2部 - 1「文字を食べる紙魚」
石畳に散った砂利を踏んで、台車がガラガラと音を立てた。
積んだ本が崩れてしまわないように、リルテは押さえながら台車を押した。
ロゴテカの三軒先の路地を曲がり、壁と壁の間を抜けると、広い空き地に出る。
深く息を吸って、目の前に広がる光景を、ぐるりと眺め渡した。
晴れた空の下、一面に、開いた本が下向きに干されている。
宙に浮いているように見えるのは、本が、張り巡らされた亜麻糸の上に載せられているからだ。
支柱と支柱の間。広げた本の下には、茣蓙が敷かれ、それはどれもまだらに黒く汚れていた。
「邪魔。出口で止まらないで」
「あ、ごめんなさい」
リルテは背中にぶつかった声に押されるように、急いで移動した。
三歩前に出たところでガラガラと音を立てて、リルテと同じように、本を満載にした台車を押した青年が、リルテの脇を過ぎていった。
リルテは後ろ姿を見送って、あ、と声を上げた。
「クコ! 前掛けの紐が解けてますよ」
青年は速度を緩めることなく、台車を押して進んでいく。
「クコ!」
リルテは、もう一度名前を呼んだ。
青年は、何も干していない亜麻糸の前で台車を止めて、眼鏡を押し上げると、本を一冊手に取った。
「聞こえてるよ。他人のことはいいから自分の仕事をしなよ」
「はい。でも、落ちたら、汚れちゃうから」
「……うるさいな」
青年は、開こうとした本を亜麻糸の上に置き、後ろ手に紐を直した。
するすると動く指が、綺麗な蝶々《ちょうちょう》を作ったのを見届けて、リルテは反対側に向かって台車を押した。
青年と同じように、何も載っていない亜麻糸の前に立って、本を一冊手に取った。
角が擦れて、傷んだ本を開く。
す、すと紙をめくって、穴が開いたところを見つけた。
割と大きな穴だ。
そこを開いたまま、亜麻糸の上に本を伏せて置いた。
そして、リルテはしゃがみ込んだ。
膝に手を当てて、転ばないように気を付けながら、穴の開いた頁を見上げる。
燦燦と降り注ぐ太陽光が、斜めに掛けられた本の開いた頁を照らした。
にゅ。
細い、ひものようなものが穴から出てきた。
輪郭の内側は、透明。
先端は丸みを帯びていて、両脇に、細い針の先端に墨を付けてつついたような、小さな目が付いている。
じっと見ていると、くねくねと長細い体を動かしながら出てくるそれと、一瞬、目が合った気がした。
長い身体が全部出た。
半分から下が黒かった。
三本に分かれた尾で宙を掻き、陽光をさかのぼるように昇っていく。
そして、ぱちんと弾けた。
ぱしゃ、と、黒い雫が茣蓙に落ちた。
「決められた数を終えられるなら、どんなにのんびりやっても文句は言わない。けど、昼の鐘が鳴ったら、君を置いて買い物に行く」
「!」
リルテは、立ち上がって声が飛んできた方を見た。
青年は、台車から本を取って開き、伏せる作業を、機械のように進めていた。
「ちゃんと終わらせます!」
リルテは台車に積んだ本を手に取った。
めくる。
すぐに穴の開いた頁が現れた。
にゅる。
透明なそれが顔を出した。
慌てて、張られた亜麻糸の上に、本を伏せて置いた。
「紙魚が食べた墨を本にこぼしたら、怒られるから」
「はい! 伏せました」
リルテはこちらを向かない青年に答えて、それから次の本を手に取った。
ぽたっと黒い雫が茣蓙に落ちた。
ロゴテカにやってきて五日が経った。
棚から落ちた本を片付けてくれた店員二人が、トートの言っていた修復師見習いだった。
虫干しを教えてくれた青年は、クコと言った。
初めて紙魚を見たとき、リルテは驚きと興味で釘付けになった。
『紙魚を見るのが初めてだって?』
『はい。太陽に向かっていこうとするのに、光を浴びると消えちゃうんですね。この黒い水は?』
『食べた文字の墨。服にかかったら絶対落ちないから』
『ああ、だから前掛けをしてるんですね』
腰に巻いた紺色の布の端をつまんだリルテに、クコは呆れた顔を向けた。
『君、王立学校の試験受けるんでしょ? 本くらい読んでたんじゃないの?』
『はい、読んでました。でも、師の本棚にあった本は、こんな風に穴は開いていませんでした』
『ふぅん。紙魚がいないなんて、パンビオロンみたいだな』
『パンビオロンには紙魚がいないのですか?』
『当たり前』
『どうして?』
問いかけたリルテを一瞥しただけで、クコは答えなかった。
ロゴテカの本に答えがないか探しているが、まだ出会えていない。
本を開いて、紙魚が食べた場所を見つけて、伏せて干す。
クコの手際を見ていればあっという間に終わりそうだが、リルテは五十冊の割り当てでも、百冊をこなすクコと同じくらいか、それ以上の時間がかかった。
古書は、面白かった。
『クビフリ鳥の歩行と頭部の動き――視界が揺れぬ理由について』
『ベトツキウリを踏んだ者が、後ろへ一回転して倒れる理』
題名を見てしまったら、我慢ができず、開いては、ついつい読んでしまう。
読み進めて、見つけた穴に入る文字を考えているうちに、紙魚と目が合って、慌てて本を伏せるのも、一度や二度ではなかった。
ようやく、今日の約束の分が残り五冊になったとき、持っていた本の上に影ができた。
「よぉ。また読んでるな、おちび」
ハッと顔を上げた。
真後ろから、よく焼けた肌の、背の高い青年が、リルテの手元を覗き込んでいた。
「ロキス!」
「また、眠くなりそうな本を。おちびは何でも好きだな」
『おちび』の呼び名を聞いたクコが、『この子は小さくないけど』と言ったが、ロキスは『十二歳はおちびだろ』と肩をすくめただけで、呼び方を変えなかった。
「あれ、クコはお店に戻ったんですか?」
「とっくにな。もうすぐ鐘が鳴るぞ」
「!」
リルテは空を仰ぎ見て、太陽の位置を確かめた。
そして、大急ぎで穴の開いた頁を探し、亜麻糸の上に伏せた。
あとはできるだけ題名を見たりしないで、クコを見習った速度重視の虫干しをする。
最後の一冊が終わったところで、ちょうど鐘が鳴った。
ヘリオスでは、昼と夕方に鐘が鳴るのだ。
「おっと、昼だ。さて、クコは待っているかな」
「急がなきゃ! ロキス、時間を教えてくれてありがとうございました」
「どういたしまして」
リルテは急いだせいで少し斜めになった本を、落ちないように直した。
つい、読みながら本を伏せていたし、他の本は大丈夫かと不安になって、走って五十冊を見回ってから、台車に飛びついた。
「……あ、そういえばおちびに訊きたいことがあったんだ」
「?」
空の台車を押し始めたリルテは、足を止めた。
ロキスは空を見て、のんびりと言った。
「明日の天気は、晴れ? 雨?」
本を天日干しすると聞いて、リルテは毎日天気を観測することにしていた。
その日の観測結果は、二人にも共有した。
特に曇りだと、紙魚の出が遅いので、取り込む時間を調整するのに重宝するようだった。
「明日ですか? 明日は晴れます」
「本当に?」
ロキスは路地の奥を見ると、腰に手を当てて、首を傾げた。
「雲の発生率は? 風向きは?」
「それは計算しないと分かりません」
「おちびは明日の天気について、どれだけ詳しくわかる?」
「えっと、明日の天気でしたら……」
「明日の天気なら、今じゃなくていいでしょ」
真後ろからリルテの言葉を遮った声に、飛び上がって振り向いた。
「クコ!」
「鐘が鳴ったら、置いていくって言ったよね」
「ごめんなさい。ロキスが時間を教えてくれたんですけど、ちょっと話をしていて」
「その話は、僕を待たせても続けるべきだったの?」
「!」
クコは深々とため息をついて、眼鏡を押し上げた。
「君は、僕の五分なんてどうでもいいんだね」
「どうでもよくない! ごめんなさい。ロキス、天気の話は、戻って来てからさせてください」
「もちろん、いいとも。二人とも早く昼に行って来いよ。休憩時間が終わっちゃうぞ」
「――あんたは店番でしょう。なんでここで油を売ってるんだ」
「おちびが戻らないから、心配だったに決まってるだろう?」
「白々しい」
言い捨てたクコが、回れ右をして正面の通りに向かって路地を戻り始めた。
リルテは建物の脇に台車を寄せると、手を振るロキスに手を振り返し、急いでクコを追いかけた。
「あの、クコ。僕、財布を……」
「これでしょ」
横目で睨みながら、クコは自分の鞄からリルテの肩掛け鞄を取り出した。
「持ってきてくれたんですね! ありがとうございます」
「これ以上時間を無駄にしたくないだけ」
「待たせてしまって、本当にごめんなさい」
「次は本当に置いていくから」
「気を付けます!」
「当たり前」
リルテはクコの頬のあたりを見つめた。
クコはまっすぐ前を向いたままだった。
機嫌は直ったのか、怒ったままなのか。
クコの横顔からは読み取れなかった。




