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星刻の約定 ——Fragments of Laurant―  作者: にしみん
血涙のオブリガード(回想編・楽園への案内人)
33/42

騎士の剣 後編

この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨


青年がはじまりの理由を見つけるお話です

 ————力があれば己に価値が生まれる。


 この言葉を最初に聞いたのはいつだったか。


 今となっては思い出せないし、思い出してみたところで何の意味もなかった。

 価値がない生き物はどうなるのかなど、わざわざ考えるまでもない。


 ————捨てられて終わり。


 ◇ ◇ ◇


 あれだけ毎朝『旨い』と感じていた食事の味を、今朝は全く感じることが出来なかった。

 心配そうに俺の顔色を覗き込むラバックと、何かを必死に呼び掛けるエルンが目の前にいた気がするが、今の俺にはそれに応答できるだけの精神的余裕がまるでなかった。


 今日提出する予定だったレポートは無意味になった。

 俺はきっと、知らず知らずのうちに慢心していたのだ。他者より自分の方が強いと思い込んでいた。

 自分の剣も、修羅場での判断力も、戦場での経験値も、この綺麗な城でぬくぬくと育った騎士団の連中より遥かに優れているのだ、と。


 だが、それは完全に打ち砕かれ、否定された。

 自分より遥かに年下の子供に呆気なく、あっさりと、ろくに反応することさえ許されず、完膚なきまでに敗北したのだ。


「レン……俺はもう行くけど……その、気にするなよ? クリス様は本当に凄い方なんだ。だから、ええと——」


「…………あぁ」


 ラバックの必死な励ましも、俺の暗く沈んだ心を晴らしてはくれなかった。というより、これは自業自得というやつなのだ。

 魔獣の討伐任務に向かったラバックと別れ、エルンと俺は静かに修練場に向かっていた。

 道中、エルンが俺を気遣って色々と話しかけてくれていたが、俺はその言葉に適当な相づちを打つのが精一杯だった。


 修練場での日常的な鍛練中も、どこか身が入らなかった。

 昨日なら文句を言いつつも、それなりに愚直にこなせていたような気がする。


 ——今の俺には価値がない。


 何もない俺は、この聖ラウラント騎士団に所属していていいのだろうか。

 このまま無能として捨てられて、無念のままに野垂れ死ぬのだろうか。

 王国に来たばかりの頃は、『国境沿いのあの戦場で死んでいたはずの命なのだから、文句は言えない』と割り切って考えていた筈だ。

 しかし、今の俺は心底死にたくないと——

 誰からも捨てられたくはない、と。


 ————ここにいたいのだ、と。


 そんな惨めな思考が、確かに己の胸の内に生まれていた。


「……レン先輩、少し休憩を———— 団長!」


 エルンが俺の顔色の悪さを察して休憩を促したところで、思わぬ来訪者に驚きの声を上げたのが分かった。

 周囲の訓練していた騎士たちも、普段公務で忙しい筈の騎士団長が直々に現れたことで一様に手を止め、何事かと挨拶もそこそこに遠巻きから見つめている。


「悪いなエルン、コイツ借りていくぞ」

「は、はい!」


「…………そうか」


 自分の中でストンと腑に落ちた。だが、使いの者ではなく騎士団長自らが出向いてきたことには少しばかり疑問に思ったが。

 無価値になった俺を、いよいよ処分のために始末しに来たのだろう。

 そんな冷めた考えがあったので、俺は大人しく彼について行った。


 歩く道中、騎士団長は何も言わなかった。

 連れてこられたのは、冷たく暗い地下の独房でも、観客が群がる処刑場でもなかった。

 執務室だ。入り組んだ王宮の階段をいくつか登った先にある、奥の部屋。驚いたのは周辺にいる衛兵の少なさだった。


 普通、騎士団長の執務室周辺ともなれば、それなりに厳重な護衛や衛兵が立ち並んでいるものではないのか。

 当然、俺の抱いた疑問が解消されることはなかった。

 背中の肩を押される形で入れと促されるので、俺は素直に入室する。


 俺の想像していた騎士団長の執務室とは、少し違っていた。

 数々の膨大な資料を仕舞う巨大な本棚や無骨な机、来客用のソファ等はあるが、高価な調度品の類いは最低限にとどめられている。

 騎士団長という王国最高峰の権力者なら、もっと豪華絢爛な執務室かと思っていたが、どうやらこの男の執務室は違うらしい。


「——湿気た顔をしているな。まぁ座れよ」


 顎で指し示されたのは、来客用の深々としたソファだった。この部屋にある数少ない高価な家具だ。


 俺は内心、これからもうすぐ始末する人間に対する対応としては丁寧すぎるのでは?という強い疑問を抱きつつ、やはり抵抗することすら出来ずに大人しく言うことを聞いた。


 その後に暖かいハーブティーが目の前に出された際、俺はこの男は妙な趣味でもあるのかと疑った。

『これから殺す人間をもてなして、無駄な希望を持たせる』とか、そういう類いの。


「……おいお前、今物凄く失礼な事を考えなかったか?」


「…………あんたは変態なのかと」


「はぁ?? 俺は変態ではない!!」


 どうせここで死ぬのなら、思っている言いたいことは全て言ってやる。

 そんな投げやりな気持ちから出た言葉だったのだが、目の前の男は心底失敬だ!と言わんばかりに大声で否定しただけで、腰の剣を抜くような素振りは一切なかった。


 そこから、数秒の静かな沈黙が流れた。執務室に置かれた大きな置き時計の針が、カチカチと規則正しい音を刻んでいる。


 その沈黙を破ったのは、やはり目の前の男だった。


「随分落ち込んでるようだな? 派手に負けたせいか?」

「…………俺には価値がない」


 目の前の男は、俺が既にクリスハイトに手も足も出ず敗北した事を知っているらしかった。

 その声は決して真剣というわけではなく、かと言って俺を嘲笑い馬鹿にしている訳でもない。

 苦笑だ。まるでちょっとした世間話でも話すように軽い声色だったので、俺は思わず自身の溢れ出そうな気持ちを吐露してしまった。


 俺にとっては自分の存在意義も価値もないと言われたのと同じことだ。

 彼のように何事もないかのように平然と話すことなど出来なかったのだ。


「一度の敗北で価値が失くなるなら、俺にも価値がないことになるし、他の者にも同じことが言えるぞ?」


「——俺は負けた。俺には剣しかなかったのに——よりによって子供相手に……」


「お前の敗北は必然だ。甘ったれるな、ガキ」 


 ——その声だけは、どこまでも真剣で。


『何を当たり前のことを言っているんだ』と優しく、重く諭すような声だった。

 思わず、自分でも分からない内に深く俯いていた顔を勢いよく上げてしまったくらいには。


 彼の透き通るような蒼い瞳は少しも揺れ動いていなくて、本当に真剣に、世界の当たり前の事を言っているのだと、俺の脳が、本能がはっきりと理解してしまった瞬間だった。


「お前、一対一の闘いで負けた事がなかったんだろ?」


 質問ではあったが、その実、絶対的な断定だった。


 俺は——力なく頷いた。


 帝国傭兵時代において、俺は一対一の闘いの類いで負けた事が一度もなかった。

 もちろん理不尽な任務や依頼で大怪我を負ったり、敵に囲まれて敗北と捉えられるような絶望的な経験はしたことがある。


 だが、それは状況が許さなかっただけだ。集団行動になるとどうしても想定外の不測の事態が発生する。

 自軍の動きだとか、敵の作戦だとか、物資・天気の影響だとか。

 個人の実力ではどうにもならない事があることも俺は理解している。でも『一対一の真剣勝負』において、俺は今まで誰にも負けた事がなかったのだ。


 だからきっと、自信があった。

 自分より年上の——経験豊富な熟練の戦士にも勝ったことがある。そうなれば自分より遥かに経験不足な子ども相手に遅れを取る理由もないのだ——と。

 いくら才能溢れる子供でも、経験の差というのは実戦において露骨に出る。

 例えば効率的な筋力の使い方、視線の誘導、微細な重心の動き。他にも様々な要因があるが、やはり積み重ねた『経験』こそが物を言うのだ。


「俺は……なぜ負けたのかが分からない。俺の方が経験があった筈だ。俺の方が戦場を知っていて——経験の差が才能を上回ることも、理解していて」


「なんだ。分かってるじゃねぇか。答えはお前がもう言ってる」


「…………は?」


 ——答え? 答えだと?


 俺は負けた理由が全く理解できない。俺の方が強かった筈だ。

 薬が抜けているため筋力こそ落ちているとしても、叩き込まれた剣の技術とか戦場の勘、状況判断能力、実戦経験値。全てにおいて俺が相手を上回っている。


 だが、負けた。つまり経験の差を才能が上回ったというのか?

 しかしそれだと、先程の団長の言葉の意味とあからさまに矛盾する——


「経験の差だ。お前が負けたのは才能の有無でも、ましてや運でもない。お前より()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。お前は『子供だから』という理由だけで勝手に油断して、判断を誤った。それ故に必然の敗北だ」


「——でも、俺の方があいつより生きてる年数が長くて」


「だから、その前提条件で考えたから負けたんだよ。生きてる年数が長ければ強いのか? 例えば——腰が曲がった爺さんがいたとして、お前はその爺さんより年下だから絶対勝てないと思うのか?」


 ——少し、例えが極端過ぎる気もするが。 


 俺は首を横に振った。それは絶対に違うからだ。筋力の衰えた腰の曲がった老人に、俺が遅れを取ることなど万に一つもないのだから。


「いいか、見た目だけで判断するな。生きてる年数が長い=経験値が高い訳じゃない。お前は確かに戦場での実戦経験はそこそこあるだろう。でもこの世には、お前より強い奴なんてごまんといるぞ」


「……別に、俺が一番強いなんて言うつもりはない」


 不貞腐れたようにぽつりと返答する。別に自分が世界で一番強い最強だとか、戦局の全てをたった一人でひっくり返せる程の実力の持ち主だとか、そんな大層なつもりは端からなかった。


 でも、俺が唯一心の拠り所として持っていた矜持のようなものが無価値だと知ってしまったから——


「一度の敗北でこの世の終わりみたいな顔するな。敗北こそ最大の経験だ。勝利した際に得られる経験より、敗北した際に得られる経験の方が遥かに成長出来るぞ」


「…………でも」 


 —— 一度の敗北で、俺の価値は……


「負けていい。寧ろ負けろ。失敗が許される状況での敗北は、何より得難い宝だ」


「——負けて、いい?」


 今まで生きてきて『負けていい』なんて甘い言葉をかけられたことは一度だってない。

 帝国において失敗は即座に死に直結する。敗北は無価値の証明であり、走れなくなったら人生の終末なのだ。


 それをこの男は、至極当然のことのように『敗北しろ』と言い放った。

 俺は信じられなくて、ただ絶句するしかなかった。いくらなんでも考え方の根底が違い過ぎる。帝国では、こんな——


 そこまで思考を巡らせたところで、『ここは帝国ではなく、王国なのだ』という至極当たり前の考えが今更のように脳裏に過った。


「お前が帝国でどんな教えを受けたかは知らん。だがここは帝国ではなく王国で、お前は俺の部下だ。騎士団にいたいと思うなら、帝国のそんな偏った考えはきっぱり捨てろ。俺は一度の敗北や失敗くらいで、部下を無価値なんて絶対に思わない」


 全身がカッと熱くなり、ガタガタと震えるような激しい衝撃だった。 


 『一度の敗北や失敗くらいで無価値だなんて思わない』とこの男は本気で俺の目を見て言っているのだ。

 俺にはもう何の価値もないと思っていた。

 しかしこの男は『それは間違いだ』ときっぱり告げて見せたのだ。


「お前は騎士団にいたいと思うか?」


「俺は——ここに、いたい」


 そうだ。それだけは、確実に胸を張って言える本当の気持ちだ。

 他の事柄にはもう自信なんてこれっぽっちもない。唯一の矜持だった経験も剣も、完膚なきまでに粉々に砕かれたのだから。


「——なら、騎士になるためのはじめの理由はなんだっていい。例えば旨い飯が食いたい、とか、気の合う奴らと一緒にいたい、とかな」


「…………なんだそれ。仮にも王国の盾を自称しているのに、そんな私情で騎士を目指してもいいのかよ?」


 その言葉に、団長は豪快に笑った。それはもう『何を当たり前の事を言っているんだ』とでも言うかのように。


「当然だ。私情で騎士になって何が悪い? 誇りだの名誉だのなんてものは、後から勝手についてくる」


「——————」


 先ほどから、己の価値観を揺さぶる衝撃を受けてばかりだ。

 俺はろくに言葉を返すことも出来ないまま、目の前の男の温かい言葉をただただ聞いていた。


「例えば、ミカ。あいつだって最初は私情で騎士になった」


「————は? あいつが!?」


「おう。あいつは元は魔術師だったんだが……あー…——《血嵐戦争》の後に色々あってな。考えが変わったんだろう」


 思いもよらない意外すぎる事実を知ってしまった。

 俺が知るミカという人物は、規律の番人みたいな冷徹で真面目な人間で、とても私情で物事を運ぶようなタイプには思えなかったからだ。


「俺に直接弟子入り志願してきてな。俺は『お前は騎士に向いてない』ってはっきり言ったんだが……これが全然聞かなくてな。体格も筋力も圧倒的に足りてない、とも言った」


 当時の出来事を思い出すように語る団長は、心から嬉しそうだった。

 自分が騎士には向かないとはっきり言った、というあまり喜べないような、突き放すような話だというのに。


「『それでも騎士になりたい』と言うから、『私情か?』と聞いた。そしたら、なんて言ったと思う? あいつ」


「…………なんて言ったんだ?」


 自然と、そんな問いかけの言葉が俺の口からこぼれていた。

 そこには確かな興味もあった。あの子供——いや、あの若き天才騎士が、一体どんな私情を抱いて騎士を志したのか。


「《護りたいものがある》——ってな」

 

 ——護りたい、もの。

 

「俺は『お前は魔道の才がある。ファーレンガルドの家はほとんどが魔術師か重臣の席についているだろう』と念を押したが、全く聞かなかった。だから弟子入りを認めた。つまりそういうことだ」


 彼はすっかり温くなってしまったハーブティーを一口飲むと、また嬉しそうに満足げに笑った。


 思考を整理する。

 先日受けたプトレマイオス枢機卿の講義。あの時、投げかけられた枢機卿の言葉を、俺はもう一度心の中で思い出していた。


 ——お主は、まだ見つかっておらぬのだろう。


 あの時は何を言っているのかさっぱり分からなかった。

 正直に言うと、今でも完全に理解できるかと問われれば胸を張って頷けない。


 でも、それでも——

 

 ——護りたいもの、そのために。

 

 俺はその片鱗を、既にこの日常の中で見ていたのかもしれない。


 例えば、安息日でのラバックやエルンと旨い食事を分け合ったこと。

 その後、活気ある雑貨屋に行って、守り袋を買って貰ったこと。

 王都の街並みを気ままに巡ったこと。

 くだらない会話で笑い合ったこと。


 俺はその時、胸の奥で確かに感じた筈だ。


 ——楽しかった。心から笑うことができた、と。


 そのかけがえのない時間を得難い宝ものだと思った。

 もう一度あの時間を経験したいと思った。

 一度と言わず、何度でも。


「——俺、は」

「うん」


 その返答の声は、朝礼の場で皆を鼓舞する厳格な声とはまるで違っていた。

 遥かに年長者でありながら、幼い子供に向けるような、優しく温かい声だった。

 その声に引き寄せられるように、俺の口から押し殺していた声が溢れ出していた。


「ここにいたい。捨てられたくない——ラバックとエルンと——他の奴らと一緒に……生きていたい」


 きっと、それがずっと心の底深くに閉じ込めていた俺の本当の本心だった。

 自分でも自覚しないまま、環境の中で押さえつけていた心。


 本音を認めるのが怖かった。

 恥ずかしいと笑われるのは嫌だった。

 受け入れられるか不安で、知らない振りをしていた、気付かない振りをずっと突き通していた。


 だって、手に入れた大切なものを失うのは怖い。


 期待外れだと、お前には何の価値もないのだと——そう周囲に思われるのが、ずっと、ずっと、怖かった——


「なら、それが答えだ。それを、お前の《護るべきもの》にすればいい」


 優しく背中を押すような、先達者の重みある声。

 俺の絞り出した言葉はあまりにも曖昧だった筈なのに、騎士団長はそれを『答えにしろ』とあっさりと簡単にして言いのけてしまった。


 これは俺の個人的な偏見だが——こういう騎士としての決意というのは、もっと明白で立派な格調高い言葉や強い意思が必要なのではないのだろうか?という俺の純粋な疑問を見抜いたのか、目の前の男はまたおかしそうに満足げに笑った。


 人が真剣に頭を悩ませて考えているというのに、だ。


「それでいいんだよ。そも、お前はしっかり意志を示してるだろ? 『他の奴らと一緒に生きたい』これが全てだ。なら、そのために足掻けばいい」


 ——あぁ、きっと。


 真の強者とは、彼のような者の事を言うのだろう。

 そんな感傷にも似た強い感情が、胸の内に飛来した。


 強者は強く在らねばならない。圧倒的な力、権力、権限、武力——


 それも確かに生きていく上で必要なことだ。でも、それだけでは本当の強者足り得ない。


 ——その力の使い方、力あるが故に正しく他者を導けること。


 力があるということは、数々の修羅場をくぐり抜けた経験があるということ。

 経験があるということは、その確かな経験を持って迷える他者を導ける。

 この男が迷っていた俺に寄り添い、問いかけて導いてくれたように。


 ——きっと、あの少年も。


 クリスハイトも、彼自身の積み重ねた経験と信念を以て、俺を導いてくれたのだ。


 ただ俺を否定して、心を折ったのではない。


 俺の凝り固まった歪んだ心情を一度粉々に砕いた上で、新しい心情を——いや、ずっと俺の心底にあった本当の意志を表に押し上げてくれたのだ。


 あいつもきっと、強者なのだ。


 今夜、あの出されたレポートを全部ゼロから書き直そう。俺はそう強く決めて、ゆっくりとソファから立ち上がった。

 ここで呑気にハーブティーを飲んでいる暇などもうない。


「——答えは得た。なら次はどう行動を起こすか、だ」


「いい顔になった。一人で戻れるか?」


「道順は覚えてる。そういう類いの記憶保持には自信があるんだ」


「そうか。なら、もう行っていいぞ」


 片手でヒラヒラと軽やかに手を振られる。

 俺は冷めかけてすっかり温くなった茶を一気に飲み乾すと、席を立った。

 そのまま部屋の扉の前まで進んだところで、不意に振り返る。言うべき大事な言葉をかけるのを、すっかり忘れていたからだ。


「——ありがとう。お陰で次の目的が見えた」


 男からの返事を待たずに、俺は滑らかに扉を開けて執務室の外に出た。

 廊下を踏みしめる先ほどまで重かった足取りと心が、やけに軽い。

 唱和五箇条の清書もレポートも出来ていなければ、俺にとって唯一の絶対的な自信だった剣も経験もすべて失くした後だというのに。


 俺は迷わず真っ直ぐ前を向いて、正確に記憶した道順通りに軽やかに足を進めて歩き出した。


◇ ◇ ◇


「——本当、昔の貴方みたい」


 パタンとレンが扉を閉めて去った静寂の中、不意に響いたその涼やかな声の主に、俺はゆっくりと視線を向けた。

 先程までの俺とレンとの話し合いの最中、余計な割り込みをしなかったのは、彼女なりの優しさであり気遣いなのだろう。


「…………やっぱり、似てるか?」


「ええ、だって昔の貴方のレポート、中々酷かったわよ」


「はぁ? そこまで言うか!? 『評価してあげるわ』って言われた記憶があるんだが!!」


 心底意外そうな顔で返すと、彼女は淡い藤色の瞳をわずかに細め、冷ややかに、けれどどこか楽しげに口元を綻ばせた。


「記憶を模造しないで。私は『少なくとも、貴方は『皮』の中身を探そうと藻掻いている。その『渇き』だけは評価してあげる』と言ったのよ」


「………結論一緒じゃないか?」


「全然違うわ」


 相変わらず容赦なく突き放すような辛辣な言葉ではあったが、彼女は存外、他人を何だかんだと言いながらも放っておけない情に厚い性格なので、これもまた言葉通りの本心ではない。


 彼女がわざわざ執務室に現れたのも、不器用な見習い騎士を案じてのことだろう。……もっとも、この真実を口に出したら間違いなくこの執務室が氷漬けにされるので口が裂けても言わないが。


「——少なくとも、『皮だけの騎士』になれたみたいね」


 その美しい横顔は、心の底から本当の意味で安堵したような穏やかな顔で。

 その雰囲気に釣られるように、俺もフッと肩の力を抜いて息を吐いた。


「——それで、お前がわざわざ出向いたのは理由があるんだろ?」


「ええ。——彼の中にある《エーデン》のこと。それと——」


 彼女の口から語られた続く言葉に、俺は胸の奥で心臓に熱が灯ったような錯覚を覚えた。


 ——もうこの心臓は、かつてのように熱を帯びることはないというのに。


◇ ◇ ◇


 向かう先は修練場ではない。

 廊下を踏みしめる足取りは、先ほどまでの重苦しさが嘘のように軽い。

 本来なら、指導の途中である以上は大人しく修練場に戻るべきなのだろうが、今の俺は、己の甘さと向き合うためにも『唱和五箇条の清書』を成し遂げるべきだと強く感じていた。

 ここで修練場に戻らなければ、規律違反として咎められる——という可能性もあるが、今回ばかりはどうか大目に見てほしいと胸の中で切に願った。


 白亜の王宮内部はまるで迷宮のように深く入り組んでいて、どこにどんな部屋があるのか新人の俺にはまだよく分からない。

 しかし先日の講義が行われた第三講義室へと向かう途中、エルンがどこか誇らしげに教えてくれたのを思い出していた。

 『この先を真っ直ぐ進めば、王国が誇る大図書館《叡知の殿堂》があるんですよ』と。

 俺は記憶にあるうっすらとした地理を頼りに、ひんやりとした石造りの廊下を辿って大図書館へと向かった。


 大図書館というのだから、勉強や調べものをするための施設であるのは間違いない。

 以前訪れた王都の一般図書館の中も静かだった。


 だからこそ、いくら頭の中まで筋肉で埋まっているような単細胞の集まりで、鬱陶しく賑やかに騒ぐ行為が息を吸うレベルで日常化しているこの騎士団の連中が集まっている王宮の中の図書館といえども、ここばかりは静謐な空間が約束されている筈だ。


 そもそも、あの筋肉が脳まで侵食している騎士たちが自らの勉学のために好んで図書館に足を運ぶ姿など、到底想像もつかなかったが。

 そんな失礼な思考を巡らせながら歩を進めるうちに、俺は巨大なアーチ状の入り口を持つ大図書館へと辿り着いた。


 重厚な扉の先へと足を踏み入れる。

 どうやら特に煩わしい入館手続きなどは不要のようで、司書と思われる何人かの人間は受付と思わしきカウンターの奥で書類作業に没頭していたり、静かに高所の本棚の整理をしていたりと、各々の仕事に精を出しているだけだった。


 俺は思わず息を呑み、天上に届きそうなほど高く聳え立つ膨大な量の本——正しくはその膨大な本が隙間なく収納されている巨大な本棚の列を見上げた。

 圧巻の一言に尽きる光景だ。この果てしない書本の海の中から、たった数冊の目的の本を見つけ出すのは相当骨が折れそうだった。


 こういう時に頼りになるラバックかエルンが側にいてくれれば……と甘い考えが一瞬頭をよぎってしまう。

 だが、ラバックは今まさに外で命懸けの魔獣討伐任務の真っ最中だ。

 そしてエルンは修練場で俺の戻りを待っているはずで、もし今戻ったら、まずあの生真面目な彼女らしく『どこに行っていたんですか!』と激しい叱責を食らい、そのまま鍛練の続きを容赦なく促されるのが目に見えている。


 やはり、人の手を借りずに自分の力で見つけるしかないのか……と少し気が遠くなるような気持ちになったものの、目的を果たすためだと自分に言い聞かせて割りきり、俺はまるで迷宮のように本棚が立ち並ぶ大図書館の奥へと足を踏み入れた。


 本棚の側面前端を注意深く観察してみれば、幸いにもカテゴリの名称がわかりやすく明記されているらしく、医学、植物、文学、地理など様々に分類されていた。

 しばらくの間、見慣れないカテゴリの名称とにらめっこしながら棚の狭間を彷徨う時間が流れ、やっとのことで目的の本が保管されているのであろう本棚の前にたどり着くことができた。


 本棚のプレートには《騎士道学》と刻まれている。どうやら、騎士としての心構えや精神性、守るべき礼節、王国の歴史、あるいは戦術について記された本がずらりと置かれているらしい。


 俺は高高とした専門的な解説書や、高等な応用が載った難解な本を避け、まずは初心者が読むような基本的なことについて記された本を中心に幾冊か手にとってみた。

 傭兵として生きていくための必要最低限の読み書きこそ出来る俺だが、あまりに難しい言葉使いや、異国の歴史や文化を交えたような高度な解説などは到底理解できない。

 だから、そういった類いの難しそうな本はページをパラパラと捲っただけで静かに元の位置へと戻した。


 中には、文様のような《神聖語》なる古代語で記された、もはやただの呪文なのではないかと疑いたくなるような怪しげな本まで存在していた。

 たとえ現代語訳にされたところで読む気すら失せるような内容であることは、その重厚すぎる本の分厚さと、放たれる独特の重苦しい雰囲気だけで十分に察することができた。


 ——そもそも、俺が読み書きを覚えたのは……いつだ?


 本を棚に戻しながらそこまで考えて、俺ははて?と首を傾げた。

 自分自身の過去の出来事として思い出そうとした事柄であった筈なのだが、それが一体いつのことなのかと聞かれても、明確にいくつの頃だったかがどうしても思い出せないのだ。


 今こうして滞りなく読み書きが出来ている以上、幼少期のどこかのタイミングで相応の教養を得ている筈である。

 それがどのような質の環境だったのかは横に置くとして。


 幼少期は——たしか、文字がまともに読めなかった、と思う。

 どうしても読みたい本や物語があれば、誰かに読んでもらっていたはずだ。


 誰に?


 だっていつも彼女が側にいて、読んでくれて——


 彼女——?


 俺は一人で思考の渦に潜り、自問自答を続けるうちに、己の記憶の根幹に関わる何か、あまりにも重要な事をすっぽりと忘れているのではないかという奇妙な感覚に陥り始めていた。

 思考の内にふと現れた『彼女』とは、一体誰を示しているのだろうか?


 思い返してみても、俺が身を置いていた殺伐とした戦場の周囲に女性は極めて少なかった。

 泥臭く凄惨な戦場についていけるのは、どうしても体力の面から圧倒的に男が多くなる。

 全くいないというわけではない。顔馴染みというのなら傭兵時代のクネウスがいるが、名前も顔もはっきりと認識出来ている以上、彼女のことではない。


 では、何の脈絡もなく無意識の内に頭に浮かび上がってきたこの『彼女』とは、一体誰なのだ。

 思い出さなければならない——そんな胸を締め付ける焦燥感にも似た激しい感情に突き動かされるまま、周囲への注意が疎かになって一歩を踏み出した、その時。


 トン、と誰かの肩に軽く当たってしまった。


「っ……!」


 静かな図書館で人にぶつかってしまった不調法に、反射的に謝罪しようと顔を上げて——


「——————ぁ」


 呼吸が止まった。


 目の前にある、吸い込まれそうなほどに深く美しい紅い瞳と、まっすぐに視線が交錯した。

 しかし、俺の視界が認識出来たのはその鮮烈な紅い瞳までで、肝心の素顔までは確認できない。

 深く被った黒いローブが影を作り、顔全体を覆い隠しているからだ。身に着けている独特の衣装からして、どこかの魔術師なのだろうか。


「あら、ごめなさい。前を見ていなくて」

「……あ、いや、こちらこそ、すまない」


 胸の奥で高鳴る動悸を押さえ込み、ぎこちなくではあったが俺はなんとか謝罪の声を絞り出すことに成功する。

 目の前の魔術師(仮)の人物——その鈴を転がすような声色からして、どうやら若い女性のようだ。

 どこか愉しそうに揺れるその声を聞いた瞬間、俺は自分でも不可解なほどの不思議な親近感さえ覚えてしまった。

 きっと、ぶつかる直前まで記憶の奥底にいる『彼女』の姿を必死に思い出そうとしていたからに違いない。


「————ふぅん?」

「…………あの?」


 目の前の魔術師(仮)は、ローブの奥からじっと俺の顔を凝視していた。

 ぶつかった謝罪も済み、特に用はない筈なのに、彼女はすぐに立ち去ろうとはしなかった。

 まるで珍しい品をじっくり観察するように、俺の顔や髪をまじまじと見つめている。


 もしかをしなくても、俺のこの白髪と紅い目が珍しいのだ。帝国の麻薬を過剰摂取した結果としてこのような異様な姿になるらしい。

 確かに客観的に考えてみれば、平和な王国の、それも王宮の最深部である内部に帝国の人間がいるなんて、詳しい事情を知らない一般の魔術師からすれば、不審に思って警戒心を持つのも至極納得できる話だった。


「————そ、まぁいいけど」

「…………は、はぁ……?」


 俺が困惑していると、どうやら彼女の中で何らかの納得がいき、自己解決したらしく、魔術師(仮)はフッと興味を失ったように俺の脇を軽やかにすり抜けて去っていった。

 何がなんだかさっぱり分からない嵐のような対応だったが、余計な口論や騒ぎにはならなかったので、ひとまず良しとしよう。


 彼女の足音が遠ざかり、完全に立ち去るその途中——


 バサリ、と軽い紙束が床に落ちる小さな音が、静寂の静まり返った大図書館の中で俺の耳に届いた。

 俺は彼女が大事に所有していた本をうっかり落としたのだと思い、すぐに振り返って『落ちましたよ』と声をかけようとした。


 ——だが。


「…………あれ?」


 振り返った廊下の先には、誰の影もなかった。

 今しがた歩き去ったはずの彼女の姿は、まるで煙のように綺麗さっぱり消え去っていたのだ。

 静まり返った床の上にぽつんと取り残されて落ちていた本は、少し古ぼけた——童話のようだった。

 一目で童話だと分かったのは、表紙にどこかメルヘンで可愛らしい絵柄が描かれていたからだ。


 そして既視感。


 それが童話なのだと、本能が理解したような。


 

 ——その表紙を目にした瞬間、脳裏にバチッと火花が散るような激しい衝動と感覚が奔った。

 

 俺は、どこかで、この童話を——この表紙を。

 見たことがあったのではないか——?

 

 もう一度その童話を確認する。

 手に取った古びた装丁の表紙には、荘厳かつ禍々しさを感じさせる文字で、タイトル『Perditio et desperatio vobis afferantur.』と記されている。

 それが王国の神聖語なのか、それとも遠い異国の言葉なのかは、教養の浅い俺にはさっぱり分からなかった。


 持ち主と思われる先ほどの黒ローブの人物は既に姿を消してしまっているので、直接この童話を返却することは到底叶わない。

 この場合、受付にいる司書に遺失物として渡すべきなのだろうか。しかし、理由のわからない強烈な胸のざわめきと、どうしても中身が気になってしまった俺は、吸い寄せられるようにその童話の表紙を開いた。


 他人の持ち物——もしかしたらこの大図書館で管理している貴重な本なのかもしれないが——を勝手に見るのは気が引けたが、脳裏を掠めたあの一瞬の感覚と、湧き上がる強い好奇心にはどうしても抗えなかった。


 静かにパラリと一ページを捲る。

 まず始めに目に入ったのは、表紙の雰囲気に漏れず、これまたメルヘンな絵柄の挿し絵と思われるものだった。

 愛くるしい小さな羽の生えた未知の生き物が複数、飛び跳ねるように描かれている。


 先日の安息日にラバックとエルンで立ち寄った街の雑貨屋で見た守り袋、あの時エルンが選んだそれに描かれていた——確か《シルフミーレ》とかいう風精霊とは、明らかに形も雰囲気も形容が異なっている。


 挿し絵と一緒に添えられている細かな文字は、やはり俺の知識では読めず分からない。

 この愛らしい挿し絵を見る限り、この童話は子供向けの楽しい童話なのだろう。


「——あの、すみません、少しいいですか?」


 静寂を割って、またしても背後から声をかけられた。だが、今回の声は先程聞いた謎めいた女性の声よりは更に幼い、どこかおどおどとした少女の声だ。


 俺はハッと正気に戻り、声のした方を振り向く。

 そこに立っていた少女はどこか申し訳なさそうな表情を浮かべて俯いており、その怯えた様子を見ている俺まで謎の罪悪感を覚えてしまうほどだ。


 見た目の年齢はエルンと同じか、あるいはそれより少し下くらいだろうか。

 髪は透き通るような美しい薄桃色で短く揃えられているが、その髪には綺麗な翠碧色のリボンが丁寧に身に付けられており、普段から化粧やお洒落というやつに全く疎い俺でも、目の前の少女が控え目ながらも綺麗に着飾っていることは一目で分かった。


「……何だ?」


 もちろん俺に彼女との面識はないし、白髪に紅い目という気味が悪い俺のような見た目の奴にわざわざ話しかけてくるなんて、余程の物好きだろう。

 身に纏っている服装からして魔術師か、さもなくば書類を扱う書記官とかそういった類いの綺麗な服装だろう。

 俺の知ったことではないが。


「そ、その本……」


「あぁ、これか? さっきぶつかった人の落とし物みたいなんだが……」


「……ええと、その本、返却期限が過ぎてる本なんです……わ、わたし! 司書さんのお手伝いをしてるんですけど……そ、それで……!」


 少女は小さく指を蠢かせながら、どこか落ち着かない様子で捲し立てるように必死に話す。

 もしかしたら人と直接対面して話すのが極度に苦手な性格なのかもしれない。

 俺はこの童話をおとなしく少女に返すことにした。

 しかし、あの先程ぶつかった不思議な人物は、借りた返却期限を大幅に過ぎてもなお返却していなかったのか。ずいぶんと大雑把な持ち主だったらしい。


「……分かった、返すよ、ほら」

「……! ありがとうございます!! ——よ、よかったぁ……!」


 もしかしたら、彼女は司書の手伝いと言っていたが、その手伝いを指示している上の司書というのはとても厳格で厳しい人物なのだろうか。 

 こうして目の前の少女がここまで怯えて恐縮し、本を回収できたことで胸を撫でおろして安堵しているのなら、余計な口挟みをせずすぐに返却するべきだろう。

 本を渡しただけなのに、なぜかとても良いことをしたような誇らしい気分になった。我ながら単純極まりない思考である。


「……じゃあ、俺はもう行くから。……手伝い、頑張ってくれ」

「はい。……ありがとうございます」


 少女は胸元に抱えた本を大事そうに抱え直し、律儀に深々と頭を下げた。

 俺は彼女の薄荷緑色の瞳が、トラブルを回避できて心から安堵したような穏やかな色に染まっているのを確認すると、本来の目的地であった入口付近にあった勉学スペースに戻ることにした。


 腕には、棚から選び出した数冊の重たい騎士道学の本をしっかりと抱えて。


◇ ◇ ◇  


 「——ほんと、嘘が下手ね、アンタは」


「だ、だって……嘘を吐くのは良くないことですよ……?」


「じゃあ何? あのまま放置しとけばよかったって言いたいわけ?」


「そ、そういうわけじゃ……! サラ姉さま、いじわるですよ……?」


「フン、まぁいいわ。それよりそのくだらない絵本、ちゃんと処理しときなさいよね。花の世話ばかりかまけてたらシルフィに言いつけるから」


「そ、それだけは! それだけは止めてくださいよ! ……シルフィ姉さまは北国で武功を挙げられている真っ最中ですよ! ……このような問題はわたしたちが——」


「暴れてる、の間違いでしょ。さっきも魔獣の素材と手紙が届いてたし。……ま、それなりに上質だったから研究に使えそうだけど」


「え!? さっき!!? て、手紙!! 早く返事を書かなきゃ!!」


「落ち着きなさい。……アンタには北国の花が——」


「花!! さっすが!!シルフィ姉さま!! ——もう、好き!!!」


「アンタも大概ね……」


 本棚の影へと消えていく少女たちの密談は、やがて大図書館の深く穏やかな静寂の中へと静かに溶けていった——。


◇ ◇ ◇


 先程の少女と別れた俺は、手に取った本を片っ端から目を通した。

 初心者向けである筈だが、長年戦場で泥泥に塗れて剣だけを振るってきた俺にとっては、中々に理解するのに時間がかかった。

 今まで騎士道学などという高尚な学問に触れたのは今回が初めてだからなのかもしれない。


 これでは、基本的なことすら理解するのに大いに時間がかかってしまう。

 そう考えた俺は、開きかけていた分厚い本を閉じ、まずは一番の課題である『聖ラウラント騎士団 唱和五箇条』について記された本だけに絞って集中して読み進めることにした。


『一、我らは王国の盾なり。女王陛下の慈悲を胸に、民の安らぎを死守すべし』の項目で一度手を止めて、そこに添えられた詳しい解説や意味、成立した由来や元になった教訓——そういった背景を一つ一つ噛み締めるように読み込んでいく。

 受付付近で貸し出されている羊皮紙とペンを何枚か拝借し、机に広げて一条目をゆっくりと清書する。


 最初はただの綺麗事だと思っていた筈の文脈にも、詳しい解説を混じえて紐解いていけば、そこには明確で、納得できるだけの深い理由が存在していた。上辺だけで判断し、頭ごなしに否定するのはよくないのかもしれない。

 俺はその作業をひたすら黙々と続けた。

 気がつけば時刻はとうに午後を過ぎており、廊下の窓から差し込む陽が赤々と傾き始め、周囲の机にいた人間がいなくなるまで。


 きっと、こんなに指先や手を痛めて夢中で何かを書いたというのは、俺のこれまでの人生で初めての経験だった。

 清書に限らず、この聖ラウラント王国に来てからというもの、目にするもの触れるもの全てが初めての経験ばかりである。


 ——これも経験、か……。


 修羅場をくぐり抜けてきた『経験だけはある』と心の中で高らかに自負していた俺は、もう綺麗さっぱりいなくなっていた。

 そも、俺があれだけ自信高らかに感じていた経験というのは、命を削り合う戦闘に限ったものであって、人として過ごす日常生活における経験はまったくと言っていいほど不足していたのだ。


 そんな当たり前の事実に気付くのに、随分と無駄な時間をかけてしまった気がする。

 我ながら本当に稚拙で情けない思考だったと痛感した。

 いくら後悔しても終わってしまった過去のことなので、どうしようもないのだが。


 やがて、思考を鈍らせる程の強烈な腹痛——正しくは猛烈な空腹を覚えて、俺はペンを走らせる手を止めた。

 思えば、時間を忘れて夢中で清書と騎士道学についての本を貪り漁っていたお陰で、昼食を摂るのを完全に忘れていたのだ。


「…………戻るか」


 腹の虫は容赦なく絶え間なく襲ってくるし、いくら気持ちの面でやる気があっても、慣れない頭脳労働と長時間の座り仕事で体は限界のようだった。


 これ以上無理に続けても大した実りはないと判断した俺は、卓上に散らばっていた手に取った本を几帳面にまとめ、受付で貸し出し手続きを済ませ——手続きと言っても、備え付けの用紙に所属部隊と名前を書くだけの簡素なものだったが——大図書館を出た。


 王宮の大きな縦長の窓から静かに差し込む夕陽の光は、すっかり深みのある鮮やかなオレンジ色に染まっている。

 静まり返った廊下に伸びる長い影とその光景を見て、俺はやはり胸の奥を抉られるような強烈な既視感に襲われる。


 ————前にも同じように、感じた筈だ。


 どこか遠い場所で、夕暮れの沈みゆく赤磁色の陽を、ずっと誰かの隣で見つめていた。


 誰か—— 一体、誰だっただろう。


 でも、記憶のモヤの向こうにいるその人は、きっといつも優しく微笑んでいたような気がする。

 過ぎ去った過去を懐かしむように、包み込むような温かさで優しく笑っていて——。


「——先輩! ……レン先輩!! やっと見つけましたよ!!」


 静寂を破る、最近では耳に聞き慣れた少女の高い声によって、没入しかけていた思考が強引に中断される。

 顔を上げると、目の前にはエアリーブルーの鮮やかな短い髪を前後に揺らしたエルンが立ちふさがっていた。

 彼女は整った形のよい眉をキュッと吊り上げてこちらを凝視していた。どこからどう見ても、怒気を含んだ表情だ。


「…………えーと……」


「えーと、ではありません!! こんな時間まで何処で何をしていたんですか? お昼休みにも帰ってこないし!」


「…………ごめん」 


 言い訳もせずに俺が素直に謝罪したのが、彼女にとって完全に意表を突いたものだったのか、エルンは一瞬口をぐっと結び、次に繰り出そうとしていた怒涛の叱責の声をごっくんと飲み込んだようだった。


「あ、レン先輩それ……」


 同時に、俺が大事そうに腕の中に抱えている数冊の騎士道学の本と、丁寧に折りたたまれた羊皮紙が目に入ったことで、彼女の叱責を完全に強制中断させたのだと分かった。

 彼女は俺がサボっていた訳ではなく、一人で真面目に勉強していたのだと瞬時に理解し、考え直してくれたらしい。

 いや、実際のところ、自分でも引くくらいかなり勉強した。これまでの人生で、あそこまで指の感覚がなくなるまでペンを握り続けたのは生まれて初めてだったのだから。 


「……もう何も言いません! レン先輩頑張ったんですね!!」


 怒っていたことなど一瞬でどこかへ吹き飛んでしまったかのように、自分の事ではないというのに、ヘーゼルの瞳をいっぱいに瞬かせながら心からの弾けた笑顔で笑うものだから、俺はどんな顔をして返せばいいのか分からなくなってしまった。


 他人の頑張りのために己の事のように喜んで笑うなど、今までの俺の人生では考えたこともない境地だった。実際、こういう時にどう反応するのが正解なのか分からない。

 しかし、この後先考えない眩しいまでの行為の一端が、エルンという少女の最大の長所であるのは疑いようもなかった。


『他人のために惜しみなく笑える、他者を尊重できる』というのは——


 きっと、人間としてとても素晴らしいことなのだろう。 


 そう思えるのは、彼女の心の底知れぬ豊かさ故か、それとも俺が今まで卑屈で捻くれた考えの持ち主だったからだろうか。

 ……きっと前者なのだろう。こうして短期間一緒に過ごしただけでも、エルン・リヒターという見習い少女騎士がどれほど真っ直ぐで温かい人柄の持ち主なのかは、痛いほど充分に感じ取れる。


「レン先輩お腹空いてませんか? もうすぐラバ先輩も帰ってきますし、晩ご飯にしましょう!」

「……そうだな」


 胃袋が強烈な空腹を感じているので、すぐにでも首を縦に振って食堂へ走り出したい衝動に駆られるが、流石に騎士の身としてそんな無様でみっともない真似ができる筈もなく。

 俺は、目の前で弾ける彼女の暖かな笑顔に感化されるように、自分でも無意識のうちに、少しだけ口許を緩ませていた。


 ◇ ◇ ◇


 宿舎《銀狼の館》に戻ってからも、頭の中は清書の事でいっぱいだった。

 クリスハイトから課された『唱和五箇条・三十枚』という果てしない量の清書課題の提出期限は、明日、陽が昇る朝まで。

 常識的に考えれば、到底間に合う筈もない膨大な量なのだが、午前中の大半を大図書館《叡知の殿堂》の静寂の中で集中して過ごしたお陰もあり、文字の出来栄えや優美さはともかくとして——すでに全体の半分近くが終わっていた。


 この調子で集中して頑張り続ければ、明日の朝までに無事に間に合うかもしれない。

 その場合は、当然ながら今夜の睡眠を全て投げ打つ『徹夜確定』なのだが。


「……レン、少し休んだら? 顔がすごいよ」


「いや……まだだ。『一、我らは一蓮托生なり。仲間の合図には魂で応え、独断専行をもって列を乱すべからず』の部分が未だ不明瞭なんだ」


 同じ室内で横になっていたラバックは、倒れ込んでいたベッドからゆっくりと体を起こすと、「あー……」というなんとも歯切れの悪い、煮え切らない態度を見せた。


「そこの部分、難しいよね。……実は俺も、完璧にはちゃんと理解出来てないんだ。一蓮托生の意味はまだしも、『魂で応え』っていう表現が特にね……」


「お前でも分からないのか? 正式な騎士なんだろ?」


 俺はペンを動かす手を止め、思わず聞き返していた。

 ラバック・アラベルという人間は、既に厳しい騎士任命を終えている、立派な正規の騎士である。

 ならば、この唱和五箇条の文脈に込められた真の意図や意味も、当然完璧に理解しているものではないのか? 


「あはは……俺も全部完璧に分かってるわけじゃないんだ。まだまだ勉強中なんだよ」 


「正式な騎士でもか?」 


「正式な騎士でもだよ。そこは立場なんてあんまり関係ないんじゃないかな? やっぱり、場数を踏んだ経験なのかなぁ……?」


 頭を掻きながら苦笑いする様子からして、どうやら『完璧に分かってるわけじゃない』という彼の言葉は真実らしかった。

 俺より騎士歴が長く、実力もあるラバックでさえ完全に解釈しきれていない難問があるのだ。

 新人の今の俺に、いきなり全ての本質を完璧に理解するのは到底難しいかもしれない。


 それでも、立ち止まらずに思考を巡らせる行為だけは、決して無駄ではない筈だ。

 今日の執務室での対談で団長が言っていたではないか『失敗こそ最大の経験だ』と。

 ならば、最初から完璧を求めず、失敗を前提にして思考を深めていくしかない——

 

 一度作業を中断して入浴を済ませ——相変わらず脱衣所や大浴場では、謎の物真似集団が賑やかに騒ぎ立てて大騒ぎしていたが——俺は部屋に戻るなり、再び卓に向かって清書を再開した。


 大図書館から借りてきた分厚い解説本と目の前の羊皮紙を見比べながら、黙々とペンを走らせるという地道な行為をひたすら繰り返す。

 ラバックは俺の集中を阻害しないよう気を遣っているのか、自室のベッドで静かに自分の時間を過ごしていた。

 かと思えば、俺の手元で紙が尽きる絶絶なタイミングを見計らって、スッと新品の羊皮紙を机の脇に手渡してくるので、俺は小さく礼を言って素直に受け取る。

 案外、彼は非常に面倒見のよい温かい性格なのかもしれない。


 エルンに対しても先ほど感じたことだが、こうして少なからず同じ時間を共有し、言葉を交わし合えば、相手の本来の性格というものが少しは理解できるものなのかもしれない。

 今まで戦場でしか生きてこなかった俺は、『相手の心情を理解しよう』などという発想を微塵も考えたことがなかった。

 確かに、クリスハイトが今朝言い放った言葉は間違っていなかったのだ。


 正直言って、過去の自分が『傭兵としての経験だけはある』と自信満々に奢り高ぶっていた時の無知な言動を振り返ると、身が捩れるほどの羞恥心が限界突破しそうになるが、俺はなんとか無表情を装って顔に出さないように務めた。

 こういう時、無愛想で感情が出にくい顔つきなのも、案外役に立つものだ。


 他者の心情を理解する、という思考が頭の片隅に残った時、俺はまたしても以前耳にした違う人物の重みのある言葉を思い出していた。

 あのプトレマイオス枢機卿による騎士道制度の講義において、俺に対して投げかけられた一つの問である。


 ——レン。お主は他者と剣を交える際、何を感じておるかの?


 その問に対して、世間知らずだった俺は当時、堂々とこう答えてしまっていた。


 ——何も。ただ、殺す相手に向ける感情も、向けられる感情もありはしない


 今となっては、自分のこの虚しい答えも大きな間違いであったのだと強く気付かされた。

 あの問いの後に続いた、エルンのまっすぐな答えの意味も、今の俺ならほんの少しは理解できる気がする。


「……なぁ、ラバック、聞いてもいいか?」

「うん?」


 隣の机で同じようにペンを握りしめていたラバックが、俺の唐突な疑問に答えようと、手元から視線をこちらへ寄越してくる。

 どうやら彼も彼で、部隊の報告書か何かを作成している最中だったようだ。


「『一、我らは常に警戒せり。如何なる厄災の前でも、即座に身を護る術を講ずべし』にある『厄災』って何を示すんだ? 明確な例がどこの教本にも載っていないんだが」


「あ、それね。主にベアトリクス嬢のことだよ」


「誰だよ……そもそも一個人を示す言葉なのか?」


 俺の至極当然な問に対して、ラバックは一体どのように噛み砕いて説明すればいいのか困り果てて迷っているようだったが、その琥珀色の瞳をどこか遠くに泳がせながら答えた。


「……まぁ、一個人だけじゃないよ。でも一般的にはベアトリクス嬢——ベルカンプ家の血筋かな……ほら、お前が騎士団に来た初日、食堂を爆発させた……」


「あいつかよ! じゃあこの『即座に身を護る術を講ずべし』っていうのは……」


「そそ、ベアトリクス嬢が来たら受け身を取れってこと。あの時ミカ様が叫んでただろ?」


 確かにあの怒号のような爆発の瞬間、当時は名前も知らなかったミカの鋭い声が、確かに食堂内を全力で駆け巡っていた。

 周囲の歴戦の騎士たちがことごとく見事な受け身や鮮やかな前転をしながら身を守る体勢を取っていたのは、まさかこの唱和五箇条の厳格な教えを守っていたからなのか——


「いや、やっぱりおかしくないか? あれだけの爆発事故を高頻度で起こさないだろ……」


「ところがどっこい。プトレマイオス様が週四ペースで徘徊しないくらいあり得ない話なんだよ」


「なんだその微妙に分かりにくい例えは」


 あの国の最高指導者たる枢機卿は、週四ペースという凄まじい頻度で王宮内を徘徊しているのか!?


 国の最高責任者の一人が何をやっているのか。王族や枢機卿が護衛の一人も連れずに王宮内をフラフラと出没するのは、間違いなく世界を探してもこの聖ラウラント王国くらいだろう。

 あまりにも末恐ろしい環境だ。日々彼らに仕える臣下たちは、よく精神崩壊を起こさずに正気を保っていられるな……やはり、この国の人間は国民性が細胞レベルで狂っているせいかもしれない。


「ともかく、ベアトリクス嬢の視認・到来を感知したら即座に受け身を取るんだ。じゃないと重大な規律違反だからな!!」


「えぇ……」


 真顔で恐ろしい内容を語るラバックの真剣すぎる表情を見て、俺は言葉を失って深く困惑しつつも、静かに首を頷かせたのだった。


 ◇ ◇ ◇


 根を詰めすぎるのも精神衛生上よくないと判断した俺は、気分転換を兼ねて外に息抜きに出ることにした。

 今回は部屋の窓からこっそりと抜け出すのではなく、ちゃんと言い訳できるように扉から堂々と。


「レン、もうすぐ消灯時間だから気を付けろよ? 庭でも駄目だからな!? 外気に触れるな!」


「……分かってるよ。……その駄洒落止めろ。反応に困る」


『外(の空)気に触れるな』という、こじつけも甚だしいラバックの苦しい忠告になんとか不器用に頷いた俺は、新鮮な空気を求めて息抜きに宿舎の庭へと足を踏み出した。

 一階の受付付近に陣取る寮官のベルドゥーゴに短い会釈をすると、彼は手元で開いていたぶ厚い本からふと視線を上げ、俺に静かに会釈を返すと、再び何事もなかったように静寂に包まれた本の世界へと戻っていった。


 重厚な扉にそっと手をかけて、外の夜気へと出る。

 まだ完全に夜が更けきっていないせいか、真夜中に特有の不気味などこか淀んだ雰囲気はなく、ひんやりとした静かな夜風が火照った肌に心地よい。

 これまでの部屋の中の張り詰めていた空気を綺麗に切り替えるように、大きく息を吸い込んで深呼吸をして――


「随分と良い教訓を得られたようですね」


 背の上から、ふわりと声が降ってきた。

 夜の庭に出て上から人に声をかけられるのは、これで二度目だ。

 しかも、どちらも状況が奇妙なほど酷似している。主に、『思いがけない少年に上から声をかけられた』という意味で。


 俺はわずかに苦笑いを浮かべながら、視線を上空——宿舎の二階の屋根の方へと向けた。

 今まで全く気付けなかったが、どうやら二階の屋上部分は広々としたテラスになっているらしい。

 ただの寝泊まりするだけの古びた宿舎の癖に、妙に洒落た造りをしているものだ。


「——まぁな。お陰様で」

「それは彼に伝えた方がよろしいですよ」


 そこに腰かけていた少年——ミカ・ファーレンガルドは、日中職務で見せるいつもの冷徹で容赦ない雰囲気は綺麗に成りを潜めていた。

 見慣れた偵察部隊の黒いケープではなく、ゆったりとしたラフな服装、つまり寝間着姿だ。

 何だか思いがけなく、もの凄く珍しいものを見てしまった気がする。


「……少し聞いてもいいか?」

「どうぞ。そこでは話しにくいでしょう」


 その穏やかな言葉と共に、ミカは手元から何処からともなく細い光の鎖をスルスルと真下へ落としてきた。

 まさか、そんなものを普段からポケットや寝間着の隠し場所に持ち歩いているのだろうか。本当に底の知れない不思議な少年である。


 俺は上から落ちてきた白い鎖をしっかりと掴み、それを伝うようにして身軽に二階のテラスへとよじ登った。

 俺が無事にテラスの縁へ上りきった途端、今まさに握り締めていた鎖そのものが、ふわりと淡い白色金の粒子へと音もなく変換され、夜風の中に霧散するように消えていった。


 ——今のは、魔術の類いだろうか?


 元来、魔術という神秘の分野には全くと言っていいほど知識が足りない俺は、すでに綺麗に消え去った鎖の残滓——その粒子が名残惜しそうに舞っていた空中を、じっと見つめたまま固まっていた。

 その俺の真っ直ぐな視線に気付いたのか、ミカは綺麗に整った口許をわずかに緩めた気がした。

 彼がこうして自然に笑うのを見るのは、もしかしてこれが初めてではないだろうか。


「気になりますか?」


「そりゃ気になる。……今のは——」


「《塑形魔術》です。『魔力という変幻自在のエネルギーを、自らの意志の力で望む形へと自在に押し固め、成形する魔術。といえばイメージがしやすいでしょうか」


 実に簡潔で分かりやすい説明だが、先程まで確かに俺の手の中で確かな重みを持っていた鎖は、本物の金属と見間違うほどの硬質さと実体感があった。

 しかし、ミカはれっきとした第一線の騎士で——という思考の次に、午前中に団長の執務室で聞いた会話の中にあった『あいつは元は魔術師だった』というフレーズが脳裏に蘇る。


「……魔術師、だったと聞いた」

「はい、昔は」


 少年は驚かなかった。俺が一体誰からその話を聞きつけたのかとか、噂の出所などについては一切気になっていない様子だった。


「……騎士になったのも私情だとか——《護りたいもの》のためだとか……」


「——それも事実ですね。騎士団に入った当時は、騎士に必要な筋力も体格も圧倒的に足りていなかったので、当初は苦労しました」


 まるで他人の事のように、あるいは何とでもない日常の出来事のようにさらりと言ってのけたが、きっと俺の想像を絶するような血の滲むような過酷な努力を陰で重ねたに違いないのだと、少しずつ人を知るようになった今の俺には痛いほどよく分かった。


 今改めて目の前の少年の華奢な体つきを考えてみれば、そこには明らかな矛盾がある。

 『筋力も体格も圧倒的に足りなかった』と言ったが、体格はともかくとして、彼は今や常人離れした凄まじい筋力の持ち主なのではないだろうか?


 事実、彼は以前に騎士団専用食堂で、暴れる俺を軽々と組み伏せたことがある。

 あの時はいくら暴れてもびともしない、まるで巨岩のような怪力だった。

 そんなもの、後天的な努力だけでどうにかなるものなのだろうか?


「体格はともかく、おま、じゃなくて、あなたは馬鹿力……怪力の持ち主じゃないのか?」


「呼称は、ご自身が言いやすいもので構いませんよ」


 俺が心の中で咄嗟に抱いた『あ、お前呼びは失礼だったか』という気まずい考えを、涼しげに一蹴してくれた少年は、今度は手に持っていた、手紙にふと視線を落としながら淡々と答えた。


「僕は、肉体そのものが強いわけではなく、戦闘中などに一時的に自身の筋力を魔力で増強しているだけです。どうやら僕の体質は、生まれつき筋肉が付きにくい身体らしく……おそらく血筋的なものですかね。幸い、魔力や体内の魔力回路の容量に関しては人並み以上のようなので、フィジカルの欠落を魔術で完全に穴埋めている。と言えば、貴方にもご理解できますか?」


「それも自分の魔術で? ——器用だな、お前は」


「実家が代々続く魔術師の家系なので。元々魔術師管理局に籍を置いていましたからね」


 次々と明かされていく少年の隠された事実に、俺はただただ驚愕するしかなかった。

 世間から『天才』と持て囃されている人物というのは、総じて見えないところで誰よりも凄まじい『努力の天才』だったということだ。

 確かに、本人の根本的な器用さも並外れているが。


「その、聞いていいか? 何で魔術師をスパッと止めて、わざわざ泥臭い騎士なんかになったんだ? ……お前の言うその《護りたいもの》って、いったいなんだ?」


 俺の真っ直ぐな問いかけに対して、今まではどんな質問にもすぐに返ってきた少年の声が、ピタリと途絶えた。

 気になって少年の顔を覗き込むように、その瞳を見つめる。

 栗色の瞳は相変わらずどこまでも冷静で、感情の動揺や戸惑いの類いは一切見られなかった。


「……魔術師のままでは、到底並び立てないと思ったからです」


「……それが、お前の言う《護りたいもの》なのか?」


「……レンさん。貴方は他人の詮索をする前に、まずご自身の目の前の現実を考えるのがよろしいのでは? 清書の期限は、明日の朝までですよ。クリスはそういう規律や期限には一切妥協しない人ですからね」


「…………うっ」


 どう考えても巧妙に見事に話を別の方向へと華麗にはぐらかされたが、彼の指摘は論理的かつ最もすぎて、俺はもう何も言い返すことができなかった。

 だが、先ほどの少年の静かな言葉の裏には、計り知れないほど重く——そして揺るぎない重要で静かな決意が秘められているように、俺の胸には強く感じられた。


「もうすぐ完全に消灯の時間です。これ以上、追加でまた余分な清書をさせられたくありませんよね。おとなしく自室に戻ってください」


「……お前は、戻らないのか?」


「僕は、自分の部屋へはすぐに戻れますので」


 もしかしたら、未知の移動魔術か何かを使って、一瞬で自室へ帰る算段があるのかもしれない。

 俺は夜風の吹くテラスの縁から立ち上がりながら、つくづくと思い知らされた。

 

 ——結局のところ、本当に凄まじい努力を成し遂げるというのも、圧倒的な天才だからこそできる芸技なのだ、と。


◇ ◇ ◇


 「君も清書を書かされたいんですか?」


 彼——レンが呆れと困惑の混ざった背中を見せて立ち去ったのを見計らって、テラスの静かな床の上にもう一つの影が落ちた。

 せっかく遠征軍からの手紙を静かに開いて読もうとしていた所だったのに。


「おいおい、勘弁してくれよ。消灯時間までまだ時間はあるだろ? その大事な手紙をゆっくり楽しみたいっていうなら部屋に戻れよ」


「嫌ですよ。そもそも僕と君は同室でしょう。そのために部屋を出たんですよ」


 僕の本心に、クリスは肩を竦めるだけだった。しかし、完全に夜が更ける消灯時間までは、ほんの僅かに時間がある。

 彼が何かと不器用な新人のレンを心配していたのは、僕だけでなくクリスも同じだったらしい。


「んじゃ、手紙をゆっくり楽しみたい隊長殿に業務報告しとくか」


「誤解を招く気持ち悪い言い方をしないで下さい——聞きましょう。何か収穫は?」


 僕の素っ気ない問に、彼の綺麗な翡翠色の瞳が僅に細められたことで、僕は彼の持ってきた報告が、これから重大な何かを物語るであろうことを瞬時に予感した。


「リア・ラックウェルの件は覚えてるか? 死体操作の事件だ」


「もちろん。かなり狂気的な事件でしたからね」


 かつて子爵令嬢であったリア・ラックウェルが、自宅の暗い物置小屋の奥から偶々見つけたという、死体操作の禁忌の手順が記された禍々しい呪術本。

 それを用いた凄惨な事件があった。詳細はここでは省くが、現在その件について裏で念入りな事後調査が行われていたのだ。


「その呪術本だがな、どうやら『偶々』ってわけでもなさそうだ」


「誰かが意図的にラックウェル家の物置小屋へ置いたと?」


 僕の問いかけに、クリスは答えを濁すように僅に首を傾げた。

 この慎重な様子では、今ある情報だけでは断定し肯定できるだけの確実な判断材料が不足しているのだろう。


「そこまではなんとも。ただ、他のいくつかの家から同じような作りの呪術本が見つかった。幸いにも気味悪がって使ってないとか、存在事態知らねぇ、っていう家が大半だったが」


「……でしょうね。本来、死体操作など正気と理性がある人間は実行に移そうとしません」


「でもラックウェルはやった。彼女は親含めて周囲との関係が良くなかったみたいだしな。夜に娘が出歩いているのに親が気付けねぇのが何よりの証だろ」


 どこか苦々しく吐き捨てるように言うクリスは、言葉の端々に何か自身にも思い当たる節や過去があるようだが、僕はあえてこの件には深く気付かない振りを決め込むことにした。

 察しの良い彼だって、わざわざ触れてほしいとは思ってはいないだろう。


「リア・ラックウェルという人物はある意味幸運だったのかもしれませんね」


「呪術本を見つけたことか? それともレオハルド・レッドベルという最高の実験体を見つけれたことか?」


 ——それも彼女にとっては幸運と言えたかもしれない。


 氷のように冷えきった家庭の人間関係、誰にも省みられず、本人のプライドの高い自信家な性格と子爵令嬢としてのしかかる重圧、そして息の詰まる退屈な日々。


 だが、それ以上に——


「あのままあの狂気の儀式を続けていたら、彼女は人間とは呼べない恐ろしい者に変わり果てていたでしょう。彼女を殺した人間の動機はどうあれ、彼女にとっては人間として死ねたことが、何よりも幸運だったのかもしれませんね」


「——違いねぇな」


 クリスはどこか遠くを見つめながら、心底同意するように深く頷いた。

 そして、重苦しい報告をここで一区切りつけるように切り上げ、僕の手元にある開かれた手紙へと視線を向ける。


「——で、お前何貰った?」


「君に報告する義務は無いと思いますが」


「ちなみに俺は北国の鍛冶屋が鍛えた投擲剣だった。これが中々に使いやすくて——」


 ——彼女らしい無骨で実用的な土産物だ、と心の中で思う。


 僕は、彼女からの手紙の封筒に丁寧に同封されていた、一輪の美しい花にそっと視線を落とすことでクリスに静かに伝えた。


 夜風に優しく揺れるその花は、まるで研ぎ澄まされた騎士の小剣のように、天に向かってまっすぐに伸びたしなやかな茎を持っている。

 そこに咲く幾重にも重なった気高い花弁は、薄暗いテラスの月光を浴びて、どこか幻想的な色彩を浮き立たせていた。


 美しく凛とした立ち姿でありながら、その内には人を容易に拒絶するような強い毒性を密かに秘めている——美しさと危険性が背中合わせになった、まさにあの『朔風騎士』を象徴するかのような一輪だ。


 僕が言葉を添えずとも、どうやらそれだけでクリスにはすべてが伝わったようで、心から納得するように深く頷いた。


「そりゃお前にぴったりだな」


「彼女のことなので出発前に言った『エディブルフラワーに使えそうな花があったら探してください』という言葉を本気にしている可能性も捨てきれません」


 残念ながら、遠方より贈られたこの美しいグラジオラス輪は観賞用が主であり、その植物全体には強い毒性を帯びているため、食用であるエディブルフラワーにはまったく向かないのだ。


「いや、流石に——いや……どうだろうな……」


 彼女の無鉄砲さとどこか抜けた一面を思い出し、本気で眉をひそめて考え始めるクリスに抗議するように、夜風の中でグラジオラスのまっすぐ伸びた凛とした茎が、優しくゆらりと揺れていた——。

最後までお付き合いいただきありがとうございました!

こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。

これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!


あなたにも風の導きが有らんことを

にしみん

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