↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レーテー・イストリア  作者: 鈴
第1章 リルテの章
2/24

1部 - 2「生きろ」

 走って、走って、リルテは山を登った。

父の狩り小屋のそばまで来ると、大きな松の根元にへたり込んだ。


『悪魔』


息が苦しい。

涙すら涸《か》れ果てた母の慟哭が、胸を串刺しにしていた。

飛び出してしまったけれど、戻って謝らなくては。

許してもらったら、紙を持ってきて、計算しなくては。

そう思うのに、リルテは少しも動けなかった。


 どれくらい経っただろう。星は配置を変え、闇は深さを増していた。

黒い木々の向こうから枯草を踏む足音がした。

顔を上げると、革袋を背負ったイオセフが現れた。


「リルテ。ああ、ここに居たか。良かった。怪我はないか」

「お父さん……。お母さんは……」


イオセフは黙って、リルテの横に腰を下ろした。

沈黙を前にして、落ち着いていた呼吸が、また乱れた。

膝を抱え、ガチガチと鳴る奥歯を肩口に押し付けた。


「アディとノルが、死んでしまったら、どうしよう」


リルテは震えが止まらなかった。

父と母が待って、待って、待ち続けて、ようやくやって来た子どもたちだった。

ふたりが生まれたとき、一緒にたくさん楽しいことをするのだと誓ったのに。


「大丈夫だ。村で一番賢いリルテの弟と妹だ。簡単に死んだりしない」

「僕が……間違えたから……悪魔だから」

「馬鹿なことを言うんじゃない。お前は、俺と母さんの子だ」

「だけど、だけど……!」


リルテは激しく首を振った。


「……母さんが、リルテにごめんなさいと言っていたよ」

「え……」

「お前を傷つけるつもりはなかったんだ。酷いことを言ってしまったから、お前にこれをあげると」


イオセフが手渡してきた革袋には、よく焼かれたウサギの肉が半分入っていた。

ずっしりとした重みと、香ばしい肉の匂いを感じた瞬間、リルテは気づいてしまった。


(ああ、嘘だ……)


アディとノルのための乳を必死に求めているマリソルが、リルテに肉を譲るはずがない。

リルテは、革袋の口を、両手でぎゅっと握りしめ、胸に抱え込んだ。


「お腹、空いてないよ。そうだ。みんなで一緒に食べようって言ったら、お母さん喜ぶかな」

「母さんはもう寝てしまった。今日食べられないなら、明日食べなさい」

「……?」

「リルテ。お前はもう、家には帰れない」


弾かれたように顔を上げ、イオセフにしがみついた。


「ぼ、僕、謝るよ! お母さんが許してくれるまで、何度でも謝るから……! 計算だってもっとちゃんとする。次は絶対に間違えない!」


必死に言い募り、腕に縋《すが》るリルテの手を、イオセフはそっと包んだ。


「謝らなくていい。リルテ。お前は何一つ間違っていないのだから」

「でも! 水、出なかったんだよ! もう、もう時間がないんだ! 今は、計算しなくちゃ。絶対、正しい場所を出さなくちゃ。ね、お父さん」

「今夜も、また眠らないつもりだったのか」


イオセフは太い親指で、リルテの目の下をこすった。


「大丈夫だよ。眠くないんだ。一晩あれば、もう一度計算できる」

「そうして計算をして、ひと月後に水が枯れたら、どうする」

「もちろん、また計算するよ。今度こそ、枯れない大きな水脈を探す。僕がちゃんと当てれば、みんなは――」

「リルテ」


見上げた父は、背筋を伸ばしてまっすぐに座っていた。

眼差しには、一切の迷いも揺らぎもなかった。


「俺たちは、ずっと、お前が見つけた水に助けられてきた」

「僕、何度でも見つける……」

「いや。お前は水を見つけるために生まれた子じゃない」


イオセフは静かに首を振った。


「いつかは街に行かせたいと、母さんとも話していた。リルテ。お前はもっと広いところへ行くべきなんだ」


リルテは、指に力を込めてイオセフの服を握った。


「街なんか、今、行かなくていいよ……アディとノルは? 僕がいないところで、アディとノルが死んじゃったら、いやだ」

「まだ、二人は生きている。お前が二人を信じなくて、どうする」

「お母さんは? お父さんは?」

「ここで、やることがある」

「僕だけ……? やだ。やだよ。僕もここで一緒にいたいよ」


イオセフは熱く大きな腕を、リルテの細い肩に回した。

胸元へ引き寄せ、もう一方の腕を上げた。昏い木々の奥、山の向こうを指で差した。


「山を下りなさい。街ならば、水も、食糧もあるはずだ。何も準備してやれなかった。だが、向こうの峰まで、ヴァレンタイン師と歩いただろう。リルテなら、越えていける」

「……お母さんは、許してくれないの」

「母さんは怒っていない。辛いことに、少し負けてしまっただけだ。お前のことを嫌いになど、なっていないんだよ」


リルテは、脚を抱えた。膝の頭に顔をこすりつける。


『雨を降らせて』

それができたなら、どれだけ――

『悪魔』

光を失くした黒い目が、リルテに鍬を振り下ろす。

でも、マリソルの足元には、繕ってくれたズボンがあった。


こびりついた土ぼこりと汗で、ごわごわになった髪の上を、イオセフの掌が往復する。

乾いた風が枯れかけた木々の隙間を通り、リルテの千切れそうな心を容赦なく乱した。


「お前にリルテと名を付けたのは、母さんだ」

「……知ってるよ、僕。お母さん、何度も話してくれたよ」

「だが、ヴァレンタイン師が生まれたばかりのお前を抱えて、乳を求めて俺たちのところに来た時、お前には名前があった」


顔を上げたリルテを見て、イオセフはわずかに目を見開いた。

銀色の瞳の奥で、かすかに紫の光が揺らめいていた。

それはイオセフが知る、いつもの色ではなかった。


「――レーテー」


レーテー。


初めて聞いた四つの音を、リルテは胸の内でもう一度繰り返した。

その名が落ちたところから、小さな波紋がひとつ広がった。


「いつかお前が生みの父親と母親に会いたくなった時、この名前を辿るといい」

「……僕は、ずっと、リルテだよ」


幼い頃から、マリソルは何度もリルテを抱きしめた。

褒め、叱り、数えきれないほど励ましてくれた。

イオセフは家族のために山を駆け、獲物を狩った。

その大きな手は、どんな時もリルテを支えてくれた。


「そうだ。俺と母さんの、自慢の息子だ」


イオセフの声に、喉が詰まった。

リルテは奥歯を噛んで、せり上がってくるものを懸命に飲み込んだ。


「僕、お母さんとお父さんが大事だよ。アディとノルも」

「……じゃあ、大事な父さんの願いを聞いてくれ、リルテ」


リルテは顔を上げた。

父が自分の願いを口にするのは、初めてだった。


「生きろ」


リルテは、零れそうなほど目を見開いた。

イオセフは、一語ずつ言い含めるように続けた。


「どこで、何をしていてもいい。生きていてくれ」


リルテの唇が戦慄いた。


「ここで、一緒に、生きちゃだめなの?」


イオセフは口を結び、首を振った。


「僕が生きていれば、いいの?」


イオセフは、何かを堪えるように目を細めた。


「ああ。父さんは、それだけでいい」


リルテは、細く息を吸って、唇を噛んだ。


アディとノルが岩山を駆けて、きゃあきゃあとはしゃぐ。

マリソルが焼いた大きなパンから、甘い匂いが立ち上る。

山から帰ったイオセフが獲物を焼く。

その火を囲んで、みんなで笑う。


リルテは、膝に顔を伏せた。

どこかで夜の鳥が鳴いていた。


「なぁに。旅立ちが、少し、早くなっただけだ」


イオセフはなんでもないことのように言った。

リルテの髪をもう一度撫でる。

それから、持っていたもう一つの革袋を差し出した。

中には、イオセフが獣を追うときに使っていた短い刀が入っていた。


「僕、狩りできないよ」

「そうだな。こんなになんでもできる、賢い子なのに。狩りだけは、上手くならなかったな」

「……お父さん、教えてよ」

「母さんと、アディと、ノルが元気になったら、きっと会いに行く。その時にまだ下手だったら、教えてやろう」


嘘だ。

村を出たらどこにいるかなんて分かりっこない。


「せめて、もう一度計算させて」

「大丈夫だ。底は泥だった。水は来ている」

「でも、あんな岩盤じゃ……」

「リルテは計算を外さない。今まで通り、お前を信じて、俺たちはあそこを掘る」


イオセフの手が、リルテの腕に乗った。

熱かった。

振り払って駆け出したかった。

しかし、イオセフの身体は、村への道をしっかりと遮っていた。


何度、「嫌だ」と言っても、父はどかないだろう。


リルテはつま先に落としていた視線を、父へ向けた。


「……いつか、お父さんのお願い、叶えたよって言いに帰ってきてもいい?」

「ああ」


イオセフは、リルテの目を見て、はっきりとうなずいた。


震える膝を両手で叩き、割れそうなほど奥歯を噛みしめて立ち上がった。

やがて、その細い肩の震えが止まったのを見て、イオセフは静かに口を開いた。


「いいか、リルテ。命をもらうときは決して目を逸らすな。まっすぐ目を見て、対峙《たいじ》した獲物が動きを止めた瞬間に、しとめる。これが、今、俺から教えられることだ。……さぁ、行きなさい」


リルテは父を見つめたまま後ずさった。

イオセフは動かなかった。

ただ、固い決意を宿した目が、リルテの往くべき方角を示していた。


「お父さん」


喉の奥が熱かった。

まだ、言いたいことは、たくさんあるのに、どれも言葉にならなかった。


「ごめんなさ……」


言いかけて、もう一度奥歯を噛みしめた。

強く首を振って、顔を上げる。


「――ありがとう」


リルテは身をひるがえした。


その時、いつも「泣き虫リルテ」と髪を撫でてくれた父の頬に、一筋の涙が伝うのを見た気がした。


(だめ、だ)


一歩、闇を踏みしめる。


(振り返ったら、だめだ……!)


一歩。

一歩。

一歩。


堪えていた涙が、溢れた。

もう、止められなかった。


早足になった。

暗い山道を駆け出した。

父のいる方へは、顔を向けなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。