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星刻の約定 ——Fragments of Laurant―  作者: にしみん
番外編・追補録 I
36/42

その祈りが届く限り 後編

この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨

『沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり』後編です

彼女は今も祈りを捧げ続けています

これからもずっと。



 ————きっかけは些細な言葉。

 

————焦りと不安は心を惑わせる。

————愛故に踏み出した一歩だとしても。

————報われず、利用され、想い人には届かない。


◇ ◇ ◇

 

 冬が近づく秋晴れの日。私は現状に深く頭を悩ませていた。

 先日の合同授業において、セドリック・シュートリネン様から予想外のダンスの誘いを受けた。

 婚約者がいながらその婚約者とダンスを踊れない私に、恥を掻かせないための温かな気遣いだったとはいえ、彼の真っ直ぐな気持ちは単純に嬉しかった。

 あの後のダンスも本当に優しくエスコートしてくれたし、交わした会話も終始私を気遣うような優しい言葉ばかりだった。


 しかし、私の思い当たる限りでは、彼が私にあのような特別な対応をする理由が見当たらない。

 彼とは過去に二、三回言葉を交わした記憶しかなく、世間一般的に見れば決して親しいとは言えない関係だったのだ。

 あの日をきっかけに、廊下ですれ違う度にお互い挨拶を交わすようになっていた。

 相手は格上の子爵家の人間で、有名な魔術師の名門の出。

 仮にこれを家同士の政治的な策略として考えてみても、やはりシュートリネン家が只の男爵家であるヴェイル家に干渉するメリットなどどこにも見当たらない。


 ふと、あの日出会った不思議な雰囲気を持った少女騎士——シルフィーネの事を思い出した。

 彼女の案内された喫茶店で語られた言葉が、再び脳裏に鮮明に過ぎる。


 ——なら、彼の不正を暴けばいい。彼が不正を働いたのが事実なら、それは立派な不祥事でしょ。


 私が婚約者——レオハルド・レッドベルとの未来を諦めるという明確な意思を示した際、彼女が当然のように言い放った言葉だ。

 現状、レッドベル家との婚約は正式に解消されておらず、表向きはまだ彼と婚約者を演じている。

 だけど先日の授業でのあの風景を見る限り、私とレオハルド様の関係の破綻はもう隠しきれないところまで来ているのだろう。

 彼にはリア・ラックウェルという本命の少女がいるようだし、このまま彼との不誠実な関係を続けようとも思えないし、すぐにでも全てを断ち切りたかった。


 私はそんな思考に耽りながら、自室の置き時計を確認する。

 そろそろ家を出なければいけない時間だ。私は腰かけていたベッドから静かに立ち上がり——ふとベランダへと視線を向けた。

 先日、シルフィーネは去り際に『それじゃ、またね』と確かに告げてくれた。

 私は彼女とまた会える事を心から嬉しく思って——後になって連絡先を一切聞いていないことに気付いてしまったのだった。


 彼女は聖国の騎士団に所属しているのだから、騎士団本部を直接訪ねれば会えるかもしれない。

 けれど、急に押しかけるのも大変失礼だし、あの彼女のマイペースな性格なら騎士団で大人しく執務をしているとも限らない。

 彼女と過ごした時間は決して多くはないけれど、なんとなくそんな気がするのだ。


 私は小さく溜め息を一つ落とすと、今度こそ自室の扉を開けて、一階へと続く階段を下りていった。 


「あ、ユナ……」


 リビングには、心配そうな表情で声をかけて来たお母様と、真面目で厳しい顔色をしたお父様の姿があった。


「……ユナ。レッドベル家との婚約の話だが——」

「…………」


 恐らく、お父様はレッドベル家とヴェイル家の婚約を今すぐにでも破談にしたいのだ。

 先日の王立院の授業での惨状は、すでにお父様の耳にも入っているのだろう。

 いくら昔からの親しい間柄とはいえ、婚約者を差し置いて別の女性と睦まじくダンスを踊るというのは、親としてどう考えても強い不安と怒りを覚える。

 幼少期の頃から決められていた家同士の利益を踏まえた婚約とはいえ、お父様は抑えきれない怒りさえ感じさせる勢いだった。


 しかし、レッドベル家側の言い訳としては『仲の良い者とたった一曲踊っただけだ』『他の貴族を指導するため』等、いくらでも身勝手な不貞の誤魔化しが考えられる。

 明確な不祥事として立証できない以上、公式な罪として処理は出来ない。


 それでもヴェイル家側から一方的に婚約を解消したい場合、ヴェイル家は膨大な違約金を相手に支払う事になってしまう。

 今のヴェイル家にそんな大金を支払える余裕などない。つまりは、理不尽に泣き寝入りするしかないはずなのだが——


「やはりどう考えても、彼の行動はあまりに目に余る。あんな不誠実な人間に、お前の大切な未来を任せる訳にはいかない」


「……でもお父様。ヴェイル家から一方的に婚約破棄なんて……」


「……安心しなさい、ユナ。お前は何も心配しなくていい。金なら、父さんがなんとか工面する」


「そうよ、ユナ。これは私たち二人で決めたことなの」


 お父様とお母様は、固い覚悟を決めたように力強く頷き合った。

 けれど、そんな簡単な言葉で片付けられる話ではないのだ。

 一度ヴェイル家から婚約を破棄されれば、『ヴェイル家側にも何か重大な問題があったのでは?』と世間から疑われ、私に次の婚約の話など二度と来なくなるかもしれない。

 そうなればヴェイル家は跡継ぎに困り、最終的には我が家の存続さえ危うくなってしまう——


「大丈夫だよ、ユナ。私に任せなさい」


 お父様はそう言って、私を優しくしっかりと抱き締めてくれた。


——どうして、こんなことになってしまったんだろう。


 私は何か悪いことでもしてしまったのだろうか?

いつだって毎日勤勉に振る舞ってきたつもりだし、彼の婚約者として彼を支えるために努力だって決して惜しんだつもりはなかった。

 彼が変わり始めたのは、一体いつだっただろうか

 幼少期はもちろん、成長してからも彼はいつも優しかった。

 彼が変わり始めたのは、三ヶ月ほど前だったか。まるで人が変わったように、急に性格や態度が冷たくなった気がする。


 思えば、ちょうどこの時期からリア・ラックウェル令嬢と急速に親しくなっていたのだろう。

 私との大切な約束よりも彼女との約束を優先するようになったのも、きっと——


「…………」


 私はお父様の温かい腕の中で静かに考えを巡らせる。

 子爵家からして見れば、男爵家との婚約は家格が下がる結婚なのだ。

 いくら過去の家同士の利益や付き合いの深さを考えても、格下であるという事実は変わらない。


 きっと、次期当主としてのプレッシャーから、格下の男爵令嬢より子爵以上…最低でも同格の相手との結婚を新しく考え直したに違いない。

 ラックウェル家は子爵家なので、彼の高望みな理想にもぴったり当てはまる。


——この髪留めとも、もうお別れなのかもしれない。


 私は幼少期に、まだ優しかったレオハルドから贈られた『ツンベルグ・スピレア』の花の髪留めにそっと指先で触れた。

 彼との本当の決別を示すためにも、この思い出の髪留めはもう二度と付けない方がいいのだろう。


そんな切ない思考が、私の頭の片隅に深く残っていた。


◇ ◇ ◇


 聖ラウラント王立院の院内には立派な図書館が存在する。

 ここには沢山の書物が保管されており、高い天井まで届く本棚が迷路のように連なっている。

 古い羊皮紙とインクの匂いが漂う静謐な空間は、流石は賢者プトレマイオス様が設立された王立院なだけあるだろう。


 私は課題の為の資料を探しに図書館に訪れていた。ここは普段、合同授業以外では干渉の場がない男女が顔を会わせられる数少ない場所である。

 親しい男女はこの図書館で勉強を口実に逢い引きしている——という噂を聞いたことがある。


 もちろん私には以前も今も関係のない話なのだが。


 入り口付近のテーブルでは中睦まじそうな男女が仲良く談笑している。

 視線を交わす様子は、もしかしたら婚約者同士なのかもしれない。

 そんな彼らの甘い空気に当てられ、今の私には気まずくて逃げるように奥の窓際の席に腰を下ろした。

 幸いに周辺には人が居らず、静寂だけが私の心を少し落ち着かせてくれた。


「……はぁ」


 思わず溜め息を吐く。

 気分を切り替える為に選んだ本を開こうと手を伸ばした。


「わぁ、落ち込んでるね。どうしたの?」


「————!?」


 すぐ近く、厳密には窓の方から声が聞こえた。その鈴を転がすような声は、先日のあの少女の声で——


「し、シルフィ!?」

「しー…図書館では静かに、でしょ?」


 驚いて顔を上げると、いつの間にか窓は開け放たれていて、窓の框にひょいと腰かけた彼女がいた。

『図書館では静かに』と人差し指を唇に当てて注意されたが、そもそも彼女は窓際に座っているのはいいのだろうか……とツッコミを入れたくなる。


「そ、それより!いつからいたの……?」

「ん?……ちょっと前」


 いきなり現れた彼女に慌てて問うが、彼女は平然と短く答えただけだった。

 ちなみにここは二階だ。壁面は滑らかで簡単に上れるような位置にないし、上ってこられるような足場は存在しない筈だが——彼女にとっては平地の散歩と変わらないのだろう。


「それより動かないの?」

「え?動く?」

「そ、レッドベルの不祥事を暴くって話」


 さも当然と言うように話すシルフィ。しかしどうやって暴くというのか。

 実行犯はレオハルドの傍付きの人間で、彼に問いただしたところではぐらかされるのは目に見えている。

 素直に『私がやりました』とは白状しないだろう。

 自分の立場が悪くなるのに加え、学生の大半が上位貴族であるこの王立院で、男爵令嬢の私が格上の相手に確認出来るわけがない。

 仮に同格だったとしても、表向き証拠がない事案を嗅ぎ回っているなんて、印象が悪いどころではないのだ。


「……無理だよ、シルフィ。仮に本当に不祥事を起こしていたとしても——」


「一人じゃ不安?なら二人ならどう?」


「え、二人?」


 それはつまり、シルフィが手伝ってくれると言うことだろうか。

 確かに彼女は王国の騎士——それもあの凄腕揃いと名高い《十二勇士》の一人だ。

 そんな絶対的な権力者が動けば、間違いなく相手も無視出来ない筈!


「あ、ありがとう。シルフィが手伝ってくれるなら——」


「あ、私じゃないよ。流石に直接関わったら私の糖分が……じゃなくて、うちの隊長に怒られる」


 ——ぬか喜びとはこの事だ。「糖分」という謎の単語は気になったが、彼女の所属部隊である偵察部隊隊長——ミカ様だろうか——の厳しい顔が浮かんだのだろう。

 確かに冷静になれば、一国の勇士が学生の個人的な事情に関われる筈がない。

 私は今更ながらに自身の身の程知らずな行いに恥ずかしくなり、彼女に謝罪をしようとした。


「……あの、ごめんなさ——」


「だから助っ人を頼んでおいた。彼も君に協力したいらしいよ。良かったね」


 ——助っ人?はてそんな善良な人物などいるだろうか?自分から厄介事に首を突っ込みたいという物好きな人間など——


 そこまで考えたところで、ふと、こちらに近づいてくる確かな人の気配を感じた。

 私は自然とその人物に視線を向ける。


 ——赤みがかった気品ある髪と、透明感のある薄橙色の瞳。


 そのすらりとした姿が視界に完全に入り、脳がその人物を認識した瞬間、私は弾かれたように椅子から腰を浮かせていた。


「シュートリネン様……」

「ごきげんよう、ヴェイル嬢。貴女も勉強を?」

「は、はい……」


 思わず少し緊張してしまう。整った顔立ちに気品のある立ち姿。

 なにより格上の子爵家、先日助けられたこともあり、私はどう接していいのか分からなかった。


 ——幸運を祈る。君に風の導きが在らんことを。


 不意に、そんな少女——シルフィーネの声が、耳からではなく直接脳内に響き渡った。

 魔力を帯びた、彼女独自の魔術なのだろうか?


「——……!」


 私は突然の衝撃的な現象に驚いて、バッと彼女の方へ振り向いた。


「……?ヴェイル嬢、どうかなさいましたか?」


 シュートリネン様が、私の不自然な動きに心配そうな声色で問いかけてくれる。しかし私はその声に反応できる余裕がなかった。


 ——何故なら、先程まで窓枠に座っていた彼女の姿は忽然と消えていたからだ。

 しかも、ついさっきまで開け放たれていた窓は綺麗に閉められていて、出入りした痕跡は一つもない。


「え……?だって今……そこに……」

「そこに……?」

「シュートリネン様!今そこにシルフィ……少女が……!」


 シュートリネン様は私の慌てた様子に困惑しつつも、周囲を冷静に見渡し、しっかりとした様子で答えた。


「少女……?いえ、遠目から貴女の姿を見つけましたが、貴女はお一人でしたよね?——ふむ?しかし窓は確かに開いていましたが。……風の勢いで閉まったのでしょうか……」


「…………えぇ?」


 ——本当に、自由気ままな風のようだ。


 彼女が女王陛下より賜った《朔風騎士》の二つ名は、伊達ではないということなのか。

 魔法のような隠密行動に、私はただ呆然とするしかなかった。


 私とシュートリネン様は暫く、綺麗に閉まった窓を見つめて立ち尽くしていた。

 やがて、静寂を取り戻した図書館の隅で、シュートリネン様が小さく咳払いをして静かに口を開く。


「……その、お邪魔でしたでしょうか?」


「いえ……失礼しました。シュートリネン様」


「失礼というわけでは……ヴェイル嬢。実は以前から、お伝えしようと思っていた事があるのです」


 如何にも真剣、といった熱い眼差しで見つめられ、私は勢いよく頷いた。

 その必死な私の様子にシュートリネン様は柔らかく微笑むと、こう告げた。


「その『シュートリネン様』というのは止めませんか?名を呼ぶにしては、些か長いでしょう?」


「え?いや……しかし、そんな畏れ多い事は……」


 つまり、家名のシュートリネンという堅苦しい名前ではなく、セドリックというファーストネームで呼んでほしいという事なのだろう。

 でも格上の貴族に対して、幾らなんでも二つ返事で頷けるものではない。 


「……いけませんか?」

「………………」


 私を見つめるシュートリネン様の表情は、一言で言うとまるで捨てられた子犬のようだった。

 しかもこの上目遣いは、きっと己の端正な顔立ちを完璧に理解していて、わざとやっているのでは?とさえ疑ってしまう程に可憐でずるい表情だった。


 ——結局。


 私はその魅力的な申し出に、大人しく頷く事になってしまうのだが。


「……あの、シュー……せ、セドリック様は、シルフィの事を御存知ですか?」


「シルフィ……?もしや、《朔風騎士》シルフィーネ様のことでしょうか?ええ、勿論。王国の誇りある高名な騎士ですから、王国民で彼女の名を知らぬ者はいないでしょう」


 この何でもないような様子だと、直接深い面識があるようには思えない。

 だけれど、彼女は確かに『助っ人を頼んでおいた』と言っていたのだ。

 てっきりセドリック様とも直接面識があるものとばかり思っていたのだが……。


「では……セドリック様……は本当に偶然ここに?」


 彼は一瞬押し黙ったが、やがて降参したようにふっと息を吐いた。そして静かに語りだしたのだ。


「鋭いですね、ヴェイル嬢」


「あの、セドリック様。私がお名前でお呼びするのに、セドリック様だけが私を名前で呼ばないのも……なんだか失礼……?な気がして……」


 そこまで口にして、私は自分がとんでもなく図々しいお願いをしていることにハッと気付いてしまった。

 つまり『私のことも名前で呼んでほしい』と、厚かましくお願いしてしまったのだ。

 すぐに撤回の言葉を吐き出さなければ——そこまで考えて必死に口を開こうとした瞬間、彼の言葉が私の焦った声より先に出ていた。


「本当ですか?——では私も、ユナ嬢とお呼びしても!?」

「あ、はい……」


 なんだろう。気のせいか、彼が少し嬉しそうに目を輝かせている気がする。

 そんなわけがないのだが、きっと優しい彼のことだ、私に気を遣って無理をしているに違いない。 

 私はポッと熱くなった頬を隠すように、コホンと咳払いをして気持ちを切り替えることにした。実際はただ気恥ずかしいだけだったのだが。


「……セドリック様。繰り返すようで申し訳ないのですが……」


「あぁ、すみません。先程の続きですね。——実は、偶然ではないのです」


「や、やはり……!」


 では、シルフィを通じた誰か——きっとどこかの高名な貴族が、シュートリネン家に直接話を通してくれたのだろう。

 同格である子爵家か、もしくはそれ以上の伯爵家、まさか侯爵家ということはないだろうが……とにかくとても強い力を持った貴族の助力が裏であったに違いないのだ。


「ユナ嬢、貴女と私が初めてお会いした場所を覚えていらっしゃいますか?」


「え?セドリック様と……?」


——確か……この王立院の図書館の……。


 そうだ。図書館の深い歴史書がズラリと並ぶ本棚の前だった。

 授業の一環で学んだ歴史の背景が気になって、放課後に足を運んだはずだ。


「歴史書のある本棚の……」

「はい!そこで偶々同じ歴史書を読んでいて——」


 段々と鮮明に思い出してきた気がする。確かにあの時、歴史の話題で意気投合していくつか話をしたのだ。

 だけどそれから言葉を交わしたのは一回か二回だったはず。いくら話をして意気投合したからと言って、こんな厄介事に協力して貰える理由にはならない。

 いくらセドリック様が心優しく、正義感が強い方だとしても、だ。


「……失礼。少し取り乱しました。貴女はご存知ないでしょうが、そのお話以降、私はずっと貴女の立ち振舞いが気になるようになり……つまり私個人としては、友人としてご協力申し上げたいのです!」


「それは……とてもありがたく、嬉しいのですが……ご迷惑では?最悪の場合、セドリック様の家格にも傷が……」


 セドリック様は静かに、けれど強く首を振った。断固とした否定。

 彼は静かな憤りでも感じるように、真っ直ぐと薄橙色の綺麗な瞳を私へ向けている。


「……私は、婚約者がいながら他の女性と不誠実な関係を築くあの方が許せないのです。——貴女はこんなにも真面目で、陰で努力なさっているのに」


「…………セドリック様」


 まさかセドリック様が、私にそんな温かな評価をしてくれていたとは思いも寄らなかった。

 関わり自体は少なくても、彼は私の事をずっと陰ながら静かに見守ってくれていたのかもしれない。

 それは本当に光栄なことで、素直に誇らしく、胸が熱くなる事だった。


「……そういう訳ですので、私も全力で協力します。貴女に対する私の気持ちを差し引いても、試験のカンニング——まだ決定的な証拠はありませんが——をするなど断じて許せません。真面目に勉学に心血を注いでいる人間に失礼ではありませんか」


 その熱を持った真摯な言葉に、私は深く胸を打たれる思いだった。なんて誠実で、強い正義感に溢れた方だろう、と。


「ありがとうございます、セドリック様……そこまで仰っていただけるなんて……」


「私は、ただ事実を言ったまでですよ」


 彼は眩しい微笑みと共に、すっと片手を差し出してきた。言わずとも、固い握手を求められているのだと分かった。

 彼には家格や名誉よりも大切なものがあるようだった。決して譲れない高潔な信条というものだろうか。


「よろしくお願いいたします!」


 私はそんな感謝の言葉で返すことしかできなかったけれど、私のおずおずとした様子で差し出した小さな手を、彼は温かく力強い手で握り返してくれたのだ。


 ——かくして、セドリック様と私による、レオハルド・レッドベルの不祥事を暴く『不祥事討伐同盟』が固く結成されたのである。


 その後は放課後に会う約束を取り付けて、私は教室に戻った。

 教室の重い扉を開けた瞬間、周囲からこちらを気遣うような微妙な視線が一斉に突き刺さり、中には哀れみや陰湿な失笑が紛れているようだったけれど、今の私はもう気にしない。


「あ、ユナ!おかえり!」


 そう元気よく明るい声で話しかけてきてくれたのは、セレナだった。

 彼女は私の現在の苦しい立場に気を遣ってくれているのだろう、努めて明るく快活に接してくれているようだった。


「……ユナ、少し顔色が良くなった気がするわ……何か良いことでもあったの?」


 続くベルナデッタは、私の表情の変化を目ざとく察して安堵したように小さく息を吐いた。

 本当に鋭く、察しのよい友人である。


「……そう?少しセドリック様とお話したからかもしれないわ」


「え!セドリック様って……あのシュートリネン様よね!素敵じゃない!」


「落ち着きなさい、セレナ。……それはいいことかもしれないけれど……でも、本当にいいの?ユナ。まだレオハルド様との婚約は続いているのでしょう?」


「……少しお話しただけで——」


 ベルナデッタの慎重な言葉は、心から私を気遣ってくれてのことだ。

 表向きはレオハルドがリア令嬢にうつつを抜かしたと思われているが、正式に婚約を継続している現状で私も同じような軽率な振舞いをしてしまえば、更に火種は広まってしまうのだから。


 私は二人に再度、落ち着いて事情を説明した。

 もちろん、セドリック様とレオハルドの不祥事の調査を共同で行うという極秘の計画については伏せたまま。

 説明を静かに聞いていた二人は、それぞれ全く違うリアクションを見せた。


 セレナは納得したように勢いよく頷き『この際、あんな奴捨てて素敵なシュートリネン様に乗り換えちゃえ!』などという衝撃の爆弾発言をし、ベルナデッタは少し心配の色を浮かべつつも『……もし将来的にシュートリネン様をお慕いすることになるなら、きちんとレオハルド様との関係を完全に清算してからにするのよ』という実に真面目で誠実なアドバイスをくれたのだった。


 私はそんな温かい友人たちの言葉に深く感謝した。本当に良い友人を持ったものだ、と。


「二人とも、本当にありがとう」


「——へぇ?もう次の殿方?随分とお尻が軽いのねぇ?」


 教室の後方から、明らかに人を馬鹿にした甲高い声が響き渡った。

 セレナは瞬時に『げ』という嫌そうな顔をし、ベルナデッタも声には出さないものの不快そうに眉をひそめている。

 教室周辺の他の生徒たちも、声の主であるリア・ラックウェルの登場になんとも言えない引きつった表情を浮かべていた。


「……どういう意味でしょうか、ラックウェル様」


「ユナ様ってば、もしかして天然キャラですかぁ?レオハルド様に愛想尽かされたからって、次は名門のシュートリネン様?そんなんだから、レオハルド様に呆れられて捨てられちゃうんですよ!」


「ちょ……!貴女ね!!」


「落ち着いて、セレナ!」


 あまりの言い草にセレナがたまらずリアに詰め寄ろうと一歩踏み出すが、ベルナデッタが彼女の腕をぎゅっと押さえる形で押しとどめた。

 リアは勝ち誇ったようにニヤリと嘲笑うと、再び私に向けて言葉を吐き捨てる。


「そんなことしても無駄ですよ!そ・れ・よ・り!早く違約金を払ってくれません?それでレオハルド様と素敵な歌劇を鑑賞して、おいしい食事に行くんですから!」


「…………」


 彼女の堂々とした不貞の逢い引き宣言に、流石に周囲の生徒たちからもざわめきとどよめきが走った。

 いくらレッドベル家とヴェイル家の婚約が実質破談しかけているからといえ、一応公には婚約状態なのだ。

 そんな時に人前で堂々と『私は不貞行為をします!』と宣言したのも同義であった。


「まぁ……なんてふしだらな……」

「ラックウェル家はいつからあんな品性のない教育を……」


 先ほどまで激しい怒りを露にしていたセレナでさえ、あまりの常識のなさに顔を真っ青にしてリアの言葉に絶句しており、ベルナデッタも呆れたように無言で首を振った。

 正直、リア・ラックウェル令嬢がここまで貴族としての知識や品性が足りない人間だとは思わなかった。


「そう言うことだから、ちゃんと速やかに払ってよね。貧乏貴族でも、それくらいかき集められるでしょ?——じゃあ、ごめんあそばせ。負・け・犬♡」


 最大限の屈辱を与えたつもりなのだろう。ラックウェル嬢はご機嫌な様子で、鼻歌交じりに去っていった。途中で嬉しそうにスキップまでして。


「……ユナ!あんなやつの言うことなんて気にすることないわ!!なんなのあの子!?あり得ない!!」


「私も同感だわ……ラックウェル家はどういう教育をしているの……!?」


 憤りを隠せない二人に対して、私の頭は自分でも驚くほど意外に冷えていた。

 もちろん腹は立つし屈辱は感じる。しかし自分より周りの友人が激怒してくれていると冷静になれるものなのか、それとも彼女のあまりの知能の低さに呆れて言葉が出なかったせいもあるのかもしれない。


「二人ともありがとう……私、本当に大丈夫です」


「大丈夫じゃないでしょ!あんなこと言われて……私、今すぐラックウェル家に抗議の苦情文を叩きつけてやるわ!」


「そこまでは……」


「……苦情文はともかく。本当に酷いわ……ユナ、とても傷ついたでしょう?……これからは何でも私に相談して。必ず力になるわ」


「ありがとう、ベルナデッタ、セレナ。でも本当に大丈夫!」


 私は強がりではなく、自分の意志で穏やかに笑ってみせた。

 なぜだか、心の中はとても前向きになれていたのだ。セドリック様という大きな家格を持つ方が協力してくれているという精神的な余裕があるからかもしれない。


 あともう一つは、あの彼女——シルフィの存在だ。


 風のようにフラりと現れては、いつの間にか去ってしまう不思議な騎士様。

 けれど彼女にあの日かけてもらった『手を離してごらん』という言葉が、今も私の胸を力強く満たしてくれている。


 過去の手を離すということは、新しい別の何かに手を伸ばすということだ。


 今まで諦めていたことや、我慢していたこと、勇気が出なかったことも、彼女のまっすぐな行動や言葉を思い出すだけで、前へ進むための確かな行動原理になる気がした。


——だから大丈夫。私はもう、一人でもちゃんと立っていられる。


 そんな強い気持ちを込めて、私は微笑んでいた。

これからどんなに辛い事が続いても、悔しくてたくさん泣いてしまっても、最後には必ず自分自身の足で立ち上がれるように。

 そんな凛とした心境で、私はもう一度、二人の大切な友人を安心させるように力強く笑っていたのだ。


 ————翌朝、リア・ラックウェルの死体が王立院の裏庭に転がっている惨劇の現場を、人混みの中から目撃するまでは。


◇ ◇ ◇


 まず耳に届いたのは、女生徒たちの甲高い悲鳴だった。

次いで『先生を呼んで!早く!!』という、切羽詰まった叫び声が校内に大きく響き渡った。

 私はセレナとベルナデッタと共に、朝の教室に向かっている最中だった。


 昨日の放課後、私はセドリック様と共にレオハルドの傍付きの男子生徒の元へ直接話を聞きに行ったのだ。

 子爵家で魔術の名門であるシュートリネンの名前が出たことにより、最初は関与を渋っていたその生徒も『レ、レオハルド様に強く言われて…仕方なく…で、でも!本当に紙を部屋から持ってきただけなんだ!』と焦りながら白状したものの、それ以上は本当に何も知らない様子だった。


 しかし、それではどう考えてもおかしい。試験問題は王立院の教官室で厳重に保管されている筈だ。

 一学生が簡単に持ち出せる訳がない。彼の言葉によると『教官室の机の上にぽつんと置いてあった』との一点張りで、これ以上彼から話を聞いても時間の無駄だと判断した私とセドリック様は、その後レオハルドの周囲の人間に聞き込みを行ったのだった。


 すると周囲からは『最近どこか様子がおかしい』や『以前より態度が乱暴になった』という彼の急激な性格の変化についての証拠となり得る情報は得られたものの、決定的な不祥事の証拠には至らず、一度情報の整理をした後にセドリック様にヴェイル家の屋敷まで親切に送って貰ったのだ。


 そんな昨日の出来事を思考しながら歩いていた矢先に、騒がしい人混み間の隙間から、見えてはいけないものがはっきりと見えてしまったのだ。

 登校時間で生徒の人通りも多い時間帯、一目見るだけで完全に死んでいることが分かってしまった。

 赤黒い血が流れていた。それも、地面を染めるほどに大量に。


「……!?こ、これは——とにかく!皆さん離れて!!」


 駆けつけた複数の先生たちによって、悲鳴を上げる生徒たちは現場から遠ざけられた。

 程なくして、騒ぎを聞きつけた王国の衛兵と騎士たちが現場へとやって来た。


 私はどうしても気になってしまい、生まれて初めて見る本物の死体から沸き立つ激しい嫌悪感を必死で我慢して、遠巻きに現場の様子を伺っていた。

 いくら憎まれ口を叩かれたとはいえ、昨日まで会話をしていた人物だ。

 多少なりとも関わりがあった以上、私にも少なからず事情聴取は免れないだろう。


「ユナ。やっぱり教室へ戻りましょう。セレナは先に戻ったわ。私達も……」


 ベルナデッタが真っ青な顔で私にそっとハンカチを渡しながら、気遣うように声をかけてくれた。

 思わず受け取ったハンカチには、鮮やかな色彩と、ボリュームのある豪華な花柄が美しくプリントされていた。

 あまりにも綺麗な刺繍なので、こんな悲惨な場所で使うのは勿体無い……なんて無理やりな現実逃避をしてみるが、やはり身体の奥から込み上げる胃の不快感はどうしようもなかった。


「……これは酷いですね……」


「後頭部を一発。致命傷はそれだけど、身体中に大きな打撲痕があるな…死因は大量出血によるショック死か?」


「アラベル卿、こちらを——」


 アラベルと呼ばれた茶髪の若い男性騎士は、衛兵の一人から何か小さな証拠品を受け取っていた。こちらからは角度的に見ることはできない。


「なんだこれ……?何かの繊維か…?糸かな?」


「すぐに鑑定と検査に回します!」


「頼むよ。——それにしても、ほんと酷い殺し方だな。エルンがいなくて良かったよ。流石にこんなむごい現場、あの子に見せられないからなぁ…」


 参ったように頭を掻きながら、その青年騎士は重い息を吐くと、隣に立つ別の騎士と何やら深刻そうに会話を繰り返していた。そして——


「あっちの令嬢が——」

「……まあ、話を聞かないわけにはいかないよなぁ……」


 覚悟を決めるかのように、青年騎士は腰の剣の柄を一度ギュッと握りしめると、まっすぐこちらに向かって歩いて来た。

 やはり事情聴取だろう。

 こうなることは分かっていたし、私としても捜査の情報を少しでも手に入られるかもしれない。


「こんにちは。君がユナ・フォン・ヴェイル嬢かな?」


「…………はい」


「知人がこんなことになった直後に悪いんだけど……少し話を聞かせてくれないかな?」


 本当に申し訳なさそうに優しく言うものだから、私の方も釣られて恐縮して頭を下げた。

 では別室に、と案内される直前、私の横でずっと沈黙を貫いていたベルナデッタが、突然声を荒げたのだった。

 いつも冷たいくらい冷静な彼女が声を張り上げるなんて、本当に珍しいことだった。


「ちょっと待ってください!こんな大変な時に……!」


「ごめんよ。でも被害者の直前の人間関係を考えると、彼女に話を聞かないわけにはいかなくて……」


「それって、ユナを疑ってるって事ですか!?——ユナはそんな恐ろしいこと絶対にしません!」


「お、落ち着いて、ベルナデッタ……!」


「でも……!こんなのあんまりよ!!」


 明らかに普段の冷静さを失っているベルナデッタに私は心底驚きつつも、彼女の背中を優しく撫でることで少しでも落ち着かせようとする。

 彼女は私自身が殺人の疑いをかけられていると思ったのだろう。

 彼女は憤慨したように『ユナが行くなら、私も一緒に行く!』と意地でも折れずに一点張りだった。


「……どうする?ラバ?」


「んん……!まぁ、この令嬢も関係者の関係者だし……いいんじゃないかな……」


「いいのかよ……あとで隊長に怒られるんじゃ……」


「それは大丈夫だよ。あの人、そういうの割と緩いし」


——大丈夫なのかな、色々と……。


 そんな少し拍子抜けするような感想を抱いてしまったけれど、私たちは騎士たちに連れられ、校内の別室で事情聴取を受けることになったのだった。

 私たちは静かな応接室に通された。私とベルナデッタが重厚なソファーに深く腰を下ろすと、騎士は落ち着いた柔らかい声色で、こちらを安心させるように優しく問いかけてきた。


「俺は聖ラウラント王国騎士団、前線部隊第六小隊所属、ラバック・アラベルだよ。——よろしくね」


 すっと握手を求められ、私は素直にその手に応じた。次いでベルナデッタも、少しだけ本来の落ち着きを取り戻したのか、おずおずといった様子ではあったものの、彼の持つ温厚で人の良さそうな雰囲気に毒気を抜かれたのか、静かに握手に応じたのだった。


「……えっと、改めて聞くんだけど…被害者——リア・ラックウェルとはどんな関係だったのかな?」


「…………えっと」


 ——一体、なんと説明するべきだろうか。


 真っ先に脳裏に浮かんだのは、そんな答えに詰まる思考だった。

 すぐに答えなければ余計に怪しまれてしまうのではないか、という強い焦りが胸を締め付ける。

 私はラックウェル嬢と決して関係がよくなかったし、事情を知らない第三者から見れば『私が彼女に大切な婚約者を奪われた腹いせに殺した』と考えられてしまう可能性は十分過ぎるほどあったのだから。


「ユナは……その被害者の方から酷い嫌悪と嫌がらせを受けていました!酷い暴言だって日常的に沢山言われていたんです!」


 そう凛とした声で毅然と答えたのは、隣のベルナデッタだった。

 ラバック・アラベルと名乗った騎士は、懐から一枚の羊皮紙を取り出すと、そこに記されている細かな文字をじっと見つめた。


「——あぁ、そういう関係……ごめんね。聞きにくいこと聞いちゃって……」


「い、いえ……」


「ユナは犯人じゃありません!そもそも、学外の部外者による犯行とは考えられないんですか!?——たとえば、あの恐ろしい殺人ギルドとか……!」


 ベルナデッタが言っている殺人ギルドとは、かつて存在した《嗤う骸骨スカル・コフィン》のことだろう。

 四年前に王都を恐怖のどん底に陥れた殺人ギルドによる犯行では?と、ベルナデッタは必死に考えているようだった。


「いやいやお嬢さん、あの変態野郎共は四年前の事件で殆ど壊滅したんだ。それに、王立院の厳しい警備を外部から簡単に突破して侵入できるとは思えないよ」


 すぐさま、ラバックの隣に立つもう一人の騎士が、ベルナデッタの推測に対して冷静に反論した。


「それに……あ、ちょっと怖い話になっちゃうんだけど……」


「……大丈夫……です」


「ありがとう。……死体の痕跡と状態から判断するに、犯人は被害者に対して相当強い憎しみと恨みを持っていたみたいなんだ。致命傷を与えた後も、何度も激しく打撲痕が残るほど殴っている。刃物の類いは一切使わず、血が大量に出るまで惨殺しているし…」


 ここでベルナデッタが、静かに、けれど強い反論の言葉を返した。

 その声色には抑えきれない怒気が混じっているような気がする。

 こんな感情的になるベルナデッタを見るのは、出会ってから初めてのことかもしれない。


「それがなんだって言うんですか!?……残忍な殺人鬼なら夜に紛れて侵入するとか……いくらだって考えられるじゃ——」


「いや。俺が以前記録で読んだスカコフの手口や殺し方とは全く違う。そもそも被害者は、たった一人でいたところを不意を突かれて襲われているんだ。知人かもしくは、彼女自身が一切の警戒心を抱かない相手にね」


 ——つまり、仮に殺人ギルドの人間が彼女を呼び出したのだとすれば、彼女は当然警戒するはずだ。

 そもそも見知らぬ怪しい相手から夜間に呼び出されて素直に応じるような性格でもないだろう。


 殺しそのものを楽しむと言われていた殺人ギルドの暗殺者なら、暗い夜道か、あるいは直接部屋に不法侵入して殺害するはずなのだ。


「大体の犯行推定時間は、昨夜の二十二時~深夜三時の間。王立院の学生なら、放課後の忘れ物などを理由に出入りしていても周囲から怪しまれないし、夜警の見回りルートだって熟知している」


——つまり、彼は私を疑っているのだ。


「……私は、彼女を殺していません」


「明らかに言いがかりだわ!夜の二十二時以降なら、彼女が自宅にいるに決まってるじゃない!!」


 ベルナデッタが私を庇うように強く手を取りながら、声を荒げて激しく発言する。

 このような事態は捜査の中で想定済みだったのか、それとも経験があるからなのか、二人の騎士は全てを察したように静かに沈黙を守っていた。


「……はぁ、はぁ……そうでしょう?ユナ。貴女は昨夜、ずっとヴェイルの屋敷にいたわよね!?」


「……はい。ずっと自室で本を読んでいました。両親も使用人も、私が家にいたと証明してくれる筈で——」


「…………あ——…えっと」


「おい、ラバ。誤魔化さずにちゃんと言えよ」


 隣の騎士に肘で突っつかれたラバックは、暫く言いづらそうに困惑した琥珀色の瞳を迷わせていたが、やがて意を決したようにまっすぐ視線をこちらに向けた。


「ヴェイル嬢。実は身内の証言っていうのは、アリバイの成立には適応されないんだ。——どうしても身内同士で事件を隠蔽している可能性があると見なされちゃうから……確実な第三者の証言じゃないと……」


「え……」


「そんな……!いい加減にして!!そんな深夜の時間帯に、偶然第三者がいると思ってるの!?事前に約束でもしていない限り、そんな時間に家に客なんて来るわけないじゃない!!」


 ベルナデッタの怒りはさらに頂点に達していた。対する私も、底知れない恐怖と不安に深く駆られていた。

 昨夜は確かにずっと家の中にいた。けれど、それを証明してくれる確かな存在は今しがた否定されてしまったのだ。

 自分は何もしていない完全な潔白だというのに、それを証明する手立てが何一つ存在しない。


 私は無実の罪で捕まってしまう底なしの恐怖で、目尻にじんわりと涙が浮かぶのを感じた。

 実際、客観的な捜査の目で見れば、婚約者を奪われ、日常的に嫌がらせや激しい暴言を吐かれ続けた深い恨みで、彼女——リア令嬢を殺したと疑われるのも無理はないのだ。


 殺害の動機は十分で、王立院の学生である以上は夜間でも校内に立ち入れるし、夜警の見回りルートも実際によく知っている。

 何よりリア・ラックウェルが何の警戒心も抱かずに呼び出しに応じる相手。 

 リア令嬢のプライドが高い性格なら、仮に私が呼び出しても勝ち誇った顔で応じるだろう。


——つまり、私には反論できる材料が何一つないのだ。


「ヴェイル嬢……」

「私は——」


 ベルナデッタが私の隣で『大丈夫……私は……私だけは絶対にユナを信じているから……』と震える声で励まし続けてくれることが、今の私の唯一の救いだった。


「ちょっと!関係者以外立ち入り禁止です!」

「通してください!私はどうしても——」


 応接室の外の廊下から、緊迫した押し問答の声が響いてきた。

 見張りの衛兵が必死に誰かを押さえ込んでいる声だ。そして、そのもう片方の切羽詰まった声の主を、私はよく知っていた。

 昨日も何度も耳にした、あの方の声——


「セドリック様……!」


「おいおい……部外者は入ってこられちゃ困るんだが……」


「……入れてあげよう。通してくれ」


 ラバックのその声に、ドアの外で揉めていた衛兵とセドリック様の押し問答がピタリと止まった。

 そして、勢いよく応接室の扉が開かれた。


「ユナ嬢!事情聴取に呼ばれたと聞いて……!」

「セドリック様……わ、私……」


 私はセドリック様の顔を見たことで、それまで張り詰めていた糸が切れ、一気に安心感が込み上げてついにその場で泣き崩れてしまった。

 彼は慌てて懐から清潔そうな綺麗な青いハンカチを取り出すと、私にそっと渡してくれた。

 そして、私を少しでも落ち着かせるように、優しく背中をさすって撫でてくれたのだ。


「…………ユナ」


 ベルナデッタの私を労るような温かい視線も相まって、一度溢れ出した涙は一向に止まってくれそうになかった。

 セドリック様は私を背中に庇うように立ち塞がると、凛とした強い眼差しで二人の騎士を睨みつけた。


「……もしや、ユナ嬢を容疑者として疑っておられるのですか?」


「……ごめんよ。でも捜査の形式上、どうしても仕方のないことでね」


「彼女は——私、セドリック・シュートリネンが昨夜責任を持ってお屋敷までお送り届けいたしました。第三者である私が証言するのですから、彼女のアリバイは十分に立証されるでしょう!」


「それが犯行推定時間の間なら、な?それに仮に一度自宅に送った後、彼女がもう一度家から出ていたとしたら?送った後は当然そこで別れたんだろ?」


 セドリック様の毅然とした主張は、次の瞬間、ラバックの隣に立つ騎士の一人によって冷徹に論破されてしまっていた。

 確かに昨夜は話を聞いて回ったことで遅くなってしまい、自宅に着いたのは二十二時を少し過ぎた頃だった。

 彼とはヴェイル家の屋敷の前で別れた。それ以降の時間は、彼と一緒にいたわけではないのだ。


「そ、それは——しかし!彼女はそんな恐ろしいことをするような人間ではありません!シュートリネンの名にかけて私は彼女の潔白を誓います!」


「…………セドリック様——」


 自分の名誉すら賭けて私を信じ、ここまで言ってくれるなんて——


 でも、悲しいかな、どれだけ叫んでも厳格な捜査の現実は変わらない。

 騎士は聞き分けのない子供を諭すように重い溜め息を吐き、ラバックは静かに琥珀色の目を閉じて

——再び開くと、努めて冷静に言葉を発した。


「いいかい、情に流されちゃダメなんだ。俺たちには決定的な『客観的証拠』が必要なんだよ。例えば——」


 彼が慎重に、けれど優しく言葉を紡ごうとした、まさにその刹那。


 ————風が吹いた。


 密室のはずの応接室に、ふわりと駆け抜ける優しい風。

 その風はまるで、私の頬を濡らす涙をそっと拭い去るかのように吹き抜けたのだ。

 そして直後、可憐でありながら絶対的な威厳を帯びた声が響いた。


「例えば、第三者がずっと彼女の姿を確認している……とか?」


「し、シルフィ……!?」 


「……え?」


 あまりに突然すぎる来訪者にベルナデッタは驚愕の表情を見せ、セドリック様もまた、どこからともなく現れた人物に言葉を失い、驚きの表情を隠せないまま絶句している。

 驚いたのは彼らだけではない。

 その場にいた騎士や衛兵までもが、あまりの衝撃にその場から指一本動かせないほど硬直していた。

 部屋の扉は固く閉まっているし、窓が開いているわけでもないのだ。

 一体どうやって入ってきたのか、これが高位の騎士や魔術師の技なのか——


「この件に関しては、聖ラウラント王国騎士団、偵察部隊副隊長、シルフィーネ・エレネストが責任を持って証明する。確かに犯行推定時間である夜二十二時~深夜三時までの間、ユナ・フォン・ヴェイルはセドリック・シュートリネンに自宅に送って貰った後、一歩も自宅を出ていない」 


「…………し、シルフィーネ様……何故ここに——あ、じゃなくて、何故昨夜ヴェイル家の屋敷を……」


「変質者じゃ……あ、違!違いますよ!!」


 一人の騎士が思わず口走った失言に気付き、青ざめた顔で必死に手を開いて誤魔化した。もう遅いのだが。

 対する当のシルフィは、至って澄ました顔で言い放った。


「別に?只の夜の散歩の帰り。ちょっと熱冷ましに屋根を借りただけだよ」


「その散歩って、どう考えても街外れの魔獣狩りじゃないですか……」


「しかも熱冷まし……?絶対屋根の上でうたた寝してただろ……」


「そこ、バッチリ聞こえてる。……ともかく!これにて第三者によるアリバイの成立!」


「…………」 


「セドリック様!セドリック様!」


「はっ!!私は一体……」


 どうやら、あまりにも衝撃的すぎる救世主の登場と怒涛の展開に、セドリック様は一瞬意識を飛ばしてしまっていたらしい。

 私は改めて、自分を救ってくれたシルフィの姿を見つめた。

 彼女は普段、自らの高貴な称号や名を大々的に明かすことを嫌っていたように思う。


 それなのに、私のアリバイを完全に証明するために、騎士たちの前であっさりと《朔風騎士》たる己の名を明かしてくれたのだ。  

 一国の勇士であり最高峰の騎士が、個人的な事情に介入するということがどれほど大きな影響力を及ぼすのか——それを分かった上で彼女は私を助けてくれたのだ。 


「動機から容疑者を考えるのはお勧めしないよ。それは本当の犯人を探しているんじゃなくて、『犯人であれば都合がいい人物』を探しているだけだからね。パズルゲームじゃないんだから」 


「は、はい!」


「はい……ところでシルフィーネ様、昨夜ミカ様が騎士団の宿舎で『あの放浪者は一体何処へ行ったんですか……仕事が山程残っているというのに……!』って凄まじい顔で舌打ちしてましたよ」


 ラバックからの容赦ない報告に、シルフィは僅かに眉をピクリと動かしただけだったが、なんとなく内心では冷や汗をかいて焦っているに違いない。


「…………そう。——それはともかく、次の重要参考人に話を聞きに行くよ」


「次の、重要参考人……?」


 私が思わず涙を拭いながら問いかけると、彼女は少しだけ声のトーンを低く落とし、静かに告げたのだった。


「決まってるでしょ。——レオハルド・レッドベルだよ」


◇ ◇ ◇

 

 レオハルド・レッドベルは王立院の庭園に一人佇んでいた。

 そこは、私たちが以前まで共に穏やかな昼食を摂っていた思い出の場所だった。


 ……まあ、彼が私の作ったお弁当を最後まで完食することは一度もなかったのだけれど。


 このままいけば婚約——ひいては将来的に結婚することになったであろう、リア・ラックウェルの死が未だ受け入れられないのか、彼は心ここに在らずといった虚ろな様子だった。


 ——無理もない。愛する人が亡くなったのだから。


 彼に裏切られた胸の悲しみや傷は簡単に癒える筈もない。それとこれとは別問題だ。


 誰だって愛する人が——大切な人が居なくなってしまったら悲しい筈なのだから。


「…………レオハルド……様」


 私は勇気を振り絞って、そっと声をかけた。彼は私たちの気配に気付いたのか、ゆっくりとこちらへ振り返る。


「ユナ……それに……」


「話を聞かせて貰うぞ。レオハルド・レッドベル」 


「君は被害者のリア・ラックウェルとかなり親密な関係だったようだけど——」


「リア……リアか……」


「彼の様子が……」


 ラバックたちが問い正すと、レオハルドはまったく焦点の合わない目をしていた。

 視線が誰とも合わない。やはり大切な人を失って精神状態が酷く不安定になっているのだろうか?

 セドリック様が不審そうに眉をひそめて訝しみ、ベルナデッタが不安そうに私の腕をぐっと強く掴んでいた。


「君は、彼女を心から愛していたんじゃないのか?——まさか君が本当に彼女を……」


 ラバックの言葉が言い終わるより前に、レオハルドがだらりと振り返った。しかし、その顔に浮かんでいた表情は——


「レオハルド様……?」


「愛……愛……あい……ア、イ」


「……ユナ嬢、下がってください!私の傍から離れないで。ダリエン嬢も!」


 只ならない彼の異様な様子に、セドリック様が私たちを庇うように素早く前に出た。

 ラバックたち騎士も抜刀こそしないものの、緊張した面持ちで腰の剣の柄にそっと手を添えている。明らかに厳戒態勢だった。


「……ゆ、……な……花……は、な」


「……花?」


「……ツン……ベ、ル——」


「一体何を言っているんだ?」


「警戒を怠るな。どう見ても——」


 うわ言のように、何か言葉の——断片的な単語のようなものを壊れた人形のように繰り返している。 

 私は背筋に冷たい恐怖を感じながらも、彼の言葉を聞き逃さないように必死で耳を澄ませ、集中した。


「ツン……ベ、ルグ——ツ、ンべ、ル……ぐす、ピれ、あ」


花、そして——ツンベルグ・スピレア。


 私がそろそろお別れしないと、と思いつつ、未だ髪留めに使い続けている——かつて婚約の記念品として、幼い頃の彼から贈られた大切な想い出の——


「……それ、が……?」


「——そう。術師が死んで精神崩壊。残ってた記憶が、今更溢れ出してきたんだ」


「え?」


 今までレオハルドの姿を静かに観察していたシルフィがぽつりとこぼした言葉。

 その恐ろしい意味を理解するのに、私はたっぷり数秒の時間を要した。


「——彼、もう既に死んでる。厳密には彼の精神——魂がね」


「し、シルフィーネ様、それは一体どういう……!?だって、彼は今、確かにここに——」


「……ゆ、な——ツン——ベ、ル……れ——ぁ」


「順を追って話そうか」


 シルフィーネは湖にも似た透き通る空色の瞳をまっすぐ見開き、レオハルド——の姿をした惨めな肉体に向けて静かに語り出した。


 彼——レオハルド・レッドベルが死亡したのは今から三ヶ月前。

 彼を殺害したのは、リア・ラックウェル。


 リアは実家の物置小屋から偶然にも《死体操作ネクロマンサー》の凶悪な術式が記された禁断の術本を見つけてしまう。

 毎日が退屈だった彼女にとって、それはあまりに刺激的な遊戯になった。

 まず初めに家の家畜を殺して術を試してみた。死んだはずの家畜は、まるで生きていた時と変わらぬように動き、走り回った。


 彼女はこう思っただろう。『もっともっと試してみたい』と。彼女は家畜を一通り試した後、他の生き物でも試した。


 犬、猫、狐、鳥————それでも、やがて限界は来る。


 殺しすぎると周囲に怪しまれる。この愉快な遊戯が奪われれば、元の退屈な人生に戻るだけではなく、下手をすれば重罪に問われるのだ。

 しかし、一度狂気に味を占めた欲望は止められない。 


 一度知った快楽と興奮は、彼女を二度と逃がさない。


 自宅では足がつくと思った彼女は、王立院の裏庭でこの狂気の儀式を行うことにした。

 繰り返す内に、人の警戒心は薄れていく。

 自宅では人の目をそれほど気にしなくともよい。けれども王立院では『忘れ物を取りに来る学生』だって夜間にもいるのだ。


 不器用で意地っ張りで、しかし確かに心優しかった青年。

 誠実だったあの青年は見てしまったのだ。彼女が夜の裏庭で行っていた、恐ろしい狂気の儀式を。


 ——当然、彼の結末なんて語るまでもない。


 物言わぬ惨めな肉塊。

 それを元の人間のように話し、動かせるとしたら——?

 彼女は歓喜した。これ以上ない最高の実験個体だと。

 既に彼の魂はなく、脳に残された記憶だけが残っている。

 記憶はあっても、彼自身の心や感情はそこにはない。


 自ずと足りない感情や意志の部分は補強される。そう、術者であるリア自身の強い影響を受けて。

 試験で不正を働くようになったのも、実家の事業に無理な口出しをしたのも


——かつて心から愛していた少女に向けて酷い毒を吐くようになったのも。


 すべて、すべてリア・ラックウェルの身勝手な影響であり、彼女の悪意ある意識に他ならない。


 ————きっかけは些細な言葉。


『あ、忘れ物だ!取ってこないと!!』


 ————焦りと不安は心を惑わせる。


『まずいな……こんな遅い時間だ……明日はユナと勉強の約束があるのに……こうなったら裏庭から回るか!』


 ————愛故に踏み出した一歩だとしても。


『次のユナの誕生日には何を贈ろうかな……毎年同じ物ではよくないか……ユナはツンベルグ・スピレアの髪留めをずっと使ってくれてるけれど、あれはもう古いし……次は新しい物を————』


 ————報われず、利用され、想い人には届かない。



『ずっーと欲しかったんだぁ、お喋りする私の死体♡』


 全てを語り終えたシルフィは、一瞬だけ静かに瞳を閉じて、胸の前で深く十字を切った。

 それは聖ラウラント王国の国民が、天の三女神に祈りを捧げ、死者への慈悲を乞う姿そのものだった。


 私はただ、その場に力無く立ち尽くしていた。


 そして脳裏に、今まで聞いてきた彼への周囲からの評価が、幾重にも重なって激しく木霊する。 


『——レオハルド様、ここ数ヶ月で急に変わられたわね……以前はもっと誠実そうだったのに……』


『——最近どこか様子がおかしいのよ』


『——以前より態度が乱暴になったわよね』



「——ぁ」


「……ゆ、ナ——つン——べ……れ」


「…………」


 未だに、壊れたからくり人形のようにうわ言で私の名を呼び続ける彼。


 ——そこにはもう空っぽの魂しかない。

 かつての記憶だけがあふれ出して、けれどそこに彼自身の意思は——どこにも存在しない。


「ユナ嬢……」


 セドリック様の押し殺した心痛な声が庭園に響く。

 ラバックたちも、もう動きようのない彼の姿を見て剣の柄から手を放そうとして——


「馬鹿。警戒を解くな」


 真剣で、冷たくて——でも、どこかに確かな慈悲の込められた声があった。


「シルフィ……?」


「彼を解放する。そうして初めて、彼は本当の天界に招かれる」


————でも、でも、……でも!!


「お願い……!お願い!お願いします!!止めて!それだけは……だって、だって彼は!!」


「……ユ……ナ……あ、い……あいし……」


「違う。あれは残された記憶を辿っているだけ。脳に残ったデータを読み込んで自動再生しているだけだ。彼の魂は既にここにはない。このまま放置すれば、また別の被害者が出る危険性が……」


「そんなの知らない!!だって、彼は——」


——生きてる。目の前で呼吸をして、私に話しかけて——


——私を見て、愛して——


「違う。彼はレオハルド・レッドベルの姿を借りたただの肉塊だ。死体なんだ。そこに意思はもう存在しない」


「いや……いや!嫌!!!」


 私はシルフィの冷酷とも取れる理性の言葉を拒絶し、狂おしいほどの想いでレオハルドに向かって走り出そうとする、が——。


「いけません!ユナ嬢!危険です!!」

「離して!!」

「ユナ……」 


 セドリック様が必死に私を抱きとめて止める手も、ベルナデッタの私を案じる悲痛な声も、今の私には遠く遠くにしか聞こえなかった。


「シルフィーネ様、他に方法は……」


「貴女の力なら何か——」


「死者は戻らない。もし彼に魂があると本気で信じるなら、彼を斬って、救うべきだ」


 僅かな、滑るような美しい金属音が庭園に響いた。澄んだ抜刀音。


 銀と翠碧色で鮮やかに彩られた、通常の長剣よりも洗練された形状の異なる美しい剣。


 ゆっくりと、けれど確実な足取りで、彼女はレオハルドへと向かって歩んでいく。


「お願いっ!お願い——おねが、い——だから——彼を……私の大好きな彼を……

 ——レオ様を殺さないで!!!」


「————どうか安らかに」


シルフィの短い祈りの言葉と共に——


「ゆ、ナ——ユナ……あい、——愛している」


「——————ぁ」


——愛している、と。


「待っ————」


 私の叫んだ最後の言葉は虚しく、肉を断つ冷たい音に掻き消される。

 飛び散る鮮血が、視界の先の青空へとどこまでも広 がった。

 

——さようなら。不器用で、意地っ張りで、それでも誰より優しかった貴方。

 

——本当に、大好きだった貴方。


◇ ◇ ◇


 彼の葬式の後、私はただ彼の墓標の前で静かに項垂れていた。

 セレナやセドリック様、私の両親が心配そうに何度も声をかけ、私の肩にそっと温かい手を置いてくれた気がしたけれど、今の私には何も反応することができなかった。


 ただ、胸の奥に深い悲しみだけがあった。


 ずっと、彼に裏切られたのだと思っていた。

 彼は私を捨てて、違う女性を選んだのだとばかり信じ込んでいた。

 けれど……真実は、あまりにも酷く惨烈で、全く違っていて。


 気付けば、周りの日はすっかりと落ち、あたりは闇に包まれていた。

 もう体内に存在する涙に変換できる材料が全て無くなったのだと身体が訴えるように、私の涙はとっくに枯れ果てていた。


「——ユナ」


 闇の中から聞こえた、優しい声。落ち着いていて、冷静で、いつも傷ついた私を優しく元気付けてくれていた声。

 私が不正を疑われたあの時も、彼女だけは私を必死に庇ってくれていたのだ。


「ベルナデッタ……」


 彼女は愛おしそうに微笑むと、私の隣に静かに歩み寄って来て、いつもみたいに優しく暖かく抱き締めてくれた。


「いつでも、私を頼ってくれていいのよ」


「うん……」


「私を……私だけを頼って」


「……うん」


 そうだ。だって、もうレオ様はこの世界にはいない。


 もう私には彼女、しか——


「大変だったわね。まさかリアが殺されるなんて。でも、私が——」


 その時、暗闇の墓地の土を蹴り、複数の重厚な軍靴が踏みしめる足音が激しく聞こえた。

 次いで、ガチャリと響く金属音。


「ベルナデッタ・フォン・ダリエン。リア・ラックウェル殺害容疑で貴女を逮捕する」


「————は」


 暗がりから現れた騎士の一人が、冷酷にそう語った。その手には、正式に発行されたであろう王国の逮捕状が重々しく握られていた。


「な、……え?な、何かの……何かの間違いで——」


「いいえ。間違いではありません」


 今度は、凛とした冷徹な少年の声が夜の墓地に響いた。他の重装騎士たちよりも幼い——シルフィと同い年くらいの小柄な黒髪の少年。


「聖ラウラント王国騎士団、偵察部隊隊長、ミカ・ファーレンガルドです。——その様子だと自己紹介は不要ですね」


 ベルナデッタは私を抱き締めていたその腕を、ゆっくりと離そうとする。

 私はそれが堪らなく嫌で、彼女の体を力一杯に押さえた。


「待って、ベルナデッタ。何とか……何とか言って……?きっと彼らは何か酷い勘違いをしているのよ」 


「————ユナ」 


 黒髪の少年——ミカと名乗った偵察部隊隊長は、厳重に証拠保管用の袋へ包まれた提示品を取り出した。


 袋の中には、一本の極細の糸——


「鑑定の結果、この繊維からベルナデッタ・フォン・ダリエンのDNA及び微弱な魔力反応を検出しました。間違いなく、貴女の持ち物ですよね」


 逃げ場のない断定的な言い分だった。

 ベルナデッタは反論することもなく、ただ静かに少年を見据えている。


 ——鮮やかな色彩と、ボリュームのある豪華な花柄が美しくプリントされていた、上質なハンカチ。


 かつてベルナデッタが、傷ついていた私にそっと貸してくれたあの——


「反論がないならご同行願えますか」


「—―———ないわ」


「ベルナデッタ……!?」


 ベルナデッタはすべての運命を受け入れたかのように、真剣な表情で前を見据えている。


「何故、リア・ラックウェルを殺した?理由がある筈だ」


 一人の騎士が、怒りを込めて問い詰めるようにして言う。

 対するベルナデッタは——狂おしいほどの慈愛の微笑みと共に告げた。


「欲しかったの」


「……な、何がだ」


「ユナ。ユナ・フォン・ヴェイル」


「―――――――」


 ベルナデッタが一体何を言っているのか、私には分からない。


――欲しい?何を……?私を……?


 困惑し硬直する私を置き去りにして、ベルナデッタの恐ろしい言葉は続く。 


「可哀想なユナ。酷い婚約者に捨てられて、私が優しく慰める。私だけのユナ」


「…………コイツ……狂ってやがる」


「なのに、また邪魔が入った。シュートリネンを始末しようとしたの……でもね、邪魔されたの。きっと強い風が吹いたからね?」


「べ、ベルナデッタ……私を裏切った……の……?」


 ベルナデッタは、いつもの穏やかな顔で私ににっくりと笑いかけていた。

 その美しく狂気じみた表情に、私は背筋が凍るほどの強い恐怖を覚えて——


「ダリアの花言葉は知っていて?——華麗、優美、気品、感謝——」


「裏切り——そして不可能」


 ベルナデッタの言葉に冷たく答えたのは、小柄な少女の声だった。


朔風騎士——シルフィーネ・エレネスト。


「運命、とは言ってくれないのね」


「運命っていうのは、シュートリネンと彼女の事を言うんじゃないの?」


「……違うわ。私と彼女よ。私だけが彼女を慰めるの。私だけが彼女に頼られるの。私だけが——彼女を愛し、愛されるの」


 そこに居たのは、もはや私の知る優しいベルナデッタではなかった。


「それも一つの愛の形であることは認めましょう。しかしその愛故に人を殺めるのは——罪です」


「うふふ……貴方にはまだ分からないかしらね?可愛い騎士様。愛しているから、どんな重い罪でも背負えるのよ」


「その愛する者が、それを望んでいなくても?」


「ええ。だって、それが愛でしょう?」


「違う。それは所有欲だよ」


 ベルナデッタは二人の優秀な騎士から鋭く詰められても、ただ楽しそうに笑うだけだった。


「このまま二人だけにしてくれないの?」


「出来ませんね。彼女を連れて心中でもするのでしょう?」


「分かってるじゃない。それとも騎士様が直接慈悲を与えてくださるのかしら?」



「——このままお前の首をねじ斬ろうか?」



 冷酷極まるその一言に、周囲の空気が凍りつき、辺りが一瞬で静まり返った。

 先ほどまで上機嫌に愛を語っていたベルナデッタも、恐怖に息を呑み押し黙った。


「愛は二人いて初めて成立する感情だ。ごっこ遊びがしたいなら一人、冥界でやってろ」


 その吐き捨てるような言葉と共に、シルフィは部下たちへ顎で静かに拘束を指示した。 


 ベルナデッタはもう一切抵抗しなかった。


「ベルナデッタ……わ、わたし……」


「愛してる、愛してるわ。ユナ」


 その冷たく狂おしい言葉が最後だった。

 ベルナデッタは騎士たちによって、闇の向こうへと連行されていった。


「————風が泣いてる」


 朔風を纏う少女の澄んだ声が、墓地の闇の中にどこまでも静かに響いていった。


◇ ◇ ◇


 秋が静かに過ぎ去り、王都には季節の移ろいと共に冷たい冬が訪れた。 


 彼の誕生日には、彼の墓標へ静かにツンベルグ・スピレアの花を贈った。

 天界へ旅立った彼は、あの綺麗な花を見て喜んでくれたのだろうか。


 セレナが美味しそうなお菓子をたくさん抱えて、私の屋敷を訪ねてきてくれた。

 気丈に振る舞う彼女の顔には、まだ消えない酷い涙の痕が痛々しく残っていた。


 セドリック様は、私がもう少し落ち着いたら大切な話があると言っていた。

 私はまだ大切な話を聞く心情にはなれないと正直に言ったけれど、彼は穏やかな笑みを浮かべて『いつまでも待っている』と言ってくれた。 

 何処までも誠実で優しい方だと思う。


 優しい風が、今日も王都の空をそっと吹いていた。


 ——まるで、傷ついた私を優しく慰めるように。

 ―—私を、前へと導くように。

 ——私を、ずっと護るように。

 


「——遠征に行くって、本当?」

「うん。北国レジーナにね」

「いつ帰ってくるの?」

「さぁ、いつだろう?」

「こっちが真剣に聞いてるのに」

「いつか帰ってくるよ」

「またはぐらかしてる。貴女、いつもそう」



——自由で、とても強くて、どこまでも優しい騎士様。


「今日も祈るんだね」

「もちろん。だって、貴女が言ったのでしょう?」



 ————その祈りが届く限り、風は応えてくれる。

最後までお付き合いいただきありがとうございました!

こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。

これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!


あなたにも風の導きが有らんことを

にしみん

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