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星刻の約定 ——Fragments of Laurant―  作者: にしみん
血涙のオブリガード(回想編・楽園への案内人)
30/43

粗悪な人間たちへ 後編

この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨


初めて『楽しい』と思えた青年のお話です

 空気に、独特の匂いがある。

 脳が明確に意識した途端、それまで朦朧としていた思考が、深い底からゆっくりと浮上して覚醒していく感覚を覚えた。


 ——随分と長い間、眠っていたような気がする。


 こんなに長い間、何にも脅かされることなく深く眠ったのは、一体何時以来だろうか。

 帝国にいた頃の俺にとって、睡眠といえば極限の疲労による気絶の延長線か、あるいは周囲の僅かな気配にいつでも反応できるように脳が半分覚醒しているような、張り詰めた状態のどちらかでしかなかった。


 起き抜けの今、多少の頭痛はあるものの——もしかしたら、あまりにも睡眠を取りすぎたせいかもしれないが——身体の重さはなく、体調自体は意外にも決して悪くなかった。

 確か、昨夜は同室のラバックが『やべ!もう消灯時間だ!』と一人で勝手に騒ぎ立て、無理矢理ベッドに押し込まれて……そこから数十秒後の記憶が綺麗に抜け落ちている。


 ——だが、何か……昔の夢を、見ていた気がする。


 断片的な残像すら残っておらず、夢の具体的な内容まではどうしても思い出せない。だが、どうせ大方くだらない夢だろう。

 俺の過去に、今更思い返して涙するような良い思い出など、ただの一つもある筈がないのだから。


 そこまで思考を巡らせたところで、ようやくシーツを押し退けて身体を起こした。

 相変わらず、この国の騎士団の宿舎は上質な素材のベッドを使っている。

 反射的にすぐ隣のベッドを確認したが、そのベッドの主——ラバックの姿は既にそこには不在だった。

 シーツやブランケットの類いは、普段のあいつのがさつな様子からは意外なほどに、綺麗に四角く畳まれていた。


「…………」


 壁の部屋に備え付けられた時計に目をやると、針は既に午前八時を過ぎている。

 静まり返った部屋にいるのは、俺と、それから窓辺のカゴにいる伝書鳩が一匹だけ、鳩は小さな頭を羽に埋め、目を閉じて気持ち良さそうにスースーと眠っている。


 このまま誰もいない部屋でじっとしているのも、どうにも俺の性に合わず、俺はとりあえずベッドから這い出て床に降りることに決めた。

 その決意とほぼ同時に、部屋の扉が、いつもより幾分か遠慮がちな手つきでパッと開けられた。


「——あ、起きたんだ! おはよう!」


 飛び込んできたのはラバックだった。


「…………おはよ」


 まだ日が高いばかりの朝だというのに、何故こいつはこれほどまでに無駄に元気なのか。

 それにしても、この聖ラウラント王国に来てからというもの、誰かに挨拶をされたら無意識にそれを返すという、前までの俺ならあり得ない妙な癖がついてしまったような気がする。


 別に、どうでもいい変化だが。


「体調、大丈夫? 頭とか痛くない!?」

「……別に。なんだよ急に」

「……いや。大丈夫なら、いいんだ」


 一瞬だけ、本当に一瞬だけ、さっきまで明るかったラバックの声が、ひどく真剣で、どこか痛々しいものを案じるような響きに変わったような気がした。

 俺がその違和感を指摘するよりも早く、あいつの表情はいつもの軽い声色へと戻っていた。なんなんだ、一体。


「起きたならさ、一緒に朝ご飯食べに行こう! 早く行かないと席が埋まっちゃうし!!」


 今度は、急に俺の手首を掴んでグイグイと引っ張ってきた。

 最初に出会った時から薄々思ってはいたが、このラバックという青年は『一度こうと決めたら絶対に曲げない』というような、妙に頑固な性格の持ち主なのかもしれない。


「……そんなに急ぐ必要なんてないだろ……。あれだけ無駄に広い食堂なんだし」


 ラバックは、昨夜あいつの手によってクローゼットへしまわれていた着替えを、棚から引っ張り出して俺へと投げて寄越してきた。

 それは何故か騎士服ではない、動きやすい私服だった。いちいち理由を考えるのも面倒なので、俺は言われるがままその袖に腕を通した。


「ん?……あ、そっか。レンにはまだ言ってなかったね。今日は《安息日》なんだよ」


「——何?」


「あれ? もしかして知らない? お休みの事だよ。騎士団はもちろん、あの堅苦しい魔術師管理局だってお休みなんだ! ……まぁ、一部の例外はあるけどね……」


 最後の一文だけは、ボソボソと苦いものを呟くように告げたラバックに対し、俺は「正気か?」と言わんばかりの、到底信じられないという強い視線を向けた。

 最初にハッキリと言っておくが、決して俺が《安息日》という言葉そのものの意味を知らなかった訳ではない。

 しかし、あれは神話の時代か、あるいはとっくに廃れた旧時代の理想国家のシステムではなかったのか!?


 俺がいた帝国の一般兵が合法的に休める日など、剣を握ることすら動けないほどの致命傷を負った時か、さもなくば国を挙げた建国記念日か、あるいは偉い皇族の生誕祭くらいのものだ。

 こんな、何事も起きそうにない普通の日に、万人に等しく休みなど与えられる筈がない!!


「嘘だ!!」

「えぇ……嘘じゃないよ。いいからそれより早く行こう! 待ち合わせの時間に遅れると、あの子に凄く怒られるんだから!」


 ラバックはまるで時間が一刻を争うかのように焦った様子で、机の上の小さな鞄を引っ掴むと、まだ戸惑っている俺の手を再び引いて部屋を飛び出した。


「……待ち合わせだと?」

「うん! ……わっ! あと十分しかないっ! ……これなら噴水広場じゃなくて、最初から中央門の前にしとけば良かったかなぁ……」


 ラバックがまたしても頭を抱えてブツブツと独り言を言っている間にも、宿舎の廊下に通りかかる左右の部屋からは、朝から騒がしい声が次々と鼓膜に飛び込んでくる。

 まず、右側の部屋では、二人の若い騎士の男が扉を半開きにしたまま、互いに声を荒げて会話していた。


「おい! 早くしろよ!! 遅れるだろ!」


「わーってるって、今行く……あ、あれ? クソ、俺の財布はどこだ!?」


「目の前のここにあるだろ! 昨日、任務から帰った時に鞄に入れておかないからこうなるんだろ……」


 さらに、左側の部屋の前を通りかかると、そこでは釣りの道具一式を床に広げた男四人組の騎士たちが、机の上の地図を興奮気味に指差しながら今日の予定らしきものを相談していた。


「今日こそ、このオレが一番大きいのを釣ってやるからな!!」


「いや俺だから。俺が釣るから!!」


「いーや! 釣りにおいて右に出る者はいない私が一番だね。この、給料をはたいて新調した最新型の釣り糸で、どんな大物魚もフィーシュッ!! さ!」


「フッ……三人とも甘いな。今日行く《コリブレ湖》に生息している魚の生態系と好みの餌は、すべてこのボクの頭の中に叩き込まれている……! つまり、このボクこそが今日のフィーシュッ!! 王ってわ・け!」


「「「……ハハ、釣れるとは一言も言ってないけどな……」」」


 ——なんだコイツら……。この国の兵士は、知能指数が明らかにおかしいぞ。


 その後も、通りかかる部屋の開いた隙間からは、今日これから街の何処かに出かける計画の話や、なにやら個人的な趣味らしきものに今日一日すべての時間を使う、能天気な人間の会話ばかりがこれでもかと聞こえてきた。


 ——どうやら本当に、この平和ボケした国には「安息日」というものが、実在しているらしかった。


 ラバックは時折、騎士団に支給されている銀の懐中時計を熱心に睨みつけながら早歩きを続け、宿舎を囲む深い森を抜け、厳重な見張りが立つ中央門へと差し掛かった。

 門を抜ける際、微動だにせず直立していた見張りの衛兵らしき人間が、通りかかったラバックに向けて、スッと背筋を伸ばして軽い一礼を交わした。

 ラバックは焦りながらも、器用に歩調を緩めずそれを返し、門の先へと進む。


 だが、何より俺を驚かせたのは、その見張りの衛兵が、ラバックに続いた俺に対しても、全く同じように綺麗な一礼をしてきたことだ。

 衛兵は、俺の顔や、帝国出身というその素性を見ても顔色一つ変えることなく、ただ淡々と、毎日の業務をこなすかのように自然に一礼を差し出してくる。

 胸の奥に強い戸惑いがあった。けれど、あまりにも急ぎ足の最中だったため、このまま何もせず完全に無視するのも、どこか寝覚めが悪いというか後味が悪く感じられてしまったので、俺は結局、あいつらと同じように小さく頭を下げて挨拶を返した。


 ——……珍しい衛兵だ。それとも、自分が「帝国の鼠」であることにまだ気付いていないのか?


 あるいは、単に何も考えていない馬鹿という線もある。何せ、この聖ラウラント王国という国の国民性は、どこをとっても最初からおかしいのだから。


 ◇ ◇ ◇


 重厚な王城の門を背に、俺たちは活気あふれる城下町へと足を踏み入れた。

 どこもかしこも、耳が痛くなるほどの騒がしさだ——いや、この国の人間たちの表情を見るに、この場合は「賑やか」と言い換えた方が正しいのかもしれない。


「レン!急いで!もう絶対遅刻確定だけど!二分の遅刻と三分の遅刻じゃ怒られ方が全然違うんだ!!」

「……一体何の話をしているんだ。お前は……」


 隣で勝手に悲壮感を漂わせながら焦るラバックの、情けない背中を追いかけて到着したのは、大きな噴水が中央で水を吹き上げる広場だった。

 かなり広々とした空間で、休日を楽しむ多くの人々で行き交っている。

 所々に木製のベンチが置かれており、どうやらこの街における定番の「待ち合わせスポット」というやつらしい。


 ラバックはようやく足を止め、己を落ち着かせるように肩を上下させて激しく息を整えた。そして、焦燥を隠せない様子で手元の懐中時計を確認しようとして——


「ラバ先輩!!遅刻ですよ!!」


「……う」


 少し怒気を含んだ、けれど驚くほど澄んだ明るい少女の声が、俺たちの後方から真っ直ぐに飛んできた。

 ラバックがびくりと肩を震わせ、恐る恐るといった様子で振り返る。

 釣られるようにして俺もそちらへと視線を巡らせた。もちろん、俺にとっては恐れる必要など微塵もない相手なので、ごく普通に、自然体で。


「約束の時間は八時三十分ですよ!今が何時だと思ってるんですか!?」


「……八時……四十九分……です」


「そうです!大遅刻です!これがもし朝礼の場なら、団長に『連帯責任だ!!外周五十周!!』って雷を落とされてますよ!」


 自分より年下であろう少女に、完全に頭が上がらない様子で怒られている。ラバックは一言も言い返すことすらできず、まるで罪人のように小さくなって項垂れていた。

 ラバックを鋭い口調で叱責しているのは、エアリーブルーの鮮やかな髪を上部の高い位置で二つに結った、綺麗なツインテールの少女だった。


 そのヘーゼルの瞳には、生真面目な光が宿っている。

 服装は動きやすそうなショートパンツに、ライトグリーンのシャツ、その上から水色の上着を軽快に羽織っており、肩には紺色のショルダーバッグが斜めにかけられていた。

 その快活な色合いは、彼女の引き締まった佇まいによく馴染んでいる。


「……もう! 次からは本当に気を付けてくださいね。今回は特別に多めに見ますから」

「……はい」


 どうやら最初のお説教タイムは一段落したらしく、少女は小さく溜め息を一つ落とすと、今度は俺の方へと視線を移した。

 まさか、次は俺が怒られる番とでも言うのだろうか?だが、俺はこの少女と待ち合わせの約束など交わしていないし、そもそも俺はろくに事情も説明しなかったラバックに、半ば強制的にここまで連れて来られただけだ。

 俺のそんな冷めた予想は、次の瞬間に見事に裏切られることになる。


「初めまして! レン先輩。私は聖ラウラント王国騎士団、前線部隊 第六小隊所属の見習い騎士、エルン・リヒターです!」


 背筋をピンと伸ばし、規律正しい騎士の一礼らしきものと共に、丁寧な動作で頭を下げられる。

 いきなりの予想外すぎる洗礼に激しく困惑しつつも、俺はまたしてもこの国に来てから染みつきつつある反射によって、釣られるようにして頭を下げてしまっていた。


「……ど、どうも。……それで、何故先輩なんだ?」


 俺は一応、形の上ではこの国の騎士団に籍を置いているらしいが、目の前の少女は自身の所属を何一つつっかえることなく誇らしげに言ってみせた。

 つまりどう考えても、俺なんかよりこのエルンと名乗った少女の方が、騎士団としての所属歴は遥かに長いはずだ。

 百歩譲って、俺と同じ『見習い』という不確かな立場同士なのだとしても、彼女から『レン先輩』などと呼ばれる筋合いはない。

 なにせ、俺とこの少女は今この瞬間に初めて顔を合わせた、完全な初対面のはずなのだから。


「それは、あなたが私より人生経験豊富な先輩だからです!」

「は、はぁ……?」


 それだと、自分より年上の人間は世界中の全員が先輩判定になってしまうのではないか。

 そもそも俺が知りたかったのは、そんな人生経験の豊富さ云々という精神論ではなく、何故エルンという少女の方が騎士団に早く入団している先輩であるにも関わらず、形式上後輩であるはずの俺をわざわざ先輩と呼ぶのか……という、組織としての明確な矛盾の理由だったのだが。


「呼ばせてあげてよ、レン。エルンはお前の事を、一人の人生の先輩だと思って尊敬してるだけなんだからさ」

「……帝国の……鼠を?」


 あり得ない。だって俺たちは、本来なら敵国同士だ。いくら表面上は騎士団に見習いとして迎え入れられたとしても、俺の本質は捕虜のようなものではないのか。

 それを抜きにしても、帝国の人間に対して『人生の先輩』などと呼ぶなんて。全く、理解が追いつかない。


 やはりこいつも、この頭の狂った王国の民なのだ……。


 俺は何とも言えない冷ややかな視線を少女に投げかけるが、当の本人は、俺がそれ以上反論してこないことを沈黙の了承と都合よく判断したのか、とびきりの眩しい笑顔を咲かせてこう告げた。


「では! 気を取り直して、さっそく朝ご飯を食べに行きましょう! ラバ先輩が絶対に遅刻すると三日前に『予知夢』でバッチリ見ていたので、先回りで《銀鹿亭》の席を確保しています!!」


「おお!!! 流石エルン!!」


「ふふん! さぁ行きましょう、先輩方!!」


 エルンが誇らしげに胸を張ってドヤ顔を決め、お目当ての店の席予約が発表されると、歓喜したラバックが公衆の面前にもかかわらず、エルンに向かって両手を合わせて必死に拝みだすという、奇妙極まる光景が目の前に広がった。


 けれど、狂った国民性が売りのこの王国ではこれが日常風景なのか——絶対におかしいと俺は思うのだが——周囲を行き交う通行人たちは、誰一人として彼らを気にした様子すらない。

 エルンは勢いよく胸を張ると、その呼び掛けと共に北の方角へと元気よく足を進めた。

 ラバックもすぐさま彼女の後に続き、子どものように『レッツゴー!』などとはしゃぎながら付いていく。


 この男の見た目からして、俺と同年代であるはずだ。その年代の男が年下の少女と一緒になってあんなふうにはしゃいでいる体たらく。

 実に恥ずかしい。正直、周囲からあいつらの同行者だとは思われたくない。

 しかし、ここで一人だけ付いていかない、という勝手な選択肢が今の俺にある筈もなく、俺は彼らの背中から少しだけ距離を空けながら、ラバックたちの後を静かに追うのだった。


 ◇ ◇ ◇


 賑やかな人混みを掻き分けるようにして、ラバックたちの後を追ってたどり着いたのは、《銀鹿亭》という大きな看板が目印のレストランだった。

 レストランと評したが、飾らないその佇まいは、どちらかといえば活気のある大衆食堂に近い印象を受ける。

 天気が良いせいか外にもいくつか席が並べられており、店内にも人が多くて非常に賑わっている。

 それでいて、客が十分に余裕をもって食事を楽しめるだけの広いスペースがしっかりと確保されている様だった。


 エルンが、こちらへ案内にやって来た店員の女性に自分の名前を告げると

「お待ちしておりました! どうぞこちらへ!」

 という愛想の良い気持ちのいい笑顔と共に、俺たち三人が十分に座れる広さを持った、陽光の差し込む窓側の席へとスムーズに案内された。


「ご注文がお決まりになられましたらお呼びください!」


 女性はきびきびとした丁寧な所作で一礼すると、すぐに次の客の対応をするために賑やかなフロアへと走って行った。


「今朝は何を食べようかな~」


 エルンがごく自然な様子で、テーブルの中央に置かれていたポットから三人分のコップへ水を入れようとすると、ラバックがこれまた流れるように自然な動きでエルンと役割を交代した。

 そして、コップに水を注ぎながら、少しわざとらしい演技者の様な声色を気取って告げた。


「お前たち。今日は俺の奢りだ、選びたまえ」


「え! いいんですかラバ先輩!?」


「いいよ! ——……あ、でも、あんまり高いのは頼んじゃ駄目だからね……?」


 せっかくの気前の良い台詞が、最後の最後で完全に台無しである。

 エルンは一瞬だけパッと顔を輝かせたものの、続くラバックの情けない小声を聞いた瞬間に、スンと無表情に——というよりは、文字通りのジト目を隠そうともせずラバックをじっと見つめていた。


「最後の台詞がなければ、凄くかっこ良かったのに……」


「……本当にな。余計な一言だぞ。奢るなら最初から覚悟決めろ」


「エルンはともかくレン! お前は奢ってもらう立場としての感謝というものがないのか!?」


「はぁ? お前が自分から言ったんだろ?」


「私、フレンチトーストに決めました! トッピングにバニラアイス追加で!!」


 自分から奢ると言い出した癖に細かく文句を言うラバックに、俺が心底呆れるそのすぐ横で、エルンは容赦なく自分の注文を確定させていた。

 追加のバニラアイスという、今のラバックにとっては絶望の知らせとなるトッピングを平然と添えて。


「——ぐ……ま、まぁ、バニラアイスの追加くらいなら、まだ……」


「じゃあ俺は、この《ソーセージの詰め合わせ銀鹿スペシャル☆セット》とかいうふざけた名前の……」


「お前は悪魔か!? 何でも好きなものを頼んでいいとは言ってないぞ!!?」


「あー! この《期間限定!贅沢ベリースムージー》も一緒に頼んじゃいましょう! 特大サイズなら、きっと三人で綺麗に飲みきれます!!」


「」


 ラバックがついに衝撃のあまり言葉を失い、完全に反応しなくなったのをいいことに、エルンは元気よくピッと手を挙げた。

 無慈悲にも『すみませーん! 注文いいですか!?』という彼女の明るい声が店内に響き渡った瞬間、ラバックは現実逃避するように、静かに自分の財布を開いて中身を確認しだした。


 俺はこれまでの人生で、誰かに食事を奢るだの奢られるだのという生ぬるい経験をしたことはないが、一般的に考えて『奢る』などと大口を開いて発言した時点で、それなりに金銭的余裕があるものではないのだろうか?


「……レン、心の中でそんな真剣な目で突っ込まないで。多分……いや確実にお前なら、一番高いやつをやりかねないと思ってたけどさ……」


「なら最初から覚悟を決めろ。男だろ?」


「…………次の給料日まで、俺の生活費持つかな……」


 その後、エルンがハキハキと頼んだ出来立ての料理たちが、次々とテーブルの上へと運ばれて届いた。

 食べるのを急ごうとしたところで、ラバックとエルンの二人が、食事の前にそっと手を合わせて胸の前で祈りを捧げた。

 おそらく、この国における食事の前の挨拶か、何かの儀式のようなものだろう。


 俺が育った帝国では、神に祈りなど捧げる習慣は一切しないのだが、今回はあいつに奢ってもらう手前、最初から何も言わずにガツガツ食べるというのも流失に失礼にあたると感じたので、俺は大人しく二人の見様見真似をして同じ行動を取った。


 運ばれてきた出来立てのソーセージは、ナイフを入れると肉汁がたっぷりと溢れ出し、口に運ぶとかなり、いや、とても美味であった。

 こんなもの、帝国では一口一体いくらするのだろうか。


 隣を見ると、ラバックがあまりにも悲壮感の高い目で、こちら——実際は俺の皿のソーセージだが——を穴が開くほど凝視してくるので、俺は無言でソーセージの皿を少しだけあいつの方へと寄せた。

 ラバックは予想外の行動に暫く呆然と考えていた様だったが、今度は、自分が頼んだサンドイッチを「ほらよ」と一つ、俺の皿へと寄越してきた。

 そして、そのやり取りを特大のベリースムージーをストローで美味しそうに飲みながら眺めていたエルンが、自分の元に届いた意外と大きいサイズのフレンチトーストを、ナイフできれいに切り分けて俺たちの皿へと乗せてきた。


 ——帝国では、およそ考えられない食事風景である。


 誰かと食べ物を必死に奪い合うのではなく、当たり前のように互いに分け合うなどと、そんなことは今までの人生で一度も考えなかったし、何より周囲の状況がそれを決して許さなかった。


「……やはり、この国はおかしい。……こんなの、帝国じゃ……」


「レン、ここは帝国じゃなくて王国なんだってば。これくらい、ここじゃ普通のことだよ。なぁ、エルン?」


「はい! おやつはもちろん、もし訓練中に支給されたのがモサモサでパサパサの栄養バーだったとしても、お腹が空けばみんなで分け合うのがこの国の常識ですよ!」


「……やっぱり……どこかおかしくないか?」


「そう?」

「そうですか?」


 二人揃って、何でもない当たり前のような顔をして小首を傾げるものだから。

 帝国ではこれが常識だの、王国の普通の基準がおかしいだのと、一人で硬苦しく考えること自体が何だか急に馬鹿馬鹿しく——いや。


 ——ここは、王国だったな……。


 ここは、弱肉強食のルールが絶対当たり前だったイルシオン帝国ではなく——馬鹿が多くて、どこか狂った人間が数多といるけど……。

 それでも、どこまでも平和で暖かい国なのだと、俺は改めて認識することにした。 


 食事も後半に差し掛かった頃、俺たちが座る窓側の席のすぐ隣から、明らかに誰がどう見ても怒っているとしか思えない刺々しい声が響いてきた。


「……それ、どういう意味?」


「あ、いや……ほら! 金だってまだそんなに貯まってないだろ? もうちょっと時間をかけて……さ?」


「半年前にも全く同じこと言ってたじゃない!! 私と結婚したくないってこと!?」


「しー!! 声が大きいよ!! 周りに聞こえるだろ!?」


 ——なんなんだ、一体。


 どう考えても、男女の痴話喧嘩だ。聞こえてくる会話の話の内容からして、将来の結婚についての話し合いのようなものだろうか。

 だとしても、何故こうも人が多く、誰の耳に入るとも分からない公の場でわざわざそんな話をするのか……。

 隣の席の不穏な空気を察してか、ラバックは無言のまま手元のサンドイッチを黙々と咀嚼し、エルンは溶け始めていたバニラアイスを、スプーンを使ってフレンチトーストの上に器用に乗せていた。もちろん、完全に無言のままで。


 俺も彼らの妙な静けさに倣い、無心になってソーセージを付属のマフィンに挟んで口へと運ぶ。しかし、俺たちのそんなささやかな気遣い……と言っていいのかは不明だが、それらの行為を気にした様子も全くなく、隣の席の男女の話はそのまま続いていく。


「大体、家を買うって言ってたじゃん! それ、約束したのいつなのか覚えてる!? 去年の秋よ!!」


「落ち着いてよ! ……別に買わないなんて言ってないよ。オレはただ、ちょっと時間が……」


「時間って何!? 半年も経ってまだそんな言い訳するわけ!? 別に家は、最初のうちは借家でもいいでしょ!?」


「そ、それはそうかもだけど……ほら、お互いに仕事も色々と忙しいわけで……そうなると……ほら? ね?」


「はっきり言いなさいよ! あんた、私の事好きじゃないの!!?」


「そ、そういうわけじゃ……」


「「「………………」」」


 これは、どう控えめに言っても酷いとしか言いようがない。

 男の情けない言い訳もだが、詰め寄る女の怒りも相当なものだ。

 見た目の年齢からして二十代後半といったところか。会話の内容からして、半年以上——もしくはそれ以上の長い付き合いなのが容易に伺える。

 人生において、色々と思い悩んで考える年齢なのかもしれない。


 俺のそんな思考を知る由もない男女のカップルらしき二人組は、未だに激しい言い争いを続けている。

 実際に言い争いというよりも、女が男を一方的に、冷徹に詰めているというのが正しい状態なのだが。


「…………私たち、付き合って何年?」


「え、えっと……そ、そんなこと、今はいいだろ?」


「は???」


「今のはないよな」

「ですねぇ……」

「覚えてないんだろ」


 女が男に投げかけた決定的な質問を、男が冷や汗をダラダラと掻きながら回避(実際は全くできていないのだが)した様子を見て。

 それまで静かに食事をしていたラバックが、心底呆れ返ったような声色でボソリと告げたのをきっかけに、エルンも全てを諦めたかのような目をして小さく言い、俺もその男の情けなさに、素直な感想をそのままこぼした。


「……田舎の親がさ、最近うるさいの。子どもはまだか? とか、いつ結婚するの? とか」


「………………」


「私の親も結構いい歳だし……生きてるうちに孫を見せて、安心させてあげたいって気持ち、あるんだよね」


「そ、そうだよな……うん、分かるよ……」


「……わぁ。女性にここまで言わせるくらい……」


「ラバ先輩、しっ!!」


「さっさと籍入れればいいだろ。覚悟決めろよ……情けねぇなぁ……」


「レン! お前は言いにくいことを……! でも、よく言った!!」


「ラバ先輩もレン先輩も、それ以上はいけません!! すっごくデリケートな問題なんですからね!!」


 エルンに必死に窘められながらも、隣の女性の吐露はさらに続く。


「……私、来月でもう二十八なんだけど。周りの子もみんな結婚して、ママになってる子も多いし……」


「あ……え……や、それは人それぞれっていうか……周りに合わせて無理することないって……」


「そういえば今月まだ——」


「あー!!!!!!」


 女の発言の続きが俺たちの耳へと届くより早く、エルンが突然、店内に響き渡るほどの大声を張り上げた。


「な、なんだよ……急に」


「——レン、すぐに出よう。……俺、先にレジで会計済ませてくるから」


「……? じゃあ頼む……」


「先に出てましょう、レン先輩! ここは危険です!!」


「何を言ってるんだ? ただのレストランだろ?」


「いいえ! この席の周辺は、今の時間は完全な危険地帯(修羅場)です!!」


 ラバックが完全にハイライトの消え失せた死んだ魚のような目でレジのある場所へと素早く走り去り、俺は必死な形相をしたエルンに腕を引かれ、半ば引きずられるような形でそのまま店を出た。

 幸いにも、頼んだ料理の食事自体はすべて終わっていたので、そこだけは良しとする。


 ——しかし、一体全体なんだったんだ……? どう考えてもあれは——


「お待たせ!! 早くここから離れよう!!」


 ラバックが意外にも恐ろしいほどの早さで会計を終わらせ、息を切らせて戻ってきた。

 ラバックとエルンは、店外の広場で互いに深く、重々しく頷き合うと、未だに状況の理解が全く追いついていない俺の背中を、両側からせかすようにして押し始めていた。


◇ ◇ ◇


 結局、俺は彼ら二人の行動の真意をどうしても計れないまま、ただただラバックたちに促される通りに、その場から歩みを進める他なかった。

 痴話喧嘩が渦巻いていたレストランから十分に離れた通りに出たところで、ようやくラバックとエルンの二人の緊迫していた雰囲気が元通りになった。一体、先程の背筋が凍るような空気はなんだったのか。


「……さて! 次は何処に行く?」

「あ! 私、雑貨屋さんに行きたいです! 最近新しいお店が出来たみたいなんですよね!」


 ラバックがどこか無理やりにではあるが、先程の気まずい空気感を払拭するように明るい声を上げ、それに合わせるようにエルンが早口で次の行き先を提示する。


「お前ら、なんか……」


「レンもそれでいい!?」

「レン先輩もそれでいいですよね!?」


「…………俺は別になんでも。そもそも金がない」


 そうだ。現実的な話をすれば、今の俺には一銭の持ち合わせもないのである。

 一応は帝国から来た捕虜の身なのだから当然ではあるのだが、一般的に考えてこれから色々な店を回ったりする以上、最低限の資金が必要になるはずだ。

 先程の朝食はラバックに奢ってもらったが、今の俺は文字通り一文無しなのである。


「心配するな! ——でもちょっと待って!」


「別に俺は何も必要なものがない」


「まぁまぁレン先輩! 買い物は見るだけでも十分楽しかったりしますよ? ウィンドウショッピングというやつです!」


「……? 冷やかしの間違いだろ?」


「レン! お前は本当に何も分かってない!!」


「そうです! ラバ先輩の言う通り!!」


「いや……だって買う気がないのに店内や店の前をウロウロするんだろ? 店主にとったら迷惑以外の何物でもないだろ?」


 店に利益をもたらさない冷やかしなど、帝国なら叩き出されても文句は言えない。その後もそんな俺たちの間でいくつかの押し問答があったが、ここでは割愛する。

 結局、俺は二人の勢いに押し切られる形で、エルンが行きたがっていた最近出来たばかりの雑貨屋に到着し、その賑やかな店内を物色することになった。


「わぁ……色々あるな……」

「本当ですねぇ……あ! これなんて可愛いかも!」

「……これ、一体何に使うんだ……」


 店内には、一般的なお洒落な雑貨類から細々とした小物、日用品まで様々な物が所狭しと置いており、新しい物好きの街の人々で店自体もかなり賑わっている様だった。

 中には、俺の知識では到底使用用途が分からない謎の置物なども混じっているが、見ている客たちは皆一様に楽しそうだ。


「これなんて可愛らしいわ。買っちゃおうかしら……」

「リサ、それ本当に買うつもり……?」

「……? どうしたのエウルア? そんな顔して……」


 そんな、買い物を楽しむ他の客たちの弾んだ会話もそこそこに、エルンが次に目をキラキラと光らせて駆け寄ったのは、色鮮やかな布地——ではなく、どうやらお守り袋がズラリと並ぶ特設コーナーだった。

 紐を解けば、中に何か小さな物を入れれるようになっている構造のようだ。


「わぁ……素敵ですねぇ!」


「お守り袋かぁ……確かに今まで持ってなかったし、これを機に一つ買おうかな」


「私、これにします!」


 エルンが迷わずにパッと手に取ったのは、何やら小さくてデフォルメされた、愛くるしい未知の生き物の姿がデザインされたライトグリーンの守り袋だった。


「お、《シルフミーレ》だ! それにするの?」


「はい! すっごく気に入りました!!」


「……その《シルフミーレ》とはなんだ?」


「あ、レンは知らないよな。《シルフミーレ》っていうのは聖ラウラントで有名な、お伽話に出てくる伝説の風精霊の名前だよ」


 ラバックとエルンが教えてくれた説明曰く、この国の人間なら子どもでも知っているような、有名で親しみ深い伝説やお伽噺の存在らしい。

 人間に好意的で、旅人の行く末を助力したり正しい道へと導いたり、時には邪悪な魔から身を守ってくれる聖なる存在。

 確かにその話を聞く限り、旅路の無事を祈る守り袋の絵柄にはぴったりだろう。そんな都合のいい物好きの精霊が、現実に本当にいるとは思えないが。


「んーと……じゃあ俺はこれにしようかな!」


「わぁ! かっこいいですね! 獅鷲グリフォンですか!」


「レンは何にする?」


 自身の購入をサッと決めたラバックが、ごく自然な口調でこちらに水を向けて聞いてくる。俺は当然、最初から何かを買うつもりもなかった——というよりは、買えないの間違いなのだが——そのため、問いかけられた瞬間にピタリと動きが止まってしまう。 


「金なら気にするなよ! これくらい、俺が買ってやるって!」


「いや……でも……」


「私とラバ先輩だけ買っても全然楽しくないですし! どうせなら皆でお揃いにしましょう! 私とラバ先輩で、レン先輩の分を半分こで払いますから!!」


「そうしよう! ほら、どれにする?」


 ——どうやらこのまま、頑なに断ってお守り袋を買わないという選択肢は、この二人にはなさそうである。

 俺は諦めて適当な絵柄を選ぶつもりで、棚に並ぶお守り袋に視線を落とし——そこで、たった一つの物に妙に目が止まった。


「お、それにする?」

「狼ですか! レン先輩らしくていいかも!」


 偶然目に止まった、綺麗な金の毛並みの狼が精巧に刺繍されたお守り袋。それが、二人の目には俺が気に入ったのだと思われたらしい。


「いや……これは」


 別にそんなつもりはないと否定しようとして、俺はもう一度、その小さな狼のお守り袋をじっと見つめた。


 金色の毛並み、そして——どこか吸い込まれそうな、紅い瞳。


 デフォルメされた、手のひらサイズの可愛らしいデザインの狼だ。

 ただ、本当に偶然目に止まっただけ。そのはずであるのに。


 ——この色合い、どこかで……。


 いや、どこにでもあるありふれた色合いだ。昔、帝国の施設で適当に引っ張り出して読んだ古い本の挿絵か、あるいは夜の任務の最中に出くわした獰猛な魔獣の姿にでも、たまたま似ていたのだろう。

 自分にそう言い聞かせても、なぜか無性に、強烈に気になってしまった俺は、抗うことができずにそのお守り袋をそっと手に取ってしまっていた。


 俺のそんな様子を見て満足そうに笑う二人の財布から、チャリンと小気味いい音を立てて支払いがなされ、俺の大きな手のひらの中に、金の毛並みと紅い瞳の狼が刺繍された小さな守り袋が収まった。


 ……買ってもらったのだから、ちゃんとお礼を言わなければいけない。


 最後に誰かに何かを買い与えられたのは、一体いつのことだったか? そもそも、これまでの俺の人生に、そんなこと自体が最初からなかったのかもしれない。


「……ありがとう」


 蚊の鳴くような、我ながらお世辞にも素直とは言えない小さな呟きだった。もう少しちゃんと声を張り上げて言えばよかったなどと、口にした瞬間に少しだけ後悔する。

 ラバックとエルンは一瞬だけ、予想外の言葉に驚いたように沈黙していたが、次の瞬間には、お互いに顔を見合わせて嬉しそうに笑っていた。


「な、なんだよ」


「いや、レンがそんなふうに、真っ直ぐお礼を言うなんてなぁ……」


「とっても良いことですよ! レン先輩!」


 ——やはり、この国はどこかおかしい。

 ——いや、本当におかしいのは、俺の方なのかもしれない。


 奪い合い、利用し合うのが当たり前だったイルシオン帝国では、誰かに心からの感謝をすることなど、ただの一度もなかったのだから。


 ◇ ◇ ◇


 雑貨屋を出たその後も、俺は二人に「せっかくの安息日なんだから、王都ブルローネをたっぷり案内するよ!」と勢いよく背中を押された。

 道中、彼らは決して有料の施設や高価な場所へは立ち寄ろうとしなかった。どうやら、一文無しの俺に余計な気を遣わせないよう、お金を一切使わずに王都を満喫できる方法を、あれこれと一生懸命に考えてくれたようだ。


 賑やかな観光スポットから始まり、歴史に名を残す伝説の剣士の厳かな石像、大通りに残る「昔、ロディ騎士団長がうっかり派手にぶっ壊した」という伝説の大理石の壁の修復跡、そして、平民でも自由に利用できるという大きな図書館など——


 特に、あの立派な図書館が平民にも広く一般に解放されているという事実には、心底驚かされた。

 内部に厳重に保管されている本はどれも状態が良い物ばかりで、しかもそれらを無料で閲覧できるのだという。

 世間ではよく『タダより怖いものはない』などと言うが、こればかりは、この国の懐の深さに素直に感激したと言ってよかった。


 そうして歩き回るうちに丁度昼食の時間となり、通りを歩く俺の手に、ラバックから露店で販売されていた中身の不明な食べ物がポンと渡される。

 見た目はふっくらとした白い饅頭のようだが、エルンはその正体を最初からよく知っているようで、嬉しそうに目を輝かせて小さな口で食べ始めた。

 包み紙越しにも伝わってくるその物体は、ほかほかと温かく、どうやら出来立てのらしい。

 何が入っているか分からない恐怖はあったが、俺は覚悟を決め、大きく一口齧ってみた。


 ——その瞬間、脳を突き抜けるような衝撃が走る。


 中身は、とろりとした濃厚な黄色いクリームと、甘酸っぱいフルーツの果肉が、これでもかと贅沢に詰め込まれていたのだ。

 てっきり、これまでの経験から肉か魚肉の類辺りが詰まっているものと思い込んでいたので、そのあまりの甘さと美味さに激しく驚愕した。

 内心の動揺を一切顔に出さなかった自分を、この時ばかりは褒めてやりたい。


 近くのベンチに腰掛け、歩き疲れた足を休めながら、談笑もそこそこにその美味い饅頭を咀嚼していた際のことだ。

 近くの共同井戸に、生活用水を汲みにやって来た主婦と思わしき賑やかな集団を見たラバックが、ふと、俺とエルンの二人にしか聞こえないほどの極小の声量でボソボソと話し始めた。

 どうやらあの恐ろしげな集団を、ラバックはよく知っているらしい。


「(おい、あのご婦人たちの耳と情報網を絶対に侮っちゃいけないよ。夕方の割引中のパン屋の情報から、裏通りで不倫してる露店店主の生々しい情報まで、すべて完璧に網羅してるんだからな……)」


「(……割引中のパン屋はともかく、何故そんな他人の極めてプライベートな情報まで正確に知っているんだ?)」


「(レン先輩、あの方々はここブルローネの『裏の情報屋』といっても決して過言ではありません! 現に——)」


 エルンが、小さな声で補足しながら井戸端会議中の婦人たちをそっと指差す。彼女たちは、とっくに目的である生活用水を汲み終わっているのにも関わらず、井戸の周りに群がったまま、何やら身を乗り出して熱心に談笑を続けている。


「ねぇ、ちょっと聞いた? ほら、あそこのゼンスリー邸のご子息様の話……」


「聞いたわよもちろん! 新しく始めた事業に、派手に失敗したんでしょ?」


「それよりもっと酷い話があるのよ! 噂だと、その負債をギャンブルで一気に取り戻そうとして、また——」


 ……聞いてるだけで、せっかくの美味い饅頭の食欲が綺麗に失せそうな、実にドス黒い話である。

 しかし、当のご婦人たちは、まるで極上の娯楽でも楽しむかのように満面の笑みで生き生きと話している。

 他人の不幸は蜜の味、ということだろうか。人間とは、本当に恐ろしい生き物である。


「(一体あんな話、どこから仕入れてくるんだよ……)」


「(本当にね。でも、こんなのまだ序の口だよ。先月の《月例報告会》で暴露された、あの泥沼の三股事件……有力な情報提供者は、まさにあのご婦人たちだって噂だし!)」


「(え!? ラバ先輩、本当にそうだったんですか!?)」


「(そうだよ! しかも、あの時報告会で決定的な証拠として提示された、衛兵が浮気に使った店の領収書! あれを見つけ出して騎士団に送りつけてきたのも、あのご婦人たちなんだよ!)」


「(いや……どうやって個人の領収書なんて見つけたんだよ……。普通に考えて不法侵入の類いだろ……?)」


 そんな恐ろしすぎる王国の裏組織(主婦層)の話をしつつ、俺たちは謎のクリーム入り饅頭——エルン曰く《カスタードクリーム》なるものらしい。知らん——をすべて綺麗に平らげ、今も尚ゴシップに大輪の花を咲かせる婦人たちの縄張りから、静かに距離を置いた。

 ラバックだけは、最後まで少し名残惜しそうに興味がありそうな顔をして後ろを振り返っていたが。


 そうして王都の至る場所を歩き回っているうちに、気付けば辺りは一面、柔らかな夕方に包まれていた。

 これまでの人生の中で、一日のうちにこんなにも激しく感情を突き動かされたのは、本当に初めてのことかもしれない。


 夕刻。真っ赤な日が完全に沈み、やがて空の境界線が深い夕闇へと移り変わっていく頃。

 ——ふと、脳裏に不思議な既視感が過る。俺は昔、誰かと一緒に、よくこんな風に沈みゆく夕闇をどこかでじっと見ていた気がする。

 それが誰だったのかは、やはり霧がかかったように思い出せないが。


「そろそろ帰ろっか。明日も朝が早いしね」


「そうですね! 今日はとっても楽しかったです!ありがとうございます、ラバ先輩、レン先輩!」


「うん、ありがとう、二人とも!」


 歩きながら、ラバックとエルンがごく自然に、お互いへ向けてそんな温かい言葉を交わし合う。


 ——なぜ、あいつらはあんなにも自然に、他人に礼を言うのだろうか。


 そこまで考えた時、俺の胸の奥底から、すとんと自然に一つの答えが浮かんできた。


 ——きっと、俺は。

 ——今日一日が、もの凄く楽しかったのだ。


 これまでの人生で、こんな風に誰かと他愛のない時間を過ごした記憶なんて、ただの一度もない。

 誰かと一つの食べ物を分け合ったり、賑やかな店を冷やかして回ったり、色んな景色を驚きながら巡ったり、ぎこちなくお礼を言ったり——

 感情を突き動かされた、という先ほどの曖昧な表現は、今の俺の心境には決して適切ではなかった。


 きっと、俺は——


「——ありがとう」


 今度は、先ほど雑貨屋の前にいた時とは違って、自分でも驚くほどしっかりと、真っ直ぐな声が出ていたように思う。

 自分の素直な気持ちを、飾らずに誰かへと伝えるということが、ここまで気恥ずかしくて、けれどこんなにも心地いいものだとは全く知らなかった。


 少なくとも、俺が育ったあの冷徹な帝国では、そんな機会も、そんな温かい感情を抱く瞬間すらも、最初から存在しなかったのだ。


 ——でも、ここは王国だ。血も涙もない帝国ではない。


 そこまで思考が行き着いた時、あの時——城の食堂で出会った、あの不敵な黒髪の少年……確か、ミカという名の騎士の言葉が、鮮明に脳裏に浮かび上がった。


『帝国ではそうなのでしょうね。しかし、ここは聖ラウラント王国。国が変われば、価値観が変化するのは当然のことです』


『力以外の事柄にも、視点を向けることをお勧めしますよ』


 あの日、彼が口にした言葉の真意が。

 ようやく、本当に漸く、この胸の奥で理解出来たような気がした。

 きっとまだ、自分はこの国のすべてを完璧に理解してはいないのだろう。

 しかし、彼が言っていた『力以外の事柄』……その温かい世界の片鱗が、今日という一日を通して、俺の目には確かに、ハッキリと見えた気がしたのだ。


 夕闇の帰り道、前を歩きながら楽しそうに笑い合う二人の声。

 オレンジ色の街灯に照らされて、時折こちらを振り返る、ラバックとエルンの愛らしい二つの影。

 その温かい影の背中を少しだけ急ぎ足で追いかけて、そして二人のすぐ隣へと並んだ時。


 ——俺はきっと、心から笑えた気がしたのだ。


◇ ◇ ◇


 ——今宵の星空は、いつもより美しく見えた。


 聖ラウラント王国の重要案件を審議する、最高意思決定機関——大臣決議が行われる決議場。

 高くそびえる天井には、透き通るほどに見事な透明な窓硝子が嵌め込まれており、そこから差し込む静かな月の光が、円卓を囲む僕たちを厳かに照らし出していた。


 その幻想的で、僕個人としては非常に好ましく思う天上の現状とは裏腹に、この閉ざされた場はピリピリと肌を刺すような、冷たく重い政治の空気に満ちている。


「……やはり、いつ反逆の刃を剥くとも知れぬ帝国の鼠を、このまま我が国の最高中枢に野放しにしておくのは如何なものか! 獅子身中の虫となる前に、即刻摘み取るべきです!」


 声を荒げたのは、国防の要たる軍事・国防のトップ、軍務大臣フォーツルト・フォン・タトロク殿だ。

 彼はその胸中に激しい怒りと危機感を感じているらしく、常時の冷静沈着な様子とはかけ離れた声音を響かせていた。


 まあ、国の防衛を一手に引き受ける彼の立場を考えれば、それも無理のない話ではあるのだろうけれど。


「然り! 直ちに地下牢へ送るか、いっそのこと処刑すべきですぞ。あのような不浄の存在を、この神聖なる王宮に抱え続ける理由が一体どこにあるというのだ!」


 軍務大臣の苛烈な言葉に続き、政治・行政の総括を担うポルロック・フォン・メルレイヒ内務大臣殿が、強く同意の声を上げた。


 国を預かる彼ら堅物たちの視点に立てば、敵国の兵を王宮——ひいては女王陛下を守るべき騎士団に置いておくこと自体、到底我慢ならない悪夢なのだろう。

 いつ裏切って牙を剥くとも知れない賊が、自分たちの身内、それも尊き王族の方々の生活圏内に潜んでいるという事実に、激しい不安と嫌悪を覚えている。

 その思考のプロセス自体は十分に理解出来るし、国家の安全を第一に置くならば、極めて全うな意見であると言えた。


 けれども、十人十色という古の言葉が示す通り、この広大な王宮には様々な思想を持つ人間が存在しており、彼らのような『即刻追放派』の過激な意見に同意する者ばかりではないのだ。


 現に——


「し、しかしですね……。彼のこれまでの悲惨な境遇を鑑みれば、その性急な処置はあまりにも……我が国の誇る騎士道精神とは、迷える弱者にこそ進んで手を差し伸べる、慈悲の心でもあったはずです」


 少し弱気な声色ではあったけれど、一人の大臣が明確な反対の意を唱えた。

 国の予算や税収を管理する財務大臣、アーネスト・ポワソン殿だ。

 彼は、苛立ちを隠そうともしないフォーツルト殿とポルロック殿の鋭い視線を正面からしっかりと言い返すように見据えた状態で、その主張を告げた。


 ——なるほど。これは珍しいこともあるものだね。


 僕は表情には出さず、内心でささやかな感心すら覚えていた。

 いつも弱気で内気、実質的に国の財政を回している優秀な部下であるベルンシュタイン事務官やカウルバッハ事務官の傀儡にすぎないと思っていたこの男にも、どうやら自身の譲れない意見というものが存在していたらしい。


 普段の会議ではただ押し黙っているか、あるいは意見を求められても他者の同意以外の反応を示さない人間が、こうして明確な『異』を唱えた。

 その意外な事実に、僕は今回の決議が単なる形式だけのものではなく、それなりの意味を持つものになると確信した。


「アーネスト殿! 何か重大な事態が起きてからでは遅いのです! 現にあの者は、騎士団に加入してからも立て続けに問題を起こしているとか……。万が一、陛下や殿下に危険が及ぶようなことがあれば、一体どう責任を取るおつもりですか……!」


「然り! 昨夜も、何やら麻薬による悍ましい副作用で大騒動を起こし、ルナリス殿の手を煩わせたとか……!これ以上の王宮の規律を乱す問題を、我々が許すわけにはいきますまい!!」


「そ、それは……」


 フォーツルト殿とポルロック殿の二人に同時に激しく責め立てられ、アーネスト殿は反論の言葉を失い、小さく言い淀んでしまった。

 彼らのやり方は些か強引ではあるけれど、語っている内容自体は国家の危機管理として全うなものであるため、僕がどちらかの味方をして介入をするような真似はしない。

 それに、この円卓には他にも大臣たちが座っている。彼ら全員の意見を聞かないことには、そもそも大臣決議を開いた意味がないのだから。


「フォーツルト殿も、ポルロック殿も、どうか一度落ち着かれよ。そこまで冷静さを欠くなど、お二人らしくもない」


 落ち着いた、けれど確かな気品を湛えた声色。

 その場を支配していた熱を冷ますような言葉は、状況を正しく判断した上での静止であることはすぐに分かった。

 最初から頭ごなしの反対意見から入らなかったのは、やはり、長年にわたり王宮の儀礼や教育を司ってきた者の力量故か。


「……チェスカ殿。貴殿も、あの帝国の人間の肩を持つというのですか?」


 フォーツルト殿が不快そうに眉をひそめる。


「肩を持つ、ですか。私はただ、貴殿らのやり方が些か横暴かと感じたまで。まともな対話も試みずにただ放逐するなど、それこそ我々が日頃から忌み嫌っている、イルシオンの非道なやり口と同義ではありませんか」


 チェスカ・フォン・ベルクリーズ殿。王宮の儀式や王族の教育、さらには広報を担当する宮内大臣である。

 彼は王宮の使用人たちを中心として莫大な支持を得ている男だ。彼がこうして毅然と声を上げたことで、会議室の空気はさらに冷たく、より一層の重みを増していく。


 どうやら、明確に『即刻追放』を叫ぶ派閥が存在している以上、それに抗うための体軸となる派閥が完全に形成されたらしい。

 現在の勢力図を見るに、『更生支援派』はアーネスト殿とチェスカ殿であり、対する『即刻追放派』はフォーツルト殿、ポルロック殿、そして、終始黙って彼らの言葉に頷いているエスカトル・ナッチェッタ総務特命大臣殿の三人だ。


「ロディ団長閣下が、どのような思惑であの者を騎士団の末端に招き入れたのかは知りませんが……。あの帝国の毒が根深く回った人間が、我が国の誇り高き【騎士】になれるとは、私には到底思えませんな。帝国の教えは残虐かつ悪逆無道! そんな歪んだ教えを施されて育った人間が、我が国の国民を真の意味で護れるなど、到底信じられるはずがありません」


 現状において、『更生支援派』の立場が圧倒的に不利であり、分が悪いのは火を見るより明らかであるだろう。

 だが、これほど強硬に三人の大臣が異を唱えていてもなお、『即刻追放派』がその帝国の捕虜を即座に断罪し、叩き出せない明確な理由が決議場には存在していた。


 それが——


「ふむ……。どちらの言い分にも、それぞれ一理ある道理じゃな。じゃが、いかなる命であれ、何事にも一度の【機会】は与えられるべきではなかろうか。我が聖ラウラント王国には、生まれ持った身分や境遇に関係なく、真に騎士の道を志す者にその門戸を開くという法がある。……違うかね、お三方」


 円卓の最上席から響いたのは、永い年月を生きる妖精にして賢者——プトレマイオス・ロートレ・アモン枢機卿殿の、静かな、けれど絶対的な声音だった。

 彼は王国の知恵の宝庫であり、国の重役たちから絶対的な信用を得ている絶対的指導者だ。

 彼のその静かな一言の重みに、先程まで語気を荒げて言葉を紡いでいた三人の追放派の大臣たちは、一瞬にして硬直して沈黙した。


 しかし、プトレマイオス枢機卿殿は、自身の巨大な影響力を利用してこの意見を無理矢理に可決させるつもりは毛頭ないらしい。

 彼がもし一言『追放はしない。彼を救うべきだ』と最高権力者として宣言すれば、それだけでこの面倒な決議はすべて終了するのだから。

 けれど、それでは互いの意見をぶつけ合う決議そのものの意味が失われてしまうことを、この大賢者は深く理解している。


 それが故に、彼はあえて絶対的な命令ではなく、一人の出席者としての意見という形で言葉を発したのだろう。

 その高尚な意図を、目の前の国を動かす大臣たちが理解できないはずもない。

 プトレマイオス枢機卿殿の真意をすぐさま察した彼らの間に、会議室には暫しの張り詰めた沈黙が流れた。


 天井の透き通った硝子窓からは、変わらず美しい月の光が差し込んでいる。

 夜空に瞬く無数の星々は、地上で青臭く悩む人間たちを嘲笑うこともなく、静かに彼らを照らし出していた。

 僕は、そんな無口な星々と月を、ただ退屈を紛らわせるように静かに見つめていた。


 すると、ふいに、そんな僕の意見を求める老賢者の声が、静かにかけられた。


「アルト・フォン・レイヴァース殿。この場に立ち会う《十二勇士》の一人として、お主からの率直な意見を聞いてもよいかの?」


 枢機卿殿は、その特徴的な、万物を見通す金の妖精眼をこちらへと向けながら、静かに問いを投げかけてきた。

 せっかく決議の席に座っているのだから、一言くらいは喋れということだろう。

 されども、意見を求められたところで、国家の調停者たる《十二勇士》としての答えなど、僕の中では思考するまでもなく最初から決まっているのだが。


「枢機卿殿。そんな答えなど、わざわざ僕の口から聞かなくてもすでにご理解しているでしょう。《十二勇士》は、このような世俗の権力争い、あるいは一個人の処遇に関して、一切の関与を行わない。彼の処遇がどうなろうと、貴殿ら大臣たちの話し合いで決めればいいことです」


「やはりそうか。いや、お主がこの決議の席に座っている以上、形式として一度は問わねばならぬと思っての」


 僕の冷淡とも取れる返答に対しても、枢機卿殿は特に不快を覚えた様子もなく、ただ全てを見越したように僅かに白い髭の髭面を揺らし、肩を竦めるのみだった。


「……プトレマイオス枢機卿殿! アルト殿が不介入とされるならば、やはり私はどうしても納得できません! 国防の任を預かる身として、あの危険極まりない者は——」


 僕の発言を機に、再びフォーツルト殿の頑固な声によって議論が再開される。

 円卓のあちこちから、またしても熱を帯びた言葉の応酬が始まり、決議場は元のピリピリとした空気に戻っていった。


 ——さて、この不毛な議論から解放されて、僕の静かな工房で錬金術の実験を再開できるのは、一体何時になるのだろう。

 僕は横顔を月光に晒したまま、内心で深い、深い、溜め息をこぼさざるを得なかった。

 

 ——会議は踊る、されど進まず。


 確か、遥か古の歴史において、ある大国同士の講和会議を揶揄した言葉だったか。

 もしもこの場に、あの気の短いサラが同席していたならば、今頃は苛立ちを一切抑えきれずに『これ以上、あたしの貴重な時間を無駄にしないで!』と決議場が震えるほどに激昂していただろう。


 シルフィに至っては、退屈のあまり端から議論を放棄し、椅子に深く腰掛けて堂々と居眠りを決めていてもおかしくはない。

 テオはといえば、そもそもこのような政治の集まりへの参加自体をハナから拒否している。

 彼は今も、遥か遠くそびえる《ベルモデス山》の凍てつく頂上で、独り静かに瞑想でもしていることだろう。


 他の《十二勇士》たちも全く同様で、大抵はこの手の不毛な権力争いの席への参加を嫌い、拒絶を貫いている。

 遠征軍を直々に率いて遥か北のレジーナへと赴いているフリンズであれば、生真面目な性格ゆえにしっかりと会議に参加し、規律を説いたのだろうけれど、生憎と彼はシルフィと共に現在王都を留守にしている。


 消去法のようにして僕がこの席へ参加する羽目になったわけだけれど——正直に言って、一刻も早く自分の工房へ帰りたい。


 先ほどから、フォーツルト殿が激しく吠え、アーネスト殿が怯えながらも必死に反論し、ポルロック殿が冷酷な正論を吐き、その正論に対してチェスカ殿がさらに洗練された正論で返し、エスカトル殿が帝国の悪態をつく……という、全く同じ内容の不毛な押し問答の場面を、僕は少なくとも既に四回は見た。


 僕は表情を一切変えないまま、静かに上着の懐から愛用の懐中時計を取り出し、文字盤の針で現在の時間を確認した。

 確か、この退屈な大臣決議が始まったのは午後七時だったはずだ。そして、現在の手元が示す時刻は八時三十八分。


 実に一時間三十分以上もの長い間、彼らは出口のない堂々巡りの会議を延々と行っているのだ。

 これだけの時間があれば、僕の工房で試したかった新しい錬成実験の二つや三つは、とうに完成させられたというのに。


「——やはり、私は認められません! 繰り返すようですが、万が一の事態が起きてからでは遅いのです! それほどの重い責任を、一体誰が取れるというのですか!!?」


「フォーツルト殿。今は誰の責任の所在を追及するかではなく、彼の今後の処遇をどう決めるべきかを話し合うための会議では? 議論の論点が完全にずれておりますぞ」


 フォーツルト殿の割れんばかりの怒声が決議場に虚しく響き渡り、対するチェスカ殿が静かに、けれど毅然とした声で反論する。

 アーネスト殿は、自身の眼鏡のレンズを何度も何度もハンカチで拭くことにより、かろうじて精神の安定を計っているようだった。

 他の二名の大臣も、自身の意見を今更変える素振りなど微塵も見せない。


 僕は、これ以上の無意味な会議の延長を全力で回避したいがために、円卓の最上席に座る枢機卿殿へと、そっと視線を向けた。


 目線だけで『いい加減、何とかしてください』という明確なサインを送ったのだ。


「——ふむ……。では、こうしようではないか」


 これまで議論を静観し、深い沈黙を続けていた大賢者プトレマイオス枢機卿殿がようやくその重い口を開いたことにより、先ほどまで激しく火花を散らしていたフォーツルト殿とチェスカ殿は、ピタリと声を潜めて押し黙った。


 その光景を見て、極限の緊張状態にあったアーネスト殿が、心底安堵したようにホッと胸を撫で下ろして息を吐いた。


「どちらの言い分も道理であり、互いに譲れぬというのであれば、この会議はいつまでも平行線のままじゃ。であるならば——彼に一つ、乗り越えるべき『課題』を与え、その結果を以て彼の今後の処遇を決定するというのはどうかの? 更生支援派には【機会】が与えられ、その結果次第では即座に追放処分とする。これであれば、双方の意見を等しく反映できるのではないかの?」


「し、しかし……」


 フォーツルト殿が、ばつの悪そうな表情で苦々しく顔をしかめた。

 老賢者の出したこの提案は、追放派と支援派、どちらの意図をも鑑みた極めて公平なものである。

 それゆえに、流言の大家たる枢機卿の言葉に対して、明確な反対の言葉を述べることは、彼らであっても不可能なようだった。


「——枢機卿殿のそのご意見に、私は全面的に賛成です」


 チェスカ殿の、どこか静かな覚悟を決めたかのような声が決議場に響き渡る。

 それと同時に、少し慌てた様子ではあったけれど、アーネスト殿も何度もコクリと深く頷き、賛成の意を示した。


——なるほど、ここが互いの落としどころ、というわけだね。


 尚も悔しげに悩み続けるフォーツルト殿の様子とは裏腹に、ポルロック殿とエスカトル殿もまた、枢機卿殿の賢明な意見に速やかに賛成を表明し、残るはフォーツルト殿一人の同意だけとなった。


 ちなみに、僕たち《十二勇士》は国家の政治に対してあくまで不介入の立場であるため、この場でも賛成も反対も一切示さない。


「フォーツルト殿。国を案じる貴殿は、どう思われる?」


 枢機卿からの真っ直ぐな直接の問いかけに、フォーツルト殿はようやく、その頑固な気持ちの整理がついたようだった。


「——……いいでしょう。しかし! そのお約束は、必ずや守って頂きますぞ! あの帝国の人間が、与えられた『課題』に合格できなかった暁には——」


「無論じゃ。大臣決議という場で正式に可決された内容を、後から私情でひっくり返すような真似は絶対にせんよ。これに例外はないのじゃ」


 その絶対的な保証を耳にした瞬間、フォーツルト殿は本来の落ち着きを取り戻したかのように、静かに軽く頭を下げた。

 おそらく、我を忘れて最高権力者に反論してしまったことに対する、彼なりの不器用な詫びの意味もあったのだろう。


「決まりじゃな。では、満場一致を以て可決とする。……なお、公平を期すため、その課題の具体的な内容については、このわしが直々に決めさせてもらう。他に、何か異論のある者は?」


 決議場を支配したのは、完全なる沈黙だった。当然、異論がある者など誰もいるはずがない。

 枢機卿自らが課題を決定することに全員がこれほど素直に納得したのは、この老賢者自身が、決して私情や偏見でどちらかに手心を加えるような者ではないことを、誰よりも彼ら自身が熟知しているからだろう。


 僕は、ようやく終わりの兆しが見え始めた不毛な会議に、内心で深く安堵していた。

 これなら、最初からこの老賢者が一言発していれば、一時間半も無駄にせずに済んだのではないだろうか?


 辺りは、まるで水を打ったかのような深い静寂に包まれた。

 それは、枢機卿の下した絶対的な裁定に対する家臣たちの服従の同意であり、これ以上、身内同士で醜く不毛な争いをしないための暗黙のルールであった。


「では、今宵の決議はこれにて解散じゃ。皆、日頃の公務で忙しい中、集まってくれてすまんかったな」


 聖ラウラント王国の大臣決議は、その穏やかな言葉を以て締め括られた。

 席を立った大臣たちは、各々プトレマイオス枢機卿殿と、そして僕に対し、畏まって深い一礼を捧げながら退室していく。

 僕は、彼らの丁重な一礼に対し、首を僅かに傾ける最低限の動きだけで応えた。

 正直に言って、僕の忍耐も既に限界を迎えていたのだ。


 漸く、愛おしい実験と謎に満ちた錬成の時間に戻れる。

 そう思って僕が席を立った、まさにその瞬間。

 会議を完璧な終焉へと導いた老賢者から、またしても背後から声をかけられた。


「長い時間、付き合わせてすまんかったの——工房へ戻る前に、お主に一つだけ、個人的に聞いてもよいか」


「……何でしょうか」


 先ほどと全く同様に、《十二勇士》としての僕の公式な意見は変わらない。どんな問いが来ようとも『我々十二勇士は政治に関わらず、一切の介入もしない』という無機質な言葉を答えるつもりで、僕は彼の言葉の続きを待った。


「アルト。貴殿個人として……あの彼を、一体どう見る?」


 ——僕個人、と来たか。


 正直に言えば、十分に予想の範疇にあった問いではあった。

 この恐ろしく聡明な枢機卿が、僕に対して二度も同じ無駄な質問を投げかけるはずがないから。

 彼が問うてきた内容の本質は、あくまで『彼をどう見るか』であった。

 『彼の処遇をどうするべきか』という政治的な話ではなく。


「調査小隊 隊長個人として、意見を申し上げるなら——」


 僕は、冷徹な錬金術師としての視線を取り繕うことなく口にする。


「——このままでは、彼は決して【騎士】にはなれないでしょう。彼には、決定的な『欠落』がある。それを何らかの手段で埋めなければ——」


 枢機卿の、深い金色に輝く妖精眼が、僕のその言葉に同意を示すように怪しげに揺らめいている。


「——彼に待っているのは、破滅以外の何物でもないのですから」


 ——今宵の月は、あまりにも美しい。


 満天の星々が、変わらず世界を冷たく照らし出している。


——しかして、あの青年が潜む深い暗闇の底にも、その光は果たして届くのだろうか。

最後までお付き合いいただきありがとうございました!

こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。

これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!


あなたにも風の導きが有らんことを

にしみん

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