2部 - 4「都は、なぜヘリオスに遷ったのか」
十六時になり、リルテの仕事は終わった。
クコとロキスは、店じまいまであと一時間、店番を続けることになっている。
二人に、『お疲れさまでした』と声を掛けると、リルテは紙魚が食べてしまった文字を補完した本を持って奥へ向かった。
一段高くなった板敷の間に、トートがいた。
何度も本が崩れ落ちていた棚は、リルテが朝食後から始業までの時間を使い、数日かけて棚板を修理し、補強していた。
村の家の棚が傷んで壊れたときに、ヴァレンタイン師と補修したのが、役に立った。
試しに揺らしてみたが、びくともしないのを確かめて、トートはとても喜んだ。
そして、棚の前に座り込むと、安心した顔で仕事を始めた。
「トート」
「リルテだな。おお、もうそんな時間か」
「作業の途中でしたね。すみません。後にした方が良いですか?」
「いや、いいよ。ちょうどこの本の修復が終わる」
トートは、頁の半分近くを食い破った穴の上を撫でて紙を貼り付けた。
残っている文字にさっと目を走らせた。
そして、墨を含ませた筆先を、その上に載せた。
するすると筆を走らせ、穴に貼り付けた紙に文字を書いていく。
原典はどこにもない。
リルテは息を止めて、じっとその作業を見守った。
リルテだけではない。
クコも、ロキスも、補完するときはできる限り原典を参照し、確かめながら進める。
一文字食べられただけでも、不安だ。
頁がまるまる半分も失われていたら、とてもではないが、原典なしでは補完できない。
トートの仕事を確かめさせてもらったことがある。
原典と比べても、一字一句、相違なかった。
しかも、書体まで元の本と同じだ。
『昔読んだんだよ。一度読めば、忘れない』
トートは、記憶を写すのだと言って、笑った。
「よし、できた。待たせたね。お前さんの今日の仕事を見よう」
「よろしくお願いします」
リルテは靴を脱いで板敷の間に上がると、トートが差し出した手に、持ってきた本を置いた。
トートは早速、半紙を挟んだ頁を開いてじっくりと読み始めた。
「変わった嗜好の紙魚だな」
「最後に確認したら、『お』と『す』と『る』だけを食べられていました」
「そうだな。最初に、紙魚はこれを食べていると決めてしまわないほうがいい。もし違う文字を入れてしまったら、全く別の意味になってしまう」
「はい。気をつけます」
「随分たくさん食べたものだ。うん、間違いはない。修復漏れもない。これで糊が乾いたら、本棚に戻していいだろう」
トートは、足元に置いていた木製の判に朱色の油墨を塗って、開いた表紙の裏に押した。
『ロゴテカ』の文字が現れた。
併せて、先ほど自分が修復した本の表紙の裏にも押印した。
「ありがとうございます」
リルテは自分の本を引き取って頭を下げた。
トートは、頬を緩めて、手近に置いた座布団を叩いた。
青緑色の瞳が楽しそうに煌めいた。
「座りなさい。勉強を始めよう」
「はい。よろしくお願いします」
「昨日の続きからだ。おっと。上に本を積んでしまった。リルテ、昨日の話は覚えているかな?」
リルテが座布団の上に正座する間に、トートは、山のように積まれた本を漁って、一冊抜き出した。
「はい。アレーティアがなぜ大河の傍に生まれ、大きくなったかを見ました」
「もう一度地図を見よう。この地図はお前さんの師の本棚にもあったんだったな」
「はい。何度か見たことがあります」
リルテは、国の中央から少し東にある場所を、鉛筆の背で示した。
「ここが、今、僕とトートがいる首都・ヘリオスです。すぐ南西に、中央州・ミダスがあります」
そこから、東へ突き出た半島、北と西を囲む山々、南に広がる盆地へ、鉛筆を滑らせた。
州の位置は、師が教えてくれた。
「うん。よく覚えている。では、アレーティアを流れる三本の大河は?」
「レコルダ河、ヴェーナ河。それから――」
皺の多いトートの指が、フルオスの西の山に触れた。
「アニド河……ですが、今は涸れています」
ほんの少し、声が震えた。
トートの指が、平野に下りず、止まった。
「……そうだな」
リルテは、トートの指が押さえている山地を示す線を、静かに見つめた。
地図が溶けそうになって、ぎゅっと目をつぶった。
トートは、リルテの声の方へ顔を上げた。
「リルテ、お前さんは地理について知識の素地がある。歴史を学ぶ上でとても大事なことだ。なぜだかわかるかな」
リルテは、口元に手を当てた。
「昨日まで、大河のほとりで人が繁栄したことを学びました。人が何かをするには、その土地の条件によってできることが限られるからだと思います」
「その通りだ。だが、土地は人が生まれる前からある」
トートが、鉛筆を手にして西と北の山をまっすぐになぞり、地図の上で八つの丸を書いた。
八つの丸は、西と北の山々に守られ、三本の大河に沿うように並んだ。
トートは長いひげを指でほどきながら、ゆっくりと瞬きをした。
「さあ。では、今日の課題だ」
リルテは、座り直してトートの指先を追った。
「アレーティアの古都はセレーンだ。都は、なぜヘリオスに遷ったのだと思う」
地図を見て、銀色の瞳を瞬かせた。
そして、二つの都を繋ぐレコルダ河の上に、鉛筆を置いた。




