フォグワースの哀歌は響かない 後編
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『フォグワースの哀歌は響かない』はこれで完結です。ありがとうございました!
その瞳は万物を見通すが故に、数多の人間に求められた。
ある時は、世界を巡る星と魔力の壮大な流れを。
ある時は、地に眠る眩い金の在処を。
そしてまたある時は、言葉の裏に隠された、浅ましい人の心でさえも。
万物を見通す神秘の瞳は、吸い寄せられるようにあまねく人々を惹き付けた。
持ち主はただ静かに微笑みながら、求められるがままにその力を貸し与えた。
————だけれど。どれほど力を貸し与えても。
————人間たちの欲望には到底足りなかった。
————その瞳は、数多の瞳は、やがて持ち主の手を遠く離れて。
————奪われ、削ぎ落とされ、ついに彼らの物になった。
◇ ◇ ◇
記憶の中にある屋敷の道順を素早く手繰り寄せ、僕は最初に案内されたあの広い客間へと滑り込むように駆け込んだ。
客間には、いまも絞り出すような女性の悲痛な啜り泣きが響き渡っていた。その周囲には、ただオロオロと立ち尽くす使用人たちの姿がある。
だが幸いにも現場はすでに落ち着きを取り戻しており、収拾のつかない混乱状態には陥っていないようだった。
どうやら僕より先に行かせたシルフィが、持ち前の技量で手際よくその場を押さえてくれたらしい。
「状況はどうなっていますか?」
「使用人の一人がエレナを取り押さえる過程で腕を切られたみたいだけど、ほんの掠り傷。ソフィアの方は——」
シルフィが、不安そうに一人のメイドの陰に庇われているソフィアへと静かに視線を向けた。それに気づいたソフィアが、未だ恐怖に体を震わせながらも首を振った。
「わ、私は……だ、大丈夫……で、す……」
『大丈夫』と口にしてはいるものの、その言葉とは裏腹に彼女の顔色は土のように蒼白だ。無理もないだろう——いくら小ぶりな果物ナイフとはいえ、明確な殺意と逆上をもって向けられた刃は、間違いなく人の命を奪い得る凶器なのだから。
「傷を見せてください」
傷口がいくら浅いとはいえ、処置を怠ればそこから破傷風や感染症を起こすリスクも十二分に考えられる。ソフィアは直前まで戸惑っていたものの、僕に引く気がないと察したのか、真っ白な手首の先、血の滲む手の甲をおずおずとした様子で差し出してきた。
確認したところ、本当に大した深さではないようだった。
一本の赤い線が透き通るような白い肌に走っており、僅かに血こそ滲み出ているが、しっかり消毒して清潔なガーゼを貼っておけば大きな問題はないように思える。
僕は応急処置として懐から手拭きのハンカチを取り出し、傷口をさらに痛めつけないよう最新の注意を払いながら、そっと優しく手の甲を包み込むように縛った。
「……後でしっかり手を洗った後に、薬で消毒をしてください。ご安心を、後遺症や傷跡が残るようなものではありませんから」
「……ありがとう、ございます……騎士様」
ソフィアが痛みに耐えながら頭を下げる間も、エレナの悲壮な啜り泣く声は部屋の隅から聞こえ続けていた。
あの取り乱し様を見るに、彼女の暴走を力ずくで止める段階で何か決定的なことがあったに違いない。
そして、その元凶は間違いなく、いま床に落ちた果物ナイフを検分するように見つめているシルフィしかいないだろうと思われた。
「一体何をしたんですか、シルフィ」
「……ん? 彼女の暴走を速やかに止めただけだよ」
「本当に? 何か手荒な真似はしていませんよね」
「してたら、エレナはもうここにいないよ」
あっさりととんでもない爆弾発言を落とすシルフィに、僕はなんとも言えない生暖かい視線を向けざるを得なかった。
本来なら傷ついたエレナにも一言二言優しい言葉をかけるべきなのだろうが、今の混濁した精神状態で声をかけたところで、彼女の苦しみが晴れることはないだろう。
せめて涙を拭うハンカチの一枚でも手渡すべきなのだろうが、先ほどソフィアの応急処置に使ってしまったため、生憎と予備の手持ちがない。
仕方なく視線でシルフィに助けを求めると、彼女は自身のケープの懐から清潔そうな白いハンカチを投げるように寄越してきた。
「エレナ様、こちらをお使いください……」
これまでの任務や現場の経験を踏まえると、この手の極限状態において安易な同情や慰めの言葉を掛けるべきではない——と僕は考えている。
理由は幾つかあるが、下手に同情しても相手の感情を刺激し、逆効果にしかならないことが多いからだ。
実際、世の中にはそうでない人間もいるのだろうが、今まで似たような悲劇に陥った際、誰かが生半可な声をかけて状況が良くなった場面を僕はただの一度も見たことがない。
「…………うっ……ぐっ……!うぅっ……!」
案の定、彼女からの言葉による返答はない。だが反射的にか、あるいは貴族の淑女としての最低限の恥じらいがあるのか、僕が差し出したハンカチをひしと手に取り、そこに顔を埋めて震えていた。
そこで廊下の向こうから、足早にこちらへ向かってくる荒々しい靴音が聞こえ始めた。その数は二人分。
「こちらです! ヴェルターさん!」
うち一人が切羽詰まった甲高い声で客間へ駆け込んできた。先ほど僕がヴェルターの捜索と報告を頼んだあのメイドだった。
続いて、普段の冷静さからは想像もつかないほど驚愕の表情を浮かべたヴェルターが客間に入室してきた。部屋の状況を一瞬で見定めたヴェルターは、まず始めにソフィアの手の傷を確かめるように目線を向けた。
「ソフィア様……! そのお怪我は……!?」
「大丈夫よ……今、騎士様……ミカ様に診ていただいたから……」
信頼するヴェルターの顔を見ていくらか心が落ち着いたのか、ソフィアが彼を安心させるような弱々しい声色で伝える。
ヴェルターの瞳の奥が一瞬だけ、激しい怒りとも憎悪とも取れる感情に揺れたが、流石は長年仕えてきた熟練の執事。
激情に呑まれることなく即座に呼吸を整えると、低く落ち着いた声で「……左様でございますか」とだけ発した。
「……どなたか、何があったのか詳細をお聞かせ願えますか?」
比較的場の静けさと落ち着きを取り戻したと判断した僕は、客間に居合わせた数人の使用人たちに向けて優しく問いかけた。
すると、この広大な屋敷で唯一残っている若いフットマンが代表するように一歩前へ出た。僕たちへ深々と一礼を捧げた後、騒ぎの発端をポツリポツリと話し始めた。
「……エレナ様が……『気分転換に外の空気を吸いたい』と強く仰られ……裏の庭に出られました。——そこで、運悪く……ソフィア様と——」
つまり、今の精神状態において一番顔を合わせたくなかった最悪の相手と鉢合わせてしまったということだ。しかし、庭で遭遇したのなら騒ぎはそのまま庭で起こりそうなものだが……どうやらまだ話には続きがあるらしい。
「ソフィア様は、庭で花のお世話をなさっていました。……旦那様を亡くされて精神的に不安定だったこともあり、エレナ様が……」
フットマンはちらりとソフィアの様子を伺い、言い淀んだ。主人の前で直接『エレナ様が一方的にソフィア様を怒鳴り散らして侮辱していた』とは、流石に使用人の立場として言いにくいのだろう。
「……ソフィアが気を使ってその場を離れようとしたけど、感情を押さえきれなくなったエレナが後を追ってここまで来ちゃった、そんなところかな?」
場の気まずい状況を一瞬で察したシルフィが簡潔に要約すると、フットマンはコクコクと何度も頭を下げた。シルフィの見解で間違いなさそうだ。
「それで……エレナ様は大層お怒りになられ……その……テーブルにあった果物用のナイフを手に取られて……」
「状況は概ね理解しました。それで、エレナ様の傍にはどなたがつかれていたのですか?」
僕の問いかけに、ビクリと身を竦ませて肩を震わせた一人の若いメイドがいた。主人の護衛を怠ったとして叱責されると思っているのか、その表情は今にも泣き崩れそうだ。
「わ、私、です……! 申し訳ございません……! エレナ様が突然駆け出してしまわれ……私が追いついた時には……もう……」
「突発的な混乱状態による行動なら、貴女一人の責任じゃないよ、責められない。そうでしょ?」
シルフィは僕に同意を求めるように、その透き通った空色の瞳を向けてきた。もちろん僕としても彼女を個人的に責め立てるつもりは毛頭ないので、深く頷いて名乗り出たメイドに優しく声をかける。
「顔を上げて。……エレナ様をお部屋までお送りし、どうか傍についてあげてください」
「は、はい……!」
メイドは力強く頷くと、未だにハンカチに顔を埋めて啜り泣くエレナを支え、共に客間を退室しようとした。
——その、廊下へ出る直前のことだった。
「……人殺し……今度は、誰を殺すつもりなの……?」
エレナは足を止め、ソフィアへ向けて正気を失った虚ろな瞳を突き刺すと、返事すら待たずに今度こそ客間をメイドと共に去っていった。
精神状態が不安定だとはいえ、エレナはソフィアこそが夫を殺めた犯人だと信じて疑わないのだろう。
現在僕たちが掴んでいる手持ちの情報と、現場に残された僅かな手がかりから総合して察するに——ヘンゼルを直接殺害したのは、筆頭執事であるヴェルターの可能性が極めて高い。
仮にヴェルターが真犯人なのだとすれば、自らのその手による行いが、結果的にソフィアの立場をより一層悪く追いやっていることになる。彼が抱く明確な動機こそ未だ不明なため何とも言えないが——
「……申し訳ございません……ソフィアお嬢様……」
「ヴェルターが謝ることじゃないわ……私がいけなかったの」
「その様なことは、断じて……!」
明らかにヴェルターの態度が、他の当主候補であるきょうだいたちへ向けられるものとは根本的に異なっているのは誰の目にも明確だった。
『——貴方は、随分ソフィアを気にかけているように見える』
昨日、館の庭を案内された際に、シルフィがヴェルターに向けて静かに放った言葉が脳裏を過ぎる。なるほど、確かに——彼はソフィアだけを特別に気にかけている節があった。
それは彼女が養子として引き取られ、他の候補者たちから疎まれている不憫さからくる情なのか……それとも、他に何か決定的な理由があるからなのだろうか。
「……騎士様方、この度は重ね重ねご迷惑をおかけして、誠に申し訳——」
「謝るんだ? この状況を作り出したのは貴方なのに?」
ヴェルターが僕たちへ深く頭を下げた瞬間、それを遮るように冷ややかな声が投げかけられた。
その言葉とは裏腹に、発された声色はどこか軽やかでさえあった。
声の主であるシルフィは、先ほどの果物用ナイフを指先でくるくると遊ぶように回している。
しかし、その空色の双眸に宿る色は恐ろしいほどに真剣で、真面目に詰問しているのか冗談めかした問いかけなのか、傍目には判断が難しい。
「……騎士様、一体何を——」
「とぼけなくていいよ。死亡推定時刻、現場に残されたリネンカートの痕跡、使用人管理日誌。証拠はすべて揃ってる——使用人全員に裏を取れば、事件発生時刻に自由に動けるのは、執事である貴方だけだとすぐに分かる」
「……わたくしがヘンゼル様を殺害した犯人である、と……?」
どうやらシルフィは、一番の最重要容疑者であるヴェルターをこの場ですべて追い詰める気のようだった。
ヴェルターとて、自身の部屋に何者かが侵入したことは、力ずくで破壊されたデスクの引き出しの痕跡から既に察しているはずだ。
当のソフィアは、周囲の他の使用人たちと共に、突然突きつけられた冷酷な事態の変転にただただ戸惑いを覚えるばかりのようだった。
「他に誰がいると? 状況も証拠も、すべて貴方が犯人だと示している」
「……失礼ながら、外部からの侵入者による犯行の可能性はお考えにならないのでしょうか? ……あるいは——……」
ヴェルターは言葉にこそ発しなかったが、自分以外の他の人間——すなわち、他の当主候補の誰かが犯人である可能性を言葉の裏で問うていた。
「使用人の仕事の割り振りを統括するのは筆頭執事である貴方の役割。ヘンゼルを撲殺した後、彼を執務室へリネンカートで密かに運搬して、一時的に自身の仕事へ戻った。その後、死亡推定時刻を誤認させるために、あらかじめ心臓を鋭利な刃物で刺した。……こんなところ?」
「……お戯れを……」
「…………ヴェルター……騎士様の仰られていることは、本当なの——?」
もしもヴェルターが自身は犯人ではないと主張するならば、客観的な新たな容疑者を提示するしかないはずだ。
だが、状況と手持ちの情報、そして彼の動動を照らし合わせても、ヴェルター以外に犯人は考えられない。
「ヴェルターさん、自供してはいただけませんか?」
「……わたくしは」
ヴェルターはもはや反論するつもりもないのか、力なくゆっくりと項垂れた。そして未だ困惑し怯えるソフィアへ、悲しげな視線を静かに送っている。
——その眼差しは、悔恨の謝罪か、それとも断ち切れぬ未練か。
視線だけでは、どうにも彼の奥底にある真の感情までは読み取りきれない。
「……この写真、貴方と——」
シルフィがヴェルターの自室の引き出しから回収したあの古ぼけた取り出し、次の言葉を紡ごうとしたその瞬間、ヴェルターは静かに重い口を開いた。
「……やはり、見つけておられましたか。……その子は、幼い日のアンナです。——わたくしの、たった一人の実の妹です」
「……え……?」
ソフィアは突然明かされたヴェルターの告白にさらに混乱を深め、周囲に控えていた使用人たちの間にも動揺の囁きが小さく広がる。
「妹……では、その方と先代当主であるロベルト様の関係については……」
「当然、知っていました。……わたくしが……わたくしがあの時、王都に行きさえしなければ……!」
その血を吐くような言葉の続きは、僕たちにも嫌でも理解できた。自分が昔、あの時にアンナ——妹の傍を離れさえしなければ、かけがえのない大切な肉親を自分の手で守ってやれたのに、というあまりにも深い後悔の念。
——僕はそれに対し、かけるべき言葉を何も見つけられなかった。
『いかなる理由があろうと殺人を犯すのは間違っている』『復讐の為に先代当主の子供に手をかけたのか』——そのような正論めいた言葉を口に出すのは、どうしても憚られたのだ。
僕は、まだまだ未熟らしい。このような現場で私情や同情を一切切り捨て、冷徹に法的正義を貫ける姿こそが、僕の目指す恩師の背中だというのに。
「……ヴェルター、嘘、嘘よね……? だって貴方がそんな恐ろしいことをするはずが……」
ソフィアは信じられない、と言わんばかりの表情を浮かべながらヴェルターに泣きすがるように問いかける。
彼は最早隠し通すことはできないと悟ったのか、ふるふると力なく頭を振った。その瞳には、自身をどこまでも信じてくれているソフィアに対する深い愛惜と情が確かに感じられた。
「許せませんでした……本来なら……本来なら! アンナこそがこの屋敷の正当な奥様となるべきだった……! 彼は……ロベルト様は、アンナを心から愛していた! なのに……!」
「……けれど彼はベラリーチェを選んだ。貴族としての『正解』をね」
シルフィの淡々とした言葉に、ヴェルターは抗う気力もなく力なく頷いた。その目線は、シルフィの華奢な指先にある古ぼけた写真——無邪気に笑う幼い日のアンナを見つめていた。
「……アンナは、花を愛する優しい子でした。あの庭も、毎日アンナが真心を込めて手入れをしていました。——ソフィア様、貴女と同じように」
「…………ヴェルター……」
昨日、ヴェルターが僕たちに庭を案内してくれた時の言葉が、鮮明に脳裏へと蘇る。
『——ロベルト様の……亡くなられた奥様が、生前とても大切に手入れされていたお庭です』
あの言葉は、前当主の正妻であったベラリーチェを指していたわけではなかったのだ。
本来ならロベルトの妻となり、この館で幸せに暮らしているはずだった悲劇の女性——アンナへ示す、彼の密かな愛と追悼の言葉。
実質的な自白だと判断し、彼を拘束する直前で、僕は兼ねてよりずっと疑問視していた問題をヴェルターに問い尋ねてみることにした。
「……前当主であるロベルト様の死にも、貴方が関わっているのですか?」
「……いいえ」
ヴェルターは重く静かな声でハッキリと否定した。一ヶ月前に突如として亡くなったロベルトの死に、ヴェルターは直接手を出していない。この供述が真実だと仮定するならば——
「ロベルトを殺したのは『呪い』だよ。恐らくベラリーチェも、同じように呪い殺されている」
「呪い……リン様の仰られていた、あの……?」
「この屋敷全体にどろどろと渦巻いている呪いは、魔術礼装によるものなんだ。……ねぇミカ、呪いって何故生まれるのか分かる?」
いつものことながら、唐突な質問だった。だが、彼女の投げかける問いはいつだって物事の核心を正確に突いている。
僕は思考を巡らせる。呪い——アンナに関する話を聞いたリンが、ベラリーチェの死はあまりに唐突で、呪いによるものだと証言していた。
話を聞いた当初は、彼女が激情に駆られたか、あまりに唐突な死だったが故にそのように思い込んだ可能性を考えていた。
だが、魔術礼装が当時から発動し続けていたともなれば、呪いという言葉もあながち間違いではないかもしれない。
呪いが生まれる理由……嫉妬、妬み、羨望。要因は決して一つではないだろうが、敢えて挙げるなら——
「信頼していたが故に、その強い想いを裏切られたから……でしょうか?」
「ミカはそう考えるんだ」
「なら君はどうなんですか、シルフィ」
まさか自分だけ問いただして終わり、というわけではないだろう。彼女はどこか遠くの虚空を見つめるような表情を見せた後、自身の答えを静かに告げた。
「今回に限っては、私も同意するよ。ベラリーチェへ向けられた呪いも——そして恐らくロベルトの死も、全く同じ呪いによるもの」
ロベルトの死が呪いによるもの——記録によれば、彼の死もまたあまりに突発的であったとされている。——ベラリーチェと同じように。
「今回の魔術礼装は、呪いを基盤にして発動している。——でも、所構わず誰彼構わず呪われる訳じゃない。ベラリーチェもロベルトも、明確な共通点があるんだ」
ソフィアと周囲の使用人たちが、僕たちの専門的な話についていける筈もなく、ただ青褪めた顔で押し黙っていた。ソフィアはただただ、ヴェルターの横顔を見つめたままだ。
「……呪われていた、と……?」
「間違いなくね。言葉で説明するより一度見た方が早いと思う。ついでに四年前にハルトマン家が鉱山業を突如成功させた本当の理由も分かるよ」
まるで最初から全てを知っていたかのように滔々と話すシルフィに、僕は内心で小さな溜め息を吐いた。
リンが『ベラリーチェは呪いにより死んだ』と話した際、『感情的な背景が強すぎる以上は、客観的な判断がしにくい』と彼女は語っていたが、実際は彼女も全てを知った上での発言であった可能性さえあるのだ。
「ヴェルター、貴方も一緒に来てもらう」
「……はい」
ヴェルターは、シルフィの決定事項とも言える指示に静かに頷くだけだった。この諦めきった様子を見るに、逃亡の懸念はしなくてもよいだろう。
そもそもシルフィの速さから逃げられる人間など、そうそういないだろうが。
「……騎士様……! 私も、私も連れていってください!」
「ソフィア様……」
「駄目」
すがってくるソフィアの懇願を、シルフィは短く拒絶した。
シルフィの目指す場所は、恐らく魔術礼装が安置されている地下室なのだろう。魔術礼装が強い呪いを基盤にしたものである以上、相応の危険が伴う。
魔獣や目に見える物理的な脅威であれば剣で対処し、ソフィアを護衛することも可能だが……
残念ながら、呪いのような視認できない概念的な脅威は、自身ならともかく他者の身まで守りきれる保証がない。
シルフィという規格外の例外こそいるが、彼女は未だに対魔術礼装の結界を発動している最中だろうし、容疑者であるヴェルターの監視もある。
ソフィアを最後まで無事に守りきれる保証はない。情けない話だが、胸を張って『僕が貴女を守ります』とは口にできなかった。
「お願いいたします! 騎士様! 言うことは何でも聞きますから! 勝手な事も絶対にしません! ただ——」
「駄目だって。守りきれない」
「シルフィーネ様! どうか……!」
「ソフィア様……いけません……!」
尚もシルフィにすがりつこうとするソフィアを、ヴェルターが静かにたしなめる。ヴェルターとて、おどろおどろしい呪いを基盤にするような魔術礼装がある地下室へ、ソフィアを連れていきたいとは思っていない筈だ。
僕もその判断には同調していたため、ソフィアへ断りの言葉をかける……その前に。
「ヴェルターは魔術礼装の現在の所有者だから問題ないとして——ソフィア、君が地下室に降りたら間違いなく死ぬよ」
「……え? し、死ぬ……?」
唐突で容赦のない宣告に、ソフィアの威勢がぴたりと止まる。無理もない、地下室へ足を踏み入れるだけで明確に『死ぬ』と告げられたのだから。
「魔術師でない人間は空間に満ちる怨嗟の声や濁った魔力に耐えられない。呪い殺されたくなかったら、おとなしくここで待っていたほうがいい。今、地下のやつは大分活性化してるみたいだからね」
シルフィには魔術礼装の状態が肌で分かっているのか、その空色の瞳は真剣そのもので、いつもの軽い冗談などでは決してなかった。
「…………でも、私……!」
「……ソフィア様、どうかここでお待ちください」
「心配しなくても、すぐしょっぴいたりしないから。——大人しく抵抗しなければ、だけどね」
ヴェルターの静かな諫めと、シルフィの言葉の前にソフィアは僅かに戸惑いと恐れを見せた後、ゆっくりと力なく頷いた。
それを見届けると、シルフィは外へと通じる廊下へすたすたと歩みを進めていく。ヴェルターの行動を見張るのは僕の役目だと言わんばかりの慣れた足取りである。
「ヴェルター様、申し訳ないですが……」
「いえ、当然の処置でございます」
僕は一言断りを入れ《塑形魔術》により、冷たい硬質光の鎖を生成してヴェルターの片手首へ巻き付け、手枷のように拘束した。
万が一彼が逃亡を図ろうとすれば、この鎖を通じて過剰な魔力を一気に流し込み、昏倒させればいい。
ヴェルターは特に嫌がる様子もなく、その拘束を受け入れた。
まるで訪れる結末の全てを受け入れたかのような、静かな潔さでさえあった。
客間を立ち去るその最後の瞬間、彼が僅かにソフィアへ向けた視線に、僕は気付かないフリをして前を向いた。
◇ ◇ ◇
屋敷を出てしばらく急な山道を歩くと、やがてハルトマン家が保有する険しい鉱山の無骨な岩肌が見えてくる。
管理人に細かい詳細を伏せ——この時はヴェルターの片手に嵌めた拘束の鎖をケープで自然に隠しながら——中へ通してもらう。シルフィは初見とは思えないような足取りで、迷いなく淡々と険しい鉱山を登っていく。
明らかに事前に一度登って隠されたルートを確認しているかのような手慣れた歩調だ。
いつもの放浪癖の延長なので、ここで指摘したところで軽くあしらわれるのがオチなのは目に見えているため、僕は敢えて追及することはしなかった。
やがて、岩陰に巧妙に隠された地下室へ降りる階段と思わしき場所の前で、シルフィがぴたりと足を止めた。
「……まさか、ここが看破されるとは……一体どうやって……」
確かに、一目見ただけではそこが隠し通路や地下へ続く階段の類いだとは分からない。ヴェルターの当然の問いかけに対し、シルフィは『何を当たり前の事を』とでも言わんばかりの表情で言い放った。
「呪いが外までだだ漏れだよ。あとは、風が教えてくれるから」
「またそれですか……君のその妙な言い回しは一体何なんですか?」
「言葉通りの意味だけど?」
僕は彼女が普段から口にする『風が教えてくれる』という言葉を、文字通り鵜呑みにはしていなかった。
時々妙な詩的言い回しを繰り返すシルフィであるが、それは優れた魔力探知や独自の特殊な捜索技法による比喩なのだろう——と、そう納得させていたのだ。
だが、今のシルフィは冗談や嘘を吐いているようには到底見えず、またしても彼女の存在の謎が深まっただけだった。
「それより、ちゃんと魔力の防御をしておいて。ミカでも結構キツイと思うから」
シルフィの言う防御とは、空間を汚染する呪いに対する防御姿勢のことだろう。簡単に説明すると、呪いという魔力の歪んだ奔流に精神や肉体を呑まれないよう、自らの体内の魔力回路を限界まで活性化・巡化させて対抗することを指す。
僕は静かに頷き、彼女の指示通り自身の魔力回路を張り巡らせて防御体制を整えた。シルフィは僕の様子を確認すると、地下室へ通じる暗い階段へ躊躇いなく一歩を踏み出す。
彼女に続き、ヴェルターが慣れた動作で階段の深遠へと消えていく。僕も同じように闇の中へ足を進め、外の冷たく清らかな空気が届かない密閉された空間へと足を踏み入れた。
————次の瞬間。
————許せない、殺してやる、奪ってやる
————許せない、殺してやる、奪ってやる
————許せない、殺してやる、奪ってやる
脳内を暴力的に埋め尽くしたのは、凄惨な呪い——無数の怨嗟の声。
ドロドロとした怨念、絶たれた恩讐、激しい悲嘆、狂乱の怒り——
そして。
————どうして……どうして■■は……
混信した波長のように、上手く聞き取れない。ノイズに強くまみれたその声は、幼い子供の声でありながら、直感的に人間のものではないような、どこか浮世離れした神秘的な声色だった。
一瞬で強い吐き気を催すほどの凄まじい密度の呪いだ。幼少期に呪いに対する抗性鍛錬を叩き込まれていて本当に良かったと、今になって心底痛感した。
幼い頃は「二度とこんな地獄のような思いはしたくない」と嘆いたものだが——目の前の呪いは、あの訓練の比ではない。
一瞬でも気を抜けば、魂の意識ごと強引に持っていかれるのではないかと怯むほどの——
「ミカ、集中して」
脳内を激しく埋め尽くす呪いの怒号の中に、ひとつ、淡々と澄んだ一筋の声が混ざり込んだことで、混濁しかけていた僕の意識は、ようやく鳴りを潜めて正気を取り戻し始めた。
————どうして■……ん——は
脳内が冷徹な冷静さを取り戻す過程で、荒れ狂う呪いの言葉がただの雑音信号へと変わっていく頃、先ほど聞こえたノイズ混じりの幼い声が、明確に脳裏へと響き始める。
——どうして人間は
——わたしたちを裏切ったの……?
「………………」
それは、胸を抉られるほど切実な問いかけだった。先ほどまで響き渡っていた醜い呪詛の声とは、似ても似つかない澄み渡る声。
人間による裏切り——それがかつての遠い時代の人類か、はたまた現代に生きる人間が行った不義かは定かではない。
その声の問いかけは、僕の思考に静かに続いていた。
——何がいけなかったの?
——何か悪いことをしたの?
まるで、無垢で無知な幼子がおずおずと親へ問いかけるような——
——わたしたちは、君たちが大好きだったのに
——お願いだって、たくさん聞いたのに
——たくさん助け合って、仲良く生きてきたのに
——どうして
——どうして
——どうして
脳裏に直接流れ込んでくる言葉は、どれもどこまでも真剣で、どこまでも無垢な心そのものだった。
——見たいというから、見せてあげた
——欲しいというから、貸してあげた
——知りたいというから、教えてあげた
それは、どこまでも深く留まることを知らぬ人間の醜い欲望に、どこまでも純粋に応え続けた『ナニカ』の悲壮な叫び。
——なのに
——どうして、わたしたちの瞳を奪ったの?
——どうして、わたしたちの瞳をえぐり取ったの?
——どうして、わたしたちを……
——殺したの……?
「…………——これは」
無意識に前へと足を動かしていた僕は、靴底が何か固く乾いた物体に触れた音にハッとし、視線を音のした暗がりへと向けた。
——それは、白骨化した人体の骨だった。
ひとつ、ふたつではない。明らかに命を落とした複数の人間の骨と思われるものが、無残に幾つも地下室の石床に転がっていたのだ。
「行方不明者が出たって言ってたでしょ」
ふと、先を行くシルフィの声が上から降ってきた。僕はその言葉に、なんとか首を縦に振って同意を示すことに成功する。
「最初からこれほど呪いの効力が大きかった訳じゃない。長い時間が流れたからこそ、呪いも当時はそれほどの力を持っていなかった」
シルフィは淡々と事件の背景を説明するような静かな声色で続ける。その真実の一端を知るであろうヴェルターは、ただ静かに目を閉じて押し黙っているばかりだった。
「偶然……かはともかくとして、ロベルトは魔術礼装——《妖精の瞳》を見つけてしまったんだ」
「……妖精……?」
「そう、妖精。……大昔、人間が自らの欲望のために妖精を惨殺した。当然、殺戮された妖精たちは人間に強い恨みを抱き、絶望の呪いが生まれた」
——昔、ずっとずっと昔。
幼い頃、父上に語って聞かされた古い絵本の中に、まさにそんな残酷な話があった気がする。
確か、その絵本のタイトルは——
「君なら一度は聞いたことがあるかもね。『Perditio et desperatio vobis afferantur.』という、とある妖精が書いたとされる絵本だよ。内容は——まぁ、読んでいて気分のいいものじゃないけど」
古い言葉を直訳するならば、『滅亡と絶望があなた方に訪れますように(もたらされますように)』となる。
——幼少期、確かに読んでもらった鮮明な記憶がある。
可愛らしくメルヘンな挿し絵とは裏腹に、人間が妖精を凄惨に殺戮する悲劇の物語。序盤は互いに助け合いながらも、果てに妖精を裏切った強欲な人間の姿——。
何故、伝統ある魔術師の家系は、幼少期にこのような一見すると実用的な魔術とは何の関わりもなさそうな絵本を子供に読ませるのか? 単なる教養や歴史の嗜みのためなのか——?
気になった幼い僕は、確かに父上に直接尋ねたはずだ。
父上の答えは、確か——
脳の奥底にある古い記憶の断片を、手繰り寄せるように思い出していく。
——血の記憶を、決して忘れてはならないからだ。
——妖精を殺戮し、その万物を見通す瞳を惨く奪い去った人間とは——
——我ら現代に生きる魔術師の、祖に当たる人間たちの行いなのだから。
現在は魔術師としての道を歩んでいない僕も、元を正せば歴史あるファーレンガルドの家に生まれた人間だ。
つまり——かつて無垢な妖精たちを惨殺した殺戮者の末裔ということになる。
未だに脳内で荒れ狂い、響き渡る呪いの叫び声は、間違いなく今目の前にいる僕自身に向けられた殺意そのものだ。
罪悪感に言葉を失い立ち尽くす僕に、シルフィは前を向いたまま静かに言葉を続けた。
「一応補足しておくけど、妖精たちは魔術師と普通の人間の区別なんてついていないよ。残った魂の残骸や意識が希薄であるというのもそうだけど……当時の人間全員が妖精を惨殺したわけじゃないからね」
「ですが——」
「うん。種族としての罪の意識はあるだろうし、昔は明確に《魔術師》という区分が存在していた訳じゃない。妖精たちはただ『人間』という種族全体を恨んでいるんだ。——全く関わっていない後世の人間からしたら、たまったもんじゃない迷惑な話だけどさ」
僕の背負う重圧を少しでも減らそうとしてか、敢えて軽い口調で話すシルフィ。しかしその空色の瞳はどこまでも深く真剣で、はるか過去の悲劇を憂うような痛ましさがほんの束の間、垣間見えた。
再び静かに歩きだしたシルフィを追いかけて、地下室の深遠へと足を進める。奥へ進むにつれて、空間に満ちる呪いの声は強くなる一方だった。
シルフィは時折、何も言わずにふっと振り返る。その度、僕は『問題ない、耐えられる』という意味を込めて力強く頷く、という動作を繰り返した。
暗闇の中を体感にして五分ほど歩いた頃、僕たちはついに地下室の最奥地へと辿り着いた。周囲にはかつて鉱山関係で使われていたと思われる埃っぽい物資や、黄ばんだ古い書類が散乱しており——
「止まって」
静かな制止と共に、シルフィが鞘から抜刀した。洗練された鋭利な金属音が暗闇に響く。
部屋の中央に置かれた、分厚い土埃を被った木製の机。
その上に無造作に、ぽつんと置かれている禍々しい物体と——
不意に、瞳が合った。
「————あれ、が……?」
「《妖精の瞳》その瞳は万物を見通す力がある。ロベルトはその瞳——この魔術礼装を使って、この鉱山に眠っていた価値のある鉱石の類いを正確に掘り起こしたんだ」
『そうだよね?』と問いかけるようにヴェルターへ向けたシルフィの鋭い視線を受けて、彼は静かに頷いた。
「……はい。その礼装がいつからあの場所に安置されていたのかは分かりません。しかし四年前——ロベルト様がその礼装の力を用いて鉱山事業を行なっていたのは事実でございます」
ハルトマン家の鉱山業は、それまで平凡以下の功績しか残せていなかったと記録にある。実質的な莫大な利益を出し始めたのは、正しく四年前からだ。
領民も自分たちも生活に困らない程度の最低限の資金はあるが、決して贅沢はできない境遇から一転し、豪奢な屋敷を建て直せるほどの資金が突如として生み出された理由がこれだったのだ。
「でも、ロベルトの止まらない欲が、永き眠りについていた妖精の呪いを完全に呼び覚ましてしまった」
「……では、ロベルト様は」
「《妖精の瞳》を過度に行使し続けた結果、空間に満ちた呪いの影響を真っ先に強く受けたんだよ。ベラリーチェは……呪いに対する耐性が低かったのと、欲が強すぎたせいかな。直接行使してなくても、欲深い感情に大きく反応したんだと思う」
「『呪いよる死』というリン様の言い分は正しかった……と」
「まぁね。かつての殺戮の歴史から、妖精……いや、《妖精の瞳》は人間の欲に酷く敏感だった。『もっと資金を得たい』『もっと事業を成功させたい』という留まることのない欲。価値のある鉱脈を掘り当てる為に酷使して使い続けたんでしょ。何度も言うけれど、魔術師でもない普通の人間がこれほどの怨嗟の声に耐えられるはずがない。——皮肉なものだけどね、人間(魔術師)を深く怨んでいるのに、その魔術師の血を引く人間の方が多少なりとも呪いに耐性があるなんてさ」
「魔術師の家系は幼少期から、呪いに対する防御姿勢や魔力回路の扱いを厳しく教え込まれますから」
「それもあるけれど……根底にある血筋的に強いんだよ」
「血筋的?」
僕の知る限りの魔術知識では、そんな話は聞いたことがない。魔術師の家に生まれた人間は、幼少期に高度な魔術の鍛練より前に、まずは基礎となる耐性や知識を徹底的に叩き込まれるのだ。
だから抗性とは血筋というよりは後天的に育み獲得するものだと思っていた。体内の魔力回路の本数や性質による影響を考慮するなら「血筋」という表現もあながち間違いではないのかもしれないが——
「……人間はかつて、滅びの炎を受けたからね。血筋的に強いんだよ。その生き残りでも居たんでしょ」
どこかあっけらかんとした様子で語るシルフィに、僕は強い違和感を覚えた。いくらなんでも過去の、それも大昔の神話や伝承に些か詳しすぎる気がする。
王宮の禁書庫で古い本を読み漁ったという説もあるが、それにしてもあまりに具体的で、まるで当時の光景を自らの目で見てきたかのような——
「ともかく、あれは放置しておくと危険だから破壊——じゃなくて、無効化して持ち帰ろう」
「簡単に言いますね。そんな芸当が本当にできるんですか?」
正直に言えば、今の僕には近づくことすら困難なほどの密度だ。無理やり物理的に破壊すれば、呪いを撒き散らす元凶そのものを失くすことはできるだろうが……。
「できるよ。瞳だからね……一時的な失明だと思えば話は早い」
シルフィは視線だけの合図で僕に「その場から動くな」と伝えると、愛剣を手に《妖精の瞳》へと静かに歩み寄った。
卓上の瞳が自らの運命を察したかのように禍々しく反応し、ますます狂乱した呪いの声が地下室に吹き荒れる。保有者であるヴェルターには直接届いていないのか苦痛の表情は見られない。
この場で直接的な精神的実害を受けているのは、僕だけのようだった。
「…………っ!」
——許せない、殺してやる、奪ってやる!
——許せない、殺してやる、奪ってやる!!
——許せない、殺してやる、奪ってやる!!!
シルフィが一歩近づく度に、脳内を再び凄惨な怨嗟の声が埋め尽くしていく。
————愛していたのに。
しかし、荒れ狂う呪いの声の中に、負の感情とは明らかに異なる、どこか哀切を帯びた声が確かに聞こえた。
————愛していた、確かに君たちが大好きで、あんなにも愛おしかったのに。
「——だろうとも。深く愛しているが故に裏切られ、深い怨みを抱き、やがて悪意へと変わる。——悪意とは愛ゆえに生まれるもの」
幼い子供の声に応えるように、シルフィの返答が脳内ではなく、僕の耳へと直接届く感覚があった。
「縺翫@縺医※縺翫@縺医※」
「——好奇心か、あるいは欲望の果てか。君たちには人間を怒り、嘆き、その罪を問い、裁く十分な道理がある」
「繧キ繝ォ繝輔Α繝シ繝ャ、縺翫@縺医※!」
古代の失われた言語なのか、ノイズに強く混ざったその声は言語として意味を理解できない。だがシルフィには彼らの放つ言葉の意味が正確に理解できているのか、確かに会話が成立しているようだった。
「——人は時として恐ろしく欲深く、その好奇心には果てがない。——けれど、それでも」
「螟ァ螂ス縺阪↑縺ョ縺ォ……!」
「それでも、君たちは確かに人を愛したでしょう?」
その優しくも切ない問いかけと共に。
暗闇の中で、静かに銀と翠碧色で鮮やかに彩られた彼女の美しき愛剣が振るわれる。
物体を惨く切り裂き壊すためではなく。
ただ、荒れ狂う魂を優しい永遠の眠りへと導くような。
冷たくも温かい、一陣の優しい風が地下室を吹き抜けた。
◇ ◇ ◇
やがて脳裏を揺さぶっていた凄惨な呪いの声が遠く遠ざかったことで、僕はようやく途切れていた息を深く吐き出し、まともな呼吸を取り戻すことに成功する。
「お疲れ様。よく耐え抜いたね、ミカ」
「……他人事だと思って……こんなの、事前に聞いてませんよ」
「言ってないからね。仮に事前に伝えたところで、結果は何も変わりはしないんだから」
シルフィは脱け殻のように光を失い、ただの古びた球体へと変わり果てた《妖精の瞳》を懐に大事そうに仕舞うと、いつもの軽い口調で僕へ告げる。
「さ、戻ろう。事後処理の時間だ」
——屋敷へと戻る道中、僕は彼女の言った『事後処理』という言葉の本当の意味を深く考えていなかった。
犯人であるヴェルターを完全に拘束した後、王都から埋葬機関の検死官が到着するまで屋敷に滞在しなければならないな、とか、また提出すべき報告書の数が増えて面倒だな、などという呑気な感想を抱きながら、僕たちは静かに屋敷への道を戻っていった。
そして、屋敷の正面門の前に辿り着いた、まさにその時——
「ファーレンガルド伯爵様! 大変です!!」
門を固く守っていた守衛が、目を血走らせて慌てた様子でこちらへ駆け寄ってきた。彼の額にはびっしりと嫌な汗が滲んでおり、顔面蒼白で明らかに尋常ではない事態が起きたのは間違いない。
またエレナあたりが勝手な行動を起こして暴走でもしたのか——
「落ち着いてください。詳細の報告を」
「……はっ! そ、それが——レイモンド様が……お、お亡くなりに……!」
「……なっ! ……死因は!?」
流石に想定の範囲を遥かに超えた出来事だった。僕は続く守衛の取り乱した言葉に必死で耳を傾ける。地下での負荷のせいか、明らかに思考回路が鈍っていた。
「お、恐らくですが……劇薬か毒物の類いかと……! お側にいたメイドの証言では『お茶を一口飲んだ直後に倒れた』と……!」
「……時間はどのくらい前ですか?」
「た、たしか……十分ほど前かと……」
即効性の強い毒物か、それとも疑いを給仕したメイドへ向けさせるための綿密な工作なのか。僕は一瞬で思考を巡らせ、隣で拘束されているヴェルターへと視線を向け——
「ふふ……良かったです。彼女、上手く淹れてくれたようですね」
——男は、暗く嗤っていた。
それは間違いなく、自らが事前に裏で仕掛けた凄惨な計画が、思惑通り完璧に運んだことに対する歪んだ喜び
——そして。
「あの男……以前からソフィア様に対して汚らわしい関係を執拗に迫っていたんです。父親であるロベルト様の腐った血が、しっかり受け継がれているでしょう? ——本当は、最初にあの男を殺してやりたかった……!」
そこにいたのは、僕の知っている生真面目で礼儀正しかった執事の面影など、どこにも残っていない一人の復讐鬼だった。
「ヴェルター様、貴方は……! 無関係なメイドの手まで使って……!」
「……許せなかった!!!」
「………………ミカ」
感情を高ぶらせる僕をたしなめるように、シルフィの静かな声が響く。だが、それでもやはり僕の胸の奥からは強い憤りが込み上げてきた。
だが、ここでヴェルターと同じように感情的になって叫んでも何ひとつ解決はしない。僕は拳を強く握りしめ、なんとか溢れ出そうになる感情を抑え込むことに成功する。
——そのすべてを、消化しきれたわけではなかったが。
「あの頃から、この屋敷の人間どもは何も変わっちゃいないんだ!! あの不憫な娘が一体何をしたと言うのです!? 養子などではない……ソフィア様は——ソフィアは! アンナの正当な娘だ! 正当なハルトマン家の血を引く人間なんだ!! それなのに……あの外道共は……!!」
守衛は、かつての温厚だったヴェルターとはかけ離れた凄惨な姿に絶句し、ただただ立ち尽くしている。
ヴェルターはかつて命を賭して仕えたはずのハルトマン家に、強烈な悪意と憎悪を向け続けていた。
昔は確かな忠義があったのだろう。深い忠誠心がなければ、伯爵家の執事など務まるはずがないのだから。
「本来なら、ハルトマン家の令嬢として正当で気品ある扱いを受けるべきお方なのに……! なぜ……何故こんな扱いを受けなければならない……!!?」
男の口から吐き出される言葉は、どれも惨憺たる悲痛に満ちた疑問だった。それは先ほど地下で聞いた、虐殺された妖精たちの哀酷な疑問の声に、僅かに重なって聞こえた。
——もしかしたら、《妖精の瞳》はヴェルターのこの暗く根深い復讐心に、僅かに共感して力を貸したのかもしれない。
推測の域を出ない、もはや事実を確かめることも叶わない虚しい話ではあるが。
「毎日、毎日、陰で貶され、いわれのない理不尽な暴言を投げかけられる……! ソフィアは慎ましく生きているだけだ! 懸命に生きているだけだというのに……!! それなのに!!」
「だから殺したって? ——それを、一体誰が望んだ?」
それは、冷たく研ぎ澄まされた刃のような切り返しだった。
捲し立てるように憎悪を吐き出していたヴェルターが、一瞬で言葉を失い息を飲んだほどの重圧。
「ソフィアが貴方に『あの男たちを殺してくれ』と頼んだ? それとも亡くなったアンナが夢の中にでも現れて『あの子を助けて』とでも言ったの?」
「……許せなかった……! 私は……どうしても許せなかったんだ!!」
「ただの自己満足でしょ、それ。貴方が殺人で罪人になって消えたら、ソフィアはこの先ずっと一人きりだよ。味方が一人もいないまま、誰もいない屋敷で寂しく生きていくことになるかもしれない」
「…………それ、は……でも……!」
「後ろ楯を完全に失くした若い女性の悲惨な行く末を、長年執事をやってきた貴方が知らない筈がないでしょ。——貴方は突き進むべきじゃなかった。一度立ち止まって、後ろを振り返るべきだったんだよ」
「……っ!! アンナ……アンナ……! 私は……おれは……一体どうすれば、よか……った……?」
手首の鎖を濡らす涙混じりの男の哭泣に応える者は、もうここには誰もいなかった。
ひとしきり、冷たくも切ない風が僕たちの間を吹き抜けた後。
————長きにわたってフォグワース村を深く包み込んでいた重い霧が、ようやく静かに晴れ始めていた。
◇ ◇ ◇
その後は、まるで定められた手順をなぞるように流れるような速さで事後処理が行なわれた。
冷たくなったレイモンドの遺体を実兄であるヘンゼルの横に静かに並べ終えたところで、王都から理葬機関の専門の検死官が到着し、僕たちは現場と容疑者の引き継ぎを滞りなく完了させた。
あまりにも短い間に、様々な不測の事態や衝撃的な出来事が起こりすぎた。たしかめるべき多くの謎も、確認すべき事項も山積みで残っている。
ただ、今は酷使した思考を一度完全に切り替えることが叶わず、僕は冷たい外の空気を吸うために、すっかり闇に包まれた庭園へと静かに歩みを進めた。
時刻はすでに午後二十二時を大きく過ぎている。
魔力回路を普段以上に行使した反動と負荷のせいもあり、少しの仮眠のつもりで横になったつもりが、予定よりも遥かに長く眠りこけてしまっていたからである。
シルフィにはまだ直接聞き出さなくてはならない重要事項が残っているというのに、当の彼女は僕に答えるつもりなど毛頭ないのか、気配すら感じさせずどこかへ消えていた。
かつてアンナが丹精込めて世話をしていたという手入れの行き届いた庭を、気分転換のつもりでゆっくりと歩いて——。
——その瞬間、鋭い殺気を肌で感じ取った。
人間の背丈ほどに死角となった伸びた草木の暗い影。呼吸は極限まで殺しているようだが、間違いなく誰かがそこに潜んでいる——
「……そこの方、それで隠れているつもりですか?」
腰に差した愛剣の柄にそっと手を添えたまま、僕は気配を消そうと潜む相手へ向けて、静かな問いを飛ばした。
数秒の重苦しい沈黙の後、身を隠していた人物は諦めたように深く息を吐きながら、ヌッと暗がりから姿を現した。
「あー……クッソ。隠れ方としては悪くねぇと思ったんだけどなぁ……」
舌打ち交じりの軽い口調。身軽さを重視した軽量の戦闘装備——
夜闇に浮かび上がる白い髪に、不気味に発光する紅い瞳——間違いなく、過剰な強化麻薬の影響を受けたイルシオン帝国の暗殺兵に他ならなかった。
「イルシオンの暗殺兵が、こんな場所で一体何をしているんですか?」
「何も?——と言いたいところだが、あんたらのお陰でこの腐った田舎の退屈な任務からおさらばできるんだし、せっかくだから冥土の土産に教えてやるよ」
ニヤニヤと不敵な余裕を崩さない男——おそらく識別年齢は十七、十八前後だろう。麻薬による異常な肉体強化も相まって、直接的な力勝負になった場合、筋力差は絶大だ。
僕は瞬時に魔力回路を体内に通し、《強化魔術》によって自らの肉体強化を試みた。
「それは是非、お聞かせ願いたいですね。——しかるべき牢の中で伺うことになりますけど」
「……へぇ?——ま、いいや、今回の俺の任務はさ、あんたらが無事回収してくれたあの礼装の実験結果の記録と、上への伝達だ。長かったぜ? 前任者と……あれ? その前の奴もだっけ?」
強化麻薬の副作用のせいで記憶があやふやになっているのか、過去の記憶が上手く定まらないらしい。
混濁した紅い目は焦点が定まっていないが、構える戦闘態勢の無駄の無さを見るに、暗殺者としてそれなりに動ける手練れであるらしい。
「まぁ、なんでもいっか! ともかく、観察対象の実験体が消えたんじゃ俺もお役御免だ。けどさ、それなりに貴重な魔術礼装が消えたとなれば、皇帝陛下のお気に入りであるエインズワース様が大層お怒りになる。それはいけない——つーわけでさ」
『エインズワース』という耳慣れない言葉が胸に引っかかるが、男はどうやら王国の騎士である僕の首を討ち取って持ち帰り、実験対象の紛失による自身の大きな失態を取り戻すつもりらしい。
もちろん、そんな勝手な企みに貢献してやる気など毛頭ないので、当たり前に抗うことにする。
「——しっかし、あそこは完全に死角だったんだがなぁ……!? あんた、ただの勘で気付いたのか!? キモすぎんだろ!!?」
その苛立ち交じりの叫びと共に、男は腰の長剣を一瞬で抜き放つと、爆発的な踏み込みで一気に間合いを詰めてきた。
男の放った剣の鋭い切っ先は僕の心臓——ではなく、首の頚動脈部分を確実に切り裂こうと狙っていることが明白だった。
——相手が何処を狙っているか分かるんですか、団長?
——分かるさ。慣れればお前にも当たり前にできるようになる。
——慣れれば、と言われましても……もっと具体的な言葉でお願いします。
——ははっ! 悪い、悪い。じゃあ基本中の基本から教えよう。
————殺気だ。未熟な兵こそ、攻撃の瞬間に容易にそれを向けてくる。まずは肌でその視線と殺意を感じ取れるようになれ。話はそれからだ。
かつての修行の日々、師である騎士団長・ロディ=グランベルクから受けた過去の教えが、疾風のように脳裏を駆け抜ける。
「シャアアッ!!」
甲高い怪しい叫び声と共に、暗殺者の刃が僕の首元へと容赦なく迫る。
だがそれよりも早く、我が流派——《ヴァルンクラッド流》の最速の居合いが鞘を走り、相手の剣を正確に下から受け止めた。
刃と刃が激しく激突し、乾いた甲高き金属音が静まり返った暗い庭園に響き渡る。
手首に伝わる剣の重みは想定より軽かった——どうやら事前に施した《強化魔術》の効果が正確に機能しているらしい。
初撃を易々と阻まれたことで酷く苛立ったのか、男は間髪入れずに畳み掛けるような突きと斬撃の嵐を放ってくる。
僕はその鋭い攻撃を僅かに体を左へ傾けるだけで、最小限の動きで剣先を交わす。
麻薬による興奮と苛立ちが上がり続けているのか、次第に単調な動きや強引な大振りの斬撃が目立ち始めていた。
ここまで僕は様子見に徹し、無理な反撃はせず徹底した回避と防御で相手の筋力と動きを観察してきた。
踏み込みとバックステップ、軽快な前転、時には刃の腹で受け止める。
最初は僕が恐怖で逃げ回っているとでも思っていたのか、男の口許には下品な余裕の笑みが浮かんでいたが、今ではその笑みは完全に消え去り、余裕どころか著しく冷静さを欠いていた。
強化麻薬は投与された者の腕力や速度を跳ね上げるが、その実、極限の戦闘に必要不可欠な冷徹な思考力を根こそぎ奪ってしまう諸刃の刃だ。
頭ごなしの力任せの暴力だけで戦闘を解決できる状況があるとすれば、それは相手より自身の実力が圧倒的に上回っている場合のみ。
「シャッアアッ!!!」
それは、あまりにも圧倒的な隙だった。
焦りに満ちた相手の剣先は軸がブレブレで、そのくせ抑えきれない殺気は隠してすらいない。少し様子見のつもりで動いていたが、これなら念を入れて慎重に踏み込みの回数を減らすまでもなかった。
間違いなく我が師がこの稚拙な戦闘を見ていたら、改善点の指摘は四や五では到底きかないかもしれない。
「——チッ!! くそったれ!! この——」
我慢の限界と言わんばかりに、先ほどまでの比ではない速度と深い踏み込みを見せる暗殺者。
——だが、相手の剣が大振りの横斬りを放つ、まさにその直前。
「——……ガッ!? な、——う……そ、だ……ろ?」
男の振りかぶった右腕の手首へ、僕は《強化魔術》を極限まで乗せた渾身の拳を思い切り叩き付けた。剣ではなく、予想外の至近距離からの体術による不可避の一撃。
男は驚愕の声を漏らし、苦悶の呻きを上げて態勢を大きく崩した。
「——ハハッ……マジかよ。笑えねぇ……ここで、終わりかよ……俺は、まだ——」
最後まで敵の言葉を聞くつもりなどない。油断を誘い隙を突いて新たな反撃に転じるのは、イルシオン兵の常套手段であり独壇場だ。
そこに一切の甘さや慈悲を持ち込む余裕などない。
僕は戦闘が始まって初めて、明確に相手の首を絶ち斬る意図を込めて、愛剣を鋭く振り下ろした。
——その振り下ろされた澄んだ刃は、自分でも『上手くできた』と自画自賛してしまうくらいに滑らかに、綺麗に相手の首を落としていた。
鮮血が静かな庭園の草木を赤く濡らし、空に浮かぶ月の冷たい光が、僕の手にとどめた罪を静かに照らし出す。
——僕が自らの手で人を殺したのは、実に二日ぶりのことだった。
◇ ◇ ◇
王宮本棟の最上階付近、広大な天空に突き出すように聳え立つ独立構造の巨大な別塔。
最上階の空中回廊を唯一の連絡路とし、常に雲間に近い高所に|《星の塔》《アスター》は静かに位置している。
「おかえり。今回は中々興味深い事案だったみたいだね」
聞き慣れた馴染み深い声に温かく出迎えられ、私はゆっくりと顔を上げた。
彼がわざわざ空中回廊の入口まで出迎えてくれるのは実に珍しい。そんなぼんやりとした思考のまま、私は彼の出迎える声に短く答えた。
「ただいま、……まぁ、確かに興味深くはあったけど、今は最高に最悪の気分」
「顔を見ればだいたい分かるよ。……で、それどうするの?」
彼が視線で細い指をさしたのは、間違いなく今回の任務の最大の目玉——……つまらない冗談っぽくなってしまったが、これが偶然の産物であることはしっかりと明言しておきたい——である《妖精の瞳》を示していた。
「そうだなぁ……シリウスはいる?」
「いるよ。さっき盛大に怒られてたけど」
「なんで?」
「サラの大事な研究レポートの上に、酒を盛大にこぼしたからだよ」
「…………盛大にやらかしたな」
「派手なやらかしだねぇ」
そんな、いつも通りの気取らない会話を楽しみながら、私たちは静かに塔の内部へと足を踏み入れる。たったそれだけで張り詰めていた心がすっと落ち着くのだから、私も大概この場所に依存しているのだろう。
「だーかーら!! いつも口酸っぱく言ってるでしょ!? ここで酒盛りなんかしないで!って!!」
「別にいいだろ? ボクはつまんない奴らの頭の堅いレポートの見すぎで疲れ切ってんの」
「あたしの知ったことじゃないわよ! アルト! アンタまで一緒になって何をしてるのよ!!」
「たまには羽目を外すのもいいかなって。今日は通りすがりに運悪く爆発事故に巻き込まれてね、貴重な研究の時間がごっそり削られちゃったんだ」
「まーたベルカンプの間抜けか」
「そうとも言うね」
普段は各自が好き好きに思い思いの時間を過ごしている広い広間には、大理石の机の上に酒瓶が凄まじい惨状で散乱しており、サラが顔を真っ赤にして激怒していた。
幸いと言っていいかは不明だが、騒ぎの仲裁役筆頭であるフリンズたちの姿はここには見当たらない。
「もう!! 本当に——あ、シルフィ! 聞いてよ!コイツら、またやったのよ!!」
「さっき入口で話を聞いたよ。御愁傷様」
「サラがそんな場所に置いたままにしておくのがダメなんだよ。大事な物はちゃんと鍵をかけて仕舞わないと」
「だってさ、サラ」
「いい加減にしなさい! シリウス! 大体ね、部屋の端っこに酒瓶が飛んでくるなんて誰も思わないでしょ!? この部屋、無駄に広いんだから!!」
確かにこの部屋は、総勢十二人しか住んでいない拠点にしては無駄に広すぎるかもしれない。
「だからちゃんと謝っただろ? ごめんって」
「僕はこうして無駄口を叩いている間に、さっさと研究レポートを書き直して仕上げるべきだと忠告しておくよ」
「こっの!!! 言わせておけばー!!!」
「落ち着いてサラ、血圧が……」
「上がるわけないでしょ! シリウスとアルトに次いで、アンタまであたしを本気で怒らせるつもり!?」
耳に馴染んだいつもの冗談まじりの喧噪を聞き流しながら、私は座り込むシリウスの目の前に、事もなげに《妖精の瞳》をゴトンと置いた。
「……よくこんな代物を見つけてきたな。状態が頗る良い」
「つい最近まで、しっかり現役で動いていたからね。——それ、あげるよ」
「お、いいのか? んじゃ、ありがたく——」
実に嬉しそうな笑みを浮かべ、速やかに手を伸ばすシリウス。だが無償で譲るというわけにもいかない。彼だってそんな甘い話がないことくらい分かっている筈である。
「その代わり、ちゃんと隅々まで調べておいてよね。来るべき時の為に情報は必要でしょ?」
「……だよな。ま、いいよ、等価交換は魔術師の基本だからな」
その言葉と同時に、シリウスは今度こそしっかりと魔術礼装を受け取った。
「——妖精ね。あのくだらない昔の絵本を思い出すわ」
「……妖精……——あぁ、あれね」
「シリウスには耳の痛い話じゃないのかい?」
アルトの含みのある問いかけに対し、手元の魔術礼装を興味深そうに検分していたシリウスは、いつものように素っ気なく答えた。
「人間だった頃は、な。今のボクにはそんな粗末事はどうでもいい」
信頼する同胞たちの心地よい声を全身に浴びながら、私は溜まった疲れを吹き飛ばす安眠を貪る為に、窓際に置かれた柔らかなソファに力無く寝転がった。
心地よい静けさと温もりに包まれ、すぐに深い眠りが訪れる——。
後に風の噂で聞いた話だが、拘束されたヴェルターはしかるべき相応の罰を受け、ハルトマン家はジュリアンが新たな当主になり、エレナは夫の後を追うようにして自害したらしい。
ソフィアはハルトマン家を静かに去ったらしいが——
詳しいその後の話までは聞いていない。
——十二勇士は個人の問題には関わらない。
これ以上の無駄な詮索も、思考を割く必要もどこにもない。
――結末に興味は微塵も無い。
今回のお話で途中、文字化けがございます
文字化け変換ツールを使えば隠された言葉をご覧いただけます。気になった方は是非…!
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




