1部 - 2「生きろ」
走って、走って、リルテは山を登った。
父の狩り小屋のそばまで来ると、大きな松の根元にへたり込んだ。
『悪魔』
息が苦しい。
涙すら涸れ果てた母の慟哭が、胸を串刺しにしていた。
飛び出してしまったけれど、戻って謝らなくては。
許してもらったら、紙を持ってきて、計算しなくては。
そう思うのに、リルテは少しも動けなかった。
どれくらい経っただろう。星は配置を変え、闇は深さを増していた。
黒い木々の向こうから枯草を踏む足音がした。
顔を上げると、革袋を背負ったイオセフが現れた。
「リルテ。ああ、ここに居たか。良かった。怪我はないか」
「お父さん……。お母さんは……」
イオセフは黙って、リルテの横に腰を下ろした。
沈黙を前にして、落ち着いていた呼吸が、また乱れた。
膝を抱え、ガチガチと鳴る奥歯を肩口に押し付けた。
「アディとノルが、死んでしまったら、どうしよう」
リルテは震えが止まらなかった。
父と母が待って、待って、待ち続けて、ようやくやって来た子どもたちだった。
ふたりが生まれたとき、一緒にたくさん楽しいことをするのだと誓ったのに。
「大丈夫だ。村で一番賢いリルテの弟と妹だ。簡単に死んだりしない」
「僕が……間違えたから……悪魔だから」
「馬鹿なことを言うんじゃない。お前は、俺と母さんの子だ」
「だけど、だけど……!」
リルテは激しく首を振った。
「……母さんが、リルテにごめんなさいと言っていたよ」
「え……」
「お前を傷つけるつもりはなかったんだ。酷いことを言ってしまったから、お前にこれをあげると」
イオセフが手渡してきた革袋には、よく焼かれたウサギの肉が半分入っていた。
ずっしりとした重みと、香ばしい肉の匂いを感じた瞬間、リルテは気づいてしまった。
(ああ、嘘だ……)
アディとノルのための乳を必死に求めているマリソルが、リルテに肉を譲るはずがない。
リルテは、革袋の口を、両手でぎゅっと握りしめ、胸に抱え込んだ。
「お腹、空いてないよ。そうだ。みんなで一緒に食べようって言ったら、お母さん喜ぶかな」
「母さんはもう寝てしまった。今日食べられないなら、明日食べなさい」
「……?」
「リルテ。お前はもう、家には帰れない」
弾かれたように顔を上げ、イオセフにしがみついた。
「ぼ、僕、謝るよ! お母さんが許してくれるまで、何度でも謝るから……! 計算だってもっとちゃんとする。次は絶対に間違えない!」
必死に言い募り、腕に縋るリルテの手を、イオセフはそっと包んだ。
「謝らなくていい。リルテ。お前は何一つ間違っていないのだから」
「でも! 水、出なかったんだよ! もう、もう時間がないんだ! 今は、計算しなくちゃ。絶対、正しい場所を出さなくちゃ。ね、お父さん」
「今夜も、また眠らないつもりだったのか」
イオセフは太い親指で、リルテの目の下をこすった。
「大丈夫だよ。眠くないんだ。一晩あれば、もう一度計算できる」
「そうして計算をして、ひと月後に水が枯れたら、どうする」
「もちろん、また計算するよ。今度こそ、枯れない大きな水脈を探す。僕がちゃんと当てれば、みんなは――」
「リルテ」
見上げた父は、背筋を伸ばしてまっすぐに座っていた。
眼差しには、一切の迷いも揺らぎもなかった。
「俺たちは、ずっと、お前が見つけた水に助けられてきた」
「僕、何度でも見つける……」
「いや。お前は水を見つけるために生まれた子じゃない」
イオセフは静かに首を振った。
「いつかは街に行かせたいと、母さんとも話していた。リルテ。お前はもっと広いところへ行くべきなんだ」
リルテは、指に力を込めてイオセフの服を握った。
「街なんか、今、行かなくていいよ……アディとノルは? 僕がいないところで、アディとノルが死んじゃったら、いやだ」
「まだ、二人は生きている。お前が二人を信じなくて、どうする」
「お母さんは? お父さんは?」
「ここで、やることがある」
「僕だけ……? やだ。やだよ。僕もここで一緒にいたいよ」
イオセフは熱く大きな腕を、リルテの細い肩に回した。
胸元へ引き寄せ、もう一方の腕を上げた。昏い木々の奥、山の向こうを指で差した。
「山を下りなさい。街ならば、水も、食糧もあるはずだ。何も準備してやれなかった。だが、向こうの峰まで、ヴァレンタイン師と歩いただろう。リルテなら、越えていける」
「……お母さんは、許してくれないの」
「母さんは怒っていない。辛いことに、少し負けてしまっただけだ。お前のことを嫌いになど、なっていないんだよ」
リルテは、脚を抱えた。膝の頭に顔をこすりつける。
『雨を降らせて』
それができたなら、どれだけ――
『悪魔』
光を失くした黒い目が、リルテに鍬を振り下ろす。
でも、マリソルの足元には、繕ってくれたズボンがあった。
こびりついた土ぼこりと汗で、ごわごわになった髪の上を、イオセフの掌が往復する。
乾いた風が枯れかけた木々の隙間を通り、リルテの千切れそうな心を容赦なく乱した。
「お前にリルテと名を付けたのは、母さんだ」
「……知ってるよ、僕。お母さん、何度も話してくれたよ」
「だが、ヴァレンタイン師が生まれたばかりのお前を抱えて、乳を求めて俺たちのところに来た時、お前には名前があった」
顔を上げたリルテを見て、イオセフはわずかに目を見開いた。
銀色の瞳の奥で、かすかに紫の光が揺らめいていた。
それはイオセフが知る、いつもの色ではなかった。
「――レーテー」
レーテー。
初めて聞いた四つの音を、リルテは胸の内でもう一度繰り返した。
その名が落ちたところから、小さな波紋がひとつ広がった。
「いつかお前が生みの父親と母親に会いたくなった時、この名前を辿るといい」
「……僕は、ずっと、リルテだよ」
幼い頃から、マリソルは何度もリルテを抱きしめた。
褒め、叱り、数えきれないほど励ましてくれた。
イオセフは家族のために山を駆け、獲物を狩った。
その大きな手は、どんな時もリルテを支えてくれた。
「そうだ。俺と母さんの、自慢の息子だ」
イオセフの声に、喉が詰まった。
リルテは奥歯を噛んで、せり上がってくるものを懸命に飲み込んだ。
「僕、お母さんとお父さんが大事だよ。アディとノルも」
「……じゃあ、大事な父さんの願いを聞いてくれ、リルテ」
リルテは顔を上げた。
父が自分の願いを口にするのは、初めてだった。
「生きろ」
リルテは、零れそうなほど目を見開いた。
イオセフは、一語ずつ言い含めるように続けた。
「どこで、何をしていてもいい。生きていてくれ」
リルテの唇が戦慄いた。
「ここで、一緒に、生きちゃだめなの?」
イオセフは口を結び、首を振った。
「僕が生きていれば、いいの?」
イオセフは、何かを堪えるように目を細めた。
「ああ。父さんは、それだけでいい」
リルテは、細く息を吸って、唇を噛んだ。
アディとノルが岩山を駆けて、きゃあきゃあとはしゃぐ。
マリソルが焼いた大きなパンから、甘い匂いが立ち上る。
山から帰ったイオセフが獲物を焼く。
その火を囲んで、みんなで笑う。
リルテは、膝に顔を伏せた。
どこかで夜の鳥が鳴いていた。
「なぁに。旅立ちが、少し、早くなっただけだ」
イオセフはなんでもないことのように言った。
リルテの髪をもう一度撫でる。
それから、持っていたもう一つの革袋を差し出した。
中には、イオセフが獣を追うときに使っていた短い刀が入っていた。
「僕、狩りできないよ」
「そうだな。こんなになんでもできる、賢い子なのに。狩りだけは、上手くならなかったな」
「……お父さん、教えてよ」
「母さんと、アディと、ノルが元気になったら、きっと会いに行く。その時にまだ下手だったら、教えてやろう」
嘘だ。
村を出たらどこにいるかなんて分かりっこない。
「せめて、もう一度計算させて」
「大丈夫だ。底は泥だった。水は来ている」
「でも、あんな岩盤じゃ……」
「リルテは計算を外さない。今まで通り、お前を信じて、俺たちはあそこを掘る」
イオセフの手が、リルテの腕に乗った。
熱かった。
振り払って駆け出したかった。
しかし、イオセフの身体は、村への道をしっかりと遮っていた。
何度、「嫌だ」と言っても、父はどかないだろう。
リルテはつま先に落としていた視線を、父へ向けた。
「……いつか、お父さんのお願い、叶えたよって言いに帰ってきてもいい?」
「ああ」
イオセフは、リルテの目を見て、はっきりとうなずいた。
震える膝を両手で叩き、割れそうなほど奥歯を噛みしめて立ち上がった。
やがて、その細い肩の震えが止まったのを見て、イオセフは静かに口を開いた。
「いいか、リルテ。命をもらうときは決して目を逸らすな。まっすぐ目を見て、対峙した獲物が動きを止めた瞬間に、しとめる。これが、今、俺から教えられることだ。……さぁ、行きなさい」
リルテは父を見つめたまま後ずさった。
イオセフは動かなかった。
ただ、固い決意を宿した目が、リルテの往くべき方角を示していた。
「お父さん」
喉の奥が熱かった。
まだ、言いたいことは、たくさんあるのに、どれも言葉にならなかった。
「ごめんなさ……」
言いかけて、もう一度奥歯を噛みしめた。
強く首を振って、顔を上げる。
「――ありがとう」
リルテは身をひるがえした。
その時、いつも「泣き虫リルテ」と髪を撫でてくれた父の頬に、一筋の涙が伝うのを見た気がした。
(だめ、だ)
一歩、闇を踏みしめる。
(振り返ったら、だめだ……!)
一歩。
一歩。
一歩。
堪えていた涙が、溢れた。
もう、止められなかった。
早足になった。
暗い山道を駆け出した。
父のいる方へは、顔を向けなかった。




