3部 - 3「開いた檻」
リルテは、檻の中の床に敷かれていた布を畳んで、奥のほうに置いた。
布の下は木だったが、酷い臭いがする布の上に転がるよりまだましだった。
いや、何より岩ではなく、木だ。
鍵の掛かった鉄格子さえ見なければ、寝床としてはずいぶん良くなった。
一日三回、食事を与えられた。
スープとパン。
肉も草も入っている。
食べたことがない味だった。
草は大体想像がついた。
匂いを嗅ぎ、噛みしめて、何の肉かを考えた。
分からないときは、空の器を受け取りに来た男に、何の肉かを訊いた。
「アヒル」
「水豚」
その正体を、師の書棚にあった書物に描かれた絵と照らし合わせる。
実際に見て、触れてみたいと思ったが、言わなかった。
困らせたいわけではない。
移動中と夜間、幌は閉じられていた。
寝ているときは良かったが、移動中は困った。
大きく揺れるたび、構えることができず、檻の中で転がった。
そうでなくても、始終、前後左右に揺さぶられて、リルテは酔いを堪えるので精いっぱいだった。
思考が巡るときは、改めて、彼らの商売について考えた。
奴隷商とは何か。
檻の中には、獣のものではない痕跡がいくつも残っている。
男は「仕入れ」と言っていた。
つまり、人を買って、買った値段以上の値を付けて、人を売るのだ。
商の仕組みだけは、師に教えてもらったことがある。
自分の仕入れには、金がかかっていない。
あの男が喜んでいた理由は、きっとそれだろう。
そこまでは分かっても、奴隷とは何なのか。
この先自分がどうなるか。
その答えに辿り着くための情報が、どこにも見つからない。
「本が欲しい……」
リルテの呟きは、風にはためく幌に吸い込まれて、消えて行った。
日中、何度か馬車が止まった。
そのときに、空気を入れ替えるためと言って、後部だけ幌を開けてくれた。
男たちが荷物を運んだり、水を汲んでいる中に、あの少年の姿もあった。
ヴルペと呼ばれていた。
話がしたかった。
だが、檻から見えるところへ来ても、彼は顔を背けて、リルテを見ようとしない。
「出るぞ!」
その声を合図にまた檻の中が暗くなって、リルテは小さく肩を落とした。
出発して三日目の夜、身体を洗えと外に出されたが、周りを囲んだのは、上背のある強そうな大人の男四人だった。
街を囲う壁のそばで、水浴びをした。
いくつか準備された桶の水に手を差し込む。
少し深いものには、肩まで漬けた。
身体に水をかけながら、街を囲う壁を見た。
石が違った。
山の東側の石だ。
――ミダスに行くと言っていた。
この石を切り出した山が、想像通りなら、もう遠くないだろう。
それより、山の麓にあった湖の街よりも、壁が高いことが気になった。
国境からは遠いのに。何故かを知りたかった。
男たちは一言も喋らなかった。
ヴルペなら知っているだろうか。
そう思いながら、リルテも黙って水浴びを終えた。
その夜。リルテは気配を感じて、横たえていた身体を起こした。
もう、ずっと獣の気配に神経を尖らせていたから、過敏なのだ。
「……」
細く息をする。
猛獣がいたとして、こんなに静かに寄ってくるわけがない。
――つまり
「おい、のろま」
後部の幌がかすかに開いた。
檻の向こうに、少年の姿があった。
リルテは目を丸く開いて、檻の入り口に駆け寄った。
「来ていいの?」
「いいわけねぇだろ」
リルテの小声に、乱暴に返しながら、ヴルペはせわしなくズボンの尻ポケットを探る。
出てきたのは、小さな鍵だった。
「明日にはミダスに着く」
「うん」
「聞いたのか」
「ううん……なんとなくそう思った」
「……ふうん」
興味なさそうに相槌を打ち、がちゃがちゃと鍵穴をいじる彼の手元を、リルテは覗き込んだ。
ご飯は済んだ。水浴びもした。
「何してるの?」
「逃げろ」
「!」
リルテは驚いて飛び上がった。
「今夜はみんな街だ。親父も、お前が高値で売れるって浴びるほど酒飲んで騒いでる。朝まで帰ってこねぇ」
「……君は」
「鍵番だ」
ガチャンと音を立てて鍵が外れた。
ぎぎ、と、扉が開く。
「出ろよ」
「……なんで、出してくれるの?」
小さな間があった。
静寂の中に、虫の声と草を揺らす風の音、それから馬の息遣いがあった。
「ラピドゥスを助けてくれた」
「?」
「馬」
倒れた荷車に潰されかけていた馬だ。
もがく姿を見ていられなくて、口を出した。
あの男は、息子が目をかけていると言っていた。
「オレは、あいつが生まれたときから一緒にいる」
「そうなんだ」
「……善い行いをしたら、その分善いことが返ってくるんだ。お前はラピドゥスを助けてくれた。だから、おかしい。……奴隷になんか、なるな」
「奴隷は、そんなにひどいものなの?」
「……お前、本当に何も知らねぇんだな」
信じられないという顔を向けられて、リルテは視線を落とした。
「だから、教えてほしかったんだけど、君に」
「……奴隷市で売られたら、骨になるまで使われる」
「競りでも同じ?」
「知らねぇ。そっちは金持ち貴族が絡んでるから。オレたちは仲介の奴に売って、金をもらって終わりだ。けど、買われた奴が出てきた話は聞いたことねぇよ。お前は盗みができるだろ」
「できないよ」
「あっそ」
ヴルペは肩をすくめた。
そして、もう一度ポケットに手を突っ込み、ごそごそと何かを掴んだ手を、拳のままリルテの前に突き出した。
「!」
「……返す」
「え?」
「返すから、手を出せ」
何度も目を瞬かせながら、ヴルペの顔と拳を交互に見つめるリルテにしびれを切らし、ヴルペは手を開いた。
銀貨がじゃらりと音を立てた。
「なんで、銀?」
「もらいすぎた。だから返す。……とにかく急げ。ここまで来たらミダスが一番近い。今なら朝まで走れば馬車が追い付けないところまで行けるはずだ。ほら」
早く手を出せと揺れる手のひらに、リルテは首を振った。
「いらない」
「お前の水晶を換えた銀だぞ!」
「君が僕を助けてくれた。その手数料でしょう? 宿に泊まれないのは困ると思ったけれど、多く渡したとは思ってないよ」
「ああ! もう!」
ヴルペはがしがしと、乱暴に頭を掻いた。
「……そんなに乞食がいいのかよ。じゃあもう、そのまま行け」
「出ない」
「何言ってんだ馬鹿!」
「出て行ったら、ヴルペがきっとひどい目に遭う」
「!」
ヴルペの顔がみるみる引き攣った。
昏く翳った視線が、荷車の隅から滑り落ちる。
それでもヴルペは頭を振り、リルテを強く見返した。
「親父だって分かってくれるさ! 恩を仇で返すのは、間違ってる」
「でも、君のお父さんはそう思っていないみたいだったよ」
リルテも、ヴルペを強く見返した。
ヴルペの黒い瞳が、揺れる。
「……父親じゃねぇ。拾ってくれた人だ」
ああ、イオセフと同じだ。
「そっか。怖い人かと思ったけど……本当は優しい人なんだね」
「お前は、本当に変な奴だな」
ヴルペの呆れ顔を、すっかり覚えてしまった。
変なことなんて、一度も言ったつもりはないのに。
リルテは小さく苦笑した。
フンと吐かれた鼻息を聞いて、ゆっくりと瞬きをした。
顔を上げる。
「馬も高くなってしまったと言っていた。僕を売って手に入れるお金を当てにしているんだよ。稼ぎがなくなったら困るはずだ」
「そんなの分かってる。だからって、お前が奴隷になる必要は……」
「僕、ヴルペにお願いがあるんだ」
「?」
リルテはまっすぐにヴルペを見つめた。
「僕を売ったお金の一部は、本当は、君たちが僕を買ったときに支払うべきお金でしょう?」
「? 何言ってんだ。お前は買われたわけじゃねぇだろ」
「だから、『本当は』。僕の値段は分からない。だけど、きっとただじゃないはずだ。ねぇ、ヴルペが支払うと思った分でいい。僕を売ったときのお金を、少し、僕の村に届けてほしいんだ」
ヴルペが檻の鉄柵をぎゅっと掴んだ。
顎で外を示す。
「……今から自分で届けに行けよ」
「村には、帰らないんだ」
「……」
ヴルペの手に血管が浮き、ぶるぶると震えた。
やがて、鉄柵から手が滑り落ち、彼は何度目か分からないため息を吐いた。
そして、空を仰ぎ、頭を掻く。
「……どこの村だよ。お前の村なんて知らねぇよ」
「フルオスの西側の山の中だよ。とても大きな樫の木があるんだ。きっとすぐに分かるよ。そこに行ったら、お金を渡して。それから、できれば、僕は……リルテは、元気だっ、て……」
口が動かなくなった。
呼吸が浅くなって、眩暈がする。
本当に、村はあるか。
どきん、どきんと心臓が大きく打って、リルテの肺を押しつぶした。
荒廃し、砂塵の吹き荒れる大地。
樫の木だけが風を受けて立つ。
人影のない、灰色の景色になっていないか――
「大きな樫? ……あれか? 岩から水が出たとかいうところの近くか?」
「――水?」
「なんだっけな。地面を掘ったら、黒い大岩が飛び出して、それを割ったら天まで届く水柱が上がった、だっけ。あまりに勢いがすごいから、川になったって」
「あ……あ」
「……おい? どうした?」
リルテの両目から、涙が噴き出した。
息が詰まった。
声を上げることもできず、リルテは胸を押さえて膝から崩れ落ちた。
水が、出た。
しかも、川になるほどの水が。
「う、あぁ」
――お父さん。お母さん。アディ。ノル……
声も上げずに身体を丸め、震わせ、床に這いつくばって激しく嗚咽するリルテを見て、ヴルペは呆気にとられていた。
「お、おい。そんなに泣く話かよ。岩が飛び出すんだぜ。こんな奇妙なこと、笑うだろ、普通。変なうえに、泣き虫なんだな、お前」
『――泣き虫リルテ』
ああ、そうだ。泣いている場合ではない。
リルテは、歯を食いしばり、呼吸を整えた。
こぶしを握り、腕で目をこすり、顔を上げる。
「あ、りが、とう」
星々がどれだけ強くリルテの魂を掴もうとしても、振りほどかねばならない。
「い、行ってやるなんて、言ってねぇだろ! 出ろよ! 馬鹿!」
リルテは開いた檻の扉の隙間を見た。
そして、首を横に振った。
「僕は、生き延びてみせるよ」
「……頑固者!」
ヴルペは檻から離れた。
「鍵!」
「開けておく。気が変わったらさっさと出てけ」
幌が落ちて、ヴルペの背中を隠した。
その途端、力が抜けてリルテは仰向けに倒れた。
腕を投げ出し、深く呼吸をして、目を閉じる。
湿った臭いが鼻を突いたが、瞼の裏には晴れわたる空が浮かび、さらさらと岩の間を下る水の音が、耳の奥で聞こえた。
村を出て初めて、よく眠れた。
翌朝、騒ぐ声で目が覚めた。
腫れぼったい瞼をこじ開け、身体を起こす。
後部の幌が上がっていた。
そして、その向こうで――
「ヴルペ! 貴様!」
激しい怒声と共に、少年が道の端まで吹き飛んだ。
リルテは飛び上がって檻の鉄柵に齧り付いた。
下に散らばっている針金を踏んで、足を取られる。
その途端、ぎいと音を立てて、扉が開いた。
ハッとした。
「よぉ、起きたか。ガキ」
まとめ役の男が、凶暴な眼をリルテの方に向けた。
「朝飯の時間だが、待ってろ。悪さをしたやつを叱ってる最中だ」
「……」
「こいつはな、大事な大事な商品を逃がそうとした大罪人よ。自分が何で飯を食ってるのか、わかっちゃいねぇ。こういう悪さをするとどうなるか、身体に覚えさせないといけねぇんだ」
リルテは、仰向けに伸びて動かないヴルペを見て身体が震えた。
口の端に赤いものが伝っている。
男はまだヴルペに向かおうとしていた。
ほかの男たちは、ただ見ているだけで、誰もヴルペを助けようとしない。
リルテは、乱暴に檻の扉を押し開いた。
半身を檻から出す。
そして、大きく息を吸い、お腹に力を入れた。
「逃げそびれたんだね、僕」
「おい。出るんじゃねぇぞ。ガキ」
「せっかく薬まで使ったのに」
「なに?」
リルテは皮袋から、山で老人にもらった細首の小瓶を取り出した。
檻の外へ腕を伸ばし、男に見える高さで掲げて見せる。
「お腹が痛いって言ったら、入ってきたんだ。ここで眠っていてもらおうと思ったのに、『大事な商品が傷ついたら困る。誰か連れてくる』って走って行ったから、少し焦ったよ。でもね、薬は、動けば動くほど回るんだ」
男が方向を変え、額に青筋を立てながら、リルテの方に向かってきた。
「なんだそれは」
「睡眠薬だよ」
「どうやってあいつに飲ませた」
「飲ませなくても効く」
「どうやって使った」
「言わない」
男が拳を振り上げた。
リルテは、下瞼に力を入れて、男をじっと見た。
やがて震える拳をほどき、男は悔しさと苛立ちが綯い交ぜになった表情で、リルテの手から小瓶をひったくろうとした。
その瞬間、リルテは手を滑らせた。
小瓶が地面に落ち、飛び出した石に当たって、砕ける。
「ああ、なんてことを!」
「それは俺の言葉だ! てめぇで確かめてやるところだったのに! ……どこまでも舐めやがって! このガキ!」
男は地団太を踏みながら、リルテに向かって吠えた。
「……あいつが鍵を開けていったのに、なぜ逃げなかった」
「閉めて行ったから逃げられなかったんだよ。あの子も言っていたでしょう? 僕は掏りができるって。鍵を開けるくらい、幌を結んでいる針金で何とでもなる。ただ、この針金は柔らかかった。開いていたなら、逃げればよかった」
男はリルテの足元に散らばっている、傷んで折れた針金を一瞥した。
「フン! とんだ間抜けだな」
「はは。本当に間抜けだね。……やっぱり売られるのは嫌になったんだ。ここで雇ってくれないかな」
「てめぇみたいに頭を使って悪さをする奴は、躾けがいがある。だが、間抜けの口は願い下げだ。ヴルペのほうがまだ賢い」
男は忌々《いまいま》しそうにリルテの胸を押した。
よろよろと後退し、檻の中へと戻される。
鍵をかけられた。
「鈍い乞食だとばかり思っていたら、とんだじゃじゃ馬だったな。もうじきミダスに着く。せいぜい大人しくしていろ」
男が背を向けた。
リルテは、視線だけヴルペの方へ向けた。
意識が戻ったのか、彼は起き上がっていた。
「何泣いてんだヴルペ! 泣くくらいなら、もっと注意しろ! 今度商品を逃がしそうになったら、ただじゃおかねぇぞ!」
男が、がなる。
「てめぇら、出発だ! こんな荷物、さっさと売っぱらってやる! 突っ立ってねぇで準備しろ!」
男が視界から消えて、リルテは今度こそヴルペを見た。
ヴルペもリルテを見ていた。
強気な彼の唇が、波打っていた。
リルテは小さく首を振った。
後部の幌が下りて、また檻の中は闇に閉ざされた。
途端に、リルテの身体が震えだした。
お腹に力を入れて、はっきり言った。
鉱石商から守ってくれたときの、ヴルペのように。
男が信じてくれたから良かったけれど、とても下手な言い訳だった。
リルテはがたがた揺れる身体を丸めて膝を抱え、奥歯を噛んだ。
もっとヴルペを説得して、鍵を閉めてもらえば良かった。
自分が逃げなければ良いと、思っていた。
それでは、甘かったのだ。
『善い行いをしたら、その分善いことが返ってくるんだ』
じゃあ、なぜヴルペが、あんなに酷く打たれなくてはいけないんだ。
慕っている親父さんに、なぜ。
リルテは喉の奥からせり上がってくるものを堪えて、こぶしを握った。
ラピドゥスの嘶きが聞こえた。
振動で尻が跳ねる。
荷馬車が、ミダスに向かって動き出した。




