迷子の君へ
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結局、彼は彼女を見ていなかったというお話です。
調理室の大爆発という、前代未聞の「事故」が引き起こした波紋は、瞬く間に王宮中を駆け巡った。
普段なら厳格な規律のもと、私語を慎んで立ち働くメイドや執事たちは勿論のこと、常なら物静かに中庭の草木を黙々と剪定している初老の庭師の爺さんまでもが、今日ばかりは手を止めて噂話に花を咲かせている。
「ねぇ……聞いた? また大変な爆発事故があったんですって」
「また? どうせまたベアトリクス様がやらかしたのかしら……。あの財務省の事務官の方々にまたお仕置きされるわね」
「違うわよ! 今回はよりによって、我が国を護る高潔な騎士様たちが起こしたんですって!」
「怖いわよねぇん♡ 財務省のハンスちゃんとフェリックスちゃんの執務室からは、男泣きの啜り泣く声が夜中まで不気味に聞こえてたって話よ~……可哀想にぃ」
うら若きメイドたちの怯えの混じった噂話に、当然のように自然な所作で混ざってきたのは、心は乙女、しかし身体は並み居る騎士を凌駕するヘラクレスな医務官――リリアンだった。
一見すれば、可憐な女性たちの中に突如として岩山のような巨漢が交じっている異様な光景であり、誰もが二度見、あるいは三度見をするものである。
だがこの王宮においては、リリアンの前で下手に騒ぎ立てることは規律違反よりも恐ろしい事態――お仕置きや強烈な処方箋を招くのだ。
ゆえに、通りかかる他の使用人や見習い魔術師たちは、一瞬だけ恐怖をはらんだ視線を投げかけるだけに留め、足早に通り過ぎていく。
「只でさえ最近は、楽しみにしていた神聖な剣術大会が不自然に中断されて、再開の目処も立たないというのに……」
「それだけじゃないわ! 街の方では、あの恐ろしい殺人ギルドがまた不穏に動き出してるって噂だし……」
「それなんだけど……ねぇ、知ってる? 騎士団の中に、その殺人ギルドの元構成員が混ざっているって話……」
その不穏な話題がメイドの口から出た瞬間、先程まで乙女のようにしなやかに振る舞っていたリリアンの瞳が、すぅっと細められた。
医者としては超名医であり、国の内情にも通じる彼だからこそ、その噂の持つ「毒」の重さを誰よりも理解していた。
「え? 本当なの!? 聖なる騎士様の中に、そんな人殺しが……!?」
「あたしも、厨房の先輩からちょっと聞いただけで……」
「やだ♡ ただの根も葉もない噂じゃなーい。気にすることなんてないわよ! 遠征軍の逞しい男たちも帰ってきたんだし、王都の護りは前よりずっと強硬よん♡」
人々に絶大な信頼を得ているリリアンの包容力に満ちた言葉に、メイドたちは目に見えて安堵の色を浮かべ、胸を撫で下ろした。
するとその時、静まり返った廊下の向こうから、コツ、コツ、という、寸分の狂いもない規則正しいブーツの足音が響いてきた。
「――貴女たち。早朝の噂話に花を咲かせる暇があるほど、朝食の準備は完璧に済んだのですか?」
「に、ニーナ様!」
「す、すぐに厨房に戻ります……!」
現れたのは、ニーナ・フォン・ローゼンタール。
元男爵令嬢でありながら、若くして聖ラウラント王国の全使用人を統べる首席メイドを務める才女。
数多の使用人の厳格な教育係だけでなく、騎士や魔術師たちの着崩した制服を瞬時に修正し、マナー講習を行う「王宮の裏の支配者」でもある。
あの天真爛漫なエマ陛下ですら、逃亡を阻止される恐怖で震え上がるというスパルタな彼女に冷徹な視線を向けられ、メイドたちは一瞬で顔を青褪めさせて足早に去っていった。
「……まったく。少しでも目を離すとこれですわ」
「ニーナちゃんってば相変わらず厳しいんだからぁ♡ ――それより、今のあの子たちの話……」
周囲に誰もいなくなったのを見計らい、リリアンがニーナにしか聞こえない低い声で尋ねる。
ニーナは優雅な所作で自身のメイド服の乱れを整えると、隠しきれない懸念を宿してしっかりと頷いた。
「はい。既に王宮中で噂になっておりますわ。昨日の調理室の爆発事件には、他部隊の隊長クラスを含め目撃者があまりにも多く……。フリンズ副団長閣下自らが現行犯で現場に向かわれたとか」
「あらぁ……あの堅物の副団長直々のお出ましなんて、中々事態は壮大で最悪ねぇ……」
「――真面目に職務に励む者たちからすれば、当然の憤りでしょう。……どうか、これ以上血生臭い事にだけはならないで欲しいのですが……」
ニーナの静かで理知的な声が、ひんやりとした早朝の廊下に白く溶けていく。
騎士団の朝礼が始まる鐘の音が鳴り響くまで、あと少し。
振り返れば、平穏無事に一日が過ぎ去った試しなど、ニーナ・フォン・ローゼンタールがこの王宮に首席メイドとして仕え始めてから、両手で数えるのは容易な程に少なかった。
◇ ◇ ◇
朝礼の始まりを告げる重々しい鐘の音が王宮の広場に鳴り響き、冷え切った空気の中に幾重もの硬質な甲冑の擦れる音が響く。
規律正しく整列する騎士たちの最前方には、絶対的な存在感を持って佇むロディ・グランベルク団長。そしてその右側には、一分の隙もない姿勢で副団長フリンズ・フォン・フェイレンが控えていた。
「――では、朝礼を始める。まず報告から……」
ロディ団長がいつものように厳かに定例報告を促す、まさにその直前であった。
列の中から、一人の若き騎士が明確な意思を持って挙手し、公式の場での発言を求めた。
通常であれば軍規に触れかねないタイミング。しかしロディは一切その端正な顔を歪めることなく、ただ静かな所作だけでその発言を許した。
その瞬間、広場がざわざわと波打つように騒がしくなる。誰の目から見ても、その質問の内容を予測することは容易すぎたからだ。
前線部隊、そして第六小隊の後方に並んでいたレン・エインズワースは、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じながら、思わず生唾を飲み込んだ。
十中八九、昨日の第四調理室における大爆発事故の件に他ならない。
レンから漂う尋常ではない不安げな空気に気がついたラバック・アラベルが、深刻な面持ちで小さく振り返る。
レンの後ろに控えるエルン・リヒターもまた、同じく事態の重さに耐えかねるように心配そうにその顔を歪めていた。
「――昨日、第四調理室にて深刻な爆発事故が起こり、その最大の要因とされるのは、我が騎士団に所属する者たちだという噂を耳にしました。聖なる盾たる我が騎士団の威信に関わる問題です。この件につきまして、公式な説明を求めます!」
凛とした、しかしどこか糾弾の色を孕んだ若い騎士の声が広場に響き渡る。
その時偵察部隊のさらに後方には、ヴァラキー姉妹の姿があった。
いつもなら騎士団の規律など完全に無視し、我が物顔で最前線——上官であるミカたちのすぐ後ろの位置——に並ぶ彼女たちだったが、昨日の一件が致命的すぎたせいか、流石に今日ばかりは周囲の視線を恐れるように自重していた。
シノアの心情は、今やかつてないほどの孤独に苛まれていた。
いつもなら自分のすぐ前で頼もしく風を遮ってくれる、大好きなファーレンガルドの小さな背中が、今はあまりにも遠い。
その心細さに加え、若い騎士の放つ冷徹な責任追及の声が、まるで自らの罪を暴き立てるように頭の中に直接響き渡り――
「……その噂は事実だ」
ロディの低く重みのある声が、広場に落とされた。
「なっ!?」
「まさか……本当に我が団の者が……」
「いつも通りの、ベアトリクス嬢の暴走ではなかったのか!?」
「静粛に」
一瞬にして沸き立った騎士たちの動揺を、フリンズ副団長の一言が容赦なく、そして冷徹に圧し潰して静寂へと戻した。
質問に立った騎士は、自らの最悪の疑念が事実であったことに激しく狼狽しつつも、騎士としての意地を振り絞り、さらに質問を重ねた。
「その、その事故を引き起こした騎士とは、一体……!?」
「――関与した者は複数名いる。その名前をこの場で聞き出してどうするつもりだ? それともお前に、彼らを直接処罰する権限があるとでも?」
「……いえ……ただ……!」
冷然たる団長の眼光を前に、若い騎士は明らかに恐怖で身体を震わせ、言葉を詰まらせた。
だが、国を護る騎士としての誇りがその足を踏み留まらせたのか、消え入りそうな、しかし確かな声で最後の言葉を紡ぐことに成功する。
「――その件には、かねてより問題行動の多いシノア・ヴァラキー、およびシノン・ヴァラキーが深く関与しているのでは、と……!!」
ついにヴァラキー姉妹の名前が、公式の朝礼の場で直接指名された。
もはや広場の混乱と冷ややかな空気は、誰にも止められないところまで達していた。
各部隊の精鋭たちから、蛇を嫌悪するかのような怪訝の眼差しが容赦なく二人の背中に突き刺さる。
いつもならどこか庇うような空気を見せていた同じ偵察部隊の隊員たちでさえ、今回ばかりは庇いきれないとばかりに、居心地の悪そうな表情を崩さずにただ前を見据えていた。
「そうだ。……それで、満足か?」
しかし、《不落の巨龍》の名を冠する絶対的指導者ロディ・グランベルクは、激しい視線の嵐に晒されてもなお眉一つ動かすことなく、ただ冷徹にその事実のみを肯定した。
若い騎士は、これ以上の追及は不敬にあたると悟ったのか、深く一礼して列へと戻っていった。
ロディ団長が事実を歪めず、あえて全てを肯定したのは組織の長として冷徹なまでに「正解」の選択であった。
ここで身内だからと下手に庇い立てをしたり、事実を隠蔽しようとすれば、他部隊との間に決定的な不和が広がり、いずれ実戦での連携にすら重大な支障をきたす。
何よりこの公式の場での事実の公表こそが、甘えの抜けないヴァラキー姉妹に対する、団長としての最初の『明確な処罰』そのものでもあった。
そのロディの真意を痛いほどに理解しているからこそ、部下を誰よりも大切にするはずの偵察部隊隊長・ミカが一言の弁解もせず、微動だにせず前を見つめ続けているのが何よりの証拠であった。
張り詰めた重苦しい沈黙の後、いよいよ『聖ラウラント騎士団 唱和五箇条』の声が響き始めた。
「「「「「 一、我らは王国の盾なり。女王陛下の慈悲を胸に、民の安らぎを死守すべし。 」」」」」
周囲の騎士たちが、まるで己の魂にその規律を深く刻み込むような、地響きのような声が広場を震わせる。
「「「「「 一、我らは騎士の誇りなり。剣を抜くは私欲にあらず、正義の執行と対話の為なり。 」」」」」
大気を震わせるその声を耳にしながら、シノアもシノンも、ふと胸の奥が冷たくなるのを感じていた。
自分たちは今まで、この唱和の意味を本当の意味で真剣に考えたことなど、ただの一度でもあっただろうか?
「「「「「 一、我らは一蓮托生なり。仲間の合図には魂で応え、独断専行をもって列を乱すべからず。」」」」」
独断専行の禁止。魂で応え合う信頼。そして、生死を共にする一蓮托生。
それらの言葉は、今までただ『生き残るため』に互いだけを信じ、暗殺者として闇の中で人を殺めて生きてきた彼女たちにとって何一つとして血肉に通った覚えのない、異質な思想でしかなかった。
「「「「「 一、我らは常に警戒せり。如何なる厄災の前でも、即座に身を護る術を講ずべし。 」」」」」
――あ、これは嫌というほど意識してる。うん、入団直後のあの狂気の大爆発の時に、身を以て思い知らされたし……。
「「「「「 一、我らは誠実の徒なり。言葉に責任を持ち、己の行動に恥じることなきを誓う。 」」」」」
そして最後の一カ条が唱えられた瞬間。
その響きは、今の自分たちの存在を根本から否定する、真逆の刃となってシノアの胸に突き刺さった。
いつだって、事あるごとにあの小柄な上司が口にする『僕は君たちの上官だから、君たちの行動に責任がある』という言葉の本質。
言葉に責任を持つこと。己の行動を恥じないこと。
その重みを突きつけられ、シノアは自分が今、一体どこに立っているのかが完全に分からなくなってしまった。
もちろん、最初からこの「騎士団」という組織を完全に理解していたわけではない。
けれど、ここで日々を過ごす中で、漠然と――偵察部隊の仲間たちや、レン、ラバック、そしてエルンたちが命を懸けて口にする『騎士の誇り』や『剣を通じた対話』というものの形を、なんとなくは理解していたつもりだったのだ。
――だけど。
――私は一体、何がしたくて、何のためにここにいるんだっけ――?
元々は、ただ『死にたくない』その一点のためだけに司法取引に応じ、この安全な壁の内側に転がり込んだはずだった。
だが命の安全を確保するだけであれば、なにも過酷な騎士団に拘る必要などどこにもない。
王宮の使用人として仕えようが、別の雑務をこなそうが、自身の目的は達成されるはずなのだ。
突きつけられた周囲からの拒絶の視線と、己の不敬が招いた現実の重さ。
この《聖ラウラント騎士団》において、自分たちがここに存在する意味も、戦う目的も、その全てを完全に見失ってしまった少女は、ただ朝日の中で、迷子のように立ち尽くすことしかできなかった――。
◇ ◇ ◇
朝礼の時間が終わり、午前中の訓練外周が始まっても、果ては待ちに待った朝食の時間になっても、ヴァラキー姉妹の心が晴れることはなかった。
いつもなら、食堂に足を踏み入れた瞬間に一目散に走り出し、誰よりも早く大好きなファーレンガルドの隣の席を死守するのだと息巻いていたはずだった。
そして、同じように恋路を応援してくれているエルンと密かに視線を交わし、親指を立てて『やったね!』と微笑ましく笑い合う――いつもなら、そんな光景が広がるはずだったのだ。
食堂の景色は、いつもと何一つ変わらない。
香ばしい焼きたてのパンの風味、濃厚なバターの香り。じくじくと音を立てて肉汁を溢れさせるベーコンやソーセージの焼ける匂い。
大きな鍋で温められた熱々のスープに、みずみずしく新鮮な朝摘みサラダ。卓上には各種ソースや特製のドレッシングが並んでいて――
その活気溢れる空間から完全に孤立するように、姉妹は食堂の片隅で静かに、小さくなってトレイを囲んでいた。
「――おい、いいのかよあれ。いつもみたいに突撃してこねぇぞ」
クリスがいつまで経っても自分たちの席に来ようとしないヴァラキー姉妹を顎で指差しながら問いかける。
だが対面に座るミカとシルフィーネは、ただ黙って首を静かに横に振るだけだった。
「……団長から、ある『条件』を飲む代わりに、彼女たちの処罰を大幅に減刑する約定を交わしています」
ミカは手にしていたフォークを静かにトレイの端に乗せ、誰に聞かせるでもない低いトーンで語り始めた。
――それは、昨夜行われたロディ団長との対話だった。
『……減刑、ですか……? あの副団長が、今回の物損と不敬を不問に付すとは思えませんが』
『確かに奴らは重大な軍規違反を犯したが、悪意あっての行動ではない、と上層部で決議されたんだ』
『――副団長が、自ら折れたとはとても思えませんね』
『まぁな。……正直、俺も驚いたよ。いつもは会議中、退屈そうに座って資料を捲っているだけのあいつが、わざわざ『減刑』を進言するなんてなぁ……』
『その言葉で、誰が今回の減刑を上層部に進言したのか完全に理解しました。――して、その条件とは?』
ミカの問いかけに、クリスは「ははーん……」と合点がいったように、もう一人の幼なじみへと視線を向けた。
当の本人は、金髪を揺らしながら『私は一切関係ありません』と言いたげな無表情のまま、淡々とフォークでサラダを口に運んでいる。
――進言したのは他でもない、昨日の会議で予備動作なく立ち上がった《朔風騎士》シルフィーネ・エレネストその人だった。
「団長から提示された条件は『我々は何もするな』です。手を貸すことも、庇うことも、助言を与えることも一切禁止。僕にとっては、これ以上ないくらいの厳罰……生殺しでしょうね」
「だから、隊長であるお前が関与したくても動けないわけか。……なぁ、それって俺にも適用されんの?」
「当然です。僕が動けなければ、君が裏で動くことくらい、上層部は嫌と言うほど理解しているでしょうから」
「まぁな……。んで、その上層部様は何が目的だ? 騎士団の誇りや名誉を守るっていうなら、さっさと除隊でも追放でもすりゃあいいのによ?」
クリスは、いまだに何処吹く風といった様子で余裕の表情を崩さないシルフィーネに重ねて問いかける。
「それ、私に言ってる?」
「他に誰がいんだよ。《朔風騎士》――女王陛下からその名を賜った、栄えある『十二勇士』の一人であるお前は、当然今回の決議に深く一枚噛んでんだろ?」
「あいにく、私には守秘義務というものがありますので、一律黙秘しまーす」
「答えのようなものですね。……そういうことですので、今回は僕はもちろん、『偵察部隊』の正規隊員からの助言を含めた助力は、一切禁止というわけです」
丁度その時彼らの席のすぐ近くを、クロワッサンのおかわりを取りにトレイを持って通りかかっていたレンたちは、まるで『わざわざ聞かされた』ような気分で立ち尽くしていた。
ミカたち上官が動けないという絶望的な大人の事情。それを耳にした瞬間、エルンはその正義感と(あと純粋な恋愛サポート的な意味も含めて)瞳をギンギンに燃え上がらせた。
「聞きましたか!? レン先輩! ラバ先輩!!」
「聞いたっていうか……完全に、俺たちに聞こえるようにわざと話してたっていうか……」
「俺、パス。関わりたくねぇ」
エルンが鼻息も荒く詰め寄ってくるが、レンは面倒事を察知してさっさと焼き立てのクロワッサンをトレイに乗せて歩き出す。
ラバックも一瞬だけ迷うような表情を見せたものの、レンの背中を追うように視線を逸らした。
「ちょっと、先輩方!! シノアさんもシノンさんも、不器用だけど同じ騎士団の大事な仲間じゃないですか!!ミカ様との恋路も応援しなきゃいけないのに!!」
「……だってあいつらの面倒事、首を突っ込んだら絶対に洒落にならないくらい面倒だぞ……」
「そうだよ。今回の件は国家予算レベルの物損なんだから……」
二人のあまりにも非協力的な態度にエルンはスッと表情を消し、懐から「審判者」の名に相応しい恐るべき武器を取り出した。
「……いいですか? もし協力してくれないというなら、お二人が机の奥に隠している『提出期限がとっくに過ぎた報告書』の束をフリンズ副団長に直接手渡した上で、さらに修練所の個人ロッカーが泥まみれで汚れていて極めて不衛生だという詳細な情報を、首席メイドのニーナ様に直接密告しますよ!!!」
「エルン!!? お前、それはあまりにもあんまりだろ!!」
「それでも規律を重んじる騎士か!? 悪魔めっ!! ニーナさんに知られたら俺たちの命が……!!」
「なんとでも言ってください!! 仲間を助けるためなら、私は鬼にでも悪魔にでもなります!!」
鬼教官であるニーナのスパルタ指導という「地獄より恐ろしい罰」を引き合いに出され、レンとラバックは一瞬で顔面を蒼白に染めた。
結局のところ、若き二人の新兵は、エルンの容赦のない完璧な脅し——正義感ともいう——の前に、涙目で屈する他なかったのである――
◇ ◇ ◇
朝食終了を告げる鐘が鳴り響いた。
本日の午前中は、新人および見習い騎士たちを恐怖のどん底に叩き落とすマヌーチュルフ教官による「算術」の講義がある。
対象となる若い騎士たちは朝食中の幸せそうな表情から一転し、まるで地獄の門を潜るかのような暗い面持ちで重い足取りのまま講義室を目指していた。
対して聖ラウラント騎士団が誇る精鋭部隊・偵察部隊の面々は、ヴァラキー姉妹を除いてほとんどが実戦歴の長いベテラン騎士ばかりである。
当然、地獄の算術講義などは免除されていた。
隊長であるミカは朝食のトレイを片付けるや否や、すぐさま集まった隊員たちに的確な指示を飛ばし始める。
そして副隊長であるシルフィーネもまた、本日の訓練用のメニューを隊員たちへと手際よく配っていた。
その訓練メニューの紙はコピーされたものではなく、一枚一枚が丁寧な手書きで書かれている。
それは隊員一人一人の得意不得意、その日の体調や課題に完璧に適応させた独自のメニューであり、常日頃からミカとシルフィの二人が夜遅くまで執務室で頭を悩ませ、修正を繰り返して作成している血と汗の結晶であった。
食堂の少し離れた位置から、その様子をただ呆然と見ていたヴァラキー姉妹は、今更ながらに気が付いたのだ。
今まで自分たちが「なんで私たちだけこんな面倒なことしなきゃいけないのよ!」と文句を言いながら受けていたあの訓練メニューが、どれほど自分たちの実力に合わせて細かく、安全に整えられたものだったのかを。
思えば、周りのベテラン隊員たちがこなしていたメニューの方がずっと過酷で、息の根が止まるほど厳しい内容だった。
上官であるミカやシルフィは、いつも夜遅くまで執務室の明かりを灯していた。
一緒に騎士団の寮まで帰る約束をしていたはずなのに、いくら待っても降りてこないミカに対して、「もう、ファーレンガルドのケチ! 私たちを置いていくなんて酷いわ!」と勝手に不貞腐れて先に寝てしまった夜のこともあった。
あの時、ミカたちが寝る間も惜しんでペンを握っていたのは他でもない、自分たちのためのメニューを作っていたからだったのだ。
大切なものは、手の中から離れて初めてその価値に気付くものだ。
シノアとシノンは、自分たちを置いて訓練場所へと向かっていく偵察部隊の後ろ姿をただ静かに、声をかけることもできずに見つめるしかなかった。
そしてミカは、最後まで一度も振り返ることはなかった。
「……はぁ、見てられないね、流石に……」
廊下の陰からヴァラキー姉妹の痛々しい様子を見ていたラバックが、胸を締め付けられるような苦悶の表情を見せる。
次いで、先程まで食堂で『絶対に関わり合いになりたくない』と本音を溢していたレンも、いざ目の前で落ち込む彼女たちを見ると、酷く居心地の悪そうに眉を寄せた。
「……ほら、行きますよ!!!」
二人を置いてきぼりに、エルンが持ち前の圧倒的な明るさと正義感を爆発させて、ヴァラキー姉妹の元へとダッシュで駆け寄っていく。
「シノアさん! シノンさん! 次は講義の時間ですよね!? 私たちと一緒に講義室へ行きましょう!!」
「……でも、エルン……」
「ええ……今の私たちと一緒にいると、エルンたちまで周りからどんな目で見られるか……」
「そんなの関係ありません! 外野の雑音なんて、好きなだけ言わせておけばいいんです!!」
エルンの有無を言わせない、多少強引なまでの真っ直ぐな行動に、シノアもシノンも完全に面を食らっていた。
そんなエルンの後ろから、観念した男子二人がのそのそとついてくる。
「まぁ……なんだ……。つまり、周りの目なんて気にするなってこと……だよな?」
「レン、なんでそこで俺の顔を見るんだよ! ……まぁ、騎士団の中に、あからさまに陰湿な嫌がらせをするような奴はいないと思うよ? ……色々と複雑に思う騎士はいるだろうけどさ」
「もー!! ラバ先輩もレン先輩も、もっと男らしくしっかりしてください!!」
そう言ってエルンにバシバシと背中を叩かれ、わざとらしく前後にフラフラと揺らめいて見せるレンとラバック。
その三人のいつも通りの気安い掛け合いの様子に、朝から張り詰めていたヴァラキー姉妹の心の氷が少しずつ、形を変えて溶けていった。
「あははっ……! もう、エルンってば……!」
「なんだか、私たちだけで色々と思い詰めて悩んでたのが馬鹿みたい……!」
「おい!そこ笑うな! ってか、何も根本的な問題は解決してないからな!?」
「いいじゃないですか、レン先輩! こんな時くらい、大きな声で笑ったって!!」
賑やかな風景、肩を並べて歩く年少組の集団。
まるで修剣士学校の青春の一ページを切り取ったかのようなその微笑ましい様子をはるか遠く、王宮のさらに高い回廊の影から、静かに見守るいくつかの鋭い視線があった。
『――さて、どうなるかな』
『シルフィの口車にわざわざ乗ってやったけど、あの元スカコフの姉妹、本当にこれからの我が国に役に立つのか?』
『既に持っている情報は全部吐き出させているのであれば、さっさと始末してしまえばいいものを』
『フン、 相変わらず野蛮ね』
『ともかく、これは上層部の大臣決議で決定した事だ。我ら《十二勇士》の誇りにかけて、一度交わした約定を破るという名目は存在しない』
重厚な気配を漂わせる影たちは、そう言葉を交わすと、再び闇の中へと消えていった。
まだ、自分たちがここにいる本当の意味も、進むべき目的も見つけたわけではない。
けれど、温かい仲間の手に引かれ、迷子だったヴァラキー姉妹は騎士団という大きな壁の中で、確かに未来へ向けて小さな「一歩」を踏み出したのだった――。
◇ ◇ ◇
チッチッチッ……
静まり返った講義室に、壁掛け時計の針が刻む音だけがやけに大きく響き渡っていた。
シノアは、目の前に配られた真っ白な回答用紙を呆然と見つめていた。
算術――それは、シノアがこれまで生きてきた中で辛うじて知っていた「計算」の概念とは、あまりにもかけ離れていた。
ヴァラキー姉妹は元暗殺者であり、その出生は孤児だ。組織で暗殺の技術と共に最低限の読み書きや教育は施されてきたはずなのだが、目の前の紙に並ぶ数式は、何が何だかさっぱり分からない。
(うぅ……数字が、なんか変な生き物みたいに踊って見えるわ……)
そう言えば、少し前にあった試験も「追試居残り組(追試パーティー)」に参加するという、散々な結果に終わった記憶が蘇る。
あの試験は確か二ヶ月に一度行われるものらしく「ってことは、あれからそろそろ二ヶ月が経つのかしら……?」などと、シノアの脳内は完全に現実逃避を始める始末だった。
チッチッチッ……。
とにかく、何でもいいから回答欄を埋めなければならない。真っ白のまま出せば反省の色も、学ぶ意欲すらもないと思われてしまう。
今までのヴァラキー姉妹なら「あーもう、分かんない!!」と思考を放棄して、白紙の用紙を叩きつけるように提出していただろう。
しかし今の彼女たちの胸には、先ほどエルンたちがくれたひたむきな応援と、自分たちのこれまでの行いに対する深い後悔の念があった。
――間違っていても構わない。
――ただ、何もせずに最初から諦めることだけは、もうしたくない。
ぎこちない手つきでペンを握り直し、覚えたての数式を必死に書き連ねて足掻いてみる。
「――そこまで。ペンを置きなさい」
厳格なマヌーチュルフ教官の冷徹な声が、講義室に響いた。
一斉に張り詰めた空気が緩み、騎士たちがガタガタと脱力する中、教官が冷淡な手つきで回答用紙を回収していく。
「……シノア、どうだった……?」
前の席に座っていた姉のシノンが、恐る恐るといった様子で振り返り小声で尋ねてきた。
「……全然ダメ。正直一つも合ってる気がしないわ」
そもそも、なぜ前線で戦う騎士にこれほどの算術が必要なのか。確かに物資の計算や給与の計算に多少の能力は必要だろう。
しかし出題された問題文は、進軍距離の計算やら物資の重さの計算を、これでもかと難解な計算式に変換している。
それだけではない。図面や図形の証明を求められ——そもそも図形の証明って何!?と叫びたかった。
挙げ句の果てには訳の分からないサイン、コサイン、タンジェントという聞いたこともない呪文のような語句が使われている。
一体こんなもの、戦場でどこに使うというのだ。
それでもこれらの一見無意味に思える難解な教養にも、きっと私たちが知らないだけで、騎士団を支えるための重要な意味があるのかもしれない。
そんな殊勝な考えが自然と芽生えるくらいには、姉妹の心境には着実な変化が訪れていた。
講義が終わり、解放された騎士たちが足早に退室していく。
シノアたちもエルンたち第六小隊に付き添われながら講義室を出た。
張り詰めた緊張から解き放たれ、昼食をとるために騎士団専用の食堂へと向かう――その途中だった。
カチャリ、カチャリと、前方から規則正しく響く重厚な鎧と金属の音が聞こえてきた。
「あれは……」
シノアの目が細められる。見覚えがあるどころではない。
つい先日あの破壊された調理室の会議の場で、真っ向から顔を合わせたばかりの人物だった。
眠たげな目をした、ふわふわとした髪の少女。年齢は自分たちと同じか、あるいは少し下にさえ見える。
しかしその胸元に鈍く光る校章は、間違いなく一箇小隊を統率する「隊長」の証であった。
「あれって……この前、調理室で見た……」
レンが隣のラバックに聞こえるか聞こえないかの小声で耳打ちする。ラバックは表情を引き締め、小さく頷いて答えた。
「うん……遠距離小隊隊長、モーニエ・ロンド様だ……」
先日の爆発事故の際、ヴァラキー姉妹に対して一切の容赦のない敵意と不快感を露わにし、ミカが間一髪で手首を押さえなければ、その場で抜刀して間違いなく「私罰」を執行し、二人の首を落としていただろう騎士――
モーニエが近づいてくるのを察した周囲の一般騎士たちは、すぐさま遠距離小隊の進路を確保するために廊下の左右へと素早く割り、道を空けて一斉に背筋を伸ばして隙のない「騎士の一礼」を捧げた。
モーニエはその敬礼にただ静かに視線だけで応え、徹底的に鍛え上げられた規律の塊のように、毅然とした態度で廊下を真っ直ぐ進んでくる。
「わ、私たちも道を空けましょう!!」
エルンが慌てて声をかける。
シノアは、その一糸乱れぬ周囲の動きを見て、今更ながらに思い出した。
偵察部隊が任務から帰還した際にも、周りの騎士たちはこうして敬意を払っていたのだと。
思えばあの時の自分たちは、そんな厳粛な儀礼の重みも知らず、ただ隊長であるミカの後ろを我が物顔で、当然のような顔をして歩いていただけだったのだ。
モーニエの率いる遠距離小隊が、いよいよシノアたちの目の前までやって来る。
エルン、ラバック、レンの三人が流れるような所作で完璧な騎士の一礼を捧げ、いよいよ次は自分たちヴァラキー姉妹の番になった。
しかし思えば騎士の一礼など、今まで見様見真似でしかやったことがない。
――どうやるんだっけ……? 手の位置は? 角度は?
焦ったシノアが、思わず隣のエルンたちの所作を盗み見ようと、ほんの一瞬だけ視線を泳がせた、その瞬間だった。
「――も、モーニエ様!?」
ラバックの裏返った悲鳴が響く。
シュッ、という鋭く風を切る音が鼓膜を震わせた。
気がついた時にはシノアの喉元に、モーニエの放った冷たい細剣の切っ先がピタリと添えられていた。
ほんの少しでも呼吸を深くすれば、首の皮が容易く切り裂かれてしまうであろう、完全なるゼロ距離。
「――っ、何……っ!?」
シノンが驚愕して手を伸ばしかけるが、モーニエの冷徹なプレッシャーに身体を硬直させる。
「―― 一礼も、まともに出来ない、なんて……」
いつもは眠たげなモーニエの瞳が一瞬にして、凍りつくような激しい怒りの色を孕んでシノアを射抜いていた。
「あの時は、ミカの顔を立てて、ここで引いたけど。今回は、別」
周囲の一般騎士たちが驚愕に目を見開き、廊下は一瞬で混沌とした緊張状態に陥った。
遠距離小隊の隊員たちでさえ、隊長であるモーニエの唐突な行動の意図を図りかねて動揺している。
「あ、お、恐れながら! モーニエ様!!」
事態の尋常ならざる重さを察したラバックが、一歩前に出ながら、決死の覚悟で上官であるモーニエに伺いを立てた。
しかしモーニエは、シノアの喉元に突き立てた剣先を微塵も動かすことなく、視線だけを冷酷にラバックへと向けた。
「誰」
「前線部隊 第六小隊所属、ラバック・アラベルです!」
モーニエは、記憶の糸を辿るようにほんの僅かに目を閉じた後、思い当たったように呟いた。
「あぁ……あの時の、調理室の、規律違反者」
その声音には、明確な蔑みと無関心が混ざっていた。
「それで、私に、何」
「その! 何故、今ここで彼女たちに剣を向けられるのですか……!?」
モーニエはラバックに対して、心底軽蔑しきったような鋭い視線を投げつけた。
まるで『そんな基本的なことも分からないの』と、言葉に乗せずとも伝わってくるような冷たい眼差し。
「決まってる。任務から帰還した小隊に対して、一礼もまともに出来ないような人間を――私は、我が騎士団の《騎士》として、絶対に認められない、から」
モーニエ・ロンドの声は、まるで感情を持たない無機質な機械のように、あまりにも美しく透き通りそして残酷なまでに冷たかった。
――動けば、確実に死ぬ。
身体の全細胞が、本能が、明確にそう告げていた。
ピタリと喉元を捉える冷徹な鋼。そこは皮膚のすぐ下に太い動脈が通る、急所中の急所だった。
ここをほんの数ミリでも切り裂かれれば、一瞬で血が噴き出し、なす術もなく大量出血で死に至る。
元暗殺者であるシノアだからこそ、その事実が狂おしいほど明確に理解できていた。
「モーニエ様! お願いです、どうか剣をお納めください!!」
「無理。この二人、あの日から、全く成長してない」
エルンが必死の形相で訴えかけるが、モーニエは一切耳を貸すつもりがない。
眠たげだった瞳は、いまや純度の高い敵意と侮蔑を宿しながら、シノアとその隣で凍りついているシノンを冷酷に見据えていた。
シノアの次はお前だ、と言わんばかりの圧倒的なプレッシャー。
シノンの視界には、自分たちの首を撥ねようとする細剣の幻覚さえ見えていた。
「っ……ごめ、んなさ……」
「謝れば、全て済むと、思ってる? ずっと、ミカの影に隠れて、守られてきただけの……騎士の振りをした、詐欺師の癖に」
――ずっとミカに守られてきた、騎士の振りをした詐欺師。
突きつけられたその言葉が、残酷なほど混じり気のない「事実」なのだと、奇しくも今日、思い知らされたばかりだった。
たらりと冷や汗が頬を伝い、恐怖と絶望で喉がカラカラに乾ききっていく。
「おい……モーニエ様が本気でやってるぞ……」
「誰か上官を呼んできた方がいいんじゃないか……!?」
「でも、あれって例の偵察部隊の……爆発を起こしたとかいう……」
「下手に首を突っ込んで、遠距離小隊に目をつけられたくないしな……」
異変を察知して足を止めた周囲の騎士たちは、憤怒する遠距離小隊の威圧感、そして何より軍紀違反者であるヴァラキー姉妹に関わり合いになりたくない一心で、遠巻きに冷や冷やしながら様子を伺うことしかできない。
「やっぱり、ここで、落とす。首」
モーニエがいよいよこれ以上の不敬に我慢ならないといった様子で、細剣をわずかに動かそうと指先に力を込めた、コンマ一秒前――
背後にいたレンが、モーニエに対して驚くほど落ち着いた、しかし芯のある声を放ち廊下の空気を強引に裂いた。
「いいんですか? もし、いまここでそいつを殺しちまったら……偵察部隊の副隊長、いや《朔風騎士》の進言を真っ向から無下にすることになるんじゃないですか?」
それはレンが恐怖の中で脳細胞をフル回転させて叩き出した、苦し紛れのハッタリなどではなかった。
「モーニエ様。シルフィーネ・エレネスト様は偵察部隊副隊長であると同時に、女王陛下よりその名を賜った《十二勇士》の一人です。公式の軍規と規律に則るならば、シルフィーネ様はしかるべき上官に当たります。その方の決議を現場の独断で破れば、それこそ規律違反になるのでは?」
レンの反論に追撃をかけるように、ラバックが確かな知識の裏付けを持って毅然と続いた。
ピクッ、と。
それまで冷徹無比に表情を崩さなかったモーニエの眉が、目に見えて不快そうに寄せられた。
規律を重んじるモーニエ・ロンドと言えども、公式の会議で処遇を先延ばしにした立役者であり、自分と同格以上の地位を持つ《朔風騎士》の判断を、頭ごなしに完全否定することはできなかったのだ。
「……最低。……いっつも、誰かに守られてばっかり」
心底吐き捨てるように冷たく言うと、モーニエはシュッと神速の速度で細剣を引き抜いた。
常人には残像しか見えない速度で刃が鞘へと戻されるその過程――せめてもの意趣返し、あるいは警告の代わりに、細剣の切っ先がシノアの白い頬をかすめる。
チリッとした痛みが走り、シノアの頬に一本の薄い線が刻まれた。そこから、致命傷には程遠い、ほんの僅かな一筋の血が滴り落ちる。
「……もう行く。……本当に騎士を名乗るつもりなら、次までに、一礼くらい、完璧に出来るようにしておいて」
モーニエは背後の部下たちに顎で視線を投げると、何事もなかったかのように廊下を再び規則正しい歩調で歩き出した。
引き連れられた遠距離小隊の足音が遠ざかっていく。
モーニエの姿が完全に去ったことで、廊下を支配していた極限の緊張感が一気に溶けた。
その瞬間、張り詰めていたシノアの身体から完全に力が抜け、まるで操り人形の糸が切れたかのようにその場に崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。
「シノアっ!!」
姉のシノンが悲鳴のような声を上げてすぐに駆け寄り、その身体を抱き起こす。
傍らにいたエルンは、シノアの頬の傷を見るや否や「私、今すぐリリアン医務官を呼んできます!!」と叫んで脱兎のごとく廊下を駆けていった。
一連の悍ましい光景を目撃していた周囲の一般騎士たちは、倒れた姉妹に対してどう反応すべきか決めあぐね、戸惑うように視線を泳がせていた。
だがその時、王宮内に昼の訪れを告げる荘厳な鐘の音が鳴り響くと、誰もが我に返ったように弾かれたようにその場から足早に散っていった。
静まり返った廊下で、シノアは自分の頬に手を当て、指先についた小さな赤を見つめながら、ただ声もなく震えていた――。
◇ ◇ ◇
ツン、と鼻を突く独特な消毒液の香りがする。
そう思考した所で、自分がいつの間にかベッドの上で眠っていたことにシノアは気付いた。
あの後、血相を変えて戻ってきたエルンが連れてきた医務官――心は乙女で身体はヘラクレスという凄まじい風貌の人物――に半ばパニックになりながら怪我の様子を診てもらったのだ。
『あらぁん……大丈夫よ♡ 綺麗な顔に傷が残ったら大変だもの、すぐ治るかすり傷よん♡』
『よ、よかった……!』
『それにしても……これ、モーニエちゃんの手口ねぇ……』
『えっ、一目見ただけで分かるんですか!?』
『そりゃそうよん♡ 私が何年ここ(王宮)で医者をやってると思ってるの? あの一徹な子がつけた剣傷なんて、角度と深さを見れば一目瞭然よ♡』
そんな豪快でどこか安心感のある会話の後、その医務官――リリアンというらしい大男――から「大人しくここで休んでいきなさい」と言われ、ほとんど強制的に医務室のベッドへ連れてこられたのだった。
――あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
外の光の加減を見るに、とうに昼食の時間は過ぎているようだった。
時計を確認しようとシノアが僅かに身を起こしたその時、医務室の重厚な扉が静かに滑らかに開く音が聞こえた。
仕切りのカーテンの角度的に、扉からベッドがある此方側はちょうど完全な死角になっているはずだ。
入室してきた者は、部屋の主であるリリアンの名前を呼ぶこともなく、まるで自分の勝手知ったる領地かのように迷いのない足取りで薬品棚へと向かい物色を始めた。
カチャカチャという微かな金属音。
隙間から見えるシルエットからして騎士のようであるが、少し離れた位置にあるため顔まではよく見えない。
黒髪で、小柄な少年のようだ。
何故だか無性にその存在が気になり、シノアが音を立てないよう息を潜めて少しだけ距離を詰めようとして
――――そして、見てしまった。
少年の騎士服の左腕の袖が大きく破かれ、そこから黒ずんだ大量の血がどくどくと流れているのを。
「ひっ……!」
あまりにも凄惨な傷口の様子に、シノアは反射的に両手で口を強く押さえた。
指の隙間から小さな悲鳴が漏れ出るのだけは、どうにか防ぐことができた。
既に最低限の止血処理は施されているようだが、それにしても、普通ならのたうち回るほどの激痛が走っているはずの深手だ。
しかし当の本人は痛みの感覚が麻痺しているのか、それとも耐え慣れているのか、軽い足取りのまま棚から消毒液と包帯――そして医療用と思われる小さなハサミを手際よく手に取った。
見ているこちら側が気絶してしまいそうなほど痛々しくて、今すぐにでも目を背けたいのに、なぜか彼の無駄のない一挙手一投足から視線を外すことができない。
少年は、患部を圧迫していた血塗れの布を躊躇なく剥ぎ取った。
「あっ……うっ……!」
露わになったのは、酷い傷口だった。
抉れた肉が赤黒く変色し、一体どんな苛烈な戦いを経ればあんな悍ましい傷を負うのか、想像するのも憚られるほどの状態だった。
部下を庇って受けたのであろう、魔獣の毒針が深く突き刺さった痕。
少年は、迷わず右手のハサミを構えると――
驚くことに、躊躇いなく自らの傷口にその刃を突き入れた。
あれは古くなった包帯を切るための物ではなかった。
肉の奥深くに入り込んだ異物を摘出するための、医療器具としての使い方だった。
シノアは絶句し、ただただ圧倒されながら彼の手当てを黙って見つめることにした。
なぜかここで視線を外してはいけないような、彼の壮絶な「日常」をその目に焼き付けなければならないような気がしたからだ。
少年はハサミの先で傷口の奥から黒く細い、禍々しい針のような物体を器用に摘出し、清潔なガーゼの上へと置いた。
肉を抉る過程で、ガーゼの一部が少年の新鮮な赤で染まっていく。
彼はその毒針を幾重にも厳重に包むと、専用の袋へと密閉し極めて丁寧にゴミ箱へと放棄した。
――酷い傷口であるはずなのに、まるで精緻な芸術を見ているかのようだった。
苦しげな声もなく、手慣れた様子で患部へ一気に消毒液を吹き掛け——想像を絶する激痛のはずだ——そこから新しい包帯を、極めて洗練された無駄のない動きで傷口へと巻いていく。
間違いなく日常的にこのような大怪我を負い、そして自分自身で手当てを完結させてきた人物なのだと、容易に想像がついた。
少年は包帯を巻き終わると、具合を確かめるように何度か腕を小さく動かし、納得したように騎士服の袖を元通りに下ろした。
――その瞬間、シノアは今更ながらにその見覚えのある細い背中に強烈な既視感を覚えた。
いつも遠くから見つめていた。自分が我儘を言って、必死に隣を歩こうと追いかけ続けていたはずの、あの小さな背中。
「……盗み見とは、あまり感心しませんね、シノアさん」
振り返りざまに紡がれた、いつもと変わらない丁寧で、しかし核心を突く毒を含んだ冷徹な声音。
その声を聞いた刹那、シノアは自分の目から大粒の涙がとめどなく溢れ、頬を伝い落ちていることにようやく気付いたのだった。
差し出されたハンカチは、怪我をしていない方の手で驚くほどそっとシノアの震える掌へと手渡された。
反射的に受け取る。安堵と己の身勝手さに対する情けなさからか、涙は溢れるばかりで簡単には止まってくれなかった。
それでもミカはそんな不器用なシノアを咎めることもせず、ただ何も言わずに小さな子供をあやすかのように静かに背中を撫で続けてくれた。
まるで子供扱いされているようだ。
けれど、いつものような鋭い毒舌は完全に鳴りを潜めていた。
シノアの涙がようやく枯れ果てるその瞬間まで、その華奢な手は一定の温かいリズムで、優しく動き続けていた。
「それで、その頬の傷はどうしたんです」
「それ、こっちの台詞よ……!」
シノアは涙を拭いながら、掠れた声で言い返した。
自分の頬の傷なんて、モーニエが去り際に残したただの掠り傷だ。
それよりも、目の前のミカの方がよほど大怪我であり、腕を少し動かすだけでも激痛が体中を走っているはずなのだ。
「これですか? シリカが任務中に少し前へ出すぎてしまいましてね。……まぁ、これも隊長としての務めですよ」
「何言ってるの……怪我をすることが、隊長の務めだって言うの……!?」
「正確には『部下を護る』という点ですが」
事もなげに、当然の義務を語るように微笑む。
――あぁ、これが彼の……ミカ・ファーレンガルドという少年のあまりにも苛烈な「日常」なのだと、はっきりと分かってしまった。
彼のことが好きだと、ずっと無邪気に言い続けていながら、私は彼のことを何一つ知ろうとしていなかった。
日常的にこんな大怪我を負っているなんて知らなかった。
もしかしたら今までの任務中にも、自分たちの前で怪我を必死に隠していたことがあったかもしれない。
夜遅くまで、自分たちのためだけに個人用の特別な訓練メニューを作ってくれていたなんて知らなかった。
遠征軍に参加していた副隊長のシルフィーネが不在の間、彼がたった一人で部隊全員分の膨大な報告書を確認し、処理していたなんて考えもしなかった。
そんな息の詰まるような多忙さの中にありながら、皆のためにプロ顔負けの美味しいお菓子を焼いてくれる日さえあったのだ。
そんな限界のような日々を送る彼に対して、自分は一体どれほどの我が儘を並べ立ててきたのだろう。
――寮まで一緒に帰ってよ。
――私の買い物に付き合って。
――報告書の添削を手伝って。
どれもこれも、ミカの都合なんて何一つ考えていない、自分勝手で身勝手な要求ばかりだった。
脳裏に、先ほどのモーニエの冷酷な言葉が呪詛のように何度も何度も繰り返される。
『いつも誰かに守られてばっかり』
『ミカの影に隠れて、守られてきただけの詐欺師の癖に』
――彼の誇りを、彼の名誉を、無自覚に傷つけ続けていたのは……
他でもない、私だ。
「っ……! ご、ごめん……ごめんなさ……ごめんなさい……!!」
「……あー……なるほど……そういうことですか……」
シノアは、ただ無我夢中で謝りながら、再び激しく泣きじゃくった。
同年代であるはずの少年の胸の中で、これでもかと涙を流す。
恥ずかしいとか、みっともないとか、そんな体裁を気にする余裕すら吹き飛ぶほどに、胸の奥から感情が溢れ出していた。
「——シルフィ、君の言った事が今、ようやく分かりましたよ……」
ぽつりと、ミカが誰に聞かせるでもなく呟いた。
その時、シノアはハッと息を呑んだ。
ミカは、泣きじゃくる私を確かに抱き留めてくれている。
優しく髪を鋤いて、慰めてくれているのは私の頭のはずなのに。
彼の深い栗色の瞳には、今目の前にいる私の姿が全く映っていなかった。
――思えば、最初からそうだったのだ。
朝食の席で、彼が決まって座るのは決まって左から二番目の席。
そしてその端に、まるで当然の指定席であるかのように座っていたのは、いつだって彼女――シルフィーネだった。
たまに――本当にたまに、姉のシノンがどこか悲しげな、割り切れない目で自分を見ていたことに、全く気付かなかったわけではない。
あれは、恋する私に対する「次があるよ」なんていう、気休めの応援の言葉などではなかったのだ。
無意識に、彼が山積みの書類からふと顔を上げた時。
魔獣との交戦を終え、真っ先に負傷者の安否を確認する時。
重苦しい会議の中で、ふと席に腰を下ろす時。
ファーレンガルド――いや、ミカが見つめその背中を無意識に追っている相手はいつだって彼女、シルフィだけだった。
――だったら、何故。
彼女のことがそんなに特別で、そんなに大切なら、どうして。
「何で……?」
「シノアさん?」
シノアの小さな呟きに、ミカの手がピタリと止まる。
あぁ、やっぱり、とシノアの胸に絶望が満ちていく。
その手を止めないでほしい、まだその温もりに縋っていたいという、酷く場違いな思考が同時に浮かんで消えた。
「何で、そんな風に中途半端に優しくするの……!?」
「……?どういう――」
「どうして期待させるようなことするのよ!? ――私の気持ちに、何一つ応えられないのなら!!」
――もう、溢れ出した感情の濁流は止まらなかった。
一度暴れだした激しい情念は、そう易々と引っ込んでなどくれない。
「それなら……! 優しくしないで、そんな同情なんてしないでよ……! 最初から、もっと冷たく突き放してくれた方が、ずっとよかったのに……!!」
身勝手な言葉をぶつけ、ミカの手を振り払うようにしてベッドから立ち上がる。
極限の精神状態のせいで足元が縋れ、転倒しそうになった瞬間、ミカの細い腕が反射的にその身体を支えようと伸びた。
けれどシノアはその救いの手さえも、狂おしいほどの拒絶を込めて強く振り払った。
「最初から厳しくされていれば……あなたを、ミカを好きになることなんて、絶対になかったのに!!!」
振り返ることはしなかった。
そのまま、弾かれたように医務室の扉を押し開け、外へと飛び出した。
自分が何処へ向かっているのか、これからどうしたいのか、そんなことは自分自身でも分からなかった。
◇ ◇ ◇
シノアが激しい勢いで泣きながら飛び出していく様子を、医務室の外の壁に静かに寄りかかっていたクリスハイト・オルティが冷めた、しかしどこか哀しげな目で見送った。
そして彼は、人気のない廊下の真ん中にポツンと佇み、妹が走り去った方向をただ見つめている一人の少女――シノンへと視線を向け、静かに告げた。
「な? だから言っただろ、火傷で済むうちに止めとけって」
夕暮れの冷たい風が廊下を吹き抜ける。その問いかけに対して、答える者は誰一人として存在しなかった。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。
これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!
あなたにも風の導きが有らんことを
にしみん




