2部 - 3「おちびは、正直すぎる」
ロゴテカにやってきて、二週間が経った。
気になる題名を見つけるとつい読んでしまうが、虫干しの作業は、ずいぶん慣れた。
リルテは、朝の太陽光を目指して、紙魚が泳いで行くのを見つめた。
紙魚にも、それぞれ好みがあるらしい。
数字ばかりを食べるものもいれば、接続詞を食べるもの、特定の文字を食べるもの。
本の穴の位置で知ることができた。
弾けてしまうのに、太陽に向かって泳いでいくこの生き物は、ただ墨を好んでいるわけではないのだ。
だが、どれだけ好みが違っても、結局太陽光で弾けて、茣蓙に墨だけが落ちるのは一緒だ。
そして、本に開いた穴を修復しなくてはならないことも変わらない。
作業をしていると、台車を押したロキスがやってきた。
今日は、朝の店番をクコが担当していた。
リルテの隣に台車を止めた。
あくびをしながら、ロキスは台車から取った本を開いて、亜麻糸の上に伏せた。
しかし、いつまでたっても、茣蓙に墨は落ちなかった。
「ロキス。そこは穴がない頁みたいですよ」
「へぇ。そうか」
そう言ったきり、別の本をまた手に取って、適当に開いて亜麻糸の上に伏せた。
「紙魚を追い出さないと……」
「こうやって陽の光を当てていれば、あいつらもそのうち出てくるだろ」
「そうなんですか?」
「知らないけどね。ま、虫干しは虫干しだよ。百冊やれば、終わり」
「……」
リルテは次の本を手に取って頁をめくった。
穴の開いた頁を外気にさらすと、にゅるりと出てきた紙魚が身体をくねらせて陽光を探した。
「おちびは、本当に楽しそうに虫干しをするね」
「目が合うと、紙魚はかわいい気がします。ロキスは嫌いなんですか?」
「紙魚が? 虫干しが? 好きな奴、いないだろ」
「どうして?」
「どうしてって、面倒くさいじゃないか。どうせ干して紙魚を追い出しても、いずれまた食われてる」
ロキスは、開いた本をめくって、リルテに見せた。
かつて、紙魚に食べられたのであろう箇所を修復し、文字を書き足した跡があった。
リルテがそれを見たのを確かめて、頁をめくった。
数頁後に、大きな穴があった。
にゅるりと紙魚が顔を出した。
ロキスは亜麻糸の上に押し付けるように本を伏せた。
ぱしゃっと墨が茣蓙に落ちた。
「堂々巡りだ」
「紙魚を追い出せていなかったのでしょうか」
「追い出してただろ。修復跡があるんだから」
リルテは、茣蓙の黒い墨を見つめて、目を瞬かせた。
クコは、紙魚は複数で同じ本に同居しないと言っていた。
確かに、これまで一冊の本から二匹の紙魚が出てきたことはなかった。
「紙魚はどこから来るのでしょう」
「さあなぁ」
ロキスは、また適当な頁を開いて伏せた。
確かに、毎日百冊の本を干すのは、大変だ。
干したら、しまわなくてはいけない。
紙は重い。台車に載せるのも下ろすのも、なかなかの重労働だ。
「なんで、パンビオロンには紙魚がいないんだろう」
「へぇ、あそこの本には紙魚がいないのか。いいな」
ロキスがリルテの呟きを拾った。
「クコがそう言っていました。ロキスは、知らないのですか?」
「パンビオロンのことを知っているのは、入館証を貰えた人間だけだよ。普通は知らないさ」
「じゃあ、クコは入館証を持っているんでしょうか」
「知らない。あいつが自分のこと話すと思うか?」
「訊いてみたことがなかったので、分かりません。今度訊いてみます」
「果敢だね」
ロキスは、肩をすくめた。
開いた本を見もせずに伏せた。
ぱしゃっと音がして、墨が茣蓙に散った。
穴の開いた頁を当てたらしい。
「もしかしたら、パンビオロンの本は、墨で書かれていないのかもしれないな」
「どうしてですか?」
「紙魚だって、食えないもののところには棲まないだろ」
「そうですね」
好みはあっても、紙魚は文字を食べる。
紙だけを食べている紙魚はいない。
リルテは頷いた。
けれど、ヴァレンタイン師の本棚にあった本も、文字はすべて墨で書かれていた。
墨で書かれていても、何か食べられない方法はあるはずなのだ。
リルテは本を伏せながら、ロゴテカと教会の書庫の違いを考えた。
教会の書庫は、いつも花窓から太陽の光が差し込んで、明るかった。
それは、おそらく紙魚がいなかったからだ。
ロゴテカに太陽光が入るようにしてしまったら、店内で誰かが本を開くたび、紙魚が這い出して、店内が墨だらけになるだろう。
だが、たとえ紙魚を全部追い出したとしても、修復した本にまた紙魚が這い込んでいるのなら、紙魚が絶対にやって来ないようにしなければ、根本的な解決にならない。
そもそも、紙魚は――。
「おちび、おちび」
「! はい。なんでしょう」
「鐘が鳴るぞ」
「いけない!」
リルテは、空を見上げて、大急ぎで残りの本をめくって、伏せた。
「こういうときこそ、適当にやればいいのに」
「ロキスも、お店に戻らないと怒られますよ」
「平気平気。俺は、怒られ慣れてる」
「駄目ですよ。クコだって怒りたくて怒ってるわけじゃないんですから。手伝います」
「へえ。あいつのこと、分かるの? 俺、一緒に働いて二年になるけど、全然分からないな」
口笛でも吹きそうな顔で、ロキスは手を広げた。
「僕も、全部は分かりません」
リルテは、ロキスの台車から本を取った。
「でも、鐘が鳴ったら置いていくと言ったのに、僕の鞄を持って迎えに来てくれました」
「……」
「それに、クコはたぶん、水豚の肉と鶏の卵が好きなんです。でも、僕を連れていく店は毎日違います」
太陽は中天に近づき、二人の影を足元へ縮めていた。
「だから、クコを待たせたくありません」
リルテは、最後の本の穴の開いた頁を開いて、伏せた。
台車に肘をついてこちらを見ているロキスを振り返った。
「間に合いました。戻りましょう」
「本当に怒っていないと思う?」
「まだ鐘は鳴っていません。怒っていないですよ。ロキスだって、それは知っているでしょう?」
リルテが自分の台車を押して店の方へ戻り始めると、ロキスは肩をすくめた。
「おちび」
「なんですか。明日の天気なら、帰ってから計算します」
ガラガラと小石を踏む音の後ろに、ロキスの笑い声が響いた。
店へ戻ると、クコが昼に来る客を待たなくてはならないというので、そのままロキスと昼食を買いに出た。
ロキスは、クコがいつも通り過ぎる露店街へ迷わず入っていった。
色とりどりの日除け布を張った店が、細い通りの両側に並んでいる。
入口脇の露店のおかみさんが、ロキスを見つけて手を振った。
「ロキス! 今日は早いね」
「やぁ。新入りを案内してるんだ」
「ロゴテカの? まぁ! かわいい子じゃないか」
「そうだろ?」
おかみさんは鍋が並んだ台から身を乗り出した。
じっと見つめられて、リルテは少しだけロキスの後ろに隠れた。
「お。おちびが恥ずかしがってる」
「怖くないよ。おばさんのご飯、美味しいよ」
「どうしようかな。まだ奥まで見に行こうと思ってるんだけど。太っ腹なところを見せてくれたら、ここで買おうかな」
「ま! わかったよ。上手だね。ほら、こっちおいで。どれが好き?」
おかみさんが並んだ鍋の蓋を次々と開けると、湯気と一緒に香ばしい匂いが立った。
リルテは困って、ロキスを見上げた。
「ロキス、僕はどうしたらいいですか」
「まず、見てみろよ。ほら」
ロキスに背を押されて、リルテは並んでいる総菜を見た。
「わあ、美味しそう……」
「でしょう? 本当に美味しいよ」
「あれ? この間まで、餃子には岩花の韮が入ってなかった?」
「北からの荷が来なくてね。今日は玉菜よ。食べてみな」
「へえ。じゃあ、一つ味見させてよ」
「まったく、あんたは!」
リルテは、大鍋に入った煮物に惹かれた。
よく煮込まれた肉は、照りが出て、柔らかそうだった。
「アヒルのそれがいい? よし。じゃ、こっちの饅頭と野菜汁をおまけしちゃう」
「え! でもそれじゃあ……」
「俺もまけてくんない?」
「仕方ないねぇ。いいよ。かわいい子を連れて来てくれたからね。あんたにも餃子を付けてあげよう」
ロキスは、選んだ焼き麺の代金を払い、焼き麺とおまけの餃子、それぞれの器を載せた盆を受け取った。
おかみさんが香草で煮込んだアヒル料理の値段だけを、リルテに告げた。
「本当にいいんですか?」
「もちろんよ」
財布から紙幣を一枚出して渡すと、おかみさんは三つの器を載せた盆を差し出した。
「ありがとうございます」
「またおいで。かわいい子には、いつだっておまけをあげるよ」
「お、じゃ。俺も一緒に来なくちゃな」
「あはは。あんたはいつだって上手に値切るじゃないか」
おかみさんに頭を下げると、手を振って歩き出したロキスに並んで、食事ができる場所に移動した。
「本当に良かったんでしょうか。お饅頭も野菜汁も売り物でしょう」
「おちびは、正直すぎるな」
眉を下げたリルテを見ると、呆れた顔をして、ロキスは焼き麺を箸で持ち上げた。
「同じ物なら安い方がいい。同じ値段なら、一つでも多い方がいい。財布の中身は勝手に増えないからな」
「でも、あのお店の人は困らないでしょうか」
「困るなら、断るさ。ああやっても売った方がいいと思った。だから笑いながらくれたんだろ」
リルテは、晴れない顔のまま、いただきますと頭を下げて箸を持った。
アヒルの肉が口の中でほどけた。
リルテの目が、輝いた。
「な。美味いだろ?」
ロキスが屈託のない顔で笑った。




