2部 - 1「村には降らない雨」
尾根を辿り、乾いた谷底を抜け、リルテは南に向かって歩き続けた。
春先の乾いた強い風が、小石を飛ばしながら吹き荒れる。
革袋を顔の前に掲げて、視界がなくなるのを防いだ。
だが、砂礫は、リルテの薄汚れてしまった服を痛めつけ、腕も足も、容赦なく傷だらけにした。
山は、本来なら、雪解け水が岩陰から溢れ、清水が川を下っている季節だ。
けれど今年は、谷にも沢にも、水音がなかった。
ヴァレンタイン師と歩いた時とは、まるで別の景色だった。
村を出てから四日が経った。
イオセフに渡されたウサギの肉は、二日で食べきってしまった。
もっとゆっくり食べるつもりだったが、峻険な岩場を歩くには、一口、二口齧っただけでは、とても体力がもたなかった。
リルテは食糧を求めながら歩いた。
だが、乾ききった山ではそう簡単に食糧は手に入らなかった。
岩間の草を千切って噛むだけでは、到底足りない。
眩暈に加えて、手が震え始めた。
岩の裂け目に滲んだ白い塩を舐める。
酷い味だったが、震えは少し収まった。
夜は、早めに洞穴か、岩陰にもぐりこんだ。
冷たく硬い寝床では、とても身体は休まらない。
でも、太陽が身を隠すだけで、体力の消耗は随分ましになった。
深く息を吸う。
虫の音が、耳の奥にコロコロと転がる。
リルテは岩に座り、力強く輝く星を見た。
歩きながら山の傾斜角を測り、暗算していた。
それを元に、乾いた土に、計算式を書いた。
「半日歩けば沢に行ける」
沢の在処を探る計算は、今のところ、誤っていない。
水量にばらつきはあったが、水に困ることはなかった。
とにかく、食べるものが欲しい。
岩の隙間から染みる水に手を当てて、顔をぬぐう。
こびりついた砂は取れないが、少し皮膚が軽くなる。
膝を抱えて、破れた靴の先に視線を落とした。
輪郭を侵すように四肢へ纏わりつく暗闇と、しん……と膨張する静寂の中に何かを見つけそうになるたび、リルテは、空を見上げた。
星々が、リルテを見ていた。
急いでまた、顔を俯ける。
星が増えている気がした。
きつく目を閉じ、岩に身体を横たえた。
眠れない。
リルテは抱えた膝を胸に押し付けながら、地上に手を伸ばす無数の煌めきの中に、知っている名前がないことを、ひと晩中願った。
翌日、岩場でウサギを見つけた。
奥歯の外に湧いた唾を、ごくりと飲み込んだ。
追った。
行く手に現れた松林に入ると、リルテは茂みに身を潜め、短刀を構えて狙いを定める。
跳躍力と動き出すタイミングを慎重に観察し、浅く呼吸しながらとびかかる時を図った。
『いいか、リルテ。命をもらうときは決して目を逸らすな』
ウサギの赤い目と、リルテの視線が絡んだ。
『まっすぐ目を見て、対峙した獲物が動きを止めた瞬間に、しとめる』
ぴょこぴょこと動いていた長い耳が、止まった。
今だ。
土を蹴り、短く腕を振って、首に刃を突き立てる――はずだった。
短刀を握った手が震えて、呼吸が乱れた。
次の瞬間、ウサギはリルテが計算した通りの軌跡を描いて低木の向こうに跳び去っていった。
「あ、ああ……」
まだら模様のウサギの丸い尻に伸ばした手が、空を切る。
またしても獲物に逃げられたリルテを笑うように、高いところで鳴く鳥の声を聴きながら、よろよろと足をふらつかせて、そのまま茂みの中に仰向けに倒れた。
「また、駄目だった……」
(……お父さんなら確実に仕留めるのに)
リルテは、イオセフに貰った短刀の柄を握る手に、力を込めた。
ぐうううっと腹が大きな音を立てる。
リルテは激しい眩暈を覚えながら、ぎゅっと唇を噛んだ。
「死ぬもんか」
力を振り絞って身体を起こし、木の内皮を剥ごうと、一本の油松に手を伸ばした時だった。
リルテは、凍りついた。
その幹には、彼の顔よりも巨大で、凄まじい深さの爪痕が刻まれていた。
バリバリと引き裂かれた樹皮からは、まだ新しい樹液が滴っている。
──飢えた熊の痕跡だ。
(……遭遇すれば襲われる。戦いになったら、勝てない)
慎重に避けていたというのに、ウサギを追うことに夢中になりすぎた。
心臓が早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに乾いて張り付いた。
足跡の泥は、まだ乾ききっていない。
後ずさったその時、風に乗ってぐるぐると唸る声が聞こえた。リルテは叫び出したい衝動を必死に抑え込み、音を立てないよう、姿勢を極限まで低くした。
自分の臭いが届かないよう熊の風下を進み、気配を殺して、貪欲な獣の縄張りから一歩一歩、死に物狂いで離脱する。
ようやく熊の気配がない茂みまで逃げ延びた時、リルテは足の震えを止められず、その場にへたり込んだ。
「はぁ、はぁ……っ、ここなら、なんとか……」
そのままばたりと倒れ、地面に伸びる。
頬に、手に、触れる土が、リルテの身体の熱を吸い取る。
心地よい湿り気と、立ち上る土の香り――。
「!?」
リルテは、はっと顔を上げた。
乾ききっていたはずの土が、冷えている。
風が変わっていた。
肌を撫でる空気が、生ぬるく重たい。
今度は、熊から逃げることに精一杯で、気付かなかった。
――雨の兆候だ。
空を見上げて、目を閉じた。
大雨が落ちてくる光景が、はっきりと観えた。
(おかしい……!)
リルテに観えるのは、その時、自分が立っている土地の空だけだ。
村を発つ前、あの場所で観た一週間先までの空には、雲ひとつなかった。
観えた天気が外れたことは、一度もない。
ならば、村はいまも晴れている。
村には降らず、山を一つ越えたここには、雨が降るのだ。
何度も確かめるように、リルテは辺りを観察した。
疲れが観せている幻であってほしかった。
だが、目に映るものはすべて、村で乞い、願いながら探し続けた、それだった。
「雨が、降る」
声に出した途端、唇が戦慄き、視界がじわりと歪んだ。
(この雨が村に降れば、みんな助かった。なのに、どうしてあの村には降らないんだ!)
「お母……さん……」
天候を自在に操れたなら――。
リルテは首を振った。
それはできるはずのないことだ。
泣いても仕方がない。
鼻の脇を伝う熱いしずくを指で弾き飛ばす。
夜はまだ冷える。
これ以上体力を削るわけにはいかない。
降り出す前に木の洞か、洞穴にでも移動したい。
立ち上がるのもやっとの足を励まして、リルテは岩の壁に向かって歩き出した。
ざあざあと雨が落ちていた。
洞穴の入口近くに、わずかに草が残っていた。
その中から泥ごとカニナの根を掘り起こし、雨水で洗って齧る。
干からびた口の中に、ほんの少し甘みが広がった。
霞がかっていた頭が、少しだけはっきりする。
砂塵混じりの雨が、山の匂いを洗い流していた。
今なら、熊も鼻が利かない。
ぽつ、ぽつ。
……この音は、入口ではない。
洞穴の奥からだ。
暗がりに目を凝らす。
まろやかに見える岩肌を伝って、白い雫が落ちていた。
「石乳だ」
リルテは掌で雫を受け、そっと舐めた。
跳ね続けていた心臓が、ゆっくり脈を打ちはじめる。
強張っていた足の力が、少し抜けた。
それでも空腹は消えない。
膝を抱えたまま、雨音を聞く。
空を雲が覆っても、眠れそうになかった。
だから、その気配に気づいた。
何の音もしなかった。
だが、洞穴の入口に、人影があった。
「なんじゃ、ガキか」
「!」
ずぶ濡れの男は、白いふさふさした何かを齧りながら、酷くゆっくりと中へ歩いてきた。
老人だ。
衣服を絞るその手は、木の枝のように細長く節くれだっていた。
陰になった顔の中で、両の眼だけが猛禽のように鋭い光を放っている。
彼が向かいの石壁に背を預けて座るまで、リルテは自分が呼吸を忘れていることに気づかなかった。




