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レーテー・イストリア  作者: 鈴
第2章 ディスンの章
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1部 - 1「紫色の瞳を探す男」

 読み終えた紙の束を、ディスンは不認可の箱に投げ入れた。


至急と押印された書類の山は崩した。

それでも、彼のデスクの上は、未決裁の書類が山脈を成している。

だが、区切りがいい。今夜はもう終わりにしよう。

西の国境警護にあたっていた第二旅団の交代があって、今日、兵士たちが戻ってきているはずだ。

酒場に行けば、彼らの話を聞けるだろう。


首を鳴らしながら筆記具を置いて立ち上がったとき、沈殿した部屋の空気が、動いた。

外気が忍び寄り、ひやりと肌をなでる。

ジャスミンの香りを吸って、ディスンは天窓を仰いだ。


人がいた。

白々とした月光を受けた、波打つ琥珀色の髪が肩の上で揺れる。

柔らかく、滑らかなシルエット。

しかし、窓枠を椅子にして脚を組むその態度は、許可なき侵入者にしては、ずいぶん太々しい(ふてぶてしい)。


「夜這《よば》いなら、部屋を間違えてるぞ」

「夜這い前の、ただの寄り道よ」

「それなら普通に入ってこい」

「あら、普通に来たじゃない」

「まぁ……そうだな」


身を乗り出した女の横顔を月の光が照らした。

ディスンが肩をすくめると、陰になった顔に笑みが浮かんだ。


「何か土産があるんだろ、アンバー。もう誰もいない。書類の見過ぎで首が痛いんだ。話しづらいから降りてこい」


ひらりと、窓枠から身体が躍る。腰元を覆う短いスカートがひらめいた。

三メートル下。

ディスンの目前に女は音もなく着地した。

彫りの深い顔立ちに、大きな琥珀色《こはくいろ》の瞳。誰が見ても美女と呼ぶだろう。


「久しぶりだな。秋に出て行って以来だ」

「国の中、全部回ってきたわ。どこも駄目ね。東は倉を開けても埃しか出ないし、南はまだ実るけど、あの婆さんが根こそぎ持っていくの。あたし、次は絶対あの倉、開ける」


琥珀色の瞳がギラギラと光った。

ディスンは首を縦にも、横にも振らず、ただアンバーの話に耳を傾けた。


「西と北は――悲惨《ひさん》ね」

「いい話はひとつもなさそうだな」


ディスンは各地から届いていた報告書の山に視線をくれた。

洪水、豪雪、干ばつ、雹《ひょう》。

この国で、三年間まともな天気が続いた地はほとんどない。

どこも苦しみ、民は皆、喘いでいた。


「盗る方はね。でも、ついこの間いい話を聞いたのよ」

「なんだ」

「干ばつの村に水が出て、川になったんですって!」

「地殻変動か? 地震の報告はなかったが」

「違う違う! 掘ったのよ。村の人が」


アンバーは腕を大きく振り回した。


「へぇ。それは大したものだな」

「フルオスの……村の名前は知らないけど、岩山よ。なんでも、岩を割ったら水を噴いたんですって。岩って、水が出るものなのね。あたし、あっちこっちで教えてきちゃった。奇跡は起こるのよ! って」

「岩盤だろ。転がってる岩から水が出るなら、とっくにみんなそこらじゅうの岩を割ってる」


アンバーは、まるでその光景を目の当たりにしたかのように、瞳を煌めかせている。

ディスンは、はしゃいでいる盗賊から視線を外して、帰る準備を始めた。


「なによ! 感動が少ないわねぇ」

「この国の人間が欲しがってるのは、奇跡じゃなくて、明日の飯だからな」

「夢がない! 希望は大事よ」

「もちろん大事だ」


子どものように口を尖らせたアンバーに、ディスンははっきりとうなずいた。


机上の書類は、どれを開いても、惨状の報告ばかりだ。

畑を失った農夫、家を流された漁師、飢えた子ども。


岩山で出た水は、離れた村の誰の口も潤さない。

だが、その話を聞いて、岩を砕こうとする者はいるだろう。

そこから水が出れば、一軒の農家が生き延びるかもしれない。


希望は、この書類を一枚でも減らすものにならなくては。


ディスンは、書類の山に手を置いた。


「もうひとつあるの」

「なんだ?」


ディスンは振り向き、アンバーの声を正面で受けた。


「こっちが本命。山を下りて街に入った時、闇店の男たちが騒いでた。奴隷商がミダスへ向かった。……奴隷競りがあるって」

「競り……」

「そこに、銀色の髪の子どもが出品される」


ディスンの周りの空気が、硬化した。

先を促す気配に「そうだ」と言うようにうなずいて、アンバーは続けた。


「紫色に光る瞳よ」

「――そうか」


ディスンは片付けたばかりの筆記用具を机にぶちまけた。

乱暴に椅子を引き、紙束をひっつかむ。


「競りはいつ」

「明日の夜」

「でかした。間に合う」


猛然と何かを書いていく。

走る文字には、一画の乱れもなかった。

書き終えると、ディスンは封筒に入れて封をし、アンバーに差し出した。


「ミダスの警邏局長《けいらきょくちょう》に、明日の朝までに渡してくれ」


アンバーは、受け取った封筒を、皮製のベストの胸ポケットに入れる。

彼女は、ディスンから目を逸らさなかった。


「信じるの?」

「アンバーの情報を信じる。外れるのは、情報の源に認識の差異があるからだ」


銀色の髪、紫色の瞳の子どもを探し続けてきた。

八年間。

一度も出会えなかった。

銀髪はさほど珍しくない。だから、条件には比較的よく合致する。

しかし、みな、瞳の色が紫というには程遠かった。

――いるはずなのだ。この世のどこかに。

「出生」の記録がある。

「死亡」の記録がない。

だから、諦めない。何度空振りをしても、探し続ける。


「子どもを盗るぞ、アンバー」


ディスンの金色の瞳が、鋭く光った。

小さく息を吐いて頷くと、アンバーは跳躍し、壁を蹴って侵入した天窓に手をかける。


「普通に出て行けって」

「ここがあたしの出入り口よ」

「そうだった……夜更かしして明日、へまするなよ」

「夜更かしはするけど、へまはしないわ」


天窓が閉まった時、ガラスの向こうに、もう、アンバーの影はなかった。


「本当に夜這いの途中か」


数十分後、アンバーは目的地の鉄壁の警備体制をまた破るだろう。

ディスンは、警備を破られて額に青筋を立てながらも、求婚からは必死に逃げる哀れな幼馴染の健闘を祈った。

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