1部 - 2「満点と、二十点」
板敷の間に落ちた本は、すぐ後にやってきた店員だという二人の男性に、トートが整理を任せてしまった。
トートは、リルテとディスンを連れて、ロゴテカの二階に場所を移した。
窓の外はいつの間にか暗くなっていて、壁と、天井から吊り下がった石灯を点けると、部屋が明るくなった。
そこは居住空間だった。
壁際には調理をする道具などが置いてある。
部屋の真ん中あたりには四角い卓があり、椅子が四つ置かれていた。
指示されたひとつに、リルテは腰かけた。
ディスンはトートの向かいに座った。
そして、ロゴテカを訪れた理由を手短に話した。
リルテが山奥の村から出てきたこと。
ヘリオスには身寄りも、住む場所もないこと。
王立学校への入学を目指すため、勉強のできる環境を探していること。
ミダスで何があったかには、一切触れなかった。
リルテは、黙ってディスンの横顔を見つめた。
卓に肘をついて指を組むと、トートはその指の上に顎を載せた。
「なるほど。まだ、十二歳だったのか。この通り、わしの目は人の姿を映さない。おかげで、声や言葉で年を測る癖がついてしまって。もっと上かと思い込んでしまった。悪いことをしたな」
「いいえ」
リルテは、はっきりと声を出した。
トートは、リルテの方へ首を向けた。
「つまり、お前さんはここで王立学校へ行くための試験勉強をしたいと」
「はい」
リルテは頷いた。
トートは、「王立学校」と、もう一度口の中で呟いた。
「今まで、試験に向けてどんな勉強をしてきたのだ?」
「試験のための勉強はしていませんでした。今日、初めて試験というものを知りました」
「なんだと!」
トートは目を丸くし、それから眉をひそめた。
そのまま、正面のディスンに顔を向けた。
ディスンは何でもない顔で言った。
「古書に紛れて、過去の試験問題がここにあるだろう。一度、一通りやらせてみてほしい。結果を見たうえで、今後の勉強方法について考えたい」
「今から受験勉強をするのか! あの学校の試験がどれだけ難しいか、お前が知らないわけじゃないだろう」
「一番得点を落としやすい数理は、おそらく問題ないと踏んでいる。むしろ、リルテが何ができないかを知りたい」
「お前……試験まであと一年ないぞ」
ディスンは、腕を組んで深く座った。
そして、リルテに視線を向けた。
「リルテ、これからお前がどれくらい物事を知っているか、試す。決められた時間内で、出された問いに答えて、正解した分だけ点が入る仕組みだ。冬に受ける試験は問題が変わるが、方式は同じだ。合計点だけでなく、各分野に最低点がある。結果を見て、今のままでは合格できないと言われたら、どうする」
「出される問題は、勉強をしていれば答えられる?」
「まぁ、そう思っていいだろう」
「それなら、足りていないところを勉強する」
「意欲は分かるが、そんなに単純じゃないぞ。……ミダスの州立校か、他の州立校ではだめなのか?」
「いや、ミダスには行かせない」
即答したディスンに、トートは怪訝な顔を向けた。
リルテは、椅子に座り直した。
「ディン、他の学校でもあの図書館に入れるの?」
「州立学校の学生証でも、閲覧室には入れる。申請すれば、書庫の本を取り寄せてもらうこともできる。だが、開架区画に立ち入り、並んだ本を自分で手に取れるのは、王立学校の学生だけだ」
「分かった」
リルテは、斜め向かいのトートの方に身体を向けた。
「トートさん、僕は王立学校に行きたいです」
「お前さん……まさか」
「パンビオロンに入りたい。本を読みたい」
トートが鋭く息を吸った。
「――ここにも本はあるぞ。どれも売り物だから、普段は店で読むのを断っておる。だが、わしを助け出してくれた礼だ。お前さんなら、どの本を読んでも構わない」
「ありがとうございます。とても嬉しいです。ロゴテカの本は全部読みたい。でも、僕は、この国のすべての蔵書に、触れてみたい」
リルテは、ゆっくり瞬きをした。
ロゴテカへ来るまで、遠くに見えていた壮大で優美な建物を思った。
見たことがない開架書庫という場所のことを思った。
「トートさん。ここで勉強をさせてもらえるのでしたら、どんなお手伝いでもします」
「どんなと言ってもな……」
「知らないことは、覚えます。出来るだけ、トートさんのご迷惑にならないようにしますから」
「ううむ……」
トートは、リルテの声の方へ顔を向けたまま、顎髭を指で撫でた。
ディスンが言った。
「トート。模試をしてから考えさせてくれ」
「……わかった。準備をしよう。昨年のでいいな」
椅子から立ち上がり、トートは一階に下りて行った。
その背を見送ると、ディスンはリルテへ顔を向けた。
「リルテ、今日はかなり歩いた。このまま試験を、と思ったが、明日にするか?」
「ううん。疲れてないよ。今日やってしまいたい」
「飯は? 腹の虫が鳴いてないか?」
「鳴いてない!」
ディスンはリルテの膨れた頬を見て、苦笑した。
「ディンは疲れてない? ご飯、食べたかった?」
「いや。俺は、今やってもらった方が助かる」
「じゃあ、今やる」
トートが、本を持って戻ってきた。
ディスンが筆記用具を準備し、試験の説明をした。
「王立学校の筆記試験は、読解・作文、数理、地理・歴史、博物。この四科目だ。解答はこの紙。途中式などは、全部こっちの紙に書け。分からないところは、適当に埋めるな。空欄にしろ。本番と同じ制限時間で解いてもらうが、今日は終わったら声を掛けていい。どれからやりたい?」
「当日も選べる?」
「選べない。教官の気まぐれだな」
「じゃあ、ディンが選んで」
「分かった」
ディスンは、数理、博物、地理・歴史、読解・作文の順に並べた。
「はじめ」
リルテは、静かに本を開き、問題を読むと、さっそく渡された紙に答えを書き始めた。
トートが手を伸ばし、ディスンの居場所を探り当てる。
声を潜めた。
「戻っても構わないぞ。結果は送る」
「いや、採点をしてから戻る。しばらく出られなくなりそうだ」
「そうか」
トートは頷いて、リルテの手元で、答案用紙の文字が増えていくのをじっと見た。
ただ、ひたすら続く筆記用具が紙を擦る音を聞いて、一階に戻って行った。
ディスンは、リルテの気が散らないように少し離れて椅子に座ったが、問題を解いている間、リルテは一度も顔を上げなかった。
数理は三十分ほどで、問題の最後まで解き終わった。
博物も同じようなものだったが、地理・歴史は時間を全部使った。読解・作文は、五分ほど余らせて、ディスンに解答用紙を渡した。
次の教科の試験をしている間に、ディスンは採点をした。
最後の読解・作文の採点中、リルテは、ディスンの手元を見つめていた。
ちょうどすべてが終わったところで、見計らっていたように、トートが二階に上がってきた。
「どうだ」
リルテも緊張の面持ちで答えを待った。
ディスンは、自分の目の前に持っていた解答用紙を、卓の上に広げた。
「面白いぞ」
リルテとトートは、赤い文字で書かれた点数を覗き込んだ。
トートは目を剥いた。
「数理と博物が満点だと?」
「その代わり、地理・歴史が六十点で、読解・作文に関しては二十点だ」
数理と博物は、ディスンが予想した通りだった。
ただ、読解・作文は思っていた以上にひどい。
「リルテ。お前の師の書棚には文学はなかったのか」
「文学? どんな本?」
「最後の試験で出された文章のような、物語が書かれた本だ」
リルテは、首を振った。
トートは、その横で数理の解答用紙を手にして、ため息を吐いた。
「この数式は、美しいな。確か、昨年の試験でこの問題を完全に解いた者はいなかったはずだ」
「この問いの解答も、模範解答通りだった。天文の距離計算など、暦でも作らせる気かと思う。あとは実技だが」
「そうだ! 実技はどうする」
「あれこそ、試験担当教官の気まぐれだ。しかも無作為に誰かと組まされる。本番一発勝負だな」
神妙な顔で話す大人たちを見て、リルテがおずおずと声を掛けた。
「あの、僕は合格できないの?」
ディスンは解答用紙を置いて顔を上げた。
「数理と博物だけなら申し分ない。だが、読解・作文が最低点の基準を大きく下回っている。王立学校は一部の科目だけ飛び抜けていても、受からない」
リルテは、肩を落とした。
だが、すぐに背筋を伸ばして顔を上げた。
「勉強する! 文学を読んでみる」
「読解力と作文力の向上は、本を読むだけでは難しい。だが、全く触れていなかったなら、まずはこういう文章に慣れることから始めるのがいいだろうな」
「分かった。地理は、師の本棚にあったからできたけど、歴史が分からなかった。勉強させて」
隣に立っていたトートが、リルテの腕を指で探り、手のひらを添えた。
「歴史に関しては、わしが面倒を見よう。一日一度、時間を作る」
「いいのですか?」
「ああ、いいとも」
トートは、手に持っていた紙を卓の上に広げた。
「考えていたんだ。リルテ。お前さんを受け入れるとしたら、どうするべきかを」
「契約書?」
「そうだ。お互いの『大事な約束』をはっきりさせるための証拠になる書類だよ」
「――見るぞ」
リルテが頷くと、ディスンが向かいから手を伸ばし、書類を取り上げて、じっくりと読み始めた。
リルテは、契約書の方に目をやったトートの横顔をじっと見つめた。
「手伝ってくれると言っていたな。その気持ちが変わらないなら、お前さんを、ここで雇おう。日中は他の修復師見習いと一緒に仕事をしなさい。仕事中でも、時間を捻出できるなら勉強してもいい。だが、やるべきことは必ずやりなさい。そうして、ここで暮らしながら、試験に臨めばいい」
「就業時間は朝九時から、十六時まで。一日五十冊の虫干しと、一冊の書籍修復補助。交代で店番。昼に休憩を一時間。休日は週に二日。これで三食、寝床付き」
ディスンは読み終えた契約書を差し出した。
受け取りながら、リルテは首を傾げた。
「虫干しって、なに?」
「本に棲む紙魚を追い出す作業だ。さっきの二人は、それぞれ一日百冊、虫干しをする。お前さんは様子見だ。書籍の修復補助は、一冊としたが、修復箇所が多ければ、相談しなさい。二冊目、三冊目の修復ができたら、その分は別に支払う。だが、質を落としてはいけない」
リルテは、ディスンから渡された契約書を読んだ。
トートが言ったことと、ディスンが言ったことが、文章になっていた。
上から下まで二度、目を通して、ディスンの顔を仰いだ。
「ディン、僕はこの契約で働いてもいいの?」
「リルテはどう思う?」
「村では、太陽が昇ってから落ちるまでが仕事の時間だったから、九時から働き始めるのは、遅いと思う」
ディスンは、片眉を上げて少し考える顔をした。
「店の仕事は九時からだ。契約上、それより前に働く必要はない」
「……仕事しなくていいの?」
「そんなに仕事ばかりして、お前は勉強の時間をどうやって作るつもりだ」
「十六時以降は勉強の時間にするよ。でも、僕は住まわせてもらうのに……」
「まったく、お前は……ここの家主も、契約の相手もトートだ。トートと相談するんだな」
呆れ顔で投げたディスンに小さく口を尖らせて、リルテは、トートを見た。
トートは顎髭を撫でた。
「では、よければ、仕事の時間までの朝の家事をわしと分けてくれないか。洗濯と食事の準備だ」
青みがかった緑色の瞳がくるりと動いた。
「もちろん、契約外の時間はお前さんのものだ。やりたいことがあれば優先してやっていい。だが、歳を取ったら高い所に干し物をするのも、重い鍋を振るのも億劫になった。お前さんは背が高そうだ。一緒にやってくれたら、助かる」
「トート。リルテとは、ほとんど背丈が変わらないぞ」
「十二歳だろう? すぐ伸びる」
「やります! トートさん。僕、重いものを持つのは得意です」
「トートでいい。お前さんは細っこいが、鍛えておったのか」
「いいえ。鍛えてはいません。でも、荷物を持つときは支点との距離をできるだけ近づければ、筋肉にかかる負担は軽くなります。重い鍋も、身体に近づけて振ってみます」
ディスンが、堪え切れないというように笑った。
「鍋は、荷物と同じにはいかないだろう。身体に近づけすぎたら、火傷をするぞ。さては、料理をしたことがないな。この分じゃ、味は期待できない」
「だって、料理はいつもお母さんが……」
言いかけたまま、リルテは、ぷつりと言葉を切って放心したように固まった。
ディスンの口元から、ゆっくりと笑みが消えた。
唇がきつく結ばれる。
リルテは唇を噛んでうつむいた。
堪えようとしたのに、熱いしずくがぽたぽたと足元に落ちてしまった。
喉が震えた。
鼻をすすった。
トートは、目尻の皺を柔らかくほどいて、言葉の途切れた方へ顔を向けた。
そして、手を伸ばしてリルテの肩を探り当てると、背中へ手を回した。
「味付けはわしが教えてやろう。リルテ。なに。お前さんならすぐに香辛料の名前も特徴も覚えるだろう」
「はい……」
「ほら。手拭いがある。涙を拭きなさい。鼻をかんでもいい」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。もともとこれは明日洗濯するつもりだった」
小刻みに震えるリルテの身体をゆっくりとさすり、トートは反対の手で腰元から引き抜いた手拭いを差し出した。
リルテは両手でそれを受け取った。
「トート……僕、契約します。書いてある仕事を、手を抜かないでやります」
「そうか」
大粒の涙が、手拭いに染みを作った。
「ディン。僕、勉強して、王立学校に入るよ」
「時々、様子を見に来る。励め」
リルテは、涙の残る銀色の瞳でディスンを見て、しっかりと頷いた。




