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星刻の約定 ——Fragments of Laurant―  作者: にしみん
番外編・追補録 I
34/42

絶対節約習慣

この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨

本編の時間軸と異なり、遠征軍帰還前となります

完全コメディストーリーです。シリアスは置いてきました。パロディ要素強めなので、苦手な方はご注意ください。

Chapter1 限界を超えた胃痛コンビ


 王宮の煌びやかな廊下の果て、重厚な扉に閉ざされた財務省の執務室。

 そこは今、硝煙の代わりにインクの匂いが立ち込める、どんな凄惨な戦場よりも過酷な「墓場」と化していた。


「あと……何枚……あと何枚この白い紙に魂を切り売りすれば、私は人間(元の姿)に戻れるのだろうか……」


 ハンス・カウルバッハの深く沈んだ双眸には、もはや陽の光を映すハイライトの一片すら残されてはいない。

 乾燥しきった机の上、そして足元には、空になった胃薬のガラス瓶が、まるで激戦の末に転がる薬莢のように虚しく散乱し、乾いた音を立てていた。


「また、陛下が……あのお転婆な御方が思いつきで『王立お菓子騎士団』などという、およそ予算案の辞書には存在しないはずの部署を増やされたせいで……国の血肉たる予算の辻褄が……あぁ……っ!」


 その隣では、名門貴族の誇り高き血を引くはずのフェリックスが、まるで自身の血を絞り出すかのように、真っ赤な赤字で埋め尽くされた絶望の書類を、震える指先で手繰っていた。

 彼らはもう、血の通った「人間」ではいられない。ただ、責任感という名の冷徹な呪いに縛り付けられ、無限に続く数字の暗海をあてどなく泳ぎ続ける「事務処理の亡霊」そのものであった。


「アーネスト大臣の……あの震える決裁の印がなければ、これ以上の処理は、もう……(訳:アーネスト大臣の判子が必要だ)」


 掠れた虚ろな息が静かな部屋に木霊する。呼吸をするのも一苦労。

 一体この国はどこでこうなったのか。


「あの御方なら……昨日、陛下の天真爛漫な無茶振りに『ひぃ! 陛下! それだけは、それだけは国家が破綻いたします、いけませーん!!』と悲痛な叫びを王宮中に響かせ、廊下を脱兎の如く走り去っていったのを最後に、誰も姿を見ていないが……」


 そんな彼らの、ただ静かに蝕まれていく惨状を、結露した窓の隙間からじっと見つめる影があった。

 魔術師管理局長ルーシャ・ルナリスの忠実な使い魔、白い小鳥の《シエガ》である。


普段であれば、他者の失態を「ちゅん! ちゅん!(ざまぁみろ、間抜けめ!)」と小馬鹿にする邪悪な愛らしさを持つ小鳥だったが、魔力(マナ)はおろか生きる気力すら抜け落ちた二人の背中に漂う――「死」よりも昏く深い絶望のオーラに、流石に喉を鳴らして煽る気すら失せたのだろう。

 小鳥は静かに小さな羽を広げると、冷えゆく王宮の夕闇へと、主である銀雪の魔女の元へ急報を携えて飛び立った。


しんと静まり返った魔術師管理局長室。

 使い魔からの切迫した報告を受け取ったルーシャは、窓外に広がる薄紫色の夕闇に視線を落としながら、愛用の万年筆を静かに机へと置いた。

 その美しく、冷徹な藤色の瞳が、事態の深刻さを物語るように細められる。


「……財務省の命脈が、いま文字通り沈没しかけているわね。ベアトリクスが毎日のように起こす爆発事故の城壁修理費も、騎士が戦うたびに刃こぼれさせる剣の魔力錬成費も……これ以上は、この国のどこを絞っても一滴すら出てはこないわ」


 王宮の機能が停止するその前に。ルーシャはすぐさま魔術通信を飛ばし、冷静無比なアルハイサムと、王宮を裏から支配する首席メイド、ニーナを管理局長室へと召集した。

 

 そして翌朝。

青い朝霧が立ち込める王宮の全掲示板に、若き騎士たちが恐れるどんな厳しい試験結果よりも、冷酷で容赦のない「黒枠の布告」が厳かに張り出されることとなった。


【王宮令:絶対節約習慣の発動】

一、備品の破壊は、その規模を問わず給与より天引きとする。

(※ベアトリクス・フォン・ベルカンプ嬢においては、本日を以て実質「無給」とする)


一、深夜における無駄な魔導灯・蝋燭の点灯(私的な試験勉強等を含む)を一切禁ず。


一、騎士団員による城内での「追いかけっこ」及び過度な疾走に伴う、石畳の摩耗を禁ず。


一、魔術師管理局長自らのティータイムを除く、全部署における「高級茶葉」の使用を厳禁とする。


 朝露に濡れた布告を見上げる騎士たち――その鋼の肉体を誇る筋肉魔人たちの間に、波紋のような動揺と、悲痛なざわめきが広がっていく。


「石畳の摩耗を禁ずるだと……!? 瞬発力を鍛えるための全力ダッシュも、足捌きの訓練も、これでは満足にできないではないか……!」


 ラバックの、肺を絞り出すような悲鳴が寒空に響く。


「これじゃあどうやって訓練すればいいんだよ!?」


 その隣で、エルンは自身の愛おしいヘーゼルの瞳を潤ませながら、おそるおそる腰の剣を見つめていた。


「レン先輩……ルーシャ様に精錬していただいたばかりのこの新しい剣、本当に……爪先ほども傷つけないように扱わなければ……。もしも万が一にでも刃こぼれさせてしまったら、私たちの給料なんて、一瞬で百年分くらい吹き飛んでしまいますよ……」


 冷え切った剣の鞘を抱きしめるようにして、エルンは青ざめた顔を強張らせる。

 その喧騒の背後から、静かな、しかし確かな足音が近づいてきた。


「……非常に非効率極まりない制限ではありますが、現状を鑑みれば妥当な判断です。ハンスたちの精神が崩壊し、心臓が止まってしまえば、私の毎月の給与の支給さえも完全に停止しますからね」


 感情の起伏を一切排したアルハイサム書記官の冷ややかな呟き。

 彼のように徹底した個人主義者が、そして何より定時退社を愛する能率の塊が納得せざるを得ないほど――


聖ラウラント王国のきらびやかな財布の底は、すでに悲鳴を上げる隙すらない限界の淵へと、静かに、そして確実に突き落とされていた。


Chapter2 野性サバイバルの咆哮


 朝礼の場を満たす空気は、冷え切った冬の朝よりも鋭く、肌を刺すように痛かった。

 掲示板に突きつけられた【絶対節約習慣】の非情な文字。

 それは、優雅で気高き王国騎士としての日常が、突如として牙を剥き、彼らを「原始的な自給自足」の荒野へと叩き落とした決定的な瞬間であった。


「本日の野外訓練だが――昼食の配布は一切行わない!」


 ロディ団長が朗々と、あまりに容赦のない声を響かせると、整列していた騎士たちの間に凍りつくような絶望の沈黙が広がった。


「予算の都合上、支給品は最低限の装備のみに絞る。よって本日の昼食は、各々現地で調達し、確保してもらう!」


「ま、マジかよ……訓練場の近くに店なんて一軒もないぞ!?」


 レンが思わず悲鳴を上げ、隣のラバックは「休憩時間中に街まで往復するなんて、物理的に不可能な距離だよ……」と絶望に膝を折りかける。

 さらに退路を断つように、「訓練中の私物持参は一切禁止」という鬼の如き鉄則が、彼らの飢えを確定させていた。

 しかし、すがるような部下たちの眼差しを受け止めながら、不落の巨龍はただ面白がるように不敵な笑みを浮かべるのみだった。


「安心しろ。あの森には食える魔獣が数多く生息しているし、探せば甘い果実だって実っている。ああ、中には触るだけで命に関わる毒の草木もあるから、精々気を配るように」


「「「魔獣をその場で食えだと!?」」」


 レン、ラバック、そしてエルンの三人は、開いた口が塞がらない。

 だが、そのすぐ隣では、同僚であり年少の天才であるクリスやミカが「何を今更」とでも言いたげな、至極涼しい顔をしていた。


 それどころか、死線を潜り抜けてきた古参の騎士たちに至っては、「今日は脂の乗ったワイルドボアが狙い目だな」「いや、ロックバットの唐揚げもあの独特の歯ごたえが捨てがたい」などと、早くも楽しげに昼の献立を相談し始める始末であった。


「理解……理解できません……。いつだったか、予知夢の中で見た『泥だらけになって何かを必死に齧りついている先輩たち』の高貴から程遠い姿は、この未来のことだったんですね……」


 エルンがそのヘーゼルの瞳に薄すらと涙を浮かべながら、避けられぬ絶望の未来を呆然と予言していた。

 深い木々に覆われ、湿った土の匂いが立ち込める訓練場の森。

 到着の合図と共に、騎士たちは一斉に剣を抜いた。

 しかし、その切っ先が目指すのは「国の平和や正義」などという大層なものではなかった。

 ただひたすらに、己の胃袋を満たし生き延びるための、剥き出しの狩猟の始まりであった。


「レン! 右の藪だ! フォレスト・ラビットが跳ねたぞ!」


「逃がすかよ! 俺の、俺たちの貴重な昼飯が……逃げるなぁぁ!!」


 レンは勢いよく腰の剣を抜き放ち――かけ、その黒色に輝く刀身が目に入った瞬間、脳裏に昨日の布告が過って寸前で動きを止めた。


(待て……絶対節約令だ。ここでウサギの返り血で剣を汚したり、万が一にも石に当たって刃こぼれでもさせたら、あの磨き上げられた愛剣の修理費で俺の給料が消し飛ぶ……!)


「ラバ! 剣は使うな! 刃を汚したら終わりだ! 罠だ、罠を仕掛けるぞ!!」


「ええっ!? 誇り高き騎士が泥縄で罠を仕掛けるの!? ……いや、背に腹は代えられないね、分かった! その辺の小枝と蔦を集めて、即席の括り罠を作るよ!!」


 傭兵として泥水をすする術を知るレンと、手先の器用なラバック。

 二人は騎士の矜持をあっさりと投げ打ち、泥にまみれ、草むらを這いずり回って必死にウサギを追い回した。


 一方、その喧騒から離れた偵察部隊の側では、ミカが怪しげな斑点のあるキノコを優雅につまみ上げ、無表情のまま観察していた。


「これは……十分に熱を通し、毒成分を加熱分解すれば食べられますね。食後に指先へ少しばかり麻痺が残りますが、午後からの訓練の支障にはならない程度です」


「ミカ、普通の人間はそれを『食べられる』とは形容しないんだよ!?」


 クリスが翡翠色の瞳をこれでもかとひん曲げ、全力で突っ込みを入れる。

 さらに、つい最近まで追試地獄という名の奈落から這い上がってきたばかりのヴァラキー姉妹は、薄暗い森の奥で、魔獣の不気味な気配に身を寄せ合って震えていた。


「私たちが暗殺者の組織にいた頃だって、こんな風に魔獣を狩って、その場で野蛮に食らうなんて訓練はしなかったわよ……。局長様、いくらなんでも節約のベクトルが斜め上に狂いすぎているわ……」


 その頃、静寂に満ちた魔術師管理局長室。

 使い魔のシエガから戦況の報告を受け取ったルーシャは、執務机に頬杖をつきながら、満足げに薄く微笑んでいた。


「……ふふ、ロディも、臨機応変に上手くやってくれているようね」


 長命種としての深い知恵と冷徹さを持つ彼女にとって、この過酷な状況すらも一石二鳥の好機に過ぎなかった。


「出費を極限まで抑えつつ、甘やかされた騎士たちに本物の『野性』とサバイバル能力を叩き込める。実に見事な合理性だわ」


 もし財務省のハンスとフェリックスがこの光景を見れば、予算ゼロで稼働する騎士団の姿に感涙の声を上げて喜ぶであろう「地獄の自給自足訓練」


 果たしてレンたちは、プライドを捨て去ったその泥だらけの手で食糧を確保し、夕闇迫る空腹の危機を凌ぎきることができるのだろうか!?

 

 場面は再び、泥にまみれた第六小隊の元へと戻る。

 激闘の末、どうにかフォレスト・ラビットを仕留めることに成功したレンたち。

 仕留めた喜びも束の間、彼らの前には「いかにしてこれを口に運ぶか」という、文明人としての極めて高い壁が立ち塞がっていた。


「とりあえず……皮を剥いで内臓を抜いて、そのまま直火で焼く?」


「いや、直火焼きだと野生特有の雑味が残る。できれば煮込むべきだけど、そもそも鍋もなければ、何より『調味料』がこれっぽっちもないぞ……」 


 レンが傭兵時代の経験から肉の処理に拘りを見せ、エルンがその衛生面と味のなさに真面目な不安を募らせ、意見が交錯する。

 そんな絶望に沈む部下たちを見つめ、第六小隊の隊長が不敵に、そして勝ち誇ったように唇を吊り上げた。


「フッフッフッ……! 嘆くな、我が部下たちよ! こんなこともあろうかと、俺はあらかじめ準備を怠ってはいなかったのだ! 見よ、この塩、胡椒、そして我が家秘伝の特製ソースを!!」 


「「「おおおおおっっ!!!(神の光を見るような眼差し)」」」


 隊長が誇らしげに懐から取り出したいくつかの小さなガラス瓶。

 それは、飢えに喘ぐ彼らの暗闇に差し込んだ、紛れもない救いのひと筋の光であった。


「お弁当の持ち込みは厳禁とされていたが、調味料の持ち込みについては、騎士団規約のどこを読んでも一文字も禁止されてはいないからな!」


 脱法的な屁理屈を得意げに語る隊長のドヤ顔に、それまで死にかけていた野郎共のテンションは一気に最高潮へと跳ね上がる。


「よし! これさえあれば、味気ない野良ウサギの肉が、一瞬にして極上のステーキへと化ける――!」


「――ほう。誰が、訓練場にそんな贅沢な調味料を持ち込んで良いと言った?」


 歓喜の渦を切り裂くようにして、背後から響いたのは、まるで地獄の底の底から染み出してきたかのような、低く冷ややかな質量を持った声。

 ギチギチと首を鳴らすようにして振り返れば、そこには太い腕を組み、冷徹な一対の眼光を細めて仁王立ちするロディ団長の姿があった。


「ひっ……!? だ、団長……っ!?」


「全て没収だ。実戦の戦場において、肉の臭みを消すような軟弱な贅沢品など存在しない。ただ野生の、生命そのものの素材の味――生臭い血肉を噛み締め、生命を奪って生きる尊さを骨の髄まで知れ」


「ガーン!!!!!(魂の抜ける音)」


 レンたちの目の前で、ささやかな希望の詰まった小瓶たちが、無慈悲にもロディの頑強な懐へと吸い込まれていく。

 天国から一転、第六小隊の頭上には、再び果てしない絶望の沈黙が重くのしかかった。 


 この世には、目を背けたくなるような「格差社会の縮図」が、確かに存在するものである。

 生い茂る木々の緑の陰から、そんな哀れな第六小隊の惨劇を冷ややかに眺めていたのは、エリート集団である偵察部隊の面々であった。


「おや、大変そうですねぇ、第六小隊の方々は……」


 木漏れ日を浴びながら、彼らは手際よく自生のハーブで包み焼きにし、上品な香りを漂わせる魔獣肉を優雅に頬張っていた。 

 その手元には、みずみずしい果実をその場で絞ったフレッシュジュースまで用意され、乾いた喉を潤している。


「何これ……! すっごく美味しい! 本当にあの凶暴な魔獣のお肉なの!?」


 シノアがその味の広がりに驚き、瞳を丸くして感嘆の声を上げる。

 その隣では、ミカが、周囲に自生していた香辛料の葉や塩分を含む野草を見事に調合し、即席とは思えぬ見事なフルコースを完成させていた。


「市販の調味料をわざわざ持ち込むのは二流のすること。現地にある自然の恵み、野草と果実の比率を即座に見極め、その場で味を調えるのが一流というものです」


 ミカが当然のように淡々と、お菓子作りの技術で培われた繊細な感覚を語る。


「今日は気候も良く、獲物にも恵まれたな。川辺の近くでちょうどいい岩塩の結晶を見つけられたのも幸運だった」


 クリスも満足そうに目を細め、まるでお洒落なテラス席にいるかのように、優雅なランチタイムを楽しんでいた。


「……なぁ、ラバ。あっちの華やかなグループに頭を下げて頼み込んだら、一口くらい分けてもらえると思うか……?」


「絶対に無理だよ、レン。ほら、見てみなよ……あそこで団長が、肉食獣みたいな目でこっちの動向を監視してる。少しでも近づいたら、連帯責任で明日の飯まで抜かれるよ……」


 じゅうじゅうと音を立てる、ただ焼いただけの味気ない、ほんのりと血生臭いウサギ肉を前に、レンとラバックは遠くから風に乗って漂ってくる極上の香りに、ただただ咽び泣くしかなかった。


 エルンにいたっては、現実を受け入れられず


「私の見た予知夢では……私はもっと、温かくて美味しいものを食べていた気がするんですけど……これじゃあただの泥水啜りです……」


 と、虚空を見つめながら現実逃避を始めている。

節約令というたった一枚の布告が生み出した、あまりにも残酷で、あまりにも過酷な「自給自足の格差」

 すべての訓練を終え、王宮の門をくぐる頃、レンたちの瞳はかつてないほど鋭く研ぎ澄まされ、そして空腹の極限によって、まるで飢えた野獣そのものの獰猛な輝きを放ち始めていたのだった。


Chapter3 極小の駒と暗黒の鍋


 空腹という名の最大のスパイスは、時に人を狂わせ、時に限界を超えさせる。

 野外訓練で味のしない血生臭い魔獣肉を齧り、命からがら帰還した騎士たちを待っていたのは、安らぎの食卓などでは決してなく、文字通り命を懸けた「宝探し」の試練であった。


「皆様、お帰りなさいませ。非常に残念ではございますが、本日はセルフサービスですらありませんの」


 薄暗い食堂の入り口に、一歩も通さぬという意志の如く毅然と仁王立ちする首席メイド、ニーナ・フォン・ローゼンタール。

 彼女の背後からは、天国を思わせるほど芳醇な肉汁とソースの香りと、地獄の底から湧き上がるような、紫色の不吉な煙を吐く「何か」の異臭が、同時に混ざり合って漂ってきていた。


「メアリ王女殿下が紛失されたボードゲームの駒を、一人三つ、この広い王宮から探し出してきてくださいな。早く見つけた方から順に、こちらの豪華ディナーを。そして……最後の最下位となってしまった哀れな敗者には、ベアトリクス様が特製された、素材の味と、有り余る暴走魔力を極限まで活かしたシチューを、残さず召し上がっていただきますわ」


「「「死刑宣告だぁぁぁぁ!!!!!」」」


 食堂前の廊下に、騎士たちのこの世の終わりを告げる悲鳴が響き渡る。

 あのベアトリクス・フォン・ベルカンプが「手料理を振る舞いたい」と嬉々として言い出した時のあの凄惨な絶望感を、この王宮に住まう者は誰一人として忘れてはいない。

 彼女の作り出すそれは「料理」などという生温かい概念ではなく、錬金術の過程で生じた致命的な失敗作、あるいは胃粘膜に直接襲いかかる「食べる物理攻撃」そのものであった。


「生きますよ、クリス! あの深淵のシチューを一口でも胃に入れたら、文字通り三日はあの世から魂が戻ってきません!」


 ミカが、およそ空腹の極限とは思えぬ音速の踏み込みを見せ、弾かれたように食堂を飛び出した。


「あんな劇物を食わされてたまるか!! 意地でも、這いつくばってでも、最高級特上ステーキをこの手で掴み取ってやる!!」


 クリスもその翡翠色の瞳を血走らせ、日頃の過酷な遠征で鍛え抜かれた天才的な動体視力を、「床の片隅に転がっているであろう、爪の先ほどの小さな駒」を探し出すためだけにフル活用する。


「ラバ、エルン! 俺たちも一秒でも早く行くぞ!」


「本当にその通りだよ! ベアトリクス様のあのダークマターだけは、この世の如何なる厄災よりも優先して回避しなきゃいけない!」


 焦りを見せるレンとラバック。その時エルンが、その美しいヘーゼルの瞳を一点に集中させ、確信を込めて厳かに告げた。


「……見えます。私、確かに見えます。……先ほど見た予知夢の中で、中庭の噴水の裏側と、西回廊の絨毯の端に、かすかに光る駒の輪郭が……!」


「「本当か、エルン!! お前が、お前こそが俺たちの救いの女神だ!!」」


「何であんな風に動けるわけ……? さっきまで泥にまみれて魔獣を追い回していたのよ、あいつら……」


「やっぱり、この騎士団は根底から何かがおかしいわ。根性が完全に生存競争に特化しすぎているもの……」


 空腹と肉体的な疲労により、その場に崩れ落ちるようにして膝をつくヴァラキー姉妹。

 ふと背後を振り返ると、ニーナが巨大な鉄製のお玉を手に、紫色にどろどろと煮えくり返る「ベアトリクス・シチュー」を大鍋の底からかき混ぜながら、得も言われぬ黒い微笑みを浮かべて二人を見つめていた。


「あら、シノア様、シノン様。その場から動かないということは……喜んでベアトリクス様の『毒味役』を志願してくださるということですのね?」


「「行きます!! 今すぐ全力で探しに行ってきますぅぅぅ!!」」


 死の恐怖が、肉体の極限の疲労を完全に凌駕した瞬間であった。

 かくして、王宮の至る所で、金属鎧をガチャガチャと鳴らしながら四つん這いになり、床を執念深く凝視する重装備の騎士たちが続出することとなった。


「あった……! 一つ目!!」


 レンが古びた絨毯の僅かな隙間から、メアリ王女愛用の、細巧に彫られた「象牙の兵士駒」を指先でつまみ上げ、救い出した。


「こっちにもあった! エルン、君の予知夢の通りだ!」


 ラバックもすかさず、二つ目の駒を確保。

 しかし、そのすぐ横を、ミカが「少々、失礼いたしますね」と突風の如き身のこなしで静かに通り過ぎ、一瞬の澱みもない動作で三つの駒をすべて回収し、そのまま食堂へと引き返していった。


「あの野郎、いくらなんでも速すぎるだろ!!」


 一方、そんなお祭り騒ぎの回廊の隅で、財務省のハンスとフェリックスは、床にぽつんと落ちていた駒をようやく拾い上げ、絶望と疲労の涙を静かに流していた。


「この美しい彫刻の施された駒……これ、一体一つあたり、どれだけの国家予算が浪費されているんだろうね……」


「予算……我々の胃に穴を空けて作られた予算が、またどこかで削り取られていく音が聞こえる……。この駒、いっそ拾い上げて、そのまま食べちゃいたいな……」


 果たして、エルンの不思議な予知能力は、窮地の第六小隊を「至高のディナー」へと無事に導くことができるのか。

 それとも、僅かな差で遅れをとった誰かが、ベアトリクスの暗黒煮えたぎる鍋の生贄となってしまうのだろうか。


 王宮の回廊は、まさに凄惨な戦場そのものであった。

 冷たい石畳を這いずり、埃っぽい絨毯を執拗にめくり、格式高い彫像の指の隙間や台座の影に指を突き刺す重・軽装備の男たち。

 事情を何も知らない優雅な侍女たちが、その姿を見て


「あぁ、また騎士団の皆様の『床下緊急点検訓練』が始まったのね。本当に毎日お忙しいこと」


 と生温かい同情の目で見守る中、ついに第六小隊が執念と友情の成果を上げた。


「……! あった! あったぞ、三つ目だ、これで揃った!」 


 レンが、メアリ王女が何よりも愛用していたとされる、燦然と輝く「純金の騎士駒」を誇らしげに天へと掲げた。


「すごいぞ、レン! さあ、一秒でも早く食堂へ戻ろう! 間に合わなくなったらすべてが水の泡だ!」


 ラバックが焦れったそうに背中を押し、エルンも


「これで……あの忌まわしい紫色の湯気から、無事に逃げられます……!!」 


 と半泣きになりながら、二人の背を追いかける。


 一方、中庭にほど近い格式高い回廊では、新たな、そして決定的な悲劇が静かに幕を開けようとしていた。


「む? 足元に、何やら妙なものが落ちておるのぅ。……これは、おもちゃの駒かの?」


 王宮の徘徊癖がある老人――プトレマイオス枢機卿が、白髭を揺らしながら、ひょいと腰を曲げて指先で駒を拾い上げる。

 それを見咎めた瞬間、周囲にいた騎士たちの瞳が、獲物を見つけた飢えた孤狼の如く、獲物を引き裂かんばかりにギラリと、異常な飢餓感をもって輝いた。


「プ、プトレマイオス様……! その駒……! その駒を、どうか、どうかこの哀れな私にお恵みください!!」


「何を抜かすか! 俺の方が先に視界に収めていたんだ、俺によこせ!」


「どけ! 俺はさっきからベアトリクス様のあのシチューの腐臭のような匂いで、胃液が逆流しかけてるんだ! これは命に関わる死活問題なんだよ!」


「な、なんじゃ……お主ら、一体全体どうしたというのじゃ……。たかが駒一つで、この国が滅ぶというのかの……?」


 老枢機卿の高徳な戸惑いなどを置き去りにしたまま、駒一つを巡る、最も醜く最も壮絶な「騎士道(物理)」の衝突が、廊下の壁を震わせて始まった。

 その頃、すでに一足早く生還を遂げた年少の天才たちは、ニーナが腕によりをかけて仕上げた、芳醇な赤ワインソースの滴る「特上ローストビーフ」を、温かい食堂で優雅に堪能していた。


「お疲れ様でございます。……その必死の様子ですと、無事にノルマを達成してこられたようですね」


 ニーナの冷ややかで、しかしどこか満足げな言葉に対し、レンは乱れた息を整えながら、かろうじて回収した九つの駒をテーブルの上へと並べ立てた。


「全部で九つ……! これで、全員分、間違いなく文句はないだろ!」


「……確かに、しかと確認いたしました。お見事ですわ。合格された皆様はこちらの席へどうぞ。温かいかぼちゃのスープと焼き立ての麦パン、そして香ばしいメインディッシュをご用意しております」


「やったぁぁ!!! ご飯だ、本物の食べ物だ!!」


 ラバックが歓喜の声を上げて椅子に飛び込み、エルンも「もうお腹と背中がくっつきそうでしたぁ!」と、これ以上ないほど幸せそうに頬を緩め、温かいパンをちぎる。


 その至福の美味なる時間は、引き戸を勢いよく開けて現れた「破滅の料理人」の登場によって、無残にも遮られることとなった。


「シチュー、ちょっと張り切りすぎてたくさん作っちゃった! 今なら特別に、お皿に山盛り大サービスしてあげるわよ!」


 ベアトリクスが、まるで暗黒の魔術儀式で使われる呪いの釜のような大鍋を両手で抱え、無邪気な笑顔で現れた。

 鍋の底からは、どろりとした紫色の液体が、時折「ゴボォ……」と不吉な破裂音を立て、緑色のガスを弾けさせている。


「いりません」


 ミカが、ローストビーフを口に運ぶ優雅な手を一瞬たりとも止めることなく、極限の氷点下の冷徹さで一蹴した。


「えー? そんなこと言わないでよ、美味しいのに。隠し味に、魔術師管理局の倉庫で見つけた乾燥スパイスをほんの少し調合しただけなんだから」


「アンタの味覚の構造、生まれてから一度も正常に機能したことがねえんじゃねえのか……」


 クリスが心の底から軽蔑するように目を細め、その有毒ガスを放つ大鍋からじりじりと自らの椅子を遠ざける。


「そんなことないって! ほら、騙されたと思って、まずはほんの一口だけでも!」


「いらん!!」

「近づかないでください」


 二人の揺るぎない生存本能による拒絶。

 その背後では、ついに時間内に駒を見つけ出すことのできなかった哀れな脱落者たちが、ニーナの手によって容赦なく首根っこを掴まれ、ベアトリクスの大鍋の前に並べられていた。


「さあ、皆様。メアリ王女殿下のために十分に働けなかった分、こちらのスタミナ満点な特製料理で、しっかりと栄養を摂っていただきましょうか(極上のメイドの微笑み)」


「ぎゃあああああああああ!!!! 頼む、誰か、プトレマイオス様に……王宮の法律家に助けを求めてくれぇぇぇぇ!!!!」


 レンたちは、食堂の片隅から響き渡る哀れな戦友たちの凄惨な断末魔を、これ以上ない極上のバックグラウンドミュージックにしながら、命の恩人である「ニーナ特製ディナー」の深みある極上の味わいを、涙と共に胃の腑へと深く深く噛み締めるのであった。


Chapter4 ティータイムなき朝の絶望


 王宮を震撼させた「絶対節約令」その冷酷な刃は、官僚や末端の騎士たちだけに留まらず、ついに聖ラウラント王国で最も自由奔放で我が儘な存在――メアリ・ヴァル・ラウラント王女殿下の元へと届いた。


「おはようございます、メアリ殿下」

「おはよ……ねぇ、紅茶はまだなの? 私のお口が、目覚めの高貴なダージリンを求めているわ」


 いつものように天真爛漫に目覚め、当然の権利として最高級のモーニングティーを要求するメアリ。

 しかし、朝の光が差し込む豪華な寝室で控えていたメイドの顔は、かつてないほど沈痛な面持ちで伏せられていた。


「……大変申し上げにくいのですが、メアリ殿下。実は、本日より殿下の私的な茶葉予算、および日用品費が、大臣決議により大幅に削減されました」


「そんな!? 一日の始まりですのよ!? 私の優雅な目覚めを阻害するなんて、国家の損失ですわ!」


 メアリの碧色の瞳が驚愕に染まる。それでもメイドはただ静かに首を振るばかりで、テーブルの上に置かれたのは、いつもの金縁の磁器ではなく、どこか質素な白磁のカップに注がれた、香りの薄い番茶のような代物であった。


「こんなの、お茶を濁しただけのお湯ですわ! エマお姉様に言いつけてやるわ! お姉様なら私の味方をして、あのケチな財務省の人たちを叱ってくれるはずよ!」


 メアリが憤慨してシルクの天蓋付きベッドから跳ね起き、ドレスの裾を翻して立ち上がろうとしたまさにその時。

 控えめなノックの音と共に、胃薬の独特な臭いを全身から漂わせた財務省の事務官が、眉間に深い皺を刻んだまま、分厚い予算却下書類を手に現れた。


「その件なのですが、メアリ殿下。先週殿下が『本物志向のおままごとがしたい』と仰って、財務省へ特別申請を出されていた――【リアルおままごと用・離婚届サンプル(特注金縁・魔力インク加工)】を含む、計十七件の玩具備品の購入も、本日を以てすべて却下、キャンセルと決定いたしました」


「……え」


 メアリの動きが、彫像のようにピタリと止まる。


「ま、誠に心苦しいのですが、現在の国家予算は、騎士団の食費すら魔獣の現地調達で自給自足させるほどの未曾有の危機にありまして……」


「なんで!? なんでよ!! 私の離婚届がなければ、次のおままごとのクライマックスが演じられないじゃない!!」


 メアリの悲痛な叫びが、豪奢な私室の壁に木霊した。

 彼女が計画していた「リアルおままごと」とは、もはや子供の遊びの領域を遥かに逸脱した、あまりにも生々しいドキュメンタリー劇であった。


「聞いてちょうだい! 今回のおままごとはね、愛し合って結婚したはずの伯爵夫妻が、夫の度重なる事業失敗と放蕩の末に、家庭が完全に崩壊していく悲哀を描く超大作なのよ!? 妻役の私が、涙を流しながら『あなた、もう耐えられませんわ……! これが、私の最後の意志です!』と叫んで、あの金縁の、見るからに重みのある離婚届をテーブルに叩きつける場面こそが、全体の盛り上がりの最高潮になるはずだったの! それを、紙切れ一枚すら買ってもらえないなんて……!!」


「メアリ殿下!! 落ち着いてください! そもそも『離婚届』などという、教育的にも王族の品格的にも非常にグレーな備品を、国家予算で特注なさろうとすること自体がおかしかったのですわ!」


 メイドが必死に宥めるが、メアリの「我が儘」という名の叫びは、一向に収まる気配を見せない。

 しかし、これまでは「まあ、可愛いメアリ王女の頼みだから……」と、なんだかんだで予算を通しがちだったハンスやフェリックス、そして背後で目を光らせるルーシャといった重役たちは、今回ばかりは一歩も引かなかった。

 国の財布の底は、すでに物理的に空っぽなのである。


「いやぁぁぁぁぁっ!!! 私の芸術的なおままごとを返してぇぇぇぇっ!!!」


 早朝、冷たい空気が張り詰める王宮の中庭。

 第六小隊の面々は、そのメアリ王女の魂を揺さぶるような絶望の絶叫を、遠くの尖塔から響く音として聞きながら、次なる過酷な訓練へと向かって足を進めていた。


「……なぁ、今のメアリ様の、天を衝くような叫び声、聞こえたか?」


「聞こえたよ。風の噂によると、おままごとの道具を買ってもらえなかったみたいだね」


 ラバックが同情の欠片すら感じられない、すっかり疲れ切った顔で答える。


「俺たちが昨日、命がけでベアトリクス嬢のダークマターを避けるために駒を必死に探したっていうのに、結局その当の本人は予算削減で泣き叫んでるなんて……。世の中、本当に上手くいかないものだね」


「まぁ、俺たちが昨夜、無事に生き残ってあの美味いローストビーフを食えたのは、あのお転婆なお姫様が駒をそこら中に失くしてくれたおかげだけどな……。そういう意味じゃ、感謝しなきゃならん」


 レンが、肩に担いだ木剣の位置を直しながら不敵に笑う。

 王族ですらモーニングティーを制限され、おままごとのおもちゃすら却下される、この過酷極まりない超節約時代。

 自分たちがこの聖ラウラント王宮で生き残るためには、もう「駒探し」だろうが「魔獣の素手狩り」だろうが、どんな泥臭い任務であってもこなしてやる。


 第六小隊の少年少女たちは、朝の冷たい風を胸いっぱいに吸い込みながら、その瞳の奥に、かつてない「野生のサバイバル精神」の炎を静かに、しかし熱く燃え上がらせるのであった。


Chapter5 カフェインの枯渇と「出がらし」の憂鬱


 王宮を凍りつかせた「絶対節約習慣」の嵐は、もはや最前線の騎士たちの空腹だけでは収まらなかった。

 その冷酷な刃は、王宮の心臓部であり知的労働を一手に担う士官事務室にも、重い暗雲とカフェイン不足に伴う強烈な頭痛を伴って忍び寄っていた。


「さて、気を取り直して、もう一杯コーヒーのおかわりでも……」


 一人の士官が疲弊した体を起こし、空の陶器製カップを手に給湯スペースへ立ち上がろうとしたその時、隣のデスクに座る冷徹な事務官が、冷ややかな視線で非情な宣告を突きつけた。


「あ、駄目ですよ。例の【絶対節約習慣】により、本日からコーヒーの配給は『一日一人一杯まで』と厳しく制限されています」


「コーヒーのおかわりも禁止だと……!? そんな横暴が許されてたまるか!」


 士官がまるでこの世の終わりを見たかのように顔を歪める。日々膨大な書類と複雑な数字の羅列に追われるデスクワークの彼らにとって、コーヒーの暗黒の液体は血液と同義。

 それを取り上げられるのは、前線の戦士から剣を奪うに等しい極悪非道な暴挙であった。


「まあ、騎士団の方々は先日の昼食が『魔獣の生肉』だったそうですからね。あれに比べれば、一杯飲めるだけまだマシな方ではないですか」


 マヌーチュルフ教官が、淡々と複雑な戦術魔術の数式を黒板に書き進めながら、感情の起伏なく彼らをなだめる。


「騎士団の方々はロディ団長による特殊な人間を辞めるための訓練を日常的に受けているじゃないですか! 我々一般の事務官を、あの戦闘狂たちと一緒にしないでください!」


「まあまあ、落ち着いてくださいな。コーヒーは駄目ですが、こちらの『紅茶の出がらし』でしたら、おかわり自由となっておりますよ」


 アズリカ教官が、いつものように穏やかに微笑みながら、すでに茶葉の限界を超えて色が恐ろしく薄くなった、ただの温かいお湯に近いポットを差し出した。


「紅茶の出がらしのおかわりが自由なんて、聖ラウラント王国の歴史が始まって以来、一度だって聞いたことがありませんわ!!」


「仕方ありません、全員で我慢を分かち合うのです。最近は物価高ですしね。数年前は五十ゴルドで買えたものが、今では百二十ゴルドもする恐ろしい時代ですから、予算を削るのも当然の措置です」


 マヌーチュルフ教官が、乾いた音を立ててペンを置く。その隣で――


「私も……日課であるプロテインの摂取量を、普段の一日三回から『一日一回』へと厳しく制限しているんですよ」


 アルハイサム書記官が、いつにも増して殺気立った重いオーラを全身から放ちながら、凄まじい速度でペンを走らせて山積みの書類を捌いていた。

 その鋭い筋肉が、不機嫌そうにシャツの生地を押し上げている。周囲の士官たちは、その鋼の肉体をそっと盗み見ながらヒソヒソと囁き合う。


「……プロテインをそれだけ我慢している割には、あの筋肉の体積、昨日から一ミリも縮んでなくないですか……?」


「アイツも筋肉魔人みたいなものだしな……」


「効率を極限まで追求すれば、筋肉の形状維持に多量の追加栄養は必要ないのです。無駄な雑談を省き、迅速に手を動かしなさい」


「嘘だ! そんなの絶対に嘘に決まってる! コーヒー……誰か、私に本物のコーヒーを飲ませてくれぇぇ!!」


 事務室に響き渡る、理性を失った士官の悲痛な叫び。その狂乱の叫び声すら、もはやこの緊縮財政下の王宮における「日常のBGM」となりつつあった。

 ちょうどその頃、重い木剣を担いだ第六小隊の面々が、騒がしい事務室の前を通りかかっていた。


「大変そうだな……あっちのインテリ連中も」


 レンは、かつて自分が傭兵として泥水をすすっていた帝国の過酷な環境を思い出していたが、それ以上に「たかがコーヒー一杯が切れただけで、ここまで根底から崩壊しかけている王宮」という組織の脆さに、新鮮な驚きを隠せずにいた。


「辛い思いをして飢えているのは、俺たち騎士団だけじゃないんだね。でも、あの団長に逆らって余計なペナルティを食らうよりは、文句を言わずに魔獣を現地で焼いている方が、精神衛生上はまだ平和かもしれないよ……」


 ラバックが、事務室の扉の隙間から漂ってくる、形容しがたい「薄すぎるお茶」の頼りない匂いに鼻をひくつかせながら、諦めたように呟く。


「私、さきほど視た予知夢の中で……さらに恐ろしい暗黒の光景を予感しました。このコーヒーの次は『トイレットペーパーの仕様制限』が始まるかも……」


 エルンが、顔を真っ青に強張らせて人類の尊厳に関わる不吉な予言を口にした。


「「それだけは死んでも全力で阻止しよう、何が何でも!!!」」


 レンとラバックは、かつてないほどの固い団結力を見せ、これ以上の節約強化を防ぐため、規律正しく活動することを示すべく朝礼の広場へと足を急がせるのだった。


 王宮に「絶対節約習慣」が発令されてから数日が経過した。

 その表向きの静けさの裏側では、人々の理性をじわじわと蝕む深刻な「カフェイン欠乏」が、王宮の闇に新たな「密輸市場」を生み出していた。

 夜の帳が静かに降りた王宮の裏庭。人目につかない庭木の影で、フードを深く被った者たちの怪しげな密談と取引が行われていた。


「……確かに、交渉成立ね。約束の例の物よ」


「おお……! やった、ついに手に入った! これで明日も生きられる……! ローラ様、どうかこの取引のことは他言無用、内密にお願いいたします……」


 震える手で差し出されたのは、光を遮る黒い布で厳重に梱包されたコーヒー豆の袋。

 それを受け取った相手に不敵な笑みを浮かべていたのは、王族の血を引きながら、その特権をスクープ取材にフル活用する熱血記者、ローラ・ラウラント・ヴィッツであった。


「勿論よ。口の堅さには自信があるわ。その代わり、また何か面白い王宮のスクープや、官僚たちの弱みがあれば真っ先に教えてね。次もいい値で買い取ります!」


「ぜひ、ぜひまたお願いいたします!」


 闇に紛れて早足で去っていく取引相手。

 その正体は、昼間に「コーヒーのおかわり」を禁じられ、抜け殻のようになっていたはずの執務室の士官であった。

 彼らは、情報収集のためならあらゆる手段を厭わないローラを中継ルートとして使い、禁断の黒い果実を手に入れていたのだ。


「ふふふ……! 王宮の皆にはちょっと悪いけど、こうして皆が困窮して暴走してくれるおかげで、特大のスクープが勝手に転がり込んできて本当に助かるわ!」


 ローラは月明かりの下、押収したネタを頭の中で整理しながら邪悪に微笑む。

 その瞳には、ラウラント王家特有の「面白ければルールなんてどうでもいい」という奔放な性質が色濃く現れていた。


「さあ、ネタは揃ったわ! 早速、明日の朝一番の号外でぶちまけてあげる! 題して『王宮、深刻なカフェイン欠乏症で国家機能停止の危機!?』ってね……!」


 翌朝、その号外が、士官事務室の机の裏で「おかわり用のコーヒー」をこっそり淹れて咽び泣いていた者たちの身元を、容赦なく白日の下に晒すことになろうとは、その時の士官たちは知る由もなかった。

 

 翌朝、王宮の全掲示板には、騎士団の通常の訓練内容ではなく、「王族新聞・号外」と書かれた巨大な赤文字の見出しが踊っていた。ヴィッツ家の家紋と共に。


『驚愕! 節約令の裏で蠢く黒い水! 事務官の机の下に隠された「おかわり」の動かぬ証拠を激写!』


 そこには、ローラが密輸したコーヒー豆を使い、執務室の隅で息を潜めながら、必死の思いでコーヒーを淹れていた士官たちの、あまりにも情けない瞬間がバッチリと鮮明な写真付きで掲載されていた。


「……ローラ……公女……! 王族の端くれであり、ヴィッツ家の令嬢でありながら、この未曾有の国難において軍紀と規律を乱す真似を……!!」


 掲示板の前に立つロディ団長は、握りしめた号外の紙をミシミシと音を立てて握りつぶし、その怒髪天を突く勢いで全身から凄まじい威圧感を放っていた。

 国民の手本として節約令を厳格に守らせるべき立場の士官たちが、裏でこっそりと「密輸された贅沢品」を嗜んでいたなど、規律を何よりも重んじる不落の巨龍が許すはずもなかった。


「レン! 今すぐ士官事務室へ向かえ! 密輸されたコーヒー豆、および器具のすべてを押収し、この闇取引に関与した者を一人残らず特定しろ。これは我が聖ラウラント騎士団の、引いては国家の規律に関わる重大な規律違反だ!」


 一方、その頃の王宮の裏庭では、ローラが早くも手帳を片手に、次なるスクープの獲物を定めていた。


「ふふ、今回の号外は最高の反響ね! 次の標的は……『騎士団長ロディ、実はあまりの胃痛に耐えかねて、こっそりルーシャ様の極上紅茶を一口分けてもらっている説』でいこうかしら……!」


 士官事務室がコーヒーの「おかわり」と密輸の摘発を巡って大混乱の渦に叩き落とされる中、魔術師管理局長室には、それとは対照的な、驚くほど静かで穏やかな時間が流れていた。


 ルーシャ・ルナリスは、首席メイドのニーナが音もなく淹れた、透き通った美しい琥珀色の紅茶に静かに口をつけ、窓の外の景色を眺めていた。

 ローラの号外によって、朝からひどく騒がしくなった王宮の喧騒を、彼女は単なる他人事として聞き流しているわけではなかった。


「……随分と、騒がしい朝ね。ロディが少し、感情的になりすぎていなければいいのだけれど」


 ルーシャ自身、コーヒーや紅茶といった嗜好品そのものを頭ごなしに否定しているわけではなかった。

 ただ、節約習慣という国全体の重要な規律が、たった一杯の飲み物への執着によって、容易く綻びを見せ始めている現状に、魔術師管理局長として、そしてこの国を見守る長命種として、わずかな危惧を抱いていた。


 その頃、ロディ団長は一人、鍛錬場の隅で拳を固く握りしめていた。

 彼の怒りは、単なる「飲み物」という物自体に対する怒りではなかった。

 この国が予算の危機という困難に直面している今、手を取り合って共に苦境を乗り越えるべき仲間たちが、目先の甘えによって裏切り合っていることに対する、彼なりの不器用で、しかし真っ直ぐな正義感の裏返しであった。


 出撃の命令を受け、緊張した面持ちで管理局長室に挨拶に訪れたレンに対し、ルーシャは静かに、そして慈しむような藤色の瞳を向けて言葉をかけた。


「レン。ロディは規律を重んじるあまり、少々頑なになっているわ。けれど、貴方は常に冷静でいなさい。規律を守り、正義を執行することは確かに大切よ。でもね、あまりに厳しく追い詰めすぎれば、人の心は簡単に折れてしまうもの。……何が本当に『この王宮のため』、そして『人々の心のため』になるのか、ただの命令に従うだけでなく、自分の目でしっかりと見て、判断してきなさい」


「……はい、ルーシャ様」


 それは、単なる上司からの命令ではなく、一人の未熟な新人騎士の成長を優しく促すような、温かい導きの言葉であった。

 レンは深く一礼すると、己の愛剣の柄をしっかりと握り直し、混乱の極みにある士官事務室へと、その確かな一歩を踏み出すのだった。


Chapter6 震えるカップと騎士の決断


「絶対節約令」の嵐が吹き荒れる中、レンとラバック、そしてエルンが事務室の重い扉を押し開けると、そこにはローラの号外によって完全に逃げ場を失い、最後の一杯を必死に守ろうと身を寄せ合う士官たちの姿があった。


「あ、騎士団……! 本当に、没収に来たのか……!?」


「頼む、これがないと、午後の決算処理が……予算の計算が滞って……国が動かなくなってしまうんだ……!」


 充血した目で必死に訴えかける士官たち。彼らのデスクには、ハンスやフェリックスが抱えるのと同じ、山のような請求書や予算の削減書類が限界まで積まれていた。


「……レン、どうする? 団長の命令なら、全部没収して処分しなきゃいけないけど……」


 ラバックが困惑した表情で、レンの顔を伺う。

 レンは腰に帯びた、ルーシャに精錬された愛剣の柄にそっと手を添え、先ほど魔術師管理局長室でかけられた言葉を思い出していた。


――全部奪えば、こいつらの仕事が完全に止まる。


 それは王宮全体にとって、巡り巡って大きな損害だ。でも、かといってこのまま見逃せば、せっかくの規律が崩れてしまう……


 その緊迫した一瞬、廊下の影からローラのカメラのシャッターを切る微かな音が、カシャリと静かに聞こえてきた。


「ふふ、さぁ、若き期待の新人騎士様。この窮地、どう動くのかしら?」


 不敵に囁くローラの影。事務室に漂うのは、あまりにも芳醇なコーヒーの香りと、一触即発のひりつくような緊張感。

 自分の子供を守るかのように必死にコーヒー缶を抱え、涙目で震える士官を前に、レン・エインズワースが下した「正義」は、あまりにも彼らしい、泥臭くも優しいものであった。


「……そのコーヒー缶は、没収する」


 レンの絞り出すような冷徹な声に、士官が絶望の声を上げた。


「そ、そんな……! お願いだ、これだけは……っ!?」


 レンは抗議の声を無視するように、無言のまま腰の剣を鋭く抜き放った。黒色の刀身が、室内の細い光を反射して冷たくきらめく。


「き、騎士様、お止めください! 乱暴はよしてください、缶なら、缶なら今すぐ渡しますから!」


 過激な力ずくの暴挙に出たと勘違いした事務官が悲鳴を上げるが、レンの動きは止まらない。


「私は……このコーヒー缶と一緒に、ここで死んでも構わない!!」


「落ち着いてください! たかがコーヒー、ただの飲み物ですよ!」


「違う! 私にとって、このコーヒーは命そのものなんだ!!」


「そんな大袈裟な……」と呆れ果てるラバックを、エルンが小さな手で静かに制した。


「しっ! ラバック先輩、静かに……。あの方は、本気ガチなんです。あの目は、絶対に退かない時の目です……!」


 刹那、レンは真っ直ぐに剣を突き出し、その驚くほど精密で器用な剣筋をもって――士官が胸元に抱えていたコーヒー缶の側面だけを、電光石火の速さで鋭く斬り裂いた。

 ガシャリ、という硬質な音と共に、缶の中から中身が勢いよく弾け、床の上へと激しくぶちまけられる。

 それは、士官にとっての「命の輝き」が、無残に散逸した瞬間であった。


「私の……いの、ち………」


「ただのコーヒー豆ですが」


 いつの間にか背後に立っていたアルハイサムが冷ややかに突っ込みを入れるが、レンはそれを完全に無視して、静かに愛剣を鞘へと納めた。

 そして、床に散らばる黒い粒を見つめながら、静かに告げた。


「それは、もう『コーヒー缶』じゃない。ただの【ゴミ】だ。……団長は俺たちに、【ゴミ】を回収して持ってこいとは一言も言わなかった」


「え……! それは……つまり、どういう」


「床に落ちた、ただの【ゴミ】がこの先どうなろうと、俺の知ったこっちゃない。……戻るぞ、ラバ、エルン」


 一瞬の静寂。

 レンは「缶(備品)」としての没収という最低限の体裁を守りつつ、中身を床に敢えて捨てることで、「団長の命令」と「士官のカフェイン」を両立させる折衷案を、極めて強引に提示したのだ。


「な、なんかもの凄く屁理屈で無理矢理な決め台詞だけど……ま、レンらしくていっか!」


「レン先輩、相変わらず不器用で優しいですねぇ……!」


 感心する二人を伴い、レンはこれ以上の追及を避けるように、颯爽と事務室を後にした。


「……床に落ちたコーヒーを拾って飲めと!? 騎士ともあろう者が、我々にそんな屈辱を強いるのか!」


 憤慨して床を見つめる士官に対し、アズリカ教官が純粋な優しさから、おっとりと微笑みかけた。


「でも、良かったですね。すべて没収されて処分されることに比べれば、まだ手元に残ったのですから」


「いや! アズリカ教官、あの騎士、今はっきりと我々の命を【ゴミ】って言いましたよ!? 完全に【ゴミ】扱いでしたよ!?」


「貴方がどうこう言える立場ではありませんよ。そもそも情報漏洩に、度重なる密輸行為。……これ以上の処罰を免れただけでも、時間的にも非常に効率的です」


 アルハイサムが容赦なく切り捨てると、隣のマヌーチュルフ教官もまた、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせて追い打ちをかけた。


「全くです。規律を乱した貴方には、その床に落ちた【ゴミ】がお似合いですよ。さあ、迅速に回収して、早く午後の計算処理を終わらせなさい」


「皆が辛辣すぎて、私の心に刺さるんですが!?!?」


 一方、その頃。

 事務室の扉の影で「騎士による非道な弾圧」という、特大の炎上ネタを狙ってカメラを構えていたローラは、チッと大きく舌打ちを漏らしていた。


「くっ! やるわね、レン・エインズワース……! あそこで感情に任せて事務官を力ずくで斬り捨ててでもくれれば、最高のスクープ記事になったのに……!」


「おや、ローラ様?」


 背後から、凍てつくような冷たい風が吹き抜けた感覚に、ローラは思わず全身の毛を逆立てて肩を震わせた。

 恐る恐る振り返れば、そこにはいつの間にか、足音もなく佇む偵察部隊長ミカの姿があった。

 その黒髪の下から覗く栗色の瞳には、一切の光が灯っていない。


「僕と、少しばかり楽しい『お話』をしませんか? 王族新聞のこれからの『編集方針』について、そこの角の暗がりで、じっくりと」


「ひっ……! ミカ様!? ち、違うんです、これはその、王宮の風通しを少しでも良くするための良心的な取材で――!!」


「風通しなら、今から僕が、風の吹き荒れる訓練場でいくらでも良くしてあげますよ。……さあ、行きましょうか」


「嫌ぁぁぁ! 誰か助けてぇぇぇ!!」


 廊下の向こうへと引きずり止められていく、ローラの悲痛な悲鳴が響き渡る。

 それを見送る第六小隊の面々は、ようやく手に入るであろう「温かい一杯」を夢見ながら、次の訓練へと自らの足取りを確かなものにするのであった。


Chapter7 大臣たちの反乱


 レンが現場で「コーヒー豆の正義」を執行し、士官たちと不器用な妥協案を模索していたその頃。

 王宮の最上層に位置する大会議室では、いつもとは全く異なる、重苦しく、そしてどこか殺気立った空気を纏った大臣たちが巨大な円卓を囲んでいた。


「陛下の天真爛漫な思いつきで設立された部署の数々ですが……や、やはり、これらはすべて取り潰す必要があります……」


 懐の胃薬を強く握りしめたアーネスト財務大臣が、今にも消え入りそうな震える声で切り出した。その顔は、連日の予算の辻褄合わせによる過労で土気色に染まっている。


「むしろ、今まで何故これほど不合理な組織を放置してきたのかが理解できん。我が国の財政をじわじわと食い潰している元凶は、これら陛下の思いつき部署に他ならない」


 内務大臣ポルロックが腕を組み、厳格な口調で追従する。彼の前には、国の行政組織図と、そこから枝分かれした「謎の小部署」の数々が赤いインクでバツ印を付けられて並んでいた。

 宮内大臣チェスカもまた、儀式や教育を司る立場でありながら、今回の異常事態には毅然と頷く。


「然り。予算は国民が血と汗を流して納めた貴重な血税。ただ甘やかすばかりが教育ではありません。これを機に、陛下にも国の厳しい現実を深くご理解いただく必要があります」


「ふむ……ならば、ついでと言ってはなんだが、衛兵隊の日々のおやつタイムも無くしてしまえばよろしいのでは? 彼らの強靭な肉体に、これ以上の糖分は不要だろう」


 軍務大臣フォーツルトが極めて現実的なそして現場の騎士たちにとっては地獄のような提案を口にすると、総務特命大臣エスカトルが「おお、それは実に見事な名案ですな!」と嬉々として便乗した。

 今や、予算削減という名の、一種の「熱狂」とも言える冷徹な論理が、老練な大臣たちの理性を静かに、しかし確実に焼き尽くし始めていた。

 円卓の最上席に腰掛けたプトレマイオス枢機卿が、白髭をさすりながら、提出された「解体予定部署リスト」をじっくりと読み上げる。


【お昼寝促進会】(活動内容:王宮内における、最も心地よい枕の高さの追求)


【安眠パジャマ製作会】(活動内容:シルクの肌触りと睡眠効率に関する研究)


【ティータイムのおやつの献立を考える会】(活動内容:新商品の試食という名の、実質的な宴会)


【リアルおままごと脚本部】(活動内容:メアリ殿下のための、金縁離婚届案をはじめとする生々しい脚本作成)


「……うむ、では、これらを以て可決、取り潰しとする。……しかし、なんだか心が痛むのぉ。そこに就職しておった者たちの、明日からの再就職先を想うと……」


 長命種としての絶対的な信頼を得ている老枢機卿の言葉と共に、無情にも「解体」の重い判子が次々と書類に押されていった。


 この決定は、瞬く間に「夢の部署」でぬくぬくと働いていた職員たちへと伝わった。彼らにとって、これは単なる予算の削減ではなく、明日からの生活が懸かった重大な死活問題であった。


「『お昼寝促進会』がなくなったら、陛下の精神的な情緒が不安定になりますよ!? それは結果的に国家全体の多大な損失だと思わないんですか!?」


「『安眠パジャマ製作会』が開発した最新作は、ただのパジャマではありません! 着て寝るだけで、翌朝の事務処理能力が1.2倍になるという魔道の繊維を使っているのです! 毎日徹夜をしている財務省の皆さんにこそ、最も必要不可欠な技術でしょう!?」


 各部署の代表たちが、大会議室の前の広大な廊下に押し寄せ、涙ながらに、あるいは必死に考え抜いた屁理屈を叫びながら、部署の存続を訴え始めた。

 この突発的な「陳情という名の暴動」を速やかに鎮圧し、秩序を保つため、野外訓練から戻ったばかりで激しい空腹に苛まれている第六小隊の面々が呼び出された。


「レン先輩……先日のコーヒーの没収件といい、今日はずっと誰かの『深い恨み』を買うような仕事ばかりですね……」


 エルンが、悲しげにその美しいヘーゼルの瞳を伏せる。


「仕方ないだろ。俺たちは命令に従うのが仕事の騎士だ……。それに、ぶっちゃけて言えば、あの『お昼寝促進会』みたいな無駄な部署を取り潰せば、巡り巡って俺たちの基本給にプラスになって戻ってくるんだろ?」


「理屈の上ではそうだけどさ、レン。あそこにいる職員さんたちの目を見てみなよ……。さっき君にコーヒー豆を散らされた士官たちと、全く同じ『命』を懸けた目をしているよ」


 ラバックが怯えるように視線を向けた先では、カラフルなパジャマをまるで反乱軍の旗印のように高々と掲げた職員たちが、アルハイサム書記官が提示した「極めて効率的な段階解体プラン」に対し、手に持った最新の低反発枕を武器に見立てて、今にも殴りかからんばかりの抗戦の構えを見せていた。


 その頃、エマ女王は豪華な自室のふかふかなソファで、まだ自分の作り上げた「夢の城」が音を立てて崩壊しつつあることを全く知らなかった。

 廊下から響く怒号と、つい先ほどローラのカメラ(証拠品)を片手に、笑顔で「お話」から戻ってきたミカの顔を見た瞬間、彼女は持ち前の鋭い本能的な危機感を強く覚えた。


「……ミカ。なんだか、さっきから王宮の廊下が、とっても、とっても騒がしい気がするのだけれど? まるで、私が大切に温めていた『お昼寝の権利』が脅かされているような……そんな不吉な風を感じるの」


 不安そうに碧色の瞳を潤ませるエマ女王に対し、ミカは手に持ったローラの号外を音もなく背後に隠すと、いつものように中性的で大変可愛らしく、そして完璧で丁寧な所作と微笑みをその表情に浮かべた。


「お気になさることは何もございませんよ、エマ陛下。ただ、お庭の植木を少しばかり整理する、臨時の『剪定作業』が行われているだけでございます」


「剪定作業? でも、なんだか『パジャマの権利を返せ!』とか『枕を高くして眠らせろ!』って叫び声が聞こえるような……」


「おやおや、陛下。それはきっと、庭師たちが新しい植木の『ふわふわとした形状』をどのように整えるか、熱心に意見を交わしている声が、風に乗って反響しただけに違いありません。……それよりも陛下、ニーナ様からお預かりした、焼きたてのお砂糖たっぷりのクッキーがございます。冷めないうちに、温かいカモミールティーと共に召し上がってはいかがでしょうか?」


「クッキー……! まあ、ミカが用意してくれたのなら、喜んでいただくわ!」


 目の前の甘い誘惑に一瞬で視線を奪われ、天真爛漫な笑みを浮かべてクッキーを口に運ぶエマ女王。

 ミカはその様子を物静かに見つめながら、背後で、王宮の財政と人々の情熱が激突する嵐のような大騒動の書類を、音を立てずに静かに握りつぶすのであった。


Chapter8 暗黒の微笑と、嵐の前の静止画


 王宮は今、完全に二つの戦場へと分断されていた。一つは、己の存在意義とカラフルなパジャマの死守を懸けた「思いつき部署連合」と、鉄の規律を振りかざす「重役大臣ズ」による泥沼の財政闘争。

 そしてもう一つは、偵察部隊の修練場に漂う、一触即発の「暗黒の空気」であった。

 ミカがローラとの【お話】から戻ってきた瞬間、修練場全体の温度は確実に三度は下がった。周囲の空気が物理的に凍りつくような錯覚すら覚える中、何も知らないクリスがいつも通りの調子で声をかける。


「あ、ミカ! どこ行ってたんだよ、朝礼の後姿が見えねえからさ――」


 声をかけ終える前に、クリスの野生の直感が「それ以上踏み込むな、死ぬぞ」と最大級の警鐘を脳内で乱打した。

 ミカの纏う尋常ならざる気配、笑顔でありながら一切のハイライトが消え失せている栗色の瞳が、無言の圧力を放っている。


「……少しばかり、王宮の風通しについて『お話』をしていました」


「おう……そうか、大変だったな……」


 一瞬で冷や汗を流したクリスは、音もなく静かに引き下がった。


 隊長であるミカのこの状態を見た偵察部隊の古参の面々も、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに無言で一斉に視線を逸らし、急に尋常ではない熱心さで弓の弦を張り替えたり、暗器の刃を磨いたりし始める。修練場はかつてないほどの静寂に包まれた。


 しかし、ここに一人だけ、その異常な空気を全く読まない――いや、新人ゆえに恐怖の基準が致命的にズレている少女がいた。


「お話? ファーレンガルド、あなた、一体誰と何の話をしてたのよ?」


 シノアの純粋極まる問いかけが響いた瞬間、姉のシノンが顔を真っ青にして妹の袖を千切れんばかりの勢いで引っ張った。


「シノア、馬鹿! 何か聞いたらいけない気がするわ……! 今の彼は絶対にダメなタイプの笑顔よ……!」


「聞きたいですか? シノアさん」


 ミカの顔に浮かんだのは、完璧なまでに優雅で、非の打ち所がないほど美しく、それでいて底知れぬ深淵を覗き込んでいるかのような【暗黒微笑】であった。


「あー!! あそこにメアリ殿下が!! 大変だ、おままごと用の高級家具を勝手に発注しようとなされているぞー!!(大嘘)」


 偵察部隊の古参の騎士が、決死の覚悟で明らかな陽動の叫び声を上げる。だが、シノアはただ不思議そうに首を傾げるだけだった。


「何なの? 皆さっきからおかしいわよ。ただの世間話でしょう?」


「おかしいのはシノア、貴女の頭よ!!」


「バカ!! ミカをそれ以上怒らせるな! こいつが本当に怒ったら、俺たちの明日の貴重な演習食料すら『不衛生につき全面没収』の大義名分で取り上げられるぞ!!」


 クリスも必死の形相でシノアの口を塞ぎにかかる。


 かつて、この完璧な笑顔の裏にある地雷を踏み抜き、ミカをからかった不届きな先輩騎士たちが、翌日の隠密伝令演習で「存在そのものを無かったこと」にされかけ、三日三晩泥水をすすりながら王城の地下水路を彷徨う羽目になった恐怖の歴史を、古参たちは忘れていないのだ。


 表向きはどこまでも物静かで理性的だからこそ、一度底が抜けた時のミカは誰よりも恐ろしい。


「おやおや、人聞きが悪いですね。僕はこれっぽっちも怒ってなどいませんよ?」


 背後にどす黒いオーラを背負ったまま、天使のような笑顔で小首を傾げるミカ。

 その笑顔こそがこの世で最も恐ろしいものであることを、新人のレンやラバックが身を以て知るには、まだもう少しの時間が必要であった。


 一方、ミカの「精神的剪定作業」から奇跡的に五体満足で解放されたあるいは逃げ延びたローラは、相変わらずの驚異的なメンタル激強ぶりを発揮していた。


『号外! 国の存亡を賭けた戦い! 大臣vs思いつき部署、開戦は明日! 緊迫の会議室前より全面生中継!!』


 彼女が王宮中にばら撒いた最新の記事は、瞬く間に全職員、そして騎士たちの抑えきれない好奇心に火をつけた。

 ローラの煽り記事によって完全に退路を断たれた「陛下の思いつき部署」の職員たちは、まさに背水の陣で、徹底抗戦のための驚くべき、そして非常に必死な言い分をまとめ上げていた。


【お昼寝促進會】

「我々が解散すれば、陛下の寝不足による『理不尽で不機嫌な突発的勅令』が現在の百倍に増え、国家予算は逆に回復不能なまでに破綻する! 我々は国の防波堤である!」


【安眠パジャマ製作會】

「このシルクパジャマは、実は防弾ならぬ『精神攻撃(過度なストレス)』の防御壁である。連日の激務で胃を痛めている大臣たちこそ、これを着用して精神の安定を図るべきだ!」


【リアルおままごと脚本部】

「我々は、次世代の高度な外交における『心理的交渉術』の高度なシミュレーションを行っているのだ。提出された離婚届の文案は、その極限状態における妥協点を探る究極の知的遊戯である!」


「……やれやれ。屁理屈もここまで極まれば、いっそ芸術的とすら言えるのぉ……」


 プトレマイオス枢機卿が、手元の陳情書を眺めながら遠い目で青空を仰ぐ中、ついに王宮の命運を分ける決戦の朝が来ようとしていた。


「ねえ、レン……明日、この泥沼の陳情会議の警備担当の部隊に、俺たちの第六小隊が正式に指名されちゃったよ……」


 夕暮れ時、ラバックがさらに胃の痛くなるような公式の任務通知書を両手に持って、トボトボと歩いてきた。


「……またかよ。朝にコーヒーを斬ったと思ったら、明日はパジャマと枕か?」


 レンは剣の柄を冷や汗の滲む手で握りしめた。

 聖ラウラント王国の騎士として、この魔剣で斬るべきは、国を脅かす強大な魔獣なのか。

 それとも、明日「極上の睡眠」と「夢の雇用」を奪われ、低反発枕を武器に暴徒と化すであろう、哀れな職員たちなのだろうか――


 第六小隊の明日に、さらなる波乱の影が忍び寄っていた。


Chapter9 愚行の羅列


 王宮が「明日への屁理屈」で沸き立つ中、魔術師管理局長室の温度は氷点下まで急降下していた。


「…………」


 ルーシャは、差し出された羊皮紙を無言で見つめていた。

 そこには、屁理屈の極致とも言える各部署の「存続理由」の数々が書き連ねられている。


『寝不足による不機嫌な勅令が100倍になる』

『パジャマは精神防御の防具である』

『離婚届は外交交渉術の究極形である』


「き、局長……?」


 補佐官が震える声で尋ねる。ルーシャの周囲に漂う魔力が、静か、かつ鋭利に研ぎ澄まされていくのを肌で感じたからだ。


「ぬるま湯に浸る阿保が多いようね。……貴女、明日の予定をすべて変更して頂戴。私もこの会議に参加するわ」


「……!? は、はひぃっ!」


 補佐官は直立不動で敬礼した。魔術師管理局長が「現場」に直接介入する――それは、単なる予算削減ではなく「論理の抹殺」を意味する。


「ちゅーんちゅん!(特別和訳:あーあ、主を怒らせた! あいつら全員終わりだぜー!)」


 肩に止まった白いシエガの使い魔が、羽をバタつかせて煽りポーズを決めた。

 嵐の予感を微塵も感じていないのが、エマ陛下とメアリ殿下であった。


「お姉様、あの『離婚届は交渉術』という言い訳、我ながら天才的ですわ!」


「ええ、完璧よメアリ! 私が一言『これは王家の伝統です』と微笑めば、あの大臣たちも黙るしかないわ。……さあ、明日の勝利を祝して、今日はお菓子パーティーにしましょう!」


「流石ですわ!! エマお姉様!!」


 無邪気に笑い合う姉妹。しかし、彼女たちはまだ知らない。

 明日、その会議室の扉を開けた先に待っているのは、いつもの「弱腰なアーネスト大臣」ではなく、「ガチギレした魔術師管理局長」であるという絶望的な現実を。



騎士団詰め所にて。


「……レン」

「あぁ、分かってる、ラバ。……今の、局長室の方からした凄まじいプレッシャー、感じたよな?」 


 レンは、腰の愛剣が小刻みに震えているのに気づいた。主人の意思に関係なく、遥か遠くから漂う強大な魔力に反応してしまっているのだ。


「明日、俺たち警備だろ? ……死ぬなよ、ラバック、エルン」


「レン先輩……その言葉、そっくりそのままお返しします……」


 エルンが、もはや「予知夢を見るまでもない結末」に遠い目をした。


 その時である。


 レンの全身の毛穴が一斉に逆立ち、凄まじい悪寒が彼を襲った。


「ッ……!? くる……! 来やがった……!」


「え? 何がですか、レン先輩?」


「嫌な気配だ……! この、鼻の奥がムズムズするような、鼻持ちならない高級な香水の香りと、無駄に仕立ての良い絹の擦れる音……! 間違いない、貴族がこっちに近づいてきてる!」


 レンがガタガタと震えながら詰め所の入り口を睨みつけると、案の定、きらびやかでいかにも高慢そうな官僚の若き貴族が、明日の警備配置の指令書を片手に優雅な足取りで現れた。


「やあ、第六小隊の諸君。明日の警備の配置について――」


「待て! それ以上近づくな!!」


 レンが突如、凄まじい形相で叫び、剣の鞘を盾のようにして身構えた。これにはやってきた貴族官僚も、ラバックたちも一瞬で硬直する。


「な、なんだね、不作法な。私は明日の配置について連絡に来ただけ――」


「ダメだ! 近づくな! 言っておくが、俺は重度の貴族アレルギーだ! エキス、成分、つなぎも一切ダメだ!! 近づけば命に関わる!!」


「き、貴族アレルギー……!?」


 あまりにも聞いたことのない奇病の宣告に、貴族の若者は持っていた書類を落としかけながら戸惑いの表情を浮かべた。


「そ、そんなアレルギーがこの世にあるわけが――」


「あるんだよ現にここに! ほら見ろ、貴族特有の『上から目線なオーラ』のせいで蕁麻疹が出そうだ! だから対応不可です! 今すぐ退去してください!」


「いや、しかし仕事の連絡をだな! 聞いてくれないと困るのだが!?」


「なら苦手人種だから無理!! 門前払いだ!」


「ちょっと、レン先輩、言い方!」「レン、さすがに無理があるって!」と、エルンとラバックが必死にレンの背中を引っ張るが、貴族アレルギーを発症したレンはテコでも動かない。


「な、ならばそこの二人だけでも私の話を聞きたまえ!」


「だめだ! この小隊の窓口は俺だ!(←違います) 窓口がアレルギーで機能停止している以上、いかなる交渉も書類の受け取りも拒否する!!」


「そんな馬鹿な話があるかー!!」


 詰め所に響き渡る、理不尽極まりないレンの叫びと若き貴族官僚の悲鳴。

 嵐の前夜、第六小隊の詰め所は、別の意味で混沌の極みに達しつつあった。


Chapter10 血の閣議 ―― 銀雪の魔女、教壇に立つ


 午後十三時。王宮大会議室の扉が、まるで死刑執行の合図のように重々しい音を立てて開かれた。

 現場に漂う空気は「国家予算の調整会議」というよりは、文字通りの「国家防衛戦」に近い張り詰めた殺気で満ちていた。


「な、なあ……いくらなんでも、廊下の護衛が多くないか? これ、身内同士の財政会議だろ?」


 レンが周囲をぐるりと見渡し、引き攣った声を上げる。廊下を隙間なく埋め尽くしているのは、完全に実戦向けの重武装を施した騎士たち。 

 その数は、通常の会議警備の規模を遥かに凌駕していた。


「魔術師管理局長が急遽参加するということで、団長命令により通常の三倍に増員されています」


 背後から、一切の感情を排した不気味なほどに静かな声で、偵察部隊長のミカが現れた。隣ではクリスが、すべてを諦めたかのような悟り顔で立っている。


「さ、三倍ですか!?」


 エルンが驚愕して丸い瞳をさらに見開く中、クリスが呆れた様子で内情を暴露した。


「団長特権命令だ……。局長が会議に参加すると聞いた瞬間、団長が『万が一、不審者や不届き者が乱入したらどうする! 俺も行く! 仕事は全部後回しだ!』って暴れ出してな……」


「団長、ルーシャ様に甘すぎだろ……!」


 レンの至極まっとうなツッコミは、もはや騎士団全員の心の声を完璧に代弁していた。


――が


「いや、気を引き締めようぜレン。笑い事じゃないんだ」


 ラバックが極めて真剣な面持ちで、周囲を警戒しながらレンに声を潜める。


「去年、ルーシャ様が参加された重要な合同会議に、下着一枚で乱入した奴がいたんだよ。そいつはどこからともなく流れる軽快なBGMと共に、際どいポーズを次々と決めて、『安心してください! 履いてますよ!』と声高らかに叫んだ……」


「……どんな不審者だよ。この国、変態のレベルが高すぎないか?」


 レンが頭を抱えたが、その変態の恐るべき行動はそれだけでは終わらなかった。


「さらに恐ろしいのはその後だ。その一報を魔道端末で傍受した団長が、どんなに飛んで急いでも三十分はかかる王都郊外の討伐現場から、わずか三分で空中を切り裂いて駆けつけ、その変態を魔剣の一撃で地平線の彼方まで吹っ飛ばしたんだ!!」


「もはや空間転移だろ、それ……」


「そういう恐ろしい前例がございますので、我々も警戒を怠らずに」


 ミカの淡々とした、有無を言わせぬ言葉が、現場の緊張感をいやが上にも煽る。

 会議室の内部では、既に「思いつき部署連合」の代表者たちが、エマ陛下とメアリ殿下を背後に控えさせ、額に大量の汗をかきながら必死の形相で提出書面を確認していた。


「大丈夫よメアリ。私たちの神聖な『お昼寝の権利』は、国家の健やかな精神の根堪に関わる最重要事項だもの!」


 エマ陛下が、カラフルなパジャマの袖の下に忍ばせた、手書きのカンニングペーパーをぎゅっと握りしめる。


 その正面。


 円卓の上座に深く腰掛けたルーシャが、凍りつくような動作で静かに紅茶のカップをソーサーに置いた。


「――始めなさい」


 その低く透き通った一言だけで、会議室全体の酸素が半分になってしまったかのような圧倒的な重圧が駆け巡る。

 扉の外で不動の姿勢で警備に当たるレンは、背中越しに、空気の温度がかつてないほど「冷たく」澄んでいくのを感じていた。


(……不審者が乱入するより先に、部屋の中の空気が局長の魔力で爆発しそうだぜ……)


 果たして、エマ陛下たちが寝る間を惜しんで考え出した渾身の屁理屈は、ルーシャの圧倒的な鉄の論理の前に一秒でも耐えることができるのか。

 そして、今年もまた「安心できない不審者」の影は現れてしまうのか!?


王宮中に水晶球を通じて生中継される中、歴史に残る「大粛清」の幕が切って落とされた。


 少し離れた記者席では、王族新聞記者・ローラが、極限の興奮で目を輝かせながらペンを走らせ、魔道カメラのシャッターを激しく連打している。


「皆さま、聞こえますか!? 王族新聞のローラです! 現場は今、魔術師管理局長ルーシャ様の電撃介入により、室温がマイナス五十度に達したかのような凄まじい緊張感に包まれています! 最初の犠牲者……失礼、挑戦者は『お昼寝促進会』! 彼らの運命やいかに!?」


「せ、先日も申し上げましたが、陛下が極度の寝不足になれば、不機嫌による突発的な勅令が通常の100倍になります! これは国家の存亡に関わる重大な危機です!」


 先陣を切ったお昼寝促進会代表の男による、命がけの熱弁。エマ陛下も背後から力強く何度も頷く。


「そうよ! 私、一度不機嫌になったら、予算を丸ごと吹き飛ばすような勅令を100倍にするわよ! 怖いでしょ!」


――その刹那。


 会場全体の空気が、ピキピキと音を立てて物理的に凍りつき始めた。

 数多の修羅場をくぐり抜けてきた長年の経験で「これ以上ない生命の危機」を瞬時に察知したプトレマイオス枢機卿は、一切の無駄がない極限の動作で防御魔術を起動。

 次の瞬間には【防寒用ふわふわ耳当て付きフル装備】を完全に着用し、深く椅子に沈み込んで豪雪の嵐をやり過ごす構えに入っていた。


「不機嫌な勅令が100倍になる? ……随分と、現実離れした非科学的な数字かしら?」


 ルーシャの低く、静寂を切り裂くような冷徹な声が響いた。


「そもそも『お昼寝』などという怠惰な時間を挟まずとも、自らの責務を果たすのに何の支障もありません。……その証拠に、日夜国を守る騎士団や、税収を管理する財務省を見てみなさい。彼らが昼日中から枕を抱えて廊下を徘徊している姿を、誰か一人でも見たかしら?」


「そ、そうです! 我々が最後に安眠できたのは、去年の年末! それも、決算書類の山の上で半日だけです!!」


「それは昼寝ではなく……ただの『過労による一時的気絶』では?」


 財務省のアーネスト大臣が、血走った充血した目で涙ながらに叫ぶと、アルハイサム書記官が冷ややかに横からツッコミを入れる。

 その圧倒的な現場の怨念と説得力の前に、エマ陛下は「うっ……」と言葉に詰まり、視線を泳がせた。


「アルハイサム書記官。『お昼寝促進会』は、今この瞬間を以て解散としなさい。……次。」


「承知しました。非効率極まりない二度寝の文化、これにて完全排除完了です」 


 アルハイサムの非情なペン先が、一つの夢の部署を歴史の闇へと容赦なく葬り去った。

 扉の外でその無慈悲なやり取りを聞いていた第六小隊の面々は、ただただ戦慄していた。


「すっげ……。相手に言い訳の余地、一ミリどころか微塵も残さねぇな……」


 レンが冷や汗を拭いながら、震える手で壁に寄りかかる。


「レン先輩、見てください。大臣側の護衛として並んでいる屈強な騎士たちが、『本当に自分たちの味方で良かった……』って顔でボロ泣きしてます……」


 エルンがそっと指差す先では、ガタイのいい騎士たちがルーシャの凛とした背中に向かって、涙を流しながら静かに拝んでいた。


「最初からトップギア、エンジン全開だ……。次は『安眠パジャマ製作会』か。エマ陛下の本丸中の本丸だけど……本当に耐えられるのか、これ?」


 ラバックが完全に怯える中、会議室の奥からはメアリ王女の「エマお姉様、しっかりして!」という悲痛な激励の声が響き渡る。


「さて、皆さま! 早くも一冠を失って後がないエマ陛下チーム! 次に送り出すのは、陛下の心の拠り所である『安眠パジャマ製作会』です! 噂によれば、このパジャマには大臣たちを黙らせる恐るべき秘密があるとか……!?」


 ローラの煽り実況が響く中、代表の職員が、震える手で「究極の肌触り」を誇る最高級シルクのパジャマを恭しく掲げた。


「局長……! このパジャマは、ただの怠惰な寝巻きなどではございません! 我々が日夜研究し開発した、あらゆるストレスを無効化する『精神の魔術礼装』なのです!! 大臣の方々、あなた方もこの極上の肌触りを身にまとえば、毎日の胃痛から瞬時に解放されるはずだ!!」


 ピキ、とルーシャの細く美しい眉が、静かに動いた。

 会議室の温度は、もはや「冷却」という生温いレベルを通り越し、周囲の水分が氷結晶となる絶対零度へと達した。

 エマ陛下の牙城であった『安眠パジャマ製作会』の防壁が、今まさに粉々に砕け散ろうとしている。


「ストレスを無効化? ……そんな脆弱な精神的防具に頼らなければ、己の果たすべき国家の責務を全うできないのかしら?」


 ルーシャの絶対的な冷徹さを孕んだ問いかけに、代表者はガタガタと膝を震わせる。


「し、しかし……これさえあれば、あの地獄のような書類作業の胃痛は……」


「そんなパジャマ一枚で私の受けるストレスが無効化されるというのなら、是非今この場で試してみたいものね。そもそも、真に安眠するのに特別なパジャマなどは必要ありません。眠れないと嘆く時間があるのなら、財務省のハンスやフェリックスのように、強力な睡眠薬でも服用して泥のように眠ればいいのではないかしら?」


 その言葉に、財務省の誇る超胃痛コンビ、ハンスとフェリックスが、ハンカチを握りしめ、ボロボロと涙を流しながら激しく同意の首を縦に振った。


「(局長……! 局長だけは、我々の日々の血の滲むような過酷な労働と、削り削られた睡眠時間を、すべて理解してくださっていた……っ!)」


 彼らにとって、ルーシャのその一言は、世界中のどんな特効薬よりも胃に優しく染み渡る、最高の癒やしであった。

 だが、ルーシャの氷の追撃はこれだけでは止まらない。


「そもそも、王宮内において、公務を寝間着姿で論じること自体、歴代の偉大な先王たちに対して申し訳がないと思わないの? 百年前のビクトリア陛下は、睡眠時間を惜しんで国政に尽くされた、極めて真面目で高潔な御方だったというのに……。いつからこの国は、これほどまでに狂ってしまったのかしら」


「くばっ!!(物理的な吐血すら生じかねないほどの、凄まじい精神的大ダメージ)」


 エマ女王が、豪華な椅子の上で天を仰ぐように大きくのけぞった。

 自身が最も尊敬する高潔な先祖の名を直接引き合いに出されては、いかに天真爛漫な彼女であっても、これ以上の反論はぐうの音も出ない。


「エマお姉様!! しっかりしてくださいまし!! 意識を保って!!(迫真)」


 妹のメアリ殿下が隣から必死にその小さな体で支えるが、宮内大臣チェスカが手元に持っていた扇子をポンと叩き、容赦なく引藤を渡した。


「……き、決まりですな! 『安眠パジャマ製作会』も、これにて解散ということで……」


「次」


「もう、見てられない……」

「こんなの一方的な公開処刑だろ……。勝てるわけがない……」


 廊下に控える騎士たちは、もはや処刑場で行われる冷徹な儀式を遠巻きに眺めるような、深い同情と憐憫の眼差しを会議室の扉へと向けていた。


「いや、だがまだ、エマ陛下の最終奥義である『これは王家伝統です』が飛び出していないぜ。あの一言だけは、いかに理詰めで攻める大臣たちも、王国の歴史の重みゆえに引き下がるしかないからな」


 一人の騎士が、一縷の希望を口にしたその瞬間であった。


「あー……。なんか今、建ったな」


 クリスが翡翠色の美しい瞳を細め、諦め混じりの笑みを浮かべる。


「建ちましたね、フラグが。……アスターの塔すら遥かに凌駕する、百階建ての巨大な塔くらい高く」


 ミカも、その端正な顔立ちに「暗黒微笑」を限界まで深めていく。


「……もう、諦めろよ……」


 レンは、自らの腰に帯びた愛剣が、先ほどよりもさらに激しく、まるで警戒のアラームのようにカタカタと小刻みに鳴り響くのを感じていた。

 大気中に充満する、張り詰めた不穏な魔力の揺らぎ。

 それは、追い詰められたエマ陛下たちが、乾坤一擲の「何か」を爆発させる直前の、恐るべき前兆のようであった。


Chapter11 おやつの終焉


「皆さま!! 衝撃の展開です!! エマ陛下の『パジャマの楯』は粉々に砕け散りました!! 現在、陛下は瀕死の状態!! しかし、まだ伝家の宝刀が残っています!! さあ、次は『ティータイムのおやつの献立を考える会』、そして『リアルおままごと脚本部』の運命は!?」


 絶体絶命のエマ陛下。彼女が震える唇を開こうとしたその時、廊下の突き当たりから、何やら聞き覚えのある、「陽気なリズムの足音」が聞こえてきたような気がしました……。


 大会議室は今や、エマ陛下とメアリ殿下の精神的敗敗が積み重なる処刑場と化していた。次に俎上に載せられたのは、多くの騎士の胃袋を支える(?)『おやつ献立会』である!!


「ティータイムのおやつという、精神安定剤の献立を考える会ですぞ! これがなくなれば、国は機能不全に陥り崩壊します!!」


 代表者の決死の叫びに、お菓子作りをニーナから仕込まれ、プロ級の腕前を持つミカが冷たく言い放つ。


「献立なんて自分で考えられます。何ですか、この下らない会」


「しっ! せめてルーシャ様の前で散らせてやれ!」


 クリスが必死にミカを制止するが、もはや会議室に慈悲は残されていない。


「おやつで国が滅ぶなら、この世界に国は一つもないわ」


 ルーシャの一刀両断に、軍務大臣フォーツルトが「予算削減の熱狂」に浮かされて追撃する。


「そうですぞ! おやつで戦争が無くなるなら、歴史書は城塞の名前ではなく、おやつの名前で埋め尽くされているはずだ!!」


「……ちょっと何言ってるのか分からない」


 扉の外からレンの真っ当な苦笑混じりのツッコミ。だが、必死なのは大臣たちだけではない。


「おやつの献立が決まらないと、毎日が楽しくありませんわ!!」


「そうよ! おやつが四日前と被った時、『あれ、ホウ(報告)レン(連絡)ソウ(相談)されてない?』って不安になるのよ! これは厨房の連携に関わる重大な連携問題よ!?」


 エマ陛下とメアリ殿下の大真面目な抗議を、ルーシャの淡い藤色の瞳が射抜く。


「おやつを食べている暇があるなら、公務の一つ、書類の一枚でも終わらせなさい」


「「ぐはぁっっ!!(精神的致命傷)」」


 ルーシャの正論という名の魔力が炸裂し、エマ陛下とメアリ殿下は再び椅子に深く沈んだ。


「皆さま!! 悲報です!! 我らが癒やしの『おやつ会』ルーシャ様の『書類書け』砲により塵も残さず消滅しました!! 大臣たちの論理ももはや迷走中!! フォーツルト大臣、お菓子の代わりに弾薬の名前でも覚えた方がよろしいのでは!? さあ、残るは『リアルおままごと脚本部』のみ!!」

 

一方その頃、王宮の入り口では……。


「今日も平和だな~」

「だな~、今日のおやつ何かな?(もう無くなるけど)」 

「エクレアがいいな~」


 平和ボケした衛兵たちが呑気に空を見上げている、その背後。

 カチッ、カチッ……と、軽快な、しかしどこか不自然なリズムの足音が近づいていた。


 去年、王宮を、そしてロディ団長の精神を震撼させたあの「不審者」である。

 彼は今年もまた、あの「安心」を届けるために、驚異的なステルス性能あるいは衛兵の無能をすり抜けて、着実に大会議室へと歩を進めていた。


「(……安心してください、履いてますよ……)」


 そんな恐ろしい幻聴が、まだ誰もいない静かな廊下に木霊する。


「……おい。なんか、嫌な寒気がしないか?」


 レンが突如、強烈な悪寒に襲われて背後の廊下を振り返った。


「レン、どうしたの?」


「いや……なんだろう。魔力とか殺気じゃない。もっとこう……『生理的な拒絶反応』に近い何かが、猛スピードでこっちに向かってきてる気がするんだ」


「えぇ……何それ、予知夢より怖いです……」


 エルンが青ざめる中、会議室の中ではついにエマ陛下が最後のカードを切ろうとしていた。


「ルーシャ!! これだけは言わせてもらうわ!! これらはすべて、【王家の伝統】なのよ!!!」


 大会議室の空気は、もはや予算会議のそれではなく「教育的配慮の限界点」を探る泥仕合へと変貌していた。ついに最後の一線、『リアルおままごと脚本部』の審判が始まる。


「これだけは! 何が何でも死守するのよ!!」


 メアリ殿下が必死に拳を握れば、脚本監督も「はい!!」と涙目で応じる。


「『リアルおままごと』……? 普通のおままごとではないのですか?」


 チェスカ大臣の純粋な疑問に、内務大臣ポルロックが重苦しく口を開いた。


「不倫、復讐、そして王子と姫の結婚生活における『身分の違いによる葛藤』。さらには『泥沼の離婚』がメインテーマとなる、子供の精神衛生上すこぶる地獄のようなごっこ遊びです……」


「なんじゃそれ! 国の全幼子が泣くぞ!!」


 枢機卿の叫びに、アーネスト大臣も続ける。「先日の、あのリアルすぎる金縁の離婚用紙サンプルも、この脚本部の仕業で……」


「この国、やっぱりどこかイカれとるの……」


 扉の外でも、若き騎士たちが過去の古傷を抉られていた。


「僕も昔、姉上に付き合わされて『復讐したい相手を本気で愛してしまった』という脚本をやらされました」


 ミカの冷ややかな告白に、クリスが「あれはきつかったな……」と遠い目をする。


「騎士団の仕事より精神削られるだろ、それ……」


 レンがドン引きする中、中ではルーシャの「最終宣告」が下されていた。


「そんな会、必要ないわ。どうしても必要というのなら、私がメアリ殿下のために『完璧な脚本』を書きましょうか?」


「え!? ルーシャが書いてくれるの!?」


 無邪気に喜ぶメアリ殿下。

 その時、今まで沈黙を貫いていた騎士団長ロディが血相を変えて立ち上がった。


(ルーシャが書くと、間違いなく『物理的な拷問』や『王位継承権を賭けた裏の暗殺』、果ては『再起不能な魔術的永久封印』になる……!)


「それはダメだ!! 教育に良くない!!」


「「「「それは良くない!!(満場一致)」」」」


 大臣たちの悲鳴に近い合唱。しかし、エマ陛下はここが勝負所と、最後のカードを叩きつけた!


「いいえ! これは【王家の伝統】です!!」


「そんな伝統、私の記憶にはないわ。百年王家に仕えている私が証言します。あり得ません。解散。」


「メモメモ(アルハイサムの非情なペン音)」


「皆さまーーー!! 歴史の生き証人、ルーシャ様による『伝統完全否定』が炸裂しました!! エマ陛下チーム、全滅です! 壊滅です!! もはや立っているのは涙目のメアリ殿下と、廃人のようになったエマ陛下のみ!! ……あ、あれ? 皆さま、聞こえますか? 放送席の私に、どこからか『陽気なサンバのような、でも不安を煽るリズム』が聞こえてくるのですが……?」


Chapter12 ヤツが来る


 会議室の誰もが、ルーシャの圧倒的な論理に圧倒され、感覚が麻痺していた。

 そのため、廊下の奥から響く「チャッチャラ、チャラララ♪」という軽快なBGMに気づくのが遅れたのである。


 レンだけが、嫌な予感に鳥肌を立てて振り返った。


「……おい、誰か来る。この……『絶対に見ちゃいけないもの』が近づいてくる恐怖の感覚……!!」


 警備三倍。その強固な網を「全裸に見える絶妙な角度」で見事にすり抜けてきた男が、今、大会議室の大きな扉の前に手をかけた。


「(……安心してください……)」


 大会議室の緊張感は、一瞬にして「困惑」と「恐怖」へと塗り替えられた。

 警備三倍という鉄壁の布陣。だが、それは「集団心理の隙」を突く不審者にとっては、かえって格好の遮蔽物でしかなかったのである。


「……安心してください……」


 廊下から響く不気味な囁き。警護の騎士たちが「止まれ!」と叫ぶ声を嘲笑うかのように、ヤツは現れた。


「きゃあ!? 変態!!」


 エルンが悲鳴を上げて目を覆い、ラバックが「捕まえろ!!」と叫ぶ間にも、不審者は驚異的なステップで騎士たちの股下を軽快に潜り抜け、大会議室の重厚な扉を勢いよく蹴破った。


「安心してください! 履いてますよ!!」


 ジャジャーン!という幻聴と共に、ルーシャの目の前で「全裸に見える黄金のポーズ」を完璧に決める不審者。


「……何なの」


 絶対零度の冷たい視線を向けるルーシャ。その背後から現れたのは、怒りで髪を逆立てたロディ団長であった。


「警備を三倍にしたのが仇になったか! 城門の警備はどうなっている!?」


「報告します! 安定のザルです!!直立不動!!」

「『今日のおやつはエクレアがいいな』などと供述しています!!」


 ミカとクリスの無慈悲な即座の報告に、ロディの額の血管がブチ切れた。


「おやつはもうなーい!! それより貴様ぁぁぁ!! ルーシャの目が腐る前に、この世から消し去ってやる!!」


 ロディは腰の漆黒の魔剣《魔剣エリシオン》を勢いよく抜き放った。


「成敗!!!!!」


 漆黒の闇が剣先から奔流となって溢れ出し、大会議室の光をすべて飲み込んだ。

 本来、強大な魔獣や大軍を相手にするための極大術式。

 威力を極限まで抑えているとはいえ、対人用の範疇を数万光年超えている。


「皆さまーーー!! 見ましたか!? 画面が真っ暗です!! 放送事故ではありません、これこそが不落の巨龍、ロディ団長の咆哮です!! 陛下たちの『思いつき部署』への未練も、不審者の『安心』も、今すべてが闇に消えました!! 王国史上、最も豪華で、最も無意味な会議のフィナーレです!!」 


 次に人々が目を開けた時、そこにはただ、少しだけ焦げ臭い匂いを漂わせる絨毯と、静まり返った会議室があるだけであった。不審者の姿は、文字通り影も形もない。


「終わった……のか?」 


 レンが煙の燻る廊下で呆然と呟く。


「流石団長。素晴らしい手際です!」


「絶対本来の使い方じゃないけどな……」 


 ミカとクリスの対照的な感想が響く中、ルーシャは静かに席を立った。


「……阿保らしい。アルハイサム書記官、決定事項を公示しなさい。今日の会議はこれで終了よ」


 こうして、各部署の必死なアピールも、陛下の伝統の主張も、すべては「履いてますよ」の一撃によって虚空へと霧散したのであった。


エピローグ「再就職」希望者


 嵐のような大会議と、あの強烈極まりない「安心」の不審者騒動から一夜。

 激動の余波が去った王宮には、いつもの眩い朝の光と共に、かつての活気……そして、どこか哀愁を帯びた穏やかな日常が戻ってきていた。


「あぁ……五臓六腑に染み渡る……。女神は、まだ我々を見捨ててはいなかったのだ……」


 士官事務室では、予算カットの呪縛から解き放たれ、晴れておかわり自由となった淹れたてのコーヒーの高貴な香りが立ち込めていた。

 ハンスやフェリックスをはじめとする財務省の事務官たちが、まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、涙を流しながら黒い聖水を一歩一歩噛み締めるように啜っている。

 その目の下のクマは相変わらず深いものの、表情には確かな生気が蘇っていた。


「予算が戻り、僕もお菓子作りがようやく解放されて、本当に嬉しいです」


 一方、陽の差し込む修練場の一角では、偵察部隊長のミカがいつになく穏やかな微笑みを浮かべ、手際よくボウルの中の生地を混ぜ合わせていた。

 泡立て器がリズミカルにボウルの内側を叩く音が、心地よく響く。


「今日のお菓子は!?」


 そこへ、まるで獲物の気配を察知した野生動物のような俊敏さで、クリスが身を乗り出してきた。

 普段の不遜な態度が嘘のように、その瞳は期待でキラキラと輝いている。


「ふふ、今日はシフォンケーキですよ。ふんわり焼き上がった生地に添える、甘いホイップクリームもありますからね」


「やった!!」


 両手を上げて子供のように大喜びするクリスの凄まじい食いつきぶりに、少し離れた日陰でそれを見ていたヴァラキー姉妹――シノアとシノンは、呆れたように肩をすくめていた。


「……甘いものに対する執念、相変わらず凄まじいわね。あのサボり魔騎士」


「お姉ちゃん、聞こえちゃうよ。……でも、ファーレンガルドのお菓子がまた食べられるのは、ちょっとだけ嬉しいかも」


 妹のシノアにたしなめられつつも、シノンはどこか楽しげに、いつもの賑やかな光景を温かい目で見守っていた。

 そんな穏やかな空気が流れる一方で、騎士団の平和な朝礼の場には、明らかに場違いな悲壮感を漂わせた集団がどっと押し寄せていた。

 昨日、ルーシャの鉄槌によってその存在を跡形もなく消し去られた、元「思いつき部署」の職員たちである。


「お願いです、ここで働かせてください!! 剣を振るう力はありませんが、極上の睡眠を誘う枕の高さ調整なら、誰よりもミリ単位で合わせる自信があります!!」


「助けてください! このままでは今月の家賃すら払えません! 『リアルおままごと』の脚本なら、心に深い傷を負うようなドロドロの愛憎劇をいくらでも書き殴りますからぁ!」


 元職員たちは必死の形相でロディ団長の裾に縋り付き、涙ながらに懇願する。

 だが、規律を重んじる騎士団長としての顔は「不落の巨龍」そのものであった。縋り付く人々を前に、彼は岩のように眉一つ動かさない。


「……そもそも、来るべき場所を間違えているぞ。お前たち、彼らを構うな。朝礼を始める!」


 ロディはすがりつく手を冷徹に振り払い、完全に無視して朝礼の開始を告げた。

 その頼もしくも無慈悲な態度に、列に並ぶレンが腕を組んで冷ややかに言い放つ。


「まあ、今までろくに仕事もせず、王家の予算で楽な仕事――っていうか趣味みたいなことばかりしてたからだろ。同情の余地なし、自業自得だ」


 隣に並ぶエルンも、規律に厳しい彼女らしく、凛とした表情で元職員たちを厳しく突き放した。


「そうです! 誰かに頼る前に、まずは自分の足でしっかりと立ちなさい! 騎士団はそんな甘えた言い訳を受け入れる場所ではありません!」


 さらにその横で、ラバックも深く頷いて賛同する。


「ああ、全くの同感。異論なし!」


 頼みの綱であった騎士たちから、一ミリの慈悲もない正論の連打を浴びせられ、再就職を夢見た元職員たちはその場に崩れ落ちた。


「ぐはっ!!(何度目か分からない精神的致命傷)」


 彼らが悲劇のヒロインのように絶望の淵に沈み込んでいく中、レンがふと何かを思い出したように、ラバックやエルンを含めた周囲に視線を向けた。


「そういえば……ベアトリクス嬢はどこに行ったんだ? 今回の騒動でも、いつもの爆発事故の気配がしなかったけど……」


 その問いかけに対する反応は、驚くほど一瞬で、そして完璧に一致していた。


「知らん」

「知りません」

「どうでもいい」


 ロディ、ニーナ、そして背後を通りかかったアルハイサムの冷淡極まる三連撃が響き渡る。

 関われば間違いなくまた新たな爆発事故に巻き込まれることが分かっているため、誰もその名を深く掘り下げようとはしなかった。


 こうして、王宮を大混乱に陥れ、誰もが胃を痛め抜いた「王宮絶対節約習慣」は、多くの犠牲(とおやつの消滅)を払いながらも、無事に終わりを迎えたのだった。

最後までお付き合いいただきありがとうございました!

こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。

これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!


あなたにも風の導きが有らんことを

にしみん

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