第31話:異世界の息吹
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
鼻腔をかすめるのは、干し草と焼き立てのパンの匂い、そこに微かに混じる潮風の香り。耳に届くのは、行商人が値を叫ぶ声と、通りの向こうで馬車の車輪が軋む音。
AIの生成した世界は、視覚だけではなく、嗅覚や聴覚、肌に触れる風の温度までも、現実と寸分違わぬ精度で再現していた。
道端の樽の上には、つややかな果実が積まれている。試しに手を伸ばすと、皮のざらつきと、わずかな弾力が指先に返ってきた。
――食べ物の手触りまで、ここまで細かく作り込むとは。
感心しながらも、どこかでその完璧さが不気味に思えた。
(だが、これはあくまで“定石”の舞台装置だ)
本来なら、この後に序盤イベントが始まるはずだ。魔法師ギルドの使いが声をかけてきて、簡単な依頼を受ける――それがプレイヤーの最初の仕事であり、名声の入り口となる。
だが、オレはそれを待つつもりはなかった。
通りの端、賑わいから外れた路地に目をやる。石壁にはつる草が這い、洗濯物がひらひらと揺れている。
AIは、その路地にも同じだけの生活の匂いを与えていた。そこに暮らすNPCの足跡や、扉の開閉の音まで、確かに“人がいる”と感じさせる。
(こういう場所こそ、オレの物語を始めるにふさわしい)
ギルドにも王宮にも向かわず、オレは静かに路地へと足を踏み入れた。
石畳の隙間に水たまりが残っていて、夕陽を映して揺れている。
その景色は、さっき城壁の上から見た赤い空の縮図のようだった。
背後で、ギルドの使いらしき青年が誰かを呼び止める声が聞こえた。
だが、それはもうオレには関係のない話だ。
英雄譚の幕開けも、既定路線の名声も、ここでは必要ない。
この世界で過ごせる数十年を、オレはオレのやり方で使う。
それが、現実で残されたわずかな時間への、オレなりの答えだった。




