2部 - 2「死にたがりか」
騒ぎ、乱打する胸を抑えながら、リルテはもう一度その姿を見た。
上から下まで、いくら絞っても水が落ちていた。
「あ、あの!」
リルテは急いで上着を脱いだ。そして老人に差しだした。
「汚れてはいますけれど、濡れていませんから、着てください」
「……」
「洞穴では火を焚けませんので」
「要らぬ」
鋼のような声だった。
リルテは喉を縫われたように黙って、後ずさった。
さっき座っていた壁の前で尻餅をつき、膝を抱える。
老人はさっさと服を脱ぎ、岩の上に広げた。
ズボンも濡れているだろうが、それは脱がなかった。
片足を投げ出して座り、呪詛のような言葉を吐きながら、時折、白いふさふさしたものを噛んだ。
じっと見るのは失礼だ。
だが、気になる。
リルテは、膝に顔をうずめるふりをしながら、老人の恰好に視線を走らせていた。
痩せていながら、筋肉のついた上半身。
ところどころ破れた、生地の厚そうな上着とズボン。
四隅がほつれた革製のカバン。
そして底の厚い、厳つい靴。
何よりその身体から、あまり嗅いだことのない臭いがリルテの方まで漂ってくる。
このにおいは……
「観察は終わったか」
リルテはぎくりと強張った。
老人の目が、鋭く、細く光っていた。
飛びかかってくる気配は、ない。
なのに、喉元に刃を当てられているようだった。
逃げた方がいい。
そう思うのに、身体が動かなかった。
「っ……」
「どこから来た。こんなところで、ガキが一人で何をしておる」
投げ出した足を何度もさすりながら、老人が言った。
低く平坦な声に、リルテは輪切りにされたような錯覚を覚えた。
「北の、村から、来ました。山を、下りようと思って」
「何をしに」
「街へ……」
「答えになっておらんな」
「……」
心臓を縛られるような緊張感に、話しているのか、喘いでいるのかわからなかった。
老人は顔をしかめて、また白いふさふさしたものを齧った。
猛禽の眼は、変わらずリルテを注意深く値踏みしていた。
老人が白いものを噛むのを見ていると、ぐう、とリルテの腹が鳴った。
「あ、ごめんなさ……」
「……飯の調達もろくにできんのに、何も持っていないのか。舐めたガキじゃ。死にたがりか」
がつんと殴られたようだった。
何も返す言葉が見つからず、リルテは奥歯を噛んだ。
「沢はあったか」
「……え?」
「お前が来た道に、水のある沢はあったかと訊いている」
「あ、一日、歩いた、ところに」
「遠い。クソ……」
老人はまた呪詛のような言葉を吐き散らしながら白いものを忌々しそうに噛んだ。
リルテはその剣幕に言葉を続けることもできず、ただ身体を縮めた。
水が必要だというならば、この先に小さな岩清水があった。
水量はほとんどなかったが、飲み水くらいにはなる。
だが、「沢」と言った。
この老人は本当に水を求めているのだろうか……。
老人は足元を見つめていた。
不意に、リルテへ視線を向ける。
「ただ教えてもらうのは良くないな」
「……?」
老人は腰にぶら下げていた皮袋の口を開けると、中身をつまみ出し、リルテの方に放った。
目の前に飛んできたそれを、リルテは掴んだ。
「干し肉……!」
「腹が減っているんじゃろう? 礼じゃ。食え」
「いえ、僕は……」
じわりと口の中に唾液が広がり、喉が鳴った。
胃が、目の前の肉を求めて、痙攣する。
だが、深く息を吸った瞬間、リルテの敏感になっている鼻腔を、僅かに刺すような臭いがかすめた。
ハッとした。
肉を見た。
よく見ると表面に細かな粉がまぶされている。
乾燥した肉から滲んだものでは、ない。
頭の中で激しく警鐘が鳴っていた。
ヴァレンタイン師に教わった痺れ薬が、このような臭いだった。
リルテは目を瞬かせ、顔をあげた。
そして、洞穴の外を見ている老人に、慎重に訊いた。
「……あなたは、食べないのですか?」
「わしは、肉を食わん」
「……そうですか」
リルテは頷いて干し肉を皮袋に入れた。
「後でいただきます。実はさっきカニナの根を食べたので、空腹で本当に耐えられなくなった時に」
「……そうか」
老人が興味をなくしたように、雨空から視線を剥がした。
再びリルテの方に向き直る。
(……この老人は、自分を動けなくしようとしている)
心臓が走り、息が上がる。
山中に一人でいる子どもを警戒するのは分かる。だが、何も持っていない、舐めたガキだと笑った相手を、なぜ動けなくする必要があるのか。
理由が分からないことが、何より怖かった。
リルテは、細く浅く、呼吸を繰り返しながら、注意深く老人を盗み見た。
老人は億劫そうに座り直して、伸ばした足を撫でながら、白いものを噛む。
白い、ふさふさした、キノコのような……。
「!」
リルテの脳内に、雷が走った。
どくんどくんと鳴る心臓を抑えて、恐る恐る口を開いた。
「あの。この先の沢は、乾いていて、草はほとんど生えていませんでした」
「なに?」
「足を、悪くされていたんですね」
老人の目が今までと比べ物にならないくらい、鋭く底光りをした。
「……何を根拠に」
向けられる視線だけで、首の後ろに汗が伝う。
リルテは声を励ました。
「その白いものが麻酔タケだと思い出しました。生で齧れるとは教わりませんでしたが」
「……何をいつ齧ろうが、勝手じゃろうが」
「もちろんです。でも、足をずっとさすっていらっしゃいますし、左の靴だけが、引きずったように汚れています」
老人は、かすかに左足を己の方に引いた。
「麻酔タケはすぐ効かなくなるそうです」
「……」
「だから、あなたは沢に生えている草を……痛み止めの草を探しているのではないですか」
老人は俊敏な動きで跳ね起き、低く構えた。
だが、重心は右足に偏っていた。
「――そうじゃ、と言ったら、貴様はどうする」
ぐるぐると低く唸る飢え熊の声が、耳の奥に蘇った。
(足を引きずっていたら、逃げ切れない!)
「探します!」
リルテは叫んだ。そして、がばと地面に這いつくばった。
手近にあった石灰石を鷲掴みにすると、爪に土が入るのも構わず、砂に覆われた地面を猛然と削り始めた。
カチカチと石が鳴り、地面に緻密な数式と幾何学的な図形が、恐ろしい速度で書かれていく。
沢を探しながら、リルテはいつものように山の傾斜を測り、風向きを確かめ、地層を見ていた。
ここまでに覚え、溜めてきた断片的な情報が、リルテの頭の中で一本の鎖になっていく。
きっと、この老人には薬草の知識がある。
干し肉の痺れ薬もそうだし、全身からそういう臭いがしている。
探している薬草が生えていれば――
「出ました! 北西に約三キロ行ったところに、沢があります! ここなら……」
「……」
リルテは肩で息をしながら、顔をあげた。
老人は、すぐそばにいた。
黙って、ただ地面の数式だけを見ていた。
たらりと落ちてきた汗が目に入りそうになって、慌てて袖で額をぬぐった。
腕をどけると、目が合った。
その眼は、リルテの銀色の瞳をひたと見据え、底まで攫うように探っていた。
ふいに、老人の右手の中に針の先が覗いていることに気づいた。
首を傾げると、老人は顔をしかめ、小さく瞬きをして、それを腰元につけた鞄にしまった。
「――忌々しい雨が止んだら行こう」
老人は、洞穴の外に目をやった。
いつの間にか、雨脚が弱まっていた。
「……! はい」
どうかこの計算が老人の役に立ちますように。
今度こそ、過たず。
リルテは、願いながらうなずいた。
厚い雲の隙間をこじ開けて西陽が差すのを見て、リルテは穴から這い出した。老人に向かって手を差し出す。生意気だと言って、老人はリルテの手を取らなかった。
「沢まで一緒に行きます」
「不要」
老人はきっぱりと断った。
「さっきの案内で道はもうわかった」
「でも、もし……」
「自惚れるな、小僧」
老人は鼻を鳴らした。
猛禽を思わせる瞳が、まっすぐにリルテを見ていた。
「わしは、お前の落書きなど鵜呑みにしておらん。だが、行くと決めた」
「……」
「沢に草がなければ、決断したわしの責任じゃ。来たところで、お前に負わせるものなどない」
老人はそこで話を切るように、乾いていない上着を払った。
リルテは、息を吐き、深く吸い込んだ。
全身に、空気が巡るのを感じた。
「山を下りるのではなかったか。行け」
「……分かりました」
リルテは素直に頷いた。老人は足をさすって、顔をしかめた。
枝から落ちた雫が、リルテの鼻先に落ちて、弾けた。
老人の視線が、早足で去っていく灰色の雲を追いかける。
「わしの見る限り、この地に雨雲が湧くはずなどなかった。やはり天象そのものが狂っておる。――『王威』を持つ王がいなくなって、久しいからな」
「『王威』?」
訊き返したリルテに、老人は空を見たまま答えた。
「昔の話じゃ」
雲はほとんど退散し、傾いた陽が再び酷烈な輝きを放って空にいた。
「あんな雨はもう御免じゃわ」
何度目とも知れない、忌々しげな舌打ちを聞いたリルテは、空を見て、目を閉じた。
「大丈夫でしょう。明日は晴れます」
「……なぜ分かる」
「――観測しました」
老人は顎を引いたが、開きかけた唇を結んだ。
節くれだった指で腰元の鞄を探り、掴んだ小さな薬瓶をリルテに差しだす。
「餞別じゃ」
「これは、何ですか?」
「獲物を眠らせる薬じゃ。眠らせてから狩れ。鈍いお前でも、それならできるだろう」
「……」
できる、だろうか。
「常々うちの連中にも言っている。生きたければ、他人の命を貪り喰ってでも生き延びよ」
リルテは両手で透明な液体が入った細い首の小瓶を受け取った。
「……ありがとうございます。お元気で」
「死ぬなよ、小僧」
老人は左の足を引きずりながら、沢への道を進み始めた。
その背中を見送って、リルテも山を下る道へ向かった。
土の匂いが地面から立ち上っていた。
松の葉に載った小さな雫が、夕日を閉じ込めて、きらりきらりと輝いていた。




