3部 - 1「ここでは、ディンと呼べ」
鳥の声で目が覚めると、窓の外はすっかり明るかった。
ディスンはベッドを下りた。
顔を洗い、ひげを剃って、頭に布を巻いた。
部屋を出る。
昨夜と同じように廊下を歩き、隅の部屋の扉を叩いた。
休ませたのはずいぶん遅い時間だった。
まだ寝ているかもしれない。
そう思ったが、扉はすぐに開いて、銀色の頭がひょっこりと覗いた。
「おはようございます」
「起きていたか……眠れなかったのか」
「いいえ。眠れました」
首を振るが、ぱちぱちと瞬く大きな目の下に、隈ができていた。
声にも張りがない。
ディスンは、リルテの肌の色と呼吸を確認した。
「体調が悪くなったか」
異常は見られないが、やはり昨日のうちに医者に診せるべきだったか。
「いいえ。薬をいただきましたので、喉も痛くなくなりました」
「見せろ。椅子に座れ」
扉を押さえると、リルテは部屋に入り、隅にしつらえられた机の前の椅子を引いて、窓の近くに置き、腰かけた。
目を閉じて、口を開ける。
腰を屈めて、覗き込んだ。
窓から差し込む光で、石灯がなくても喉の奥まで見えた。
確かに、炎症は治まっている。
「喉のほかに、どこかおかしいところはないか。眩暈がしたり、頭が重かったり。何でも言え」
「はい。どこも……」
頷いたリルテの方から、獣が唸るような音が聞こえた。
あっ、という顔をして、リルテは腹を押さえた。
やっと合点がいった。
昨夜は、飯を食う時間などなかった。
腹が減っていて当然だ。
リルテは小さくなってディスンを見上げた。
「ごめん、なさい」
「何を謝る」
ディスンは腰を伸ばして、顔を赤くするリルテに首を振った。
「飯を食いに行くぞ」
夜通し明るいミダスの街は、朝になっても賑やかだ。
道のあちらこちらに市が立ち、辻には行商人が荷車を止めて、荷台に載せた商品を売っている。
ディスンは朝飯を出している行きつけの店を目指して、街の喧騒を抜けようとしたが、何度も足を止める羽目になった。
人混みは、相変わらずだ。
リルテが、来ないのだ。
行き交う人を眺め、店先の商品にくぎ付けになり、商人の呼び声に首を伸ばす。
銀色の頭がふらつきそうになるたび、名前を呼んだ。
盛大に腹の虫を鳴らしていたくせに、この子どもの中では、好奇心の虫の方が主張が強いらしい。
このままでは、朝飯が昼飯になる。
ディスンは、歩くのを諦めて、近くの店に入ることにした。
扉を開けると、鐘の音が鳴った。
店内にはほとんど人がいなかった。
店を外したか、と思ったが、店員と目が合っては、出るわけにもいかない。
二人だというのに、六席ある卓に案内された。
向かい合って座り、ディスンはリルテの前に菜単表を広げた。
「好きなものを選べ」
「ありがとうございます」
リルテは上から下まで何度も目を往復させて、アヒルのスープを指さした。
ディスンは水を持ってきた店員を呼び留め、自分の朝飯とリルテのスープを注文する。
菜単表を閉じると、リルテが「あ」と声を漏らした。
「食べてから、足りないようなら追加すればいい」
「いいえ。その……もう少し読んでいてもいいですか」
「読む?」
「料理の名前の下に、食材が書いてありました。初めて見る名前を覚えたいのです。後で調べます」
リルテが赤い菜単表の表紙をじっと見つめる顔は、餌を前にした、飢えたオオカミのように、真剣だった。
「……構わないが、料理が来たらしまえ」
「はい」
ディスンが手を放すと、リルテは嬉しそうに菜単表を引き寄せて、むさぼるように読み始めた。
一つ一つの料理名を目で追い、材料を見ては沈思する。
「本があれば……」と呟き、また文字を追う。
ディスンは卓に肘をつき、手の甲に顎を載せて、リルテの百面相を眺めた。
「アヒルのスープと五目唐辛子蕎麦です……追加のご注文ですか?」
「いや、読んでいただけだ。……来たぞ」
リルテははっと顔を上げて、菜単表を閉じた。
怪訝な顔をした店員が、大きな器をリルテの前に置いた。
「こんなに、たくさん」
リルテは目を見開き、スープを見つめた。
リルテの腹が、また、ぐぅと鳴った。
ようやく空腹を思い出したようだった。
ディスンは箸を持ち、自分の前に置かれた赤い汁から蕎麦を摘み上げる。
「早く腹の虫に飯をやれ」
「はい。いただきます」
リルテは丁寧に頭を下げ、匙で掬ったアヒルの肉を口に頬張った。
噛んで、飲み込む。
顔がほころんだ。
「美味しいです」
「そうか」
ディスンは蕎麦をすすった。
覚悟していたほど味は悪くなかったが、感動するほどでもない。
だが、リルテは一口ごとに表情を変えながら、噛みしめ、美味そうに食べた。
ディスンが空になった器を端に寄せた時、リルテのスープはまだ三分の一ほど残っていた。
場所を変えることも考えたが、この客数であれば、店の邪魔にはならないだろう。
幸い奥の卓で、隣も後ろも空席だ。
大声で話さなければ、周囲にまで聞こえることもない。
「食べながらでいい。この後のことを考えるにあたって訊きたいことがある」
そう言うと、リルテは、スープから顔を上げた。
「いくつかお前について質問をする。尋問じゃない。硬くなるな」
「わかりました」
肩の力を抜いて、ディスンを見る。
リルテに構える様子は一切なかった。
「……質問を始める前に、お前は何も訊かなくていいのか?」
「何か、僕から訊くことがありますか?」
首を傾ける動きに合わせて、銀色の髪がさら、と額の前を流れた。
ディスンは少し呆れた。
「気にならないのか? 素性も明かさない相手が、お前に自分のことを話せと言っているんだぞ」
リルテの銀色の瞳が丸くなる。
「気には、なりました。机の上の本も、鞄も、とても面白そうでしたから。でも、僕から訊いてはいけないのかと思いました」
「なぜだ」
「昨夜、僕の名前を訊いた時、ご自分の名前は仰らなかったので、訊かない方が良いのかと。……訊いても良いのですか」
ディスンはうなずいた。
「躊躇わせたなら悪かった。だが、遠慮せず訊いてみるといい。答えられないなら、相手はそう言う。理由を聞いて、お前が納得したならそれでいい。だが、相手の素性も知らずに、自分のことだけ話すな」
「分かりました。それでは、お名前を伺ってもいいですか」
「名前だけでいいか?」
「他のことも教えてくれますか?」
「いや、教えない」
「なぜですか」
「明かせば、今晩槍が降る」
「槍が!」
リルテは顔を強張らせ、天井を見上げた。
「冗談だ。だが明かせないのは本当だ。面倒が増える。名前だけは教えよう」
ほっと安堵の息を吐いたリルテは、少しだけ身を乗り出した。
ディスンは、短く息を吐いた。
「ここでは、ディンと呼べ」
「ここでは?」
「急に遠慮がなくなったな」
リルテは小さく首を傾げた。
「別のところでは、別の呼び方があるということですか?」
「その通りだ。必要になれば教える」
「分かりました、ディンさん」
「ディンでいい」
ディスンはひとつ、深呼吸をした。
「仕切り直そう。答えられないことは答えられないと言っていい。だが、嘘は言うな」
「はい」
リルテは椅子に座り直し、姿勢を正した。
そして、しっかりとうなずいた。




