第22話:月の王女
数世紀前、〈闇の時代〉が始まる前に、人間には二つの種族が存在することが発見された。
ひとつは、生まれながらにして奇妙な力を持ち、その力は十歳を迎えた時に目覚める〈異能者〉。
もうひとつは、まったく普通の人間であり、他の人々と同じように暮らしていたが、その数の少なさから〈孤立者〉あるいは〈忌み子〉と呼ばれていた。
時の流れとともに、さまざまな系統の力が現れ、それらは十の氏族に分類された。
月の一族(最初にして最も偉大な一族)。
闇の一族。
血の一族。
蝶の一族。
植物の一族。
雪の一族。
火の一族。
水の一族。
風の一族。
岩の一族。
それぞれの氏族には強力な長が存在し、彼らは〈十人の族長〉として知られていた。
だが、その均衡は〈灰の子らの惨禍〉によって崩れ去った。
それは〈影時〉――〈影の時代〉において布かれた〈追放の掟〉によるものであり、一部の氏族を滅ぼすことを目的としていた。
だが誰も知らなかった。
その掟は〈カゲモリ〉の仕業ではなく、さらに強大で深淵なる闇の力によって生み出されたものであったことを――。
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かつて、一人の姫君がいた。
禁じられた恋に落ちたと語られる姫君。
だが、彼女は知らなかった。
自らが、その恋の獲物となることを。
心を捧げ、
魂を捧げ、
時間を捧げ、
理想の関係を築こうとした末に――
彼女は静かに命を絶った。
誰にも知られることなく。
人の話を聞くことの方が多い宮殿の壁の中で、その死は密やかに埋もれていった。
……
その一族の者たちも。
いや、一族の外の者たちも。
誰一人として、その恋を知らなかった。
誰一人として、その自殺を知らなかった。
だから世界は皆、
初代の時代に生きた月の一族の姫――
月姫は、不治の病によって亡くなったのだと信じていた。
◇ ◇ ◇
バスの中は静まり返っていた。
学院長――タカミ・フェリアは、二年生の生徒たちを月の一族の歴史的遺産を巡る文化見学へ連れて行くことを決めたのだ。
カグラ発祥の地であり、
最も偉大な一族として知られる月の一族。
圧倒的な武力。
強大な軍勢。
そして、どんな困難にも屈しない不屈の精神。
かつて「追放法」が施行された時も、彼らは抗い、戦った。
一度は倒れながらも、
再び立ち上がった。
諦めるという言葉は、彼らの辞書には存在しない。
苦しみの中から生まれ、
痛みを力へ変えることを信条として生きてきた一族だった。
◇ ◇ ◇
リリィは、時間が過ぎるのを忘れていた。
運転手が肩を叩いてくるまで。
思考の海から引き戻された彼女は、後方座席のC-2クラスの生徒たちへ視線を向ける。
皆、退屈そうに呻いていた。
中には眠り込んでいる者までいる。
リリィは手を叩き、注意を集めた。
「みんな――到着したわよ」
その言葉通りだった。
初代の英雄たちを象った銀色の記念碑が、首都中央広場に堂々と立っている。
建築様式自体は近代的だが、
どこか中世の面影を残していた。
先祖たちの遺産を守るためだろう。
広場の中央には、欠けた半月を模した噴水。
その先端から水が空高く噴き上がっている。
周囲には様々な店が並び、人々の活気で満ちていた。
そんな中、一人の男が彼らの前へ現れる。
逞しい肉体。
巨大な体格。
リリィが二度瞬きをしたほどの長身で、彼女はまるで子供のように見えた。
だが男は温かく微笑み、敬礼した。
「ようこそ、皆さん。私はハルト・キサラギ。王宮直属騎士団所属、そして月の一族軍総司令官を務めています。どうぞよろしく」
生徒たちは頷いた。
男子の何人かは彼の筋肉に目を輝かせている。
特にデンジ・ヤママトなどは興奮した様子で近づき、その腕を触り始めた。
ハルトは思わず笑い、
少年の頭を軽く撫でる。
だがリリィが前へ出て会話を引き継いだ。
「こちらこそ光栄です、司令官殿。私たちは学院長タカミ・フェリアの依頼で参りました」
そう言って懐から封筒を取り出し、彼へ差し出す。
「こちらが学院長からの手紙です。お読みください」
ハルトは微笑んだ。
フェリアとは旧友である。
断る理由などない。
手紙を開き内容を読む。
そこには、生徒たちへ歴史と文化を学ばせたいこと。
そして旅の案内役を頼みたいことが綴られていた。
未来を守る若者たちのためになるなら。
ハルトに異論はなかった。
「案内役を務められることを光栄に思います。どうぞ、こちらへ」
彼は先頭に立ち、
首都やその周辺を案内し始める。
月の一族の歴史。
文化。
特色。
さらには卒業後、全一族合同軍への入隊案内まで行っていた。
「さて、我々の政治体制についてお話ししましょう。ご存知の通り、ツキカ家最後の王女が亡くなった後、そして追放法による混乱を受けて、我々は選挙制度へ移行しました。現大統領を選出したのですが――結果として非常に良い判断だったと思います」
リリィが頷く。
「皆も聞いた通りよ。月の一族は最も優れた政治・経済制度を持つ一族として知られているわ。カゲモリによる被害は大きかったけれど、それを乗り越え、以前よりも発展したの」
ハルトも笑う。
「その通りです」
◇ ◇ ◇
その様子を、一人の少女が静かに見ていた。
カミカ・キラス。
カゲモリの名が出た時、彼女は自然と耳を傾けていた。
もっとも、得られる情報の大半は既知のものだったが。
その時だった。
誰かが隣へ歩み寄る。
ヒナ・サクライだった。
彼女は柔らかな笑みを浮かべながら言う。
「ねえ、カミカ……」
カミカは返事をしない。
それを理解しているヒナは、そのまま続けた。
「ちゃんとお礼を言えてなかったなって思って」
両手を胸の前で組み、
小さく微笑む。
「逃走試験の時。あなたにお礼を言いたかったのに……できなかったから」
「何のお礼?」
カミカは無表情のまま尋ねた。
ヒナは首を傾げる。
(忘れたの? それとも、わざと……?)
「助けてくれたこと」
「助けてなんかいない。私はヒーローじゃない」
「そういう意味じゃなくて!」
ヒナは慌てて否定した。
「去年、ユキ・シライが自動販売機を壊した罪を私になすりつけようとした時のこと。学院長は目撃者だったあなたに事情を聞いたよね」
そして、カミカの無機質な声を真似する。
「『覚えていません』って」
あまりにも似ていない物真似だった。
「あなたがそう答えたから、学院長は私たち二人とも軽い処分だけで済ませてくれたの」
少し頬を膨らませながら、
足元の小石を蹴る。
「ポイントは減点されたけど……」
顔を上げると、
カミカは既に前を歩いていた。
まるで聞いていなかったかのように。
だが、彼女の視線は別のものへ向けられていた。
一体の聖像。
美しい女性が林檎を手にした姿。
しかし、その表情はどこか悲しげだった。
カミカは見つめ続ける。
じっと。
じっと。
そして――
その瞬間。
像の瞳が動いた。
思わず目を細める。
見間違いだと思った。
だが違う。
瞳も。
唇も。
確かに動いていた。
何かを囁いているように。
どうやら、その異変に気付いているのはカミカだけらしい。
ヒナが隣へ立つ。
そして優しく呟いた。
「綺麗でしょう? でも……すごく苦しい人生だったらしいよ」
背後からハル・フェリアも近づいてくる。
「その人は病気で亡くなったって言われてるんだ」
彼は像を見上げた。
「希望と愛と幸福の象徴だった。月に生まれながら、まるで太陽みたいな人だったって」
さらにハルトが近づき、
像の前で片膝をついた。
「ツキカ・ヒムラ王女――本当に純粋で優しい方でした」
彼の脳裏に、
微笑む王女の姿が浮かぶ。
「でも……愛というものは時に、人を茨の道へ導く。とても苦しいものなんです」
カミカには理解できなかった。
愛。
幸福。
痛み。
特に痛みという感情は。
彼女にとって全てが同じ意味を持つ。
――弱さ。
だが。
皆の視線。
皆の言葉。
皆の優しさ。
その全てが、ほんの少しだけ胸を温めた。
けれど彼女は、その感情を奥底へ押し込める。
もっと遠くへ。
もっと深くへ。
決して表へ出さないように。
なぜなら――
それを受け入れることは、
カゲモリへの裏切りになるのだから。




