エピソード3: 監督室に潜むスパイ
数世紀前、〈闇の時代〉が始まる前に、人間には二つの種族が存在することが発見された。
ひとつは、生まれながらにして奇妙な力を持ち、その力は十歳を迎えた時に目覚める〈異能者〉。
もうひとつは、まったく普通の人間であり、他の人々と同じように暮らしていたが、その数の少なさから〈孤立者〉あるいは〈忌み子〉と呼ばれていた。
時の流れとともに、さまざまな系統の力が現れ、それらは十の氏族に分類された。
月の一族(最初にして最も偉大な一族)。
闇の一族。
血の一族。
蝶の一族。
植物の一族。
雪の一族。
火の一族。
水の一族。
風の一族。
岩の一族。
それぞれの氏族には強力な長が存在し、彼らは〈十人の族長〉として知られていた。
だが、その均衡は〈灰の子らの惨禍〉によって崩れ去った。
それは〈影時〉――〈影の時代〉において布かれた〈追放の掟〉によるものであり、一部の氏族を滅ぼすことを目的としていた。
だが誰も知らなかった。
その掟は〈カゲモリ〉の仕業ではなく、さらに強大で深淵なる闇の力によって生み出されたものであったことを――。
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――夜。学院から遠く離れた場所。
その暗い夜、観客たちの歓声がサーキット全体を揺らしていた。
空気には濃いガソリンの匂いが漂い、今にも解き放たれようとするエンジン音が辺りを震わせる。
これは歴代でも最大級のレースイベントだった。
名だたるバイクレーサーたちの中でも、特に危険な存在として知られる二人――
マリー・スミスとトウマ・コウガミの対決。
トウマ・コウガミは絶対王者として知られていた。
彼はこれまで参加したすべてのレースで勝利を収めている。
一度たりとも敗北したことはなく、その名はすでにレース界の伝説として刻まれていた。
そして今夜、その無敗記録に挑むのが――
フェリア学院きっての問題児。
タイガース・マフィアの幹部にして、組織を率いる兄フレイム・スミスの右腕。
マリー・スミスだった。
「負ける準備はできてる? バカさん」
マリーの挑発に、トウマは不快そうに眉をひそめた。
ヘルメット越しで表情は見えない。
それでも返事をしなかったことで、彼女は十分に苛立たせることができたと悟る。
マリーは満足そうにヘルメットを被り、不敵な笑みを浮かべた。
彼女は昔から汚い心理戦を好む。
勝つためなら相手の感情すら利用する。
そして審判が観客たちと共にカウントダウンを始めた。
『3……2……1……!』
次の瞬間。
トウマのマシンが爆発したような勢いで飛び出した。
まるで燃料の海へ火種を投げ込んだかのような加速。
一方のマリーは焦らなかった。
静かにハンドルを握り、後を追うように発進する。
バックミラーに映る彼女を見たトウマは嘲笑した。
「どっちが負ける準備をしてるんだ?」
だがマリーは気にも留めない。
肩を軽くすくめるだけだった。
ガソリンの匂いが風に混じる。
それでも彼女は一言も返さない。
代わりにハンドルを切り、より短いルートへと進路を変えた。
そしてトウマが勝利を確信したその時。
「なっ――!?」
マリーが再び背後に現れた。
しかも驚くほど近い距離で。
トウマは思わず息を呑む。
焦りを覚えた彼はマシンを横へ振り、マリーの車体へぶつけようとした。
しかし、その怒りこそが彼女の狙いだった。
マリーは不敵に笑う。
次の瞬間――
彼女は自らガードレールへ接触した。
車体が大きく跳ね上がる。
危険極まりないアクロバット。
マシンは空中で回転しながらコーナーを飛び越えた。
そして着地した時には――
すでにトウマの数メートル前。
観客席から凄まじい歓声が巻き起こる。
誰もがその狂気じみたオーバーテイクに熱狂していた。
マリーはそのまま減速と加速を絶妙に繰り返し、一気に差を広げる。
そして――
最初にゴールラインを駆け抜けた。
ヘルメットを外したマリーは勝者の笑みを浮かべる。
彼女はゆっくりとトウマへ歩み寄った。
トウマは慌ててブレーキを踏み、衝突を避ける。
マリーは彼のマシンの前輪に足を乗せた。
「男って感情に流されるのが本当に簡単ね」
そう言って彼のヘルメットのバイザーを持ち上げる。
いつもの生意気な笑みを浮かべながら。
「残念だったわね。年下の女の子に負けちゃって」
大型スクリーンには巨大な文字が映し出されていた。
――WINNER:MARIE SMITH
「これで明日から新聞も雑誌も大騒ぎね」
マリーは肩をすくめる。
「無敗王者、ついに陥落……ってね。あーあ、かわいそう」
そう言い残し、彼女はその場を後にした。
歓喜する観客たちの声だけが、敗者の耳に残る。
やがて祝福や握手を終えたマリーは観客席の一角へ腰を下ろした。
背もたれに頭を預ける。
その時だった。
小さな少女が父親と笑い合っている姿が目に入る。
父親はアイスクリームを買い与え、少女は無邪気に喜んでいた。
その光景を見て――
マリーはほんの少しだけ目を細める。
そして珍しく。
本当に珍しく。
心から微笑んだ。
◇ ◇ ◇
――同時刻。
フェリア学院・学生寮。
カミカは新しく割り当てられた相部屋へ足を踏み入れた。
部屋は暗い。
窓から差し込む月明かりだけが、わずかに室内を照らしている。
視線を巡らせると、入口近くの机で本を整理している少女がいた。
長い青髪。
彼女はしばらくカミカに気づかなかった。
やがて存在に気づくと、明るい笑顔で近寄ってくる。
「あっ、もしかしてカミカ・キラスさん? 私はリリアナ。よろしくね!」
彼女は手を差し出した。
だがカミカは握らない。
無言でリリアナの顔を見つめ、それから差し出された手へ視線を落とした。
リリアナの笑顔が少し引きつる。
「あ……人と触れるのが苦手なんだね」
そう言って苦笑しながら机へ戻った。
「でも、月の一族の人と同室になれて嬉しいな」
カミカにとってリリアナは典型的な社交的な人間だった。
誰とでも仲良くなり、友達を増やしていくタイプ。
カミカはそういう人間を愚かだと思っていた。
優しさは武器ではない。
弱点だ。
情は隙を生む。
そして隙は死につながる。
それがカミカの価値観だった。
「カミカのこと、たくさん聞いてるよ。仲良くなれたら嬉しいな」
カミカは軽く頷く。
そして聞こえないほど小さな声で呟いた。
「それだけは願い下げだ」
「ん? 何か言った?」
振り返るリリアナ。
カミカは首を横に振った。
リリアナが再び荷物整理を始める。
その瞬間。
カミカは音もなく歩き出した。
忍び寄る影のように。
ポケットへ手を入れる。
取り出したのは小型の麻酔針。
そして――
躊躇なくリリアナの首筋へ突き刺した。
「え……?」
視界が揺らぐ。
足元がおぼつかなくなる。
リリアナが倒れそうになる寸前、カミカは彼女を支えた。
静かにベッドへ寝かせ、毛布をかける。
それから部屋を後にした。
学院には監視カメラが存在しない。
敵勢力によるハッキングを警戒した学院長フェリアの判断だった。
だからこそ、カゲモリのスパイであるカミカにとって夜の校内は好都合だった。
彼女は学院長室の前へ到着する。
ヘアピンを取り出し、慣れた手つきで解錠した。
音もなく扉が開く。
室内へ侵入したカミカは机へ近づいた。
乱雑に置かれた書類を一枚ずつ確認する。
しかし目当ての情報は見つからない。
学生数の統計。
各一族の在籍データ。
学院行事の計画書。
二年生と三年生向けの大会資料。
訓練巡回に関する報告書。
どれもカゲモリが欲する情報ではなかった。
その時。
彼女の視線が赤いUSBメモリに止まる。
迷わずポケットへしまった。
立ち去ろうとした直後――
廊下から足音が聞こえた。
カミカは即座に机の下へ潜り込む。
息を殺し、身を潜める。
「まったく……父さんはまた部屋の鍵を閉め忘れてる」
入ってきたのはハル・フェリアだった。
学院長フェリアの息子である。
彼は散らかった書類を見て整理を始める。
だが開いた窓から吹き込む風が紙を舞い上げた。
「うわっ」
ハルは慌ててしゃがみ込む。
その時だった。
机の下から覗く灰色の髪が目に入った。
思わず瞬きを繰り返す。
見間違いかと思った。
だが次の瞬間。
「ハル?」
背後からモリヤマが現れる。
彼女は首を傾げた。
「こんな時間に何をしているの?」
ハルは慌てて立ち上がる。
「部屋へ戻る途中で、父……じゃなくて学院長の部屋が開いているのを見つけて。書類も散らかっていたので整理していました」
「そう」
モリヤマは小さく頷いた。
「なら早く部屋へ戻りなさい。こんな時間にうろついていたら誤解されるわよ」
「わかりました」
ハルは返事をしながらも、最後にもう一度だけ机へ視線を向ける。
疑念の残る目だった。
やがて二人は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
しばらくして。
机の下からカミカが姿を現した。
知らぬ間に止めていた息を吐き出す。
「危なかった……」
小さく呟きながら、彼女はポケットのUSBを強く握った。
そして窓を開ける。
夜風が吹き込む。
次の瞬間、彼女は迷いなく外へ飛び出した。
自室へ戻るために。




