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星刻の約定 ——Fragments of Laurant―  作者: にしみん
安寧のパストラーレ(夢見の断章)
23/43

星を見た日 前編

この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨


今回はコメディ要素強めです。ご注意ください

 大図書館の入り口付近へと戻ってきたシノアの姿を最初に見つけたのは、彼女の身を案じて周囲をキョロキョロと見回していたエルンだった。

 すぐにシノンやレン、ラバックもその姿を捉え、安堵と少しの呆れを交ぜながら、一斉にシノアの元へと駆け寄ってくる。


「あ! シノアさん! 何処まで行ってたんですか!?」

「そうよ、シノア。ここ、かなり広いんだから勝手に一人で奥まで行かないで頂戴……」

「シノン、お前もさっきまでそこらの棚の裏で迷子になってた癖に、よく言うよ……」


 レンの容赦ないツッコミに、シノンが「うぐっ」と言葉を詰まらせる。


「今の方はお知り合いですか?」


エルンが大図書館の奥に消えていった騎士の後ろ姿を見ながらシノアに問うた。


「調査小隊隊長の…アルト・フォン・レイヴァース…様よ。そう名乗ってたし…」 


シノアの口から出た名前にピンと来ていないのかエルンは「そうなんですね!」という相槌を打っただけだった。

 自分のために本気で心配し、探してくれていたエルンたちの姿に、シノアの胸の奥は温かい嬉しさ半分、そして心配をかけたことへの申し訳なさ半分で満たされた。

 胸元にしっかりとアルトから渡された歴史書を抱えながら、おずおずと口を開く。


「みんな、心配かけてごめんね……?」


 そう言って頭を下げるシノアだったが、仲間たちの和やかな空気の中で、たった一人だけ――異様な様子で立ち尽くしている者がいた。

 ラバックだ。

 彼はシノアの顔を凝視しているわけではなかった。正確には、シノアの背後――先ほどまで彼女をここまで案内し、いまは静かに図書館の奥へと消えていった、あの亜麻色の髪の少年の『後ろ姿』を、穴が開くほど見つめていたのだ。


 その表情はワナワナと小刻みに震え、みるみるうちに血の気が引いていく。

 それはまるで、自称天才妖術師のベアトリクス嬢が、やらかした日常的爆発事故の現場を、よりによって魔術師管理局長にバッチリと目撃されてしまった瞬間のように完璧な『顔面蒼白』だった。


「おい、ラバ……どうしたんだよ? 妙な顔して、腹痛か?」


「顔が真っ青よ。早くトイレにでも行ってくれば? さっきあっちの角に看板があったわよ」


「それとも……まさか、フリンズ副団長に提出し忘れていた、先週の不祥事の報告書でも思い出しました……?」


 レンから本気で腹痛を疑われ、シノンから親切にトイレの場所を教えられ、エルンから最も現実的で恐ろしい『未提出の報告書』の可能性を指摘されてもなお、ラバックの額からは滝のような冷や汗が止まらなかった。


 そして、ギギギ……と、錆びついた人形のような鈍い音を立てて、ゆっくりとシノアの方へと顔を向ける。

 その引き攣った顔には、ハッキリと巨大な文字で『お前、まさか何もやらかしてないよな!?』と書いてあった。


「シ、シノア……君、あの、何も……何もしてないよな!? お願いだから変な口の利き方とかしてないよなっ!?」


「な、何よ一体……? 急に大騒ぎして……」


「頼むから!! 『何もしてない、普通に話しただけだ』って言ってくれよぉ!! 今の不祥事塗れの第六小隊の状況で、これ以上お前らが何かやらかしでもしたら、上層部に正式に始末書と報告書を上げなきゃいけないのは、騎士歴がたった一年先輩の『俺』なんだよぉぉぉっっ!!!」


 完全に常軌を逸脱したパニック状態で、髪を掻きむしりながら暴れだすラバック。

 その異様な大声と取り乱しぶりに、周囲の机で必死に論文を書いていた見習い魔術師や、静かに読書をしていた新米の書記官たちが、一斉に「何事だ」と訝しそうな冷たい視線を送ってくる。


「落ち着けって、ラバ。今、この静かな大図書館で一番問題を起こしそうなのは、間違いなくお前だ」

「そうですよぉ……ラバック先輩、図書館では静かにって、子どもでも知ってます……」


 レンがラバックの肩を掴んで揺さぶり、エルンが困ったように眉を下げて嗜めようとするが、ラバックの過呼吸寸前のパニック状態は悪化していく一方だ。見かねたシノンが、冷徹な一瞥をくれながら鋭く説明を求めた。


「ラバック。そんなに怯えるなんて、貴方らしくないわ。勿体ぶらずに、さっさとその理由を言いなさいよ」


 シノンに鋭く詰め寄られたことで、ようやくラバックは深呼吸をし、ゼーゼーと肺の空気を入れ替えて呼吸を整えることに成功した。


「はー……はー……いいか、お前ら。耳の穴をかっぽじって、落ち着いて聞きなさい……」


 まるで、騎士団の座学で過酷な算術を叩き込んでくるマヌーチュルフ教官のように、無理やり冷静沈着——なお、表情は相変わらず真っ青な模様——を装ったラバックが、声を極限まで潜めながら説明を始めた。


「さっき、歩いていって……シノアをここまで案内してくれた、あの亜麻色の髪の騎士。お前はさっき『調査小隊隊長のアルト・フォン・レイヴァース様』だと名乗られたと言ったな?」


「うん、そうだけど……。それが何か? 確かに、すごく上品で、偉い雰囲気の貴族様だったけど……」


「なんだよラバ、ビビらせやがって。確かに俺たちからすれば遥か雲の上の『隊長』だけどさ、王宮内を歩いてれば、隊長クラスならまぁまぁ珍しくな――」


 いつもの貴族アレルギーを発症しかけながら、呆れたように言葉を続けようとするレン。

 しかし、その台詞を力任せに遮るようにして、ラバックは我慢の限界とばかりに声を張り上げた。


「――違うんだよ!!! あの御方はな、ただの小隊長なんかじゃない!!! 先代の女王陛下より賜った、栄えある《十二勇士》の一人――《白亜の継承者》 ――かつて、たった一人で《時の魔神・ホラーゼ》を討伐した、この聖ラウラント王国の最強戦力の一角、生ける人柱なんだぞっ!!! そんな御方に対して失礼な発言や行動を一つでもしてみろ、騎士団クビどころか、本当にこの王国に居られなくなるんだからなああああっ!!!」


「「「「――――――――ッッ!?」」」」


 ラバックの口から飛び出した、世界の根幹を揺るがすような衝撃の事実。

 そして、限界を超えて広い《叡知の殿堂》の天井へと轟いてしまった彼の絶叫。

 一瞬の、凍り付いたような静寂。

 直後、重厚な本棚の影から、凄まじい威圧感を放つ大図書館の司書の鋭い眼光が突き刺さり、容赦のない怒号の鞭が飛んできた。


「そこ、図書館では、お静かにしなさい!!! 退出させますよ!!!」

「「「「ひえっ……っ、すみませんでした……っ!!!」」」」


 最強の《十二勇士》の存在への衝撃と、司書からのリアルな恐怖の叱責に挟まれ、若き騎士たちは一斉に頭を下げて縮こまるのだった。


(……あの人、そんなに、もの凄く特別な人だったの……!?)


 シノアは、腕の中に抱えた入門書をもう一度見つめ、遠ざかっていったアルトの、どこか浮世離れした静かな横顔を、鮮烈に思い返していた――


 ◇ ◇ ◇


 その夜自室へと戻ったシノアは、大図書館でアルトに選んでもらったばかりの、少し古びた歴史書を机の上に広げていた。


――理律騎士

 表紙を捲ると、そこには魔術管理局長の分厚い専門書とは違い、比較的分かりやすい文脈と平易な神聖語で、かつて存在したという伝説の騎士たちについて語られていた。

 記述によれば、理律騎士とは古代に存在した神の代行者であり、絶対の法を執行する王国の最高戦力。


 理律騎士は、その名に個人名・組織 理律の識別詞・司る理の権能を冠するのが通例である。

 例えば、一番目の理律騎士の真名はベルクロード・レギュレイト・アルケー


「つまり、中間の『レギュレイト』っていうのは全員共通してるから、名前と最後の機能の名前をセットで覚えればいいってことよね?」


 シノアはベッドの上で同じように歴史書を眺めていた姉のシノンに問いかけた。

 シノンは前髪を軽くかき上げながら深く頷き、ページの次の項目を指差す。


「理屈の上ではそうね。でも、圧倒的に人数が多すぎるわ……。一体どこまで覚えればいいのよ……」


 本に記された理律騎士の総数は、十や二十ではとてもきかず、めくるめく数の名が連なっていた。

 あの厳格な局長が、試験で一番から十番までの有名どころを親切に出題してくるとは到底思えない。

 どうしたものかと頭を抱えかけたその時、シノアの脳裏に、昼間出会ったあの亜麻色の髪の少年の言葉がふと蘇った。


『今の時間を、生活を「護りたい」――そう思うなら、それは立派な理由になり得る』


 ただ守られているだけではなく、自分から動いてみよう。

 これまでの彼女なら諦めていたかもしれない局面で、ふと思いついたのは、あの不思議な少年から貰った前向きな心の兆しだった。


「ねぇ、お姉ちゃん。他の人に聞いてみるのはどう?」

「他の人に……――そうね」


 考え込んだシノンだったが、その迷いは一瞬だった。

 この場合の『他の人』とは、同じ宿舎の違う部屋で、自分たちと同じように試験勉強に励んでいるであろう知人のことだ。

 シノアたちは神聖語の辞書や筆記用具を一式まとめると、部屋を出て廊下の向かい側にある部屋――アローズとミネルバの部屋の前に立ち、扉をノックした。


「ねぇ、アローズ、ミネルバ……まだ起きてる?」

 トントン、という控えめなノックから数秒後、ガチャリと扉が開かれた。

 顔を出したミネルバの後ろにはやはり勉強中だったのだろう、歴史書とインク瓶、そして書き殴られた筆記用具が机いっぱいに広がっているのが見えた。


「どうしたの? ――あ、もしかして、試験勉強?」

「う、うん……その、もし迷惑じゃなければ、一緒にやらせてもらえないかなって……」


 最後まで言い切る前に、ミネルバは持ち前の人の良い笑顔をパッと咲かせ、扉をさらに大きく開いた。


「もちろんいいよ! 入って入って! ちょうど二人で煮詰まってたところだし、皆で勉強した方が絶対に頭に入るもんね!」


 温かく迎え入れられたアローズとミネルバの部屋で、四人で歴史書を突き合わせ、神聖語の文脈を読み解くこと一刻ほど。

 夜も随分と更けてきたこともあり、今日の勉強会はこれでお開きとなった。


 二人の知識は、元スカコフで常識に疎いシノアたちにとって知らないことばかりで、勉強の邪魔になっていなかったかとシノアは少し心配になったが、ミネルバは「気にしないで」と笑った。

 彼女たち曰く、『人に教えることで、自分自身の復習にもなって助かる』らしい。


「あ、そうだ! これ、私が去年から出題傾向をまとめた過去の問題のノート。予備があるからあげるね」


「えっ、いいの……!?」


「うん! ――いい? 二人とも。理律騎士の項目はね、当時の『功績』と『歴史上に影響を及ぼしている度合い』が大きい騎士ほど、試験に出題される傾向にあるの。だから全部を完璧に覚えようとしなくて大丈夫だからね!」


 ミネルバの的確な先輩としてのアドバイスに、ヴァラキー姉妹は深く何度も頷いた。ミネルバはそれを見て、満足そうにふんと胸を張って見せた。


 ◇ ◇ ◇


 夜も更けた聖ラウラント騎士団・偵察部隊の執務室では、未だに窓から温かい魔導ランプの灯りが漏れていた。


「『ファルトス・レギュレイト・クレシェンドは月女神の加護を受けて偽の月女神を討ち果たした』……っつーか、なんでこの時期の理律騎士ってのは、どいつもこいつもポンポン偉業を挙げてんだよ、おかしいだろ! 他の時代との比率を考えろよ比率を!」


 クリスハイトが分厚い歴史書を机に叩きつけながら大声で文句を言うが、その対面に座る幼なじみの二人は、哀れな人間を見るような冷ややかな一瞥を同時にくれた。


「文句を言っている暇があるなら、早く次の項に移ってください。君が他の科目でそれなりの点数を取れるからと言って、歴史の勉強をしなくていい理由には一ミリもなりませんよ」

「私も同感」


 ミカが容赦のない正論を投げつけ、その隣に座るシルフィーネも、手元のペンを走らせながら短く冷淡に同意の言葉を溢した。

 当の本人は全く気にした様子もなく、ケッと毒突きながら、渋々といった様子で次項に記述された理律騎士の偉業を声に出して朗読し始める。


「へーへー、読めばいいんだろ、読めば……えーっと……『ロキア・レギュレイト・クリスタロスは、巨人カリゴランテに槍を投げて討ち取った。その後、月の女神の殺害を目論んだ《原罪・月の鷹匠》と三朝三夜に及ぶ死闘を繰り広げ、勝利。……その後、闘いの余韻を押さえきれず、山鳴りの獣に一方的に決闘を申し込み――』……おいちょっと待て!! なんだよこれ、このロキアって理律騎士だけ、他の奴らと比べ物にならないくらい記述の行数が多すぎねぇか!?」


 読んでも読んでも終わらないロキアの凄まじい偉業と功績の羅列に、クリスは朗読を一度中断し、信じられないといった様子で叫んだ。

 確かに、直前に読んだ四十二番目のファルトスの記述に比べ、明らかにこの四十三番目の男の行数は異常に長い。

 その内容からして、凄まじい戦闘好き――いや、明らかな『戦闘狂』であることが文面からもひしひしと伝わってきた。


「その御方は、ほぼ毎回と言っていいほど局長の試験に出題される最重要問題ですよ。そして君が『毎回必ず間違えている』問題です」


「私も同感」


「仕方ねぇだろ! こんなに長い戦闘狂の歴史記述をどうやって一言一句覚えるんだよ!! ただでさえこの時代の神聖語は翻訳がややこしいってのに……! お前らの頭の構造が逆におかしいんだよ!」


 ミカは、分かりやすく「はぁ……」と深い溜め息を吐きながらも、手元の別紙に、クリスでも一目で分かるようにロキアの功績を簡潔にまとめた箇条書きをサラサラと記述していく。

 そして、それをクリスの目の前にスッと置いた。


「翻訳が難しいのであれば、解釈は後回しにしてせめて丸暗記してください」

「私も同感」

「おー……助かる……。ってか、シルフィ! お前さっきから『私も同感』しか言ってねぇだろ! 真面目に勉強してんのかよ、あぁ!?」


 クリスがペンの後ろでシルフィの肩を小突くが、当のシルフィはどこ吹く風。

 彼女は手元にあった歴史書の理律騎士のページを完全にパタンと閉じると、まるで流暢な魔術の詠唱、あるいは吟遊詩人の詩を口ずさむかのような滑らかな声音で、静かに語り始めた。


「『ロキアは魔龍ウサルネンの声に耳を貸さなかった。かつて天界の使いであった龍の魂は魔に侵され、かつての慈悲の心など既に朽ち果てていたからである。騎士は魔龍の呪いをその身に受けても尚立ち上がり、槍をその心臓に突き刺した――』これ、氷影の騎士と吟われたロキアの功績の、第五章第三節の一節。……これで満足、クリス?」


「……すいませんっした」


 本を閉じているにもかかわらず、一文字の狂いもなく完璧に暗唱してみせたシルフィの頭脳に、クリスはぐうの音も出ない完全敗北を喫した。

 彼は「勝てるかよ」と言わんばかりに、現実逃避として机の真ん中に置かれていたミカ特製の焼き菓子――最高級のアーモンドを贅沢に使った、黄金色のフィナンシェをひょいと口に放り込んだ。


「シルフィを見習ってください。……あと、クリス。そのフィナンシェを食べるのは、次の項目にある《女神の子守唄》の記述を完全に覚えるまでお預けです」


「マジかよミカ……! ってかまだあんのかよ!? コイツ暴れすぎだろ……! しかも巨大な敵を槍一本で討伐とか、生身の人間じゃあり得ねぇっての……」


 かつての伝説の騎士の桁外れの戦闘描写に、本気でドン引きしているクリス。

 そんな彼に対し、シルフィが補足する形で、どこか楽しげに言葉を告げる。

 その小さな手には、クリスが今まさにミカから「お預け」を食らったはずのフィナンシェがしっかりと握られていた。

 完全なる、幼なじみへの煽りである。この少女、実は意外と人をからかうのが好きなのだ。


「ふふ……いやいや、クリス。ロキアだって別に槍だけじゃないよ。剣も普通に使うし、毒も使う。なんなら勝つ為なら、背後からの奇襲や不意打ちだって平気でするよ? ――ただ、正式な決闘の場では使わないってだけでね」


「逆に言えば、実戦なら汚い手も何でも使うのかよ……。騎士って言うか、なぁ……。……なんか、戦い方の泥臭さが、お前にそっくりだな」


「それは光栄だね」


 愉快そうに目を細めて笑うシルフィ。見事な煽りを決められたクリスは、泣く泣く口を尖らせながら歴史書へと視線を戻した。

 その二人の、いつも通りの微笑ましいやり取りを、ミカは微笑みを浮かべながら見守っていた。


 ――しかし

 彼の脳裏に、ふと、奇妙な違和感と疑問が浮かび上がる。


(――――歴史書に書かれているロキアの功績は、どれも高潔な英雄譚として美化されている。彼が実戦で『毒や奇襲を多用した』などという泥臭い供述は、一般の歴史書には、どこにも載っていなかったはず)


 それは、王宮の隠された重要度の高い「禁書」でも読まなければ知り得ないはずの事実。

 ミカがふと手を止め、不思議そうにシルフィへと視線を向ける。

 するとシルフィはそれに気づいたのか、いつも通りの、無邪気で愛らしいにっこりとした笑顔をミカへと返した。

 その、濁りのない幼なじみの笑顔を見た瞬間。

ミカの脳裏に浮かびかけた鋭い疑問は、霧が晴れるように、あっさりと霧散して消えてしまったのだった。


(まあ、シルフィのことですから、こっそり図書室の奥で難しい本でも読んだのでしょう)


 そう自分を納得させ、ミカもまた、夜更けの勉強会へと意識を戻す。

 窓の外には、かつて深淵の地で散った伝説の騎士たちを想起させるような、満天の星々が静かに瞬いていた。


 ◇ ◇ ◇


 時折耳の奥で、そして胸の最奥でその声が聞こえるのだ。

 私であって、私ではない、内なる別の何かの声が。

 それは決まって闘いの最中――もっと言えば、命の火花を散らし、死線の余韻がまだ冷めきらない、あの張り詰めた場面で。


『――もっと、闘いたい』

『――もっと、勝利を、あの果実の甘美さを味わいたい』

『――もっと、この身を焦がすような『生の実感』を――』


 そう激しく渇望し、求めるような声が聞こえてくる。

 けれど不思議なことに、私の中に嫌悪感というものは微塵も湧き上がらなかった。

 寧ろ私にとっては同じ地平に立つ同族の声であり、暗闇を照らす導きの声に他ならない。

 それはまるで、遥か高みを行く名もなき先達者が、後ろを歩む者に授けてくれる力強い応援歌のようでもあった。


 その声の正体を私はもう、とっくに知っている。

 出会ってから、もう六年もの月日が流れたのだ。


 それはもう一人の私。

 

――魂の半身ともいえる、氷影の導き。

 

 夜空に浮かぶ月明かりが、今夜は妙に眩しかった。

 先ほどまで、執務室で気心の知れた馴染み深い友人たちと分厚い歴史書を開き、ああでもないこうでもないと頭を悩ませていたというのに、自室のベッドに潜り込んでも一向に眠気が訪れなかった。


『――眠れないのか?』


 不意に、頭の芯を直接揺らすようにして問いかけてきたのは、やはりその内なる声だった。

 けれど、これは本当に珍しいこと。

 戦いの高揚の中ならいざ知らず、こんな何でもない、平穏な常時の夜に声がはっきりと聞こえるなんて、滅多にあることではない。


(……少しね。ねぇ、私――本当に、生きているのかな?)


 私は心の中で、その声に呼び掛けてみた。

 質問に対して質問で返すという、少し不躾な私の問いかけだったけれど、私の半身はどこか可笑しそうに、楽しげに笑う気配を伝えてきた。


(あの日以来……自分が本当にこの世界で生きているのか、その実感が伴わない瞬間がある。高官たちが集まる会議の最中も、食事をしている時も――もしかしたら、こうして眠っている瞬間さえも)


 心の内を吐露するように、私は自分自身の歪みを語る。

 あの凄惨な《血嵐戦争》を経てからというもの、私の感覚はどこか麻痺してしまっていた。

 過酷な戦闘の渦中で血を流し、骨が軋むような『痛み』を感じることで、ようやく私は「ああ、私は今、生きているのだ」と明確に実感することができる。

 かといって、何もない平時に自傷行為をするなんて、馬鹿馬鹿しくてやってられない。


『可笑しなことを言う奴だなぁ……お前は現にこうして、温かい寝床で呼吸をし、脈を打って生きているだろ?』


(そういう表面的なことじゃなくて……。ただ呼吸をしていれば、それだけで『生きている』ことになるの? 私――未だに、あの場所に置き去りにされているんじゃないかって、時々すごく心配になるんだ。本当は——)


『――深淵か』


 半身の言葉が、私の思考を代弁する。

 私は今もあの暗く、魂の墓場と呼ばれる深淵の底に囚われていて、この平和で騒がしい日常という名の、都合のいい夢を見ているだけなのではないか?

 本当の私の肉体は、あの日既に朽ち果てていて、かつて深淵へと堕ちていった伝説の理律騎士たちと同じように、もう――。


 そこまで考えが及び、心が急速に底冷えするような感覚に囚われた、その時だった。

 私の思考を遮るようにして内なる声は、大人の余裕をたっぷりとはらんだ、実によく通る明瞭な声音で言った。


『――しっ。余計なことは考えず、黙って寝ろ』


 その響きと同時に、フッと私の身体全体が毛布に沈み込むように重くなった。

 抗いがたい、けれど不思議と心地よい、絶対的な眠気の波が急速に押し寄せてくる。

 私の半身への、深い尊敬と絶対的な信頼に包まれながら、私の思考は完全に、安らかな闇の奥へと落ちていく——


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、聖ラウラント騎士団広場にて。

朝礼の約十分前。広場には、目の下にべっとりと色濃い隈を作った騎士たちが、小さな紙――おそらく夜通し書き殴ったであろう試験勉強用の私物を片手に、ふらふらとした足取りで集まっていた。

 既にそこかしこから、極限状態に達した男たちの妄言が漏れ聞こえてくる。


 ある者は「正当防衛……この場合は成立するのか……」と法律の条文を虚ろな目で呟き、またある者は「酸性とアルカリ性……圧政! ブフッ……」という全く笑えない理科の語呂合わせを公言し、さらに別の者は「ロキアは脳筋……ロキアは脳筋……」と、まるで強力な呪文でも唱えるかのようにブツブツと狂ったように繰り返していた。


「これは前の時より酷いな……二ヶ月毎って試験のスパン、短すぎねぇか?」


 この聖ラウラント王国で定期試験を受けるのが二回目となるレンが、あまりに世紀末な光景に辟易しながら文句を言う。

 その一方で、頭に『赤点回避!!』と太々と墨書きされた、どこか神聖さすら感じるハチマキをきつく巻いたラバックが、すべてを悟りきったかのような枯れた声で返した。


「こんなのマシだよ、レン。二ヶ月前のあの悲劇、もう忘れちゃったのか?」


「あぁ、あのカンニング未遂事件か。あれは本当に酷かったな……。特に、夜中に隣の部屋からバタバタと扉の開閉音が延々と続いてた時は、こっちまで頭がおかしくなったと思ったぜ……」


「カンニングなんて不正行為、本来決して許されませんからね……」


 生真面目なエルンが、『ハムスターでも分かる! 筋肉と友達になる方法☆』という、一体王宮のどこから発掘してきたのか分からない絶妙に恥ずかしいタイトルの体術参考書を胸に抱えながら、会話に加わった。

 ちなみにその本は、定時退社を愛する筋肉質のアルハイサム書記官が「効率的だ」と大絶賛しているイチオシの専門書なのだが、レンはそれを知る由もない。

 ラバックのハチマキ姿といい、エルンの持っている本のタイトルといい、この瞬間にレンは確信した。


(この国の人間は、やっぱ根元が……細胞レベルでどっかズレてる……)


 帝国生まれの傭兵上がりであるレンには、さすがにこのハチマキを頭に巻いて大広場に来る度胸もなければ、公共の場でそんな恥ずかしいタイトルの本を堂々と熟読するメンタルは持ち合わせていなかった。

 そうこうしている内に、カン、カン、と朝礼の開始を告げる重々しい鐘の音が響き渡った。


 整列する騎士たちの前に、ロディ団長が登場する。

 その顔には『試験問題の手直しと公務のせいで、現在徹夜三日目です』と文字通り書いてあるかのような、凄まじい疲労の色が滲み出ていた。

 そのすぐ側に立つ副騎士団長フリンズは、相変わらずの鉄面皮を崩さぬまま、疲れきった団長の代役を買って出るように一歩前へ出ると、滞りなく恒例の各部隊からの定時報告をこなしていく。


「――唱和に移る前に、君たちに一つ言っておくことがあります」


 副騎士団長の、どこか含みのある冷徹な声音に、並み居る騎士たちが一斉に身構えた。

 規律に厳しいフリンズの言葉は、ただ拝聴するだけでも背筋に冷たい恐怖を覚えるものなのだ。


「僕が遠征で不在だった半年間の間に、この神聖なる騎士団の中で『カンニング未遂』などという、人間として、そして騎士として恥ずべき規律違反を企てた愚か者がいたとか――本当に我が騎士団の恥、風上にも置けない不祥事です」


「……(ガタガタガタ)←犯人A」

「あ……あ……←犯人B」

 列のどこかで、特定の騎士たちがうわ言のような悲鳴を漏らしている間も、フリンズ副団長の手容赦のない通告は続く。


「二度とこのような恥ずべき事案を出さない為に、本日の鍛練の一部を変更し、特別試験勉強時間とします。――もっと理解しやすく言うのなら……教官が直々に君たちの勉強を見てあげるということです――」


 その言葉が最後まで言い切られるよりも早く、広場は一瞬にして凄まじい熱気と狂喜乱舞の渦に包まれた。

 普段は激務で滅多に捕まらないSSS級の教官たちが、直接勉強を教えてくれるというのだ。

 あまりの嬉しさに理性を飛ばした一部の脳筋野郎共に至っては、雄叫びを上げながら上半身の服を勢いよく脱ぎ捨て、それを頭上でぶんぶんと振り回して喜びを表現し始める始末。

 騎士としての誇りと品格は一体どこへ消え失せたのか。


 レンが内心で『ああはなりたくねぇな……』と心底幻滅する中、大切な説明を野蛮な歓声で中断されたフリンズの額には、ピキピキと綺麗に青筋が浮かび上がっていた。

 それに気づいた一部の冷静な騎士たちが、慌てて変態たちの暴挙を止めようと必死に羽交い締めにし始める。


「――うるせぇぞお前ら。……徹夜の頭に響く」


 決して、いつものような地鳴りのごとき大声ではない。

 しかし、広場にいる何百人――それ以上に存在する全騎士たちの鼓膜と本能に直接届くような、低く重い重低音の声が響き渡った瞬間。

 熱狂に沸いていた広場が、まるで氷水を打たれたかのように急激に静まり返った。


――不落の巨龍、ロディ・グランベルクである。

 先ほどまで「公務が……試験問題の手直しが……今後の予定が……」と死にそうなうわ言を呟いていたはずの男が、羽目を外しすぎた不届きな部下たちにドスの利いた忠告をすべく、重い口を開いたのだった。


「上官の説明を最後までまともに聞けない人間は、戦場で容易く死ぬ。――喜ぶ気持ちは分かるが、肝に銘じろ。次はないぞ」

「「「「「サー・イエッサー!!!」」」」」


 地響きのような直立不動の返答。

 流失、何百人もの荒くれ者を一言で束ねる最高峰の団長、漂う格が違いすぎる。


「流石ロディ団長……!! なんという威厳、統率力……! 僕もいつかあのようなお姿を見習いたいものです……」


 目を輝かせて心酔にも似た団長賛美を口にするミカに対し、隣のクリスが呆れたようにツッコミを入れた。


「お前はもう見習う必要ねぇだろ……見ろよ、さっきの狂騒の中で、うちの偵察部隊だけ微動だにしてなかったぞ……コイツら」


 クリスの言う通り、偵察部隊の面々は、最初から若き有能な隊長であるミカの顔に泥を塗らんと言わんばかりに、誰一人としてピクリとも動かず、完璧な規律を保って整列していた。


「フリンズ」

「はっ。――……そういうことですので、許可された時間を使い、各自しっかり勉学に励みなさい」


 ロディに促され、フリンズが言葉を締めくくる。

 今度こそ、声を出さないようにして小さくガッツポーズをしながら喜ぶ騎士たち。

 第六小隊の面々であるレンやラバック、エルンたちも、密かに胸の前で拳を握りしめていた。

 普段は多忙を極める教官たちが、自分たちの勉強を見てくれるなどという機会は、これ以上ないほど希少でありがたいからだ。


――だがあの厳格なロディ団長が、朝礼の列を乱した先程の不敬行為を、ただの厳重注意だけで簡単に許すはずもなく。


「おっと、言い忘れてた」


 背を向けかけたロディが、ふと思い出したように足を止め、冷徹な声音を広場に落とした。


「――先程の醜態について、俺は不問に処すとは一言も言ってない。連帯責任だ。本日のメニューは、基本の外周三十周に加え、追加で二十周とする。たっぷり走って頭を冷やしてから、勉学に励め」

「「「「「なっ――――!?!?」」」」」


 広場全体に絶望の悲鳴が今度は声にならない顔芸で広がる中、しかし、最前列にいる一部の狂った部隊からは、全く異なる毛色の声が挙がっていた。


「なんだ、追加二十周か」

「思ったより全然少ないな、今回は優しいじゃん」

「団長、相当疲れてるのかな? 追加がたったの二十周なんて、いつもに比べたらすっごく優しいよね」


 シルフィーネの、あまりにも緊迫感のない呑気な呟きが耳に届き、すぐ後方に整列していたシノアとシノンのヴァラキー姉妹は、内心で(は? 追加二十周のどこが優しいのよ……!?)と激しい衝撃を禁じ得なかった。


「ま、走る距離が短いのはラッキーだろ。シルフィ、ミカ、さっさと終わらせて飯食いに行こうぜ」


「同感です。僕はこの後、部下から上がってくる偵察報告書の確認という仕事が山ほど立て込んでいますので、時間を無駄にはできません」


 そんな恐ろしいほど平然とした会話を交わしながら、呆然と立ち尽くすヴァラキー姉妹たちをその場に残して、偵察部隊の面々はどの部隊よりも早く、目にも留まらぬ速さで広場から外周へと走り出していった。

 彼らは仕事人としての習性ゆえか、騎士団専用食堂において「すぐに退室できるように入り口から一番近い席」をいち早く確保することにかけても、他の追随を許さない執念を持っていたのである。


 ◇ ◇ ◇


 騎士団広場を後にし、食堂へ向かうまでの約五分。

 レンたち第六小隊の面々は、文字通り魂を半分ほど削りながら、フラフラとした足取りで騎士団専用の廊下を歩いていた。

 外周五十周という名の「教育」は、新人騎士にはあまりに重すぎる。


「ぜぇ……ぜぇ……まったく!一部の変態騎士どもが羽目を外したお陰で、俺たちまで合計五十周も走るハメになるなんて……」


 ラバックが、息も絶え絶えに愚痴を零す。エルンもまた、先ほどまで陽気に服を振り回していた先輩騎士たちへ、怒りを通り越した呆れと軽蔑の眼差しを向けていた。


「本当ですよぉ……。彼ら、騎士団の規律をなんだと思っているんでしょうか……」


 その時、偶然通りかかった事務方の書記官たちが、泥と汗にまみれた彼らの姿を見てギョッとした表情で立ち止まった。


「なっ……!? 外周五十周……!? そんな……人間が到底完遂できる距離ではありませんよ……!?」


 書記官の驚愕の声に、別の書記官がどこか冷めた調子で耳打ちする。


「……お前知らないのか? 我が聖ラウラントの騎士団は、他国から『人間を辞める訓練を受けている』とまで揶揄されているのだぞ。いいか、あいつらは人間ではない。ロディ団長によって限界まで鍛え上げられた、筋肉と狂気で構成された魔人軍団だ。人の感性と同格と捉えてはならない……」


「激しく失礼!!」


 疲れ切った肉体に、その精神攻撃じみた解説が容赦なく突き刺さる。

 通常の人間であればここで泣き崩れるレベルの肉体的拷問の後に、追い打ちをかける精神的拷問。

 だがここにいる面々は、もはや人間としての精神を通り越した領域にいた。


「じ、じゃあ……さっき偵察部隊の面々が珍しく鼻歌交じりにここを通った際、シルフィーネ様が『あー! 生きてるって感じがするー!』と喜んでいたのは……?」


「あれは私も珍しいと思う。過去に彼女が隣国フェルテーヌへ外交官の護衛名目で同行した際《コンツェの泉》で悪戯――正確には仲良しカップルに限定して――していた精獣を観光ついでに薙ぎ倒したらしいが……その帰還時くらい喜んでいたよ」


(……あの人、一体何者なんだよ……)


 レンは心中で突っ込む。観光ついでに精獣を薙ぎ倒すという武勇伝が、普通に「珍しい程度」としてまかり通るこの環境。

 レンは己の常識が、この騎士団という組織においてはいかに無力であるかを再確認しつつ、食堂の扉を押し開いた。

 食堂の扉を開けると、入り口から一番近い特等席には、既に涼しい顔をした偵察部隊の面々が腰を下ろし、朝食を摂っていた。


「お、お前ら、今頃到着か? 」


 クリスが、育ちの良さを感じさせる優雅な所作——こういう時に意外にも様になっているのは、流石は伯爵家の貴族というべきか——で、温かい紅茶を啜りながら声をかけてきた。


「クリス様たちが速すぎるんですよ……。しかも、あれだけ走ったのに全然疲れてなさそうだし……」


 エルンがトレイを手に、羨望と疲労の混ざった声を漏らす。

 するとクリスは、持っていたティーカップを置き、鼻で笑うように言った。


「お前なぁ……俺らを舐めすぎ。任務なら、これ以上の距離を二倍……いや、三倍か? とにかく、これの何倍もの距離を走ってるし、単独任務になれば一日中徹夜で走り続けるんだぞ? こんなの、俺たちからすりゃ散歩にもなりゃしねぇよ」


 すると、その隣で静かに食事をしていた偵察部隊隊長が、穏やかな敬語の口調で過去の記憶を呼

び覚ますように口を開いた。


「そうですね。過去にロディ団長を本気で憤慨させた事件――通称『ルーシャ局長の高級茶葉窃盗未遂事件』においての連帯責任による外周――もとい、王城外の険しい山脈を往復十周させられた時に比べれば、大抵のものはなんでもありません。あれに比べれば、本日の五十周などは本当に良い訓練でした」


 ミカが事もなきと言ってのけると、隣のシルフィーネが目を輝かせて、とんでもない爆弾発言を投下した。


「ね! あれまたやりたい! 誰かルーシャ様の私物でも、また窃盗未遂してくれないかなぁ……」


 シルフィのそのあまりに無邪気な言葉が響いた瞬間、周囲で朝食をトレイに乗せて選んでいた一般の騎士たちが、恐怖に顔を引き攣らせてバッ! と一斉に振り返り、悲痛な叫びで懇願した。


「「「「「絶対に! 二度と!! やりたくない!!! 」」」」」


 食堂に響き渡る騎士たちのガチな絶叫に、レンは思わず身を竦める。


「一体、過去に何があったんだ……」

「聞くなよレン……あれは本当に思い出したくない……」


 ラバックが、当時の地獄の記憶がフラッシュバックしたのか、頭を抱えんばかりの勢いで苦悶の声を捻り出した。

 周囲の怯えをよそに、クリスは話を戻すように腕を組んだ。


「ともかく、この程度じゃ俺たちが疲れねぇわけよ」

「クリス、みっともない自慢話はそこまでしてください」


 ミカが、ぴしゃりとクリスの言葉を遮る。


「君にはこの後、隣国のシラーリの国境沿いの偵察任務があるでしょう。昼間までに帰還しないと、午後の試験勉強の時間に間に合いませんよ」


 隣国のシラーリといえば、広大な熱帯雨林と砂漠が広がり、高名な《象牙の塔》が存在する学術の国だ。

 そして、その国境沿いまでの距離は、ここから実に四百八十キロメートル。

 常識で考えれば、到底午前中だけで往復できるような距離ではなく、現地での偵察行為も含めれば膨大な時間がかかるはずだった。

 だが、クリスは全く動じる風もなく、面倒くさそうに頭を掻いた。


「わーってるって。シラーリのパージャー(粛清官)からも『魔獣の生態系の詳細な報告』としか言われてねぇしな。研究のための観察だけなら、現地に着いて一時間もかかんねぇからよ」

「さっさと倒しちゃえばいいのに。戦闘がない偵察行為なんてつまんないの」


 シルフィが退屈そうに唇を尖らせながら、皿に残っていた最後のホットケーキの一欠片を口に入れる。

 そして綺麗に平らげると同時に、食事終了時の挨拶を済ませた。

 そんな副隊長に向けて、ミカが容赦のない現実を突きつける。


「シルフィ、君には僕と一緒に、執務室に積み上がった報告書の確認という仕事があります。副隊長としての仕事をきちんとこなしてくださいね」

「はーい……。私は身体を動かしてた方が、頭使うよりずっと楽なんだけどなぁ……」


 目の前で繰り広げられている、距離の概念も常識も崩壊した異次元の会話。

 レンたちはあまりのスケールの違いに完全に圧倒され、もはや言葉を失い、無言のまま朝食用のトレイを手にして、スッと食事の列へと並んだのだった。


 ◇ ◇ ◇


 騎士団の集会所には、信じられないほどの数の騎士たちが詰めかけ、異様な熱気に包まれていた。

 任務や公務に就いている一部の者を除き、迫り来る定期試験で「赤点」を取ることを本気で危惧した男たちが、各々苦手な科目の歴史書や参考書を片手に、教官たちに必死の形相で教えを乞うていたのである。


 中には、極限状態のプレッシャーに脳を焼かれ、

「うあぁぁぁ! 過去の年号が混ざるぅぅ!」

 と奇声を上げながら、集会所の冷たい床をゴロゴロとのたうち回るという哀れな事態まで発生していた。

 その奇行を目の前にしても、周囲の者たちは自身の赤点回避の方が百倍大切な為、その狂行には誰一人として目もくれない。

 そんな喧騒の片隅で、頭を抱える騎士たちの声が響く。


「ええっと……敵の補給路がX地点にあると仮定し、魔導兵の射程を考慮した際の包囲網の突破方法は以下の内のどれか……うーん、どれだ? 」


「おいお前、そんな簡単な問題も分からんのかよ? 」


「なんだよ! じゃあお前は分かるってのか!? 」


「フッ……舐めるな。正解はCに決まっているだろう! 」

(※選択肢C:全ての攻撃を回避し、敵の補給路を単独で制圧する)


「これは酷い……。軍略は私の専門外ですが、これに関しては私でも明白な間違いだと分かりますよ……」


 通りすがり、騎士たちの脳筋すぎる会話を耳にした算術担当のマヌーチュルフ教官が、心底呆れ果てた声で呟いた。

 すると、そのすぐ隣で「実技の直接指導」として、質問に来た大柄な騎士を見事な背負い投げで床に叩きつけていたアルハイサム書記官――吹き飛ばされた騎士は床で白目を剥いている――が、衣服の乱れをスマートに整えながら、同意するように頷いた。


「同感です。この程度の基礎的な問題すらまともに解けないから、外部から《筋肉魔人軍団》などという、極めて不名誉な呼び名をつけられてしまうのですよ」

「……そういう貴方も、一般の事務官から見れば中々の筋肉魔人ですがね……」


 マヌーチュルフ教官は、アルハイサム書記官の無駄なく引き締まった圧倒的な肉体を一瞥し、その先を言いかけて言葉を飲み込んだ。

 長年の付き合いになる同僚の性格を思えば、ここで突っ込んだところで『そうですか? 効率的に鍛えているだけですが』と、無自覚なマウント混じりの返答が返ってくるだけなのは目に見えていたからだ。


 一方、壁を隔てた隣の部屋では、他の阿鼻叫喚な空間に比べれば、どこか和やかで救いのある空気が流れていた。

 なぜなら、この部屋には科学を担当するアズリカ教官がいたからである。

 彼女は、他の容赦のない厳しい教官たちとは違い、どれほど物覚えの悪い生徒に対しても、決して声を荒らげず優しく丁寧に教えてくれる。

 その姿は、この地獄のような試験前において、まさに天界の使者のような慈愛の持ち主であった。


「――この化学反応を《テルミット反応》と言います。アルミニウムと金属酸化物が反応することで、強い光と、数千度にも達する凄まじい高熱を出し、酸素の供給がない空気のない場所でも激しく燃え続けるのですよ」


 黒板に丁寧に数式を書きながら微笑むアズリカ教官に、一人の騎士が調子に乗って声を上げた。


「アズリカ教官! それって、ベアトリクス嬢が引き起こす日常茶飯事の爆発と、どっちが凄いんですか~!? 」


 その名前が出た瞬間、周囲の席の騎士たちが一斉に顔を青褪めさせた。


「おい、バカ! 不吉なことを聞くんじゃない! あの天災がどこから降ってくるか分からないんだぞ!! 」

「あはは、ジョークだよ、ジョーク!! 」

「全然笑えねぇよ……心臓に悪い……」


 優しいアズリカ教官の授業ということもあり、心に多少の余裕があるのか、普段の厳しい規律下なら絶対に口にしないような軽口まで叩き合う始末。

 アズリカ教官自身も「困った人たちですね」と和やかに微笑んでいたのだが、その温厚な空気に甘んじた別の騎士の悪ノリが、完全なる地雷を踏み抜いてしまった。


「――あ! ベアトリクス嬢だ!! 全員、受け身を取れ!! 」

「「「――――!??!? 」」」


 その叫び声に、文字通り『一瞬』の狂いもなく、最速の反応を示した集団がいた。

 ――部屋の隅に控えていた、偵察部隊の隊員たちである。


 彼らは流石というべき超一流の反射神経と身体能力を発揮し、声が響いたのと同時に、迷わず床の上を素早く美しく転がり、爆風をいなすための万全の防護受け身姿勢を完璧に取った。


 ……しかし。


 当然のことながら、そこに天災ベアトリクスなど現れるはずもない。

 誰も来ない。爆発も起きない。

 比較的静かだった科学の部屋の中に、偵察部隊の精鋭たちがシュバババッ! と床を俊敏に転がる衣擦れの音だけが虚しく、そして鮮明に響き渡った。


……………………

……………………

……………………


「あ……」


 悪ノリで軽率に「受け身を取れ」と叫んでしまった騎士は、自分の口から出た言葉が引き起こした事態の深刻さに遅れて気付き、血の気が引いていくのを感じた。

 アズリカ教官という、この広大な砂漠に唯一存在するオアシス。

 その恵まれた優しさに慣れきってしまった結果、人間が犯してしまった罪としては、あまりにも重すぎた。


「…………」

「チッ……」

「――○す」


 床からスッと音もなく立ち上がった偵察部隊の面々は、普段通り無表情を貫いてはいた。

 公然の場でいち早く完璧な受け身行動を取ったにもかかわらず、周囲の一般騎士たちから『え……』『何やってんの……? 』『あいつら急に転がってるんだけど(笑)』という、侮蔑と失笑の混ざった視線を一身に浴びてしまったのだ。


 彼らは「ベアトリクスが現れた際は即座に受け身を取るべし。さもなくば規律違反として副騎士団長フリンズから直々に地獄の制裁(何が起きるかは口にするのも恐ろしい)を受ける」という騎士団唱和第四箇条を、あまりにも忠実に守っただけなのだ。

 規律を完璧に守った結果として、これ以上ない恥辱を味わわされるという理不尽な空気感。

 暫くの間、誰も彼らに声をかけることすらできなかった。

 異変を察した周囲の騎士たちが、叫んだ本人を肘で突きながら、ひそひそと緊迫した声を交わし始める。


「(おいバカ、お前早く謝れよ……!! )」


「(今!? 無理無理無理ぃ!!! 今話しかけたら確実に消される!! )」


「(何言ってんだ! 今すぐ謝れば『俺たちを舐めてんじゃねぇぞ!! 』という拳の一発で済むんだ! もしこれをあの場にいないミカ様に報告されてみろ……! )」


「(はっ……!! )」


 叫んだ騎士の脳裏に、最悪の未来がよぎる。

 ミカ・ファーレンガルドを怒らせてはならない最大の理由。

 それは、月に一度行われる騎士団月例報告会――別名《暴露会》の存在だった。


 一ヶ月の間に騎士や使用人たちが犯した醜態、恥ずかしい秘密、隠し事などを、騎士団長と魔術術管理局長の前で赤裸々に報告させられ、全員で共有して反省を促すという地獄の催し。

 その会の司会進行を務めるのは、あらゆる隠されたゴシップや不祥事を事前に徹底調査する、偵察部隊隊長のミカなのである。


「(次の月例報告会で、お前の醜態を文字通り大々的に晒し者にされるんだぞ……! )」

「(首が胴体に繋がっている間に、早く謝りに行け!! )」


 ひそひそ話をする騎士たちの間で、恐怖が伝染していく。

 恥をかかされた偵察部隊の面々は体裁こそ冷静を保っているが、普段は表情を変えないその顔には、明らかにドス黒い怒りの色が透けて見えていた。

 周りの騎士たちも、慌てて歴史書や参考書から顔を上げ、部屋全体の空気が凍りついていくのに怯え始める。

 先程まで転がった姿を馬鹿にしていた一部の者たちも、もはや不穏な空気の色を隠せなかった。


 ――そこへ、張り詰めた氷を溶かすような、鈴を転がすような少女の声が響いた。


「落ち着いてください、先輩方。何もそこまでお怒りになられなくても……」


 声を上げたのは、偵察部隊に所属するシリカ・ミュールであった。

 普段から無表情な仕事人が多い偵察部隊において、唯一の「癒やし枠」と呼ばれる彼女が、一触即発の先輩たちを宥めるように一歩前へ出た。


「叫んだ方も、きっと悪気があったわけじゃないのでは? 」


 シリカの優しい言葉に、一人の偵察隊員が低く、地を這うような声で返した。


「いや……あれは悪気しかないだろう。そもそも、お前たちはあの天災が、過去にどれほど凄まじい過ちを仕出かしてきたか、その歴史の重みを知らないからそんな戯れ言が言えるのだ……」


 別の隊員も、冷や汗を拭いながら遠い目で呟く。


「そうだ……。唱和にあるあの一文(ベアトリクス嬢の前から即座に身を護る術を講ずべし)は、ロディ団長がまだ見習いだった時代から、血と涙の歴史を経て存在している規律なのだぞ……」

「マジかよ……。ベルカンプの血筋は、生まれながらにして爆発の呪いでもかかってるのか……? 」


 とある騎士の戦慄混じりの声が部屋に響き渡ったことにより、部屋の空気は「偵察部隊の怒り」から、また違う――何とも言えない、過去の爆発被害への畏怖と哀愁を含んだ空気感へと、シュールに変換され始めていくのだった。


◇ ◇ ◇


 「やり直しですわ。それでも聖ラウラント王国の騎士なのですか?」


 隣の部屋の爆弾ベアトリクス誤報騒動など知る由もないレンたちは、今まさに精神を切り刻まれる……などという生ぬるい表現では到底追いつかない、文字通り「切り刻まれた精神を鍋でドロドロに煮込まれ、オーブンで爆発寸前までチンされた後、仕上げに巨大な鉄棒で粉々に叩き割られた」かのような絶望的な心境に陥っていた。


「……う、す……すみません……」


 聖ラウラント王国首席メイド、ニーナ・フォン・ローゼンタールによる直々のマナー講座。

 それは講義などという生易しいものではなく、あまりにも苛烈な「人格修正地獄」であった。

 自ら進んでこの地獄に赴く勇者など、この広大な王宮広しといえど滅多にいない。

 ただ怒られたり呆れられたりするだけならまだマシだが、彼女の指導は己という自己の存在そのものを根底から全否定され、再構築させられる恐怖を伴う。自身を見失いたいと思う人間などいるはずがないのだ。


 そんな恐怖を理解していながらも、レンたちが自ら好んでこの部屋の席に座っているのは、単に彼らにとって、マナー講座が一番まずくて危険という切実な理由があったからである。


 これは騎士団内でも諸説ある話なのだが、算術や神聖語といった座学には、明確な「一つの答え」が存在する。

 だがマナーや礼節というものは、個人の認識や状況次第で数多の正解、あるいは不正解が存在してしまう。

 軍略や剣技にも同じことが言えるのだが、普段から身体を動かし、物事を筋肉で解決しがちな脳筋騎士たちにとって、最も優先して補強すべき鬼門こそが、普段の生活で触れる機会の極端に少ない「礼節とマナー」なのである。


「基本中の基本ですわ。これが満足に出来なければ、応用など夢のまた夢。剣を振っていればそれでいいというものではありませんのよ」


「は、はい……! 」


「(……やっぱり、ニーナさんの講義なんて受けるんじゃなかったんじゃ……)」


 隣の席で、ラバックが消え入りそうな小さな声で早くも後悔を口にする。

 だがレンは青褪めた顔のまま、断固として首を横に振った。

 そこには、元傭兵の彼にとってはまさに死活問題とも言える、極めて個人的かつ重大な理由があった。


「(……馬鹿言え。ここが一番、俺の『鼻』がまともに機能するんだよ……)」


 騎士団には多くの貴族出身者が所属している。

 もちろん平民出身の騎士も多いが、試験前ということもあって、他の教官の部屋には高確率で「濃厚な貴族成分」が含まれてしまっているのだ。

 そんな特濃アレルギー物質が充満した空間で、勉強などまともに出来るわけがない。


 しかし、ここ――首席メイドの講義室に限っては、貴族の姿が綺麗さっぱり消え失せている。

 生まれが良い連中は、それこそ物心がつく幼少期からそれなりのマナーや厳格な礼節を家庭教師に叩き込まれている為、わざわざ今更受講しに来ないのだ。

 試験前というものは、既に理解している科目よりも、自分が最も苦手な科目の授業を受けに行くのが鉄則である。


 結果として、この部屋に集まっているのはラバックやエルン、あるいはあのヴァラキー姉妹といった「平民出身者だらけ」の極めてクリーンな空間になっていた。

 レンは過去の過酷な傭兵経験や生い立ちから、重度の「貴族アレルギー」を発症している。

 エキス・成分の配合NG、つなぎ(少しの関わり)も一切ダメ、という徹底ぶりなのだ。


「(でもレン先輩、ミカ様やクリス様の目の前では普通に接してますよね……? )」


 エルンが、レンの徹底した貴族嫌いに対して、至極当然の素朴な疑問を小声で投げ掛けた。

 レンは『あいつらはどう説明すべきか……』と非常に複雑な顔をしながら、ニーナの耳に絶対に届かないよう、極小のボリュームで話し始めた。


「(……あの二人は、何て言うか……貴族って感じがしねぇんだよ。もっと別の……もっと言うと、貴族特有のあの『鼻持ちならない偉そうな感じ』が一切しねぇだろ)」


「(貴族が全員偉そう、というわけでもないと思いますけど……)」


「(いや、俺が帝国で知ってる貴族どもは、どいつもこいつも救いようのない下衆ばっかりだったんだ。……だから、この国の貴族のほうがおかしいんだよ。いや、貴族に関わらず、この国の連中は全員どっかおかしいんだが)」


 ロディ団長にしても、王国最高峰の存在でありながら、ニーナのスパルタに耐える泥臭さがある。

 ミカやクリスも、伯爵家という大貴族の嫡子・次男でありながら、レンの前で見せる顔は「偵察部隊の有能な上官」であり「厳しい騎士」としての側面が圧倒的に強い。

 だからこそ、レンのアレルギーセンサーは彼らを貴族として感知せず、普通に接することができているのだ。


 ちなみに、教壇に立つニーナ・フォン・ローゼンタール自身も元は男爵令嬢という貴族の生まれだが、彼女が王宮の使用人として仕えると決めた際、実家から半ば勘当同然で追い出されている。

 今の彼女を構成しているのは貴族の血筋などではなく、単なる「おそろしい首席メイド(王宮の裏の支配者)」という強烈なアイデンティティのみであった。


 レンが明確な意思を持って語った偏見まじりの言葉に、ラバックは(この国の人間がおかしいのは否定できないな……)とスッと視線を逸らした。エルンだけが、能天気に『そうですかぁ……? 』と不思議そうに首を傾げている。

――が、そんな彼らのひそひそ話が、地獄の耳を持つ首席メイドに見逃されるはずもなく。


「そこの貴方たち。……随分と私語をする余裕があるようですわね? 」


 ピキ、と部屋の空気が凍りついた。


「それほど口が回るのでしたら、今から私が提示する『次の礼節に関しての持論』を、皆様の前で余すことなく述べていただきましょうか? 」

「「「ひっ……!! 」」」


 ニーナの感情を一切排除した冷徹な声が響き渡り、三人の口から同時に引きつった悲鳴が漏れた。

 それを見た周囲の平民騎士たちは、憐れみの視線を彼らに向けながら、(南無……)と心の中で無言の十字を切り、静かに目を閉じた。


 ◇ ◇ ◇


 特別に許された貴重な試験勉強の時間を終え、ほうほうの体で男子宿舎へと帰ってきたレンとラバック。

 首席メイド・ニーナによる苛烈なマナー講座で身も心も徹底的に絞り尽くされた二人は、先ほどまで食堂で食べていたはずの美味な夕食の味すら、恐怖の記憶で完全に忘れ去りつつあった。


「はぁ……マジで辛かった……。なぁ、ラバ……俺、ちゃんといつもの俺だよな? 人格とか、どっか歪んじまってねぇよな……? 」

「……大丈夫だよ……。多分、人格はいつも通り……のはず……。手遅れにはなってないよ……」


 なんとか互いに弱々しく声を掛け合うことにより、自身の人格破綻が起きていないことを確認した二人は、一日の汚れと疲労を洗い流すべく、そのまま大浴場へと向かった。

 いつもなら、ここは一日の汗を流して精神を落ち着かせられる至福の時間であるはずなのだが、今は地獄の試験期間中。


 流石に湯船でバシャバシャと泳ぎ出すような大馬鹿野郎もいなければ、心は乙女で身体はヘラクレスのリリアン医務官の物真似を大声で行い、「ギャハハ!! 」と下らない遊びで盛り上がるような不届きな輩も存在しない。

 脱衣場も浴場内も、皆が虚ろな目で法律の条文をボソボソと呟いているか、言葉少なく静かに明日の予定を会話している者ばかりであった。


(……いつもこれくらい静かならいいのにな……)


 そんな現実逃避に近い思考を巡らせながら、レンは手桶で熱い湯を頭から被った。

 大浴場の巨大な湯船にどっぷりと浸かり、凝り固まった筋肉をほぐしながら


「部屋に帰ったら、次はどの科目を勉強する? 」

「今夜は大人しく算術かな……」


 といったような、実に受験生らしい殊勝な会話を交わしていた、その時だった。


「な、無いっ!? 俺の……俺の最高級シルクの下着がぁぁ!!? 」


 大浴場外の脱衣場から、静寂を切り裂くような野太い絶叫が響き渡った。

 その大声が聞こえた途端、大浴場にいた数名の騎士たちの動きがピタリと止まる。


 この時間帯は珍しく入浴する騎士が少なく、どうやらほとんどの騎士は自室に籠もって必死に勉学に励んでいるようだった。

 大浴場は夜十一時まで入浴が認められているため、「まずはキリのいいところまで勉強を進めて、その後にゆっくり入浴しよう」との算段をつけていた者が多かったのだと思われた。


「なんだよ……もう面倒事は勘弁してくれよ……」


「『下着』って聞こえたよ。もしかして、うっかり持って入るのを忘れちゃったのかなぁ……」


「知らねぇ。俺は関わらないぞ、あいつは絶対に貴族だ」


「アレルギー? 」


「それもあるけど、シルクなんていう上等で軟弱な下着をわざわざ宿舎に持ち込んで履くのは、十中八九、実家が太い貴族の坊主だろ」


「わぁ、すっごい偏見」


 レンとラバックの間には、それぞれ『これ以上面倒事は御免だ』という拒絶と、『可哀想に……』という哀れみの雰囲気が漂っていた。

 周りの湯船の騎士たちも一瞬沈黙したものの、関わり合いたくないのか、すぐに何事もなかったかのように洗髪などの行動を再開した。

 だが、いつまでも脱衣場で叫び続けている騎士を鬱陶しく思った先客の騎士(ちょうど入浴を終えて体を拭いた者)が、文句を言ってやろうと脱衣場に繋がる重い扉を開けた――


「俺の! オキニのシルクのパンティがないんだよ!! 」

「うるさいなぁ……。無いなら無いでもうタオルでも腰に巻いて、さっさと自分の部屋から予備を取ってこいよ……」


『パンティが無い!!』 と大騒ぎする騎士を『アホらし』と一蹴し、その文句を言った騎士自身も、自分の着替えが入っている木製のロッカーを開けた。


 ――しかしそこにあるはずの、自身の私物が綺麗さっぱり紛失していることに気がついた。


「え……? 」


 衣服だけでなく、私物の替えの下着、果ては身に付けていた最低限の装飾品に至るまでが、忽然と消え失せている。


 これこそが、男子宿舎《銀狼のアルゲントゥム・ルプス》で発生した、前代未聞の怪奇不祥事事件――通称『宿舎下着大量失踪事件』の、記念すべき始まりの瞬間であった。


 窓の外の闇夜からは、そんな騎士たちの混乱を嘲笑うかのように、梟の『ホーホー……、ホッホー……』という、どこか不気味でのんびりとした鳴き声だけが、静かに響いていた。

 大浴場から出た先客の騎士は、一瞬、自分は試験勉強のしすぎでついに頭がおかしくなり、奇妙な白昼夢でも見ているのかと思った。

 だが何度瞬きを繰り返してみても、痛いほど頬をつねってみても、目の前には冷酷なほどに空っぽな木製のロッカーが佇んでいるだけだった。


「な、え? いやいや……おかしいだろ。俺は確かに、自分の服と着替えをここへ持ってきたぞ……」


「やっぱり下着泥棒だ! 許せない、断じて許せないぞ!! 」


「うるせぇ! 誰もお前のシルクのパンティなんて興味ねぇよ!! 」


 野太い声を張り上げながら、まるで悲劇のヒロインかのように乙女チックで不審な挙動を繰り返す同僚に、思わず全力でツッコミを入れたものの、もはや事態は笑い事では済まなかった。

 下着一枚程度であれば、うっかり自室に忘れてきたという可能性も微粒子レベルで存在するかもしれない。

 それでもロッカーに入れておいたはずのバスタオルや、その他の私物が一切合切紛失しているというのは、物理的にも常識的にもあり得ない話だった。


 それに彼が知る限り、この男子宿舎《銀狼の館》でこのような悪質な窃盗事件が発生したことなど、過去に一度としてない。

 そもそも、むさ苦しい野郎のパンティなど、一体どこの誰が好き好んで盗むというのだ。

 あのイケメン好きで心は乙女のリリアン医務官であったとしても、流石に盗みなどせず事前に許可を取るだろう。


 彼は大きな疑問と釈然としない思いを抱えながらも、脱衣所の隅に設置されているリネン棚へと視線を向けた。

 そこには、度々バスタオルを持って入り忘れるマヌケな騎士への救済措置として、寮長たちがバスタオルの予備を常備してくれているのだ。

 使った後に新しいものを補充しに来ない阿保な連中のせいで、棚に残っているバスタオルは僅か二、三枚しか残っていなかったが、今の彼の、小さめのフェイスタオル一枚しか握られていない現状からすれば、十分な命綱だった。


 少々面倒ではあるが、これで体を覆って自室まで新しい着替えを取りに戻り、その足で寮長に事の顛末を報告すればいい――

 しかし彼がこの後に直面するのは、そんな想定すらも容易く吹き飛ばされる、完全なる冷静さを欠いた大パニックの事態であった……。


  ◇ ◇ ◇


 その頃、大浴場の巨大な湯船の中では、脱衣所の方から響いてくる『下着泥棒だ! 許せない!! 』『誰もお前のシルクのパンティなんて興味ねぇよ!!』という、実に見苦しい怒号の応酬がすべて筒抜けになっていた。


「……マジで騒がしいな。あいつら何やってんだ。さっさと出て部屋に避難しようぜ、ラバ……」

「そうだね……。これ以上変なことに巻き込まれたくないし……」


 心底疲れ切った様子でげっそりとしているレンに、ラバックも力なく同意して湯船から上がった。

 彼らが脱衣所への扉を開き、困惑のまま立ち尽くす先客の騎士の後ろを通り抜け、自身のロッカーを開けて――


「ん? 」


 そこには何もなかった。レンは一瞬、内心で(……ロッカーの番号を間違えたか? 疲れすぎて頭がボケてんだな、俺も)と思考した。

 直後すぐ隣のロッカーを開けたラバックが、同じように信じられないものを見たという風に疑問の声を漏らしたことで、現実を突きつけられる。


「え……? 嘘だろ、俺の寝間着は!? バスタオルも無いんだけど!! 」


 その悲鳴のような声を皮切りに、続々と大浴場から脱衣所へと上がってきた他の騎士たちも、訝しげな顔をしながら各々のロッカーを勢いよく開閉していった。

 残念ながらどこをどう探そうとも、そこにはパンティ一枚、布切れ一枚すら存在していなかった。

 ある者は現実が受け入れられず、何度も何度もロッカーの扉を狂ったように開閉し、またある者は「隠されているだけだろ」と奥から順にロッカーを勢いよく引っぱ開いていく。


 しかし脱衣所にある全てのロッカーを確認し終えても、彼らの下着や衣服、私物はどこにもなかった。


「おかしい……。流石に、この場にいる全員分の着替えが同時に無くなるなんて、そんなことあり得るか……? 」

「え、本当に下着泥棒……? いや、この場合バスタオルや他の私物まで全部消えてるんだから、ただの変態の仕業じゃないだろ……」


 レンとラバックが事態のあまりの深刻さを嘆き、他の騎士たちも言葉を失って、一糸まとわぬ姿のまま呆然と立ち尽くす始末だった。


「俺のシルクのパンティが……! 下ろしたてのおニューだったのに!! 」


「お前のパンティの詳細な情報なんて誰も聞きたくねぇんだよ、少しは口を閉じてろ」


「でもよ、ある意味良かったじゃねぇか。新品のパンティで。これが履き古した使い回しのヨレヨレだったら、流石に盗んだ犯人のほうが不憫だわ……」


「犯人の心配をしてる場合かよ……! それより、これからどうするんだ? 」


 レンは背後で繰り広げられるパンティ野郎どもの不毛な会話を綺麗にスルーし、隣にいるラバックへと現実的な対処を問いかけた。

 ラバックは至極当然と言わんばかりに、リネン棚に残された数枚の予備のバスタオルを指差した。


「まぁ、不可解ではあるけど……とりあえず、あの予備のタオルを巻いて、ここから一番部屋が近い人がバスタオルとか、適当な服を全員分持ってくればいいんじゃ……」


 予備のバスタオルは、日頃から面倒くさがりな脳筋騎士たちが補充の手続きを怠ってきたせいで、この場にいる全員分こそ残っていなかったが、幸いにも三枚ほどは残っている。

 ラバックの最もな提案に同意した彼らの中から、大浴場から最も近い部屋に割り当てられている三人の騎士たちが選出された。

 彼らはバスタオルをバサッ! と、まるで戦地へ赴く英雄のマントのように格好つけて体に羽織りながら、脱衣所の扉の前に並び立った。


「行くぞ……お前ら。俺の背中を見てろ」


「おう! 頼んだぞ、兄弟ブラザー!! 」


「お前ら……そこで震えて待ってろ。必ず全員分の物資を手に入れて、無事に帰還してくるからな!! 」


「ただ自室から着替えを取ってくるだけだろ……。いいからさっさと行けよ」


 まるで命を賭けた決死の死地にでも赴くかのような、無駄に熱い緊迫感を演出する三人の全裸マント野郎ども。

 レンからの冷ややかなツッコミに、彼らは無言で親指を立ててサムズアップを見せると、ゆっくりと大浴場の外へと繋がる廊下への扉に手をかけた。


 大浴場の外の廊下は、試験期間中ということもあって、普段に比べれば非常に静まり返っていた。

 全裸にマント状態の三人は、奇妙な隠密行動で速やかに自室の扉の前まで辿り着き、安堵と共にドアノブを回そうとした――まさに、その瞬間であった。


「――そうそう! その時、リリアン教官がすっごい顔で迫ってきてさぁー!! 」

「えー!! なにそれ、ウケる!! 」

「それでそれで? その後どうなったのー!? 」


 本来、この時間帯の男子宿舎からは聞こえてくるはずのない、華やかで楽しげな『女子の声』が静かな廊下に響き渡った。

 しかも廊下の曲がり角のすぐそこまで、声の主たちが楽しげに近づいてきている。


「なっ……!? 何故、こんな時間に女子の声がするんだ……!? 」


「あ、忘れてた……!! 試験期間中に限っては、夜間であっても、教え合う名目でロビーの寮官に手続きさえすれば、午後十時までは女子の立ち入りが特別に許可されてるんだ……! 」


「やけに説明口調だな……?」


「待てよ……!! ということは、この男子宿舎のどこかに、女子と勉強する約束を取り付けた、憎むべき『裏切り者』がいるってことか!? どこの誰だ!! 探し出して吊るせっ!! 」


「そんなことを詮索している暇はないだろ!! 今すぐ隠れないと……! 早く部屋に入るぞ!! 」


 夜間の男子宿舎に女子が存在する=甘酸っぱい青春を送っている裏切り者の発覚、という一部の寂しい野郎共にとっては、規律違反よりも遥かに重い嫉妬と怨嗟の事態が発覚したものの、今の彼らはそれどころではない。

 このままでは、いくらバスタオルを羽織っているとはいえ、下着も履かずに公然と宿舎の廊下を徘徊している、ただの極悪な変態露出狂扱いされて社会的に抹殺されてしまう。


 女子たちの視線から何としてでも隠れるため、今度こそ必死の形相で自室のドアノブをガチャガチャと回した――が。


「あ、開かない……!? 」


「やべっ、部屋の鍵、服と一緒にロッカーに入れたままだ……! 」


「お前、何やってんだよ!!(←人の事言えない) 」


「だって! 鍵を持ったまま風呂に入ったら、お湯で錆びるかもしれないだろ!? 」 


 そんな絶望的なアホ会話を繰り広げている間にも、女子たちの談笑の声は、確実にこちらへと近づいてくる。

 もはやこれまでと、三人は大慌てで大浴場側へと全速力で引き返す選択をした。

 その猛ダッシュの最中――なぜか宿舎の床にポツンと転がっていた『バナナの皮』に、先頭を走っていた騎士の足が見事に乗っかった。


「うわっっ!!!? 」

「なんでこんなところにバナナの皮が落っこちてんだよぉぉ!!? 」


 派手に崩れ落ちる身体。そして、その衝撃で宙を華麗に舞うバスタオル。

 このまま女子たちの前に、一糸まとわぬ生まれたままの姿を晒すことだけは、騎士のプライドにかけて絶対に避けねばならない――


 そんな、生物としての本能にも似た危機的思考に支配された野郎共は、もはや宙に舞ったバスタオルを拾い上げる猶予すら諦め、なりふり構わず凄まじい速度の四足歩行に近い姿勢で足早に大浴場へと逃げ帰ったのだった。


 静まり返った宿舎の冷たい床には、男たちの唯一の命綱であったバスタオルが三枚、虚しくハラリと落ち、バナナの皮と共に残されたのだった――


 ◇ ◇ ◇


 大浴場の重い扉が、勢いよくバタンッ! と激しい音を立てて開け放たれた。

 そこに立ち尽くしていたのは、先ほど意気揚々とバスタオルを羽織って自室まで着替えを取りに行ったはずの、我が小隊の誇るべき精鋭——全裸マント野郎たちであった。

 ただし今は文字通り「完全なる一物もまとわぬ全裸」の姿で、魂の抜けたような顔をして震えている。


「……なんで全裸なんだよ。お前らの命綱だったバスタオルはどこへやったんだ? 」


 レンが呆れと戦慄の混ざった視線を向けると、先頭の騎士が悔しげに歯を食いしばりながら、悲痛な声を絞り出した。


「……裏切り者がいる!! 」


「はい? 」


「そうじゃねぇだろ! 外の廊下に女子がいるんだよ……! それで、その……」


「見つかりそうになって慌てて引き返す途中で、バナナの皮に滑って、バスタオルをですね……その場に全部、落としてきてしまいました……」


 その僅かな、かつあまりにも情けない会話から、脱衣所にいた全ての騎士たちが事の顛末を完全に察した。

 あまりの怒涛の展開とバカらしさに、しばらくの間、誰も言葉を発することができない。脱衣所の壁に掛けられた時計が、チッチッ……、チッチッ……と、虚しく時を刻む音だけが静まり返った空間に響き渡っていた。


 沈黙の後に爆発したのは、やはり「脳筋」たちのあらぬ方向への怒りだった。


「……裏切り者だとぉ!? くそっ!! 宿舎の夜間立ち入り許可を利用して、女子たちと仲良く勉強会だとぉ!? 断じて、断じて許せん!! 」


「そうだ!! 男同士の『試験期間を血を吐きながら耐え抜く』という暗黙の約束を破るとは……! 普通、こういう時は虚しく野郎共だけで集まって、傷を舐め合いながら勉強するもんだろ!? 」


「お前ら落ち着け、論点はそこじゃない。悔しがるベクトルが完全に間違ってるだろ」


 下着や着替えの謎の紛失事件よりも、なぜか「女子と勉強している裏切り者の捜索・処刑」を最優先させようとする血気盛んな騎士たちを他所に、レンとラバックは深い溜め息をついた。


「仕方ねぇな……。なら、次に風呂に入って来た奴を見つけて、事情を話して服を持ってきてもらうように頼むしかねぇだろ」

「うん、そうだね。それしか確実な方法はないよ……」


 壁の時計に目をやると、現在の時刻は午後八時過ぎ。

 大半の騎士たちは直前まで自室で必死に試験勉強を優先させているはずで、彼らが一息つきに入浴しにやって来るのは、おそらく午後十時前後だろう。


 ――つまり、このまま次の入浴者を待つとなると、あと二時間近くもこの狭い脱衣所で、全員で前を隠すこともなく完全な全裸のまま待機しなければならないのだ。


「そんなに待てるか!! 勉強を教えてもらっている裏切り者の処刑が先だっ!! それに、そんなところで二時間も無駄に過ごしたら、俺たちの貴重な試験勉強の時間がゴリゴリ減るだろうが!! 」


「別に誰と勉強したっていいだろ。……っていうか俺たち第六小隊だって、普段はエルンと一緒に勉強してるし」


「は? 」

「あ? 」

「ん?」

「はぁん?」

「黙れ」 


 レンが至極当然のこととして口にした何気ない一言が、出会いのないむさ苦しい野郎どもの嫉妬の炎に油を注ぎ、さらなる怒りを増幅させる。

 一方で辛うじてまだ理性が残っている一部の騎士たちは、この絶望的な現状をどう打破すべきか、頭を抱えて悩んでいた。


「でも、本気でここで二時間も待つか? 流石に全裸のままだと、夜の宿舎は冷えるし風邪を引くかもしれないぞ」


「フン、この《銀狼の館》に住む精鋭が、このくらいの寒さで風邪なんて引くわけねぇだろ。けど……確かに、このまま何もしないで時間を無駄にするってのも、流石に……」


 脱衣所の隅には、長風呂による脱水症状対策として、常に冷たい水が湧き出る《自動水分補給機(別名ウォーターサーバー)》という便利な魔道具が設置されている。

 そのため水には困らないが、それ以外には体を隠せるような衣類や布切れといった必要最低限の物すら一切用意されていなかった。


「……やっぱり、このまま全裸で外の廊下に出るしか……! 」


「正気かお前!? 外には恐ろしい魔獣(女子騎士たち)が蔓延っているんだぞ!! 」


「お前、その偏見いつかシリカちゃんか首席メイドに刺されるぞ」


 ラバックは呆れながらも、現状を打破できる突破口がないかと、脱衣所に置いてある備品をもう一度隅から隅まで血眼になって確認した。

 大きめの洗面台、鏡、備え付けのドライヤー……

 そして、彼の鋭い目が、一つの物にピタリと止まった。


「これは……使えるかもしれない」


 ラバックが指差したのは、脱衣所の隅にある大きなゴミ箱――正確には、そのゴミ箱の内側に取り付けられている「ゴミ袋」だった。

 幸いなことに、夕方に清掃員によって取り替えられたばかりなのか、中には何も入っていない新品の状態だ。

 しかも好都合なことに、中身が透けて見えない、分厚い「黒色のゴミ袋」だった。


「これ……上手く破いて加工すれば、最低限の隠し服として使えないかな? 」

「えぇ……マジで言ってる? 」


 レンが「流石にそれは……」と引いた顔で困惑する側で、さらなる新たな戦略物資を見つけた別の騎士が、狂喜乱舞した大声を上げた。

 彼は《自動水分補給機》の横に綺麗に積み上げられていた、水分補給用の使い捨てコップ――すなわち「紙コップ」を両手に大量に掴んでいた。


「おい、それを一体何に使うんだ!! そんな紙コップを使ったところで、俺の失われた最高級シルクパンティが戻ってくるって言うのか!? 」

「お前は一回シルクパンティの概念から離れろ!! 」


 紙コップを手にした騎士は、レンのツッコミなど耳に入らない様子で、無言のまま真剣な目付きで紙コップの解体作業を始めた。

 二つ、あるいは三つの紙コップをベリベリと器用に広げ、指先や爪を使って絶妙な切り込みを入れていく。

 そして、それらを複雑に繋ぎ合わせることにより――前方の「最も大事な部分」の形状にぴったりとフィットする、頑丈な即席の防護パーツを作り上げたのだ。


「いや……無理だろ、それじゃ隠しきれてねぇよ」


「バカ言え! これさえあれば、ゴミ袋の隙間から不意に見える大惨事を確実に防げる――防壁シールドになるんだよ!! 」


「お願いだから一度冷静になってくれ」


 大量の紙コップと、予備の黒いゴミ袋。

 手元にあるわずか数種類の限られた物資を駆使して、即席の戦術装備を作成する。

 それはまさに、数々の過酷な戦場で培われてきた、騎士団のサバイバル経験の結晶そのものであった。

 騎士たちは心の中で、日頃から過酷な野外演習でサバイバル技術を叩き込んでくれたロディ団長に、深く感謝した。


 もっとも、当の団長本人はまさか自分が教えた高尚な極限環境生き残り技術が、夜の宿舎で「盗まれた下着の代わりの前隠し」を作成するための中修剣士レベルのバカ騒ぎに使われているなど、夢にも思っていないだろうが。


 かくして極限状態の脳筋騎士たちは、リネン室の予備の黒ゴミ袋と紙コップを全て使い果たし、各々の前線防護装備(?)を完璧に整えた。

 大事な局所だけを紙コップの装甲で頑強にガードし、その上から黒ゴミ袋を破いて作った即席の腰巻き、あるいはマントを纏う。

 そしてこれから命懸けの戦場へと赴く本物の騎士団のように、無駄にキリッとした凛々しい表情で、一列の美しい隊列を組んだ。


 せめて表情だけでもガチの真面目にすることにより、『俺たちは今、何一つとして恥ずかしい不祥事を起こしていない!! 規律に従って行動しているだけだ!! 』と、その全身で体現するかのように――


「絶対無理があるだろ。なぁ……もう俺、この作戦に加わるの嫌なんだけど。部屋に帰らせてくれよ」


「レン!! 弱気になっちゃ駄目だ!! ここで脱落したら終わりだぞ! 生きて一緒に、明日の朝礼の朝日を拝むんだ!! 」


「なんで着替えを取りに行くだけで生死を彷彿とさせる会話になってんだよ!! 」


 こうして、黒ゴミ袋の黒装束と紙コップの新型装甲で武装(?)した、怪しすぎる筋肉魔人の変態集団は、大浴場の外という「女子騎士(魔獣)が蔓延る未知の戦場」へ向けて、力強く一歩を踏み出したのだった。


 ◇ ◇ ◇


 深夜の男子宿舎《銀狼のアルゲントゥム・ルプス》――その静まり返った冷たい廊下を、物音一つ立てることなく、紙コップと黒ゴミ袋の超軽装備(?)に身を包んだ筋肉魔人の集団が進んでいく。

 前方を極限の緊張感で歩いていた一人の騎士が、気配を完全に殺しながらも、切羽詰まった声を絞り出した。


「……止まれ。あれが、例の戦禍の跡だ……」


 一同が視線を落とした先には、宿舎の床にシュールに転がっている『バナナの皮が一枚』その側に落ちていたはずの命綱――三枚のバスタオルは、跡形もなく消え去っていた。

 おそらく、先ほど通りかかった女子たち(魔獣)は、廊下に落ちていた見覚えのないバスタオルを不審に思って速やかに回収したものの、足元の小さなバナナの皮には気がつかずに通り過ぎてしまったようだった。


「くそ……!! 俺たちの、俺たちの数少ない大切な命綱が……!! 」


「なんてことだ……。証拠隠滅まで完璧に行うとは、奴らは人の皮を被った悪魔の集団だ……!! 」


「……モウオレ、ツッコマナイ(ツッコんだら負けだ。ただのバカだろこれ)」


 虚無の境地に達し始めたレンを置き去りに、彼らは極めて慎重な足取りで廊下の奥へと突き進む。

 いつどこから魔獣が現れるか分からないからだ。


「それで……俺たちは一体どこに向かってるんだ? 」

「決まってるだろ、リネン庫だよ! 」


 自室の鍵をご丁寧に全員揃って「お湯で錆びるから」とロッカーの服の中に放り込んできたせいで、全員が自室の前に辿り着いても中に入れないという致命的な現状。

 日頃はあれほど面倒くさがりな脳筋の癖に、なぜ自室の鍵だけは律儀に施錠して出かけているのか。


――それはひとえに男たちの部屋には、他人(特に女子や寮長)には絶対に見られたくないアレやコレやの秘密の私物が保管されているからに他ならなかった。


「リネン庫なら、何かしら体を覆える布があるはずだろ」


「でも、こんな時間じゃ使用済みの汚れたタオルしか残ってないんじゃ……」


「バカ野郎! なんで使用済みの汚れたタオルを使う前提で話を進めてんだ!! そこは普通、まだ洗濯されていない新品の予備タオルが保管されてるだろ!! 少しは頭を使え!! 」


「しっ!! お前ら声が大きい!! 魔獣に感知されるぞ!! 」


 彼らが目指すのは宿舎の物資の要、リネン庫――しかし悲しいかな、この広大な宿舎において、大浴場からリネン庫までは相当の距離がある。

 そこに辿り着くまでに、女子騎士たちとの遭遇は何としても、絶対に避けなければならなかった。


 その刹那。

 虚無の目をして馬鹿げた会話を脳内から完全シャットアウトしていたレンの鼻が、ピクリと不穏な動きを見せた。

 鼻の奥がムズムズとするような、全身の細胞が拒絶反応を起こすかのような、嫌な既視感。これは――


「――!? 伏せろ、貴族だ!! 濃厚な貴族の臭いがこっちに来る!! 」


「な、何ぃぃぃ!!? 」


「お前便利だな! 高性能な貴族感知器じゃん!! 」


「感心してる場合かバカ野郎!! ここで見つかったら『変態ですわぁぁぁーー!! 』って叫ばれながら、この悲惨な現状が瞬時に宿舎内を駆け巡り、明日の朝刊(王族新聞)の表紙を飾ることになるんだぞ!! 」


 間違いなく、王族新聞の熱血記者ローラ・ラウラント・ヴィッツに、情報源の貴族経由でネタを売られ、スクープ激写される未来が確定してしまう。

 しかし、大浴場から中途半端な位置まで進んでしまっていた全裸紙コップ騎士たち。

 今さら踵を返して大浴場まで走って戻る猶予はない。同時に、レンの鼻は容赦なく貴族(魔獣)の到来を近くに感知し続けている。


「おい、もう足音がすぐそこまで……! 」

「くそっ! 已むを得ない、全員、壁と同化しろ!! 」


 あろうことか、紙コップと黒ゴミ袋を纏った野郎共は、廊下の壁際に直立不動でピタリと張り付いた。

 息を完全に殺し、まるで戦場で強大な魔獣の視線をやり過ごす時のように――あるいは偵察部隊の隠密任務さながらの超真剣な挙動で。

 運良く廊下の壁にはいくつかの風景画の絵画が飾られており、彼らはその絵画の「背景」の一部にでもなったかのようにピキッと凝固した。

 中には廊下の端に設置されている休憩用ソファーの僅かな隙間に強引に自身の肉体をねじ込み、必死にソファーのクッションの真似をしている涙ぐましい脳筋までいる始末。


 ――そして、ついに角の向こうから『それ』が現れた。


「もう……クジでハズレを引くなんて、本当にツイてませんわ……。それで、お目当てのラウンジは一体どこにありますのかしら……? 」


 そこに現れたのは、見事な縦ロールの髪を揺らした、完全な私服姿の貴族の令嬢(女子騎士)であった。

 彼女の手には、どうやら試験勉強の合間のクジ引きで「ハズレ(買い出し担当)」を引いてしまったらしく、くじ引きのハズレが握られていた。


 男子宿舎に足を踏み入れるのが初めてなのか、彼女は完全に道に迷っている様子で、キョロキョロと周囲を見回しながら歩いていた。

 幸いにも壁の不審な黒ゴミ袋人間や、ソファーに挟まっている筋肉にはまだ視線が向いていない。

 しかしこのまま彼女が視線を彷徨わせ続ければ、彼らの紙コップ装甲の真実が白日の下に晒されてしまうのは時間の問題だった。

 極限の緊迫感。誰の肌からも、生気のない冷や汗が流れる。


 その時――壁の絵画になりきっていた一人の勇気ある騎士が、まるで一流の執事か紳士のような、極めて落ち着いた、これ以上ないほど甘く素晴らしい声色で、静かに声をかけた。


「――お嬢さん。ラウンジをお探しでしたら、そこの角を左へ曲がった先ですよ」

「あら? ――ありがとう。助かりますわ!! 」


 勉強中の仲間たちを待たせていてかなり急いでいたのだろう。

 貴族の少女は、声の主の姿を一目見ることもなく、ただ教えてもらった廊下の先を目指して、足早にパタパタと左側の角へと走っていった。


 パタパタと足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなる。

 脱衣所の面々が一斉に「ぷはぁっっ!! 」と堰き切ったように息を吐き出し、へなへなと崩れ落ちた。


「……すげぇよお前。あの状況で声をかけるなんて、お前なら今すぐ《十二勇士》の末席にでもなれるぜ……」


「フッ……。まぁな……。騎士たるもの、迷える淑女を導くのは当然さ……」


「こんな、前隠しが紙コップっていう最悪の状況じゃなかったら、本物の英雄だったんだがな……」


 レンはあまりにも馬鹿馬鹿しすぎるこの現実に、天を仰いで静かに溜め息を吐いた。

 命の危機——社会的な意味で——を乗り越えたとはいえ、目的地であるリネン庫まではまだかなりの距離がある。


 ふと、レンは廊下の大きな窓から外の世界を見やった。

 そこには、宿舎内のあまりにもマヌケで凄惨な変態劇など一切関知しない、清々しいほどに見事な満天の星空が、ただ美しく瞬いていた。

最後までお付き合いいただきありがとうございました!

こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。

これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!


あなたにも風の導きが有らんことを

にしみん

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