なにぃ!? な、何故だ……! 一体どこから!? 王城許可証の発行許可を持っている人物は高位の職位しか……」
「僕です」
「え?」
「ですから、僕です。王城許可証の発行許可を出しました。今回の報告の重大な生ける証拠人ですから」
「うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゙!!!」
俺はその一連の流れを冷めた表情で見つめていた。まさかの修羅場が千人以上の人間の前で公開処刑されようとしているのだ。
ラバックもエルンも「消されたか……」という悲痛な顔をしている。止めろその顔!!
「浮気相手の女を出しなさい!!」
「んじゃ、どうぞ」
クリスが浮気相手と思われる若い女性を連行する。明らかに化粧ノリバッチリと言わんばかりだ。
化粧の良し悪しなど知らんが。
「ちょっと〜何なんですかぁ? いきなり困っちゃう〜」
「このあば○○(←自主規制)!! ぶりっ子してんじゃないわよ!! もうそろそろキツいのよ!! それに人の男にちょっかい出してんじゃないわよ!!」
「はぁ? なんなの?このオバサン(笑) ってか凄いお腹ぁ! 三十越えると弁解できないけど」
「なんなの!? ふざけんじゃないわよ!! 泥棒猫!!」
たまらず女性がメイドに殴り掛かろうとし、魔道カメラを携えた男が制止する。
だが、忘れてはならない……直前で『踏み込みますか?』と聞いたのはコイツです。
「落ち着いてください!! 暴力はいけません!!」
「連れてきたお前が言うな!!」
会場のあちこちではあまりの暴動に悲鳴を上げる者までいるが、目の前の修羅場は収まりそうにない。
一体これのどこが報告会なのか、俺たちは浮気報告をなぜ聞かせられている?
「……ラバ先輩。彼はこの前の……金曜日、中央門を担当していた……」
「あぁ……だから言ったんだ。『彼と笑顔で会えるのは今日が最後かもしれない』ってな……」
「そ、そんなっ!!?」
「こんなのプライベートだろ。他所でやれよ」
俺の素直な意見は阿鼻叫喚の大声で掻き消される。
女性同士の髪の引っ張り合いから始まり、浮気男が間に入るが、妻と浮気相手がお互いの顔をビンタしようとして代わりに浮気男がビンタを喰らうという事態まで起こっている。
挙げ句の果てには妻が自慢の腹でタックルをし、浮気相手がくるくると踊るようなステップで回避するという——もう何が何だか分からない。
「あんた!! どっちを選ぶの!!? 三年付き添ってきた私を捨てるなんて言わないわよね!?」
「三年ってちょうど倦怠期の時期じゃないですか?」
「お前、一回黙ろう」
「もうあんな女なんて捨てちゃえば? あなたが働いてる間お菓子食べながら連続探偵ドラマでも見て寝転がってるわよ!!」
「はぁ!? 勘違いしないで!! 連続愛憎劇ドラマよ!!」
「大して変わらねぇわ!!」
その後も掴み合いの喧嘩が勃発し、魔道カメラのフラッシュの光が閃く。
この修羅場を新聞に載せるつもりなのだろう……
「あー!! もう! この際ハッキリ言うわ! あたしのお腹には赤ちゃんがいるのよ!」
「はぁ??? あんた!! どういうこと!?」
「え、ちょ——それは聞いてない!」
「あなた言っていたじゃない! 子どもが欲しいけど、今の奥さんは——」
いくらなんでも生々しすぎるカミングアウト。
騒がしかった会場は一瞬で静まり返り、コツコツという書記官たちがペンを動かす音だけが聞こえる。
よくこんな状況で仕事ができるものだ。神経を疑う。あと記録するな。
「この間の金曜日、ベッドの中で言ってくれたじゃない♡」
「俺、もう金曜日嫌いになりそう」
「私もです……」
ラバックとエルンが悲痛に満ちた表情で十字を切る中、沈黙を続けていた司会進行役が言葉を発した。
「そこまでにしてください。生々しすぎます。最近は色々と厳しいので、それくらいで」
「は?? まだ話は——」
「退場!! 俺もこんな話になるなんて聞いてねぇわ! ミカ、お前知ってたんじゃねぇよな!?」
「まさか。スクープの為なら魂を売るようなハイエナ根性の愉悦記者が同行することしか知りませんでした」
「その事は知ってたのかよ……」
ついに衛兵たちによりパパラッチと浮気男たちが連行された。そして息をつく暇もなく次の報告が再開される
——彼らの精神はどうなっているのか……
「どんな精神構造してんだよ……ちょっとは休憩とか」
「何を言っているんですか!!?? 定時で帰れないじゃないですか!!!!」
「落ち着いてください、アルハイサム書記官」
アルハイサム書記官が先程までの冷静な仮面を取り払い、身を乗り出して反論してきた。執念が凄い。
◇ ◇ ◇
—— 一度ならず二度までも、という言葉が存在する。
正しく目の前で起きているのがそれであった。
——バタン!!!
「もう嫌なんだけど」
「そう? 今回はまだマシだよ?」
「お前頭おかしい」
先程と同様に勢いよく扉が開かれる。衛兵とのいざこざはカット。
というか衛兵の守りがザル過ぎる……先程から突破され過ぎでは?
「邪魔すんでぇ!!」
現れたのは赤、青、黄色のスーツに身を包んだ三十代くらいの男性三人組——
——ん?赤、青、黄色……?
「はっ!! これが予知夢の赤、青、黄色だったんですね!!」
「何で当たるんだよ……」
男性三人組はズカズカと突入すると、辺りを見渡す。そしてすぐ近くに件の人物を発見したようだった。
なぜ都合よく入り口の近くにいるんだ?運が悪すぎる。
「よぉ! えろう元気そうやなぁ? 兄ちゃん!」
「——!? な、何故ここに!? 職場には来ないで下さいってお願いしたじゃないですか!!」
「ならさっさと借金払ってくれますかい? 返済期限もとっくに過ぎて、利息も膨れ上がってますぜ」
まさかとは思うが——いや、そのまさかだ。
彼らの首元には王城許可証がしっかりかけられていた。
どう考えても発行したのは——
「そんな急には……そもそもどうやって入ってきたんですか!? 王城許可証が無いと門を通れないはず!!」
「これさっき見た」
「おい、ミーカー……?」
「借金の返済が滞っているとのことでしたので。『借金の返済を滞らせるとこのような事態になる』という教訓にもなります。反省も兼ねているでしょう?」
「誰もこんな色物から金は借りねぇわ!!」
クリスのツッコミも空しく三原色トリオの取り立ては続いている。
「し、借金って今おいくらになっているんですか……?」
「元金利息合わせて金貨五三ゴルドや!!!」
「五三ゴルド!?」
「五三ゴルド!?」
「五三ゴルド!?」
「合わせて百五十九ゴルド!??!」
「払わんか!! 百五十九ゴルド!!」
もはやお笑い劇場を見ている気分である。
周囲はあまりの金額の高さに驚いて声を上げたに過ぎないのだが、何故それを計算してしまうのか。
「五三だね」
「ラバ先輩、絶望的につまらないです」
ラバックの渾身のボケがエルンに冷たくあしらわれても三原色トリオは諦めない。
精神の強さだけは感服する。見た目も行動も。
「払えん言うんか!!?」
「は、はい……そんな高額な……」
借金をした人物が消え入りそうな声でこぼした言葉。また大声の恫喝が来るかと思いきや、聞こえてきたのは愉快な歌声でした。
なぜ?
「お前に五三ゴルド金を貸してる♪」
「返済期限は過ぎている♪」
「「「出せ♪ 出せ♪ 出せ♪ 出せ♪ 出せ♪」」」
「………………はい?」
「続きまして〜」
ちなみにくるくる回ったりして謎のアピールも添えられていたのだが、それも無視されている。
どう見ても借金をした人物の方がまともな頭をしているようだ。
「お前に五三ゴルド金を貸してるねん」
くるっ!
「返済期限はとっくに過ぎてんねん」
くるっ!
「さっさと出した方が」
くるっ!
「お前の」
くるっ!
「ため」
くるっ!
「や」
くるっ!
「で」
くるっ!
「!!」
——コイツらは普通に喋れないのか。
視線で騎士団長と局長に助けを求めたが、諦めているのかチェスで遊んでいる。
何遊んでんねん。
「だ、だから払えません……!!」
「払えんやと!? 続きまして〜」
「まだやるのか? これは何の報告会——」
「か〜ね〜を〜ぉぉぉ〜!!」
「ぉうぉう!! おーうおう!!」
「出せぃ!!!」
「………………払えません」
そりゃそうだろう。訳の分からない奇声を浴びせられても誰が払うのか。
「兄貴! コイツどんだけ言っても払いませんわ!」
「どうしますかぃ?(兄貴、ネタ切れです!!)」
「…………全額とは言わんから払って」
——とそこで、局長とのチェスにかまけていた団長がバッ!!と勢いよく立ち上がった。
今度はなんだ……
「総員!! 受け身を取れ!!!」
——バタン!!!
「もうこれ三回目」
「遅れちゃった!! まだやってるわよね?」
騎士団長の雷のような号令が響いた瞬間、千人以上がひしめく大会議室の空気が一変した。
俺を含め、その場にいた騎士、書記官、偵察部隊、果ては暴露された者に至るまで、天災に抗うべく一斉に床へと身を投げ、防御姿勢をとった。
あまりにも整然とした、無駄のない集団行動。
——状況を理解していない三原色トリオだけが
「……え?」とアホ面で棒立ちになっている。
——可哀想に。
「ちょっと!なんなの?いつもいつも——」
「それ以上近づくなッ!!」
「失礼しちゃうわ。まだ何も——あ」
「伏せろぉぉぉぉ!!!」
誰かの野太い声がベアトリクス嬢の呑気な声と同時に広大な会議室に響き渡り——
彼女の手元からこぼれ落ちた真っ赤に発光する魔石が、大理石の床で跳ねた。
静寂。そして———
ドッカァン!!!!!!
完璧な受け身をとっていた俺たちの努力も虚しく、耳を破壊する凄まじい大爆破の衝撃と激しい爆風が、会場全体を容赦なく呑み込んでいった。
——それからは記憶が抜け落ちている。
——もしくは、本能が思い出すのを拒否しているのだ。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




