3部 - 2「働ける場所」
金をよこせと言われて、リルテは男から投げられた銀貨をみんな、少年に渡した。
「……お前、本当におめでたいやつだな」
「え? 何か変なことした?」
「別に。手間が省けたな。ってだけ。――買ってきたもん、文句言うなよ」
「うん。言わない。よろしくお願いします」
ひらひらと手を振って、少年が店の中に入っていく。
そして、十分もすると、包みを持って出てきた。
「お前、痩せてるけど、オレとそんなに背は違わないから」
「ありがとう」
リルテはさっそく包みを開いた。
薄手の白いシャツと、同じように薄手のズボンが入っていた。
だが、それは義母が縫ってくれた、この、ボロボロになってしまった服よりずいぶん頼りなく見えた。
「銀は足りた?」
「足りるに決まってんだろ」
呆れ顔でポケットを探った少年は、渡していた銀貨をじゃらりと掴みだした。
そして、五枚リルテの手のひらに落とした。
「はい。これ、お前の」
「? そっちは?」
「手間賃」
「全部?」
少年はまた、口の端から八重歯を覗かせた。
「後でちょっともらおうと思ってたのに。全部渡すから、こういうことになるんだぜ!」
少年はポケットに再び銀貨を突っ込むと、ぽかんとしているリルテを嗤った。
そして、リルテの手が届かない位置まで飛び退る。
リルテは慌てた。
「これで、宿に泊まれる?」
「はぁ? 泊まれるかよ。乞食は乞食らしく道端で寝てろ!」
「こ、困るよ。身体を洗いたいんだ」
「ふぅん。じゃあ、交換条件だ」
少年はすっと目を細めた。
「さっきの水晶、何処で盗んだ?」
「盗んでない! 山で採ったんだよ」
「交渉決裂。また何か盗ったら、換金するのを手伝ってやってもいいぜ。じゃあな! のろま!」
そう言うと、少年は踵を返して笑い声を残し、風のように駆け去った。
すばしっこい動きで、人ごみに背中が紛れる。
リルテは、宙に伸ばした手を虚しく掻いて、見送るしかなかった。
「僕は物の価値を知らない……」
リルテは手のひらに残された五枚の銀貨を握りしめた。
――知らなくては。
闇店の前に出ている売り物の値札を盗み見た。
人気がないところを選んで、窓から商品の値段を確認した。
街の人の冷たい視線に身を縮めて歩きながら、視界に入る値札の数字を、片っ端から頭に叩き込んだ。
日が落ちたころ、宵に姿を溶かしながら、鳴り出した腹を宥めるために、露店の台に銀を一枚置いた。
――これで、一皿、羊のスープが買えるはずだった。
女主人が、視線を落としたままのリルテの前に陶器の皿を置いた。
小さな肉が一切れ入っているきりだった。
「これだけ?」
「お前に出せるのは、それだけだよ」
嫌そうな顔をしていた。
手で追い払われないだけ、ましだった。
リルテは店の迷惑にならないよう、積みあがった荷箱の陰に隠れてスープをすすった。
強い塩気と肉の甘い味が、口の中いっぱいに広がる。
……マリソルの味付けは、いつも優しかった。
そして、いつも一匙多く、リルテにスープをよそってくれた。
――村を出て、もう一週間以上が過ぎていた。
胸が詰まった。
スープがゆらゆら揺れた。
頭上に瞬き始めた星を見るのが怖かった。
俯いてスープを飲み干す。
さっきよりも味がなくなってしまった。
このくらいの量で、ちょうどよかった。
すっかり夜になってから、リルテは、少年が買ってくれた衣服の包みを抱えて、湖のほうへ歩いた。
この暗さならば、湖に入っても、誰かに見咎められることはないだろう。
水でも、浸かって擦れば、ずいぶんましになるはずだ。
隠れないで、ちゃんと売り物の価格や、街のことについて知りたい。
決まりもあるだろう。
寝るところを見つけて、ご飯を食べられるだけのお金を稼がなくてはならない。
そして、これからのことを考えなくてはならない。
どこか、あまり人目につかない湖畔で――
と、男の怒鳴り声が耳を貫いた。
また追い払われるのか。
リルテは身をすくめて、恐る恐る声のした方を見た。
大声をあげている男はリルテを見ていなかった。
行商だろうか。
「もっと、しっかり引かねぇか。びくとも動いてねぇだろうが!」
「引いてます! でも」
「るせぇ! 口答えする間があったら、もっとちゃんと引け!」
荷車の幌に掛けたロープを、男三人がかりで引いている。
だが、男の言う通りびくとも動いていない。
馬が、息も絶え絶えになっていた。
リルテは、溝に落ちた片輪のせいで地面すれすれまで傾いた荷車と、そのすぐそばでうんうん唸っている男たちを見た。
ロープは彼らの足元でとぐろを巻いている。
ロープの角度。
車輪の沈み込み。
溝の深さ。
荷車と馬の重さ。
リルテは、もう一度ロープを引いている男たちを見た。
肩幅が広く、腕も太い。
だが、一人は息が上がっている。
……もっと離れなくては。
「引く場所が荷馬車と近すぎます。もっとロープを伸ばして、荷馬車のまっすぐ前で引いてください」
「!」
ぎりぎりとロープを引いていた男が、ぎょっとした顔で振り返った。
「なんだ、てめぇ」
「が、ガキ!?」
リルテはロープの余りを見た。
地面に膝をつく。
がりがりと砂地に式を書いた。
「出ました。そこから三メートル後ろ。位置は……ここです」
水脈を探すときのように、歩幅で距離を測って、リルテは計算した場所に立った。
「馬が、苦しそうですから、皆さん急いで……」
呆気にとられ、不審そうな顔を見合わせるロープを握った男たちの後ろから、さっき怒鳴り散らしていた男がのしのしと歩いてきた。
「おい、お前。そこで起こせなかったらどうする」
「皆さんの力を強く考えすぎたということなので、もう一度計算します」
「なんだと!?」
「……てめぇら、引いてみろ」
色めき立つ男たちは、怒鳴り散らしていた男にひと睨みされ、ロープを握り直した。
そして、リルテの示した場所で腰を落とす。
その途端、荷馬車がぎぎっと軋んだ。
「引け」
傾いた荷車が、持ち上がった。
さっきまで腰を落とそうが、千切れそうなほど腕に力を入れようが、全く動かなかったのに。
「起きた……!」
信じられない面持ちで、ロープを握った男たちが起きた荷馬車を見つめていた。
リルテは立ち上がり、急いで馬のほうに駆けた。
脚は、折れていないようだ。
ほっと息を吐くと、背中に声がかかった。
「大したもんじゃねぇか。こいつは息子が目ぇかけてるやつだ」
男が背を叩いた馬がぶるぶると鳴いた。
「何より大事な商売道具でな。最近はヴルカンも雨が降らねぇってんで、馬が値上がりしてやがる。商売あがったりになるところだった」
「怪我もしていないみたいで、よかったです」
馬は、つぶらな目を閉じて、リルテに鼻面を寄せた。
「いくらだ」
「いくら?」
「駄賃が欲しいんだろうが。吹っ掛けたらただじゃおかねぇが、明日の飯代くらいならやってもいい」
「い、いえ僕は」
リルテは言い淀んだ。
ただ、馬の悲鳴を聞いていられなかったし、困っているようだったから計算をしただけだ。
そう言って、この男は分かってくれるだろうか。
「早く言え。それとも……何か企んでやがるのか?」
黙っていると、男の気配が段々尖ってきた。
慌てて首を横に振る。
「明日のご飯代は、あります。でも、もし何かいただけるのでしたら、僕でも働ける場所を教えてもらえませんか?」
「あ? 乞食が働く……」
男は、言いかけた言葉を切って、飲み込んだ。
ギラリと光った目が、リルテを値踏みしていた。
「見ねぇ顔だと思ったが、仕事を探してここに来たのか?」
そういうつもりではなかったが、また山に戻って鉱石を採取し、換金し続けるのは難しいと思ったのだ。
「歩いているときに、働き手を募集している紙を見たのです。でも、年齢が足りない。僕は、働いてお金を稼ぎたい。だから、僕の歳でも働けるところを教えていただけませんか?」
男の眼は赤かった。それが、リルテの銀の瞳を注意深く、鋭く探っていた。
「残念だが、そもそも、この街はよそ者を受け入れない」
「!」
「店にも、闇店にも、そう言ってある。乞食に飯を食わせるな。寝床を貸すな。雇うな。拾えば、あとで面倒になるからな」
「そんな……」
リルテはがっくりと肩を落とした。
この街にいられないということは、別の街を目指さなくてはいけない。
しかし、準備ができない。
「だが、別のところなら、年なんて関係なく、いくらでも働き手を探している奴らを知っている」
「本当ですか」
「ああ。本当だとも。お前は幸運さ。俺はそういうやつらに人間を斡旋する仕事をしている。連れて行ってやるよ」
そういう商売があるのか。
働き手を探している人に、人を紹介する。
村では誰かが困っているとき、総出で助けに行ったが、街では商売にできるほどの需要があるのかもしれない。
大きな荷車を引いているし、男たちは屈強だ。
何か重たい物資を運ぶ仕事かと思っていた。――体力や腕力を求められるような。
世の中にはいろいろな仕事がある。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「明日の朝には出発する。載せていってやるが……」
男は顔をしかめ、フンと鼻を鳴らした。
「身体は洗ってこい。おい、お前が付いていけ。――必ず連れて戻れ」
男は、ロープを引いていた男の一人を呼びつけると、顎で湖のほうを差した。
「なに。何処で生きようが、今以上悪くはならねぇさ。乞食のガキ」
「行ってきます」と頭を下げて湖に向かったリルテに、男のつぶやきは聞こえなかった。
この辺りで入れ、と言われた木の陰で、リルテは着ていた服を脱いだ。
何せ、ずっと着たままだったから、リルテの身体の形に繊維が縮んでいて、とても一人では脱げず、一緒についてきた男に手伝ってもらった。
リルテは水辺に立った。
足先を伸ばして浸す。
冷たい。
しゃがみ込み、水の中をのぞき込むと、細い葉がゆらゆらと漂っているのが見えた。
苔草だ。
手を入れ、引き抜く。
それを丸めて、再び水に浸した。
腕をこする。
はがれた泥が、白く水面を汚す。
続いて足。そして、胴。
ゆらゆらと揺れる暗い水面に、白い道が細く伸びていく。
きりがない。
リルテは湖に入って身体を水の中に沈めた。
川のような冷たさではない。
入っているうちに慣れる。
とにかく苔草と手でこすって、汚れを落とした。
頭も洗った。
立ち上がり、ぶるぶると振って水を飛ばす。
身体が軽くなった気がした。
ふと顔をあげて、リルテは星々の中に立っていることに気付いた。
ひゅうっと、喉が鳴った。
いつからだろう。
天候を観測し、沢の位置を計算する以外で、星を見ることをやめていた。
村を出て三日経ち、四日経ち。
日が落ちて歩くのを止めたとき、どうしても考えずにいられなかった。
美しい煌めきの中に、よっつ、愛おしい星があったら、どうしよう。
面影を見てしまったら。楽しそうにさざめいていたら――。
リルテは水をかき抱いた。
星は逃げ、冷たさだけが腕に残る。
もう一度水に手を伸ばす。
星が粉々に砕けた。
「いかないで!」
ばしゃばしゃと水が跳ねる。
リルテは、全身で星の中に飛び込んだ。
その途端、腕を掴んで引き上げられた。
「驚いた。どうしたらこんな浅いところで溺れられるんだ」
木陰でリルテを待っていた男が、息を切らせながら咳き込み、口に入った水を吐きだした。
「さっきは急に何か地面に書き出して、荷馬車を軽くしちまうし。と思ったら、水浴びもろくにできないだと。ったく、変なやつ……」
言葉が途切れた。
男は口をあんぐりと開けて、リルテを凝視した。
土と砂を落とした髪は、月光を弾くような銀色だった。
男は息を呑んだ。
「瞳の、色……」
服を脱がしているときは鈍い銀色にしか見えなかったはずだ。
だが、水を滴らせながら草の上に立つリルテの瞳は、薄紫色に輝いていた。
男は口を開けたまま、しばらく目を逸らさなかった。
「あ、洗い終わったなら、ふ、ふ、服を着ろ!」
男は、まごつきながら木の下に駆け戻り、リルテが抱えていた包みを乱暴に押し付けた。
「ありがとう、ございます」
リルテは両の手の甲で顔を拭うと、包みを開いて服を着た。
乾いていない体に、薄い布地が張り付いた。
気持ち良くはなかったが、仕方がない。
急に距離を取るようになった男に首をかしげながら、戻りましょう、と言葉をかける。
もう、湖面を見なかったし、空も仰がなかった。
無事を信じ、祈る気持ちは、星々が伸ばす手が届かないところに、隠しておきたかった。
馬車があった場所へ戻ると、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
人が増えているうえ、揃いもそろって逞しい。
大人たちが、遠巻きにリルテを囲んだ。
リルテは、泥だらけの服を抱いて、どきどきと騒ぐ胸の上に押し付けた。
「なんて上玉だよ。なぁ?」
その輪を割って、男が近づいてきた。
リルテを働ける場所に斡旋してくれると言った男だ。
街の決まりも、彼が作っていると言っていた。
街長か、まとめ役なのだろう――
「!」
急に鼻が触れそうなほど顔を寄せられて、リルテは思わず後ずさりした。
向きを変え、角度を変えながら、男は構わず、リルテの瞳をのぞき込んだ。
「銀色だな……本当に紫だったのか?」
「嘘じゃないです! 見たことねぇほど光って、俺はたまげたんだ!」
水辺まで付いてきた男が喚く。
男はしばらく唸り、ふん、と鼻から息を吐きだすと、身体を起こした。
「まぁいい。紫なんて目玉、この国じゃ見たことがねぇからな。添え書きに、水に沈めたら紫に光ったとでも書いとけ。あいつらはそれだけで値を釣り上げて飛びついてくる。何より、上玉だってことに変わりはねぇ。よし。てめぇら、ミダスに戻るぞ!」
その声に、輪になっていた男たちがどよめく。
「ミダスに働けるところがあるのですか?」
「お前、本当に鈍いガキだな。まぁ、乞食ならそんなもんか」
男はリルテにもう一度顔を寄せて、舌なめずりをした。
「農園じゃ安い。お前の顔は金になる。だから競りに出す」
「競り……?」
首をかしげたリルテを、男は蔑んだ目で見た。
「そこで、仕事をもらえるんですか?」
「知るか。お前を買ったお貴族様に直接訊け」
「貴族……」
「今回は枢機院が絡んでるらしいからな。少なくとも乞食よりはいい暮らしだろうよ」
「親父!」
リルテを囲んでいる輪の中から、叫ぶような声が上がった。
「ヴルペ。遅い。何をやっていた」
「聞いたぞ。荷馬車を起こしたやつを奴隷市に出すって」
逞しい男たちをかき分けて出てきた少年の姿に、リルテは息を飲んだ。
「市には出さん。ちょっと頭がありそうだから、直接売ろうと思ったが、見ろ。こいつは競りだ」
男が笑い出しそうな声で言った。
少年が男の示す先に首を巡らせた。
首を傾げ、頭からつま先まで視線が往復し、リルテが着ている服に釘付けになった。
「お前……」
「なんだ。知ってるのか?」
「…………知らねぇ」
少年は、視線を剥がし、男に向き直った。
「知らねぇけど、今日、街で見た。掏った水晶、鉱物商に売りつけててな。目利きだぜ」
「手癖がいいのか。なるほどな。そりゃ昼飯代はいらねぇな」
「なぁ親父。助けてくれたやつだろ? 奴隷は勘弁してやれよ。うちで使ってやればいいじゃねぇか」
「あ?」
上機嫌だった男の顔が、曇る。
「なんだ、てめぇ。肩持つじゃねぇか」
「別にそんなんじゃねぇよ。親切を仇で返すのは、いつか自分に返ってくるって、母さんが……」
「――じゃあ、てめぇが代わるか?」
少年が、凍り付いた。
男は、どろりと濁った眼で少年をねめつけた。
「いい加減、変な天気のせいで手取りが減ってんだ。うちに口を増やす余裕はねぇ。コソ泥は一人いれば十分だ。てめぇが売り物になるか?」
「……!」
「まぁ、てめぇじゃ市に並べて二束三文がせいぜいだろうがな」
少年はぶるぶると小刻みに手足を震わせ、俯くと、男たちの輪の向こうへ再び駆け去った。
「生意気なガキが。俺に意見するんじゃねぇ」
ぴんと張り詰めた人垣から視線をそらして頭を掻くと、男はもう一度リルテを見た。
「お前が働けるところに連れて行ってやる。それは嘘じゃねぇ。だがうちは奴隷商だ。俺のやり方で連れて行く」
奴隷商。
初めて聞く言葉だった。
師の本棚まで走っていけない以上、想像で補うしかない。
商人ということは、売買をする。
市。競り。これは、売買の形態だ。
人が集まって売買をする。
男は「市に並べて」と言っていた。
少年は、それを聞いて表情を変えた。
――てめぇが売り物になるか?
「そういう巡りあわせだったと諦めろ」
男が指示すると、先ほど起こした荷車の幌が開かれた。
内から、大きな檻が現れた。
リルテは息をのみ、一歩後退した。
「ここに、入るのですか?」
「そうだ。いつもは隙間もないが、ちょうど全部下ろしたところだ。仕入れはまた次でいい。一人で運ばれるのはお前が初めてだぞ。良かったな」
ぎいいと不快な音を立てて軋みながら、鉄格子の入口が開いた。
右。
左。
後ろ。
屈強な男たちが、隙間なく立って、こちらを見ている。
顎で示されるまま、リルテは檻の中に入るしかなかった。
再びぎいいと鳴って、扉が閉められ、鍵がかかる。
「なに、俺は仕事に誠実でな。商品に傷はつけねぇ。その腕と足の傷に塗る薬も分けてやる。ミダスまでおとなしく寝ていればいい」
檻の周りの幌が、目隠しをするように下ろされた。
闇に閉ざされたそこで、どうすることもできず、リルテは檻を背にしてずるずると座り込んだ。




