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第6話:正義の哲学


数世紀前、〈闇の時代〉が始まる前に、人間には二つの種族が存在することが発見された。

ひとつは、生まれながらにして奇妙な力を持ち、その力は十歳を迎えた時に目覚める〈異能者〉。

もうひとつは、まったく普通の人間であり、他の人々と同じように暮らしていたが、その数の少なさから〈孤立者〉あるいは〈忌み子〉と呼ばれていた。


時の流れとともに、さまざまな系統の力が現れ、それらは十の氏族に分類された。


月の一族(最初にして最も偉大な一族)。

闇の一族。

血の一族。

蝶の一族。

植物の一族。

雪の一族。

火の一族。

水の一族。

風の一族。

岩の一族。


それぞれの氏族には強力な長が存在し、彼らは〈十人の族長〉として知られていた。

だが、その均衡は〈灰の子らの惨禍〉によって崩れ去った。

それは〈影時かげし〉――〈影の時代〉において布かれた〈追放の掟〉によるものであり、一部の氏族を滅ぼすことを目的としていた。


だが誰も知らなかった。

その掟は〈カゲモリ〉の仕業ではなく、さらに強大で深淵なる闇の力によって生み出されたものであったことを――。



---





今日は約束の日だった。


二年生全員による年に一度の大規模競技会の日。


この大会は三つの競技で構成されており、生徒たちの身体能力と持久力を試すために開催される。


巨大な訓練場では、各クラスの生徒たちが本番に向けて準備運動を行いながら、この重要な行事に胸を躍らせていた。


だが――ほとんどの教室が空になっている中で、B-2組だけはまだ人影が残っていた。


教室には三人の少女。


二人の少女が楽しそうに話し込んでいる一方で、もう一人は教室の一番後ろの席に一人で座り、窓の外を眺めていた。


その表情には、どこか退屈そうな色が浮かんでいる。


「ねえ、前の図書委員の子に何が起きたか聞いた?」


鮮やかなピンク色のツインテールを揺らしながら、ルビーが隣に座るアカニへ話しかけた。


二人はかれこれ一時間近く雑談を続けている。


「顔が腫れ上がるまで殴られたらしいよ」


「えっ……!?」


アカニは驚愕しながら口元を押さえた。


「本当に? でも誰がそんなことを……? それに、どうして?」


ルビーは周囲を確認すると、アカニの耳元へ顔を寄せて囁いた。


「噂によると、正体不明の仮面の人物らしいよ……。いつも悪い人ばかりを狙ってるんだって。特に自分にひどいことをした相手とか」


アカニはごくりと唾を飲み込んだ。


仮面を被り、野球バットを持った人物の姿を想像しただけで背筋が震える。


「こ、怖すぎるよ!! 一体誰なんだろう!?」


「さあねぇ、アカニ」


ルビーは肩を竦めた。


「でも少なくとも生徒じゃないと思う」


二人は同時に振り返った。


そこには相変わらず静かに座る少女の姿。


自分たちの会話など興味もないと言わんばかりだった。


頬杖をつき、重そうな瞼をゆっくりと瞬かせている。


まるで一週間眠っていないかのような疲労感。


目の下には薄い隈まで浮かんでいた。


少し乱れた短い金髪。


青い瞳。


――泉森イヅキ。


火の一族の少女だった。


「イヅキ!!」


ルビーの声に、イヅキはゆっくりと顔を向ける。


ルビーとアカニが彼女の元へ歩み寄った。


「イヅキってすごく頭いいじゃん」


ルビーが言う。


「もしかして、その犯人が誰なのか心当たりあったりしない?」


「そうそう!」


アカニも何度も頷いた。


「誰か怪しい人とかいる?」


イヅキは数回瞬きをした。


だが表情はほとんど変わらない。


「怪しい人物?」


二人は同時に頷く。


イヅキは顎へ手を当てた。


「そうだな……」


昨夜の光景が脳裏を過った。


黒い仮面。


野球バット。


助けを求めながら後退る図書委員。


(どうしてここまで馬鹿なんだろう)


彼女の心に一つの考えが浮かぶ。


悪人は罰されるべきだ。


ならば、その仮面の人物を責めるのではなく称賛するべきではないのか。


一族の名を汚すような人間を排除しているだけなのだから。


なぜ人は悪を悪としてしか見ないのだろう。


善意から生まれる悪だってある。


それなのに、自分たちは正しい側だと言い張る。


理想。


完璧。


欠点のない存在。


だが――本当にそんな人間が、善意を持ちながら悪を行う者を理解できないのだろうか。


イヅキは二人を見た。


そして皮肉げな笑みを浮かべる。


「知ってるよ」


「え?」


ルビーとアカニは勢いよく身を乗り出した。


ほとんど彼女のパーソナルスペースを侵食するほど近い。


だがイヅキは微動だにしなかった。


疲れたような、皮肉な笑みを浮かべたまま。


彼女特有の自信も揺るがない。


「誰なの!?」


アカニが目を輝かせる。


「教えて教えて!」


ルビーも同時に叫んだ。


イヅキは首を傾げた。


「私だよ」


――沈黙。


そして次の瞬間。


「ぷっ!!」


「アハハハハ!!」


二人は盛大に笑い出した。


「イヅキにそんな冗談のセンスがあったなんて知らなかった!」


ルビーは腹を抱えて笑う。


アカニも涙を拭いながら続けた。


「イヅキって無愛想だし感情薄いけど、そんな悪い子じゃないもん!」


だが二人の笑い声の中でも、イヅキの皮肉な笑みは消えなかった。


そう。


それが真実だった。


犯人は彼女自身だ。


やがて大会開始のチャイムが鳴り響く。


ルビーとアカニは慌てて教室を出ていった。


――『そんな悪い子じゃない』


その言葉だけがイヅキの頭に残る。


本当にみんなそう思っているのだろうか。


彼女はずっと、自分はただの厄介者だと思っていた。


だからこそ、その言葉が妙に気に障った。


笑みは消え、不機嫌そうな表情へ変わる。


イヅキは鞄を持ち上げた。


そして教室の扉を開こうとした時――


「止まりなさい」


聞き慣れた声が彼女を呼び止めた。


振り返る。


そこに立っていたのは、一人の少女だった。


長い白髪。


前髪には乱れた黒い一房。


血のように紅い瞳。


冷たいほど美しい視線。


――桔梗黒花。


氷の一族。


そしてB-2組のクラス代表。


規律正しく真面目なことで知られ、多くの生徒から一目置かれている存在。


その理由は優れた統率力だけではない。


彼女は『黄金星評議会』の一員でもあった。


いつかカミカ・キラスが目指している場所。


『契約評議会』の会議へ参加する権利を持ち、一族を守るための重要な決定を知ることが許された選ばれた生徒たち。


コライによる大規模襲撃――かつての闇神時代のような悲劇に備えるための存在。


だがイヅキにとって、キキョウは特別だった。


そしてキキョウにとっても、イヅキは普通の生徒ではない。


キキョウから見たイヅキは、何もかも諦めたような少女。


心も身体も疲れ果てていて、まるで無理やり学院へ通わされているようだった。


一方でイヅキから見たキキョウは――


理想そのもの。


だからこそ嫌いだった。


完璧であることを当然とする人間。


正義と不正義の境界を理解していないように見える人間。


「あなたが、その人物ね」


キキョウは静かに言った。


「悪人ばかりを狙っている犯人」


イヅキは皮肉な笑みを浮かべる。


「へえ……」


彼女はゆっくり近づいた。


「証拠は?」


「昨日、落としていったわ」


返答は即座だった。


キキョウは一枚のハンカチを取り出す。


そこには落書きのような文字と数字が記されていた。


9―26―21―11―9


「図書委員が襲われた場所に落ちていた」


キキョウは続ける。


「一見すると意味のない数字。でもアルファベットに置き換えると――」


彼女は真っ直ぐイヅキを見据えた。


「IZUKIになる」


そしてハンカチを差し出す。


「泉森イヅキ。あなたの名前よ」


イヅキはハンカチを受け取った。


その笑みはさらに深くなる。


「思った以上に頭が切れるね」


だがキキョウの表情は微動だにしない。


賞賛など意味を持たない。


それが彼女だった。


「理解できないのは」


キキョウは一歩前へ出る。


「なぜ自分から正体を明かそうとしているのか」


挑むような眼差し。


「わざと証拠を残した。ルビーたちにも自分が犯人だと言った。どうして?」


イヅキは首を傾げる。


「ねえ、クラス代表」


少し間を置き。


「もし容疑者が『自分は無実だ』と言ったら信じる?」


「いいえ」


キキョウは即答した。


「証拠が必要」


「その通り」


イヅキは頷く。


「つまり、証拠がなければ誰も信じない」


キキョウはハンカチを見る。


だがイヅキはその意図を察していた。


「その証拠も、もう誰の手にも渡らない」


そう言ってハンカチを揺らした。


キキョウは拳を握る。


「イヅキ」


鋭い声。


「もうやめなさい。あなたの行動はB-2組の名誉を傷つける」


彼女は真っ直ぐ告げた。


「私は絶対に見過ごさない」


だがイヅキは背を向けた。


そして去り際に肩越しで振り返る。


その声に先ほどまでの皮肉はない。


あるのは苛立ちだけだった。


「自分が理想的な人間だからって」


低く冷たい声。


「何でもできると思わないことね、キキョウ」


一瞬の沈黙。


「たとえ私を止めることになったとしても」


そう言い残し、イヅキは教室を去った。


キキョウは小さく息を吐く。


胸の奥に残る妙な不安感を振り払うように。


そして彼女もまた競技会の会場へ向かう。


先ほどの会話を忘れようとしながら。


だが――


泉森イヅキという少女への警戒だけは、どうしても消えなかった。

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