第7話:宿敵の体温
あの日、資料室で自分の「独占欲」を自覚して以来、私はガイアスと顔を合わせるのが恐ろしくなっていた。
今までは「不愉快な宿敵」という強固なフィルターを通して彼を見ていられた。けれど、一度芽生えた感情は、魔導回路に紛れ込んだノイズのように私の思考をかき乱し、正常な判断を奪っていく。
けれど、無情にも「偽装恋人」の契約期間は続いていた。
「カレン、手が止まっているぞ。……さっきから一口も進んでいないようだが。僕の顔に見惚れて食欲を失ったのかい?」
魔法省の中庭に面したカフェテラス。昼食を兼ねた「定例デート」の最中、向かいに座るガイアスが不敵に微笑んだ。彼は優雅にティーカップを傾けながら、私の動揺を見透かしたような、深く鋭い銀の瞳でこちらを射抜いている。
「……うるさいわね。少し、寝不足なだけよ。あんたに関係ないでしょ」
「ほう。僕とのデートが楽しみで眠れなかったのかい? 随分と可愛いところがあるじゃないか」
「自惚れないで。新型魔導具の構成案を練り直していただけよ。あんたの顔を思い出す暇なんて一秒もなかったわ」
私は逃げるようにバゲットを口に押し込み、わざとらしく視線を逸らした。
もちろん、嘘だ。昨夜、私が寝返りを打ち続けた原因は、リラに言われた「相応しくない」「捨てられるまでの恋人ごっこ」という言葉が、胸の奥で棘のように刺さって、抜こうとするほど深く沈んでいったからだ。
その時、テーブルの下で、ガイアスの足が私の足に軽く触れた。
「っ……!」
ビクリと肩を揺らした私を、彼は逃がさない。わざと触れさせたまま、彼は楽しげに目を細めた。
「そんなに肩を怒らせるな、カレン。そんな顔をしていたら、僕が君を虐めているように見えるじゃないか。……ほら、口元にソースがついているぞ」
「あ、自分で——」
私が手を伸ばすより早く、ガイアスは椅子から身を乗り出した。真っ白なナプキンを持つ彼の指先が、私の唇をなぞるようにしてソースを拭う。
触れた場所から火が出そうだった。その瞬間、左手の指輪がトクン、とこれまで以上に甘く、激しく震える。
(……この人、周りに人がいる時だけじゃなくて、誰も見ていない時までどうして……)
周囲を見渡しても、今は私たちの様子を伺う同僚や上司の姿はない。演じる必要などないはずの状況で、彼はなおも「恋人」としての距離を詰めてくる。
その一挙手一投足に、私の心臓の予備電力はもう限界に近かった。
「……ガイアス、もう演技はいいわよ。今は近くに知り合いもいないわ。そんなに……一生懸命にならないでいい」
私は熱を逃がすように、震える声で告げた。
偽装だと、嘘だと言ってほしかった。そうすれば、この胸の痛みにも「不快感」という名前をつけて、また蓋をすることができるから。
けれど、ガイアスは一瞬だけ意外そうに目を見開いた後、ふっと寂しげな、けれど底知れない闇を孕んだ笑みを浮かべた。
「演技、か。……カレン。君の中ではまだ、僕の行動はすべて『任務』の一環なんだね。僕がどれほど心を砕こうと、君にとっては精巧に作り込まれた虚像に過ぎないわけだ」
「え……?」
予想外に沈んだ彼の声に、私は言葉を失う。
彼はそれ以上何も言わず、ただテーブルの上に置いていた私の左手をそっと取った。
そして、指輪の上から自分の指を重ね、逃げられないように強く、けれど壊れ物を扱うような繊細さで握りしめる。
「いいかい、よく聞いて。この指輪は嘘をつかない。僕の魔力が、共鳴する術式が、こんなにも熱く君を求めているのは——君はこれも、魔導回路の不具合だと思っているのか?」
重なる手のひらから、痺れるような熱が伝わってくる。
指輪を通じて流れ込んでくるのは、冷徹な「氷の貴公子」のイメージとはかけ離れた、執着と熱情。
彼の瞳はいつになく真剣で、射すような光を湛えていた。
私はただ、真っ赤な顔で黙り込むことしかできなかった。
「宿敵」という名の安全地帯は、もうどこにも残されていなかった。




