フォグワースの哀歌は響かない 中編
この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨
本来なら二部構成のつもりでしたが、『あれ……?これ終わらせるの無理では?』となり、中編になりました。
いつもの事ながら、稚拙な描写や説明口調な表現が多く含まれます。それでも楽しんでいただければ、幸いです。
魔導灯の僅かな光と窓から差し込む青白い月光が、現場の残酷な惨劇を陰鬱に照らし出している。
ソフィアがヘンゼルの死に怯えながらも逃げずに現れたことで、彼女を犯人だと決めつけていた当主候補たちは気圧されたように押し黙る他なかった。
僕はポケットから金の懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けて刻限を確認する。
長針と短針が示す時刻は——午後十二時二十一分。
死体が発見されたのは、先程悲鳴が上がったのとほぼ同時だと推測する。
仮にクララかエレナが犯人だった場合、夫や兄を殺してすぐに自ら悲鳴を上げて人に知らせるというのはあまりに不自然だ。
犯行後に証拠を隠滅する時間などほぼ無かったはずだし、クララはともかく——夫を心から愛しているように見えるエレナに至っては殺害の動機は考えにくい。
加えてヘンゼルの死体には現状確認できるだけで、いくつもの不可解な点が残されていた。
胸の傷だけでなく頭部から流れる黒く変色した血。これは単なる刃物による殺傷ではない。
「……どうしてヘンゼル兄さんが……この中の誰かが殺したのか……!?」
「で、でも……! 何故!? まさか当主の座を争っていたという理由だけで殺したというのか!!?」
レイモンドとジュリアンが動揺と困惑——そして顔を歪ませた悲痛な面持ちで、兄の殺害の理由を探り始めた。
捲し立てる会話の内容こそ当主争いという醜い疑惑に傾いているが、その震える声からは、血を分けた兄——ヘンゼルの突然の死を心から悼んでいることが伝わってきた。
彼らは激しく言葉を交わしながらも、冷たくなりゆく兄の亡骸の前で胸に深く十字を切った。
「……だとしたら、一番怪しいのはジュリアンじゃない!!」
同じように三女神に祈りを捧げていたはずのクララが甲高い声で叫んだ。それが、後に互いへ暗い疑惑を向け合うことになる邪推の始まりであった。
「は!? 僕……!? 言いがかりは止めてくれよ!! 何故当主になるために僕が兄さんを殺さなきゃいけないんだ!!」
「だって兄さんがいなくなれば、ジュリアンが次期当主の第一有力候補じゃない!」
「だ、だからといって……!!」
本来、貴族家庭において家督を継ぐのは長男である。
先代当主ロベルトが急死したため遺言書も指名もなく、正式な家督継承手続きは行われていなかったが、順当にいけば次の当主はヘンゼルで相違なかったはずだ。
口では『自分こそが次期当主だ』と強気に語っていたクララやジュリアンも、心底では次の当主は当然ヘンゼルなのだと理解していたのだろう。
その証拠が、今しがた焦りから口をついて出た言葉なのだ。
したがってヘンゼルが消えた現在、最も利益を得るのは次男であるジュリアンだというクララの推測もあながち間違いではないのだが——
「……どうかな。オレは姉さんが一番怪しいと思ってるけどね」
「……なんですって!?」
「考えてもみてよ。そうやってジュリアン兄さんに罪を擦り付ける気だったんじゃない? 『兄さんがいなくなればジュリアンが次期当主の有力候補』なんだろ?」
「レイモンド……!! アンタね!!」
もはや兄の死を静かに悼む気持ちすら薄れ始め、誰かを犯人と決めつけて安心したいと言わんばかりの醜い論争が始まってしまった。
血縁者でさえ容赦なく疑うその背後には、強烈な焦りと恐怖が透けて見えた。
それもそのはずで、真犯人が判明しなければ今後『次の犠牲者』になるのは自分かもしれないのだから。
「……静かにして。死者を悼むことさえできないの?」
少女の無機質でどこか透き通った声が、ひやりと冷たい廊下に響いた。
その絶対的な冷気を孕んだ静寂により、言い争っていた当主候補たちの声がピタリと止まる。
「—— 一先ず、各々自室に戻って下さい」
「…………お嬢様、他の皆様もどうかお部屋へ……」
ヴェルターの絞り出すような促しに、当主候補たちは互いに牽制し合うような不安げな面持ちをしながらも頷き、重い足取りでとぼとぼと歩き出す。
だが数歩進んだところでゆっくりと振り返り——
「————っ! 兄さん……」
「…………」
「——……あぁ、どうしてこんなことに……」
去り際の横顔には言い争いの愚かさを恥じるような後悔と、深い悲しみが残されていた。
クララたちが去り、静まり返った廊下でヴェルターに促されたソフィアがヘンゼルの遺体に静かに十字を切り、自室へ歩き出そうとした——その刹那。
「…………——し」
「……え?」
掠れて上手く聞き取れなかったのだろう、ソフィアは声が発せられた方——未だに床に膝をつき、項垂れながら夫の亡骸をボーッと見つめていたエレナへ視線を向けた。
幾度となく極限の隠密・偵察任務と凄惨な戦場を駆け巡ってきた経験からか、元来耳が鋭かったせいか、僕の耳にはしっかりと先程の彼女の掠れた言葉が届いていた。
————人殺し、と。
「——あなたが、あなたが殺したのよ……!」
「ま、待って下さい!! 私は殺してなんて——」
ソフィアの痛々しい弁解は愛する夫を惨殺され、悲しみで正気を失っているエレナには届かない。
エレナは狂ったように涙を流して叫んだ。それはソフィアこそが愛する夫を奪った張本人だと、問答無用で断罪するかのような怒号。
理性を失い、論理ではなく『一番動機があると思いたい相手』へ自らの憎悪と恐怖をぶつけるような咎め方であった。
「人殺し!! 返して!! ヘンゼルを——私の夫を返してよ!!!」
「エレナ様、落ち着いてください! ソフィアお嬢様はそのようなことをする御方ではありません!!」
ヴェルターの必死の擁護すら、今のエレナには届かない。尚も爪を立てる勢いでソフィアを責め立てる。
これ以上の詰問はソフィアがあまりに不憫だと判断した僕は、その間へと静かに割り込んだ。
「エレナ様、まだソフィア様が犯人だと決まったわけではありません。現場の証拠も不十分です。——ここは我々にお任せ下さい。最善を尽くします」
「——返して……わた、しの……——ヘンゼル……!!」
「彼女を部屋に送ってあげて」
シルフィが近くで呆然としていた使用人の一人へ静かに声をかけた。
声をかけられた四十代前後と思われるハウスメイドは、弾かれたように頭を下げる。
エレナの震える肩を労わるようにそっと抱きかかえ、廊下の奥へと歩行を促した。
エレナは未だにうわ言のように夫の名を呟いてはいたものの、昔から顔馴染みのあるメイドだったからか、なんとか爆発的な混乱からは持ち直したようだった。
夜がどこまでも深まり、窓から差し込む月の位置が緩やかに変わっていく。
ハルトマン伯爵家のとある突然の死を境界線として、冷たく歪んだ『呪い』の気配は静かに、確実にこの屋敷全体を侵食し始めていた————。
◇ ◇ ◇
周囲から人の気配が完全に消え去ったことを確認した僕は執務室の中、椅子に倒れ込むようにして息絶えていたヘンゼルへと近づいた。
死体検分と本格的な現場調査に取りかかる前に、死者への最小限の弔いと悼む気持ちを込めて、胸の前で深く十字を切る。
隣では同じように十字を切り終えたシルフィが、何処から調達したのか革手袋を片方投げてきたので、僕はそれを反射的に受け止めた。
悲鳴を聞いて自室から飛び出してきた為、手袋等の仕事道具は用意された部屋に置いてきてしまっていたのだが、これで取りに行く手間が省けた。
「死因は頭部を強打されたことによる、外傷性脳損傷……頭部打撲。血が黒く変色してることから考えて、死亡推定時刻は八時~十時前後ってところかな」
僕はシルフィの言葉に同意しながらも、ヘンゼルの頭部を注意深く観察した。
血液は体外に流出して酸素に触れ、時間の経過と共に酸化して暗赤色から黒褐色へと凝固・乾燥していく。
頭部の痛々しい損傷具合と付着している血液の乾燥状態から見ても、たった今殺害されたというわけではないのは明白だった。
次に心臓付近へと視線を落とす。死後に刺されたからだろう、傷口から溢れ出ている新鮮な血の量が明らかに少なすぎる。
人間は息絶えて心臓が停止すると血圧がゼロになるため、死後に刃物で刺した傷からは血が勢いよく噴き出さず、傷口からダラダラと垂れる程度に留まるのだ。
やはり胸に深々と刺さった短剣による傷は直接の致命傷ではない。
「十中八九、犯行時刻を誤認させるための偽装工作だろうけど……それにしては雑過ぎる。頭部からの出血の変色具合で、刻限の違いなんてすぐ分かるでしょ」
「はい。胸を刺されたショックで吐血したにしては、血が喉の奥からではなく口内から垂れている。加えて、胸の血液とは色が明らかに違う。頭蓋骨骨折や内頭蓋出血を起こした際に口から漏れ出たものでしょう」
加えて着目するべきは、胸の傷口に見られる『生活反応』の無さだろう。
生きている人間が刺されれば心臓のポンプ機能と血流によって傷口の周りが大きく腫れ、皮下出血を引き起こして激しく出血する。
死後に刺された傷は「ただ肉が切れただけ」であり、傷口の周囲が極めて静かなのだ。
「胸を短剣で一突きにされたなら、本来ならもっと大量の血が吹き散るはずです。それなのに、血の広がり方が静かすぎる……彼は刺される前に、既に息絶えています」
「だろうね。でも、何故息絶えた後にわざわざ短剣で胸を突き刺す必要があったのか?」
シルフィの抱いた疑問には僕も概ね同意だが、強いて関連付けるとするなら——
「恐らく、犯人は彼に対して相当な恨みがあったのではないでしょうか。頭部を強打して殺害するだけでは飽き足らず、死体となった後も心臓を突き刺さずにはいられないほどの怨恨。現に、頭部の打撃痕も一度や二度ではありません」
ヘンゼルの頭部には、鈍器のような重厚な物体で何度も執拗に殴りつけられた痕跡が確認できた。
相当な力で殴打したのだろう、頭骨の損傷は極めて激しい。
この暴力性から考えても、犯人は体格のしっかりした男である可能性が高くなった。
本来なら強化魔術で筋力を一時的に底上げしている可能性も加味しなければならないが、昼間に庭でシルフィが口にしていた言葉を思い出す。
『呪いの耐性だよ。呪いは魔術の基礎。でも魔術師じゃない人間は、その怨嗟の声に耐えられない』
あの言葉から推察するに、この屋敷には正規の魔術師は存在しないようだ。とすれば、魔術を行使した特殊な犯行方法をわざわざ考慮する必要はなくなる。
「恨みか。家督継承のいざこざが、そこまでの殺害動機になるのかな? ——ねぇ、ミカだったらどう思う?」
「何が、ですか?」
彼女の瞳は僕の方を向いておらず、その淡い空色はヘンゼルの遺体へ向けられていた。
いつものことなのでもう慣れてしまったものの、質問を投げかける一瞬くらいはこちらに視線を向けてほしいものである。
「君に兄がいたとして、家督継承のために人を殺そうとするのか、って話」
その声は至極真剣だったが、相変わらず視線はヘンゼルの懐を探っている。
ポケットなどからは万年筆や数枚の小銭が出てくるばかりで、これといって決定的な重要書類や所持品は見つからないようだった。
「さぁ、どうでしょうね。そもそも僕は家を継ぐ気がありませんので、参考にはならないかと」
「……え、初耳なんだけど」
どうやら本当に初耳だったらしく、驚いた声色と共にシルフィの視線がまっすぐに僕へと向けられた。
その様子に——理由は自分でも上手く説明できないが、微かな満足感を覚えてしまう。
「……僕は家を継ぎませんよ。家督は弟のミハイルに譲るつもりです」
「えぇ……いや、本人の自由だけどさ。普通は嫡子が家督を継承するものじゃないの?」
「ええ。普通は」
「何で継がないの? 充分当主としての資格も能力もあるのに」
珍しく彼女が深い興味を示す話題だったらしい。
確かに振り返ってみれば、こうした自分自身の将来についての明確な会話を彼女としたのは初めてだったかもしれない。
特段避けていた話題というわけでもなく、ただ単に話すきっかけがなかっただけなのだが。
「僕はもう魔術師ではありませんし、何より騎士ですから」
「理由になってない気がする……そもそも、婚約者もまだ決まってなかったんだ……」
そのポツリと漏らされた発言から、やはり彼女の記憶からは過去の多くの出来事が欠落しているのだと痛感させられる。
胸の奥に小さな寂しさと、言い知れぬ疎外感が込み上げてくるのを感じつつも——僕はそれを一切表情に出すことはなかった。
「……比較的、公言はしているつもりなんですがね……実家に帰るたびに両親からお見合いの打診状の束を渡されますよ。全て丁重にお断りするように頼んでいますけれど」
「ふぅん、伯爵様も大変なんだなぁ………」
僕の回答にひとまず満足したのか、彼女の瞳は再びヘンゼルの亡骸へと戻ってしまった。
どこか他人事であり、共に過ごした記憶や過去を綺麗に忘れてしまっている彼女に、何か——名前の分からない切ない感情が芽生えた気がする。
もう少しくらいこの手の会話を続けるべきだったろうか、などという柄にもない思考にまで陥ってしまい——目の前の調査に集中するべく、僕も彼女と同様に冷たい亡骸に変わり果てたヘンゼルへと視線を戻した。
死への恐怖と苦痛に見開かれたままの彼の瞼を、手袋越しにそっと撫で下ろし、静かに閉じさせながら。
◇ ◇ ◇
一通りの死体検分を終え、僕は次に執務室の机上を確認する。
木机の上には散乱した税金報告書類や、何者かと激しく争ったような形跡こそ残されているものの、どこか作為的な違和感を覚えた。
「……修正されてないし」
散乱した税金報告書を一枚手に取ったシルフィが、そこに記載された数字を確認して顔を顰めた。
確かに机上に置かれている書類は散らかっている——が。
「……争ったような形跡こそありますが、見せかけだけのようですね」
本当に犯人と被害者が争い、揉み合ったのだとすれば他の場所も同様に荒らされた形跡が残っていてもおかしくはない。
だが部屋の他部分はあまりに綺麗過ぎるのだ。
この執務室には高級そうな本棚やソファなどの家具、装飾品が多く配置されている。
それらの配置には乱れがほとんどなく、壁や調度品へのわずかな返り血すら存在しない。
犯人が焦っていたのか、それとも他に理由があるのかは定かではないが、頭部の激しい損傷と黒く変色した血液から鑑みても——別の場所で殺害され、執務室に運び込まれた——と考えるのが妥当だろう。
「……ミカ」
不意に絨毯に視線を落としていたシルフィが僕の名を呼んだことで、思考を中断した。どうやら彼女も何かを見つけたらしい。
「……何か——重いものを引きずった跡のようですね。車輪の小さな傷と、絨毯の毛足が潰れています……大型のリネンカートのような」
「多分、その見解で合ってる。給仕用の小さなサービストロリーじゃ壊れちゃうだろうけど、洗濯物を運ぶ深型のリネンカートなら……成人男性の遺体を入れてシーツを被せれば、運搬自体は可能でしょ?」
「しかし、夜間とはいえ他人に目撃される可能性があります。成人男性の遺体はかなりの重さでしょうし、何より不自然で怪しすぎます」
犯行推定時刻が八時~十時だとすると、屋敷の使用人たちの労働時間内だ。
いくら他の貴族館に比べて使用人の数が少ないとはいえ、廊下等で目撃されれば一発で怪しまれる。
「偶々偶然……って線はなし?」
「なしです。犯人がそんな考え無しの愚者だというのなら、犯行時刻を誤認させるための胸への刺創といった偽装工作などしないでしょう」
シルフィは小さく肩を竦めていたが、長年共に任務をこなしてきた直感から、僕は彼女が何か——別の要因に既に気付いているのではないか、と考えた。
彼女は時折、僕を試すような行動を取ることがあるのだ。
「シルフィ、君は既に何かに気付いているのでは?」
「食事の後さ、入浴を勧められたからお言葉に甘えたんだけどね。その時に偶然聞こえちゃったんだよ『最近一気に人が辞めたから、仕事が多くて大変ね』『本当にそうね、オットーさんも調理場に行っちゃったし』って」
「なるほど、つまり盗み聞き、と」
「人聞きの悪い、偶然聞こえただけだってば」
彼女は『偶然聞こえた』と主張しているが、教育された使用人が客人の——それも《十二勇士》の耳に入るような場所で私語を交わすなどあり得ない。
今日半日滞在しただけでも、この屋敷の使用人は全員動きが良く、客人に対する立ち振る舞いも弁えているように思えた。
そんな使用人たちが客人の前で、さらに身内のプライベートな話をするわけがないのだ。
よって、彼女が口にした話は盗み聞き——つまり風越しに耳にした結果ということになる。
話を聞いた経緯はさておき、内容自体は非常に興味深い。特に『最近一気に人が辞めた』という点だ。
僕もこの屋敷に入った時から、使用人の数が伯爵邸にしては非常に少ないと感じていた。
洗練された動きや態度からして熟練の使用人たちばかりだとはいえ、やはり不可解だ。
まさか、伯爵家が使用人を雇う資金すら危ういという事はないと思われるが……
「あの料理長の人、元々はヴァレットだったらしいよ。料理の味に関しては知らないけど、配膳の手際は丁寧だったよね」
「……料理に慣れていない従僕が作っていたのであれば、あの味も納得ですが……」
「そんなに酷いの?」
「酷いなんてものじゃありません。ベアトリクス嬢といい勝負です」
「…………わぁ」
いくら甘味と辛味以外の味覚を感じられないシルフィでも、あのベアトリクス嬢が時々厨房で産み出してしまうダークマター(自称・創作料理)の凄惨な爆発音と匂いは覚えているらしく、何とも言えない微妙な表情を見せた。
「ともかく、その件に関してはさらに情報を集めるべきでしょう。使用人の数が劇的に減少したなら、館全体の仕事の配分も考え直す必要があります。なら——」
僕の言葉を受け継ぐように、シルフィが静かに頷きながら答える。
「それを裏で取り仕切り、管理してる使用人がいるってこと」
ヘンゼルが一人減ってしまったとはいえ、世話をすべき当主候補の主たちは当初六人いたことになる。
現在館内で確認できるだけで使用人は十人、他にいたとしても気配からしてせいぜい二、三人程度だろう。
本来、王都から遠く離れた「辺境」の領地では実用性が重視され、使用人の数は都よりも控えめになる傾向にある。
しかし彼らの『極度の成金趣味』と見栄っ張りを考慮すると、本来なら二十人~二十五人程雇われていても何ら違和感はない。
給仕や雑用をこなすフットマンは一人しか見かけなかったし、馬車を扱うコーチマンやスタブラーも見栄を張りたがりそうな彼らにしては少なすぎる。
ガーデナーに至っては雇われてすらおらず、広大な庭園も肩身の狭い思いをしている主人であるはずのソフィアが一人で世話をしている始末だ。
使用人の数が少ないとは考えていたが、姿を見かけないのではなくそもそも雇っていなかったとは。
加えて『最近一気に』という言葉も大いに気になる。
つまり、元々は多くの使用人が雇われていたということだ。
現在、オットーというヴァレットが慣れぬ料理長を務めなくてはならないほど困窮、あるいは人が離れていく異常事態に陥っていることに——
「事情聴取と本格的な聴聞は明日にするとして……彼、早く移動させてあげないとね」
シルフィは軽い口調で明日の予定を決めると、その視線をヘンゼルの亡骸へと向けた。
口調こそ普段通りの軽やかなものであったが、その透き通った空色の双眸は真剣そのもので、亡くなった者への深い敬意と哀悼の情が感じ取れた。
「安置場所は氷室か冷暗室か……この際、地下室の正確な場所が分かればいいのですが。騎士団および教会の埋葬機関への連絡は——」
「連絡は私がしておく。ここは王都から離れた北の辺境だし、連絡が届いて検死官や葬礼隊が到着するまでどんなに早くても二日~三日はかかる。まぁ、それまでに事件自体は解決してると思うけどね」
「——……だといいのですがね」
当初、当主の座をめぐる動機が最も顕著なのはソフィアだと考えていたが、リネンカート——給仕用・運搬用台車——の使用痕跡、使用人への仕事の割り振り権限、そして遺体を運ぶのに必要な相応の腕力を持つ人物……という手懸かりから鑑みるに、ソフィアは最も犯人候補から遠ざかったと言わざるを得ない。
仮に彼女が当主の座を狙い、殺人を犯すとしても、このような不確定要素の多いやり方で殺害するはずがないのだ。
自身を容疑者から除外するための高度な偽装工作だとしても、あまりに手間がかかりすぎている。
そもそもヘンゼル一人だけを殺害しても、ジュリアンやレイモンド、クララがいる以上、他の当主候補たちが邪魔な存在として残ってしまう。
加えて、何故『今』なのか? 国家の公的な使者でもある僕たちが館に滞在している真っ只中に、リスクを冒して殺人を犯す理由がどこにあるというのか。
このような手間のかかる殺害方法でなくとも、毒薬をお茶に混ぜるだけで当主候補全員をまとめて始末できるだろう——もちろん、その場合は真っ先に疑いはソフィアに向き、犯行に及んだことがすぐに露見してしまうだろうが…………。
「犯人はソフィアじゃないと思う」
ハッキリと、明確な意思を以て告げられた言葉だった。
動機がどうだとか、アリバイ的に犯行が不可能だろうとか、そういった論理的な推理の組み立てではなかったように思う。
普段から警戒心が酷く強く、この手の事件においては常に容疑者全員を等しく疑ってかかるような彼女が、ここまで断言するのには何か別の理由が——とそこまで思考を巡らせたところで、また彼女が『直感だ』と素っ気なく返してくることが容易に予想できてしまった。
「……順当に消去法で考えるなら、屋敷の構造を知り尽くした執事のヴェルター様が最有力の容疑者ですが」
「まぁね。でも、まだそうと決まったわけじゃない。クララの言っていた『ヘンゼルが死んだなら次の当主候補筆頭はジュリアン』っていう主張も理解できる。ジュリアンが殺した可能性も否定できない」
「レイモンド様の可能性もありますよ。クララ様がジュリアン様に疑いを向けることを見越し、彼女に罪を着せようとして先手を打った……とか」
「……言い出したらキリがないね。ともかく、続きは明日考えよう。もう眠い」
相変わらずの自由奔放さであるが、今夜に関してはこれ以上の進展がないのかもしれない。
この後ヴェルターに安置場所について尋ね、ヘンゼルの死体をそこへ移動させる。
欲を言えば事件直後の屋敷内部をもう一度隠密に調べたかったが、館全体が殺人事件によって過剰な警戒態勢にある以上、今夜は下手に動き回らない方が無難だろう。
あの生真面目な老執事なら、ソフィアを送り届けた後に必ずこの場に戻ってくるだろうと考えた僕は、執務室の前で待機することにした。
傍らでは相当眠気が限界に来ているのか、小さな欠伸を噛み殺したシルフィが佇んでいる。
よく考えれば、彼女が昼間に施したと言っていた『結界』は現時点でも継続して発動中のため、その魔力消費と疲労が出てきているのかもしれない。
「シルフィ、結界の維持についての件ですが——」
「問題ない」
短く、迷いのない返答。僕は魔力伝達による補給を打診するつもりだったのだが、今の言葉を聞いて差し出しかけた言葉を飲み込んだ。
拒絶——ではないだろう。彼女は本当に助力が必要な時は、変なプライドを捨てて素直に手を伸ばすタイプであるからだ。
「————お二人様とも、お待たせいたしまして誠に申し訳ございません」
声と共に廊下の暗がりから影のように現れたのは、ヴェルターだった。
ソフィアを安全に部屋へ送り届けた後に急いで駆けつけたのか、呼吸が多少乱れて息が上がっている。
片手には重厚な鍵束が握られており、その中には遺体安置室となり得る部屋の鍵が含まれていると思われた。
「いえ、丁度 死体検分を終えたところです」
「……左様でしたか。ヘンゼル様は一階の北側にある冷暗部屋へお運びいたしましょう。普段は使われていない場所ですが——」
「地下室の類いはないと仰っていましたね」
「はい。屋敷内部に地下室へ通じる道や扉は存在いたしません」
その淀みのない落ち着いた声色と目元からして、本当にこの屋敷から地下室へ通じる道はないのだろう。
僕はヴェルターと協力してヘンゼルの死体を運ぶ為、冷たくなりゆく亡骸へと静かに手を伸ばした。
その時、僕のすぐ背後で小さな呟きが漏れ聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「————屋敷には、ね」
その儚く小さな声は、重い死体を持ち上げた際に生じた衣服の擦れる音と床の軋みにかき消される。
含みのあるその言い方に、僕はさらに思考を深めようとして——
「ミカ様、お召し物が……血で汚れてしまいます」
「……構いません」
ヴェルターの気遣うような制止の声に、僕は思考を中断せざるを得なくなった。
持ち上げられたヘンゼルの指先から、執務室の絨毯へ向けて、一滴の黒ずんだ血痕が静かに滴り落ちていった。
◇ ◇ ◇
翌朝、朝食の後——当然のように不味かった料理を無心で胃に詰め込み——僕たちは本格的に屋敷内部の聞き取り調査を行うことにした。
エレナは自室から出てこようとしないらしく、結局朝の食事の席にも現れなかった。
昨夜の悲劇と取り乱した様子を考えれば無理もないだろうが……屋敷全体の空気は重く沈み込んでいる。
「使用人の人数……でございますか? ええと、全部で十三人でございます」
「……失礼ながら、伯爵邸にしてはかなり——」
「ふふっ、少ないと思われますよね……旦那様がご存命だった頃は二十七人もいたんですよ。それが今では……随分と減ってしまいましたけれど……」
初めに廊下で声をかけた二十代後半と思われるパーラーメイドは、どこか寂しげな陰を帯びた声色で語る。
辺境の領主邸とはいえ、伯爵家の本邸で二十七人というのは妥当か、やや多い程度だ。
それが今では十三人と、半数以下にまで激減している。
使用人が個人の事情により退職することがあっても、短期間で十四人もの人間が一度に辞めるというのは、普通ではまず考えられない。
それ相応の深刻な理由があるはずだが……
「何か不祥事でもあったの?」
「…………シルフィ」
シルフィの身も蓋もないストレート過ぎる物言いに、僕は視線だけで静かに咎めるが、当の彼女は特に気にした様子もなく目の前のメイドをまっすぐ見つめて問いかけた。
聞き出されたメイドは多少驚いたものの、当主候補たちの我が儘や横暴に慣れ切っているためか、特に不満な顔も見せずにぽつりと答えてくれた。
「旦那様がお亡くなりになられる一ヶ月前……急に使用人たちが辞められたんです」
「解雇じゃなくて自主退職なの?」
「…………えぇ、一部は」
パーラーメイドの言葉を言葉通り受け取って解釈するなら、先代当主であるロベルトの死亡と共に使用人が自主的に、それも大勢辞めていったということになる。
加えて最後の『一部は』という含みを持たせた言葉が非常に引っかかる。
まるで——全員が自らの意思で退職したわけではないのではないか、と示唆しているように聞こえた。
「その理由をお聞きしても?」
パーラーメイドの女性は少しの間迷っているようだったが、やがて覚悟を決めたように俯いていた顔をゆっくりと上げた。
「行方不明に……なる使用人が何人も出て……それで怖くなった者たちが一気に辞めてしまったんです」
「行方不明……」
たとえ北の辺境であろうと、盗賊や魔獣への対処として近くの騎士団駐屯地からの巡回や見回りもあるはずだ。
それにもかかわらず、屋敷の中で何人も行方不明者が出ているとなれば、本来なら領主や憲兵が本格的な原因究明に動くはずなのだが……。
「今では、昔から雇われている——ハルトマン家に深い恩義のある者しか残っていません」
「じゃあ、貴女も昔から?」
シルフィの静かな問いかけに、女性はしっかりと頷いた。続いてどこか昔を懐かしむような、切ない表情で告げる。
「はい。私はソフィア様がこの屋敷にお越しになられた時から勤めています」
ソフィアは現在十九歳だと、昨日ヴェルターが屋敷を案内してくれた際に言っていた。
そのソフィアが幼少期の頃から仕えているとするなら、彼女はかなりの古株ということになる。
「では、ロベルト様の亡き奥様——ベラリーチェ様のことも御存知ですか?」
「いえ……私が仕えた時には既にお亡くなりに——もしベラリーチェ様について詳しくお知りになりたいのでしたら、執事のヴェルターさんか、ハウスメイドのリンさんがご存知かと思います……」
「……誰?」
「リンさんは——」
◇ ◇ ◇
『リン』という古参のハウスメイドの存在を教えられた僕たちは、当時のベラリーチェを知る数少ない人物から直接話を聞くことに決めた。
「先程のパーラーメイドの話によれば、客間と応接間の掃除をしていると言っていましたが……」
伯爵邸とだけあり、客間と応接間の数は相当なものだ。
手分けして探せば行き違いになる可能性もあるし、かといって片端から全ての部屋を確認するのも時間がかかり過ぎる——
「こっち」
迷いのない足取りで一つの部屋を目指して歩き出したシルフィは、どうやら最初から目的の人物の居場所を正確に把握しているようだった。
一体どんな察知方法や魔力感知で特定したのだろうか。
案内された客間と思われる広い部屋では、四十代前後のハウスメイドが黙々と手際よく掃除を行っていた。
そのハウスメイドは、昨夜ショックで混乱していたエレナを自室まで付き添って送っていった女性だった。
僕たちの気配に気づいた女性は、手にしていた掃除道具を静かに床に置くと、隙のない綺麗な一礼を見せた。
その洗練された一連の動作から分かるように、彼女こそがリンという古参の使用人らしい。
「お客様、どうかなさいましたか?」
「単刀直入で申し訳ございませんが、お話を聞かせてくれませんか? 昔の——ベラリーチェ様がご存命だった頃のお話を」
ベラリーチェの名前を僕が口にした瞬間、それまで穏やかだった女性の顔色が目に見えて蒼白く曇ったのを、僕は見逃さなかった。
——間違いなく、何か決定的な出来事があったのだ、と。
「……お客様にお聞かせするのは、誠にお恥ずかしい限りですが……王都からお越しになられた騎士様ですものね……」
どこか諦めたような悲しげな様子で語り出すリンに、僕もシルフィも静かに耳を傾けた。
「ベラリーチェ様は……ご自身の意見をしっかりとお持ちの、気高い御方でした。幼少期から将来を定められていた、ロベルト様の正当な婚約者でもありました……ですが、これは私個人の私見なのですが……」
「構わない。教えて」
言い淀んでいたリンは、シルフィの静かだが力強い声に後押しされる形で深く頷き、普段は口にすることのないであろう過去の痛ましい出来事について言葉を紡いでいく。
「ロベルト様は……ベラリーチェ様を心の底から愛してはおられませんでした。貴族としての——伯爵家を継ぐ嫡子としての重大な義務と責任ゆえでしょうね……親同士が決めた婚約を断り切れるはずもなく——でも」
リンはさらに悲痛に顔を歪めたが、途中で言葉を止める気はないようだった。
「ロベルト様と……とある一人のメイドとの間に、子ができてしまったのです……」
「…………それは」
流石の僕も言葉を失い、絶句した。
名門貴族の嫡子として婚約者がいるにもかかわらず、というのも大きな問題だが……身内の使用人に手を出してしまうなど、騎士の道徳観からも信じがたい不祥事である。
「でもロベルトは、最終的にベラリーチェを選んだ。貴族の家の体裁と血統を考えたら、そうするのが政治的な『正解』なんだろうけど」
「——だとしても……そのメイドと、お腹の中の子は……」
リンは力なく力尽きたように首を振った。その無言の動作こそが、子を身籠った一端のメイドが辿った悲惨な末路を物語っていた。
正当な婚約者がいながら隠れて愛人——それも屋敷の使用人——を作り、あろうことか子まで仕込んでしまう。
それは貴族社会においても一歩間違えれば家を揺るがす、とんでもないスキャンダルである。
「ベラリーチェ様がその不貞の事実を知り、耐えられるはずもなく……そのメイドを……アンナという娘を、着の身着のままで屋敷から追い出してしまったのです」
「……ロベルトは、何も言わなかったの?」
自分の子を身籠った女性を——それも使用人としての知識と術しか持ち合わせない哀れな娘を、身一つで追放するなど……人の道として、あまりに残酷で常識的にあり得ないと思う。
「…………何も」
リンの静かな返答には、亡き主への失望と、消し去れない僅かな怒りさえもが滲み出ていた。
「ベラリーチェ様が亡くなったのは、病気によるものでしょうか?」
「ベラリーチェ様は持病の類いはお持ちではなく、至って健康な御方でした」
リンはそう語るが、事前情報ではベラリーチェは若くして亡くなっていると聞いていたため、てっきり病の類いかと勝手に思い込んでいた僕にとって、彼女の返答は少々意外ではあった。
「では、急性の病か何かですか?」
ふるふると首を横に振り、明確な否定の意思を表したリン。
どうやらベラリーチェの死にも、何か深い裏の理由があるのかもしれない。
「病ではありません。……あれは『呪い』です」
——呪い。
その言葉は、つい最近聞いたばかりの言葉だった。
脳裏に昨日、静まり返った中庭でシルフィから聞いた言葉がふと思い起こされる。
「呪い……何故、そう思われるのですか?」
「私は当時、お側にお仕えしていましたのでよく覚えています……ベラリーチェ様は亡くなられる前夜まで、お風邪ひとつ召されずお元気で……なのに翌朝、お召し替えのためにお部屋を訪ねたら……!」
話の内容的には、明確に魔術的な『呪い』と断定・関連づけられる客観的な証拠こそ存在しないものの——突然死であることは間違いないようだ。
これが直接的な殺人事件だと決定づける死因の要因までは判明しないが……。
「……もう大丈夫。ありがとう」
リンの精神状態を鑑みて、シルフィが礼と共に会話を静かに切り上げた。
確かにこの怯えようでは、これ以上まともに話を聞き出すのは難しそうだし、これ以上探ることもない気がする。
過去の辛い記憶をこれ以上思い出させないよう、僕たちは頭を下げて部屋を出ることにした。
部屋から少し離れた静かな廊下で、僕は先程リンの口から発せられた『呪い』という言葉について思考を深めていた。
「……ベラリーチェ様は呪いによって亡くなった。ということでしょうか……」
「んー……当時の詳しい様子を知る使用人が少な過ぎるし、感情的な背景が強すぎる以上は、客観的な判断がしにくいね」
仮に当時から犯人によって魔術礼装が使用されていたのだとすれば、ベラリーチェの不審死もその魔術礼装の効果による可能性は十分に考えられる。
「やはり、執事のヴェルター様にも直接話を聞いてみる必要がありますね」
「それもそうだけど、彼はヘンゼルの件や屋敷の差配で忙しいと思うよ。先に当主候補たちの部屋を確認しよう」
「……部屋? 本人たちに話を聞くのではなくですか?」
「そ。まともな返答は期待出来ないし。彼らの部屋を直接見た方が、何か証拠が出てきそうでしょ?」
「それは……否定できませんが……」
確かにシルフィの言う通りではあるのだが……だからといって、騎士たる者が未婚の女性や他人の私室へ無断で立ち入るのは如何なものだろうか。
たとえ捜査の一環とはいえ、紳士としての礼節に反するのではないか。やはり事前に本人たちの許可を取るべきでは——
「許可ならもう取ってる」
「いつの間に……」
やはりこの少女は規格外である。日頃から放浪癖があり、朝帰りの常習者である彼女の行動パターンは往々にして読めない。
シルフィの足取りは軽やかで、目的である当主候補たちの部屋へ向けて迷いなく歩みを進めていた。
——結論から言えば、何もなかった。
正確には、今回の事件に直接繋がるような明確な証拠品や、殺人の動機になり得そうな怪しい物は見つからなかった。
ジュリアンの部屋には大量の難解な書物の類いが足の踏み場もないほど溢れ返っていただけで、事件に関する不審な物は特に見当たらない。
レイモンドの部屋には借金の催促状や、日頃から劣悪な環境でギャンブルを繰り返していた残痕、激しい女性遊びの形跡が散乱しており、彼が深刻なお金に困っていたことだけは明白に分かったが、それだけで殺人の容疑者として追及できるはずもない。
そして、クララの部屋に関しては——
「【淑女のための薔薇色婚姻手引き 〜良縁を射止める百の秘術〜】【深窓の令嬢に捧ぐ~高貴なる紳士を魅了する三十の嗜み】」
「……シルフィ、いちいち声に出して読み上げなくても大丈夫です」
律儀に本の題名を読み上げるシルフィに僕は思わず制止した。
ただでさえ、年頃の女性のプライベートな部屋に足を踏み入れるだけで、騎士としての良心が痛んで生きた心地がしなかったというのに。
「クララ、相当焦ってるみたいだね……」
「個人情報ですよ…… 非常にデリケートな問題です。お願いですから触れずに、そっと元の位置に戻しましょう」
簡潔に説明するなら、彼女は『結婚願望が異常に強い』ということだ。完全に私的かつ個人的な事情である。
クララは見見た目からして三十代前後と思われるが、ハルトマン伯爵家の令嬢がこの歳になっても結婚どころか婚約者さえ決まっていないというのは、世間体として余程の不祥事があったか、あるいは彼女自身の性格に問題があるとしか思えない。
僕自身が人のことを言えた立場ではないのだが……。
棚の奥には他にも、どこで手に入れてきたのか【求婚を引き出す愛の錬金術】【剣を語る騎士には感嘆の溜息を 〜男心を射抜く相槌の極意〜】といった怪しげな書籍がずらりと並んでいた。
まさか領地の税金がこのような書籍に費やされ、恐らくその恥ずかしい事実を必死で隠匿しているのだろう。
……なんだろう、一体どんな気持ちでこの衝撃的な事実を受け止めればいいのか——というのが、つい数分前の話である。女性の部屋の探索は、精神的にかなりの毒だった。
その後、最後にソフィアの部屋も念の為調べたが、やはりこれといって不審な点や問題があるようには見えなかった。
残る容疑者は執事のヴェルターだけだが——
「もちろん調べるでしょ。一番怪しいんだから」
「……ですよね。許可はともかく——彼の部屋の位置はご存知なのですか?」
「こっち」
またしても目的の部屋の位置を最初から把握しているシルフィに脱帽しながら、僕は彼女の小さな背中を追いかけた。
僕の記憶が正しければ、ヴェルターは昨日、自身の部屋の位置など僕たちに教えていなかったはずだ。一体どこで仕入れてきた情報なのやら。
——やはり彼女は、掴みどころのない気まぐれな風のようだ。
◇ ◇ ◇
シルフィが迷いなく向かったのは、一階の銀食器室のすぐ隣にある部屋だった。
本来、執事室やメイドの控室・厨房・地下室といった「使用人領域」は、貴族社会において外部の客人に見せるべきではない「屋敷の裏側」とされている。
ゆえに、ヴェルターが自ら自身の部屋の位置を明かさないのも至極当然の配慮ではあるのだが、現状の最有力容疑者である以上、僕としてはどうにも他に何か隠したい意図があるように思えてならない。
「ミカ、開けて」
「捜査の為とはいえ、やはり無断解錠は気が引けますね……」
執事の私室には、屋敷全体の鍵束や金庫、経理帳簿、使用人の人事書類など、ハルトマン伯爵家の重大な機密や貴重品が保管されている。
そのため、執事が部屋を不在にする際は必ず施錠するのが絶対の鉄則だ。
ヴェルターもその例に漏れず、目の前の重厚な扉にはしっかりと鍵がかけられている。
僕は溜め息を吐きつつもシルフィの言葉に従い、扉を開けることに同意した。
もちろん、力ずくで蹴破ることも不可能ではないのだが、それではヴェルターに即座に気付かれてしまう——
もっとも、あのキレ者である彼ならば、捜査の手が既に自室にまで迫っていることなどとっくに看破している可能性も高いが——今それを考えていても仕方がない。
僕は腰のベルト裏の隠しポケットから、細く硬質な小さな金属棒を二本抜き取った。そのまま鍵穴の奥深くへツールをスッと差し込む。
片手で指先に絶妙なトルクをかけながら、もう片手で鍵穴内部のわずかなピンの手応えを繊細に探っていく。
カチリ、カチリ——
指先と耳に伝わる微小な振動だけを頼りに、内部のピンを一つずつ静かに押し上げていく。ほんの数秒と置かずに、小さな金属の開放音が静まり返った廊下に軽やかに響いた。
「流石」
「……この程度、君だってその気になれば出来るでしょうに」
「私、こういう細かい指先の作業は苦手なんだよ」
そのあっけらかんとした一言と共に、解錠されたヴェルターの私室へとスッと滑り込むように入室するシルフィ。僕もそれに続いて室内へ足を踏み入れた。
伯爵邸の重要な部屋なだけあって、構造が単純なウォード錠ではなかった。
今回の錠前は一般的なウォード錠より多少構造が複雑ではあるが、僕の技術からすれば解錠できないほどではない。
以前の特殊任務で遭遇した【魔錠】——簡単に言えば解錠する上で魔力が不可欠であり、加えて残存魔力反応によって解錠の正確な記録が残ってしまうという嫌がらせレベルの錠前に比べれば、今しがた解錠したものは実に簡単な部類だと言えた。
室内を見渡すと、いたって普通の『執事の部屋』がそこに広がっている。
仕事用の事務・管理スペースとしての色彩が非常に強く、個人の私物は最小限に抑えられている。
重厚な木製デスクと椅子、壁掛けの鍵棚、貴重品管理用と思われる厳重な金庫、そして壁には屋敷全体の平面図・備品台帳・ワインリストが整然と並べられていた。
「……使用人を呼び出す為のベルにも、細工らしい不審なものは見当たらない」
「そうですね。私用品に関しても、見たところ特におかしな点は見受けられません」
質素だが手入れの行き届いた上質なベッドと衣類タンス、身だしなみを整えるための鏡と手入れ道具、個人の嗜好品やささやかな私物が几帳面に置かれている。
どこからどう見ても、一律の模範的な執事の部屋である。
どうやら隣の彼女は別の感想を抱いたようだが。
「普通……かな? あまりにも『生活感』が無さすぎる。執事の部屋って、どこもこんなもの?」
「……生活感が極端に薄く、あまりにも整然としすぎている、と?」
「私はそう思った」
普段、貴族社会の裏側や使用人の生活環境といったものに疎い——実際はただ興味がないだけなのだろうが——シルフィの研ぎ澄まされた直感が正しいのだとすれば、この部屋の完璧すぎる整いようは、むしろ異質とも言えるかもしれない。
それからベッドの下や小さな本棚の裏などを慎重に確認したが、事件に繋がるものは何も出てこなかった。
やはり僕たちが部屋に入られることを見越して、事前に関係する証拠品を別の場所へ移動させているという可能性も高い。
金庫の中を確認するとなれば物理的に破壊するしか方法はないが、それは最終手段として取っておきたい。
——と、そこまで思考を巡らせた、その時だった。
ガタン!と、部屋の中に勢いよく何かが強引に開け放たれる荒々しい金属音が耳に跳ね返った。
僕は即座に音が鳴った方へ視線を向けた。どう考えても、このような音の元凶を引き起こしたのは彼女しかいない。
…………彼女はまたしても個人のプライベートの塊とも言えるデスクの施錠された引き出しを強引に探っている。
「シルフィ、君という人は……! そもそも、引き出しの鍵はどうしたんですか?」
あの生真面目なヴェルターが、ご丁寧にデスクの鍵を部屋の分かりやすい場所に置いていくとは思えない。
現に壁掛けの鍵棚のいくつかは空になっており、主要な鍵は彼が肌身離さず所持していると思われた。
「開かないから、ちょっと力を入れただけだよ……勝手に壊れたの」
「屋敷の最重要書類を保管している鍵付きデスクが、勝手に壊れるわけがないじゃないですか!」
「でも、壊れたの」
「壊した、の間違いでしょう」
サッと目を逸らして『不可抗力だ』とでも言いたげなシルフィの隣へ僕は溜め息をつきながら移動し、せっかくの機会なのでデスクの引き出しの中身を改めることにした。
たまたま目の前で開いてしまったのだから仕方がない。僕からすれば、これこそが不可抗力である——と、心の中で自分に言い訳をする。
破壊されたデスクの引き出しの中には、分厚い一冊の手帳——恐らく【使用人管理日誌】の類いだろう——と一枚の古ぼけた写真が入っていた。それ以外には何も入っていない。
まずは管理日誌を手に取ってパラパラとページを捲る。
どれもこれも、彼らしい丁寧で流麗な字で明確に各使用人に命じた仕事内容と時間割が記録されていた。
最新のページ、すなわち昨日の日付も同様に細緻な文字で、的確に——
「これは……」
僕の視線が、ヘンゼルの犯行推定時刻である『午後八時~十時』の項目でピタリと止まったことで、シルフィも隣から覗き込んできた。
その空色の瞳がびっしりと書かれた文字を辿ると、全てを悟り納得したような色彩が浮かぶ。
「物の見事に、ヴェルター以外の使用人が全員、長時間作業か。これはもう犯人だと決め打ちたくなるけど」
「彼の生真面目な性格ゆえか、あるいは使用人たちの証言から時間の問題だと思えたのか……」
しかし、これだけでは彼が殺人を犯したという決定的な証拠とまでは言えない——考えを更に深めようとして、おもむろに視線を落とした時。
日誌の下に置かれていた、一枚の古ぼけた写真が再び僕の視界に色濃く映し出された。
◇ ◇ ◇
古ぼけた写真を手に取って、じっくりと光に透かすようにして確認する。
「かなり古い写真のようですね……写真に写っている男性はヴェルター様でしょうか……? 隣にいる女性……いえ、少女は……」
写真には二十代前半と思わしき若い男性が写っており、その面影や人相の特徴からして若い頃のヴェルター本人だろう。
その隣には、幼い少女が満面の笑みを浮かべて寄り添っていた。
二人の着ている服装からして、貴族層ではなく平民か使用人の身分だろうということくらいしか分からない。写真の少女の年齢は六、七歳くらいに見える。
彼の娘という可能性も頭に浮かんだが、だとするなら父親になる年齢としては少々早すぎる気もする。
執事という役職は屋敷全体の使用人を統括する重職である為、若い頃から相当の修練や下積みの経験を積む必要がある。
現在、ヴェルターがハルトマン伯爵家の筆頭執事という絶大な権限を持つ地位にいるのも、相応の年月と血の滲むような努力を費やしてきたからだ。
つまり、まだ若く使用人として未熟だった頃から家庭を作り、子供まで育てる余裕があったとは考えにくい。
かといって「妹」と言うには、あまりにも歳が離れすぎているのではないだろうか?
となれば、親戚の子供か、あるいは懇意にしていた知人の子というのが一番妥当な推測だろう。
だが、わざわざ施錠された机の奥深くに大切に仕舞い込んでいるあたり、彼にとって特別な存在であることは明白だった。
僕は二人の関係性そのものより、『何故この写真が誰にも見られないよう厳重に仕舞い込まれているのか』に思考の軸を割こうとした。
「…………うん、やっぱり目元がどことなく似てる。案外、歳の離れた妹とか?」
「どうでしょうね。妹にしては少々歳が離れ過ぎている気がしますが……」
「……そう? 歳の離れた兄妹なんて今時、別段珍しくもないと思うよ」
シルフィは僕の手元にある写真をじっと見つめたまま、淡々と静かな声で告げた。
仮に本当に歳の離れた兄妹だったとして、この写真を机の奥に隠すように仕舞う理由とは一体何なのだろうか?
普通、家族や大切な人の写真なら、自室の目に見える場所に飾っておくものではないだろうか——
「普通なら、いつでも見える所に置いとくよね。誰かに見られたら困るみたいに、わざわざ隠してる」
まるで僕の脳内の思考を完璧に見通しているかのように、彼女はぽつりと言葉を落とした。
シルフィがこちらの察考を見抜くのはいつものことではあるが、それでも寸分違わず読まれているとなると心臓が跳ねるほどの衝撃を受ける。
「……少なくとも、公に堂々と飾れない相応の理由があるのでしょうね」
隣でシルフィが同意を示すように深く頷くと同時に、僕の手から写真を迷いなくすっと回収した。
驚いたことに、彼女はその写真を壊れた引き出しに戻すのではなく、自身のケープのポケットの中へと滑り込ませたではないか。
「……何をしているんですか? 元の場所に戻してください」
「いや、普通に大事な証拠品」
「まだ何の確証もありません。他人の個人的な私物ですよ」
「確証が無いなら尚更でしょ。動機の一つに繋がっているかもしれないし」
「はぁ……」
今までの経験上、シルフィがここまで言い出して引き下がらない時は、僕が何を言っても完全に無駄である。
確かに彼女の言う通り、事件の動機に繋がる一つの手がかりである可能性はあるが、仮にこれが只の思い出の私物だった際、後で窃盗だと咎められても言い訳ができないのではないか——とそこまで考えてから、僕は引き出しの鍵が既に力ずくで破壊されていることを思い出した。
写真を持ち出そうが持ち出さなかろうが、無断で部屋へ侵入し、デスクを含めた私物を物色したという事脈自体は隠しようがないのだ。
どうせ侵入の事実が公になるのなら、証拠品——と決まったわけではないが——を回収しておいた方が賢明なのは確実なのかもしれない。
少々強引な行動ではあるが……と自分を納得させる。
その後、僕たちは速やかにヴェルターの部屋を退室した。
もちろん、できる限り物色した形跡を残さないよう、部屋の備品の位置などを元通りに整える。
最後に入室した時と同じく、腰のベルト裏の隠しポケットから細く硬質な二本の金属棒を引き抜き、扉を再び施錠した。
本来なら、相当警戒心が強い人物か、部屋の配置を寸分違わず記憶している者以外は僕たちの潜入に気づかない完璧な手際だ。
もっとも、あの生真面目なヴェルターなら違和感に気づく可能性も十分にある。しかし、それ以前にこんな細やかな工作は全て無意味だ。
僕の隣にいる騎士が施錠されていたデスクの引き出しを無理やりぶち破ったことで、ヴェルターは部屋に戻り次第、僕たちが侵入したことを即座に察してしまうのだから。
「まったく、もう少し慎重に動いてください。普段の偵察任務の時と同じくらいに」
「だって、壊れたんだもん」
「違います。君が壊したんです」
「………………むぅ」
「不貞腐れても駄目です。後でちゃんと反省してください」
「……はーい」
本当に反省しているのか甚だ怪しい返答ではあったものの、シルフィが気のない様子で頷いたことで、僕たちはヴェルターの部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
あまりに僕たちが姿を見せない時間が長くなると犯人の警戒心を煽ってしまうため、適当な使用人の視界にでも入って捜査の振りをしようかと相談していた、まさにその時だった。
「騎士様! 騎士様!! 大変です!!」
切羽詰まった悲鳴のような声が廊下に響き渡り、顔を真っ白にした一人のメイドがバタバタと気振りも無く駆け寄ってきた。
顔面蒼白で額には冷や汗を大量に搔いている。
呼吸も絶え絶えで、目に見えてただ事ではない緊急事態が発生したのだと理解できた。
「どうしたのですか? 何が——」
「え、エレナ様が……! エレナ様が突然取り乱して暴れだして……! 今にもソフィア様を果物ナイフで刺そうと……! なんとか他の者で押さえていますが……!!」
呼吸を整える暇もなく一気に捲し立てるメイドの言葉に、僕は目線だけでシルフィへ先に行けと促した。
シルフィは無言で頷くと同時に、一瞬で風のように廊下を駆けていく。
その人間離れした速度に、報告に来たメイドが目を丸くして驚くほどだった。
「発生場所はどこですか? 怪我人の数は?」
「騎士様方を一番最初にご案内した、あの大きな客間です! ソフィア様と……止めに入った使用人の一人が……で、でも二人とも掠り傷です!」
「分かりました。貴女はすぐ執事のヴェルター様を探して報告してください!」
「は、はいっ!」
メイドへ素早く指示を出すと同時に、僕は強く床を蹴ってシルフィの後を追った。
エレナの精神状態が限界を迎え暴走するのは、夫であるヘンゼルの無残な死を考えれば当然の引き金だ。
だが、怪我人が出るほどの危険な事態となれば、僕たちの捜査の優先順位は直ちに切り替えられる。
足を全力で動かす間も、僕の脳内では激しい思考が駆け巡っていた。胸の中に渦巻く、僅かな焦燥感。
——このような混乱を極める緊急事態は、潜んでいる真犯人にとって好機以外の何物でもない。
願わくば、これ以上惨劇の犠牲者が出ないことを——
そんな祈りに似た願いと共に、僕の脳内ではそれと相反する冷徹な過去の経験が鎌首をもたげていた。
——そんな都合の良い奇跡など、僕たちが今まで歩んできた過酷な戦場と事件において、圧倒的に少なかったではないか——と。
◇ ◇ ◇
遠い昔、まだ翼の羽も生え揃わぬ小さな雛。
けれども、陽だまりのように暖かく、ただただ幸福に満ちあふれていた、春の記憶。
————お誕生日おめでとう。■■■!
————ありがとう! ■■さん! とっても嬉しいわ!!
照りつける太陽のもと、厳しい環境の中でも生い茂る木々に守られながら懸命に羽ばたいていた。
青空に澄み渡る、小さな小鳥の爽やかな歌声が響いた、夏の記憶。
————■■さん、それは凄い事だわ! 王都で学べるなんて、そう機会はないでしょう!? 私応援するわ!
————ハハッ! ありがとう■■■、でも少し心配だな……本当に大丈夫か?
————もう! 心配性ね! 私もう大人なんだから!
木々が色づき、やがて訪れる厳しさと不安の影が静かに忍び寄る。
祝福と同時に深く刻まれる痛みを伴い、それでも懸命に羽を広げ続けた、秋の記憶。
————今、何と……? どういうことなんだ ■■■……?
————伝えた通りよ。私、負けないわ
————だ、だが……! あの御方は……!
懸命に飛び続けた小鳥はやがて——
————■■さん……ごめ……ん、ね……?
————■■■!! どうして! どうしてなんだ!!
————おねがい、おね、が……い、この、子を——
————それは、確かに愛だった。
————あの時、もしも選択を間違えていなければ
————あの時、この手を伸ばしていれば……
懸命に羽を広げた小鳥は、どこまでも慎ましく羽ばたいた小鳥は、無惨にその羽を引きちぎられて、暗い地へと落とされてしまった。
後には残された小さな祈りと願いだけがぽつりと残って。
——哀れな小鳥は、二度と歌うことはない。
凍てつくような、厳しく冷たくて、消えぬ後悔だけに満ちた、冬の記憶。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




