3部 - 3「この国のすべての本」
リルテは面食らったようにぽかんと口を開けた。
何度も瞬きをして、戸惑ったように眉を下げる。
「学校? ……僕は働かないと」
「働く一番の理由は、金だな」
「はい」
「金はある」
「?」
「昨日、お前を競り落とした男が舞台に投げた金だ。主催者は受け取らずに逃げた。いったん統治局へ提出するが、競りにかけられた子どもたちで等分するよう提案する。許可が下りれば、お前にも六分の一が入る。学校へ通うには十分だ。だが、元はお前に付けられた値だ。異論があるなら聞く」
リルテは、即座に首を振った。
「分けてください。みんな、帰りたいって泣いていました。お家が貧しいから売られたのだって。……お金があったらきっと帰れる」
「いや、そんなに簡単にはいかないだろうな」
「なぜですか」
「家が貧しいから売られた子どもを、金だけ持たせて帰せば、その後は、どうなる」
リルテは目を伏せ、じっと卓の一点を見つめていた。
だが、時を置いても答えられなかった。
「その先を考えられるようになれ。学校で学べ」
「学校へ行けば分かるようになるのですか?」
ディスンは、目を閉じてひとつ呼吸をした。
首を傾げるリルテに、問い返す。
「村に、学校はなかったのか?」
「はい」
「どうやって計算ができるようになったんだ」
「教会にいる師に、勉強を教えてもらいました。師の本棚にはたくさん本があったので、分からないときはそれを読んで調べました」
「なるほど」
ようやく、リルテが年齢のわりに大人びて見える理由の一つが分かった。
同年代と机を並べるのではなく、大人の師から直接教えを受けてきたのだ。
それにしても、リルテはかなり高度な知識を持っている。
教会にいた師は、よほど博識だったに違いない。
分からないことがあれば、本を読んで調べる。
その学び方に、ディスンは妙な懐かしさを覚えた。
――答えを訊く前に、まず本を読め。
十年以上聞いていない、厳しい声が耳の奥に蘇った。
「何を学ぶかは、自分次第だ。一人で本を読むのだって、そうだろう。だが、学校には大勢の他人がいる。人の中で過ごすことは、本から知識を得るのとは違う学びになる」
大きな目をぱちぱちと瞬かせ、リルテはようやく「わかりました」と答えた。
「学校には、いつから行くのでしょう。明日からですか?」
「十三歳になる年から通うんだ。冬に試験がある。それに受からなくては入学できない」
「……試験……」
未知の壁に怯んだ様子だが、ディスンは、リルテの学力ならば試験自体は心配はいらないと思っていた。
まだ、夏が来ていない。
何か学んでいない科目があっても、今から準備をすれば、間に合うだろう。
「リルテ、お前は本が好きだろう」
「はい」
「王立学校の学生証を持っていれば、王立図書館の開架区画へ入れるようになる」
「王立図書館……?」
「そうだ。この国のすべての蔵書が集まる書庫。パンビオロンだ」
「パンビオロン……」
みるみるうちに、リルテの目が輝いた。
卓に身体を乗り出す。
「開架区画というのは、本棚の本を、自分で手に取って読んでもいいところですか」
「そうだ」
「行きたいです! 本を、読みたい」
「試験まで学べる場所に、心当たりがある。そこへ預けよう」
「はい! ありがとうございます」
「あのう、空になったお皿、お下げしてもよろしいですか」
ぶっきらぼうな声が聞こえた。
店員が嫌な顔をしてリルテの後ろに立っていた。
すっかり長居をしてしまった。
ディスンは頷いて、蕎麦が入っていた皿を示した。
リルテは、すっかり冷めてしまったスープを、ごくごくと飲み干した。
「ごちそうさまでした。あの、とても美味しかったです」
深くお辞儀をすると、リルテは、皿を捧げるようにして差し出した。
店員は瞬きをして、相好を崩した。
「ありがとうございます。また来てくださいね」
皿を両手に持った店員が、軽い足取りで奥に戻って行った。
ディスンは、リルテを促して立ち上がった。
表へ出る。
日は中天近くまで上がっていて、人の往来は増していた。
「わ、待って。待ってください。えっと、ディン!」
来た時のように辺りを見回すどころか、前後左右からやってくる人に翻弄され、挟まれて、リルテが声を上げた。
腕を引いて人波から引っこ抜いてやると、リルテは息を吐いた。
「あ、ありがとうございます」
「もう敬語はいらない。普通に話せ」
大きな目が丸くなった。
少し戸惑ったように目を瞬かせて、リルテは頷いた。
それを見て、再び歩き出す。
今度はリルテを置いていかないよう、歩調を合わせた。
「あの、ディン」
「なんだ」
「僕は稼げるようになるまで、お金をどうしたらいい?」
「俺が決めたことだ。金が支給されるまでは、俺が出す。必要なものがあったら言え」
リルテは納得がいっていないようだった。
さっきまで金の相場も分かっていなかったくせに、誰かに負担をかけることには妙に敏い。
アンバーだったら、喜んで奢られるだろうに。
「そうだな。どうしても支払いたかったら、お前が本当に立派になった時、支払ってくれ」
「それは、誰の評価で?」
「誰もかれもだ」
「……」
少し考えてから、ディスンには支払わせる気がないことに気づいたのか、リルテが頬を膨らませた。
こういう子どもらしい顔もするのか。
口元が緩むと、リルテの頬が一層膨らんだ。
「いつか」
「ん?」
「いつかきっと支払うから」
「そうか」
ディスンはリルテから視線をほどいて、遠く広がる空を見た。
「楽しみにしていよう」
白壁の家の屋根から、一羽の鳥が飛び立った。
遅れて、もう一羽がその後を追った。
喧騒の満ちる繁華街を抜け、二人は宿へ戻った。
荷物をまとめたディスンは、リルテを連れて首都の門へ向かった。




