暗中模索
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迷いながらも答えを探す、小さな騎士のお話です。
あの後どうやって寮の自室まで帰り着いたのか、よく覚えていない。
ただ、同室である姉のシノンに手を引かれるままに、夕闇に染まる寮の廊下を力なく歩いた気がする。
シノンは何も言わなかった。責めることも、無理に励ますこともしなかった。
部屋に入るなり、すべてを察したかのように私の身体を優しく、壊れ物を扱うように抱き締めてくれた。
今の私にはどんな慰めよりも、その言葉を伴わない姉の静かな優しさが心地よかった。
翌朝、珍しく早い時間にパチリと目が覚めた。
騎士団に加入したばかりの直後なら、時計のアラームをあらかじめ十分早く設定して行動するなんて、考えもしなかっただろう。
少しずつ、本当に少しずつではあるけれど、自分は――自分たち姉妹は確かに変わり始めていて、成長していっている筈だった。
最初は騎士団の朝礼で行われる唱和すら、馬鹿馬鹿しいと突っぱねて口にしなかったのだから。
――思えば、彼らとの出会いは最悪以外の何物でもなかった。
まだ私たちが暗殺者だった頃。組織――【嗤う骸骨】の命令に従って、アンティノス男爵の元へ送り込まれ、言われるがままに対象の護衛をし、命じられるままに人を殺していた。
それだけが私たちの世界の全てであり、日常だった。
大体の人間は、私たちの少女という見た目に騙されて油断する。
まさか年端もいかないメイド姿の少女がそのスカートの裏に鋭い短剣を隠し持っていて、確実に首の動脈を狙って跳んでくるなんて、夢にも思いもしなかっただろうから。
初めて人を殺したのも、そうするしか生きるための選択肢がなかったからだ。
孤児院という名の地獄から這い出し、泥水をすすって生き延びるためには、手を血で汚すしかなかった。
最初から冷酷に出来たわけじゃない。
初めて標的の命を奪った夜は、恐怖と罪悪感で足がガタガタと震えて、何度も、何度も声を上げて泣き叫んだ。
自分が殺した人間の顔が、夜の暗闇から何度も夢に出てきて、何日も眠れない夜を過ごした。
――けれど、人は恐ろしいほどに『慣れる』生き物である。
回数を重ねるごとに、人殺しはただの「作業」へと変わっていき、心は何も感じなくなった。
血の通わない、淡々とした硝子細工のような日常。
そんなある夜。
月明かりすら届かない男爵邸の庭園で、私たちはきっと、運命に出会ってしまったのだ。
今となっては、それもすべて終わった夢。
いつかこんな風に無残に終わると最初から知っていれば。あの夜の出逢いが、手を伸ばせば消えてしまう泡沫の夢だと気付いていれば。
きっと私はあの夜、あんな風に心を奪われることもなく、すべてを諦めて冷たい肉塊になっていた筈だったのだ――
——回想三ヶ月前
深夜の静寂に包まれたアンティノス男爵邸。
月明かりさえも重い雲に遮られたその刻、私は昼の完璧なメイドの仮面を剥ぎ取り、夜の獣――暗殺者としての衣を纏って影から滑り出した。
その瞬間。
————キィィィィィィィン!!!
鋼と鋼が激しくぶつかり合う、耳をつんざくような火花が闇を裂いた。
「……ッ!」
私の放った必殺の短剣が、重い一撃によって完璧に受け止められる。その凄まじい衝撃に腕が痺れた。
目の前に立ちはだかっていたのは、薄い紺色の髪を揺らす少年。
翡翠色の瞳は一見眠たげでありながら、その奥には獲物を決して逃さない捕食者の鋭い光を湛えていた。
「……まあまあ、か」
ナイフを指先で軽妙に弄ぶ彼の所作には、戦場を「遊び場」と割り切る圧倒的な強者の余裕があった。
「……何者」
「見て分からないか? 俺は【騎士】だ」
私の脳裏に激しい動揺が走る。騎士団が男爵の周辺を探っていることは知っていた。
だがこれほど若く、これほどまでに完璧に気配を殺せる「騎士」など聞いたことがない。
私は一呼吸置き、暗闇に潜む私の「半身」姉・シノンの合図を待った。
「——くっ!」
予備動作の全くない、雷鳴のような少年の連撃が私を襲う。
私は防戦一方となり、必死にステップを踏んで距離を取る。少年がその懐へ深追いしてきた瞬間、私の口元に微かな笑みが浮かんだ。
(かかった……! お姉ちゃん!!)
姉のシノンが、死角である背後から少年の項を狙って飛び出す――
けれど、瞬く間に。
「残念」
少年の声が、楽しげに響いた。
「——……!お姉ちゃん!!!」
私の叫びは、闇から忽然と現れた「もう一人の少年」によって遮られた。
「――甘い。常に後ろには警戒を」
漆黒の髪を夜風に揺らした少年が私の目の前に立っていた。
彼の栗色の瞳は冷徹なほどに澄み渡り、その手には透き通るような銀色の短剣が握られている。
「終わりです。僕の剣技は団長譲り。これこそ【ヴァルンクラッド流】の真髄――最速・最短の居合です。貴女の速度では、捉えることもできないでしょう」
————閃光。
私の視界から、完全に黒髪の少年の姿が消えた。
寸刻、私の腹部に走ったのは鋭い痛みではなく、熱く重い衝撃だった。
少年の短剣が私の急所を的確に、しかし確実に殺さぬ程度に貫いていた。
————なんて、美しい
口から溢れ出す熱い血の味と痛みの向こう側で、私は自分と同年代のあどけなさが残る少年の、あまりにも無駄のない洗練された動きに、不謹慎なまでの心酔を覚えてしまっていた。
それが、すべての始まりだった。
「シノア!!!」
地面に倒れ伏す私の視界の端で姉のシノンがもう一人の少年によって地面に組み伏せられていた。
シノンは死に物狂いで抵抗し、一度は少年の拘束を撥ね退けたが、彼女の背中には既に冷たい刃が突き立っていた。
それは彼が指先で操作する、極細の魔導糸によって軌道を変えた投擲ナイフ。
「だから言ったろ? 後ろは常に警戒しておけって」
薄い紺色の髪の少年は翡翠色の目を猫のように細め、動かなくなった私たちを見下ろした。
最強の騎士団長・ロディと、不老の魔法使い・ルーシャによって徹底的に鍛え上げられた若き天才たちにとって、孤児院育ちの暗殺者姉妹などまだまともに飛ぶこともできない「雛」に過ぎなかったのだ。
——奈落の底、昏い真実の始まり
その後私たちは王宮の最深部、石壁が冷たい湿気を帯びた地下牢獄へと連行された。
拘束魔道具の鎖に繋がれ、床に転がされていた私たちを待っていたのは、光の一切届かない「法の外側」の領域。
容赦のない尋問——いや、拷問だった。
「んで、コイツらいつ起きるんだよ」
気だるげに呟く少年の横で、黒髪の少年が一歩前へ踏み出す。
その栗色の瞳には、少年らしい慈悲の欠片も宿っていなかった。
「……時間の無駄ですね。起こしなさい」
少年の無情な命令に従い、拷問補佐官が手にした桶を傾けた。
中に並々と注がれていたのは、湯気が立ち昇るほどの熱湯。それが容赦なく、無防備な私たちの肌へと浴びせられた。
「―――あ……っっっ!!!」
肉の焼けるような激痛が、私たちを強制的に覚醒させる。
叫び声を上げる私たちの前に、二人の少年は死神のように冷酷に立ちはだかった。
「……っ!! こ、の下郎が……!」
「鏡を見ることをお勧めしますよ」
私の罵倒を黒髪の少年が冷たく撥ね退ける。
「でさ、お前ら何人殺した?」
「……八人」
私が苦し紛れに絞り出した嘘を、黒髪の少年の瞳が残酷なまでに細められて切り捨てる。
「……嘘は吐かなくていいです。 貴女たちのその染み付いた『動き』が、既に答えを出している」
「二十……いや三十以上は殺してるだろ。分かるんだよ、お前らがどれだけ命を『使い捨て』てきたか」
殺した相手への敬意も、奪った命の重みも知らず、ただ「仕事」の延長線上で引き金を引いてきた雛たち。
ファーレンガルドとオルティという、王国の影を担う名家に生まれ、命の「業」を背負わされてきた二人は、私たちのその「軽薄さ」が、何よりも許せなかったのだ。
「……だったら、何?」
私のその一言が決定打となった。少年の瞳が怒りに震える。
「……始めてください」
拷問官の短剣が、姉のシノンの肩口へ容赦なく振り下ろされた。
「―――がぁ!! ……ぐっ……!!」
「貴女が正しい選択肢を選ばない限り、こうなります。……次は爪を剥がしてください」
「話す!! 話すから!! 止めて!! お姉ちゃんだけは!!」
どれだけ虚勢を張ろうとも、私の精神は脆かった。
水槽へと何度も沈められ、肺を水で満たされ、限界を超えた苦痛の中で、姉がこれ以上傷つけられる恐怖に耐えかねて、私は全てを――孤児院『エレーネ・フィールドハウス』で行われていた【新型エーデン】と魔獣【恐魔】を巡るスカル・コフィンとの共謀の全容を、狂ったように吐き出した。
全てを白状し、涙と汚物に塗れて床に這いつくばる私たちを、黒髪の少年はどこまでも冷たい執行者の瞳で見下ろした。
「……よく吐きました。拷問官、彼女たちを個別の独房へ。治療は……死なない程度で構いません。まだ裏付けを取るまでは『鍵』として生かしておきます」
「シノン……お姉ちゃん……っ……!」
「……黙りなさい。貴女たちの罪も、まだ消えたわけではありませんよ」
冷たく言い放たれたその言葉を最後に、地下牢獄の鉄扉が重々しく閉ざされた。
――あの暗闇の中で、私たちは絶望していた。
自分たちが犯してきた罪の重さ、そして絶対に敵うはずのない騎士団という組織の圧倒的な「力」の前に。
だからこそ、その後にロディ騎士団長から提示された「司法取引」という名の蜘蛛の糸に、私たちは縋り付くしかなかった。
それ以外の選択肢なんて、最初から存在しなかったのだ。
ロディ団長は、実力の乏しい私たちをスカル・コフィンの粛清から守るために、あえて騎士団という目の届く場所に置く決断を下した。
それが彼なりの、残酷な中にある最大の「慈悲」だったのだと、今なら理解できる。
――けれど、シノア。
お前はそんな地獄のような始まりだったはずの相手に、あろうことか恋なんていう、身勝手で泡沫の夢を見てしまっていたんだ。
目が完全に冴え渡り、シノアはベッドの上で小さく膝を抱え込んだ。
窓の外からは、夜明けを告げる鳥の声が静かに聞こえ始めている。
ミカへの初恋という、あまりにも苦すぎる夢から目覚めた少女の、本当の意味での模索の戦いが、ここから始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
東の空から、じわりと力強い朝日の光が差し込んできたのを確認し、私はゆっくりとベッドから足を下ろした。
ふと視線を巡らせれば、いつの間にか目を覚ましていた姉のシノンも、既に静かに身支度を始めていた。
無言のまま鏡の前で騎士団の制服に袖を通しながら、私の胸の奥は鉛でも詰め込まれたかのように重く沈んでいく。
正直に言って、この後朝礼の場でファーレンガルド……ミカと顔を合わせるというのは、『気まずい』なんて生ぬるいレベルではない。
昨日あれほど残酷な現実を突きつけられて、完全に失恋したのだと嫌というほど自覚させられた。
それなのに情けないことに、私の心は未だに彼のことが――好きなのだと、胸の痛みが証明している。
「………っ」
込み上げてくる感情を堪えるように思わず小さく息を漏らすと、私のその微かな様子にすぐさま気付いたお姉ちゃんが、そっと優しく声をかけてくれた。
「シノア……」
その声音に含まれた温かさに触れるだけで、自分はなんて幸運なのだろうと、心の底から理解できた。
スカル・コフィンという地獄から抜け出し、こんなにも苦しい時に、何も言わずにただ寄り添って傍に居てくれる存在がある。
それは何よりも得難い、私にとっての救いだった。
お姉ちゃんに伴われ、私たちは重い足取りのまま朝礼が行われる広場へと向かった。
宿舎で暮らす騎士が大多数を占めるこの聖ラウラント騎士団では、宿舎の規模も大きく男女それぞれ四つに分けられている――らしい。
らしい、というのは私たち姉妹は基本的に自分たちが割り当てられた暮らす宿舎にしか行かないし、そもそも団内に知り合いなんて片手で数える程度しかいないからだ。
わざわざ他人の、それも別の宿舎に出向くような用事などあるはずもなかった。
そんな漠然とした、どこか現実逃避じみた思考を頭の片隅に抱えながら歩いているうちに、無情にも足は広場へと到着してしまっていた。
広場には、既に多くの騎士たちが集まっており、それぞれの小隊ごとに談笑を交わしたり、入念な準備運動を始めたりしていた。
そして――人混みの向こうにその姿を捉えてしまった瞬間、私の心臓がドクリと跳ねた。
「あ……」
ミカ。今この瞬間に世界で一番会いたくない少年の姿が、そこにあった。
昨日の夕方、私のことを純粋に心配して差し伸べてくれたあの手を、拒絶するような形で振り払って飛び出してしまった。
その罪悪感と情けなさのせいで、どうしても彼と目を合わせることができない。
いつもならどんなに空回りしていても、見姿を見つければ自分から真っ先に『おはよう』の一言を弾んだ声で言えていたのに、今の私にはその一言すら喉に引っかかって出てこない。
伏目がちになる私の気配に気付いたのだろう。
ミカはこちらへと視線を向け、一瞬だけその端正な顔に表情の読めない――いや、私を冷徹にじっと観察しているかのような独特の表情を浮かべた。
身構える私の緊張を余所に、彼はいつもの通り、過不足のない丁寧で澄んだ声色の挨拶を投げかけてきた。
「おはようございます」
――え??
そのあまりに自然な態度に、私の頭の中には一瞬で疑問の嵐が吹き荒れた。
普通あんな酷い別れ方をして突っぱねたのだから、少しは嫌味を言われたり、一言くらい怒られたりしてもおかしくないはずだ。
しかし私の前に立つミカの佇まいには、微塵の揺らぎも変化も見られない。
まるで昨日の出来事など、何一つとして無かったかのような、いつもの「偵察部隊隊長」としての冷徹で完璧な姿だった。
自分の想像していた最悪の態度とあまりに違いすぎて、私はどんな顔をしてどんな反応を返せばいいのか完全に分からなくなってしまう。
戸惑う私を気遣うように、少し離れた場所にきっちりと整列していた第六小隊の列の中からエルンが、心配そうにこちらへと視線を投げかけてくれているのが見えた。
私は胸の動揺を必死に抑え込み、彼女に向けて、なんとか「大丈夫」という意味の笑みを顔に貼り付け、声を捻り出すことに成功した。
やがて定刻となり、騎士団の朝礼が始まった。
皆が整列する前へと、騎士団長であるロディ・グランベルクが堂々たる歩調で立つ。
その傍らにはまるで影のように、副団長のフリンズがいつもの鋭い双眸を光らせて控えていた。
「朝礼を始める!何か報告があるものは!?」
ロディ団長の良く通る声が広場に響く。毎日、朝礼の最初に行われるこの報告の時間。
各部隊から共有すべき事項があれば、この場で全体の耳に入れられる。
それは軍事的な重要案件から、呆れるほど些細な日常のトラブルまで様々だ。
一人の騎士が、少し引きつった顔で挙手して前に出た。
「団長……先日のメアリ王女の『リアルおままごと』の件なのですが……」
「またか……それは報告しなくていい。どうせまた……あー……なんだっけ?」
その言葉を聞いた瞬間、ロディ団長は心底からうんざりしたように眉根を寄せた。
「『ファム・ファタール ~もう一人の貴方を愛してしまった~』です」
横から、フリンズ副団長が一切の感情を排した声で流暢に補足する。
「あー、それそれ」
ロディ団長は、本当にどうでもよさそうな声色で手を振った。
「騎士団から人員も物資も出すつもりはない。これ以上はニーナ案件だ」
「は、はい……ですよね! あはは……」
首席メイドのニーナの名前が出た瞬間、報告した騎士は引きつった苦笑いを浮かべ、そそくさと自分の列へと下がっていった。
周囲の列からは、声を潜めた騎士たちの私語が小さく漏れ聞こえてくる。
「(どうでもいい報告だな……)」
「(仕方ないさ、メアリ殿下のあの天真爛漫な我が儘っぷりを知っているだろ?)」
「(最近はファム・ファタールとかいうお芝居にご執心だから脱走もないしさ、俺たちとしては余計な捜索仕事が減るじゃないか……)」
そんな会話を耳にしながら、私は内心で呆れを禁じ得なかった。
この騎士団に司法取引で所属するようになってからそこそこの月日が経過するが、やはりこの国の中心は、根本的な部分から何かがおかしいのではないだろうか。
「報告は以上か? それでは!!」
「「「「「!!!!!」」」」」
突然、ロディ団長が鼓膜を震わせるような大声をあげた為、周囲の騎士たちが一斉に肩を震わせた。
また誰かが裏でとんでもないやらかしをして怒りを買ったのかと、皆がそわそわと視線を交わす中、冷徹に一歩前へと踏み出したのは副団長のフリンズだった。
「二ヶ月に一度の『試験』の範囲をこの後発表します。基本の外周三十周は免除しません。――いつもの事ですが」
「ぐわぁぁぁぁ!!!!!」
「この前やったばっか!!!(※ちゃんと二ヶ月経ってます)」
「今回はどんな滅茶苦茶な範囲なんだ……」
その冷酷な宣告が下された瞬間、広場は文字通りの阿鼻叫喚、地獄絵図へと一変した。
常であれば、厳格なフリンズ副団長が『静粛に』『私語を慎みなさい』と冷たく一刀両断する場面だが、彼にも僅かばかりの道徳心や部下への同情があるのか、今はただ無表情のまま、絶望に身をよじる部下たちを上から見下ろしている。
「言っておくが、赤点を取った者は……分かっているな??」
不敵な笑みを浮かべたロディ団長から放たれる無言の圧力が、広場の空気をずっしりと重くしていく。
いや、重いなどというレベルは疾うに通り越して、肌がひりつくような明確な脅迫の域に達していた。
私たちの少し前方、第六小隊の列からも、魂の抜けたような声が聞こえてくる。
「……ラバ……俺、今回ばかりは本当に駄目かもしれん……」
「しっかりしろ!! レン!! 一緒に生き抜いて、次の安息日に期間限定の『銀鹿亭のお肉ドンドン』を食べに行くって誓い合ったじゃないか……!!」
「今朝見た予知夢は……このことですかぁ……!!」
レンが頭を抱え、ラバックが必死にそれを鼓舞し、エルンが自身の正確すぎる予知夢の不吉さに涙目になっている。
一方、私たちの所属する偵察部隊の列でも、試験についての会話が繰り広げられていた。
「やべ、もうそんな時期かよ……」
自信家な面のあるクリスが、翡翠色の瞳を僅かに揺らしてぼやく。
「クリス、君『神聖語』の科目が絶望的ではありませんでしたか……?」
その隣から、ミカが一切の容赦のない、核心を突く毒を淡々と吐き出す。
「言うなよ……ミカ……」
「試験かぁ……遠征中は試験なんてなかったから久しぶりだなぁ……」
偵察部隊副隊長のシルフィーネが、眠気を噛み殺した様子で呟いた。
ミカとシルフィの落ち着き払った様子を見る限り、やはりあの上位陣の二人にとっては、この地獄の試験すら余裕の範疇なのだろう。
――ヤバい……!! 何がって、私、全科目ヤバい……!!!
自身の現状を顧みた瞬間、私の脳内に真っ白な雷撃が走った。
何せ、前回の試験での私は見事なまでにすべての科目で赤点を叩き出し、地獄の『追試パーティー』——当時は優しく教えてもらえるアットホームなものだと本気で信じ込んでいた——という名の精神的処刑を経験したのだ。
今回もまた、あの悪夢のような追試パーティーに強制参加させられるなんて、絶対に!絶対に御免被りたい!!!
「お、お姉ちゃん……」
恐怖にガタガタと震えながら、私は隣に立つお姉ちゃんの制服の袖を必死に掴んだ。
「シノア……」
振り返ったシノンの顔も、いつもの冷静さを完全に失い、幽霊でも見たかのように青褪めていた。
前回の悪夢、そしてこれから張り出されるであろうルーシャ局長の神聖語やニーナ様の礼節マナーといった、容赦のない教官たちの顔が脳裏をよぎり、ヴァラキー姉妹は揃ってその場に突っ伏したいほどの絶望に叩き落とされていた。
◇ ◇ ◇
地獄の「散歩」という名の一律外周三十周を終え、既に足腰が悲鳴を上げている中、レンたちは両手で抱えきれないほどの分厚い試験範囲の紙の束を抱え、ゾンビのような足取りで騎士団専用食堂に向かっていた。
「はぁ……」
「気持ちはすっごく分かるけど……レン、せめて朝食を食べてる時くらいは試験のこと忘れようよ……」
レンの魂の抜けたような溜め息に、隣を歩くラバックが哀れみの目を向けながらポンと肩を叩く。
同じように絶望の詰まった紙の束を胸に抱くエルンも、前髪を揺らしながら『です……ねぇ……』と弱々しく現実逃避を試みていた。
「……いや、やっぱりこのままじゃマジで駄目だ。誰かに勉強教えて貰った方がいいよな? 自力じゃ絶対文字が躍って終わる」
「そりゃね……でもレン、一体誰に教えて貰うつもり?」
「ルーシャ様はそもそも面会許可証が必要ですし、ロディ団長も軍務や政務でご多忙ですから……」
ラバックが苦肉の策とでも言いたげに、消去法で残りの担当教官たちの名前を提示していった。
「じゃあ……算術のマヌーチュフ教官……?」
「寝る自信あるぞ、俺。あの数字の羅列を呪文みたいに聞かされたら三秒で落ちる」
「では、体術のアルハイサム書記官ですか……?」
「あの定時退社を愛する筋肉鬼!? 試験勉強を必死に教えて貰ってる最中にさ『私は時間なので帰るが、君たちは居残りかね? 残業ご苦労様』ってあの無自覚なマウント煽りをされたくないよ!! 精神が死ぬ!!」
ラバックがブンブンと激しく顔を左右に振る。過去に何かあったのか、想像しただけで相当嫌らしい。
エルンは眉をハの字に困らせながらも、なんとか次の候補をひねり出した。
「じ、じゃあ……法律のプトレマイオス様ですか……?」
「あの徘徊老人かよ……! そもそも枢機卿自らが一見習い騎士に教えてくれんのか? 講義中に寝たらめちゃくちゃ厳しいって噂だぞ」
「まぁ、あの方……たまに王宮の廊下を不審に徘徊されてるのを見かけますし、タイミングさえ合えば……でも、やっぱり難しいでしょうか……」
「やっぱ、科学のアズリカ教官か? でもあそこはベアトリクス嬢の爆発対策で皆が質問に押しかけるだろうし、枠がないよな……」
あーでもない、こーでもないと不毛な話し合いを繰り広げながら、一同はようやく食堂へと辿り着いた。
トレイを手に持ち、朝食のパンやスープを乗せながらも、頭の中は試験の不安で一杯のままである。
「うーん、どうしたものか……あ、シノアさん! シノンさん!」
ふと視線を巡らせたエルンが、少し離れた席に座っていたヴァラキー姉妹を見つけ、ぱっと表情を明るくして声をかけた。
そして絶望に打ちひしがれているシノアの姿を凝視した瞬間、エルンの脳内にまるで天啓を受けたかのような感覚が走った。
「はっ!! 私、素晴らしいことをひらめいちゃいました!!」
「え、何……急に大声出して……」
いきなり目の色を変えたエルンの行動に、シノンがトレイを持ったまま丸い目をパチクリとさせる。
一方で彼女の突飛な行動パターンを知るレンとラバックは、直感的に『嫌な予感しかしない……』と内心で冷や汗を流していた。
「わざわざ怖い教官たちに頼まなくても、身近にいる優秀な先輩騎士の方々に教えていただければいいんですよ!」
「え、そんな都合のいい人…………はっ!! そうか、偵察部隊……ミカ様だ! 確かシルフィーネ様も、戦術や座学の成績は常に上位で優秀だった筈だよ!!」
「え!? あ、あの……!?」
シノアの複雑すぎる乙女の心境や、昨日の失恋の決定打など知る由もないエルンと、蜘蛛の糸でも掴んだかのように現金に目を輝かせる野郎共は、目に見えて喜びだした。
「そうと決まれば……善は急げです! すぐにあちらの席へお伺いを立てに行きましょう!!」
「ちょ――待っ……!!」
シノアが顔を真っ赤にして制止の声をかけるよりも早く、エルンたちは希望に満ちた足取りで歩き出してしまった。
時を同じくして、食堂の少し離れた一角に設けられた偵察部隊の席では、既にエルンたちの賑やかな声がしっかりと届いていた。
隠密と索敵を生業とする偵察部隊ともあれば、周囲の雑音から必要な情報を拾い上げる聴力は、日頃の訓練の中で自ずと鍛え上げられているものなのである。
「……って、向こうの席で盛り上がってるが……おいミカ、どうするよ?」
クリスは手元のナイフを指先で器用にクルクルと弄びながらどこか諦めたような、あるいは憐れむような複雑な表情で呟いた。
「……どうもこうも、後輩たちが自発的に勉学に取り組もうとしているのなら、上官としてその真摯な姿勢に応えるべきでしょう。それが騎士団の規律というものです」
当のミカはいつも通り淡々と、至って冷静な口調でスープを口に運んでいる。
その木石のような態度に、クリスは小さく額を押さえた。
「お前なぁ……マジで鈍感というか、何というか……昨日の医務室での件、お前はどう思ってんだよ」
「……? 昨日の件、ですか? モーニエ様の件で彼女の精神状態が一時的に不安定になっていた為でしょう。突発的な感情の揺らぎなど誰にでもある。その程度で、部下の育成を見捨てる理由にはなりませんよ」
あまりにも理路整然としたミカの物言いに、クリスは「はぁ……」と深い溜め息を吐き出した。
「お前、そんなだから……。まぁいいや、俺が言っても詮無いことだしな。……おいシルフィ、お前はどうよ?」
「……何が?」
話を振られたシルフィーネは、トーストにイチゴジャムをたっぷりと塗る手をピタリと止めて聞き返した。
だがその表情は完全に心ここに在らずといった風で、この場合の『何が?』はクリスの深い質問に対するものではなく、純粋に『え? 何か言った? 全然聞いてなかった』という種類のものだった。
「……シルフィ、君はまたそうやってジャムを過剰に塗り過ぎです。甘くすれば何でも良いというものではないですよ。それだけ厚く塗ってしまっては、ジャム本来の果実の味わいが損なわれてしまいます」
見かねたミカが、すっと手を伸ばしてシルフィの手からジャムの瓶を回収した。
お気に入りの糖分を没収され、シルフィは「あー」と怪訝な顔を浮かべたものの、ジャムの味覚に関する小言については特に追及せず、ジャムを塗っていたスパチュラを渋々といった様子でトレイの端に置いた。
「別に勉強くらい教えてあげればいいんじゃ……。それよりミカ、やっぱジャム返して。糖分が足りてない、圧倒的に頭が回らない」
「駄目です。そもそも君が昨日の夜中から明け方近くまで、無断で魔獣の拠点を潰しに外を徘徊していたからでしょう。君の体質だと、寝不足の時にその反動で糖分を過剰摂取する傾向にありますからね」
「私の行動パターン、よく分かってんじゃん。なら返してくれてもいいでしょ」
「いけません。日中の任務に支障が出ます。糖分の摂取なら、後で僕が作った特製の補給用お菓子を適量あげるので、それで充分でしょう」
目の前で繰り広げられる、もはや長年連れ添った夫婦か何かのようにお互いの行動を把握しきったやり取りを見つめながら、クリスは呆れ果てたように肩をすくめた。
「ほんと……ここまでお互いのこと分かってて、何で二人して何一つ気付かないかね……。周りを巻き込むなよ、鈍感供が……」
クリスの呟きは、トーストを齧るシルフィと、それを冷たく窘めるミカの日常の応酬の中に静かに消えていった。
◇ ◇ ◇
そんな当事者たちの温度差など微塵も知らないエルンたちが、笑顔でシノアの手を引っ張るようにして、偵察部隊のテーブルへと刻一刻と近づいてくる。
ミカへの断ち切れぬ想いと気まずさ、そして試験への絶望に挟まれたシノアの心臓は、今にも破裂しそうなほどに激しく鐘を鳴らしていた。
意を決したエルンが偵察部隊――ミカたちの席の前に辿り着き、第一声をかけようと口を開く、その刹那。
騎士団専用食堂の壁や天井に複数設置された魔術音声器具から、ジジ……と不快なノイズが走ったかと思うと、ロディ団長の心底疲れきった、魂の叫びのような大声が鳴り響いた。
『総員! 直ちにメアリ王女殿下を捕まえろ!!脱走した!!』
「……うわ……」
シルフィが齧りかけていたトーストを食べる手をピタリと止めて、心底面倒くさそうな声を漏らした。
その瞬間、食堂中の騎士たちの動きが完全に凍りつく。
試験期間のただ中で、誰もが自分の勉強や外周の疲労に手一杯だというのに、そんなことにはお構いなしで容赦なく発生する聖ラウラント王国の『日常(メアリ王女脱走事件)』
騎士たちは目の前にある、まだ湯気を立てている出来立ての美味しい朝食を名残惜しそうに見つめた。
せっかくの至福の時間が一瞬にして奪われたことが確定してしまった、絶望の瞬間だった。
「そんなっ!? 今、すっごく大事な時なんですが!?」
エルンがシノアの手を引きながら、あと一歩のところでチャンスを逃したことに絶望の声をあげる。
引かれた側のシノアはミカを前にして緊張していたこともあり、何とも言えない複雑な表情のまま彫像のように固まっていた。
しかしそんな周囲の動揺を余所に、冷静沈着である偵察部隊隊長は、どんな突発的な状況下でも明確な指示を飛ばし、瞬時に的確な状況判断を下すものである。
「……チッ――総員、直ちに行動!! 偵察部隊は東の庭園に通じる大扉を最優先で施錠しなさい!」
ミカは小さく舌打ちを漏らした後、流れるような動作で席から立ち上がった。
その一言が引き金となり、日頃から彼によって徹底的に精錬されてきた偵察部隊の隊員たちは、考えるより先に目にも留まらぬ速さで各々の持ち場へと動き出した。
「な、なんで誰も文句の一つも言わねぇんだろ……」
「知らないのか……レン……彼ら偵察部隊は、騎士団の数多ある部隊の中でも動きの機敏さが文字通り桁違いなんだ……。何せ、隊長があのミカ様だからね……」
レンが偵察部隊の常軌を逸した初動の早さに、信じられないものを見るような視線を送りながら疑問を口にする。
トレイを抱えたラバックは、もはや悟りを開いたかのような、死んだ魚のような目で遠くを見つめながら答えた。
「何をしているんですか? 早く動きなさい」
ミカがいつまで経ってもその場から動こうとしないヴァラキー姉妹に向けて、冷徹な視線を投げかけながら問い詰めた。
シノアは一瞬ビクッと身体を震わせ、戸惑いつつも必死に頭に浮かんだ疑問を彼に投げつけた。
「な、なんで東の庭園の大扉なのよ……? 普通に、正面から追いかけるんじゃ駄目なの?」
「――はぁ……いいですか、シノアさん」
「は、はい……っ!」
ミカは、物分かりの悪い小さな子どもを諭すかのように心底呆れつつも、極めて丁寧にその理由を教えてくれた。
冷たく突き放すわけではなく、厳しい言葉の裏できちんと自分に向き合って説明してくれるその行動に、シノアは胸の奥をチクリと痛ませながら、『そういうとこ……本当にそういうとこよ……』と、諦めきれない切ない思考を巡らせていた。
「メアリ殿下――しいては、この聖ラウラント王国の王族の脚力を決して侮ってはいけません。王城の外ならいざ知らず、ここ王宮の内部は彼女たちの完全な『領域』です」
「……殿下たちは、公務のサボりや逃走の頭脳労働に関しては天才的だからね。非常用や緊急時用の隠し通路を、まるで自分の庭のように当然の様に使うから……」
「あぁ、そこに王族としてのプライドもへったくれもねぇよな」
「「「………………」」」
シルフィとクリスの実体験が籠った補足情報が次々と重なり、ヴァラキー姉妹、そして騎士団に入団して間もないレンは、ラウラント王族という存在の恐るべき本質を少しだけ理解してしまった。
それも最も不名誉で、最も知りたくなかった形で、である。
「よって、まずは殿下が逃げ込むであろう隠し通路系統の出口を先回りして潰します。……本来であれば、防衛用の緊急通路を閉鎖するなど軍紀違反であり得ない暴挙ですが、殿下の捕獲に関しては例外です。東の庭園の大扉の向こう側は城内でも最も隠し通路の接続が多く、加えて複雑に入り組んでいますからね」
「なるほど、流石ミカ様……! 的確な読みです……!」
エルンが感銘を受けた様子で勢いよく頷く手前で、クリスがさらに現実的な、そして血の気の引くような補足を付け足した。
「あと、あの区画は高額な調度品がやたらと多い。これ以上、王女殿下の暴走で物が壊れて、財務省のフェリックスたち事務官が胃薬を飲む回数が増えるのを阻止しねぇとな……あいつらが本気で予算カットに踏み切ったら、俺たちの給料が飛ぶ」
クリスの世知辛くも哀れみの籠った声を最後に、事態の深刻さを察した騎士たちは、即座にトレイを置いて食堂を飛び出した。
美味しい朝食の余韻など微塵もないまま、聖ラウラント騎士団の慌ただしい追跡劇の幕が切って落とされたのだった。
◇ ◇ ◇
「殿下ぁぁぁーー!!」
「嫌ですわ! 嫌ですわ! お勉強なんて!!」
聖ラウラント王国の美しい王宮の廊下を、豪奢なドレスを引きずらんばかりの勢いで風を切って駆け抜ける少女――メアリ・ヴァル・ラウラントの姿があった。
その脚力は、日頃の訓練で鍛え上げられた屈強なベテラン騎士たちのそれを遥かに上回っている。
追っ手の騎士たちは息を切らし、追いつくことすら叶わぬまま、せめて見失うまいと必死にその後ろ姿を追いかけるのが精一杯だった。
「メアリ殿下……速すぎるだろ……!」
「なんて速さだ……どうなってんだ……俺たち軽装備の騎士より速いだなんて……!!」
メアリ王女は並外れた身体能力で階段の手すりを滑り降り、たまたま通りかかった老執事が驚いて手を離した配膳台をステップ代わりにするなどして、鮮やかに追っ手を躱していく。
「ほぅ……? 今のは何かの……演劇の練習ですかな……?」
「どけ! ジジィ!! 目見えてんのか!? 邪魔だ!!」
すれ違いざま、逃走経路の確保のために老執事を怒鳴りつける騎士。
その騎士が追いかけるメアリ王女の口から、緊迫した状況にはあまりにも不釣り合いな『台詞』が響き渡った。
「どうして!? 分かっていたならどうして優しくしたの!?」
「はぁ……はぁ……殿下は一体何を言ってるんだ……?」
「あ、あれはきっと……今巷(王宮)で噂の『ファム・ファタール』とかいう、大人が読んでも引くレベルのドロドロの愛憎劇の台詞だろ……!」
メアリ王女は息一つ乱す様子もなく、自らの手で書き上げたであろう愛憎劇の脚本を片手に、全力疾走しながら朗読するというとんでもない暴挙に出ていたのだ。
「貴方が実の……血の繋がった兄だったら……貴方の事を好きになる事なんてなかったのに!!」
「ちょっと待て、話の結末が気になり始めるから朗読をやめてくれ……!」
「中途半端に優しくしないで……どうせあたしの事なんて、何とも思ってないくせに!!」
メアリ王女の魂が籠った迫真の演技と共に、逃走劇の舞台はいよいよ東の庭園の大扉付近へと移動する。
その先にミカたちが完璧な布陣で待ち受けているとは露知らず、王女の悲痛な脚本朗読は止まらない。
「あの人が好きなんでしょ!? あたしなんて精々、ただの妹としか思ってないくせに!!」
「――いえいえ、我が国が誇る護るべき尊き王女殿下として、心よりお慕いしていますよ?」
廊下に、すっと涼やかな声が割り込んだ。
ピタリ、とメアリ殿下の足がようやく止まる。驚きのあまり、手元からバサリと紙の束――脚本が床に落ちて散らばった。
まさか自分の朗読に完璧なタイミングで台詞が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
加えて、完璧に逃走経路を読まれて先回りされていたことにも。
「み、ミカ……? なんで貴方がここにいるのよ!?」
「メアリ殿下、お部屋にお戻りください」
ミカに静かに促され、先ほどまで廊下を支配していた王女の圧倒的な勢いは、目に見えて狼狽へと変わっていく。
その傍らでメアリ王女の落とした脚本をおもむろに拾い上げたレンが、内容に目を落とした瞬間に顔を引きつらせた。
「なんだこれ……なになに……『愛する人は生き別れの兄だった……!? さらに兄には既に美しい婚約者が!?』……なんだこれ……」
「……どれどれ? 『第二十八章:書斎で使用人から告げられる真実、運命のDNA鑑定書——困惑と絶望に震える主人公』……おい、DNA鑑定書はこんな簡単には扱かっちゃダメだろ………」
レンとラバックが「大人の愛憎劇」の重すぎる内容にドン引きしつつページを捲る中、そのすぐ後ろにいたヴァラキー姉妹は、全く別の意味で顔を青ざめさせ、頭を抱えていた。
「お姉ちゃん……これ……」
「まさか……あり得ないわよ……ただの偶然……偶然よ、シノア……」
脚本に書かれた『中途半端に優しくしないで』『本当はあの人が好きなんでしょ』という文字の羅列が、昨日医務室でシノアがミカにぶつけた感情と酷すぎるレベルで酷似している。
シノアは己の傷口に特大の塩を塗りたくられるような感覚に、その場に屈み込みたい衝動に駆られていた。
「お勉強は嫌! 私はおままごとがしたいの! おままごとをさせてちょうだい!!」
「……はぁ、仕方ありませんね」
ミカが渋々といった様子で溜め息を吐き、レンの手から脚本を受け取る。
その様子を見たエルンは、信じられないと言わばかりに丸い目をさらに大きくした。
「え!? ミカ様、本当にこれにお付き合いするんですか!?」
「こうでもしないと、殿下は満足して部屋に戻られませんから。……」
「(おい、安心しろレン、エルン。ニーナさんたちがこちらに到着するまでの時間稼ぎだ……)」
クリスが小声で素早く状況を共有すると、メアリ殿下は「おままごと(修羅場)」が開催されることに目をキラキラと輝かせ、喜びを露わにした。
ミカは諦めたようにシルフィへ視線を送る。シルフィは常備している精神安定剤を口に放り込み、ミカと共に脚本の台詞を無表情で眺めた。
『……お嬢様。先日の、例のDNA鑑定の結果が書面にて届きました』
『……ど、どうだったの……!? 早く教えなさい!』
『それが……あの方とお嬢様は、実の……血の繋がった兄妹でございます』
『そ、そんな……!? なんて残酷な運命なの……っ!!』
感情の全くこもっていない、完全な棒読みで忠実な従者役を演じるシルフィ。
そして、文字通り命を懸けて男爵令嬢になりきるメアリ王女。
レンやラバックたちは「俺たちは一体、早朝から何を見せられているんだ……」という何とも言えない表情を浮かべながらも、万が一にも王女が隙を突いて逃げ出さないよう、四方の退路をきっちりと塞いでいた。
その後も、メアリ王女の合図で強制的に場面が転換していく。
街角で主人公(メアリ王女)に下劣な言葉でちょっかいをかけるチンピラ(クリス)が登場し、それを通りかかった兄が華麗に助けるというシーンに突入した。
『うっひょーん!!彼女カワイイじゃーん!!(帰りたい)』
『な、なんなの……!?』
「ほんとにな」
「しっ!」
ちなみにレンやラバック、エルンたちは『通行人Aおよび野郎どもの野次馬役』である。
『……お怪我はありませんか、お嬢さん』
『やめてっ! 近寄らないで! どうせあたしのことなんて、本気で好きでもないくせに!!』
『な、なに?どうしたのかしら……(私は一体何を見せられてるの……お姉ちゃん、もう帰りたい……)』
『さ、さぁ?揉めてるみたいね(しっ! 静かに、今は我慢の時よ……シノア、前を見ちゃ駄目……!)』
おおよそ幼子が純粋に楽しむおままごととは程遠い、ドロドロの修羅場が王宮の廊下で繰り広げられる。
先ほどミカに一瞬で返り討ちにされ、チンピラ役から『背景の風に揺れる花壇の花役』へと強制降格させられたクリスは、すでにすべての思考を放棄した表情のまま、壁際で小刻みに横揺れしていた。
『私は君を、本当の妹として……』
『嫌っ!? 聞きたくない……! 何も言わないで……!!』
「――私もこれ以上は何も聞きたくありませんわ。我が国の尊き王族が、このような品性の欠片もない愛憎劇を王宮のど真ん中で繰り広げるなんて」
冷徹極まる、しかしどこか優雅な声音が響いた瞬間、廊下の空気が一瞬にして凍りついた。
いつの間にか大熱演を繰り広げていたメアリ王女の真後ろには、漆黒のメイド服を完璧に着こなした王宮の裏の支配者――首席メイドのニーナ・フォン・ローゼンタールが、影のように静かに立ち塞がっていた。
先ほどまでノリノリで悲劇の男爵令嬢を大熱演していたメアリ王女だったが、その背後に立つニーナの姿を視界に捉えると、まるで糸の切れた人形のように全てを諦めてガクリと脱力した。
「まったく……目を離すとすぐにこれですわ。皆様、公務の最中お騒がせして大変失礼いたしました。――さぁ、行きましょうか、メアリ殿下。お勉強の時間ですよ」
「うっ……もう少しで完璧なフィナーレだったのに……! あんまりだわ、ニーナ!!」
「あんまりなのは、こちらの台詞ですわ」
氷のように冷ややかな、しかし完璧に洗練された所作のニーナに首根っこを掴まれるようにして、メアリ王女は泣きべそをかきながら連行されていく。
二人の姿が廊下の角へと消え、ようやく張り詰めた空気から解放された騎士たちが、一斉に深く、重い溜め息を吐き出した。
こうして聖ラウラント王国騎士団を巻き込んだ『メアリ王女殿下逃走事件』は、ひとまず無事に閉幕したのだった。
「ふぅ……散々だったな。まぁ、高額な調度品が一つも破損されていなかっただけ、今回はマシだと思おうじゃねぇか……」
クリスが壁に背を預けたまま、魂が抜けたような力ない声で呟く。
その言葉に通行人役を強いられていたレンやラバックたちも、深く同意するように何度も深く首を縦に振った。
しかしそんな重苦しく冷え切った空気を切り裂くようにエルンが持ち前の圧倒的な明るさを発揮し、再びミカの方へと勢いよく向き直った。
この少女――これほどの茶番とトラブルに巻き込まれながらも、まだ当初の目的である『試験勉強の相談』を一切諦めていなかったのである。
「ミカ様! 先ほどの試験勉強の件ですが……!」
「ええ、聞こえていましたよエルン。……僕としても、意欲ある後輩の助力はしたいのは山々なのですが……」
ミカは困ったように眉を下げて苦笑すると、視線を隣に立つクリスへとスライドさせた。
視線を受け取ったクリスもまた、やれやれと大袈裟に両肩をすくませ、エルンに向けて苦い表情を作った。
「悪ぃな、エルン……メアリ殿下があれだけの大騒ぎを起こしちまった以上、俺たち偵察部隊はこの後すぐにロディ団長へ事後報告に行かなきゃならねぇんだ。……何もなければ、勉強くらい幾らでも見てやれたんだがな」
「そういうことなのです。力になれず、すみません。――ほらシルフィ、立ったまま寝ていないで行きますよ。団長がお待ちです」
「ん……ふゃーい……」
ミカが、今にも意識を手放しそうに揺れるシルフィの肩を優しく押すようにして歩き出し、クリスと共に報告のために回廊の奥へと向かっていく。
その頼もしい先輩たちの後ろ姿を、エルンは目の前で完全に扉を閉ざされた絶望の表情で見送ることしか出来なかった。
「そ、――そんな……っ、嘘でしょう……!!」
「……ま、仕方ねぇよ。別にミカたちじゃなくても、他に手の空いてる先輩を当たれば……」
バッ! と、衣服が鋭い風を切る音がしそうな勢いで、エルンが背後を振り返った。
そのあまりの猛り狂った勢いに、隣にいたレンが僅かに肩を震わせて一歩退く。
エルンはそんなレンの動揺などお構いなしに、まるで鬼の形相のごとき鋭い視線で一気に畳み掛けた。
「レン先輩はなんにもっ!! 本当に、なーーんにも分かってません!!」
「えぇ……!? 俺、なんか悪いこと言ったか……!?」
突然怒りの矛先を向けられ、何のことだかさっぱり理解出来ないレンは、助けを求めるように傍らに立つラバックへと視線を投げた。
ラバックは何とも言えない、すべてを察した苦笑いを浮かべながら、レンの耳元でそっと小声の解説を入れる。
「まぁ……エルンにとっては残念だったよね。せっかくの、お近づきになれる大チャンス……だった訳だし」
「そうですよ!! 本当にタイミングが悪いですねぇ、あの王女殿下は……っ!」
「あー……? お前ら、まだあのミカたちに勉強を教えてもらうってのを諦めて――「しっ!! 黙れレン!!」――……痛っ、なんでもねぇよ……」
ラバックが鋭い手つきでレンの口を強制的に塞ぎ、それ以上の余計な言葉を遮断したお陰で、エルンの導火線に再び火をつけずに済んだ。
その横でシノアは一人、手元のレポートを抱きしめたまま立ち尽くしていた。
ミカが去ってしまったことへの残念さと、自分のために厳しい言葉を紡いでくれた彼の姿が脳裏に焼き付いて離れない切なさ――その二つの感情の狭間で、彼女の心は、未だ激しく揺れ動いていた。
◇ ◇ ◇
王宮内に数多存在する図書館の中でも、一際その規模が大きく、気の遠くなるような年月をかけて蒐集された様々な古今東西の文献が保管されている場所がある。
大図書館――通称《叡知の殿堂》
高くそびえ立つ重厚な本棚が幾重にも並ぶ静まり返った館内では騎士だけでなく、日夜研究や論文の執筆に追われる新米の書記官や魔術師たちが、声を潜めながら厚い歴史書や魔導書のページを静かに捲っていた。
あの朝食時の大騒動が一先ず落ち着き「何はともあれ勉強しよう」ということになったレンたちは、この広大な大図書館の敷居を跨いでいた。
静謐な空気に気圧され、周囲の邪魔にならないよう自然と声を潜めながら、各々が苦手とする科目を克服するための本を探し始める。
散り散りに本棚の奥へと物色に向かう仲間たちの背中を見送りながら、シノアは一人、その場に立ち尽くしていた。
彼女は今、全教科赤点という、首の皮一枚で繋がっている現在の身分を完全に消し飛ばしかねない危機に瀕している。
にもかかわらず、あまりの絶望的な状況に一体どの科目から手をつけたらいいのかさえ、さっぱり分からなくなっていたのだ。
あれだけ自分と同じ「元スカコフの世間知らず」という境遇だと思っていた姉のシノンは、意外なことに迷う素振りすら見せず、法律の文献が厳かに陳列されている本棚の区画へと早歩きで去って行ってしまった。
ぽつんと取り残されたシノアは、所在なげに視線を泳がせながらも、勉強用の重厚な机や椅子が並ぶスペースから程近い本棚の区画へと、おずおずと足を伸ばしてみた。
自身より遥かに背の高い位置にある棚を見上げ、文字が細かく刻まれた背表紙の並びに顔をしかめる。
続いてなんとなく視線の先にあった本を棚から一冊引き抜き、重い表紙を開いてみた。
【三女神同盟に関する現代語訳】
パラパラと適当にページを捲ってみるものの、そこに並んでいたのは応用に次ぐ応用のオンパレードだった。
どうやら『神聖語』で記された高度な文献らしいが、基本の『き』の字すら理解していない今のシノアにとっては、ただの幾何学的な模様の羅列にしか見えず、一文字として頭に入ってこない。
知らない単語が多すぎる。
「はぁ……」
重い溜め息と共に、シノアは諦めて本を元の場所へと戻した。
もっと簡単な――自分のような初心者でもすんなりと頭に入るような、基礎知識が得られそうな本はどこにあるのだろうか。
そんな時、もしも隣にミカがいてくれたなら――
「しょうがありませんね」と呆れながらも、今の自分にぴったりの分かりやすい本を優しく探して、手渡してくれるのではないか。
そのような甘い思考が頭を過り、シノアは慌てて頭を左右に軽く振って雑念を振り払った。
(何考えてるのよ、私は……! 今は勉強の時間! 集中しなきゃ!)
心の中でそう自分に発破をかけ、思考を強制的に切り替える。
応用の参考書がズラリと陳列された難解な区画を抜け、題名だけでも簡単そうなものを探して本棚の迷路をさらに奥へ、奥へと進んでいく。
だけれど歩みを進めるにつれて、気がつけば周囲に全く人の気配がなくなっていることにシノアは気がついた。
(――待って、ここ、どこ……?)
この《叡知の殿堂》は、シノアの想像を遥かに超えて恐ろしく広かった。
入り口の近くであれば人も多かったし、ある程度の案内図を見て自力で戻ることもできただろう。
しかしいま彼女の近くにある案内図を見上げても、記された現在地と自分の感覚が一致しない。
自分が今どこにいるのかさえあやふや――というより、さっぱり分からなくなってしまっていた。
「…………」
どうするべきか。一度来た道を戻るべきだろうか。
だがこの区画はあまりにも細かく分かれすぎていて、下手に動けばさらに深い迷子になってしまいそうだ。
せめて誰か一人でも人がいれば、入り口までの道を尋ねることができるのに。
周囲を囲む本棚の圧迫感にじわりと不安が込み上げてきた、その時。
静かに床を鳴らす、規則正しい足音をシノアの鋭い耳が拾った。
「大丈夫かい?」
弾かれたように振り返ったシノアの視界に、声をかけてきた人物の姿が映り込む。
「あ……えと、ちょっと、迷子……かも……」
その声は非常に落ち着いていて、響きから察するにシノアより少しだけ年上の印象を受ける。
動きやすいように綺麗にまとめられた亜麻色の髪。
どこか浮世離れした雰囲気を纏っているが、その顔立ちの端正さは青年――いや、まだ少年と呼ぶ方がしっくりくるかもしれない。
「迷子? 何か探している本でもあるのかい?」
その気品すら感じさせる佇まいに、暫く呆気に取られていたシノアだったが、少年に再度問いかけられたことで慌ててぎこちなく返答を返した。
「え、えっと……あんまり難しくない、その……神聖語の歴史書とか、そういうのを探してて……」
お世辞にも要領を得ているとは言えないシノアの不器用な説明。
それでも少年は顔色一つ変えることなく、その言葉を咀嚼するようにしばし考える仕草を見せると、シノアの後ろにある区画をそっと指差した。
「それなら……そっちの右側の本棚がお勧めだよ。かつてこの世界に存在したとされる《理律騎士》についての、初心者にも分かりやすい入門書が置いてある。理律騎士の歴史は、このラウラント王国を語る上では決して欠かせない基本だからね。魔術師局長は今回も必ずそこから出題してくる筈だよ。覚えておいて損はないさ」
「あ、ありがとう……」
シノアは素直に少年にお礼を口にする。その視線が少年の胸元へと向いた時、彼女の身体がわずかに強張った。
少年の上衣の胸元に小さく、しかし確かな存在感を放ちながら鈍く輝く『校章』
それはシノアが普段から嫌というほど目にしている、ミカたちが身につけている特権階級のそれと酷似していたのだ。
(まさか、この人も……地位の高い貴族——上官なの……?)
相手の言葉遣いが、一見穏やかでありながらもどこか「持たざる者」を見下ろすような、あるいは絶対的な余裕に基づいているものであることに気づき、シノアの背中に冷や汗が伝わり始めた。
脳裏を過るのはつい先日、遠距離小隊隊長のモーニエ・ロンドに喉元へ細剣を突きつけられ、冷酷に言い放たれた言葉と、その時の圧倒的な恐怖。
(また、私の不敬な態度で怒らせたら……今度こそ首が飛ぶ……!)
急激に緊張の度合いを高めるシノアだったが、目の前の当本人はそんな彼女の怯えを気にした様子もなかった。
それどころか、ただ黙り込んでしまったシノアの様子を『どんな本を選んだらいいか分からなくて困っている』のだと判断したようだった。
「ついてきて。こっちだよ」
「あ、はい……!」
少年はシノアの先頭に立って歩き、目的の『理律騎士』に関する本棚へと彼女を案内した。
彼は棚から何冊かの本を迷いなく抜き取ると、適当にページを開いては驚異的な速度で素早く目を通し、これなら大丈夫だろうと判断したものを数冊、シノアの手元へと優しく渡してきた。
「あ、あの……ありがとう、ござい……ます……」
無礼を働いてしまわないよう、最大限に縮こまりながらお礼を述べるシノア。
少年はそんなシノアの様子をじっと見つめていた。
「どういたしまして。……さっきから随分と顔色が悪いけれど……どこか体調でも悪いのかい?」
口を開けば、また組織に対する常識の無さが露呈して無礼を働いてしまうかもしれない。
そんな恐怖が頭を巡りつつも、シノアはひとまず誠実さを示すために自らの名を名乗ることにした。
「あ、そういう訳じゃなくて……。わ、私、偵察部隊に所属しています、シノア・ヴァラキーと言います……!」
その名がシノアの口から紡がれた瞬間、先ほどからほとんど表情を変えなかった少年の眉が、興味深そうに、ほんの一瞬だけピクリと動いた。
あまりの緊張の渦中にいたシノアがその一瞬の、しかし決定的な彼の動揺に気づくことは、ついぞなかったのである――
◇ ◇ ◇
一瞬の静かな沈黙が二人の間に流れた。
(……まさか、ヴァラキーという名前を聞いて、上層部で噂になっている私たちの不祥事を思い出して嫌悪感を抱いたのかしら……)
モーニエ・ロンドに首元へ刃を突きつけられた一件は、当然他の隊長たちの耳にも入っているはずだ。
シノアは内心で最悪の事態を覚悟し、身を硬くした。
だが目の前の少年は特に気にした様子もなく、ただ穏やかに、貴族や気品のある人間だけが知る優雅な一礼を捧げ、その口から自身の名を紡いだ。
「――僕は調査小隊隊長、アルト・フォン・レイヴァース。どうぞお見知り置きを」
(――やっぱり貴族だぁぁぁぁ!!)
シノアは脳内で絶叫していた。
かつて同期のレンが極度の貴族アレルギーを引き起こし、顔を引き攣らせていた時の感覚が今なら狂おしいほどによく理解できる。
レンが普段から呟いていた『貴族こわい』という言葉の本当の恐怖と重圧を、シノアは今まさに身を以て実感していた。
しかしせっかく名乗られた以上、無視するわけにはいかない。
そもそも、自分のためにわざわざ難解な本棚から初心者向けの本を選んでくれた恩人なのだ。
「あ、……ありがとう……? いや、じゃなくて……よ、よろしくおねがいします……っ」
あまりの緊張に、どこかカタコトになってしまったシノアの不器用な敬語。
されど少年――アルト隊長は、それを笑うでもなく、ただ彼女の警戒を解くように優しく微笑むとゆっくりと歩き出した。
「あ、……えと……?」
「入り口まで戻るんだよね? こっちの通路から行く方が近いよ。案内するから、ついておいで」
アルト隊長の言葉にコクコクと何度も頷き、シノアは彼の背中を黙ってついていくことにした。
暫くの間そびえ立つ本棚の合間を縫うように歩く二人の間に、静かな沈黙が続く。
その無言の空気が少し重いと感じたのか――あるいは、未だに緊張で顔を強張らせているシノアの様子を気遣ってか、前を歩くアルトがポツリと静かに話し始めた。
「……先日、モーニエが君に怖い思いをさせたみたいだね」
「え……?」
思わぬところから飛び出した『モーニエ』という名前に、シノアはド頭から衝撃を受けたように目を見開いた。
そんな彼女の困惑を余所にアルトは前を向いたまま、淡々とどこか包み込むような声音で言葉を続けた。
「ごめんね。でも、彼女も決して悪気があってあんな行動に出たわけじゃないんだ……。彼女には、彼女なりの騎士としての譲れない誇りと、軍紀を重んじる絶対の信念がある。あの日君に向けられた刃は、決してただの私情や個人的な嫌悪での行為ではなかったということだけは、理解してほしいんだ。――といっても、君の立場からすればそんな綺麗事で簡単に割り切れるものでもないだろうけれどね」
「あ、え……その、あれは……私が、悪くて……」
まさか別部隊の、それも初対面の隊長からあの一件について謝罪されるとは思ってもみなかった。
シノアの脳内は軽いパニックを起こし、思考が激しく空回りする。
何故彼が、モーニエの代わりに謝るのだろう。
同じ小隊長という立場だからか、それとも彼女と個人的に深い付き合いがあるからか――あるいは、このアルトという少年自身のどこまでも実直で優しい性格故なのだろうか。
シノアが様々な思考を巡らせる中、アルトの落ち着いた声が静謐な図書館の空気を優しく揺らす。
「――君は、何故この聖ラウラント騎士団の騎士になりたいと思ったんだい?」
「何故、騎士になりたいか――」
突きつけられたその問いは、今まさに深い迷いの中にいるシノアにとって、決して簡単に答えられるような内容ではなかった。
自分たちヴァラキー姉妹は、高潔な志を持ってこの門を叩いたわけではない。
過去の罪を帳消しにする為の『司法取引』の結果として、半ば義務のようにこの騎士団へ組み込まれただけだ。
漠然と「自分は今、騎士なのだ」という記章の重みは感じていても、明確に騎士を目指して生きてきたわけではないし、自らの意思で進んで騎士団の門を潜ったわけでもない。
「……分からない、です」
気がつけば、胸の奥に澱のように溜まっていた本音が掠れた一言となって唇から漏れ出ていた。
「迷っているんだね」
「はい……私、本当にここにいていいのかなって……モーニエ様にも言われました。……ミカ…ミカ様の影に隠れて守られてるだけの、騎士の振りをした詐欺師だって……」
ついさっき出会ったばかりの、それも恐れ多いはずの「隊長」という身分の人物に対してシノアは驚くほど自然に自身の弱音を明かしていた。
目の前の少年の纏う空気が、あまりにも話しやすく、すべてを受け入れてくれそうな不思議な包容力に満ちていたせいかもしれない。
「剣だって全然上手くないし、今回の試験だって赤点ギリギリで……勉強も出来ない。マナーも規律も何一つなってない。……どうして私がここにいるのかさえ、分からなくなって……」
「そうか。――なら、逆に考えてみようか」
絶望に打ちひしがれ、床を見つめて俯いていたシノアは、アルトのどこか楽観的でポジティブな声色に思わずハッと顔を上げた。
「逆に、ですか……?」
「うん。君は、この騎士団を離れたいと思うかい? ――もし、今の環境からガラリと生活が変わって、全く別の場所に行くことになったとしたら?」
「それ、は――」
考えたことがなかった訳ではない。もし騎士として不適格だと落とされれば、王宮の片隅で使用人として働くか、あるいは他部署の雑用係にでもなるか……
そこまで考えた時、シノアの脳裏に真っ先にあの黒髪の少年の姿が鮮明に思い起こされた。
いつも呆れながらも自分を助けてくれる、偵察部隊の隊長――ミカ。
口は悪いけれど憎めないクリス、いつも眠たそうにしながらも的確なシルフィ、部隊の皆。
そして同期として共に笑い、共に頭を抱えてくれるレンやラバック、エルン――
彼らと過ごす毎日は、確かに怒られてばかりで騒がしく、次から次へと問題が起こってばかりだったけれど……何より温かくて、楽しくて、今のシノアにとってはこれ以上ないほどにかけがえのない時間だったのだ。
その輪から離れて、彼らのいない別の場所で生きるなんて、今の彼女には到底考えられなかった。
(――なにより、私は……ミカから離れたくない)
自分の想いが届かない、部下としか見られていないと知った上で、それでもあの人の傍にいたいと願うなんて、なんて身勝手で不純な動機なのだろう。
(――それでも、私は……!)
「――もし、君が『今の生活を続けたい』と心から願うなら……始まりの理由は、ただそれだけでもいいじゃないか」
自身の不純な迷いを一刀両断するような、あまりにも真っ直ぐな肯定の言葉。
シノアは驚きに目を見開いたまま、アルトを見つめた。
「で、でも……それって、国を護る騎士としては、すごく不純な気持ちで……誇り高いなんて言えなくて……」
「そうかい? 自分の愛する『今の時間』を、仲間たちとの『生活』を、何としても守りたい――そう強く願う心があるなら、それは立派に、剣を握る理由になり得るよ」
「………」
「それにね、その小さな願いを糧にして前へ進むうちにいつか新しく、本当に国を背負うための理由が見つかるかもしれない。……たとえ今は小さな幻想や未熟な私情だとしても、それが前を向いて進むためのきっかけになるのなら、それは十分に、君だけの立派な『誇り』であり『信念』だ。僕は決してそれを笑わないし、それを持つ者もまた、確かに騎士足り得る……僕はそう思うよ」
アルト隊長の紡いだ言葉が、シノアの胸の奥深くにじわりと染み込んでいく。すぐには言葉としての返答が出てこなかった。
けれど彼の言葉を聞いた瞬間、シノアを包んでいた暗い闇の中にほんの僅かな、けれど決して消えない道標にも似た温かい光が、確かに差し込んだ気がした。
「あ……」
気がつけば、視界の先には見覚えのある大図書館の入り口――レンたちの姿が見える広間へと繋がる扉が見えていた。
アルトは役目を終えたと言わんばかりに、シノアに背を向けて歩き出そうとする。
「では、良い旅を――サー・ヴァラキー」
少年の姿は驚くほど自然に、しかし確かな残響を残して図書館の奥の静寂へと消えていった。
胸元に抱えた歴史書をそっと強く抱きしめ、シノアは自らの足で、一歩前へと踏み出す。
暗闇の中で 踠き、模索し続けた少女は今、自分がここにいる意味と、守るべき大切な日常の価値を、確かに見つけ始めていた。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




