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星刻の約定 ——Fragments of Laurant―  作者: にしみん
泡沫の夢が覚めるまで(夢見の断章)
20/42

恋は夢うつつ、愛は痛みを伴うもの

この作品を手に取っていただき、ありがとうございます✨


タイトルについて

恋は夢見る心、愛は求める心だと私は思っています。

恋に落ちるのは突然で、抗い難いもの。まるで夢のようですが恋は一人でもできるのに対し、愛は二人いないと成立しない。愛され、愛すもの。

という考えからタイトルの名前になりました。


 午後の暖かな日差しが広い第二会議室の窓から差し込み、床に長い陰影を描き出している。遮音性の高いガラス窓の向こう――

 よく手入れされた王宮の庭からは、のどかな鳥の歌声が微かに響いていた。

 何事もなければ、誰もが穏やかで緩やかな午後の訪れを予感し、机に頬杖でもついて微睡みたくなるような、そんな平穏に満ちた空気。


 ――だが、それはこの部屋に、胃を抉るような「問題ごと」が持ち込まれていない場合の話であった。


「はぁ……」

「今日何回目の溜め息だよ……しゃーねぇだろ。諦めな」


 ミカ・ファーレンガルドが今日何度目とも知れない、胸の奥底から絞り出すような重い溜め息を吐き出すと、隣に座るクリスハイト・オルティが呆れたようにぶっきらぼうに言い放った。


 他部隊との合同定例会議という公式な場が始まる前から、身内の不始末のせいでこれほど余計な神経を磨り減らしている事態。

 いくら若き天才偵察隊長として名を馳せるミカであっても、容赦なく押し寄せる心労には抗えず、その端正な顔を歪めて本気で胃を痛めていた。


「僕が問題視しているのは、あの壊滅的な報告書の見直しだけではありません……この会議には、あのフリンズ副団長も出席されるんですよ。……昨日の《試験プロセス》での件について、公式の場で容赦のない説法を説かれるに違いありません」

「あぁ……そういうこと……」


 絶望を予感して遠い目をするミカの言葉に、クリスもまた、逃避するように天井の彼方を見上げるようにした。


 各部隊との定例会議には、本来なら隊長と副隊長が出席する決まりになっている。

 クリスは隊長でもなければ副隊長でもない身分だが、その卓越した実力を高く認められているが故に、こうして会議への出席を特例で認められていた。

 実戦能力だけで言えば、間違いなく隊長や副隊長クラスの器である少年騎士。


 それなのに彼が未だに昇進できず、肩書のないまま据え置かれている理由は、一重に先ほど食堂でも露呈した、報告書を含めた事務処理能力の低さが原因であった。

 書類一枚で足を引っ張られている男だからこそ、ミカの書類への愚痴は自分にも刺さるが、それ以上に『副団長の説教』という言葉の響きは、クリスの背筋をも凍らせるに十分だった。


「間違いなく突っ込まれるだろうなぁ……」


 そう言って、隣で退屈そうに肘をついているシルフィーネ・エレネストは、他ならぬ偵察部隊の副隊長という当事者の立場であるにもかかわらず、どこか他人事のように淡々としていた。

 全てを見通した上で何か切り抜ける策があるのか、あるいは、単に冷徹な現実主義者として事態を静観しているだけなのか。

 その読めない空色の瞳は、窓外の景色をのんびりと眺めている。


「大体《代理決闘》なんて異例中の異例な手段で、昨日のあの場はなんとかなったが……あれはあくまで一時的な誤魔化しに過ぎない。ヴァラキーの犯した軍規違反に対する、根本的な処罰にはなってねぇしな」


「加えて、今回はローラ様という王族の御方が深く関わってしまっているのが大きすぎます。結果として、昨日は彼女たちの首の皮が一枚繋がった形ですが――」


 時間が進むにつれ、他の部隊の隊長や副隊長たちが、書類を手に次々と第二会議室へと集結する。

 座席が静かに埋まっていくその光景は、恐ろしい断罪の刻が、一分一秒と確実に迫ってきている事実を無情に表していた。


「お前ら……実際問題、どんな処罰になると思う?」


 周囲に声が漏れないよう、クリスが少しだけ真剣にトーンを落とした声色を響かせて二人に問う。

 ミカは栗色の瞳を少し伏せ、最悪のシナリオを脳裏で捻り出すようにして小さく発言した。


「……まず間違いなく、反省文の提出程度では免れないでしょうね」

「あの堅物で規律の塊みたいな副団長が、反省文だけで済ませる訳ないよ。私は除名……は、彼女たちは正式な騎士じゃないから除くとして『偵察部隊からの除隊』くらいは、十分に考えられると思ってる」


 シルフィーネの口から漏れた冷徹な予測に、会議室の空気が一段と重くなる。


 元犯罪ギルドの構成員であり、司法取引という特殊な枠組みで拾われたヴァラキー姉妹には、通常の騎士に適用される規律に基づいた「正式な騎士除名」の決議は適用されない。

 だが仮に偵察部隊の隊員として相応しくないと判断されれば、待っているのは部隊の移動――すなわち除隊処分だ。


 しかし、ヴァラキー姉妹がこの聖ラウラント騎士団において、その存在を許されていたのは『他を圧倒する隠密性に優れる』という一点がロディ団長に認められたからに他ならない。

 もしその唯一の拠り所である偵察部隊を追い出されれば、彼女たちには、この騎士団の中に居場所などどこにも残されていなかった。

 

――彼女たちには他を凌駕する隠密の能力があったからこそ、この《偵察部隊》に配属されたんです


――逆に言えば、この偵察部隊の特殊な環境以外では、一切使い物にならないってことでしょ。 せいぜい気配を殺して隠密行動が出来る程度。 状況判断も、対処の仕方も、周囲に対する警戒レベルも低すぎる。 ロディ団長が正式な手順で騎士団に加入させずに、『司法取引』っていう一時的な手段を取ったのが、何よりの証拠だよ。

 

 かつて部隊の内部で交わされた、彼女たちの本質を突くシビアな会話の真意。

 それがフリンズ副団長の出席という絶対的な現実を前にして、少しずつ、しかし逃れようのない確かな現実味を帯びてミカたちの脳裏にのしかかっていた。


 当のシノアは今頃、食堂でのローラのアシストに浮かれ、「今日の午後の会議が終われば、夜の執務室でファーレンガルドと二人きりのレクチャー 」――実際はシノンもクリスもいるが。などという甘い夢をうつつに見て、胸をときめかせていることだろう。


 だがその想いを寄せられている上官は今、恋情など入り込む余地もないほど、部下の引き起こした不始末と、彼女たちの首をいかにして騎士団に繋ぎ止めるかという、果てしない生き地獄の現実に直面して深く頭を抱えていた。

 コツ、コツ、と、廊下から会議室へと近づいてくる、規律正しく迷いのない足音が部屋の中に響き渡り始めていた。


◇ ◇ ◇


 規定の時刻に十分な余裕を持って会議室に現れたのは、副団長フリンズ・フォン・フェイレンであった。

 彼はその冷徹な双眸で、一分の隙もなく並ぶ隊長たちの席を一通り見渡すと、満足したように短く頷いた。


「全員揃っているようですね。では定例会議を始めます」


 彼の硬質な声が合図となり、会議は規定通りに淡々と進行していった。

 王都周囲の治安維持状況、殺人ギルド《スカル・コフィン(嗤う骸骨)》の不穏な動向、周辺の街や村から上がっている物資の流通報告、そして今後予定されている王宮行事関連の擦り合わせ――


 張り詰めた空気の中、それぞれの部隊長が淀みなく義務を果たしていく。

 だがある報告書に差し掛かった時、一人の隊長が「一体これのどこが軍務の報告書なんだ……」と内心の辟易を顔に滲ませながら、重い口を開いた。


「――それと……メアリ王女殿下が、近々大規模な『ファム・ファタール~もう一人の貴方を愛してしまった~』と称する愛憎劇を執り行いたいと申されておりまして……つきましては、我が騎士団に対し、舞台小道具の作成、および演者としての出演を所望されております……」


 その瞬間、水を打ったように静まり返る第二会議室。

 これが通常の一般騎士たちの集まりであれば、間髪入れずに『職務中に何をおままごとに向き合ってやがるんだ!』と盛大な総ツッコミが入る場面だったろう。


 だが、ここに席を並べているのは全員が王国のエリートであり、日々多忙を極める現場の中間管理職たちである。

 彼らの脳裏を過ったのは、怒りや戸惑いよりも、ただただ深い「呆れ」の二文字だった。

 我儘王女の突飛な浪費癖に付き合わされる現場の苦労を知るからこそ、誰一人として笑う者すらおらず、疲弊した沈黙だけが広がる。


「当然却下です。ニーナ殿に報告後、然るべき指導を行うように」

「……はい(ですよね)」


 フリンズの容赦のない一刀両断に、報告した騎士は心底安堵したように小さく頭を下げた。

 だが、安穏とした時間はそこまでだった。

 議題が次へと移る気配を察し、クリスは手元の資料を捲りながら(とうとう来たか……)と内心で冷や汗を流す。ミカの胃の痛みは、いよいよその頂点に達しようとしていた。


「――諸君も既に預かり知るところではあるでしょうが。先日の《試験プロセス》において、極めて重大な軍規違反者が確認されました」


 フリンズの、凍てつくような声が室内に響き渡る。

 それまで冷静沈着を保っていた各部隊長クラスの騎士たちの表情が一斉に曇り、中には「信じられない……」と、不快感を露わに小さく言葉を漏らす者もいた。


 日頃の通常の任務においてすら『規律違反』というものは重罪である。

 それが見極め・抜き打ちであり、騎士団にとって最も難解で過酷な《試験プロセス》という大舞台において仕切られた地獄の時間での大遅刻となれば、その意味合いは実戦における敵前逃亡にも等しい。 


「あれだろ? スカコフの鼠。入団直後から、ロディ団長に堂々と口答えをしてたって言う……」


 そう吐き捨てるように呟いたのは、騎馬第一部隊隊長、ディルック・アルベルトであった。

 彼は隣の席のミカへ、訝しげな視線を向けながら資料を指先で叩く。


「以前から遅刻の常習犯だとも聞いている。おまけに先日は、一部の女子共が深夜に男子寮に許可なく立ち入ったとか……規律の乱れにも程があるな」


 後方支援部隊隊長、ハイネ・アルカラスが神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げながら、心底からの軽蔑を宿した表情で手元の書類に目を落とした。


「間違いなく不穏粒子ね。何故あんな者たちがよりによって《偵察部隊》に配属されたのかしら……多少隠密性に優れるといっても、限度というものがあるでしょうに」


 遊撃部隊第三部隊隊長のエウルア・フォン・ローレンライが、扇を模したような所作で口元を隠しながら貴族としての、そして最前線を預かる者としての激しい怒りを露わにする。

 会議室を満たしていくのは、ヴァラキー姉妹に対する確実な「敵意」と「拒絶」の波だった。


 只でさえ彼女たちの入団は、元スカコフという最悪の経歴から一悶着あった案件だ。

 それをロディ団長が司法取引という形で強引に押し切ったからこそ、他の隊長たちは団長への絶対的な敬意故にに今まで辛うじて目を瞑ってきたのだ。 


 先日の《試験プロセス》での二度寝という致命的な大失態は、彼らの忍耐の限界を完全に超えさせるクリティカルな一撃となっていた。


「おい、ミカ。お前のところの部下だろ? ちゃんと躾は出来てんのかよ?」


 ディルックの、鋭く厳しい追及がミカへと浴びせられた。年上の有力な部隊長からの容赦のない叱責。

 しかし向けられたミカは、若き天才偵察隊長としてのプライドと冷静さを保ち、眉一つ動かすことはなかった。


「僕の指導不足であることは、弁解の余地もありません。――しかし先日の男子寮無断立ち入りに関しては、ヴァラキー姉妹だけが独断で関与している訳ではありません」


「なら、今回の件はどう説明するんだね? いくら入団して日が浅いとは言え、《試験プロセス》の遅刻は言い訳の立たない重大な軍規違反だ。ほぼ同時期に入団したレン・エインズワースは規律通りに、時間内に現場に到着している。彼らに比べて『慣れていない』という言い訳は通用しないと思うがね」


 ハイネの冷徹な追及が重なり、周囲の騎士たちの空気はいよいよ「ヴァラキー姉妹の偵察部隊からの即刻除隊」ひいては騎士団からの追放処分を公式に求める姿勢へと完全に傾いていった。


◇ ◇ ◇


彼らがこれほどまでに激しくミカを責め立てるのには表面上の怒りとは別に、もう一つの本音があった。

 有能で厳格な後輩であるミカを高く評価しているからこそ、『なんであんな問題児の泥を被り続けているんだ』『組織の癌になる前にさっさと切り捨てろ』という、極めて分かりづらく不器用な「気遣い」の裏返しでもあったのだ。


「まぁまぁ……皆様、そんなに怖いお顔をなさって。何もこの件のすべてをミカ様だけに責任追及なさるなんて、あまり優雅でなくってよ?」


 刺々しい空気を遮るように、物腰柔らかな声が上がった。

 発言したのは、物資管理部隊隊長のリサ・ソールシュ。

 騎士というよりは洗練された宮廷の淑女を思わせる艶やかな外見に加え、その流れるような甘い声色が、一瞬にして会議室の冷たい氷を溶かしていくように響く。


「あら、随分と甘い処分を望むのね?リサ。これだから物資管理部隊は……裏方の物資を右から左へ管理しているだけで、泥臭い前線に一度も出てこない引きこもりの、埃臭い騎士の方々は軍規違反がどれほど組織を揺るがす罪か、本当の意味で分かっていないみたいね?」


 エウルアが即座に不快感を露わにし、容赦のない言葉の刃を突き返す。だがリサは全く怯むことなく、その美しい唇に妖艶な笑みを浮かべたままで返した。


「うふふ……貴女こそ、『物事の真意』というものがまるでお分かりになられていないようね? わたくしは『ミカ様だけに責任を押し付けるべきではない』と言っているだけですわ。ミカ様の普段の厳格さは、それこそ貴女だって身に染みてご存知でしょう? ――これだから……前線で。ただ無暗に剣を振っていればいい、と思っている脳まで筋肉で出来た野蛮人は嫌ですわ!」


「なんですって……!?」


 バチバチと激しい火花が散り、一瞬にして会議室の主導権は、女性隊長同士の苛烈極まる言葉遊び——遠回しな辛辣悪口合戦——へと塗り替えられた。


 その凄まじい風圧と女の闘いの恐ろしさに、先ほどまで偉そうに饒舌だったディルックとハイネは、一転して借りてきた猫のように「ゴホン……」とわざとらしい咳払いをして静かに目を逸らし、大人しくなってしまう。


「おい……(これどうするんだよ)」

「(関わるな、前線より恐ろしい戦場だ……)」


 クリスとミカは、挟まれた席でなんとも言えない引き攣った表情を浮かべ無言で、完全に胃を痛める中間管理職のそれになっていた。

 一方その隣のシルフィーネだけは、激しい舌戦にも一切の興味を示さず、相変わらず退屈そうに資料のページをパラパラと捲り、完全に我関せずを貫いている。


 女性陣の熾烈な争いによって、一時的にミカへの直接的な追及の手は緩んだ。しかし、これは単なる前哨戦に過ぎない。

 彼らの正面、会議室の最上座には、未だ一言も発していない本丸――副団長フリンズ・フォン・フェイレンが、冷徹な双眸をさらに深く揺らめかせ、その様子を静かに見下ろしているのだ。


 果たして、このドロドロとした上官たちの思惑が交錯する場で、フリンズが下す「公式の処罰」とは一体何になるのか。

 シノアが呑気に夜のレクチャーを夢見ている裏で、ミカとクリスの頭痛はさらに加速していく。


 「大体私は、あのヴァラキーとか言う小娘をよりにもよって《偵察部隊》に所属させるなんて、最初から断固反対だったわ!!」


「あら、その件は入団時に散々意見を交わした案件でしょう? 軍務大臣のフォーツルト閣下が認めている以上、今更覆せませんわ」


「――でも、問題行為を続けて起こしてるのは……事実……だよね?」


 エウルアVSリサの激しい闘いに、ぽつりと突撃したのは、普段は眠たげで物静かな印象を持つ、ミカたちと年齢の近いモーニエ・ロンドだった。

 そのふわふわとした雰囲気からは想像もつかない容赦のない言及は、会議室に思わぬ火種を呼ぶことになる。


「ふん! その通りだわ。あの小娘たちを偵察部隊、および騎士団に置いておくだけで、我らの誇りが汚れるのよ」


「心が狭いわねぇ……。もう少し客観的に物事を考えられないのかしら……」


「言葉では優しいけど……現実的な代案を何も出さない……リサ隊長も……猫被ってるよね……」


「あら? うふふ……(訳:まだ子供の癖に偉そうに口を利いてくれるじゃない……)」


「おほほ……(訳:いいぞもっと言え、リサの化けの皮を剥がしてやりなさい)」


「これだから年層は……(訳:おばさんたちは黙ってて)」

(※エウルアとリサはまだ二十代前半です)


 エスカレートしていく女性同士の陰湿かつ熾烈な論争に、クリスは(これはひでぇ……)と完全に引き攣った顔で沈黙し、ミカはこの不毛な時間が終わった後に必ず巡ってくるであろう自分への追及事案の対策を、必死に脳内で組み立てていた。


「いい加減にしろ! お前らの下らない口喧嘩のために集まった会議じゃねぇぞ!!」


「デ、ディルック……止め――」


「黙ってなさい!! これは我が部隊の、ひいては騎士団のプライドに関わる問題で譲れないのよ!!」


「殿方にはこの繊細な機微が分かりませんわ!!」


「煩い」


 後方支援部隊のハイネが、いよいよ我慢の限界を迎えて机を叩いたディルックを慌てて咎めようとするが、時既に一歩遅かった。

 エウルアとリサは女のプライドを完全に刺激されて怒りを露にし、最年少のモーニエに至っては、年上相手に感情も乗せない冷淡なトーンで『煩い』と一掃する始末。


 誰も止められない、前線より恐ろしい泥沼の戦場がそこに完成していた。

 上座のフリンズ副団長は、言葉を失うほどに乱れた場に、僅かに不快そうに眉を寄せる。

 直後、今まで退屈そうに手元の資料のページを無感情に捲り続けていたシルフィーネが、何の前触れもなく、椅子からスッと立ち上がった。


「――論点が逸れてる。今はヴァラキー姉妹の具体的な処罰についての話し合い、その筈でしょ」

「その通りです。私情、および私用での身勝手な言動は慎むように――」


 シルフィーネの冷徹な一言に、フリンズが重々しく頷き、場を完全に引き締め直そうとした――まさにその瞬間。


 ——ドォォォンッ!!!!


 王宮内部――正しくは、この第二会議室のすぐ隣にある調理室から、室内がビリビリと震えるほどの特大の爆発音が鳴り響いた。

 次いで壁の薄い隙間を通り抜けて、必死でパニックを起こしている若者たちの怒鳴り声がダイレクトに会議室へと突き刺さる。


「おい!! 卵をそのまま丸ごとオーブンに入れる奴があるか!! 馬鹿なのか!!」


「だ、だって……オーブンは中に物を入れるだけで美味しくなる魔法の調理器具だって、ベアトリクスが言ってたわよ!!」


「ベアトリクス嬢の話をそのまま信用しちゃ駄目だっていつも言ってるだろ……!! あわわ、どうしたらいいんだこれ……!!」


「ラバ先輩!! 上から凄い煙が……! 待ってください!熱いから素手で触っちゃ駄目ですよぉ……!!」


「ちょっと、今度は小麦粉が引火して爆発したわよ!! これどうすればいいの!? 消火魔術!? 水!?」


 隣の部屋から響いてくるのは、あまりにも耳に馴染みすぎた、しかし今この瞬間に最も聞きたくなかった部下たちの声。

 レン、シノア、ラバック、エルン、そしてシノンの順で、次々と繰り出される大惨事のオンパレード。


 恐らく、夜の報告書レクチャーの前にミカのために一肌脱ごうとお菓子作り、あるいは夜食の準備を試み、見事に人災を巻き起こしたとされる爆発の要因と阿鼻叫喚の声が、比較的静寂を保っていた第二会議室の全員の耳へ、完璧にかつ寸分の狂いもなく筒抜けに響き渡った。

 

「「「「「「「―――――――」」」」」」」

 

 先ほどまで恐ろしい熱量で繰り出されていた女性隊長同士の熾烈なキャットファイトなど、もはや綺麗さっぱり宇宙の彼方へと消し飛んでいた。

 ディルックは呆然と壁を見つめ、ハイネは眼鏡をずらし――エウルアとリサ、そしてモーニエまでもが、完全に言葉を失って凍りついている。


 ミカは、ゆっくりと両手で自分の顔を覆った。指の隙間から漏れ出る絶望のオーラは、先ほどの比ではない。

 その隣で、クリスは「終わったな……」と言わんばかりに、憐れみと諦めに満ちた目でそっとミカの肩を叩く。

 シルフィーネすら、流石にこのタイミングでの「追撃の人災」には、小さく溜め息を吐くしかなかった。


会議室の最上座。

ピキ、と青筋を立てたフリンズ副団長が、地獄の底から響くような、この日一番に冷え切ったしかし怒りの乗った声で静かに宣告した。


「……定例会議を一時中断します。ミカ隊長、およびクリスハイト、シルフィーネ副隊長。我々も『現場』へ向かいますよ」


 ミカとクリスの胃に、本日最大級のクリティカルな痛みが走る。

 シノアが夢見た「夜の二人きりの甘い時間」は、定例会議の最中に、物理的な爆破音と共に最悪の形で現実へと引きずり下ろされることとなった――


◇ ◇ ◇


 隣の第四調理室に足を踏み入れると、そこには既に灰色の濃い煙が立ちこめていた。

 換気魔術の追いついていない室内では、引火した鍋から赤い火の手が上がり、先日導入されたばかりの、それなりに高価な最新式のオーブンからは排気口を通じて凄まじい黒煙が噴き出している。

 けたたましい騒ぎを聞きつけ、廊下からは移動中だった他の王宮使用人や魔術師たちが、何事かと野次馬根性で遠巻きに様子を伺っていた。


「――これは一体どういうことですか?」


 低く、地獄の底から響くようなフリンズの視線が真っ直ぐに投げられたのは、問題を起こして立ち尽くしている若手集団の中で、最も騎士としての経歴が長く、かつ唯一の先輩格であるラバック・アラベルだった。


「え、えっと……その、私用で調理室を使用した際に……あー……その、幾つかの不測の事態が重なり、想定外の事故が起こりまして……」


 ラバックが完全に顔面蒼白になり、冷や汗を流しながら必死に説明するその後ろでは、既に実戦慣れした偵察部隊の二人が動いていた。


 クリスが引火した鍋に向けて消火魔道器の白い霧を躊躇なく噴射し、ミカがまるで死んだ魚のような、一切の生気を失った目でオーブンを開け、そこから変わり果てた姿となった「卵」を驚くほど的確な手際で救出する。


「ふ、ファーレンガルド……これは……」

「こんな姿になって……君(卵)には、これから数多の輝かしい未来(プロ級の腕前で作られる美味しいお菓子)があったはずなのに……ごめん、守ってあげられなくて……」


 変わり果てた食材の残骸を前に、ブツブツと虚空に呟くミカの絶望ぶりは凄まじい。しかしフリンズの冷徹な追及は止まらない。


「許可なく調理室を使用して、何故これほどの爆発音が聞こえ、オーブンから煙が上がり、鍋が引火する事態にまで発展するんですか? 理由を述べなさい」

「そ、それは――」


 最早、どのような弁解の余地も残されていなかった。クリスとシルフィーネが阿吽の呼吸で手際よく煤まみれの調理器具を片付ける。


 そんな修羅場の最中、状況が分かっていないシノアが必死にミカの顔色を伺いながら『ほ、ほら! ファーレンガルド、見て! この卵だって見方を変えれば、新しい可能性(※真っ黒に焦げ付いた液体と固形が複雑に混ざり合った、おぞましい未知の異物)を産み出したじゃない!』と、脳内お花畑な謎のポジティブフォローを入れていた。

 もちろん、ミカの死んだ魚の目は一ミリも開かない。


 開け放たれた扉の向こう、廊下では、第二会議室からゾロゾロとついてきた各部隊の隊長・副隊長クラスの騎士たちが、部屋から漏れ出てくる黒煙と異臭に、一斉に不快そうに顔をしかめていた。


――不運は重なり、昇華されるものである


 それは、最近王宮の使用人や貴族たちの間で密かに人気を博している、流行りの大衆小説の有名な一文である。

 まさにその言葉を体現するかのように、不運の連鎖はさらなる大物をこの場へと呼び寄せていた。


 廊下の向こうの角から、抱えきれないほどの膨大な予算申請書類や法律の束を抱えた、財務省の精鋭――フェリックス・フォン・ベルンシュタインとハンス・カウルバッハの二人が、重い足取りで歩いて来ていた。


「まったく……メアリ殿下の我が儘には、本当に毎度困ったものだ……。先日も財務省に対し、偽のDNA鑑定書を予算申請付きで所望されたばかりだぞ。一体、あれを何に使うつもりなんだ……」


「知らないのか、フェリックス? あれは今、王女殿下の中で大流行しているお芝居『ファム・ファタール~愛した貴女は生き別れの妹~』の第二十八章で、劇的な演出として使用される小道具らしいという噂だ……」


「嫌だ……もうそれ以上は何も聞きたくない……只でさえ昨日の凱旋パーティーのせいで、今期の予算はどこもカツカツなんだ。これ以上の不透明な出費など、我が財務省が絶対に――うん? 何か臭わないか?」


「ん……? そう言われてみれば……なにやら、酷く焦げ臭いな……」


 二人が不審に思って足を止めたその刹那。


「フェリックス様! ハンス様! 大変です!!大事件です!!」


 一人の王宮執事が髪を振り乱し、息も絶え絶えといった様子で猛ダッシュで走り寄ってきた。

 その尋常ではないパニックぶりに、冷静沈着なキレ者であるフェリックスが、書類を抱え直して静かに嗜める。


「落ち着きたまえ。我が財務省の官僚の前だ、一体何があったというのだね?」

(※安心してください。この後、彼の情緒は跡形もなく崩壊します)


「ふっ、慌てるな。まぁ、先日のベアトリクス嬢の好奇心の暴走による、禁書庫大爆破に伴う窓硝子及び備品の全面修繕費と弁償額以上に、我々の胃を脅かす怖いものなど、この王宮にそうそうあるはずがないがね、ハハッ」

(※見事なまでの、教科書通りの死亡フラグである)


「それが……っ! 先日、お二方に予算を承認して購入いただいたばかりの、あの最高級オーダーメイド品の特注オーブンと魔導鍋が木端微塵に……!! 更に第四調理室の窓硝子が爆風で全て破壊され、その余波で廊下に飾られていた国宝級のアンティークの花瓶が割れ……壁に飾られた由緒正しき壁画に至っては、豊穣をもたらす花神テラリア様のお顔のド真ん中に、消えない真っ黒な焦げがべっとりとっ……!!!」


「「うわぁやひめはねりてはやぁー!!!!!」」


 脳の処理限界を迎えた、完全なる言葉にならない絶叫悲鳴であった。

 ドサササササッ!!! と、廊下に無情に散らばる財務省の重要書類の山。


 普段なら、アーネスト大臣の後ろで冷徹な理論を武器に他部署の予算を容赦なくカットするキレ者・フェリックスと膨大な過去のデータと法律を武器に無理難題を突き返す知略家・ハンス。

 実質的にこの聖ラウラント王国の財政を二人三脚で回しているあの冷静沈着な二人の事務官が、同時に白目を剥いて、まるで生まれたての小鹿のようにその場に膝から崩れ落ちた。


フェリックス・フォン・ベルンシュタイン

【現在の心境: 胃薬は我が心臓なり】

ハンス・カウルバッハ

【現在の心境: 胃薬は我が血肉なり】


 二人の事務官の命の灯火と胃壁が同時に削り取られたその瞬間、煙の立ちこめる調理室の入り口から書類を拾い集める気力すら失った二人の幽霊のような視線が、室内の問題児一同へと向けられる。

 元スカコフのヴァラキー姉妹の軍規違反を裁く為の定例会議の最中に、よりによって国家予算の心臓部である財務省のトップエリート二人を完全な精神崩壊へと追い込む、これ以上ない最悪のタイミングでの物損事故の発生。


 フリンズ副団長の額の青筋はもはや破裂寸前であり、ミカ隊長は焦げた卵を抱えたまま魂が抜けかけている。

 シノアが呑気に夢見ていた「夜のレクチャー」どころか、これはもう、国家の財政と騎士団の威信を揺るがす、言い逃れ不能の大戦犯としての「痛みを伴う現実」の幕開けであった――


 異臭に爆発音、財務省のエリートたちの魂の悲鳴、そして副団長の限界を超えた怒り――王宮の歴史に残るであろう最悪のグランドスラムコンボを決めた問題児たちに、与えられるべき慈悲など、この広い王国のどこを捜しても存在する筈がなかった。


「……これ、総額いくらになるんだ……」

「嫌だ……数えたくない……二度と、計算なんてしたくない……」


 普段なら冷徹な理論と法律を武器に予算を毟り取るフェリックスとハンスの二人が、怒ることさえ忘れて地面にへたり込み、書類の山の中で力なくうわ言を呟いている。

 その光景は、国家財政の崩壊を予感させるに十分な絶望感だった。


「責任を持って……僕個人が全額お支払いします……」


「え!? ファーレンガルドが払うの!?」


「じゃあお前が払うか? シノア? 高級オーダーメイド品に国宝の花瓶、更に花神様の壁画の修繕費だぞ。総額いくらになるだろうなぁ……?」


 ミカが疲れ果てた手つきで懐から個人用の小切手を取り出す。

 ミカの実家は由緒ある伯爵家であり、かなりの大金持ちである――それに驚いたシノアが思わず止めに入り、横からクリスが「ならお前が代わりに払え」と容赦なく現実を突きつける。


◇ ◇ ◇


 あまりにも次から次へと引き起こされる想定外の問題行動の連鎖に……流石のフリンズ副団長すら、怒りを通り越して言葉を出すことすらできずに立ち尽くしていた。


「やはり、この場で即刻除隊……強いては騎士団から完全に追放すべきだわ」


 エウルアが放った、一分の隙もない正論。

 今回ばかりは、先ほどまでミカを庇う名目で口論していたリサも、庇いきれないと判断したのか一切反対の声を上げなかった。


「え、何よ……? 確かに爆発させたのは悪かったと思うけど……それなら、ベアトリクスも日頃からあちこちで爆発やってるでしょ? なんで私たちだけそんなに言われなきゃいけないのよ」

「そういう問題じゃないですよぉ……シノアさん……」


 エルンが、余りにも最悪な方向に空気を読めないシノアの袖を引っ張り、涙目で必死に耳打ちする。 

 だがシノアのその反省の色がない態度が、ついに一人の騎士の「逆鱗」に触れた。

 エウルアに続き、それまでふわふわとした印象だったモーニエ・ロンドが、眠たげな瞳の奥に狂気を孕ませてシノアへと一歩、歩み寄った。


「これ以上、騎士団の中で問題行動を起こすなら……追放。――というより、今すぐ落とした方がいい」

「落とす……? 何をよ……?」


 シノンが、目の前の少女が放った言葉の本当の意図を測りかね、警戒を強めながらモーニエに聞き返す。

 普段は無表情でマイペースなモーニエであったが、その全身からは、隠しきれない鋭利な怒りの色が立ち上っていた。


「首」

「は!? 冗談でしょ!?」

「ちょっと、笑えないわよ……!? それでも貴女、民を護る騎士なの!?」

「お前らが言うなよ……」


 レンの、魂が抜けかけた力ないツッコミも、今の殺気立った空間には一切届かない。


「というか……シノアさん、シノンさん。調理室を使用するにあたって、しかるべき許可は事前に取ったんですよね……?」


 エルンが最後の望みをかけて震える声で確認する。しかし、シノアは何が悪いのか分からないといった様子で、あっけらかんと言い放った。


「え? 王宮の使用人たちが普通に使ってたわよ? なんで私たちが使うのに、いちいち許可がいるのよ?」

「………………」


 ミカが、この世のものとは思えない恐ろしいナニカを見てしまったかのように、焦げた卵を抱えたまま直立不動で硬直する。


 このヴァラキー姉妹、上官であるミカやクリスに対しても平然とタメ口を叩き、あろうことか王族であるローラ様すら呼び捨てにする。ある意味肝の据わった人間であった。

 元スカコフという出自を差し引いても、彼女たちの世間知らずさと軍組織に対する不敬さは、もはや「教育」でどうにかなるレベルを遥かに逸脱していた。


「……本当に教育がなってないわね。ニーナ殿のスパルタマナー講習は、一体どのようにして受け抜けたのかしら?」


「それどころか、上官に対する態度も、不敬。騎士団の規律を根本から侮辱している」


「――そうねぇ……ここまで常識が通じないとは、思ってもみなかったわ……」


「とにかく今すぐ落とす、首。ここに、お前のような不穏分子は必要ない」


 モーニエが冷徹な殺意を漲らせ、腰に帯びた細剣の柄に細い指先をかける。

 その瞬間カチャリと不穏な金属音が響き、彼女が本気で抜刀を試みようとしたその直前――ミカがスッと素早い動きでモーニエの手首を上から押さえ、その刃を鞘へと押し戻した。


「モーニエ様、落ち着いてください。この公式な場で、身内同士で血を流すのは余りにも不条理が過ぎます」

「ここじゃなくてもいい。……とにかく、その女。最初から、気に入らない」


 ミカに手を抑えられてもなお、モーニエの眠たげな瞳に宿った冷たい殺意は、シノアを真っ直ぐに射抜いたまま微塵も揺らがなかった。


 「じゃあ本当に落とす? 首」


 灰煙が漂う調理室に、どこか楽しそうにさえ感じる鈴の鳴るような声が響いた。


 衣服についた小麦粉や埃をパッパッと叩いて払い落とし、立ち上がったシルフィーネは、モーニエとミカの二人の様子を交互に確認した。


「シルフィ、君まで何を言ってるんです。今はこれ以上の混乱は――」

「――不敬罪」

「…………あー……」


 シルフィーネが突きつけたそのたった一言に、クリスが全てを悟ったかのように深く俯いた。

 次いでその意図を理解したラバックとエルンが、はっ! としたような表情になり、みるみるうちに血の気を引かせていく。

 完全に置いてけぼりを食らった形のレンは、不穏な空気に冷や汗を流しながら、ラバックとエルンに小さな声で『不敬罪とは何か?』を必死に問い正した。

 帝国の生まれである傭兵上がりのレンには、未だ聖ラウラント王国の厳格な法律の機微に詳しくないのだ。


「(なぁ、不敬罪ってそんなにやべぇのか?)」


「(声が大きいよレン!…… 貴族であるミカ様やクリス様に散々タメ口だったのも、今まではお二人が許してたからグレーゾーンで済んでたけど……先日のローラ様に対するあの舐め腐った態度と行動が、公式の場で問題視されたら完全に致命的なんだよ……!)」


「(そうですよぉ……旧時代では、不敬を働いたその場で即座に処刑されたこともあるって、歴史書に書いてあります……)」


「(マジかよ……ってか、さっきから妙に鼻がムズムズするのは、この部屋の貴族成分の濃度が跳ね上がってるせいかよ……!!)」


 こそこそと喋る第六小隊の緊迫したやり取りを余所に、シルフィーネは冷徹な現実を更に言葉として紡ぐ。


「ローラ様に対する数々の不敬な言動と行動。ローラ様ご本人の意思に関わらず、これほどの規模の物損と軍規違反が重なれば、いよいよ絶対的指導者である枢機卿プトレマイオス様の決議が必要になるレベルだよ」


「しかし、それは――」


「(プトレマイオス様の名前まで出ちゃったよ……これはいよいよ、本当にまずいよレン……)」


「(みたいだな……でもあの枢機卿って、普段は講義中にふらっと居なくなる徘徊癖の爺さんだろ?)」


「(はい、レン先輩、それも立派な不敬罪です!!)」


 絶望的な事実を前に必死に声を潜める新兵たちとは裏腹に、当事者たちの空間は未だに凍りついていた。


 モーニエは、ミカのその華奢な見かけからは全く想像もつかない圧倒的な腕力——力一杯、なんなら両手を使ってでも斬りかかろうとする鍛え上げられた騎士の力を、何の変哲もない片手で完全に押さえつける怪力——によってその場に固定されている。 

 それでも未だに怒りを抑えきれないのか、彼女の細剣の鞘からはカタカタと硬質な金属音が鳴り止まなかった。


「――副団長。不敬罪、および今回引き起こした余罪に関しても、我々現場の独断ではなく、しかるべき大臣決議によって詳細を決定すべきです。これは一騎士部隊がその場で判断できる範疇を、優に越えている案件ですから」


 シルフィーネの冷徹極まる進言――それは一見、さらに二人を追い詰める言葉のようでありながら、その実、この場での即決――即座の除隊やモーニエによる私刑を合法的に「先延ばし」にし、最悪の結末を一度回避させる巧妙な一手でもあった。


 彼女にそんな情があるのか、それとも結局は上層部によって首が落ちるのが決まっているからどうでもいいのか、その真意は未だ空色の瞳の奥に隠されている。


「――状況は理解しています。モーニエ・ロンド。君のその憤りは最もであり、心情は理解できますが、我が騎士団において私罰は厳に禁止されています。剣から手を離しなさい」

「――っ……!!」

「モーニエ様、どうか……!」


 フリンズ副団長の重々しい制止の声。モーニエは決して納得したわけではなかったが、腕を押さえ続けるミカの懇願するような眼差しに――

 加えて、後ろから先ほどまであれだけ激しく口論していたエウルアとリサの二人が、彼女の肩を「気持ちは分かるけど、今は落ち着きなさい」と優しく叩いたことで、ようやく細剣の柄から細い指を離した。


 普段は先輩相手であっても遠慮のないモーニエだが、こうして年上の隊長たちから宥められている姿は、彼女が組織内でいかに可愛がられ、その気安い関係が許されているかを如実に物語っていた。


 カチャ、と殺気が収まり、シノアとシノンは手を離したモーニエに視線を向ける。

 それは命拾いしたことに対する『止めてくれて、ありがとう』とも取れる、安堵の混じった色だったが、モーニエはそれを拒絶するように振り払って視線を外した。


「――勘違い、しないで。――今回はミカの顔に免じて、ここで引くだけ。……貴女たちのしたこと、絶対許さないから」


 それだけを冷たく告げると、モーニエは一度も振り返ることなく調理室を退室していった。


 しかし、彼女が去っても重苦しい空気が消えることはなかった。

 副団長に促された他部隊の騎士たちは、煤まみれで立ち尽くすヴァラキー姉妹に対し、哀れみすら排除された冷たい一瞥を律儀に残すと次々と部屋を後にしていく。

 シルフィーネは、最後にミカと一瞬だけ視線を交錯させると、他の騎士たちと同様に淡々と退室した。


「――命拾いしましたね。……君たちの歩む道に、何処かで《朔風》の気まぐれな導きでもあったのでしょうか」


 フリンズは散らばる財務省の書類と、未だ地面にへたり込んでいるフェリックスとハンスの姿を一瞥し、最後にそう皮肉を交えて言い放った。

「城門に首が仲良く並ぶ」という王宮のブラックジョークが決して笑えない現実味を帯びていく中、副団長は冷徹に告げる。


「――詳細は追って連絡します。それまで、各自しかるべき場所で待機するように」


 それだけを残すと、フリンズ副団長もまた、一度も振り返る事なく去っていった。


 あとに残されたのは、灰色に煙る第四調理室と、言葉を失った第六小隊の面々。

 そして、真っ黒に焦げ付いた卵の残骸を抱えたまま、絶望的な未来を見据えて完全に魂の抜けたミカ隊長の姿だけだった――。


 ◇ ◇ ◇


 調理室を襲ったあの大爆発事件から、まだ一刻とも経たない頃。

 茜色に染まり始めた王宮の庭の、人目を忍ぶように伸びる大きな木陰。

 そこには、普段の賑やかな喧騒からは想像もつかない、意外な二人の組み合わせが佇んでいた。

 クリスハイト・オルティと、シノン・ヴァラキーである。


「話って何? それも私だけで来いなんて……例の件——爆発の件や処罰の事なら、シノアも一緒に呼ぶべきじゃ……」


 シノンの訝しげな言葉に、クリスがすぐに顔を上げることはなかった。

 人気のない夕刻の時間。王宮の使用人たちは夜の配膳の準備に追われて皆一様に忙しなく、二人の回りには、風の音と小動物一匹さえ存在しない完全な静寂が広がっている。


「シノン」

「……何」


 彼の声は低く、それ故に。

 目の前の少年騎士がどれほど真剣で、かつ重苦しい面持ちなのかを理解するのには充分過ぎた。


「シノアの事だがな……。――諦めさせろ」

「……何の事?」

「とぼけるなよ。お前はシノアほど、頭の中がお花畑って訳でもねぇだろ。――ミカの事だよ」


 傾きかけた夕陽が、二人の影を地面に長く、どこか残酷に照らしていく。

 美しく静謐な夕暮れの情景とは裏腹に、シノンの胸の奥では、じわじわと何が語られようとしているのかを察し始めていた。


「――恋をするのは自由よ」


「否定はしねぇ。……だからこそ、火傷で済む内に止めとけって言ってるんだよ」


「……確かにファーレンガルド……ミカは、あのヴァルンクラッド流特殊な流派のせいか、他人からの好意に極端に疎いのは知ってるわよ。……でも、一生誰にも好意を覚えない訳じゃないんでしょ?」


 その言葉を聞いたクリスは、ゆっくりと顔を上げた。

 彼の真っ直ぐな翡翠色の瞳には、ただの突き放しではない、割りきれない悲しみと複雑な色が静かに揺れていた。


「――俺は、それなりにお前らに情がある。同じ部隊の部下だし、問題ばかり起こすとはいえ、あいつらを必死に支えてるお前のことも、同じ偵察部隊の騎士としては認めてるんだ」


「……急に、何よ」


「だから、姉として本当に妹の事を思うなら、ミカの事は諦めさせろ。――叶わねぇって、前に言ったろ?」


「麻酔を打たれてるみたいに他人の好意に気付かないってやつでしょ? だったら――」


 かつて交わされた会話の内容を、シノンは苦い記憶と共に脳裏でありありと思い出していた。

 

――よぉ。妹さんの応援か? 無駄だと思うぜ、あいつら


―― ……何が言いたいの、クリスハイト・オルティ


――あいつ……ミカはな、敵の殺気には一ミリ単位で反応するけど、好意ってやつには『麻酔』でも打たれてんのかってくらい鈍いんだ。お前の妹、脈ねーぞ。時間の無駄だ


―― ……あんたにシノアの何が分かるのよ。脈があるかないか、今ここで試してあげましょうか?


――おー、怖い怖い。暗殺者姉妹は情熱的だな

 

「……お前だって、本当は気付いてんだろ」


 クリスの静かな追及に、シノンの息が詰まる。

 確かに、一つの決定的な「可能性」を、シノンは以前から――正しくは、あの遠征軍が王都に凱旋し、彼らの日常を側で見るようになってから、薄々感じていたのだ。


 だけれどそれはあまりにも残酷で、愛する一途な妹に対して口に出すことはあまりに憚られ、ずっと喉の奥で言葉を飲み込み続けていた真実。


――ミカが朝食の席で座るのは、いつだって、必ず「彼女」の隣で。


――紳士的で一線を画すミカが、異性の中で唯一、気安くその肩を抱き寄せるのは「彼女」だけで。


――ふと書類から視線を上げた際、彼が言葉もなく無意識にその背中を追ってしまう相手は、いつだって「彼女」ばかりで――


「それでも……!!」

「何でもかんでも受け入れる事だけが『愛』じゃねぇよ」


 クリスの言葉は、冷徹なまでの確信を得ていた。

 肉親だから、たった一人の妹だから、大切な家族だから――

 愛しているからこそ、シノアの純粋な気持ちを尊重してやりたい。けれど、お仕着せの恋愛小説のように、世界中の全ての恋が美しく叶うとは限らないのだ。

 

 夢見る少女の恋は、いつだって健気で、純粋で一途で。

 

――そして何より、どこまでも身勝手なものなのだ。

 

 相手の都合も関係なく勝手に好きになって、一方的に好意を向ける。

 相手の本当の気持ちを知る由もなく、自身の胸の高鳴りばかりを最優先させる。

 世の中、それで上手くいくことだってあるかもしれない。

 

「あいつらの場合は違う。ミカは……シルフィが好きなんだよ。あいつ自身はまだその感情に自覚してねぇけど……ずっと、あいつの背中を見てきた俺が、誰よりも知ってる」


「――――」


「だから、絶対に叶わねぇ。あいつがお前の妹の想いを受け入れる事は、この先も万に一つもない。

――お前たちが考えている以上に、あいつらの中にある『想い』の深さが、最初から違ぇんだよ」


 何処かで、冷たい北風の鳴る音がヒュウと聞こえた。

 沈みゆくその日の夕陽の光は、あまりにも眩しくて、そして鋭くて――


 シノンは、溢れそうになる何かを堪えるように強く瞼を閉じ、しばらく目を開けていられなかった――。

最後までお付き合いいただきありがとうございました!

こんな戯れ言に付き合っていただき、大変恐縮です。

これからも彼らの活躍を見守っていただけたら嬉しいです!


あなたにも風の導きが有らんことを

にしみん

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