第9話:挑発的な蝶
数世紀前、〈闇の時代〉が始まる前に、人間には二つの種族が存在することが発見された。
ひとつは、生まれながらにして奇妙な力を持ち、その力は十歳を迎えた時に目覚める〈異能者〉。
もうひとつは、まったく普通の人間であり、他の人々と同じように暮らしていたが、その数の少なさから〈孤立者〉あるいは〈忌み子〉と呼ばれていた。
時の流れとともに、さまざまな系統の力が現れ、それらは十の氏族に分類された。
月の一族(最初にして最も偉大な一族)。
闇の一族。
血の一族。
蝶の一族。
植物の一族。
雪の一族。
火の一族。
水の一族。
風の一族。
岩の一族。
それぞれの氏族には強力な長が存在し、彼らは〈十人の族長〉として知られていた。
だが、その均衡は〈灰の子らの惨禍〉によって崩れ去った。
それは〈影時〉――〈影の時代〉において布かれた〈追放の掟〉によるものであり、一部の氏族を滅ぼすことを目的としていた。
だが誰も知らなかった。
その掟は〈カゲモリ〉の仕業ではなく、さらに強大で深淵なる闇の力によって生み出されたものであったことを――。
---
体育フィールドのスタートラインに、森山先生が静かに立っていた。手には一本のホイッスル。今にも吹き鳴らす準備は整っている。
——その瞬間。
ピィィィッ!!
誰も予想していなかったほど唐突に、鋭い音が空気を切り裂いた。
同時に、巨大な電子パネルが点灯する。
最初の挑戦者として選ばれたのは——
マリ・スミスと、霧ヶ峰レン。
「ルールは簡単よ。制限時間内にゴールラインを越えなさい。どちらか一人でも到達すれば成功扱い……健闘を祈るわ」
森山先生の軽やかな声が響く。
マリは低く身を沈め、スタートの姿勢を取った。
隣にいるレンも同じように構える。
マリは横目で彼女を見て、小さく呟いた。
「レン……」
レンは無言のまま顔を向ける。
その視線を受けて、マリは続けた。
「私を後悔させないでよ。あんたを相棒に選んだこと」
一瞬の沈黙。
そしてレンは、いつもとは違う笑みを浮かべた。
どこか余裕を含んだ、しかし確かな自信を感じさせる笑み。
「安心して。遊び人かもしれないけど……バカじゃないから」
再びホイッスルが鳴る。
同時に、カウントダウンが始まった。
二人は地面を蹴り、一気に駆け出す。
互いに引けを取らないスピード。だが、ゴールまではまだ遠い。
「マリ、飛ばしすぎないで。これは長丁場になる」
レンの声は、わずかに真剣味を帯びていた。
地面を蹴る音。
観客席からの歓声。
照りつける太陽。
走るたびに身体を打つ風。
そのすべてが、マリの身体を追い詰めていく。
筋肉は軋み、呼吸は荒くなり、額からは汗が流れ落ちる。
——そして。
マリの足が止まった。
「はぁ……っ」
息を切らすマリに気づき、レンも足を止める。
「だから言ったでしょ。時間切れの前に、体力を削るつもりよ……」
レンは視線を森山先生へ向けた。
無邪気な笑みを浮かべながら、左足で軽く地面を叩いている。
「何か仕掛けてる……」
「くだらない。行くわよ——」
その言葉の途中だった。
——ドンッ。
足元から、微かな振動が伝わる。
マリの瞳が細められる。
「今の……感じた?」
レンは眉をひそめる。
「何を——」
「これよ」
次の瞬間。
ゴゴンッ!!
先ほどよりも強い揺れが、二人の体勢を崩した。
バランスを失いかけたその直後——
ドォンッ!!
すぐ傍の地面が爆ぜ、土煙が舞い上がる。
二人はその衝撃で地面へと叩きつけられた。
(あり得ない……!気づかなかったなんて……森山先生、土のカグラを使ってる……!)
マリは歯を食いしばり、即座にレンの手首を掴む。
そのまま強引に走り出した。
「ちょ、待って……!」
レンはまだ体勢を立て直せず、半ば引きずられる形になる。
服は土と汗で汚れ、背後では次々と地面が爆発する。
降り注ぐ土塊。
目前でも——
ドォンッ!!
再び爆発。
マリは反射的に腕で顔を庇い、後退する。
一方、レンは膝をつき、激しく咳き込んだ。
「マリ……これじゃ無理……!」
だがマリは再び彼女の手を掴む。
今度は、先ほどよりも強く。
「黙って。どっちかが勝てばいい——覚えてるでしょ?」
レンの瞳が見開かれる。
意味はわからない。
だが、その声には確かな“何か”があった。
揺るがない意志。
信じさせる力。
「……じゃあ、どうするの?」
レンの問い。
マリは足を止め、静かに振り返る。
その表情は、読み取れない。
「見てなさい」
次の瞬間。
迫りくる爆発を背に、マリはレンの襟を掴む。
足を強く踏み込み——
「突っ込むわよ」
「は……?」
理解する暇もない。
マリはそのまま、全力でレンを前方へ投げ飛ばした。
「えっ——!?」
レンの身体が宙を舞う。
咄嗟に両腕で顔を守り、衝撃に備える。
地面に転がりながらも、すぐに顔を上げた。
その瞬間、背後からマリの声が響く。
「走りなさい、このバカ!!」
ハッとするレン。
時間は、もう残りわずか。
「3——2——!!」
観客のカウントが響く。
レンは歯を食いしばり、全力で駆け出した。
——そして。
ゴールラインを踏み越える。
「1——!!」
歓声が爆発した。
電子パネルが鮮やかに点灯する。
マリ・スミス / 霧ヶ峰レン
——WIN
「おめでとう!!素晴らしい勝利よ!!」
森山先生が勢いよく駆け寄り、二人を抱きしめる。
だがマリは顔をしかめ、彼女を押しのけた。
「痛っ……やめて」
着地の衝撃が残っているのだろう。
そのまま背を向け、立ち去ろうとする。
——だが。
「レン」
呼び止める声。
「……何?」
振り返るレン。
マリは少しだけ口元を上げた。
どこか誇らしげな、横顔。
「……悪くなかったわよ」
レンの目が大きく見開かれる。
そして、ゆっくりと笑みが広がった。
心からの、まっすぐな笑顔。
(思ったより……悪くないかもね)
そんな考えを、マリは口にはしない。
森山先生はくすりと笑い、レンの頭を軽く撫でた。
「どうやら、あの“トラ”に気に入られたみたいね」
顎で示す先には、相変わらず不機嫌そうに歩くマリの背中。
まるでお菓子を取り上げられた子供のようだ。
レンは小さく笑った。
「……そうかもしれませんね」
それは誰にも聞こえない、小さな独り言。
けれど——確かな感情だった。
その頃。
森山先生は再び前に出て、生徒たちを見渡す。
恐怖に押されるように、互いの背後へと隠れる生徒たち。
「さあ、次はどのペアかしら?」
ざわめきが広がる。
(やりたくない……)
(怖すぎる……)
(顔、潰れるかも……!)
そんな囁きに、森山先生は楽しげに笑った。
「ほらほら、そんなに怯えないの」
——ピコン。
電子パネルが再び光る。
次に選ばれたのは——
彩花・橘
武人・野武




