2部 - 4「地上の光」
受付で一室追加して鍵を渡し、少年を休ませた。
ディスンが自分の部屋へ戻ると、少年が計算している間に姿を消したアンバーが、窓枠に腰かけていた。
「どうした」
「服。破れた布切れじゃ、あんまりでしょ」
アンバーは包みを差し出した。
「明日買おうと思っていた。なんでも盗むな」
「失礼ね。買ったわよ」
アンバーは懐に手を差し入れると、煤のついた分厚い札束をディスンに突き付けた。
「舞台に落ちたままだったのか。よく拾ったな」
「預ける。あなたが決めて」
「わかった。抜いた服代はいくらだ」
「さすがにそこから出していいでしょ」
「よくない」
「あっそ」
押し付けられた包みと札束、ぐしゃぐしゃになった領収書を、机に置く。
アンバーはもう窓枠に足をかけていた。
「あいつは、非番だぞ」
「さっさと身体を洗うのよ。ほこりに、変な煙に、煤。肌が荒れるじゃない。それに、眠たい」
「そうか。よく休め」
「――また、探してくるわ」
琥珀色の瞳が小さく揺れていた。
ディスンがうなずくのを待たず、ひらりと窓の外に身を躍らせ、アンバーは去っていった。
ディスンは、警邏局から届いていた書簡を読んで、状況を把握した。
カランドラは全焼。
それでも、死者はなかった。
客席には、目視で十人は残っていた。
青年たちが全員担いだのか。
ディスンは死者の数字をなでて目を閉じ、深く息を吐いた。
ただ、救出された人間に、精神を冒されたものが一定数いて、それをミダスの統治局の方で調べることになったようだ。
薬は燃えている。
今回の件も、また、ルクスまで手が及ぶことはなさそうだ。
しかし、宰相のアヴァンティアも黙ってはいない筈だ。
アヴァンティアは、関係した部下を切るだろう。
ただし、宰相府の不始末として公にすることはない。
ディスンが名を騙った件も、公には追及できまい。
嫌がらせくらいは覚悟しておくべきだが。
アンバーの報告通り、競りに出された少年少女も無事だった。
だが、程度の違いはあるが、全員、客と同じように精神を冒されているという。
まともに身体を起こし、喋れる者はいない。
――いや、一人だけ例外がいる。
ディスンは顎に手を当て、眉を寄せた。
その時、小さく扉を叩く音がした。
気配を探り「入れ」と声をかけた。
ややあって、ゆっくりとドアが開く。
三分の一程度開いた隙間から、銀色の髪の少年が、おずおずと顔を覗かせた。
渡した紙と鉛筆を、胸に抱いていた。
「入れ」
「失礼、します」
少年は部屋に身体を滑り込ませると、扉を閉めて、その前に立ち尽くした。
ディスンを怖がっているようだ。
だが、少年の目はまっすぐにディスンを見ていた。
寝台を指で差す。
少年は移動して、またそこで動きを止めた。
「座っていい」
「……ありがとうございます」
「正解が出たか」
ディスンの問いに、少年は首を振った。
「考えているのですが、どうしてもわからなくて」
「……へぇ」
「だから、来ました」
ディスンは書簡を机に置いて、腕を組んだ。
「何がわからない」
「計算式が成り立つ数字です。……大きな値を入れれば、八十秒に足りるのです」
「それが答えじゃないか。お前は、俺が訊いたときには、もうわかっていただろう? 何を迷っていた」
「あなたが『何を入れればよかったか』と、訊いたので」
少年は眉を下げて俯いた。
「あの時、入れることができた数字の中で、何を入れたら良かったかを訊いているのだと思いました」
「その通りだ」
「でも、あの子の檻に駆け寄った時、僕は自分以外の何も知らなかったのです」
痩せた手が、紙を何度も握り直す。
「僕は……誰も……助けられない」
少年の瞳に涙が滲んだ。
熱い息を何度も吐いて、肩を震わせている。
ディスンの呼吸が、ひとつ遅れた。
「今なら入れられるだろう?」
少年は小さく頷いた。
「でも、あの時は分かっていなかった」
「はい」
「そういう時に、あの空欄を埋める最善がある。どうすればいいか分かるか?」
少年は顔を上げた。
目がきょろきょろと何かを探すように、彷徨った。
しかし、小さく首を振った。
「いいえ」
「誰か」
「?」
「誰か! と、叫ぶんだ」
少年は、丸く開いた瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「一人では足りなくとも、誰かを足せば助けられるかもしれない」
「だれか……」
「名は? お前の」
「……リルテ」
ディスンは、ひとつ頷いて、リルテの前に立った。
そして屈んで、目を見つめる。
「リルテ、名前を呼べ。それがお前を強くする」
少年は深く息を吸い込んだ。
そして、言葉を確かめるように、ゆっくり頷いた。
ディスンは、それ以上言葉を重ねなかった。
腰を伸ばし、机上の報告書に視線を移した。
「一つ訊く。なぜお前だけ薬が効いていない」
「薬?」
「あの舞台にいた時だ」
「……煙、ですか?」
やはり分かっていたのか。
そうだと頷くと、リルテは言った。
「良くない臭いだったので、吸わないようにしていました」
「どうやって」
「天井が高かったので、できるだけ姿勢を低くして」
「なるほど」
運ばれてきたときも、そのあとも、この子どもは始終、檻の底にへばりついていた。
「檻の出し入れで裏口が開いていましたので、そちらから空気が来た時に呼吸するようにしてました」
「……どこか、痛むところはないか」
「喉が、少し。でも、大丈夫です」
ディスンは、ため息をついて、机から手持ちの石灯を取り上げた。
「見せろ」
「え」
「口を開けろ」
「大丈夫です」
「喉の奥を見て、そう判断したのか?」
「……いいえ」
リルテは、目を閉じて、大きく口を開けた。
石灯をかざして、覗き込む。
思った通り、炎症を起こしていた。
だが、酷くはない。
「薬がある。飲んでおけ。お前は咳き込んでいたのに、対処が遅れた。悪かった」
「いいえ。ありがとうございます」
机に置いた箱から、細首の小瓶を取り出す。
リルテはディスンの差し出した薬の瓶を両手で受け取って、小さく首を傾げた。
「どうした」
「薬瓶は、みんなこういう形なんですね」
「まぁ、似たようなものじゃないか」
リルテは小さくうなずくと、蓋を開けて薬を口に流し込み、ぎゅうっと顔を顰めた。
「良薬だ」
目尻にまた涙がにじんだのを見て、水の入った湯呑みを渡してやる。
飲み干したリルテが、息を吐いて、ディスンを見た。
「ありがとうございました」
「もう礼はいい」
「いいえ。助けていただいたお礼を、あなたに言っていませんでした。本当に、ありがとうございました」
深々と下げた頭が上がった。
まっすぐに、銀色の瞳がディスンを掴んだ。
ゆっくりと瞼を下ろし、また開く。
リルテの視線は、ほどけなかった。
ディスンは、リルテの手から湯呑みを受け取り、机に置いた。
「ああ、そうだ。起きたらこれに着替えるといい」
包みを差し出す。
リルテは受け取って、開いた。
「服……いいのですか?」
「さっきの女が買ってきた」
「ありがとうございます。お金……」
「気にするな」
「でも……」
「話の続きは、明日しよう」
ディスンはリルテの言葉を、首を振って遮った。
「――夜更けだ。部屋まで行ってやろう」
「部屋の場所は分かります」
「俺が気分転換をしたい」
「そうでしたか。では、お願いします」
リルテは寝台から降りた。
部屋をつなぐ廊下には窓があり、向こうにはミダスの繁華街が広がっていた。
そこは、一晩中明るい。
リルテはまぶしそうに目を細めながら、空を仰いだ。
「ここは星が少ないですね。どこへ行ってしまったのだろう」
小さな呟きだった。
ディスンは眉を上げた。
(数刻前まで檻に入れられて、殺されそうになっていたんだぞ……)
渡した紙は、書いた数字で真っ黒になっている。
悩みが一つ消えたら、今度は星か。
アンバーですら「眠い」と言ってねぐらへ行ったのに。
「どこにも行かないさ。ただ地上に別の光があるということだ」
リルテの視線は、好奇心にあふれていた。
ディスンは、繁華街の明かりを眺めた。
「それを見ろという事だ」
リルテは「はい」と答えて、また、まぶしそうに繁華街を見た。
今度は、真剣な目だ。
――その銀の瞳に、何を映しているのか。
ディスンの口元が、少し緩んだ。




