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レーテー・イストリア  作者: 鈴
第1章 リルテの章
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1部 - 1「雨の降らない村と、天気を観る少年」

 あと一週間で、この村の水は尽きる。それなのに――。


「なんで……」


リルテの声は、乾いた砂塵《さじん》に掻き消された。

全身の血が引いていくようだった。

震えを堪えようと、リルテは両手で麻紙《あさがみ》を強く握りしめる。

落とした視線の先、土ぼこりにまみれた紙面には、村周辺の地形や、星の運行から割り出した大地の歪みが、緻密な計算式とともにびっしりと書き込まれていた。


三年前、先王が崩御《ほうぎょ》した。

宰相が新たな玉座を据えて以来、この地には一滴の雨も落ちていない。


もともと村のほとんどは保水力のない不毛の岩山だ。

ひとたび雨が途絶えれば、大血脈のような地下水ははるか奈落の底へと沈み、地表はまたたく間に干からびる。


だから、村の男たちは、何度も水を求めて大地を掘ってきた。


地中の水脈を割り出してきたのは、十二歳のリルテだった。

掘り当てたそれは、どれも一ヶ月ほどで枯れてしまう頼りないものだったが、青かった池が小魚の骸《むくろ》を晒す泥穴となり、干上がった川が岩場の道と化している惨状の中で、リルテが示した大地から湧き出す水は、村人たちにとって、まさに乾いた天から零れ落ちる奇跡そのものだった。


だが、今、リルテの目の前にあるのは、鈍く光る漆黒の岩盤だった。


――あるはずの水が、なかった。


計算が外れたことは、これまで一度もなかったのに。

リルテは泥にまみれるのも構わず、穴の底へ滑り降りた。

そして、岩盤を隅々まで手で確かめた。


「断層の角度も、古井戸の深さも計算した。確かに、ここだ。なのに、この岩盤は……」

「ここから水が出るはずだったんだな?」

「はい……ごめんなさい。僕が何かを間違えたんだ。僕のせいで……」

「何言ってんだ!」

「おめぇが『ここだ』と言ったところから水が出なかったことなんて、なかったじゃねぇか」


鍬を持った男たちが、泥だらけの手で額の汗を拭い、頬を歪めるように笑った。


「西の井戸も、南の湧き場も、あれが出たから、俺たちはこうして生きてるんだぞ」


皆、痩せて肉が落ちていた。

別の男がリルテの顔をのぞき込んだ。


「すまねぇなぁ。あんまり力が出なくてよォ。お前さんが計算したところまで、まだ掘り足りてねぇんだ」


喉がつっかえて、ひゅっと鳴った。

リルテは激しくかぶりを振った。


「違う……ごめんなさ……僕、すぐに計算し直すから……必ず……」


男はリルテの言葉を遮るように、砂まみれの頭を軽く叩いた。


「そうだ。諦めるな、リルテ。だが、無理をするな。今日は陽が落ちた。明日また掘るよ」

「こうやっているうちに、雨が降るかもしれねぇしな」


爪ににじんだ血を拭いながら、声を弾ませた男が穴から這い上がった。

男たちは何度も息を入れながら、鍬と身体を引きずるようにして帰っていく。


いつか雨が降るだろう。

それまで、凌ぐのだ。

男たちは、そう信じている。


(ああ……雨は降らないんだ……)


その背中を見送って、リルテは茫然と黒い地面に目を落とした。


(観えるんだ)


何度、目を閉じても。

リルテの瞼の裏には、一週間先まで雲ひとつなく、太陽が照り続ける景色がはっきりと映った。

その光景が外れたことは、一度もなかった。


どこをどう切り取っても、抜けるように青い空。


少ない水がもうじき尽きる。

そして、蓄えていた食糧も、もう底を突いていた。


リルテは、麻紙を胸に押し当てた。

今までは間に合った。

井戸が枯れる前に、水が出た。

だから、怖かった。


――水は出なかった。


残された時間は、たった一週間しかない。


いや、まだ終わっていない。

自分が何かを見落としただけだ。


岩盤の傾きが想定と違った可能性がある。

今夜、地形を測り直す。朝までに答えを出す。


一週間、ある。


気を抜けば震えそうになる手を、力いっぱい握りしめたリルテの肩に、熱い手が置かれた。


「さぁ、リルテ。俺たちも帰ろう」

「お父さん……」


義父《ちち》は、人一倍泥だらけだった。

胸の奥がぐうっと詰まった。

銀色の目に涙が滲むと、イオセフは、決まってリルテの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。

頭に載る、大きくて固い手の重み。

赤子の頃から変わらないその手に、しゃくり上げそうになった。


「泣き虫リルテ。お前の大事な水だろ。勿体ないからこぼすんじゃないぞ。なぁに、じきにヴァレンタイン師《せんせい》がお戻りになる。きっと食糧を持ってきてくださる」


イオセフの言葉に、リルテは必死に涙をこらえて、小さくうなずいた。


この国全土を覆う天象の狂いだという。

どこまで行けば飢えぬ土地があるのか、十二のリルテには見当もつかない。

今はただ、三ヶ月前に食糧を求めて旅立った師が、少しでも糧を持ち帰ってくれることを祈るしかなかった。

いつになるか分からない。

それでも、リルテは師の帰りを村のみんなで出迎えたかった。


家までの道すがら、リルテは露出した岩肌を見つけるたびに足を止めた。

指で亀裂をなぞり、傾きを確かめる。

地を掘り進めて現れた黒い岩盤が、どこから延びてきたものなのか。

涸れ沢(かれさわ)が折れる場所までの歩数も、もう一度数え直した。


帰り着いたら地図へ書き加え、初めから計算し直す。


風が頬を撫でるたび、空を見上げた。

リルテは必死に、師に教えられた雨の兆候を探した。

瞼の裏に在る快晴を、嘘だと言ってほしかった。


枯草が糸くずのように地を這う畦道《あぜみち》の向こうで、白い煙が一筋空を目指していた。

漂ってくるのは夕餉《ゆうげ》の香りではない。

魂が抜けた、物言わぬ骸を火にくべた臭いだ。


――またひとり逝ってしまった。


新しくやってきた魂を祝福するように、無数の星が瞬く。

その眩《まばゆ》さから逃れるように、リルテはイオセフの大きな身体に隠れ、深く顔を俯けた。


 イオセフは、裏の山に仕掛けた罠を見に行くと言った。

リルテは鍬を引きずりながら家までの道を急ぎ足で進んだ。

義母《はは》のマリソルは、体力を失って、もうずっと寝たり起きたりの状態だった。

朝、出かけるとき、泣き声に元気がなかった双子の様子も心配だった。


帰り着いた家の中は、異様に静かだった。


「ただいま……」


鍬を戸の横に立てかけて、リルテは耳をそばだてた。

奥から「ちっ、ちっ」と、音がしていた。それが何か不気味に聞こえて、リルテは急いで靴を脱ぎ、部屋に飛び込んだ。

マリソルが座って、枯れ木のように細った腕に、一歳になったばかりの双子を抱いていた。

二人が、マリソルのしなびた乳を吸っている。


息を吐きかけた。

その時、マリソルの足のそばに畳まれたズボンに気付き、リルテは目を見張った。


「お母さん! 繕い物なんて……! 起きていたりしたら……」

「お帰り、リルテ」


駆け寄ったリルテではなく、マリソルは、ただ茫洋と腕の中の双子を見つめていた。


「お乳が出ないの。アディも、ノルも、一生懸命吸うんだけどね、何も出ないの」

「!」


マリソルは、赤子を布団の上に並べて横たえた。

ほとんど骨と皮だけの二人は、ただ、かすかな息をこぼしながら、乳首を求めるように乾いた唇を動かした。

もう泣く力さえ残っていないのだ。


穴の底で触れていた、黒い岩盤の冷たさが指先によみがえった。


膝から崩れ落ちた。


「ああ、ごめん、なさい……」


不意にマリソルが立ち上がり、静かに窓を開け放った。


ついさっき、ひとつの魂を連れ去った星々が、今度はこちらに向かって手を差し出しているように見えて、リルテの心臓が冷えた。


「アディ……! ノル……!」


――連れて行かせるものか。

リルテは布団のそばに這い寄り、軽くなってしまった身体が舞い上がってしまわないように、小さな手を二つ、しっかりと両手で握りしめた。


「次は、いつ雨が降るかしら」


感情の消え失せた声が降ってきた。

聞いたことがない声だった。

銀色の瞳が揺れる。

恐る恐る振り向いた。

マリソルは開け放った窓から、乾いた夜空を見つめていた。


「ねぇ、リルテ。次はいつ雨が降るのかしら。明日? 明後日?」

「お母さん……?」

「私、分かってしまったのよ」


マリソルが、ぎちり、と硬い音を立てて首を巡らせた。

窓外の眩い星空を背に、母の顔は暗がりに沈んでいた。

輪郭だけを、星明かりが白く縁取っていた。


「お前が天気を決めていたのね」


リルテは息を飲んだ。


「き、決めてないよ! 僕は天気を観ているだけだよ」

「いいえ! お前が晴れると言えば晴れる、嵐が来ると言えば嵐が来る。さぁ、リルテ。雨が降ると言って。明日は雨が降るのよね?」


唇に歯が食い込んだ。

「雨が降る」と言って、母を喜ばせたかった。

だが、帰り道でも探し続けた雨の兆候は、ひとつもなかった。

瞼の裏に観えるのは、延々と続く快晴だけだ。

気休めを言えば、マリソルはきっと、もっと深く悲しむ。


噛みしめていた唇を解いた。


「雨は、降らないんだよ」

「リルテ!」

「お母さん。雨は、降らない。でも、……」

「どうして……お前は優しい子なのに……なんで雨を止めるの……?」


マリソルの瞳に、闇が染みわたった。

何かが、違う。


「お母さん、僕、今度こそちゃんと……」


「悪魔」


母の口から、音が砂のように零れた。

喉の奥で、引き絞るような呼吸が鳴る。


「私、お前が毎日地を見て、空を見て、『雨は降らない』と言っていたのを知っているの。毎日、毎日。降らない、降らないって……。見てよ……アディの顔、ノルの口……お前が呪っているのよ!」

「違うよ! 僕は……!」

「雨、降るのよね」


マリソルはゆっくりと双子を振り向いた。


「ほぅら、アディ、ノル。明日は雨よ。お兄ちゃんが雨を降らせてくれるのよ」

「お母さん……僕、できない」

「言わないのね……! 言わないなら、その口を引き裂いてやる」


マリソルは、叫ぶと部屋を飛び出した。

頭が真っ白になった。

だが、すぐに我に返って、リルテも飛び出した。

引き止めなければならなかった。母は外に出られるような身体ではない。


しかし、追いかけたリルテは、暗い出入り口で立ち尽くした。

冷たい土間に裸足で立つマリソルは、リルテが立て掛けた重い鉄の鍬を振りかぶっていた。


「お、か、あさ……」


引き攣れた声が喉を割って、後ずさる。

マリソルの瞳が、一瞬だけ揺れた。

リルテを見た。

だが次の瞬間には、黒い穴のような瞳孔が広がっていた。


「お前は私の乳を飲んで育ったのに! どうしてあの子たちに飲ませてくれないの!」

「ご、ごめんなさい……!」


恐怖と罪悪感で足がすくみ、動けなかった。


――その時、背後の引き戸がガタガタと引き開けられた。

振り上げられたマリソルの肘の後ろに現れた黒曜石の瞳と、目が合った。

次の瞬間、マリソルが鍬を振り下ろす。

だが、それがリルテに届くより早く、外の闇から人影が飛び込んできた。

手にしたウサギの骸を土間の隅へ投げ捨て、そのまま背後からマリソルの身体を骨張った腕で組み伏せた。


「何をしているんだ! マリソル!」


鼓膜を破らんばかりの怒号。

荒い息を吐きながら、父は妻の身体を必死に抑え込んだ。


「この子に雨が降ると言わせるの! この子がそう言えば雨が降るのよ! この子は神の子よ!」

「何を言っている。そんなことができるものか。目を覚ませ! リルテは俺たちの息子だ!」

「いや! 放して! アディが、ノルが死んでしまう……ああ、その悪魔を殺させて!」


激しく暴れる妻を狭い土間で必死に抱え、イオセフはリルテに向かって絶叫した。


「走れ! 走れリルテ!」


頭を殴られたような電撃が体中を駆けた。リルテは土間に転がっている自分の靴を引っ掴み、開け放たれた引き戸から、夜の闇へと飛び出した。

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