粗■な■■たちへ 前編
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初めての友人に戸惑う青年のお話です
——あたし、人間は嫌いなの。
その声を初めて聞いたのは、いくつくらいの頃だっただろうか。
幼い心ながらも、『あぁ、この人は本当に、心底人間が嫌いなんだろうな』なんて、他人事のように思ったのを今でも覚えている。
——でもね。人形は好きよ。
まるで、楽しそうに歌でも歌うように話す女がいた。
今となっては、その顔は残念ながらはっきりと思い出せない。ただ、きらきらと輝く金の髪と、吸い込まれそうなほどに紅い瞳だけは、確かに頭の奥底にこびりつくように、鮮明に覚えていた。
——■■■は人間が嫌い?
——嫌い。大嫌い。皆死んじゃえばいいのに。
きっと、彼女は人間ではないのだろう。
仮に彼女が自分と同じ人間なのだとしたら、こんな恐ろしい言葉は吐かないはずだから。
——じゃあ、俺が殺してあげようか?
それは、子供心ゆえの、とても幼稚な発言であった。
何も知らない、まだ命を奪うということの本当の重みも、その困難さも。
それらを何一つとして理解していない幼い子供が、ただ、目の前にいる大好きな女のために発した、精一杯の言葉だった。
当時の俺は、とにかく彼女の興味を惹きたい、その一心でそう言ったはずだ。
——本当? 嬉しい。
きっと、彼女は嗤った。
本当に、心の底から嬉しそうに無邪気に嗤うものだから、俺も釣られて嬉しくなって笑ったのだ。
彼女の役に立てる。そうすれば、自分に価値が生まれ、あの冷たい場所に捨てられないで済む。
本気で、そう信じていた。結果さえ出せば、自分はこの世に生きていることを許されるのだ、と。
——なら、たくさん殺してほしいの。
——たくさん? どのくらい?
女はふふっと、小さく、喉を鳴らすように嗤う。
それは、自分の理想がいつか現実になった時のことを、楽しく想像しているような嗤い声だった。
——あたしのかわいい人形。
——たくさん殺して、たくさん奪って。
彼女は普段から、急に歌でも口ずさむような不思議な喋り方をした。
でも、俺は彼女の歌うその声がとても好きだったから、遮ることもせずに、ただ静かに聞いていた。
——■■■は歌が好きなの?
——ええ、好きよ。
そこで、『じゃあ、人形とどっちが好き?』とは、どうしても聞けなかった。
仮に『歌の方が好き』と言われてしまうのが、たまらなく怖かったのだ。
何よりも、自分の存在価値である俺そのものを、彼女に否定されるのが怖くて仕方がなかった。
彼女がその不思議な歌を歌う時は、決まって古びた絵本を膝の上で開いていた。
当時、まだ文字が全く読めなかった幼い俺は、読めもしない絵本の中の文字を、ただひたすらじっと見つめていた気がする。
——永遠に、永遠に、永遠に苦しみ続けて。
——それで漸く、あなたたちの罪は許される。
それが、一体どんな意味を示す歌なのか、今になってもさっぱり分からない。
こんな大昔の古い記憶なんて、とっくの昔に忘れていたものだとばかり思っていた。
なのに、なぜ今になって、こんな夢を見るのか。
夢を見ているはずの、もう一人の自分自身に静かに問いかける。
けれど、答えは当然のようにどこからも返ってこなかった。
―――でも、あなたはあたしの可愛い人形だから。
―――貴方だけは、特別に、許してあげる。
決まって、夢の締めくくりはその優しい言葉で終わる。
やっぱり意味なんて分かりもしないし、深く考えさえもしなかった。
でも、きっと。その時からだ。
——人を殺すのが、人一倍上手くなったのは。
◇ ◇ ◇
「あ……あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!!」
そんな悲鳴のような叫び声で眠りから覚めた。
飛び起きるようにして隣のベッドを見た
「れ、レン!?——ど、どうし——」
「……ぁあ゙あ゙!——り——を」
明らかに様子がおかしい。髪の毛を掻きむしっているし、顔面蒼白だ。明らかに異常事態だと判断した俺は、とにかく落ち着かせようとレンの肩に触れ——
「——を、……薬を——薬を……よこせぇぇぇぇぇ!!!」
「——っ!?」
バンッ!!という衝撃と共にとてつもない力で弾き飛ばされた。
——何が起きてる!?
そこまで思考したところでとある考えに思い至った。
——まさか
「薬!薬だ!!——あ゙ぁ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!」
「落ち着けレン!!」
とにかく押さえなければ。その一心で暴れ回る彼の動きを止めようとするが、予想以上の馬鹿力だった。
麻薬——《エーデン》の最新型には身体強化の効力があるとは聞いていたが、そんな比じゃない!!
尚もガタッガタッ!!という激しい音と共に家具の位置がずれる。レンの身体を押さえつけようとする最中に力任せに腕や足を容赦なく使ってくる。
確かな痛みを感じながらも俺はレンに呼び掛け続けた。
「レン!!しっかりしろ!!おい!!」
「うるさい……うるさい!!煩い!!俺には、ぐぁ——!俺には必要だ!!あれがないと…!あれがないと…!俺には価値が——価値が——」
叫んだかと思えば、突如うわ言のような言葉で発言するレン。
「おいラバ、何か——」
騒音と叫びに気付いた隣室の騎士たちが様子を見にやって来た。俺は未だ暴れ続けるレンを必死で押さえつけながら彼らに叫んだ。
「——ッ!この野郎!!——頼む!寮長を——ミカ様を呼んでくれ!!コイツ馬鹿力だ!」
「な、 なん——よしオレが呼んでくる!!」
「お、押さえるの手伝うぜ!!」
戸惑いながらも一人の騎士が駆け出し、もう一人の騎士がレンを押さえる行為に加わる。
訓練を受けている騎士が二人揃っても拘束には至らずレンの狂乱は激しくなる一方だった。
「くそっ!!おいレン!!正気に戻れ!!き——お前!!ふざけるなよ!!」
「なんて力だ…!!」
その後も隣室、そのまた隣室から騒ぎを聞き付けた騎士たちが加わり、四人がかりでようやく拘束に至った。
かなり暴れられたお陰で全身痣だらけになるのは確定だったが、そんな粗末事どうでもよかった。
「はな、せ——くす——あ、ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!!」
「コイツどうしたんだよ、ラバ……」
「あれじゃねぇのか……帝国の…麻薬」
周囲に集まってきた騎士たちがレンを遠巻き、もしくは近くで凝視しながら聞こえてくる会話に、俺は返す言葉が見当たらなかった。
警戒と困惑、訝しみ、そして——
「——失礼。少し通していただけますか?」
聞き慣れた、凛としたそして同時に冷徹な声が部屋に響いた。先程まで騒がしかった廊下と部屋はレンの呻き声以外何も聞こえなくなった。
自然と道が開かれ、黒いシャツを身に付けた黒髪の少年——ミカ・ファーレンガルドが立っていた。
彼はレンを一瞥するとまるで検分でもするかのような視線を向けた後、暫く考えるような素振りを見せた。次いで俺には視線を向ける。
「——ラバックさん。この症状はいつから?」
「え——と、ついさっき…五分くらい前に…急に...寝る前は普通で。今日一日副作用なんて……!」
弁解でもするように捲し立てた。彼には午後に食堂で起こった騒動も知られている。仲裁してくれたのは他でもないミカ様だったのだから。
あの時もレンは暴れていたが、理性はあったし、剣を持っても相手の首元で制止していた。
少なくとも今のように誰彼構わず手を出して暴れ回るなんてことはしなかった。
「まだ、持った方ですね」
「え、持った……?」
彼の言葉の意味を理解できず聞き返してしまった。しかし当の本人は気にした様子もなく、いつも通り冷静にかつ簡潔に説明してくれた。
「はい。麻薬——《エーデン》は強烈な副作用も特徴の一つです。幻覚、高い依存性。彼の姿もそれを強く表しているでしょう?」
「す、すみません。ミカ様……俺、あんまり詳しくなくて」
レンは時折大きな声で叫び、少ししたらまたうわ言を繰り返すようになっていた。明らかに今日一日言葉を交わした相手と同一人物だと思えない豹変振りであった。
「彼の白い髪と紅い瞳は《エーデン》を長期間、そして過剰摂取された場合に細胞の色素が突然変異を起こすことによる身体の反応です。同時に——痛覚に関しても人より鈍くなっている」
「——————」
思えば。
午後に食堂でミカ様に組み伏せられた時も、そして四人がかりで押さえつけている今も、彼は一度も『痛い』と発していない。
今だって押さえるためとはいえ、かなりの強さで押さえつけている。そうでもしなければ拘束を糸も容易く抜けられてしまう。
「ですから、彼は『異常』です。通常なら発狂して死亡しているでしょう。尋問の際にも麻薬の影響だと思われる行動を起こしていると報告が上がっています」
淡々と疑問とレンという人間の状況を説明するミカ。彼は未だに暴れているレンに近づいた。同時に半ズボンのポケットから取り出したのは——
「み、ミカ様……それは……」
一人の騎士が震えながら問う。
小型の注射器だ。中身は透明な液体で満たされている。鎮痛剤、のようなものだろうか。
「一時的な気休め程度です。ほんの少し安静にさせる程度の効力しかありません。彼が一時的に落ち着きを取り戻している間に魔術師管理局長——ルーシャ様の処へ。あの御方なら何か対策を講じているでしょう」
「わ、分かりました!」
俺はわずかに腕の力を緩め、彼が注入しやすいように体勢を変えた。
「あ、ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙——」
流れるような注入であった。日頃から何度も行っているような動き。一瞬の躊躇いすらなく、寸分違わない——医療に詳しくない俺でも分かるくらい完璧に注射器の中身が吸い込まれるように消えていく。
数十秒後、レンは漸く力を緩めた。
「——は……!」
「やっと……静かに——なった……のか?」
「はい。もう拘束を解いても問題ありません。——直ぐに移動します。他の方々ご苦労様でした」
「わ、私も手伝います!」
「お、オレも!!」
何人かの騎士が手伝いを名乗り出る。恐らくだが相手がミカ様だからだろう。彼の日頃の行い、信頼の賜物である。だが、少年は頚を縦には振らなかった。
「気持ちはありがたいですが——不要です。深夜の局長室に大勢で押しかけるのは緊急時とはいえ、無礼に当たります。皆様は部屋に戻って下さい」
局長への配慮もあるだろうが、何より彼はレンに対しての配慮もあるだろう。個人的な要因も大きい事情を鑑みての指示だった。
ミカ様の指示だからか——それとも理由に納得したからか騎士たちは一礼して各々の自室に戻っていった。
「……ラバ、その……何て言っていいか分からんけど……無理するなよ」
「……うん。ありがとう」
友人騎士からの声に頷くと、彼らは一度心配そうに振り向いた後隣室へと静かに戻っていった。
「俺が運びます」
半非覚醒のレンを背中に背負うとミカ様は頷いて入り口に向かった。彼ならもっと早く動けるだろうがレンを背負った俺への配慮だろう。
「僕は途中、リリアン医務官に現状を伝えた後、騎士団長への報告も行います。貴方はそのまま局長室へ向かってください」
森を歩きながら彼が告げる指示を俺は一語一句聞き逃さないように神経を研ぎ澄ませて聞いていた。
「おそらく有事と知りながら規律を押し付けてくる者がいるでしょうが——無視して突破してください。責任は僕が取ります」
「……!ありがとうございます。ミカ様……!」
年下であろうが頼もしい発言に感涙しそうになるのを必死で我慢した。彼は頷くと少しだけ歩くスピードを速めた。
◇ ◇ ◇
魔術師管理局の建物の前で、ミカ様と別れた。
彼は去り際に、『何かあれば、僕の名前を出してください』とまで言ってくれた。
それが、この聖ラウラント王国において一体どのような強みと意味を持つのか。それを理解できないほど、俺は世間知らずでも無知でもない。
重い責任を背負う覚悟でそう言ってくれた彼の信頼に、深く感謝するしかなかった。
俺は、背中にぐったりと預けられているレンの重みを再び両腕で背負い直すと、静かに建物の中へと入った。
夜間であるがゆえに、昼間の活気の良さは微塵もなく、建物全体がひっそりと静まり返っている。
俺は不法侵入として咎められるのを重々承知の上で、真っ直ぐに局長室を目指した。
本来なら、魔術管理局長であるルーシャ様との面会には、事前に申請書を提出して《面会許可証》を受け取っておかなければならない。
局長は国の魔術の全てを統括する多忙を極めるお方ゆえに、面会の時間も一人一人厳密に制限されているのだ。
しかし、今は夜間——それも日付の変わった深夜のため、面会許可証を申請・発行できる受付所の灯りは当然のごとく消えており、窓口は完全に無人だった。
かといって、館内を歩き回って誰か夜勤の役人を探し、事情を一から説明している時間は一刻もない。
いつまた、薬の切れかかったレンが狂乱して暴れだすとも限らないし、もしこの狭い廊下で暴れられたら、今の俺一人では絶対に抑え込めない。
万が一にでも、他の王宮職員や魔術師に怪我をさせるようなことがあれば——。
最悪の状況が次々と脳裏に浮かび上がり、胸の鼓動が激しく早鐘を打つ。
俺はミカ様の言葉通り、正式な許可証の申請プロセスを全て無視して局長室へ向かうことを決めた。
幸いにも、局長室にはこれまで何度か仕事で赴いたことがあり、迷路のような局内の道筋ははっきりと覚えている。
もしかしたら道中に警備の護衛が一人や二人立っているかもしれないが、その時はその時で強行突破するだけだ! と覚悟を決め、静まり返った魔術師管理局の長い廊下を、早足で進んでいった。
——その時。
コツ、コツ、コツ、という、複数の整然とした靴音が静かな廊下に響き渡り、こちらへと近づいてきた。
「——!? 止まりなさい! こんな時間に、一体何を……」
それは、魔術管理局で夜勤を務めている最中と思わしき、五人の女性魔術師たちだった。
彼女たちは夜の廊下を急ぐ俺と——そして俺の背中に無残に背負われている、ぐったりとしたレンの姿を見て、一斉に訝しそうな、そして不快そうな表情を浮かべた。
「緊急なんです! レン——彼が麻薬の症状で——」
俺の言葉が最後まで言い終わるよりも早く、彼女たちの目に宿る、明確な「軽蔑」と「警戒」の色が、ありありと濃くなっていくのが分かってしまった。
「……帝国の……ともかく、どんな有事であろうと、このような深夜に許可もなく管理局内を出歩くなんて……」
「重大な規律違反ですよ。この先は、高貴なる局長様のお部屋です。——それも……よりによって、そんな帝国の人間を近づけるなんて——……局長様に万が一のことがあったら、どうするんですか!」
——やはり、ミカ様の言う通りだ。
深夜に許可もなく魔術師管理局を訪ねるなんて、ただ事ではない有事であることくらい、彼女たちだって理解しているはずなのだ。
加えて、レンを『帝国の人間』と認識しているなら、その彼が狂乱している原因が帝国の悪名高き麻薬であることなど、魔術師たる彼女たちが知らないはずがない。
「すみません! 規律違反であることは重々承知しています! でも、本当に一刻を争う有事なんです!! どうか通してください!」
「いけません!! 規律は規律です! それを守ってこそ、法としての意味があります。——帝国の人間が野垂れ死ぬようなことがあっても、王国にとっては何も問題はありません」
「そうです。そもそも、今王宮に余計な混乱を招いている元凶そのものでしょう。いっそこのまま——」
話を聞いてくれないどころか、耳を疑うような冷酷な暴言までが、彼女たちの口から平然と吐き出された。
言葉による話し合いは、最初から不可能なのだ。やはり、実力で突破するしかない。
「この件は……! っ——ファーレンガルド様の指示です。通してください!」
言ってしまった。彼が許可してくれたとはいえ、そう簡単に乱用していい名前ではない。
捲し立てるように、熱気に突き動かされるままに反論した俺のその言葉に、目の前の女性魔術師たちは一瞬で押し黙った。
さすがに、弱冠にして偵察部隊のトップを任されている「ファーレンガルド」の名を出されれば、誰もが無下にはできない。
彼の家柄は由緒正しき伯爵家であり、この王都においても絶大な発言力と権力を持つ名門なのだから。
「……し、しかし……いくらファーレンガルド様といえども、規律を曲げていい理由には——」
「そ、そうです!! 彼が正式な王国の人間であれば一考する価値もありますが……」
「帝国の鼠如きのために……——ファーレンガルド様もお可哀想に。また余計な厄介事に巻き込まれてしまって」
——これでも、駄目なのか。
彼女たちの心の奥深くに根付いている、帝国に対する憎悪と差別意識は、俺の想像を遥かに超えていた。
長年の敵国同士であるため、彼らを良心的に扱えない心情も理解はできるが、命に関わる有事であり、あのミカ様の名を出してもなお、彼女たちは一歩も引こうとしない。
俺の心は焦りで焼き切れそうだった。相手は女性ばかり、五人いるとはいえ、多少強引であっても力ずくで強行突破するしか——
そう覚悟を決め、背中のレンを抱え直して一歩を踏み出した、まさにその瞬間だった。
「通してあげなさい」
少し幼い、しかし、凛とした芯の通った強い声が、俺たちを嘲笑っていた魔術師たちの声を鋭く遮った。
「…………貴女は……?」
廊下の暗がりから姿を現したのは、見た目こそ十六、十七歳ほどの華奢な少女だった。
動きやすそうな機能的な服装の上に、薄い上着をラフに羽織っている。
髪は肩より少し長いくらい。灰色よりもさらに色素が薄く、どこか神秘的な輝きを帯びた髪。そしてその瞳は、まるで夏場の澄み渡る湖をそのまま映し出したかのような、深く、美しい色をしていた。
「——貴女……?——ともかく、繰り返すようですが、いかなる理由があろうと規律は規律。どの方が仰られても通すわけには——」
夜勤の魔術師の一人がそう言いかけた時、後方でその少女の姿をじっと凝視していた別の女性魔術師が、何かに気づいたようにハッと息を呑んだ。
慌てて前にいる仲間たちの肩を掴んで耳打ちを始めると、その言葉を聞いた魔術師たちが、みるみるうちに顔面を蒼白にしていき、「な、な、な……!」と声を震わせて狼狽え始めた。
「繰り返すわ。早くそこをどいて、通しなさい。あたしが言っているのよ」
これ以上の無駄な問答に苛立ちを隠しきれない様子で、その少女が冷ややかに告げる。
伝言ゲームのように、前へ前へと彼女の正体が囁かれていき、ついに、先頭でツンと鼻を鳴らしていた女性魔術師のところまでその名が届いた。
「——ですから……な、何よ、その大袈裟な——」
「——静かにしなさい! この御方は——の」
小声でひそひそと囁き合っているため、最初は上手く聞き取れなかった。俺がさらに焦って一歩踏み出したことで、ようやくその会話の内容が鼓膜へと滑り込んできた。
「だから、この御方は《十二勇士》の一人——《星導の審理者》——サーラ・カーティ様ですよ!!」
「なっ——」
絶句したのは、目の前の魔術師たちだけではない。
その《十二勇士》という伝説的な称号を聞いた瞬間、俺自身も驚愕のあまり膝の力が抜けそうになり、背中のレンを落とさないよう必死で体勢を持ち直した。
十二勇士。
それは、単独で魔神を討伐した王国の絶対的な守護者であり、同時に、大臣決議や聖剣決議の承認権すら持つ、多大なる権力と信仰の象徴だ。
一般の騎士や平民がそう簡単に拝める存在ではなく、そのほとんどが滅多に表舞台に出てこない。
普段から王都北部を守る《朔風騎士》シルフィーネ様や、騎士団の規律を正すフリンズ福団長といった例外こそあれど、遭遇する確率など極めて低い、雲の上の存在——
「驚いている暇があるなら、早く道を通しなさいって言ってるの。あたしもルーシャに用があるんだけど。ここを通っちゃ駄目な理由でもあるわけ?」
「め、滅相もございません!!」
先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、女性魔術師たちは一斉に、床に額が擦り切れんばかりの勢いで頭を下げて道を開けた。
サーラ・カーティ様は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、小さな歩幅ながらもスタスタと迷いのない足取りで廊下を進み始めた。
そして、しばらく歩いた後、俺が動けずにいるのを見て、またもや不機嫌そうに振り返った。
「ちょっと」
「は、はい!?」
「有事なんでしょ? 順番を譲ってあげるから、早くしなさい」
「は、はい! ありがとうございます!!」
俺は深く頭を下げて感謝を示そうとしたが、それさえも「早くしろ」と急かすような彼女の手の動きで遮られ、大慌てで彼女の後に続いた。
不幸中の幸い、いや、奇跡とはまさにこのことを言うのだろう。
俺は心の中で、この国が戴く三女神に心からの感謝を捧げた。それだけではない。かつて暗黒から人々を救い導いたという、あらゆる古の女神たちに対しても同様に。
夜はしんしんと更け渡り、廊下の高い窓から見上げる夜空には、満天の星々が、まるで俺たちの行く末を案内するかのように美しく瞬いていた。
◇ ◇ ◇
十二勇士であるサーラ・カーティ様と静まり返った廊下を歩くこと数分。
ようやく重厚な造りをした局長室の扉の前まで辿り着いた俺は、心臓が口から飛び出しそうなほどの緊張と焦りに苛まれていた。
大きく深呼吸をして、意を決してノックをしようとしたその直前。
俺の隣に立っていたサーラ様が、軽く——いや、もっと率直に言うなら極めて雑な手つきで、コン、コン、コン、と三回乱暴に扉をノックした。
しかし、今は深夜。それも事前の面会許可証の手続きを全く経ていない突然の訪問であるためか、いつもならすぐに返ってくる、あの鈴を転がすように美しいルーシャ様の声は返ってこない。
——もしかして、いや、もしかしなくても普通に寝ているよな……。どうする? もう一度、今度は俺が丁寧にノックを——
そこまで考えて、今度は自分がノックをしようと手を伸ばした、まさにその時。
「あ゙ー!! もう! 時間が無いって言っているでしょうがー!! 早く開けなさい!! ミックス妖魔!!」
「——!??!」
——ミックス……妖魔、だと!??
確かに(あまりにも失礼極まりないが)ルーシャ様は妖精とエルフの血を引く長命種の混血——ハーフであるため、ミックス……と言えなくも、ないが——
そんな、普通の状態なら絶対に考えもしないような失礼な思考が頭をよぎる辺り、俺自身の気が相当に動転している証拠だった。
「————入りなさい」
重い扉の向こうから、明らかに怒気を含んだ、けれど低く冷徹な声が入室の許可を告げた。
その声が響いた瞬間、いの一番にサーラ様が扉を押し開けた。それも、小柄な身体からは想像もつかないほどの力一杯の勢いで。
「ルーシャァ!! アンタ! 起きているならさっさと開けなさいよ!! いつまであたしを待たせる気!?」
「相変わらず騒がしいわね。サラ、これでも一応寝起きよ」
「嘘おっしゃい!! 最初から分かっているのよ!!
——……まぁ、いいわ。あたしの用件は後回しにしてあげる」
湧き上がる怒りをなんとか押し止めたサーラ様は、俺と、俺に背負われているレンの姿へ一度冷ややかな視線を投げると、そのままスッと半歩下がって場所を譲ってくれた。
俺は彼女に短く軽く頭を下げると、頼もしい背中の重みを感じながら、魔術師管理局長——ルーシャ様の前に躍り出た。
「——そう。よく持った方ね。鎮痛剤を事前にミカに渡しておいて正解だったわ。彼であれば、いかなる突発的な状況でも適切に対処してくれると思っていたけれど」
ルーシャ様は、ぐったりとしたレンを一瞥すると、執務机の上に置かれていた豪奢な木箱——おそらく、緊急ですぐに使う魔導具や薬液を収納しておくための専用の魔道箱だろう——から、一本の注射器を取り出した。
それは、先ほどミカ様が使ったものとは明らかに異なり、シリンダーの中には淡い緑色の不思議な液体が満たされていた。
「彼の中にある《エーデン》は特別製なの。管理局で少し調べただけでも、従来から出回っているものや、最新型の《エーデン》とも全く成分が違っていたわ」
「え……? それって——」
従来のものとも、そして帝国で猛威を振るっているという最新型とも違う。
その言葉が意味する真実の重さを、今の俺が正確に理解するのには、あまりにも時間が足りなすぎた。
ルーシャ様は淡々と説明を続けながら、レンの細い腕に迷いなく針を通し、注入を始めた。
ゆっくりと、そして静かに、淡緑色の怪しげな液体がレンの身体の中へと吸い込まれるように入っていく。
「彼に投薬されている《エーデン》の処方は、世界で唯一無二ということよ。『彼のためだけに作られた特別製』と言えば、貴方の頭でも理解できるかしら?」
「で、でも……麻薬……《エーデン》は、帝国全体が国を挙げて使用・研究しているものですよね!? それなのに、何でレンだけの特別製だなんて、そんな——」
「……エインズワース」
「エ、エインズワース?」
「………………」
聞き慣れない、けれどどこか胸をざわつかせる奇妙な響きを持った名前に、俺は完全に混乱した。レンには姓がないと言っていたし、今日一日、彼と一緒に過ごしていて「エインズワース」なんて名前は一度も聞いた覚えがない。
「——これで注入は終わりよ。まだ根本的な治療には至らないけれど、私の名に懸けて、必ず治療方法を見つけてみせるわ。今夜はもう、これ以上狂乱する心配はないわ。——下がりなさい」
それは、一切の有無を言わせない絶対的な局長としての声だった。
その「エインズワース」という言葉について、せめてあと少しだけでも尋ねたかったが、彼女の冷たく輝く淡い藤色の瞳を見る限り、これ以上は一文字たりとも答えてはくれないだろう。
——でも、せめて。
「ルーシャ様。ご無礼を承知で、もう一つだけ——」
「黙って。次はあたしの番。順番を変わってあげただけで、あたしを無視するつもり? これ以上を求めるわけ?」
今度は、隣に立つサーラ様の、苛立ちを一切隠そうともしない鋭い声が俺を遮った。俺はそれ以上、喉まで出かかった言葉の続きを紡ぐことができなかった。
静まり返った局長室に、まるで計算されたかのように、今度は外からコンコンコン、と丁寧なノックの音が三回響いた。
ミカ様か、あるいは彼がこの事態を報告しに行ったロディ団長か、はたまたリリアン医務官だろう。
「——どうやら、迎えが来たようね。——入りなさい」
「失礼します。————これは、また随分と大変なことになっていたのね……」
扉を開けて入ってきたのは、リリアン医務官だった。
いつも施しているバッチリとした派手な化粧を完全に落とした彼——いや、彼女の素顔は、驚くほど真剣で理知的な眼差しをしており、背負われているレンの様子を厳しく観察していた。
「リリアン。彼らのことは、後は貴方に任せるわ」
「了解よ♡ さぁ、ラバックちゃん。貴方たちの宿舎へ帰りましょうか♡」
「…………はい」
一瞬、全身にぞわぞわと鳥肌——寒いぼが立ったが、ここでそんな贅沢な感想を言い出せるはずもなく、俺はただ大人しく頷いた。
一礼の後、俺たちは速やかに局長室を退室した。
ルーシャ様は手元の資料に視線を戻し、何かしら深い考えに耽っているようだったし、先ほどまであれほど怒っていた様子のサーラ様も、最後は一言も発することなく俺たちの背中を見送っていた。
局長室を出てすぐの廊下で、リリアンさんは「私が運ぶわ」と言って、レンを背負う役目を自ら買って出てくれた。
正直、深夜の狂乱の対処からここまでの精神的疲労で、俺の肉体も限界に達していたため、その申し出は本当にありがたかった。
「それにしても、びっくりしちゃったわぁ……。私、すっかり夢の中にいたのよ? そしたら突然、飛んできたんだもの」
ヘラクレスのような強靭な背中でレンを軽々と背負ったリリアンさんは、まるで明日の天気予報でも話すかのような気易いトーンで世間話を始めた。——おそらく、極度の緊張状態にあった俺を、彼なりに気遣ってリラックスさせようという配慮なのだろう。
こう見えて、彼は精神科医としても国でトップクラスの名医なのだ。
「な、何が飛んできたんですか?」
「ナイフ♡」
「な、ナイフ!?」
「そ♡ あんな刺激的な起こし方、私の人生でも初めてよ♡ ミカちゃんも、意外と男らしくて過激なところがあるじゃない♡」
「……………………」
あの生真面目なミカ様が、寝ている医務官の部屋にナイフを投げ込んで叩き起こしたというのか。きっと、当の本人はそんなつもりは微塵もなく、ただ「最速で起こすための最も効率的な手段」として投げただけに違いない。
その確率たるや、あのトラブルメーカーのベアトリクス嬢が、一ヶ月間一度も爆発事故を起こさないという奇跡と同じくらい、あり得ないことだった。
「こんな緊迫した状況じゃなかったら、本当に危ないところだったわ♡」
「そ、そうですか……」
そこから、静かな森の宿舎へと戻るまでの道中、俺は冷や汗を流しながら、延々とリリアンさんの濃すぎる恋愛事情(?)を聞かされることになるのだった——。
◇ ◇ ◇
リリアンたちが嵐のように騒がしく退室した後。
局長室に残されたあたしは、ルーシャに頼まれていた特別な解析結果が記された書類を、無造作に彼女の机へと差し出した。
「——ありがとう。助かるわ」
「——別に。興味深い研究内容だから、ちょっと乗ってあげただけよ。——それにしても、エインズワース……ね」
エインズワース。
怨嗟の果てに、禁忌とされる術にまで手を染めた愚か者。
当時のあたしは、彼女と格別に親しかった訳でも、特別な絆があった訳でもない。けれど、以前の彼女は、このような残虐極まりない非道な研究をするような者では決してなかった。
——寧ろ、あいつは。
「彼女は復讐するつもりなのでしょうね」
「復讐?——フン、馬鹿げているわ。そんなくだらないことをして、一体何になるっていうの?……死んだ者が生き返るわけもないでしょうに」
あたしは、己のすぐ目の前にいる、その唯一の例外を見据えたまま、『くだらない』と冷ややかに一掃した。
「……そうね。でも、あの子なら——きっと」
そう呟いたルーシャの淡い藤色の瞳が、何かを激しく後悔するように、きつく閉じられた。
その悲しげな表情が、あたしにとってはたまらなく腹立たしかった。なんで、アンタがそんなふうに悲しむのよ。
「……ねぇ。ルーシャ、アンタならどう思う?」
あたしは、静かに問いかける。
これはきっと、答えのない質言回答だ。どんな言葉が返ってこようとも、どこにも正解など存在しないように思う。
それでも、エインズワースという存在と深い関わりのあるこの女の答えを、今はしっかりと聞いておきたい気分だった。
しばらくの沈黙。それを無言の了承と捉えたあたしは、言葉を続ける。
「Aという種族がBという種族を根絶やしにしたとして、そして、その殺した側の種族——Aが、因果応報として滅びの呪いを受けたと仮定して——その後に生まれる何も知らない者たちにも、背負うべき罪はあると思う?」
「————」
いつもならすぐに返ってくるはずの、聡明な彼女の声がなかった。
世界のすべてを知る知恵者と言われるこの女にも、やはり分からないことがあるのだ。
その揺るぎない事実に、心のどこかでホッと安堵して——同時に、底知れない恐怖を感じていた。
「——その問いの答えを、私は持っていないわ。——でも、そうね」
ルーシャの美しい銀色の髪が、深夜の局長室にすき間風として生じた僅かな風に吹かれて、繊細に揺れる。
「少なくとも、彼らにはその罪の所以を知る権利はあると思うわ。それを償うか、あるいはそうでないかは別として」
「ふぅーん? アンタはそう考えるんだ」
「なら、貴女はどうなの? サラ」
ルーシャが、机のランプの灯りに照らされた瞳で、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
そのあまりに真剣な表情を向けられて、少しからかうつもりだったあたしの加虐心は、一気に冷めてしまった。
「フン、決まってるでしょ。《十二勇士》はこういったくだらない粗末事には関わらないのよ。あたしにはどうでもいいわ」
「それが本心なら、最初からこんな問いかけはしないでしょうに」
あたしはそのからかうような言葉に、何か鋭く反論しようとして——直前で止めた。
全く、あたしらしくない。復讐だの、とうに過ぎ去った過去の事柄になど、本来なら微塵も興味がないはずなのに。
「でも、一つだけあたしから言えるのは、絵本にしてまで告発する必要があったのか、ということよ。だって——絵本は、子供の夢でしょ?」
ルーシャは、また先程と同じように、痛みを堪えるように後悔を湛えて、静かに瞳を閉じるだけだった。
王宮の外では、夜の深い闇を青く照らすように、満天の星が冷たく瞬いていた。
あたしは、ただの傍聴人。
告発人は、過去に囚われた彼女。
そして、白日の下に晒され、裁かれるべき罪。無残に壊された、かつての愛。
——怨嗟の声は、滅びの炎を招き
——滅びの炎は、声の主の悲しい願いを聞き入れて
——結局、誰も救われぬまま、暗い奈落へと堕ちていく。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




