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レーテー・イストリア  作者: 鈴
第3章 ロゴテカの章
20/24

1部 - 2「満点と、二十点」

 板敷《いたじき》の間に落ちた本は、すぐ後にやってきた店員だという二人の男性に、トートが整理を任せてしまった。


トートは、リルテとディスンを連れて、ロゴテカの二階に場所を移した。

窓の外はいつの間にか暗くなっていて、壁と、天井から吊り下がった石灯《せきとう》を点《つ》けると、部屋が明るくなった。

そこは居住空間だった。

壁際には調理をする道具などが置いてある。

部屋の真ん中あたりには四角い卓《たく》があり、椅子が四つ置かれていた。


指示されたひとつに、リルテは腰かけた。

ディスンはトートの向かいに座った。

そして、ロゴテカを訪れた理由を手短に話した。


リルテが山奥の村から出てきたこと。

ヘリオスには身寄りも、住む場所もないこと。

王立学校への入学を目指すため、勉強のできる環境を探していること。


ミダスで何があったかには、一切触れなかった。


リルテは、黙ってディスンの横顔を見つめた。

卓に肘をついて指を組むと、トートはその指の上に顎《あご》を載せた。


「なるほど。まだ、十二歳だったのか。この通り、わしの目は人の姿を映さない。おかげで、声や言葉で年を測る癖《くせ》がついてしまって。もっと上かと思い込んでしまった。悪いことをしたな」

「いいえ」


リルテは、はっきりと声を出した。

トートは、リルテの方へ首を向けた。


「つまり、お前さんはここで王立学校へ行くための試験勉強をしたいと」

「はい」


リルテは頷いた。

トートは、「王立学校」と、もう一度口の中で呟いた。


「今まで、試験に向けてどんな勉強をしてきたのだ?」

「試験のための勉強はしていませんでした。今日、初めて試験というものを知りました」

「なんだと!」


トートは目を丸くし、それから眉をひそめた。

そのまま、正面のディスンに顔を向けた。

ディスンは何でもない顔で言った。


「古書に紛《まぎ》れて、過去の試験問題がここにあるだろう。一度、一通りやらせてみてほしい。結果を見たうえで、今後の勉強方法について考えたい」

「今から受験勉強をするのか! あの学校の試験がどれだけ難しいか、お前が知らないわけじゃないだろう」

「一番得点を落としやすい数理《すうり》は、おそらく問題ないと踏《ふ》んでいる。むしろ、リルテが何ができないかを知りたい」

「お前……試験まであと一年ないぞ」


ディスンは、腕を組んで深く座った。

そして、リルテに視線を向けた。


「リルテ、これからお前がどれくらい物事を知っているか、試す。決められた時間内で、出された問いに答えて、正解した分だけ点が入る仕組みだ。冬に受ける試験は問題が変わるが、方式は同じだ。合計点だけでなく、各分野に最低点がある。結果を見て、今のままでは合格できないと言われたら、どうする」

「出される問題は、勉強をしていれば答えられる?」

「まぁ、そう思っていいだろう」

「それなら、足りていないところを勉強する」

「意欲は分かるが、そんなに単純じゃないぞ。……ミダスの州立校か、他の州立校ではだめなのか?」

「いや、ミダスには行かせない」


即答したディスンに、トートは怪訝《けげん》な顔を向けた。

リルテは、椅子に座り直した。


「ディン、他の学校でもあの図書館に入れるの?」

「州立学校の学生証でも、閲覧室《えつらんしつ》には入れる。申請すれば、書庫の本を取り寄せてもらうこともできる。だが、開架区画《かいかくかく》に立ち入り、並んだ本を自分で手に取れるのは、王立学校の学生だけだ」

「分かった」


リルテは、斜め向かいのトートの方に身体を向けた。


「トートさん、僕は王立学校に行きたいです」

「お前さん……まさか」

「パンビオロンに入りたい。本を読みたい」


トートが鋭く息を吸った。


「――ここにも本はあるぞ。どれも売り物だから、普段は店で読むのを断っておる。だが、わしを助け出してくれた礼だ。お前さんなら、どの本を読んでも構わない」

「ありがとうございます。とても嬉しいです。ロゴテカの本は全部読みたい。でも、僕は、この国のすべての蔵書に、触れてみたい」


リルテは、ゆっくり瞬きをした。

ロゴテカへ来るまで、遠くに見えていた壮大で優美な建物を思った。

見たことがない開架書庫という場所のことを思った。


「トートさん。ここで勉強をさせてもらえるのでしたら、どんなお手伝いでもします」

「どんなと言ってもな……」

「知らないことは、覚えます。出来るだけ、トートさんのご迷惑にならないようにしますから」

「ううむ……」


トートは、リルテの声の方へ顔を向けたまま、顎髭《あごひげ》を指で撫でた。

ディスンが言った。


「トート。模試をしてから考えさせてくれ」

「……わかった。準備をしよう。昨年のでいいな」


椅子から立ち上がり、トートは一階に下りて行った。

その背を見送ると、ディスンはリルテへ顔を向けた。


「リルテ、今日はかなり歩いた。このまま試験を、と思ったが、明日にするか?」

「ううん。疲れてないよ。今日やってしまいたい」

「飯は? 腹の虫が鳴いてないか?」

「鳴いてない!」


ディスンはリルテの膨《ふく》れた頬を見て、苦笑した。


「ディンは疲れてない? ご飯、食べたかった?」

「いや。俺は、今やってもらった方が助かる」

「じゃあ、今やる」


トートが、本を持って戻ってきた。

ディスンが筆記用具を準備し、試験の説明をした。


「王立学校の筆記試験は、読解・作文、数理、地理・歴史、博物《はくぶつ》。この四科目だ。解答はこの紙。途中式などは、全部こっちの紙に書け。分からないところは、適当に埋めるな。空欄にしろ。本番と同じ制限時間で解いてもらうが、今日は終わったら声を掛けていい。どれからやりたい?」

「当日も選べる?」

「選べない。教官の気まぐれだな」

「じゃあ、ディンが選んで」

「分かった」


ディスンは、数理、博物、地理・歴史、読解・作文の順に並べた。


「はじめ」


リルテは、静かに本を開き、問題を読むと、さっそく渡された紙に答えを書き始めた。

トートが手を伸ばし、ディスンの居場所を探り当てる。

声を潜《ひそ》めた。


「戻っても構わないぞ。結果は送る」

「いや、採点をしてから戻る。しばらく出られなくなりそうだ」

「そうか」


トートは頷いて、リルテの手元で、答案用紙の文字が増えていくのをじっと見た。

ただ、ひたすら続く筆記用具が紙を擦る音を聞いて、一階に戻って行った。


ディスンは、リルテの気が散らないように少し離れて椅子に座ったが、問題を解いている間、リルテは一度も顔を上げなかった。


数理は三十分ほどで、問題の最後まで解き終わった。

博物も同じようなものだったが、地理・歴史は時間を全部使った。読解・作文は、五分ほど余らせて、ディスンに解答用紙を渡した。


次の教科の試験をしている間に、ディスンは採点をした。

最後の読解・作文の採点中、リルテは、ディスンの手元を見つめていた。


ちょうどすべてが終わったところで、見計らっていたように、トートが二階に上がってきた。


「どうだ」


リルテも緊張の面持ちで答えを待った。

ディスンは、自分の目の前に持っていた解答用紙を、卓の上に広げた。


「面白いぞ」


リルテとトートは、赤い文字で書かれた点数を覗き込んだ。

トートは目を剥《む》いた。


「数理と博物が満点だと?」

「その代わり、地理・歴史が六十点で、読解・作文に関しては二十点だ」


数理と博物は、ディスンが予想した通りだった。

ただ、読解・作文は思っていた以上にひどい。


「リルテ。お前の師《せんせい》の書棚には文学はなかったのか」

「文学? どんな本?」

「最後の試験で出された文章のような、物語が書かれた本だ」


リルテは、首を振った。

トートは、その横で数理の解答用紙を手にして、ため息を吐いた。


「この数式は、美しいな。確か、昨年の試験でこの問題を完全に解いた者はいなかったはずだ」

「この問いの解答も、模範解答通りだった。天文の距離計算など、暦《こよみ》でも作らせる気かと思う。あとは実技だが」

「そうだ! 実技はどうする」

「あれこそ、試験担当教官の気まぐれだ。しかも無作為に誰かと組まされる。本番一発勝負だな」


神妙な顔で話す大人たちを見て、リルテがおずおずと声を掛けた。


「あの、僕は合格できないの?」


ディスンは解答用紙を置いて顔を上げた。


「数理と博物だけなら申し分ない。だが、読解・作文が最低点の基準を大きく下回っている。王立学校は一部の科目だけ飛び抜けていても、受からない」


リルテは、肩を落とした。

だが、すぐに背筋を伸ばして顔を上げた。


「勉強する! 文学を読んでみる」

「読解力と作文力の向上は、本を読むだけでは難しい。だが、全く触れていなかったなら、まずはこういう文章に慣れることから始めるのがいいだろうな」

「分かった。地理は、師の本棚にあったからできたけど、歴史が分からなかった。勉強させて」


隣に立っていたトートが、リルテの腕を指で探り、手のひらを添えた。


「歴史に関しては、わしが面倒を見よう。一日一度、時間を作る」

「いいのですか?」

「ああ、いいとも」


トートは、手に持っていた紙を卓の上に広げた。


「考えていたんだ。リルテ。お前さんを受け入れるとしたら、どうするべきかを」

「契約書?」

「そうだ。お互いの『大事な約束』をはっきりさせるための証拠になる書類だよ」

「――見るぞ」


リルテが頷くと、ディスンが向かいから手を伸ばし、書類を取り上げて、じっくりと読み始めた。

リルテは、契約書の方に目をやったトートの横顔をじっと見つめた。


「手伝ってくれると言っていたな。その気持ちが変わらないなら、お前さんを、ここで雇おう。日中は他の修復師見習いと一緒に仕事をしなさい。仕事中でも、時間を捻出《ねんしゅつ》できるなら勉強してもいい。だが、やるべきことは必ずやりなさい。そうして、ここで暮らしながら、試験に臨めばいい」

「就業時間は朝九時から、十六時まで。一日五十冊の虫干しと、一冊の書籍修復補助。交代で店番。昼に休憩を一時間。休日は週に二日。これで三食、寝床付き」


ディスンは読み終えた契約書を差し出した。

受け取りながら、リルテは首を傾げた。


「虫干しって、なに?」

「本に棲《す》む紙魚《しみ》を追い出す作業だ。さっきの二人は、それぞれ一日百冊、虫干しをする。お前さんは様子見だ。書籍の修復補助は、一冊としたが、修復箇所が多ければ、相談しなさい。二冊目、三冊目の修復ができたら、その分は別に支払う。だが、質を落としてはいけない」


リルテは、ディスンから渡された契約書を読んだ。

トートが言ったことと、ディスンが言ったことが、文章になっていた。

上から下まで二度、目を通して、ディスンの顔を仰いだ。


「ディン、僕はこの契約で働いてもいいの?」

「リルテはどう思う?」

「村では、太陽が昇ってから落ちるまでが仕事の時間だったから、九時から働き始めるのは、遅いと思う」


ディスンは、片眉を上げて少し考える顔をした。


「店の仕事は九時からだ。契約上、それより前に働く必要はない」

「……仕事しなくていいの?」

「そんなに仕事ばかりして、お前は勉強の時間をどうやって作るつもりだ」

「十六時以降は勉強の時間にするよ。でも、僕は住まわせてもらうのに……」

「まったく、お前は……ここの家主も、契約の相手もトートだ。トートと相談するんだな」


呆れ顔で投げたディスンに小さく口を尖らせて、リルテは、トートを見た。

トートは顎髭を撫でた。


「では、よければ、仕事の時間までの朝の家事をわしと分けてくれないか。洗濯と食事の準備だ」


青みがかった緑色の瞳がくるりと動いた。


「もちろん、契約外の時間はお前さんのものだ。やりたいことがあれば優先してやっていい。だが、歳を取ったら高い所に干し物をするのも、重い鍋を振るのも億劫《おっくう》になった。お前さんは背が高そうだ。一緒にやってくれたら、助かる」

「トート。リルテとは、ほとんど背丈が変わらないぞ」

「十二歳だろう? すぐ伸びる」

「やります! トートさん。僕、重いものを持つのは得意です」

「トートでいい。お前さんは細っこいが、鍛えておったのか」

「いいえ。鍛えてはいません。でも、荷物を持つときは支点との距離をできるだけ近づければ、筋肉にかかる負担は軽くなります。重い鍋も、身体に近づけて振ってみます」


ディスンが、堪え切れないというように笑った。


「鍋は、荷物と同じにはいかないだろう。身体に近づけすぎたら、火傷《やけど》をするぞ。さては、料理をしたことがないな。この分じゃ、味は期待できない」

「だって、料理はいつもお母さんが……」


言いかけたまま、リルテは、ぷつりと言葉を切って放心したように固まった。

ディスンの口元から、ゆっくりと笑みが消えた。

唇がきつく結ばれる。


リルテは唇を噛んでうつむいた。

堪えようとしたのに、熱いしずくがぽたぽたと足元に落ちてしまった。

喉が震えた。

鼻をすすった。


トートは、目尻の皺を柔らかくほどいて、言葉の途切れた方へ顔を向けた。

そして、手を伸ばしてリルテの肩を探り当てると、背中へ手を回した。


「味付けはわしが教えてやろう。リルテ。なに。お前さんならすぐに香辛料の名前も特徴も覚えるだろう」

「はい……」

「ほら。手拭いがある。涙を拭きなさい。鼻をかんでもいい」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい。もともとこれは明日洗濯するつもりだった」


小刻みに震えるリルテの身体をゆっくりとさすり、トートは反対の手で腰元から引き抜いた手拭いを差し出した。

リルテは両手でそれを受け取った。


「トート……僕、契約します。書いてある仕事を、手を抜かないでやります」

「そうか」


大粒の涙が、手拭いに染みを作った。


「ディン。僕、勉強して、王立学校に入るよ」

「時々、様子を見に来る。励《はげ》め」


リルテは、涙の残る銀色の瞳でディスンを見て、しっかりと頷いた。

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