沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり 前編
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遠征軍出発前、秋から冬くらいの時間軸です
とある少女が気まぐれな風に出会ったお話です
今回の主人公は雪柳をモチーフにしています。
————きっと、間が悪かった。
色々な事柄が複雑に絡み合って、偶然こんな結果になっただけ。思えば最初からこうなる運命だったのだ、とさえ思えてしまった。
貴族同士の婚約は大体が政略結婚。『持参金』や『領地の利権』『派閥の結束』……様々な理由こそあれ『愛のある結婚』など珍しいくらい。
——それでも。
私は嬉しかった。お父様からお話を貰った時、初めて会った時に花の髪飾りをくれた時、自身の名前を褒めてくれた時——
それが、家同士の思惑があったからなのだとしても。
婚約したことによる記念品が特別な品じゃなくても。
名前を褒めたのも、ただの話題作りの為の言葉だったのだとしても。
——それでも、私は心から嬉しかったのです。
◇ ◇ ◇
聖ラウラント王立院。
賢者プトレマイオス枢機卿様が設立した、貴族や豪商の子弟が「社交マナー・礼節・政治・教養」を身につける学びの場。
私はヴェイル男爵家の令嬢として、そして何よりレッドベル子爵家の為、日々研鑽の日々を送っていた。
毎日厳しい授業はあるけれど、それでもそれなりの数の友人たちと過ごす日々は充実していた。
ただ一つ、不満があるとするなら——
「え…また、ですか……?」
「悪い、ユナ。俺も忙しくてな」
レオハルド・レッドベル。彼はレッドベル子爵家の嫡子で私の婚約者。
勇猛果敢で自信に満ち溢れた快活な方だ。最近とてもご多忙な様子。
子爵家の嫡子ともなれば忙しさも比ではないのかもしれない。
彼と安息日に演劇を見に行く約束をしたのは先月のこと。
何度も何度も予定を確認して、私自身もこなすべき用事や課題をそれなりに無理して終わらせたばかりだった。
「そ、そうですか…分かりました……」
でも、だからと言って我が儘を言うわけにはいかない。
彼は時期当主としてこなすべき事案が数多とあるのだから。
私は小さく吐き出しそうになった溜め息を必死にこらえた。
ここで悲しい表情を表に出すのは良くない。彼が余計な気にしてしまうから。
「で、ではレオ様、次の安息日は——」
「悪い。次の安息日は先約があってな」
「あ……そ、そうですか。申し訳ございません……」
先約。彼は今、先約と言ったのだ。先に約束をしていたのは私の筈なのに。
——いいえ、きっととても重要なご用事なのでしょう……。
その言葉を最後にレオハルド——レオ様は、昼食に用意したパニーニが入ったバスケットをベンチに置いた。
そしてそのまま、後ろを振り返ることもなく立ち去ってしまった。
そのあまりにも未練がない行動に、別れの挨拶さえできなかった。
私はベンチにぽつんと置かれたバスケットを手に持った。中には、半分以上手付かずの食べかけのパニーニが入っていた。
朝早くに起きて、丁寧に焼いたパニーニ。
中身は彼の好きな物だけをいれてあった。昨日のサンドイッチも一昨日のバケットサンドも、彼は完食することはなかった。
最初は『俺はレタスも玉ねぎも嫌いだ!』と言われた。幼少期は特に問題なさそうに食べていたので、好みが変わったのだろうか?くらいにしか思っていなかった。
次に『ソースの味が気に入らない!野菜の味がする!』と言われた。
だから王立院の図書館と、王都にある大きな図書館に保管されている料理本を何冊も調べて研究した。
ヴェイル家の屋敷の料理人にも何度も味見をして貰って『これなら満足してくれます!』というお墨付きさえ貰った料理だったのに。
「俺は肉が好きなんだ!魚は気分じゃない!」という言葉で一蹴された。
それがここ一ヶ月——いいえ、厳密にはもうすぐ二ヶ月続いている。
幼少期の彼は、こんなことを言う人ではなかった。
けれど、それも仕方のないこと。彼は次期当主の大きなプレッシャーで、強いストレスを感じているのだ。
だから少しの我が儘くらい、私が我慢できる。将来妻になる私が支えてあげなくちゃ。
そんな楽勝な思いが、確かに胸の内にあった。
私は中身がズシリと重いバスケットを持って立ち上がった。——次の授業はタティングレースを編まないと。
私はそんな現実逃避で、自身の揺れ動く気持ちを押さえた。
この程度で弱音を吐き、感情を表に出してはいけないのだから。
遠くでは、低く澄んだ鐘の音が鳴っている。きっと騎士団のある王宮の方角からだ。
私はもう一度深く深呼吸をして自身の気持ちを落ち着かせると、静かな教室に向かって歩き出した。
庭園の木々の葉は、先端が寂しげな茶色に変色し始めていた。すっかり秋だ。
私は少し肌寒くなった庭園を一人、静かに歩いていく。
◇ ◇ ◇
「えー!?あり得ない!!それ、婚約者に言うこと!?」
「確かに酷いわ……先に約束をしていたのは貴女なのに……」
「でも……仕方ないんです。レオ様は……ご多忙のようですし……」
「でもでも!断ったのはレオハルド様で——」
午後のお茶会の席での話題なんて、甘い恋の話か、巷で人気の演劇か、あるいは流行りの恋愛小説の展開くらいだ。そしてその全てが恋愛絡み。
そして、昼休みのレオ様の対応を打ち明けた途端、我先に怒りの反応を示したのはセレナ・ハミュードだった。
次いで、ベルナデッタ・フォン・ダリエンが痛ましそうな悲壮感を漂わせながら静かに言葉を続けた。
彼女たちは、きっと心の底から私を心配してくれている——
二人を心配させてしまって申し訳ないという気持ちが半分、それでもなお「レオ様は悪くない」と信じたい気持ちが半分で、胸の中がせめぎあっていた。
「大体!先月も……先々月も!約束を破ったのはレオハルド様でしょ!?」
「…………きっと、急な予定が入ったの……」
「そんな何度も!?絶対におかしいわ!!」
セレナが抑えきれない怒りに任せて身を乗り出し、腰を浮かせたところで、ベルナデッタがそっと彼女の肩を叩いて落ち着かせた。
セレナはハッと自身の不作法な所作に気付いたのか、『あ、ごめん…』という小さな呟きと共に、気まずそうに腰を下ろした。
「でも……確かに……最近レオハルド様のご様子がおかしいのは、本当じゃないかしら?」
「え……?どういうこと?ベルナデッタ……?」
ベルナデッタは僅かに優美な瞳を閉じると、こちらの反応を窺うような慎重な素振りを見せた。
何か、彼女は私以上に知っているのかもしれない。
「……ユナ…貴女は知らないかもしれないけれど…レオハルド様が傍付きの方に…あまり表では言えない事を命じていらっしゃるらしいわ」
「よくない……こと……?」
初耳だった。根も葉もない、ただの悪い噂だと思いたかった。
普段の私なら、大して気にも留めなかっただろう。
しかし、連日続いているレオ様の冷たい態度と行動、そして目の前で真剣な表情を浮かべる友人・ベルナデッタの様子を見て、私の胸の奥に、ほんの少しだけ彼を疑ってしまう隙間が生まれてしまった。
「……もしかして……あの話、本当なの?」
「セレナも……知っているの?」
「ユナ。知らない人間の方が少ないわよ。人の噂は広がるのが早いもの」
セレナもベルナデッタも、もしかしたら王立院の他の貴族たちも知っているようなこと……?
私は別段世間に疎いわけでもなく、彼女たち以外の貴族と交流がないわけでもない。
むしろ、レオ様が流行に敏感な方だからこそ、彼の話題に合わせる為に流行りものには一通り目を通していたし、社交の場での人の噂話なども自然と耳に入って来やすかったはずだった。
「……きっと、貴女がレオハルド様の婚約者だからね……皆、気を遣っていたのかもしれないわ……」
「…………」
ベルナデッタが優しく気を遣うように教えてくれ、セレナが労るような憐みの視線を向けてくる。
ここまでの空気感を出されて、気付かないほど疎くは居られなかった。
「——教えて。レオハルド様は何をしているの?」
「…………ベルナデッタ……」
「……セレナ、話しましょう。それがユナの為にもなるわ……」
「う、うん……」
セレナとベルナデッタが短い視線の交わし合いを通して、お互いに覚悟を決めたようだった。
「……レオハルド様は……傍付きの方に…試験の問題用紙を持ってくるように命じられたそうよ……」
「……!?試験問題の……?」
——信じられない。だってそれは……。
「カンニングだよね……証拠こそないけど……」
確かに、先月行われた王立院の試験上位の張り出しには、レオ様の名前が誇らしげに並んでいた。
彼の普段の成績は特別悪くもなく、けれど良すぎるということもない。
だからこそ、普段は見かけない上位の場所に彼の名前を見つけた時、私は『彼は陰でこんなに努力していたんだ』と感心し、深い尊敬の念さえ抱いたのだ。
——それが……。
「ほら、普段の成績上位者はファーレンガルド様とシュートリネン様、レインツベルニ様とかじゃない?」
セレナはいつも上位を独占している常連の貴族たちの名を挙げていく。
ファーレンガルド様といえば、王都で絶大な権力と発言力を持つ魔術師の名家だ。ここに通われているのは嫡子の御方ではなく、確か弟君だけれど。
シュートリネン様も有名な魔術師の名門、レインツベルニ様は歴史こそ浅いものの、ここ最近の代では非常に優秀な功績を残されているという。
そんな名門の秀才たちと揃って、私の大切な人の名が挙げられた。
あの時、私はまるで我が事のように嬉しかったし、彼もとても誇らしげに喜んでいた。『俺はやれば出来るんだぞ!』と。
——それが、あの誇らしげな言葉が……。
「落ち着いて、ユナ……セレナの言う通り証拠はないの。レッドベル家を妬んだ誰かの嫌がらせかもしれないわ……」
「だけれど、状況証拠が揃っているでしょう?……試験は一夜漬けで勉強したところで上位陣に並べるわけがないわ……普段中間の成績の人間が……偶然、飛躍的に成績が上がったと言うの……?」
「それは……」
「…………ユナ」
ベルナデッタとセレナは、私のどこか冷静で断定的な言い分に、それ以上何も言えなくなってしまった。
楽しかったはずの午後のティータイムは、甘い恋の語らいから、重く苦痛な現実へと色を変えていく。
——レオ様。貴方は本当に……?
当然の事ながら、私の心の中の切ない問いかけに答えてくれる者は誰もいない。
お茶会で二人の友人から聞いた話が未だ信じられず、私は重い足取りで肩を落としながら、ヴェイル家の門を通った。
明るく私の帰宅を迎えてくれる使用人たちに、無理やり作り笑いを浮かべてその側を通り抜ける。
リビングから聞こえる両親の話し声に、私は帰宅を知らせようとして——
「……そうなんだ……それでレッドベル家の——」
「それは本当なの……!?それならユナは——」
リビングまで少し距離があるせいか、両親が話す詳しい内容まではハッキリと耳に届かない。
けれど、レッドベル家、そしてユナ、という単語から、私とレオ様に関する会話なのだと直感した。
加えて、その漏れ聞こえる声の険しい様子から、あまり良くない事態であることはありありと理解できてしまった。
いつもなら聞かなかったことにして、静かに自室に閉じこもり本でも開くところだ。
けれど、今日のベルナデッタとセレナの話を聞いた後では、このまま無視して立ち去るという選択肢はどこにもなかった。
私は自然と息を殺し、音を立てないように足を殺してリビングへと向かう。
両親は私の帰宅にまだ気付いていないらしく、神妙なトーンで話を続けている。
「……でも、今さらあの子に——」
「だけど、このまま——」
——今さら、このまま。
この言葉の続きを聞くのが、たまらなく怖い。このまま回れ右をして逃げ出し、何も聞かなかったことにしたい。
膝が笑ったようにガクガクと震えだし、背筋に妙な冷や汗が流れる感覚があった。
「——でも、このままあの子を嫁がせたら…!!」
お父様の切羽詰まった叫びが、今度こそはっきりと私の耳を刺激する。
——やはり、私とレオ様の婚約についての話だったのだ。
そう頭が理解した瞬間、とうとう膝が自身の身体を支えきれず、その場に崩れ落ちてしまった。
——ガタッ!
身体が倒れた振動で不穏な音が廊下に響き渡り、近くにいた使用人が驚きの声を上げた。
その音で、お父様とお母様の声がピタリと止まり、次いでこちらを勢いよく振り返った。
「ユナ!!」
「ユナ!大丈夫!?」
使用人よりも早く駆け寄ってくれたお父様の腕に支えられる。自分の目尻から、何か熱いものが一筋流れ落ちている気がした。
「——お父様……」
「すまない、ユナ。……お前に聞かせるつもりではなかったんだ……」
「……いいの、いいの。お父様」
——きっと、分かっていたのだ。
お茶会の時から——いいえ、もっと前の段階から。
——この恋は、もう叶わないものなのかもしれない、と。
「ユナ……顔が真っ青よ!そこの貴女、すぐにお医者様を呼んで頂戴!」
「か、かしこまりました!」
お母様に緊迫した声で呼び掛けられた使用人が、弾かれたように深く頷いて去っていった。
周りの使用人たちも、普段の様子とは違う私たちの重苦しい雰囲気に、困惑と心配の視線を向けいている。
「——お嬢様、お水をお持ちいたしました」
長年ヴェイル家に仕えてくれている執事の爺やが、いつの間に用意したのか、冷たい水の入ったグラスを優しく差し出してくれた。
それを受け取り、震える手でゆっくりと口に運ぶ。冷たい水が喉を通ったことで、胸の奥の熱が引き、少しずつ頭が冷やされていく。
「……ありがとう……少し、落ち着いたみたい…」
なんとか絞り出した自分の声は、自分でも驚くほど力無く掠れていた。
「…………ユナ。今夜はもう休みなさい。後で食事を部屋に——」
「いいえ……いいえ!お父様……!」
お父様の悲痛な言葉が全て言い終わる前に、私はその声に重ねる形でしっかりと声を上げていた。
「…………ユナ……?」
お母様が心痛な面持ちで私の名を呼ぶ。
隠された真実を無理に知りたいと思うのは、私の身勝手な我が儘かもしれない。
このまま何も知らない方が幸せなのかもしれない。
——けれど。
「教えて、お父様。——レオ様……、レッドベル家に何があったの?」
幼い頃は、二人なら何でも乗り越えられると無邪気に信じていた。
——不器用で意地っ張りで、けれど確かに優しかった貴方。
——貴方と歩むはずだった未来に、私は確かに心を踊らせていたはずだったのに。
◇ ◇ ◇
庭園に舞い落ちる落ち葉が、寂しげに秋の深まりを告げている。
木枯らしのような冷たい風が頬を撫でる。昼休みを告げる鐘が鳴ったのは、つい三分程前。
急いでここまで走って来たから、荒れた息を整えるのに数秒を要した。
——昨夜、お父様から聞いた恐ろしい真実が、未だ脳裏で何度も繰り返されている。
けれど私はきっと、まだどこかで彼を信じているのだ。
彼の家の苦しい状況を知っても、それでもまだ信じている。
彼が婚約者相手に自身の家の窮状を明かせなかったのも、何か深い理由があるのだ——と。
私はいつも彼と待ち合わせている庭園の隅で、彼の到来を静かに待っていた。
いつも彼は少し遅れてくる。私は今日も、彼より先に到着できたことに安堵して——
「もー、レオ様ったら!!」
明らかに作り声と分かるような、媚びへつらった甘い少女の声が聞こえた。
私の視線の先——ちょうど死角になっていた大きな木の根元から。
聞き覚えのない声。しかし『レオ様』という親しい間柄でしか呼ばない愛称で呼ぶということは、その少女は彼とそれなりに深い仲なのだろう。
冷たい嫌な汗が背中を伝っていた。決してここまで全力疾走してきたが故ではない。
きっと、胸の奥が鳴らした本能的な警鐘だ。
——あぁ、やっぱり。
「おいリア、もう離れるんだ。もうすぐ時間が——」
「大丈夫ですよ!——だって、毎日遅れても許してくれるんでしょ?お優しいですもんねぇ……ユナ様は!」
——毎日、遅れても。
そのあざとい一言が決定打だった。いつも彼が私との約束に遅れてくるのは、彼女——リアと呼ばれた少女と会っていたから。
そして二人は、互いに肩が触れあう距離で、親密そうに手を取り合っている。
ただの友人や後輩といった健全な範疇を遥かに越えた触れあいだった。
彼に妹がいるという話を聞いた覚えはない。親戚にこの少女のような年代の子がいるとも。
私がその時抱いたのは、激しい怒りでも、込み上げる悲しみでもなかった。
——あぁ、そうなんだ。という、色を失った冷たい感情だ。
「このまま結婚していいんですか?レオ様?今のレッドベル家は事業に派手に失敗して家計は火の車!只でさえ格下の男爵家の婚約なのに?」
「耳が痛い話だ」
彼は自身の家の切迫した事態なのに、まるでなんて事のない様に——寧ろ、人ごとの面白い演劇でも聞くように嘲笑っていた。
あまりの惨状に私が声すら出せないことをいいことに、彼らは壊れた人形のようにペラペラと軽薄に喋り出す。
「……だが、挽回する方法はある。お前も知ってるだろ?アカデミーで優秀な成績を残した者には、莫大な資金が手に入る。それだけじゃない!上手くいけば騎士団に——」
「そうなったら大金持ち!!レッドベル家も建て直せて——それから、正式にあの人とお別れしてくれますよね?」
——そんなに、うまくいくはずがない。
聖ラウラント王国の騎士団は、他の国のどこの騎士団よりも入団が難しいと言われる狭き門。年に二回ある入団試験の合格率は60%。合格した後も続く厳しい鍛錬に、脱落者も多いと聞く。
それに続いた少女の言葉。それが全てを物語っていた。
「——あぁ、その時は……」
その侮蔑に満ちた言葉を、最後まで聞くつもりはなかった。
私は勇気を振り絞って二人の元へ近づいた。胸の奥から沸々と沸きあがってきた怒りがあった。
裏切られたという個人的な気持ちより、そんな甘い覚悟と不正で騎士団の厳かな門を開こうとしているという事実に。
国を守る騎士というのは、想像を絶する覚悟と信念が必要で。武術の類いも、この王立院で嗜む程度の実力では逆立ちしても届かない。
——この国の民は、騎士を心から敬愛している。
だから、きっと。
私は自身が裏切られたという思いより、騎士を軽視したその浅はかな心情に抗いがたい激しい怒りを抱いたのだ。
——もしくは。そうやって怒りを燃やさなければ、今にも泣き叫んでしまいそうなくらい、深い悲しみを覚え始めていたから。
「レオ…レオハルド・レッドベル様」
「——!ゆ、ユナ!?」
私の気配にようやく気付いた彼は、驚愕に彩られた目をこちらに向けた。
少女も同様に驚いた後——ニヤリと勝利を確信したように嗤った気がした。
「もう何も言わなくて結構です」
「いや、何を勘違いしているんだ?俺は——」
私は覚悟を決めるかのように、深い、深い深呼吸をする。
「……レッドベル家は没落寸前。成績優秀者に与えられる資金を得る為に——」
「黙れ!!ユナ!お前は男爵如き男爵如きの分際で——」
そこまで彼が怒声を発したことで、彼自身もハッと我に返ったようだった。
冷たく、強い風が私と彼を容赦なく隔てるように激しく吹いたのをきっかけに。
私は二度と彼の目を見ることなく、彼に背中を向けて夢中で走り出した。
——さようなら。不器用で、意地っ張りで、それでも優しかった貴方。
——本当に、大好きだったんですよ。
◇ ◇ ◇
走る、走る。
自分が一体何処に向かっているのかなんて、自分でも分からない。
本来なら昼休み中に王立院を離れ、街中へ勝手に抜け出すなんていけないことだ。
それでも、止まらない足は止まってくれなかった。
きっと私は、涙で視界を濡らしながら泣いていた。
様々な感情が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、正常で冷静な判断がまるでできていなかった。
——だから、目の前の大通りに大きな馬車が停まっているなんてことに気付くのが、致命的に遅れてしまったのだ。
「——え、あ!?」
目の前に一瞬で差し迫った、立派な馬車。
馬車というのだから必然的に大きな馬が繋がれていて、いきなり死角から走ってきた私に驚いた馬たちは激しく暴れだして——
——ブルルルッ!!
——本当に、私は運が悪い。きっと、もう避けられない。
人が大きな身の危険を感じると、時間の流れが酷くゆっくりになると何処かの本で読んだ気がする――なんて、無意味な現実逃避を試みる。
この後には、恐ろしい衝撃と激痛が待っているのだ。当たり所が悪ければ、私はこのまま呆気なく死んでしまうのではないか。
私はせめて直視しないようきゅっと目を閉じて、襲い来る死への衝撃に備えた。
——ふわりとした温かな風が吹き、身体が浮遊感に包まれた感覚があった。
来るべき恐ろしい衝撃も激痛もなくて、私は混乱に脳を支配されながら、恐る恐るゆっくりと目を開いた。
「——君、大丈夫?」
優しい声だった。凛としているけれど、でもどこかふわふわとした、なんとも言えない少女の声だ。
気付けば私は、目に見えない何かに優しく下ろされたようにしっかりと地面に立っていた。
擦り傷ひとつなく、痛みもどこにもない。
目の前には、先程の可憐な声の主と思わしき少女がたたずんでいた。
腰には銀と翠碧色で鮮やかに彩られた、通常の長剣よりも形状が異なる美しい剣が吊るされ、華奢な身体は黒色のケープで覆われているが、その胸元で誇らしく光る高位の紋章はまさに聖ラウラント騎士の——
そこまで気付いた所で、私は何かしらの人間離れした術で助けて貰ったであろう騎士の方に、精一杯の謝罪と感謝を伝えようとした。——が。
「……大丈夫そうだね。びっくりしたみたい」
騎士の少女は、こちらの存在を全くと言っていいほど見ていなかった。
先程からてっきり自分に親身に話しかけてくれていると思っていたが、どうやらこの少女は私ではなく、興奮の冷めやらぬ馬車の馬に優しく話しかけていたらしい。
つまり、「君、大丈夫?」や「……大丈夫そうだね。びっくりしたみたい」といった優しげな発言は、私ではなく————
「あ、あの……騎士様……」
「…………何?」
馬が愛おしそうに少女へ頭を寄せて、少女がその馬の頭を微笑みながら撫でている際に意を決して話しかけたことで、少女の手がピタリと止まった。
明らかに馬に向ける眼差しと、私に向ける視線とでは態度が違いすぎる。
「……あ、あの、助けて頂いて、ありがとう……ございます…!」
状況はどうであれ、危機一髪のところを命懸けで助けられたのは動かせない事実なので、私は勢いよく頭を下げた。
一瞬だけ、胸を占めていた悲しい気持ちさえ忘れて。
「…………そう。どういたしまして」
「………………」
——重苦しい沈黙。少女はそれで満足したのか馬からすっと手を離すと、こちらに振り返ることもなく背を向けて立ち去ろうとしてしまう。
——こういう時って、普通はもう少し何か言葉を交わすものでは!?
人生で暴走した馬と衝突しそうになった経験など今回を除けば一度だってないが、やはりどう客観的に見ても不可解な対応ではないだろうか。
とにかく今一度、先程の不注意への謝罪とお礼のお詫びを。そう思って再び声をかけようとして——
——私、どうしてこんな……。
間が悪かっただけだ。今回の馬車との事故も、この少女が私に気にも留めないのも、レオ様が私をあっさりと裏切ったのも、全部ただの偶然なのだ。
だけれど、ふとした瞬間に先程のレオ様の冷酷な言葉と裏切りの光景を鮮明に思い出してしまい——
「う……ぅ……!」
「え」
今度こそ抑えが利かなくなり、本当に泣いてしまったのだ。それも、もう物凄く。
街往く人々が何事かと驚き、訝しむくらいにボロボロと。
「ねぇ見て……」
「どうしたのかしら、あの子……」
周囲の他人の目から見れば、令嬢がいきなり大泣きし始め、それを完全に放置して立ち去ろうとしている騎士の少女、という最悪の構図に見えてしまう。
「……あ——…」
「うぅ……ご、……ごめ——ごめ——!」
私が大きな嗚咽を押さえきれなくなった途端、遂に足を止めてヒソヒソとこちらの様子を窺う野次馬まで現れ始め——
「ちょ!——あぁもう!着いてきて」
少女は遂に周囲の視線に耐えられなくなったのか、私の片方の手に懐から出した清潔そうなハンカチをギューッと握らせると、もう片方の手を強引に掴んで人混みを強引に掻き分けて歩き出した。
「……う……ぁ、あの……!?」
半強制的ではあったが、当然その小さな手から抗えるはずもなく。
私は謎の少女騎士に引っぱられるまま、どこかへ着いていくしかなかった。
連れてこられたのは、人通りの少ない静かな路地裏——の、隠れ家のような喫茶店だった。
私は漸く涙が枯れ始めた頃で、何故こんな場所へ連れてこられたのかまるで分からなかった。
しかし少女は私の手を引いたまま、迷いなく店内へと入っていく。
店内は二階もあるようで、外の見た目からは分からなかったが、思っていたよりもかなり広い。
カラン、カランと静寂に心地よいベルの音が響き、その音に気付いてカウンターの向こうで何やら準備をしていた老年のマスターらしき人物が、落ち着いた穏やかな声色で『いらっしゃいませ』と呼びかけた。
訳が分からないまま、少女は慣れた手の動きだけでマスターの男性に軽く挨拶すると、木製の階段を通って二階へと上がった。
時間帯のせいなのか、はたまた路地裏という目につきにくい隠れ家的な場所だからか、お客の姿は少なく、彼女が選んだ席は入り口からの死角になっている奥の席だった。
ここで彼女はパッと私の手を離し、椅子を僅かに引いて座るように促してくる。もちろん、一切の無言で。
こうしてエスコートされているはずなのに、この何とも言えない気まずさは一体何なんだろう……?
「あ、ありがとうございます…」
「…………」
少女は静かに向かいの席に座ると、頭から羽織っていたケープをすっと外した。
その顔と美しい髪が初めて露になった所で、私は再び息を呑み、驚愕することになる。
——艶やかな金色の髪…澄み渡る湖にも似た空色の瞳、間違いなく……!
「し、シル——」
「珈琲と紅茶」
「え……?」
「かしこまりました」
私が思わず少女の名前を叫びそうになる前に、彼女はそれを遮るように、いつの間にか気配もなく注文を取りに来ていたマスターの男性に手際よく注文を済ませていた。
マスターの男性は綺麗な一礼を披露すると、注文の品を作りに行く為に静かに一階へと降りていった。
——間違いなく、《朔風騎士》シルフィーネ様だ…!
《朔風騎士》シルフィーネ・エレネスト。彼女は聖ラウラント王国の《十二勇士》の一人。
この王国で彼女の名を知らない国民などまず、いないだろう。
私だって、過去の魔獣討伐の祝勝会や王宮の式典の際に、遠くから彼女の勇姿を見たことがある。
ケープを取り払った彼女は、綺麗に編み込まれた三つ編みの髪をサラリと振り払った。
式典の際の彼女は、動きやすいように髪をしっかりと纏めていた気がする——
「君、私のこと知ってる?」
「あ、当たり前です!とても有名な、歴史に残る十二——」
「分かった、少し落ち着いて」
「——は!はい!落ち着きます!」
「…………はぁ」
早口で熱弁を伝えてしまい、シルフィーネ様を驚かせてしまったらしい。
彼女はほんの少しだけ焦りを感じさせる声色で制すると、深く溜め息を吐いた。
そこでまたもや音もなく現れたマスターが、淹れたての紅茶と珈琲を音もなく丁寧に置いていく。
そしてまたもや洗練された綺麗な一礼を披露すると、静かに階段を降りていった。
「……シルフィ」
「え?」
「だから、そう呼んで。フルネームで呼ばれると都合が悪い」
「は、はい…」
「あと」
少女——シルフィは、テーブルの脇に置いてあったミルクと角砂糖の容器を自身の方に手繰り寄せると、空色の瞳をしっかりと此方に向けて言葉を続けた。
「敬語は止めてくれると助かる。むず痒い」
「……あ、はい……じゃなくて……!うん。」
シルフィは私の緊張した反応に暫く考えていた様子だったが、どうやら自分の中で考えが纏まったようだった。
そして再び口を開いたと思えば、予想もしなかった驚愕の二択が落とされた。
「紅茶と珈琲、どっちがいい?」
「………………紅茶で」
——なんとなく、この少女のマイペースな空気感が分かってきたかもしれない。
シルフィは紅茶を、意外にも(失礼ながら)丁寧で洗練された仕草で此方へ寄越してきた。
ミルクと砂糖はそこ、とこれまた指先での仕草で指し示されるので、ありがたく角砂糖とミルクを各一つずつ入れる。
向かい側からも、カチャカチャと珈琲をかき混ぜる金属音が聞こえ——
「…………!?」
「…………」
砂糖——これは勿論、固形となった角砂糖である。それを四つ、五つ、なんならミルクもそれなりの量が投入されているではないか!!
彼女の手は止まらない、誰かが止めないと永遠に入れ続けてしまうのではないだろうか!!?
「あの……入れすぎ……」
「……………………」
シルフィは私の声にピタリと動きを止めた。
「…………ねぇ」
「あ、な、何?」
まだ敬語がなかなか抜け出せない私を気にした様子もなく、シルフィは静かに語りかけてきた。
「……どうして、泣いてたの?」
「——……そ、それは」
——婚約者にひどく裏切られて悲しくて泣いた、と素直に言っていいものだろうか……。
「言いたくないなら言わなくていいけど。——……えっと、悲しいことがあったら第三者に話すと楽になれる……らしい」
「…………ふふっ」
その言葉の端々に滲む不器用な優しさに、私の唇から自然と温かな笑みがこぼれた。
きっとこんな風に誰かの相談などしたことがないような人が、一生懸命に私へ寄り添おうとしてくれているのだと伝わってきて——
「……真剣なんですけど」
「ごめん。でもちょっと、イメージと違うというか…」
その少し拗ねたような幼い顔も、さっきの彼女からは想像もつかない、初めて見る表情だった。
——ふと、幼少期の頃の愛おしい思い出が鮮明に甦った。
こんな風に不器用ながら優しくしてくれた、あの頃の彼のこと。
私が転んだ時、焦りながらも必死に手を差し伸べてくれた彼のこと。
私のその俯いた時の寂しげな雰囲気に気付いたのか。
「……何があったか知らないけど。こういう時は泣いていいと思う」
「……泣いて……いいの…?」
「逆に聞くけど駄目なの?」
本当に至極当然のことのように問いかけてくるものだから、私の思考は一度止まってしまう。
「泣いていいよ。悲しいって思うことがあったんじゃないの?」
「…………うん」
その後、私は今日初めて出会ったばかりの初対面の相手に、婚約者に関する全てを洗いざらい打ち明けてしまった。
きっとこれまでの人生で一番泣いたと思う。
それくらい沢山泣いた。きっと今の私の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、見るに堪えない酷い顔をしていたに違いない。
けれどシルフィは笑わずに、じっと私の話を聞いてくれていた。
時折、遠慮がちにハンカチで私の涙を優しく拭ってくれる温かな感触があった。
そして注文した紅茶がすっかり冷めてなくなるまで、彼女は静かに私の話に耳を傾けてくれていた。
「——落ち着いた?」
「……うん。ありがとう……」
全部を吐き出した後、シルフィは優しくそう聞いてきた。私は力無く小さく頷く事で、どうにか返事をした。
「…君はどうしたいの?」
——どうしたいか。
あの人とやり直したいとは、やはりどうしても思えなかった。
酷い裏切りだったし、もう一度顔を合わせて穏やかに話し合えるとは思えない。
それに相手は私の家より爵位が高い子爵家。
婚約を破棄にするにしろ、もしヴェイル家から一方的に婚約破棄を申し入れた場合、膨大な違約金を支払う必要がある。
ヴェイル家は裕福というよりは至って普通の家だ。多少の余裕はあっても、そんな大金をすんなり払えるほどではないし、そもそも不誠実な行いをした相手にお金を払うのなんて嫌だった。
「あの方との未来はもう…描けません」
「なら、手を離してごらん」
「そんな簡単に……」
シルフィが貴族の婚約破棄の難しさを知らないはずはないだろうに。彼女はなんてことでもないようにすんなりと言い放った。
「なら、彼の不正を暴けばいい。彼が不正を働いたのが事実なら、それは立派な不祥事でしょ」
「それは……」
確かに理屈としてはその通りなのだが、そう簡単にはいかない。カンニングの実行犯は傍付きの人間で、彼自体は直接手を汚していないのだから。
「証拠ならある。成績が妙な上がり方してるし。あと——」
「……あと?」
シルフィは砂糖とミルクでカフェオレを通り越した謎の甘い飲み物を一口飲むと、ニヤリとこう言った。
「そういう人間は、他にも必ずやらかしてるものだよ」
「……そう、なの?」
「うん。ソースは私の隊長」
彼女はにこりと悪戯っ子のように可憐に笑うと、テーブルに代金を置いてすっと立ち上がった。
「え、お金——」
「いい。それよりもう遅いから。送ってく」
シルフィのその言葉にハッとする。窓から見える外の街並みは、すっかり鮮やかなオレンジ色に染まっていた。
随分長い時間、話し込んでしまっていたらしい。多忙であるはずの聖国の騎士を長期間拘束してしまったことに申し訳ない後悔を覚えつつも、当人は大して気にもしない様子だった。
それから、私のヴェイルの屋敷まで送って貰った。しかし驚くことに彼女は玄関からではなく、私の自室の二階ベランダに私を静かに下ろしたのだ。
出会った時の、あの謎の手法で。まるで秋の風が意識をもっているかのように柔らかく。
「凄い……!これが魔術?」
初めて目の当たりにする高位の魔術に、私は興味津々で尋ねてみたけれど、シルフィはどこか気まずそうにすっと視線を逸らした。
どうやらあまり詳しく触れてほしくない内容だったらしい。
「……魔術……まぁ、それでいいよ」
半分投げやりな返答ではあったけれど、出会った当初よりずっとスムーズに会話が続くようになっていて、それがたまらなく嬉しかった。
彼女は喫茶店を出た時から人目を避けるように黒いケープを再び深く羽織って告げる。
「それじゃ、またね。」
「うん!また——」
そう言いかけて、私は自分がまだ自身の名を名乗っていないという大変失礼な失態をかしていたことに今更気付いてしまった。
いくら状況が特殊だったからといって、騎士様——それもあの十二勇士の一人に名を名乗るのを忘れているなんて——
私はすぐにベランダから飛び降りようとする——普通に危ない高さだが、彼女なら平気だろうという謎の確信がある——シルフィに、せめて己の名を名乗ろうとして。
「良い夢を。ユナ」
「——————」
今日何度目か分からない驚愕と唖然で、伸ばした私の手は宙で止まってしまったのだ。
大好きな人の裏切りという悲劇だったはずの日。
——私は、不思議で優しい騎士様に出会った。
冬の訪れの前の、穏やかな秋晴れの日だった。
◇ ◇ ◇
翌朝、私は重く憂鬱な気持ちをなんとか圧し殺して、王立院へ向かった。
両親はそんな私を気遣い『無理して行かなくてもいいんだよ』と言ってくれたけれど、私はおとなしく屋敷に閉じ籠る気持ちにもなれなかった。
これまでの私なら、きっと悲しみに暮れて自室に閉じ籠っていたことだろう。
しかし、昨日の不思議な騎士——シルフィとの出会いが、私の心境に少なからず良い影響を及ぼしていることは紛れもない事実だった。
幸いにも、彼と王立院で直接顔を合わせる機会は少ない。
男子と女子で基本的な授業は分かれているし、顔を合わせる可能性があるのは数少ない共同授業の際だけだろう。
午前中の授業は、なるべく平常心を装って過ごした。ベルナデッタとセレナも昨日、私が途中で王立院を抜け出した事に当然気付いていたはずだが、先生たちには上手くごまかしてくれていたらしく、逆に体調を心配される程であった。
そして、逃れられない共同授業の時間がやって来てしまった。
礼節の授業——舞踏や社交マナーの講義では、男女同じ教室で授業を受ける。
そして舞踏の実技というからには、当然男女ペアで組まされることになる。
この時、公の婚約者がいれば自然とペアを組むのが社交界の暗黙の了解なのだ。
つまり、婚約者がその場にいるのにペアを組まない、などということになれば——
「ねぇ、ご覧になって……」
「やはり、あの噂は本当なのかしら……」
「ヴェイル嬢もお可哀想に…」
「おいおい……あんまり見てやるなよ」
周囲の男女から容赦なく浴びせられる、好奇と憐みの視線。
セレナが怒りに震えて声を上げようとし、ベルナデッタが事を荒立てないように、と必死に引き留める。
「…………」
当然、彼からの救いの言葉など期待もしていなかったが。彼は私と目を合わせることすらなく、涼しい顔を決め込んでいた。
余裕があるのだ。彼にはもう、私以外の相手がいるのだから——
「レオ様~私と踊ってください♡」
「なんなの!あの子!?婚約者がいる相手にダンスのお誘いだなんて!!」
「落ち着いて、セレナ……」
「でも!ベルナデッタ!!」
「ユナが声を上げていないのに、第三者の私たちが先に声を上げるのは——」
セレナとベルナデッタが低声で話し合う声が聞こえるが、謎のクネクネとした動きでレオハルドに近づいていた少女——リアは、周囲の咎めるような視線などまるで気にした様子もない。
むしろ、もっと周囲から注目してほしそうにしている。余程、自己顕示欲が高いのだろう。
「ねぇレオ様?ユナ様可哀想~!お相手がいないみたい!!」
まるで見せ物のようにあからさまに馬鹿にしてくるリアに、レオハルドは無言でこちらを一瞬見ただけだった。
——何も言わない。
当然と言えば当然だけれど。
その冷淡な対応は、周囲の生徒たちの間に波紋となって広がっていく。
大部分の人間は単なる野次馬根性なのだろうが。
「やはりレオハルド様とユナ様の婚約はもう……」
「それにしても、あのご令嬢は些か品がないのでは?」
「レオハルド様、急に変わられたわね……以前はもっと誠実そうだったのに……」
「よしなさい。今のレッドベル家には関わらない方がいいわ……」
今のレオハルドの立場は非常に悪い。
正式にレッドベル家とヴェイル家の婚約は解消していないのだ。にもかかわらず、公の場で婚約相手以外の女性とのダンスを二つ返事で了承している。
おまけに、暗雲立ち込めるカンニング疑惑のおまけ付きだ。
しかしリアという少女は、そんな彼の危うい立場を分かっていないのか、次々と火に油を注ぐような軽率な真似をする。
彼女が口を開く度に、レッドベル家の立場は悪化の一途を辿り——
「ねぇユナ様!教えて下さらない?一人で惨めに踊る気分!私には分からないの!!婚約者に捨てられた気分はどう——」
高らかに嘲笑う彼女の目の前に、スッと背の高い影が落ちた。私は突然現れた人影に驚いて、思わず一歩後退る。
「——失礼。ラックウェル嬢、あまりに品性のない問いかけは止めていただきたい」
「……!?あ、貴方は——」
——セドリック・シュートリネン様。
有名な魔術師の名門の御方だ。直接ゆっくりとお話ししたことは少ない。少し赤みがかった気品ある髪と、透明感のある薄橙色の瞳。
彼がゆっくりと振り返り、私の視線と交錯した。
直接会話をしたのは過去に二、三回程だったので、少しばかりの面識はあった。
しかし、わざわざこうして庇われるような深い間柄かと言われれば——
「シュートリネン様、お気持ちは大変嬉しいのですが——」
私を庇えば、きっと彼の眩しい栄光を傷つけてしまう。
そう思って辞退の否定の言葉を出しかけたのだが、続く私の言葉より早く、彼はとんでもない事を爽やかに言い放ってみせた。
「ヴェイル嬢、もしお相手が不在なら——私と一曲踊っては頂けませんか?」
「え——」
「!??!はぁ!!?なんでそうなるわけ!!?」
「おい、リア……!」
驚いたのは、勿論私だけではない。リアはもちろんのこと、ずっと高みの見物で黙りを決め込んでいたレオハルドも、後ろで見守っていたセレナとベルナデッタも絶句する。
「シュートリネン様!?凄い!……あ、でもいいのかな?」
「——————どうして」
スッと上品に差し出される手。薄橙色の瞳が真っ直ぐに私の瞳を射抜いて——
「でも、私……」
「では、こうしましょう。貴方の婚約者は少々体調が優れないようだ。先ほどからお顔が真っ青ですよ」
「そうだ!そうだ!真っ青よー!!」
「セレナ、はしたないわよ!」
確かにレオハルドは、先ほどから死人のように顔面蒼白になっていた。
まさかシュートリネン子爵がこうして堂々と横槍を決めてくるとは、全く予想していなかったのだろう。
いや、この場の誰一人として予想していなかった。
「婚約者の方が踊りになれないと仰るなら、代理として私が。——いかがですか?ヴェイル嬢」
その何もかもを優しく包み込んでくれそうな穏やかな微笑みに流されてしまいたくなるのだから、私も大概冷たくて、自分に都合がいい人間だ。
昨日の夕暮れ、優しい騎士がかけてくれた言葉が脳裏に清々しく木霊する。
——なら、手を離してごらん。
その言葉に力強く背中を押されるように、あるいは導かれるように。
「……——喜んで。シュートリネン様」
私は彼の暖かな手を取ってしまったのです。
◇ ◇ ◇
澄んだ月の光が、誰もいない静かな庭園を優しく照らしている。
王宮の最上階付近にあるこの庭園は驚くほど広く、そして今は二人の小さな影以外には何も存在しない。
ここは私の好きな場所だった。一般の騎士や魔術師は立ち入れない——というより、《十二勇士》か、あるいは当人が直接許可した者しか入室を許されない《星の塔》(アスター)だ。つまり、誰にも知られたくない密談には打ってつけの場所というわけだ。
「満足ですか?これで」
「まぁ一応は?」
心底うんざりしたような声色で呼びかけられて、私はとりあえず素直な感想を伝えた。
黒髪の少年は深い溜め息と共にその場に腰を下ろしたので、釣られるようにして私もしゃがみ込むようにして腰を下ろすことにする。
「まったく……フラフラと何処かに出掛けたかと思いきや、王立院に通っている貴族を知っているか、などという質問は…やはり君の行動は読めませんね」
「でも何だかんだで協力してくれるんだ」
「……別に。レッドベル家の突然の事業失敗の件に少し興味があっただけです」
「でも、それとこれとは別だと思うなぁ」
彼は栗色の瞳をジト目にして此方に視線を向けてくるが、その素っ気ない行動とは裏腹に、あのシュートリネン家に迅速に話を通してくれたのは他でもない彼である。
やはり根は優しいのだが、ここで下手に余計な言葉を口にすると、次回から重要な糖分(お菓子)が用意されなくなる可能性が高いので、私は賢く沈黙を決めることにした。
我ながら実に賢い選択ではないだろうか?
「以前からラックウェル家は『不穏な行動を繰り返している』と弟から聞いていましたが、まさかここまで知性のないご令嬢とは思いもよりませんでした」
「うわ……毒舌」
「事実でしょう。しかしこの一連の件、ラックウェル家の身勝手な暴走だけではない」
夜も更け、青白い月の光だけが唯一の光源とも言えるこの静謐な庭園に、彼の冷徹で澄んだ声が淡々と響いている。
「例のカンニング疑惑ですが、実行犯の人間がそう簡単に試験問題の用紙を入手出来たとは思えません。王宮の教官室ほど管理が徹底しているとは言いませんが……」
彼の言葉に、私は同意を示すように小さく頷いた。
試験問題の原本、あるいは精巧なコピーでもなんでも構わないが、そんな重要書類を一人の生徒や付き添いの人間が簡単に盗み出せるような場所に放置しておくとは到底思えない。
——つまり、だ。
「裏で操っている黒幕がいるってわけ」
「はい。僕はそう思います。——ところでシルフィ。彼女——ユナ・フォン・ヴェイルご令嬢の名前は一体何処で知ったんです?君は普段、貴族の名前なんていちいち覚えていないでしょう」
至極当然とも言えるように断定的に尋ねてくる。
昔馴染みとはいえ、本当に容赦がない。
別にいいけれど。
「——それは風が教えてくれるものだよ」
彼は納得したように、それ以上深く追及するつもりはないようだ。
こういう微妙なラインで気を遣えるところはとても尊敬している。私には到底無理だ。
私は庭園に咲き誇る色とりどりの花々に視線を向ける。
とある花好きな勇士が手塩にかけて世話をしているお陰で、この庭園には本来この時期には咲かないような特殊な花も可憐に咲いている。
「ねぇミカ。知ってる?——ダリアの花言葉」
「急に何です?君、花を贈っても大して興味なさそうじゃないですか」
「失敬な!普通に愛でてますが?」
ミカは私が指し示した一輪のダリアに視線を向けた。
本来ならこの気候では育たない花や色合いの花であっても、ここには美しく咲いている。
ミカはダリアの花を見つめた。その色は——青。
「——なるほど」
落ちた言葉はそれだけだった。彼は私の言葉の真意を、完璧に理解してくれたらしい。
——沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり、という異国の言葉がある。
果たして彼女たちにとって、本当にこれがハッピーエンドという物なのだろうか。
今宵は、月が美しく輝いている。
月が満ち欠けによって毎日違う表情を見せるように。
目に見えているものが、常に真実とは限らないものだ。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




