3部 - 1「水晶と銀貨」
踏みしめた地面から立ち昇る土の匂いを、胸の深いところに吸い込んだ。
仰いだ空が、遠い。
ざわざわと葉擦れの音が鳴り、聞き慣れない鳥の声がする。
ヴァレンタイン師の書庫で開いた本に描かれた景色は、このような音がしたのか。
匂いがしたのか。
リルテは、初めて見る木の幹に触れ、石を拾い、村の周りにあったそれらとの違いを見つめながら歩いた。
老人と別れて、さらに二日が経った。
相変わらず獣の縄張りには注意しなくてはならなかったが、山の様相が変わった。
樹木も多くなれば、荒らされていない場所を見つけるのも容易になる。
色づきかけた杏や、桑の黒い実をもいで、噛んだ。
広がる酸味の中に、確かな甘さがある。
頭ははっきりとするようになったし、何より手足に力が入った。
羊乳草を見つけたときは、火を熾し、煮て食べた。
温かく胃に染みて、その夜は少し、眠れた。
結局、ウサギは狩れなかった。
鳥も。ネズミも。
老人からもらった薬を試そうにも、獲物に摂らせる手だてが無かった。
目が合えば、やはり刃を持つ手が動かなくなる。
リルテは、諦めて短刀を皮袋にしまった。
木の実と太った草の根があれば、山を下りるまでは何とかなる。
薬をまぶされた干し肉は、地中に埋めた。
イノシシに掘り起こされないよう、熊がこすりつけた跡のある木の皮を剥がして、その上にかぶせた。
そうしてもう一日歩き、尾根を越えた。
視界が開けた。
「……街だ」
灰色の石壁。赤や黒の瓦。
空の青を映した大きな湖に寄り添うように立ち並び、人々の営みが突き出た煙突から立ち上っている。
しばらく身動きも忘れて、リルテは眺めた。
次第に、景色が歪んだ。
温かいものが顎先から落ちる。
リルテの肩を抱いたイオセフの指先を辿り、闇を抜けた。
着いた。と思った。
急に背中を押されて、たたらを踏んだ。
驚いて振り返った。
誰もいない。
尾根を渡り、リルテを追い越して行く風の仕業だ。
リルテは腕で目をこすった。
まだ、行かなくては。
足を踏みしめ、背筋を伸ばし、前を見る。
そして、再び土を踏みしめ、歩き出した。
「触るな! 乞食が!」
台に伸ばした手を叩かれそうになって、リルテは飛び退った。
ごった返す人とぶつかりそうになりながら、追いかけてくる怒声から逃げ、荷車と荷車の間に身体を押し込んだ。
街の入り口を潜ったときから、人々はリルテを見て眉をしかめた。
近づこうとすれば逃げられ、店先に立てば手を振って追い払われる。
「汚い」
その一言で、リルテは自分の姿を見下ろした。
砂と土と泥。汗や血を吸い込み、岩や木の枝で裂かれた衣服は、ぼろきれのようだった。
だが、砂嵐の村では、どれだけ汚れていても大人たちに追い立てられることはなかった。
これほど強く拒絶されたのは初めてだった。
リルテは震える手を握りしめて、胸に押し当てた。
服を買い、宿で湯を使わせてもらわなくては。
だが、銀貨がなかった。
リルテは首を巡らせて、店を見た。
村では、必要なもののほとんどを、別のものと替えた。
だが、時折やってくる行商には銀貨が必要だった。
その銀貨は、イオセフが山で採った鉱石や、狩った獣の毛皮を渡して得ていた。
村の外では、銀貨で物を買う。
それは、覚えていた。
皮袋の水晶を取り出す。
毛皮はないが、空腹が収まった頃、寝床にと潜り込んだ洞穴で、いくつか折り取った。
店で出して、交換してもらおうと思っていた。
だが、店先で見せても「汚いものを寄越すな」と誰も見向きもしなかった。
一人が、「うちは鉱物商じゃない」と言った。
訊き返そうとしたが、追い払われた。
鉱物商。
鉱物を扱う店があるのだ。
店ならば、どこでも銀貨に換えてもらえると思っていた。
リルテは、自分の思い込みを恥じた。
まず、鉱物商を見つけなければならない。
身を縮めて、人を避けながら、リルテはそれを探した。
だが、店の扉に手をかけただけで怒鳴られる。
扱っているものが見えるのは、道端の露店しかなかった。
鉱石を置いているところ――あった。
「あの……」
茣蓙に石を並べている男に、リルテは恐る恐る声をかけた。
「水晶を、銀貨に換えてもらえますか?」
男はリルテを頭の上からつま先まで舐めるように見て、黙ったまま手を出した。
ここに置け、ということか。
リルテは皮袋から水晶を出して、肉厚な男の手のひらに載せた。
つまらなそうに水晶を一瞥した男の眉が、跳ねる。
しかし、男は表情を消すと、それを足元に置き、リルテに向かって手を振った。
「ガラクタを持ち込みやがって。失せろ」
「いいえ。本物です」
リルテは首を傾げ、男をまじまじと見つめた。
「ガキに何がわかる。これは硝子だ」
「いいえ。水晶です」
膝をつくと、リルテは手を伸ばし、男の足元から渡した水晶を拾い上げた。
そして、手のひらの中にぎゅうっと握り込んだ。
「こら!」
「まず、こうやって触れたときの冷たさ。それから」
水晶の両端を指の腹で押さえて、男の目の前に翳した。
「見てください。綺麗な六角柱の形です。それに、硝子に見られるような気泡もありません」
男は頬を引きつらせ、唇を戦慄かせた。
リルテは息を吐いた。まだ信じてもらえないのか。
仕方なく、皮袋から短刀を取り出す。
男が怯んだ。
「な、なにを」
「こうして刃を当てても」
「なっ、お、おい! やめろ!」
リルテは躊躇わずに刃を引いた。
刃が石の表面を滑り、耳障りな音を立てる。
「ひぃっ! 何てことを!」
リルテは表面に残った跡を指で拭った。
金属の粉が落ち、その下には溝ひとつ残っていない。
「傷はつきません。やはり、水晶です」
ヴァレンタイン師の書庫で読んだ鉱物誌に、すべて書いてあった。
リルテは短刀をしまい、男がよく確かめられるよう、水晶を足元の茣蓙に戻した。
これで、信じてもらえるだろう。
だが、男は顔を怒りで真っ赤にして立ち上がった。
「き、きさま……! 乞食ごときが偉そうに……!」
あ、と思ったときには男の身体がリルテの上に迫っていた。
振り上げたこぶしがリルテの上に落ちる。
ぎゅっと目を閉じて手で頭をかばう――が、いつまでも衝撃はやってこなかった。
リルテは恐る恐る腕を下ろし、顔を上げた。
「見苦しいぜ」
目の前に、誰かの背中があった。
そして、白い袖口から伸びた細い手が、男の腕を固く掴んでいた。
「見てたけどよ、完敗じゃねぇか」
「くそっ、またガキか……」
「へぇ、そんな口きいていいと思ってんのかよ……」
ぎり、と力を込めて男の腕をねじり上げたとき、顔が見えた。
短い黒髪、吊り上がった黒目。
自分と同じ年頃の、少年だった。
日に焼けた肌に、剥き出した白い八重歯が光る。
「初めて見る顔だな。誰の許しをもらって店を出してる?」
男の顔色が変わった。
「――親父に言われたくなきゃ、こいつにちゃんと銀を渡せ。なに。オレが告げ口しなくても、もうじきこの辺りは兄貴たちが見回る。見つかって自分が売りものになるのがいやだったら、別の場所で商売するんだな。もっとでかい街に行けば、その水晶もいい値になるんだろ」
苦虫を噛みつぶしたような顔で、男は銀貨を掴み、少年に突き出した。
「本物の水晶がこれっぽっちかよ」
男は目を怒らせて、銀を増やした。
「オレじゃねぇだろ」
「……」
地面に尻もちをついたままのリルテに、投げつけるように銀貨を渡すと、男は茣蓙の上の石を集めてずた袋に入れ、水晶だけはポケットに入れて去っていった。
「あの、ありがとう。すごいね」
「別にすごくねぇよ。言い負かしたいときは、腹に力入れて、どんな嘘でもはったりでも、はっきり言ってやる。それだけだ」
「そうなんだ。ねえ、なんだかたくさんもらったけど、良かったのかな」
「はあ? 相場も知らないで換金しようとしてたのか」
「本には、ものの価値の分、お金をもらうことが換金だって書いてあったよ」
「そんな馬鹿正直なやつ、どこにいるんだよ」
腰に手を当てて、少年はリルテを覗き込んだ。
「変な奴だな、お前」
「変?」
「普通、騙し取られそうになったら、怒るだろ。それか、別の店に行く」
「騙されそうだったの? 僕」
リルテがぱちぱちと目を瞬かせると、少年はおかしなものでも見たような顔で口の端を歪めた。
「一体どこで暮らしたら、そんなおめでたい頭で生きてられるんだよ」
「えっと、山で……僕、今日、初めて街に来て……」
「いい、いい。別に興味ねぇよ。それより」
顔の前で手を振った少年が、急に声を潜めて、リルテの耳に口を寄せた。
「あれ、本当に本物の水晶だったのか?」
「うん。本物だよ」
「鈍くさいのに、やるじゃねぇか。何処で盗ったんだ。掏ったのか?」
「えっと、山で採ったんだ」
リルテが正直に答えると、少年はつまらなそうに鼻を鳴らし、「そりゃ言わねぇか」と呟いて肩をすくめた。
ふと、少年が着ている鹿の皮の上着に、砂がついていることに気がついた。
「そこ、汚れてる。さっきかばってくれたときについたのかも」
「ああ。別に払えばどうってことねぇ。お前は自分の格好をどうにかしろよ」
「うん……君のおかげで銀貨が手に入ったから、服を買うよ」
リルテが立ち上がり、尻もちをついたときに付いた砂を払うと、もうもうと土埃が舞った。
払っただけでは、もうどうにもならない。
でも、汚れを落として着替えれば、きっと避けられることもなくなる。
少し元気を出したリルテを、少年は笑った。
「お前、店の中に入れてもらえねぇだろ」
「え……? 銀貨を持っていても?」
「無理だな。この街の奴らは、乞食を嫌ってる」
リルテは、乞食ではないと言いたかったが、この身なりを見た誰もが、リルテを乞食と追い払った。
少年にも信じてもらえないだろう。
「そっか……じゃあ露店で」
「食いもんや、石じゃねぇんだぞ。服なんて闇店で売るかよ」
「闇店?」
「許可取ってねぇ店だよ。今の奴みたいな。闇店は、親父に見逃してもらってるだけだ。好き勝手に物は置けねぇ」
リルテはぎゅうっと小さな銀貨を握りしめた。
銀貨が手に入っても、服は買えないのか。
一体どうすれば……
悄然と肩を落とすリルテを見て、少年はにやりとした。
「オレが買ってやる」
「え」
目を瞬かせたリルテに、少年は胸を叩いてみせた。
「来い。店の前で待ってろ」
言うが早いか、少年は踵を返して歩き始める。
――なんて親切なんだろう。
「早く来い!」
「うん!」
リルテは、急いで少年の背中を追った。




