粗末な人形たち 前編
この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨
今回のお話から回想編となります
―――今でもはっきりと思い出せる。
あの、夜の闇の中でしか生きられなかった俺の目が焼かれるような贅沢で、酷く憎たらしくて――だけど、どうしようもないほど暖かかった、あの始まりの朝の光景を。
剥き出しの命が使い捨てられるイルシオン帝国で生きてきた俺にとって、戦場で血を流すことなど決して珍しいことではなかった。
むしろ、それが日常そのものだったのだ。でも、あの夜の敗北だけは、一言で言うと『運が悪かった』としか言いようがない。
王国にわざわざ喧嘩を売りにいった帝国の上層部も馬鹿だし、《不落の巨龍》と吟われる王国の最大戦力に対して、無謀にも剣を向けた俺自身も相当イカれていた。
過剰に投与されていた麻薬が狂わせた全能感のせいだったのか。それとも単純に引くに引けない状況だったからか。はたまた――『この男になら、いっそ殺されてもいい』と、絶望の果てに投げやりになって思ってしまったからなのか。
ともかく、格の違いを見せつけられて無様に捕まった挙げ句、待っていたのは過酷な尋問――いや、あれは拷問と呼ぶべき地獄の時間だった。
精神も肉体も完全に破壊され、最終的に自死を図った俺を、力ずくで救い上げたのは間違いなくあの男だった。
翌朝のことだ。気絶した際に放り込まれたであろう、敗残兵には不釣り合いな部屋の一室のベッドの上で、俺はゆっくりと目を覚ました。
とにかく、差し込んでくる光が眩しかった。身体はまるで重金属の鉛を流し込まれたかのように重たく、神経の隅々は、常用の薬が足りないと激しい拒絶反応を訴えかけている。
窓から入る太陽の光がひたすらに鬱陶しい。普段、夜の闇に紛れて暗殺や隠密の仕事をこなしていた俺にとって、日中の光など視界を遮る邪魔なものでしかなかったし、そもそも日が出ている間は泥のように寝ている事が大半だったのだ。
薬切れの頭痛と眩しさに顔を顰めていると、そこに追い打ちをかけるように、無駄に明るくてよく響く大声が頭の上から降ってきた。
「おはよう! 君が団長の言ってた新入りだね!! 」
「……新入り? 俺がか?」
俺は困惑と警戒を隠さない冷ややかな視線を上げ、声をかけてきた青年の姿を睨み据えた。
癖のある茶髪に、親しみやすそうな琥珀色の瞳。
身なりはかなり良く、漂う雰囲気から予測するに、鼻持ちならない上級貴族ではなさそうだ。しかし、内側から滲み出るなんとなく育ちの良さそうな空気は隠せていない。
そもそも帝国では平民の身なりは決して良くはなく、飢えと汚れに塗れているのが当たり前だ。それに比べて、目の前の青年は生活面において何一つ悪くなさそうだった。
(―――何の苦労もしてなさそうな坊っちゃんだな……)
それが、俺がラバック・アラベルという人間に抱いた、一番最初の率知な感想だった。
俺は敵国からの鼠扱いされない周囲の環境に困惑しながらも、彼から差し出された清潔な――何度も洗濯されて適度に使い古され、身体に馴染んだ――白い訓練着に袖を通した。イルシオン帝国でのボロ布のような軍服とは違い、それは肌を一切刺さない、驚くほど柔らかな布地だった。
(―――かなり良質だ。騎士団という軍事機関とはいえ……平民から税金をかなり過酷に巻き上げてるのか……? )
「そうそう! 団長が『面白い奴を拾ってきた』って朝から大騒ぎしてたぜ。ほら、そんなところでぼーっとしてるとニーナさんに思いっきり怒鳴られるぞ。あの人の説教はさ、帝国の重装歩兵が突撃してくるより遥かに怖いんだから!」
俺が着替えを済ませるや否や、ラバックは誇らしげに得意気に胸を張って、こう言い放ったのだ。
「俺が君の教育係だよ。俺はラバック・アラベル!! よろしく!! 」
自己紹介と共に、当然のように目の前に差し出される右手。元暗殺者である俺は、その無警戒な手のひらの意味が瞬時に理解できず、不信感を露わにしながら小さく首を傾げた。
「これは……なんだ? 」
「え!? 握手だよ……まさか知らないなんてことないよね!? 」
いちいちリアクションが大裟な奴だ。別に『握手』という概念自体を知らないわけではない。
しかし、彼の慌て方を見るに、世間知らずの俺を馬鹿にして嘲笑ったということではないらしい。
「いや、『握手』自体は知ってる。俺が聞きたいのは……何故わざわざ敵国の人間に対して、そんな握手をする意味があるのか、という点だ」
俺の冷淡な問いかけに、ラバックはきょとんとした顔を見せた後、眉を寄せて深く考え込むように『うーん』と腕を組んで悩みだした。
質問したのは此方であり、敵地のただ中で警戒し、悩むべきなのは俺の立場ではないのか。主客転倒なその態度にさらに眉間の皺が深まる。
「えっと、この場合、これから同じ騎士団の仲間になるわけだし……これからよろしく!! 的な……? 」
「……なるほど。互いの利害が一致し、同盟を結ぶに当たっての形式上の挨拶のようなものか」
「ど、同盟……? ―――あ、いや! そんな堅苦しいものじゃなくてさ! 」
ラバックは少しだけ呆れたように苦笑し、差し出していた右手にさらにぎゅっと力を込めると、混じり気のない真っ直ぐな瞳で俺を見つめた。
―――俺たちは同じ『騎士』なんだから。これからは『仲間』だよ。
自分の教育係だと言い放ったラバックに背中を急かされ、レンはまだおぼつかない足取りのまま、導かれるがままに宿舎の外へと連れ出された。
一歩外へ出ると、王国の朝の澄んだ空気が、まだ少し重く濁った頭を心地よく刺激する。
帝国で受けてきた薬物の過剰投与の影響が色濃く残っているせいか、視界の端が霞み、思考は未だに判然としない。
朦朧とする意識の底で、俺は冷徹な現実を反芻していた。本来なら、敵国の工作員であり傭兵である自分は、冷たい地下牢の奥深くに投獄されているか、百歩譲っても厳重な鎖で全身を拘束されているのが普通なのではないか、と。
そんな俺の命に関わる切実な懸念など、前方を上機嫌に鼻歌でも歌い出しそうな調子で歩く青年に伝わる筈もなかった。
右も左も分からない未知の施設を、言われるがままに歩くこと十分程。
途中、ラバックは緊張をほぐそうとしてか「朝飯は何が好きなの?」だの「一晩寝て体は痛まない?」だのといった、どうでもいい質問をいくつも投げかけてきたが、俺はただ不信感を隠さず、最低限の適当な返答だけを返しておいた。
白い石畳の通路をしばらく進むと、突如として目の前に、周囲を圧倒するような巨大な施設が現れた。
巨大な廊下を隔てたすぐ隣には高聳する魔術管理局の豪奢な塔がそびえ立っているが、この騎士団の総本部たる施設はそれとは完全に一線を画している。
決して貴族好みの豪華絢爛というわけではない。
高さ優に三十メートルはあろうかという、堅牢無比な巨岩を切り出して造られた重厚な建物であり、外壁の所々には聖ラウラント王国の気高き紋章と、それを守護する騎士団を表す剣と盾の意匠が深く彫り込まれていた。
建物の前に広がる、数千人は優に収容できるであろう広大な石造りの広場には、朝礼のために既に多くの騎士たちが整列を始めていた。
日の光を浴びて鈍く光る鎧を纏った正規騎士たち、あるいは動きやすそうな軽装備のケープを翻す若手たち。
肩を並べて談笑する者や、既に愛剣を抜いて鋭い風切り音を響かせながら鍛錬を始めている者、そして小部隊と思わしき集団で集まり、何やら真剣な面持ちで話し合っている者たち。
おそらく、今日の哨戒や警備の予定でも確認しているのだろう。
しかし――俺とラバックの二人がその広場に姿を現した、まさにその瞬間だった。
それまで活気に満ち、喧騒が渦巻いていた広場の空気が、一瞬にして「氷結」したかのように水を打って静まり返った。
あまりの急変。数百もの視線が一斉に俺の白い髪と紅い瞳へと突き刺さり、重い金属鎧が擦れる音や、軽装備のケープの布地が風に揺れる音すらピタリと聞こえなくなる程の、異常な静寂がその場を支配する。
ただ、人間の都合など何も知らない小鳥たちが、近くの街路樹の枝で呑気に囀ずる声だけが、静まり返った広場に空々しく響くばかりだった。
ラバックは一瞬、周囲のあまりの拒絶反応に何かを悟ったように足を立ち止まらせた。その琥珀色の瞳にわずかな緊張が走る。
彼は数秒もしない内に、何事もなかったかのように再び力強く前を向いて歩きだした。
(こいつ、正気か……?)と俺は怪訝に思いながらも、変わらず自分の前を進む青年の背中に続いた。
次いで、広場の中央より少し外れた、隅の方へと差し掛かった所で、周囲の騎士たちが声を潜めて交わす、刺々しい会話が俺の耳に届いてきた。
「……おい、あれか。団長が戦場から直々に連れ帰ってきたっていう……」
「イルシオン帝国軍の奴隷傭兵だという話だ……。そんな敵国の兵が、何故騎士団にいる……」
浴びせられるのは、ひりつくような露骨な嫌悪、そして肌を刺すような強い不審の視線。
だが、俺にとって、この皮膚を焦がすような明確な「敵意」は、聞き慣れた――むしろ歪な安心すら覚えるものだった。
戦場において『好意』などという生ぬるいものは存在しない。
寧ろ、帝国の薄汚れた鼠が堂々と王国の騎士団広場を我が物顔で闊歩しても尚、法と規律に縛られて、即座に武器を抜いて斬りかかってこないこの現状のほうが、俺にとっては狂気の沙汰に思えた。
もしこれが帝国ならば、敵国の者が一歩足を踏み入れた瞬間――否、そもそも戦場から生きて戻ることなどなく、良くて拷問室での情報提供のための捕虜、それが妥当な取り扱いだろうに。
だが、周囲の騎士たちが一触即発の重苦しい空気を放つ中で、たった一人、俺の教育係を自称するラバックだけは表情を変えなかった。
それどころか、周囲の視線を「おいおい、お前らそんな睨むなって!」と、いつもの明るい調子で笑い飛ばしている。
他部署や周囲の空気に容易に流されない芯の強さがあるのか、あるいはただの底抜けのお気楽な男なのか、当時の俺にはまだ判別がつかなかった。
切羽詰まった、息の詰まるような重たい空気がなおも広場に流れ続ける。
それと同時に、広場の入り口付近が急にざわざわと騒がしくなり始めた。
それまで冷徹な視線を送っていた騎士たちの所々から、「おはようございます!」という威勢の良い明るい挨拶の声が上がり、快活にその声に応える一人の若い男の声が耳に届いた。
その声の主こそ、《不落の巨龍》——ロディ・グランベルク。
敗北した俺を殺さず、この敵陣のど真ん中、王国の心臓部へと無理やり連れてきた張本人だった。
「皆、揃ったな。今日から我が団の『見習い』として、このレンが加わる。異論がある奴は、後で俺のところに来い。……叩き伏せてやる」
広場全体を震わせるように響き渡ったロディ団長の声は、一見するといつも通りの快活で明るい響きを帯びていた。
しかし、その言葉の底には、一切の反論も拒絶も寄せ付けない絶対的な王者の力が宿っている。
(誰か一人くらいは、表立って異論を唱える奴がいるはずだ)
俺はそう信じて疑わなかったが、どうやらその予測は早々に外れてしまったらしい。
当然、だからといって『はい、そうですか』と全員が笑顔で納得するほど、この騎士団は甘い組織ではなかった。
団長のあまりにも強引極まる紹介に対し、整列していた何百人もの騎士たちの間に、地鳴りのような低いざわめきが波紋のように広がっていく。
ある者は納得がいかないというように露骨に不快そうに顔を顰め、ある者は憎悪を剥き出しにしてレンの白い髪を睨みつけ、またある者は怒りの声を上げる寸前で、隣の仲間と思わしき堅実な騎士から「よせ、団長が本気だ」と肩を掴まれて制止されていた。
元より、歓迎されるなどとは微塵も思っていない。
寧ろ、敵国の戦闘員を目の前にしてこの程度のざわめきで済むのか……というのが、当時のレンが抱いた率直な心境であった。
周囲の張り詰めた空気を全く気にした様子もなく、ロディがいつもの不敵な笑みを浮かべて再び口を開こうとした、その刹那だった。
広場の入り口の方から、それまでの喧騒を力ずくでねじ伏せるような、さらに冷徹で鋭い声が響き渡った。
見れば、重装の鎧に身を包んだ護衛と思わしき数名の精鋭たちが、周囲を厳重に取り囲むようにして一人の人物を完全に守りながら歩いてくる。
その仰々しい陣形と中央に立つ男の佇まいから、彼がこの王国の極めて高い地位にある重鎮であることは、火を見るよりも明らかであった。
(―――ここであの重鎮を殺せば、帝国にとっての利益になるか―――)
薬物の過剰投入によって正常な思考を奪われた脳裏を、狂気じみた反射的な殺意が支配する。
しかし、現在の俺の手元には残念ながら一本の剣もなければ、暗殺用の鋭利な刃物すら一切ない。
なら、素手で飛びかかって首を締め落とすか、力任せの暴力で……という獰猛な考えが一瞬だけ脳裏を過ったが、相手の護衛たちは隙なく武装を固めており、非武装のうえに尋問の傷が癒えず、体力も殆ど残っていない今の自分が無謀に突っ込んだところで、無残に首を跳ね落とされるのがオチだろうとすぐに気付いた。
「——待ちなさい、ロディ・グランベルク団長閣下殿。その越権行為、これ以上看過できませんな」
突然の声が広大な広場に響いた。
護衛を従え、威風堂々と騎士団長の前に立ちはだかった男がいた。如何にも神経質そうで真面目そうな一人の男だった。
几帳面そうにかけた眼鏡の奥から鋭い光を放ち、見るからに高価そうな上質の官服を纏っている。
腰には護身用と思われる装飾の施された剣を吊るし、その胸元にはやはり国の重鎮――軍事のトップを示すであろう、特別な校章が鈍く輝いていた。
「朝礼中の我が騎士団に、事前の連絡も入れずに訪問するという意味が分かっていないとは仰られまい? ―――フォーツルト軍務大臣殿」
ロディは悪びれる様子もなく、むしろ挑発するような薄笑いを浮かべて大臣の名を呼んだ。
向けられた団長の凄まじい威圧感に、フォーツルトは一瞬だけ気圧されたように身を固くしたが、流石は一国の軍事・国防を一身に預かる最高責任者だけはあるらしく、すぐに冷静さを取り戻すと、小さいため息と共に洗練された手の動きで周囲の部下たちを下がらせた。
「突然の来訪はお詫びいたします。……しかし団長閣下殿。いくら貴方の独断による決定と言えども、私は我が聖ラウラント騎士団に、敵国イルシオンの兵を迎え入れるなど……認めたつもりはありませんな」
真っ向から対立する、王国の矛と、国防の盾。
俺は、自分を拾い上げたロディという絶対的な後ろ盾のすぐ後ろにいながらにして、今まさに自分に向けられている「正論という名の排除」を、冷めた目で真っ正面から目の当たりにしていた。
(―――当然だ。王国にも、まともな思考の人間がいたか)
ここで自分が認められず、このまま地下牢へ連行されて死んでも、あるいはスパイとしてその場で処刑されたとしても文句は言えまい。
本来ならあの夜、あの国境沿いの冷たい戦場で、自分はすでに冷たくなり、物言わぬ骸に成り果てていたはずの命なのだから。
フォーツルト軍務大臣は、その神経質そうな指先でかけている眼鏡のブリッジをくいと押し上げ、男の姿をまるで獲物を狙う蛇のように冷酷に見据えた。
それは、明らかな「敵」を見る目だった。繰り返すが、一国の防衛と安全保障を一身に預かる最高責任者であれば、これこそが当然の思考であり、極めてまっとうな判断である。
(……帝国にも、彼のような有能で、国のために私情を挟まず職務を全うする官僚がいれば、少しはマシだったのにな)
そんな益体のない思考が、頭を過る。
「我が国の治安は、厳格な法と秩序によってこそ守られている。薬物で理性を失い、王国の騎士に刃を向けた帝国軍の狂犬を、そのまま野に放つなど言語道断! 拷問官の報告によれば、彼は自決を図るほどに精神が不安定だ。そのような危険分子を、我が国の騎士団に置くという根拠を、論理的に説明していただきたい!」
一気に捲し立てられる、非の打ち所がない正論。
その言葉の重みに、周囲に整列していた騎士たちも、直接行動に移すことこそしなかったものの、誰もが納得したように深く同意の視線を俺へと向けた。
(―――この男、やはり大臣を名乗るだけはある。どうすれば民衆が自分の味方になり、周囲の空気を支配できるかを完全に理解しているな)
そんな周囲の厳しい同調圧力を浴びながらも、騎士団長は、鬱陶しそうに頭の薄いブロンドの髪をガリガリと掻きながら一歩前へと踏み出した。
周りの騎士たちが大臣の意見に賛同していることを完全に理解した上で、それでもなお、この男は一歩も引く気がないのだろう。
ロディの恵まれた体躯から放たれる威圧感は、対峙するフォーツルト大臣を見下ろすような体勢となり、静かに、だが確実に、軍務大臣へと無言のプレッシャーを与えていた。
「根拠、ねぇ。……理屈じゃねぇんだよ。俺が、こいつの『目』を信じると言っている。それが理由だ。それに、こいつは『自決を図った』んじゃない。俺がそれを『止めさせた』んだ。死ぬよりも困難な、生きて自分を証明する道をな」
「そのような精神論は聞き飽きました! 団長閣下、貴殿がそこまで言い張り、全責任を取ると仰るなら――もし万が一、この者が我が王国民に危害を加えた場合、貴殿は爵位を返上し、騎士団長の座を降りる覚悟があるのですな!?」
広場が、今度こそ完全に水を打ったように静まり返った。
重すぎる罰則、退路を断つ要求。しかし、当の本人はその事の重大さを理解していないはずがないであろうに、特に慌てた様子も見せず、いつも通りの不敵な笑みを浮かべたままだ。
大臣の追及を単なるハッタリだと思っているのか――はたまた、何か別の絶対的な意志があるのか。
静寂の中、フォーツルト大臣の連れてきた部下たちでさえ、『騎士団長の座を降りる』という言葉の重みに顔を唖然とさせていた。
この聖ラウラント王国の騎士団長というのは、長年変わらず同じ人物――ロディが務めている。
その不動の頂点が変わる時が来るなど、この広場にいる誰も予測していなかったし、考えたことすら持たなかったからだ。
現在、騎士団は三分の一が北国へ遠征に行っており、国内の守備戦力が多少なりとも減っている状況でもある。
だからこそフォーツルト大臣は警戒心を極限まで高めており、いくらロディ以外に団長を任せられる存在がいないと理解していても、その覚悟の程を問わずにはいられなかったのだ。
「(うわ、出たよフォーツルト殿の必殺技……。団長、いくらなんでもそれは……)」
ラバックが額から滝のような冷や汗を流しながら、不安そうに俺の様子を伺う。
だが、俺は虚無を湛えた紅い瞳で、朝日に照らされた自分の足元の影をじっと見つめていた。
(―――何も疑問を抱かない。抱けるはずもない)
そもそも、あの傲岸不遜な男が騎士団長の座を本当に降りるわけがないのだ。たかが拾ってきた帝国の鼠一匹を、本気で庇うはずがない。
どうせ、その場を乗り切るための綺麗事かハッタリだ。帝国にいた頃、権力者たちが並べるそんな口先だけの甘言は、嫌というほど経験し、見てきた。
「……別に、慣れてる。……期待されるより、こうやってゴミを見るような目で見られる方が、よっぽど分かりやすい」
ぽつりとこぼれ落ちた俺の呟きは、隣に立つラバックにしか聞こえないほどに小さく、乾いていた。
帝国では、上からの決定に対する反論など何一つ許されなかった。
納得など求めてはいけなかった。
誰もが我が身可愛さに行動し、利害が一致した場合のみ手を取り合い、都合が悪くなれば息を吸うように簡単に裏切られる。
そしてその裏切り行為に対して、恨みを抱くことすらない。裏切られた側が、ただ単に力不足だったから起こった――それだけの話なのだから。
自分のような存在は、ただ使い捨ての「利用価値」がなくなれば、その瞬間にゴミのように排除される。それが、この理不尽な世界の絶対的なルールだ。
絶望の泥濘に沈みかけていた、その時。
「……あら、随分と威勢がいいわね。フォーツルト殿」
聞いたこともない、だが冷徹でありながら酷く甘美な響きを持つ女の声が、広場全体に凛と響き渡った。
決して張り上げられた大声ではない。しかしその声は、耳を介さず直接脳内に心地よい冷たさを持って響くような――恐らく、極めて高度な精神魔術の類いによるものだと思われた。
「『軍務大臣』を自称するなら、もう少し知識をアップデートしてはいかが? この子の体内にある薬物の解析は、魔術師管理局長である私が担当しているわ。現在、彼は私の監視下にある。法的に言えば『重要参考人の保護』にあたるはずよ。それを武力で連れ出そうというなら、それは私の研究に対する『妨害』と見なしていいのかしら?」
広場に響いたのは、凛とした、それでいてどこか冷涼な女の声だった。
人混みを割って現れたのは、透き通るような銀色の髪をたなびかせ、淡い藤色の瞳で冷ややかに広場を見渡す一人の女性。
見た目は二十代にも届いていないように見える。
彼女の纏う空気は、この世の理をすべて見通しているかのような、気が遠くなるほどの歳月を生きてきた先達者のそれだった。
新たな重鎮の到来に、広場は再びざわめきに包まれる。
隣のラバックも完全に驚愕し、口をあんぐりと開けたまま、思わず声を漏らす程である。
「(ルーシャ様だ……普段は執務室か工房から出てこないって話なのに……)」
(―――どうやら、この女も重鎮らしいな)
次から次へと現れる王国の権力者たち。帝国の鼠一匹の処理、しかもただの捨て駒に過ぎない俺のような存在に対し、なぜこれほどまでに騒ぎ立てる必要があるのか。
俺がこのまま切り刻まれて死ぬかもしれないという状況にあっても、俺の心は驚くほど冷めきっており、どこか他人事のようにその光景を眺めていた。
「……ルナリス殿……。貴女までそんな屁理屈を……!」
「―――だそうだぞ、フォーツルト殿?」
魔術師監理局局長の到来を既に予期出来ていたのか。騎士団長は驚きを覚えた様子もなく、かといって慢心した様子もなく、淡々と軍務大臣を見据えた。
「そういうことよ。この件は、プトレお爺様の耳にも入っているの」
「―――……何故、そこまで……」
プトレマイオス枢機卿の名前が出た瞬間、フォーツルト大臣は言葉を失った。いくら軍務大臣といえど、相手が悪すぎる。
枢機卿といえば王国の頭脳であり、永年を生きる《妖精》の賢者。彼が関わっているとなれば、軽々しく手出しはできない。
「更に言えば、これは《十二勇士》の方々の耳にも届いているわ。これ以上、妙な騒ぎを起こさないことね」
「なっ!?《十二勇士》……!? まさか……あり得ません。ルナリス殿、幾らなんでも嘘はいけません。あの方々がこのような雑事に関わることなど……!」
王国の守護者たる《十二勇士》の名が出た事で、広場の騒ぎは最高潮に達した。
隣のラバックに至っては、もはや思考停止したのか、白目を剥いて硬直している。しかし、なぜか倒れはしないという摩訶不思議な状態だ。
この国には、衝撃で卒倒しない奇妙な国民性でもあるのだろうか。
「あら、私が嘘を吐いているというの? 心外だわ」
「普通に嘘吐く時あるけどな」
ボソッと呟いた騎士団長の言葉が、静まり返った広場に妙に大きく落ちた。
その瞬間だった。騎士団長の足元から――いや、周囲の空間から、凍土のような冷たい風が猛烈な勢いで巻き起こった。
常人であれば即座に心臓が止まりかねないほどの、絶対零度の冷気。だが、騎士団長はこの男、ただ「ちょっと寒いな」と肩を竦めるだけで済ませている。
(―――正気か!?いや……化け物だな、あの団長……)
「あ、やべ」
「その真意については、後でしっかり聞いてあげるわ」
「いや……俺は場を和ませようと……」
その光景を見ていた騎士たちの間で、緊張が解けたのか、堪えきれない失笑が漏れた。
普段は厳格極まりない魔術師管理局長がおふざけ――ただし、一歩間違えれば常人が即死するレベルの魔術――を披露したのだから。
「ええい、笑うな! 秩序を乱すなと言っているのだ! ……レンと言ったか。貴殿に告ぐ。我々軍務部は貴殿を一時も休まず監視する。少しでも不審な動きを見せれば、その首、即座に跳ねると思え」
そう吐き捨てると、フォーツルト大臣は無様に踵を返し、足早に去っていった。続く護衛の武官たちも、一瞬だけ俺を一瞥し、不愉快なものをみる目で大臣を取り囲んで消えていく。
大臣たちが去った後、広場には奇妙な弛緩と、依然として根強く残る「新入りへの疑念」が混ざり合い、重苦しい空気が漂っていた。
(……なんだよ、この国。一体どうなってんだ)
俺はただ、深い溜め息を心の中で吐くことしかできなかった。
あのピリピリとした緊迫した朝礼の後、何やらよく分からない『騎士団唱和五箇条』という儀式が始まった。
戸惑う暇もなく、隣のラバックが必死に小突いて急かしてくるので、俺は意味も分からぬまま周囲の真似をして口先だけで唱和を合わせた。だが、地獄の本番はその直後だった。
「よし、朝礼終わり! 規定通り外周、三十周だ! 散開!」
団長の一言で始まった、地獄の持久走。
帝国での過酷な拷問と薬物漬けの訓練を耐え抜いてきた俺は、基礎的な体力や忍耐力に関してはある程度、常人以上の自信を持っていた。
生半可な訓練なら顔色一つ変えずにこなせるはずだ、と。
しかしその目算は早々に、そして無残に打ち砕かれる。
(おかしい……この国は、朝から何をやらせているんだ……!?)
聖ラウラント騎士団本部の広場は、優に数千人を収容するだけの規格外の広さがある。その外周の一周は、帝国の一訓練所の敷地とは比べ物にならないほどに長い。
それを三十周。ただの長距離走の域を完全に逸脱している。
さらに俺の僅かなプライドを木端微塵に砕いたのは、その最中の光景だった。
金属を最低限に抑えた、漆黒の軽量装備と風にたなびく美しいケープを纏った一団が、まるで黒い疾風のように、恐るべき速度でレンの横を駆け抜けていったのだ。
「―――失礼」
風の音と共に、何度も、何度も、あっさりと背後から追い抜かれる。
驚くべきことに、その黒い集団の中には、どう見ても自分より年下――十五、六歳ほどに見える少年や少女、果ては子供のような幼い顔立ちの者まで混ざっていた。
帝国でも使い捨ての子供の兵など珍しくもなかったが、これほど恵まれた環境で、これほど無駄のない、風と同化するような洗練された身のこなしの子供たちに、文字通り『一瞬で置き去りにされる』という経験は、俺の胸に冷たい敗北感を植え付けるに十分だった。
息を狂おしく切らし、膝をガクガクと震わせながらどうにか三十周を走り終えた頃には、太陽はすっかり昇り、すきっ腹が悲鳴を上げていた。
◇ ◇ ◇
聖ラウラント王国・騎士団専用食堂。
三十周を並走し終えても「いやー、いい汗かいたな!」と涼しい顔をしている化け物に半ば引きずられるようにして連れてこられたのは、騎士団の専用食堂だった。
一歩足を踏み入れた瞬間、香ばしく豊かな焼きたてのパンの香りと、大釜から立ち上るハーブと肉の濃厚なスープの湯気が、鼻腔を容赦なく貫いた。
それ以上に俺を驚愕させたのは、その場にいる騎士たちの有り様だった。
「おい! 押すな! 俺が先だ!」
「ふざけんな、昨日お前ステーキの肉を二個多く持ってったろ! 今日は俺の番だ!」
「どけどけー! 飢え死にするぞ!」
さっきまで朝礼で冷徹な視線を俺に送っていたはずの、凛とした鎧姿の騎士たちが、まるで食糧を奪い合う野良犬のように必死な形相で押し合いへし合い、我を忘れて列を作っているのだ。
戦場のような静寂とは無縁の、あまりにも騒がしく、そして泥臭くもどこか温かい、奇妙な活気がそこに広がっていた。
「ほら、レン! ここが俺たちの命の源、騎士団専用食堂だ! 今日は当たりだぜ、ニーナさん監修の特製ポトフだ!」
ラバックに急かされるまま、俺は震える手で木製のトレイを受け取り、なんとか列に並んだ。
配膳台の奥では、三角巾を被った数名の配膳係のおばちゃんたちが、巨大な木製のレードルを器用に扱いながら、スープやパンを手際よくトレイに乗せていく。
「はい、ラバ。今日もたくさん走り回ったねぇ、お疲れさん!」
「ありがとう! おばちゃん!」
「相変わらず元気ねぇ。……おや、そっちの子は見ない顔だけど……もしかして、新人さん?」
配膳係のおばちゃんの手が止まり、少し青白い顔を覗き込んできた。俺は反射的に身を硬くし、敵意を警戒して視線を落とした。
だが、おばちゃんの顔に浮かんだのは、冷酷な排除の目ではなく、ただただ純粋な心配の念だった。
「まあまあ、顔色が真っ白じゃないの。しっかり食べなさいね! 元気がないわよ!」
「あ……俺は……」
――こんな風に、無償の親しみを持って、人に優しく声をかけられたことなど、いつ以来だろうか。
帝国では、言葉をかけられる時は常に「命令」か「罵倒」か「品定め」のどれかだった。
どう反応すれば正しいのかが分からず、声に詰まり、視線を彷徨わせる。
隣のラバックは、俺の困惑を察したのか、それとも単にいつもの調子なのか、肩をポンと明るく叩いておばちゃんに応じた。
「こいつ新人なんだ! ちょっと訳ありでさ、色々あったみたいなんだ! でも、すっごく良い奴だから!」
(……こんな短期間で、俺の何が『良い奴』だ。勝手なことを言うな……)
当然、そんな反論を口にする余裕など今の自分にはない。ただ、長居して余計な詮索をされるのを避けるため、とりあえず小さく頷くことで、この温かすぎる場所から一刻も早く離脱しようと模索する。
「そうなの! これからよろしくねぇ。可愛い子じゃないの!」
「本当ね。皆、この子くらい大人しくてお行儀が良かったら、配膳の時に飢えた野良犬みたいに突撃してこなくて済むんだけどねぇ……」
おばちゃんたちの呆れたような、それでいて愛着の篭った言葉。
それに対して、ラバックだけは一転してスッと真面目な顔になり、声色を落としてこう呟いた。
「……それは無理。あいつら飯のことになると理性を失うから」
おばちゃんから渡された器の中には、大鍋から注がれたばかりの、黄金色のスープがなみなみと湛えられていた。
じっくりと煮込まれて角の丸くなった人参やじゃがいも、そして、これでもかとゴロゴロ入った分厚い肉。さらには、表面がパリッと黄金色に焼けた、ほかほかの白いパン。
(……これが、ただの『見習い』の食事……? 嘘だろ……?帝国の将校だって、ここまでのものは食べていないぞ……)
スープは持っているだけで手のひらに熱が伝わるほど温かく、何より朝食から肉が出るなど、帝国の奴隷傭兵にとっては建国記念の祝祭レベルの贅沢だ。
パンも、いつも噛みちぎっていた、泥の混じった石のように冷たく硬い粗悪品ではない。
これを、一般兵が、それも朝から日常的に食べているというのか。
俺の脳内は、処理しきれない疑問で一杯になっていた。
確かに聖ラウラント王国は恵まれた大地で農業も盛んだと聞くが、それにしても一般の騎士にこれほど贅沢な食事を提供する資金は、一体どこから出ているのか。
これほど豊かな生活水準を維持できる王国の財政とは、一体どれほど底が知れないのか――
「ほら、こっちだ!」
ラバックに促され、食堂の隅にある、少し外れた窓際の席へと向かい合わせに座った。
周りの騎士たちは、相変わらず俺を遠巻きに眺めたり、スパイではないかとヒソヒソと噂話を囁き合っている。
目の前の食事が放つ圧倒的な「幸福な匂い」が、そんな雑音を全て掻き消すように、完全に空っぽだった胃袋を激しく刺激した。
「何ぼーっとしてるんだよ。早く食わないと冷めるぞ! ほら、このパンをスープに浸して食うのが最高なんだ。やってみろよ!」
ラバックが自身のパンをちぎり、ポトフに浸して美味そうに頬張る。
俺は言われるがまま、極度の疲労と緊張でわずかに震える指先で白いパンを小さく千切り、温かいスープにそっと浸した。そして、恐る恐る口へと運ぶ。
「――っ!?」
刹那、脳天を激しい衝撃が貫いた。
舌の上でとろけるような野菜の圧倒的な甘み。噛みしめるたびに溢れ出す、肉の濃厚な旨み。
これまでの過酷な薬物の過剰投与の副作用により、味覚さえも半分麻痺していたはずの俺の脳に、純粋な『美味さ』という感情が暴力的なまでの鮮烈さで叩き込まれたのだ。
こんな食べ物、生まれてから一度も食べたことがない。
(使っている食材が異常なほど上質なのか。……いや、それとも、身体に影響を与えるための妙な精神魔術でもかけられているのか……?)
王国は魔術において他国を圧倒していると聞く。食事に薬物や魔術的な依存成分を混ぜて、捕虜である自分を懐柔し、身体を縛ろうとしているのではないか。
驚愕と猜疑心の入り混じった目でスプーンを見つめていると、ラバックが嬉しそうに顔を覗き込んできた。
「旨いだろ?」
「…………旨い」
「だろ!? ニーナさんは普段は地獄の鬼より厳しいけど、飯の質にだけは一切妥協しないんだ。あ、でも、皿を汚したままにしたり、一口でも残したりすると、後でマジで消されるから気をつけろよ?」
ラバックのその無邪気な言葉と、身体の芯からじわじわと染み渡るあまりの美味しさに、脳内に渦巻いていた「魔術による懐柔」などという邪険な推測は、あっさりと泡のように消えていった。
気づけば、俺は一心不乱にスプーンを動かしていた。
帝国でいつも口にしていた、砂の混じった黒パンのような、毒の味もしない。
生ゴミを煮詰めたような、泥の味もしない。
ただひたすらに、温かく、滋味深く――自分が今、確かに「生きている」ということを実感させる味がした。
帝国では、食事など一番無防備になる瞬間だ。背後から刺されないよう、周囲を睨みつけながら、数分、数秒で胃に流し込まねばならなかった。
しかし、この国は、どうやら全く違うようだった。
スープを喉に流し込みながら、ただ、この不思議で贅沢な空間に圧倒されることしかできなかった。
温かいポトフのあまりの美味さに、俺がしばし我を忘れ、狂ったようにスプーンを動かしていた――まさにその瞬間だった。
食堂前の廊下から、ガタガタッ!! という、何やら巨大な物体が猛烈な勢いでこちらへ直進してくる不穏な騒音が聞こえてきた。
まるで、鉄の塊が制御を失って暴走しているかのような地響き。
『ケンキュウ! セイコウ! マドフキ! カイヒ!』
「な、なんだ……?」
「おいおい……嘘だろ、まさか……」
咀嚼を止め、怪訝そうに眉をひそめる俺に対し、ラバックは何事かを瞬時に悟ったように、あからさまに嫌そうな顔をして頬を引きつらせていた。
次いで、ドタバタとしたけたたましい騒音が扉のすぐ裏まで迫ったかと思うと――
ガタン!! バタン!!
食堂の頑丈な木製の両開き扉が、まるで大砲でも撃ち込まれたかのように壮大に、そして乱暴に跳ね開けられた。
『ケンキュウ! セイコウ! マドフキ! カイヒ!』
「―――は?」
「あー……やっぱりな……」
扉の向こうから這い出てきたのは、くすんだ灰色の魔道石で精巧に造られた、体長二メートルはある巨大なゴーレムだった。
そのおぞましい巨体に反して、驚くべきことに、その顔パーツは妙にデフォルメされていて愛くるしい。おまけに、なぜか不釣り合い極まるフリフリの白いエプロンをこれ見よがしに着用していた。
ラバックは「終わった」と言わんばかりに両手で頭を抱え、絶望の声を漏らしている。
つい先ほどまで我先にと飯に群がり、騒がしく談笑していた周囲の騎士たちも、ピタリと手を止めて一斉に沈黙。
まるで打ち合わせでもしていたかのように、全員が一律で冷めきった死んだ魚のような目を扉のゴーレムへと向けていた。
一体、何が起こっているのか全く理解が追いつかない。状況を把握しているであろうラバックに、その意味を問い質そうとしたその刹那。
「―――レムゴン!! アンタ何勝手に動き回ってるのよ!!」
爆風を纏うように、鮮やかな紅い髪を激しく揺らしながら、一人の若い女が食堂へと怒鳴り込んできた。
深緑の魔術魔道ローブを翻し、自信に満ち溢れた勝ち気な声。そのローブの襟元からは、王宮内でのそれなりの役職と高い地位を示す特別な校章が見え隠れしている。だが――
「総員!! 受け身を取れ!!」
食堂中を少し幼い、しかし鼓膜をピリピリと震わせるほど冷徹で鋭い少年の声が駆け抜けた。
目に飛び込んできたのは、到底信じがたい奇行の嵐だった。
驚くべきことに、その少年の声が響くや否や、さっきまで飯を食っていた騎士たちが一斉に、淀みない俊敏な動きで床へ滑り込み、完璧な受け身を取り始めたのだ。
ある者は皿を持ったまま器用に床を転がり、ある者は持っていたパンを素早く口の中に放り込みながら滑り込み、またある者は受け身というよりは、机の下の死角へと電光石火の速さで身を隠し――
(―――異常者の集まりか? なんだこれは。ここは本当に、あの大陸最強と謳われる騎士団の食堂なのか……!?)
薬物で狂わされた帝国の戦場や、暗殺者たちの飯場でも、こんな不条理極まる行動は見たことがない。
状況から考えて、敵襲や襲撃ということでもなさそうだが――
「レン!! 早く受け身を取れ!!」
「は……? なんだよ、これ……」
「いいから!! 死にたくないだろ!? 物理的にも、精神的にも!!」
「だから! 意味が分からんと言っているだろ!!」
パニック寸前のラバックに半強制的に襟元を引っ張られ、俺は床へと引きずり下ろされる形で受け身を取らされた。
床に組み伏せられ、そのあまりにも不条理で異常な光景に完全に言葉を失っていると、そのわずか数秒の間に。
――それは、起きた
「もう! なんなのよ……毎回失礼しちゃうわ……あ、あれ……?」
『ケンキュウ! セイコウ! マドフキ! カイヒ!』
――ポロリ。
紅い髪の女が、焦った様子でおもむろに己のポケットの中を確認したその瞬間。
『レムゴン』と呼ばれたゴーレムのフリフリのエプロンの隙間から、怪しく発光する一個の魔道宝石が、床へと滑り落ちた。
そして。
―――ドゴォン!!!!!!!!
鼓膜が破裂するかと思うほどの、凄まじい爆発音が食堂内に炸裂した。
凄まじい衝撃波と熱風が吹き荒れ、その余波で食堂の窓硝子が何枚も一斉に割れて飛び散る甲高き音が響く。
天井や壁からパラパラと剥がれ落ちた塗装の粉や石膏の破片が、床一面に、そして騎士たちの頭や、せっかくの温かいスープの上へと無情に降り注いだ。
煤煙が立ち込める食堂内に、重苦しく、そして冷ややかな沈黙が満ちていく。
そして、その重い沈黙を切り裂いたのは、やはり先ほどの少年の冷徹な声だった。
『ケンキュウ……セイコウ……マドフキ……カイヒ……』
「研究は失敗ですし、窓拭きは回避出来ません―――何度同じ爆発事故を起こせば気が済むのですか? ……ベアトリクス様」
「あ、はは……今のは、その、不可抗力というものでして……」
煤煙の向こうから姿を現したのは、黒髪に栗色の瞳を持った、中性的な顔立ちの少年騎士だった。
少年は煤けて使い物にならなくなったポトフの鍋を、殺意の籠もった冷ややかな瞳で見つめながら、紅い髪の女――ベアトリクスを糾弾する。その声は、普段の丁寧な物腰からは想像もつかないほど、低く、ドスの利いた怒気に満ちていた。
「そもそも、自作の欠陥ゴーレムを王宮内で勝手に放し飼いにしないでください。万が一、使用人の方々や官僚の皆様に怪我でもさせたら、どう責任を取るおつもりですか?」
「すみません……」
『ケンキュウ! セイコウ! マド―――』
「黙りなさい。木偶」
「………」
少年が冷たく言い放つと同時に、ゴーレムは完全に沈黙し、床へとうなだれた。
「酷いわ! ミカ! この子にだって、一生懸命お手伝いしようとする可愛い心があるのよ!?」
「周囲の状況判断も安全管理も出来ない欠陥品を、僕は『心がある』とは認めません。叩き壊して瓦礫の山に還されたくなければ、さっさとそのガラクタを回収して工房へ引っ込んでください」
「ひっでぇ……今日のミカ様、いつも以上に言葉のナイフが鋭いな。相当ストレス溜まってるぞ、これ……」
ラバックが床に伏せたまま、ガタガタと震えながら小声で呟く。
現在、王都北部を護る偵察部隊副隊長シルフィーネは長期の任務で不在。おまけに同僚のクリスハイトも単独遠征で不在の真っ最中。
残された膨大な事務処理と偵察任務の全責任が、この小柄な隊長の肩に一気にのしかかっているのだ。
普段ならお菓子作りなどで発散するはずのストレスも限界を突破しており、そこへこのベアトリクスの爆発事故が重なったのだから、その怒りはまさに頂点に達していた。
俺は煤煙と割れた窓硝子、そして台無しになった食堂の惨劇のただ中で、床に伏せたまま、未だに事態への理解が全く及ばずにいた。
(飯を食っていたら、突然ゴーレムが乱入してきて、当たり前のように爆発した……? この国は、一体どうなっているんだ……)
爆発の余波による耳鳴りがようやく収まり、周囲の騎士たちが「やれやれ」と煤を払いながらのっそりと身を起こし始めた。
帝国はおろか、大陸のどこの国でも起こり得ないであろうカオスな状況に、ただただ絶句している間のことだ。
先ほど冷徹な声を響かせた少年――ミカと呼ばれた小柄な騎士は、鋭い視線を周囲に走らせた後、真っ先に配膳を担当していたおばちゃんたちの元へと駆け寄っていた。
「お怪我はありませんか、マダム」
「えぇ……大丈夫。いつもの事だもの。慣れっこよ」
「は?」
おばちゃんのあまりに逞し過ぎる返答に、俺の口から思わず素っ頓狂な疑問が漏れ出る。
食堂の爆発が日常茶飯事とは、この国の一般市民は一体どういう生存競争を勝ち抜いてきているのだ。
「それにしてもミカちゃん。ちょっと顔色が悪いわよ、疲れてない? シルフィちゃんもクリスちゃんも遠征でいないんでしょ?」
「……今日で三日目です」
(―――なんだ、二人が不在になってからまだ三日目なのか。案外メンタルが弱いのか、この隊長は……)
そんな風に侮るような思考を巡らせた、まさにその瞬間。隣で伏せていたラバックが、神妙な面持ちで胸元に聖印の十字を切りながら、悲壮感たっぷりに呟いたのだ。
「徹夜三日目なのか……遠征軍は……無理だとして、せめてクリス様だけでも早く帰ってきてくれないかな……《銀狼の館》でもあんな大事件があったばかりだし……」
(徹夜、三日目……?)
内心で己の認識を即座に改めた。
三日間一睡もしていない人間が、どうしてこれほど理路整然と動き、指示を飛ばし、他者を叱責できるというのか。
更に言うなら今朝の理不尽な外周走で、凄まじい風のような速さで俺を置き去りにしていった先頭集団を率いていたのも、間違いなく彼だったのだ。
「やっぱりミカ様、相当お疲れだよな……」
「あぁ、北国への遠征軍が王都を出発してから、もう三ヶ月だろ? 福隊長であるシルフィーネ様の仕事も全部回ってきてるからな」
「それだけじゃないぞ。四日前の深夜なんて、頭に女物の下着を被った変態が『俺はホモじゃなーい♪』って大声で歌いながら、深夜の宿舎の廊下を全力疾走していたらしい……」
「最悪だな……。ミカ様、その日から一睡もせずに徹夜だろ? 末恐ろしい執念だ……」
ヒソヒソと交わされる、あり得ない会話。
聞こえてくる言葉のすべてを疑う暇すらなく、再び脳内が真っ白に絶句した。
帝国は兵士を従順に狂わせるための薬物を投与していたが、この国はそれとは比にならないほど、国全体に何か狂気をもたらす新型の薬物でも蔓延しているんじゃないか。
深夜の宿舎で、なぜそんな怪生物が発生するのだ。
そんな外野の困惑など意に介さず、ミカは冷淡な瞳を目の前の紅髪の令嬢へと固定したままでいた。
「―――ベアトリクス様」
「は、はいっ!」
「この件は、ただちに魔術師管理局長に報告いたします」
「そんなっ!!? それだけは!! 勘弁してミカ! この間の爆発の件で、ルーシャ様を激怒させたばかりなのに!!?」
「知りません。ご自分のしでかした不始末です、しっかり頭を冷やして反省してください」
「この悪魔! 妖魔! 天才!!」
「僕は今、不祥事についての報告書を、ただでさえ山積みになっている仕事に加えて新規作成し、更に上層部へ上げなければいけないんです。……貴女が『今』『この瞬間に』『引き起こした』『重大な事件について』」
「す、すみません……っ」
ミカが『今』『この瞬間に』『起こした』『事件について』の一語一語に、凍てつくような殺意と凄まじい言葉の力を込めて強調する。
ベアトリクスは必死に不満そうな顔で反論を試みたものの、ミカのあまりの迫力と氷点下の正論の前に完全に一刀両断され、最終的にはベソベソと泣きながら、レムゴンと共に食堂の煤の掃き掃除を手伝わされる羽目になった。
その涙ぐましい罰則の様子を、食堂の騎士たちは冷ややかな目で見守り、その奇妙な光景は十分ほど続いたのだった。
俺は未だ気づかない。
この国が、帝国とは全くベクトルの違う、いかに混沌と狂気に満ち満ちた恐ろしい場所なのかを――。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




