2部 - 1「カランドラ潜入」
黄昏の頃、ミダスで一番大きな歌劇場、カランドラは明るく輝いていた。
薄闇の中から着飾った人間が現れては、重厚な扉の向こうに吸い込まれていく。
男。女。
皆、一様に仮面を付けていた。
赤、黒、緑や黄色、白。
尖ったものや丸いもの。
派手な装飾を施したそれで目元を覆い、口だけが見えている。
入口に立つ黒い服の男たちは、通る人間の顔を見ていた。
素顔の人間は、みな黒い服の男に追い返された。
カランドラは建物全体が芸術品だ。
高い天井。
まばゆい照明。
煌びやかな芸術品に飾られた大広間。
しかし、客はみな流れる優雅な旋律を聞きもせず、赤い絨毯の上を、足早に横切る。
客席に向かって。
劇場は、舞台を中心にぐるりと半円を描く。
すり鉢状に壁面まで、三層の桟敷席が広がっていた。
木造りの座席は、高級な赤い布が張られている。
そして、壁際には燭台が並び、幻想的な光で劇場内を照らしていた。
前へ、前へ。
客は我先に、炎の明かりが照らし出す、前方の席を目がけて進む。
舞台上では、肌の色を濁す程度の、薄い絹を纏った若い女が、四人、手を振り足を上げてくるくると踊っていた。
席を確保した客は、ようやく息をつき、仮面のくり抜かれた穴から、踊り子の滑らかで妖艶な四肢を、うっとりとしながら眺めていた。
ディスンは、大広間の奥にある階段を上がりながら、顔をしかめた。
(……かすかに薬草の臭いがする)
寄り道をして、偏屈老人に会っておいてよかった。
拮抗薬が、ポケットの中でちゃぷんと波立った。
――ルクスには、薬に関するよくない噂がある。
仮面の穴から、横目で客の様子を窺った。
特に異常行動の様子は見られない。
即効性があるものではなさそうだが、注意しておく必要があった。
拮抗薬は、客にまで行き渡る量はない。
(段取りが分かっていれば、備えられたが。やはり、そうはいかないな)
数刻前――
隠れ宿に戻ると、部屋にアンバーがいた。
アンバーは、磨いていた短い鉄の棒を腰元につけた鞄にしまった。
「子どもが六人いたわ」
青年の情報と合致している。
ディスンはうなずいた。
「みんな檻に入れられて、頭に麻袋をかぶせられてた」
「……そうか」
実際に競りが始まらないと、対象の子どもの確認もできない。
「出せなかった……」
目の端に映ったアンバーの肩が震えていた。
振り向くと、美しい顔が怒りに歪んでいた。
「みんな泣いてたわ。それを見てる見張り役が、笑ってるの。あたし、あいつら、許せない」
「よく堪えた」
「次は堪えない」
琥珀色の瞳が、燃えている。
ディスンは顎に手を当てた。
指で顎先を撫で、瞼を閉じる。
深く呼吸を繰り返すと、ゆっくり目を開け、床に落とした視線を上げた。
「……アンバー。子どもたちはお前に任せる。全員逃がしてやれ」
「いいの?」
「最初からそうするつもりだ」
ルクスが、自分の領地ではなく、宰相の膝元で人間の売買を行っている理由を考えていた。
しかも、それが通っている理由を。
まだ確証はないが、ディスンはそれを掴むつもりだった。
掴めればルクスの企みは、阻止できる。
この売買経路そのものを潰せる可能性もあった。
盗みの方は、アンバーの本業だ。
「――出せる子から出していく。順番が最後の子どもは、後回しになるけど」
「任せる。ただし、紫の目の子どもは連れて来て、確認したい」
「わかった。行くわ」
ディスンは机に置いた鞄に手を入れた。
「待て。これを持ってろ」
放物線を描いて飛んできた小瓶を器用に片手で掴み、アンバーは首を傾げた。
「拮抗薬だ。ルクスは薬の方もきな臭い。まぁ、お前は効かなそうだけどな」
「失礼ね。あたしは普通の人間よ。効かないのは、あなたの方でしょ」
アンバーは薬瓶を腰元の鞄に突っ込むと、憤慨しながら扉を開けて、部屋を出て行った。
「窓から出ないのか」
ディスンは言いかけて、口をつぐんだ。
扉は、普通の出入り口だ。
ディスンは、客の波から離れ、階段の裏に身体を滑り込ませた。
奥に通路がある。その突き当りに階段があった。
同じような黒い服の男がいた。
男はディスンを見て身構えた。
ディスンは手が届かない辺りで立ち止まり、仮面を示してから、胸に二回手を当てた。
男が構えを解く。
ディスンに向かって会釈し、入口を開けた。
最上階の貴賓室。
十人も入れば、いっぱいになる程度の広さだ。
入口をまたぐと、ディスンは素早く視線を巡らせた。
「集まったねぇ」
舞台がよく見えるよう、部屋の前面にしつらえられた大きな開口部。
その前に、光る石の装飾を施した青い仮面の男がいた。
蜂蜜色の髪。高い鼻。
ほとんど満席になった客席を見て、にんまりと赤い唇を歪めた。
仮面をしていようが、見間違えるはずはなかった。
七人いる枢機院のひとり。
フルオスの支配者。
ルクス。
その腕には、薄い絹地の布をかけただけの少女が抱かれていた。
少女の目は虚ろだった。
「今までで、一番多いお客様です」
赤い仮面に、黒い服。
そばに歩み寄った男が、ルクスに声をかけた。
「ふぅん。それは嬉しいねぇ。折角なのだから、楽しんでもらわなくては」
「ええ。すでに皆様、余興にお悦びですが、しびれを切らしそうなお客様も」
「せっかちだねぇ。まぁ、でも、しばらくできなかったからね。喪が明けたと思ったら、すぐに次の国王が就いたりする。慌ただしいったらないよ」
ルクスは、客席をもう一度眺めると、舞台の方へ顔を向けた。
ディスンは部屋の奥、この部屋と舞台がよく見えるところへ移動した。
部屋の中にはあと二人、黒い服の男がいる。
貴賓室付きの警備役だ。
客の私兵は階下の控え室まで。
室内へ入れるのは、カランドラが用意した者だけだった。
その代わり、ここへ至る階段では、賓客側が指定した符号を求められる。
ディスンはその一人と目が合った。
男は首筋を掻くふりをして、襟をわずかに引いた。
襟の奥、うなじに淡い光があった。
警備役はどちらもルクスと色の濃さは異なるが、青い仮面を付けている。
――ディスンも同じ仮面を付けていた。
(おごりの礼に物を貰ったのは、初めてだったな)
宿を出る前に、黒い服と仮面、それからカランドラの建築図面が届いた。
ルクス側の符号と共に。
昼間会った青年からだった。
宿の親父に「あんた、気前がいいんだね」と背中を叩かれて、ちょっと噎せたのを思い出す。
警備役の装備を確認したが、長い得物はなさそうだ。
視線をルクスの方へ戻すと、ちょうど眼下の舞台の奥から、男が飛び出してきた。
舞台で歌っていた女が、男に引きずられ、舞台袖に消えていく。
入れ違いに、派手な、赤い花を胸に差した男が舞台に現れた。
「皆さま!大変長らくお待たせいたしました!」




