クロード3
静まり返ったクロードの個人執務室には、羊皮紙を繰る微かな摩擦音だけが満ちていた。
落ち着いた木目のデスクの上には、丁寧に整えられた書類の山と、上質なインク瓶。バルタザールの元でもそれなりの用意はされていたが、高位貴族が使うものとは比べものにならない。何もかもが揃った最上級の執務環境だ。
「……よし、これでクロード様から頼まれていた上位課程の資料整理は終わり……っ」
コレットは小さく息を吐き、羽ペンを置いた。
バルタザールからの不当な搾取と無茶振りから救い出され、クロードの専属代筆人として雇われてから、もういくらかの時が経つ。 雲の上の存在だった「光の貴公子」のすぐ側で仕事ができる喜びは、今でも夢のように誇らしく、そして——恐ろしいほどに甘やかで緊張するものだった。
(クロード様のために、もっとお役に立ちたいの。……だから、これくらいなんてことないわ)
クロードからは「夜はしっかり休むように」と言われていたのに、少しでも早く完璧な成果物を見せたくて、昨夜は自室で夜遅くまで机に向かってしまった。 そのツケが回ってきたのか、立ち上がろうとした瞬間、視界がふっと白く揺れる。
「あっ……」
重力感を失った体。倒れる、と覚悟してギュッと目を閉じた瞬間——。
ふわりと漂う、上質なアンバーと清涼な柑橘が混ざり合った高貴な香り。 そして、強くもしなやかな腕が、コレットの腰を横から滑り込むように抱き留めた。
「——っと。あぶない」
耳元で響いたのは、低く整った、けれどどこか掠れた男らしい声。 目を開けると、そこには至近距離でコレットを見つめる、澄み切ったサファイアブルーの瞳があった。
「ク、クロード様……っ!?」
19歳。筆頭侯爵家の嫡男であり、学園中の羨望を集める「光の貴公子」。 美しいブロンドの髪を少し揺らし、クロードはコレットを腕の中にすっぽりと収めたまま、静かに眉をひそめた。
「顔色が悪いね、コレット。……昨日、僕が『早いうちに寝なさい』と言った時間を、君は守らなかっただろう?」
「そ、それは……! クロード様からいただいた資料が素晴らしくて、早く形にしたくて……っ」
弁明しようとするコレットの唇を、クロードの長い指先がそっと優しく塞ぐ。
「駄目じゃないか」
微笑んでいるのに、サファイアの瞳の奥には揺らめくような濃い情熱と、わずかな怒りが宿っている。
「僕が君をあそこから連れ出したのは、僕のためにボロボロになるためじゃない。……僕の手で、世界で一番幸せにするためなんだから」
「あ、あの……! クロード様、私、もう大丈夫ですので……立ちます……っ!」
赤面したコレットが腕の中で小さく身をよじると、クロードはふっと妖しい笑みを深めた。
「立ちあがる? 駄目だよ。言いつけを守れなかった悪い子には、お仕置きが必要だ」
「ひゃっ……!?」
抵抗する隙もなく、コレットの華奢な体がふわりと持ち上がる。 クロードはコレットを抱き上げたままデスクの前の重厚な革張り椅子に腰掛け、そのままコレットを自分の膝の上にすっぽりと座らせてしまったのだ。
「ク、クロード様……っ!? なにを……っ!」
「ふふ、雇い主の言うことを聞きなさい」
しなやかで鍛え抜かれた体躯が、小柄なコレットを背後から包み込む。 クロードの長い腕がコレットの腰にしっかり回され、背中が彼の広い胸にぴったりと密着した。服越しにも伝わってくる熱い体温と、トントンと力強く打つ脈動。
(どうしよう、クロード様がこんなに近くに……! 心臓が、こわれちゃう……っ!)
パニックになるコレットの手に、クロードの白く整った手が重ねられる。 ペンを握りしめて少し赤くなっていたコレットの指先を、クロードは愛おしそうになぞり——あろうことか、そのまま自分の唇へと運んだ。
「んっ……!?」
ちゅ、と小さな音が二人だけの執務室の静寂に響く。 指先から、爪の先、そして少し擦りむけていた手首の傷跡へと、ひとつひとつ丁寧に熱いキスが落とされていく。
「クロード様……っ、手が、手が汚れてしまいます……!」
「汚れやしないさ。君が僕のために頑張ってくれた、愛しい痕跡だ。……だけど、君の身体に傷がつくたび、僕の心がどれだけ痛むか、君はちっとも分かっていない」
甘く掠れた声が、耳たぶを掠める。 それだけでコレットの全身に甘い痺れが走り、背筋がゾクゾクと震えた。
「クロード、様……」
「見つめ返して、コレット。僕のことだけを見て」
クロードの指先がコレットの顎を優しくすくい上げ、強制的に視線を交差させる。 至近距離で対峙する、情熱に濡れたサファイアブルーの瞳。 完璧で雲の上の王子様だと思っていた彼が、いまや自分だけを激しい眼差しで見つめ、逃がさないように抱きしめている。
コレットの大きな栗色の瞳が、緊張とときめきでウルウルと潤んだ。 頑張りすぎて赤くなった目元と、涙を溜めた可憐な顔立ち——それを見た瞬間、クロードの理性のタガが心地よく外れる音がした。
「……あんなバカのところから引き抜いた時、誓ったんだ。二度と君に辛い思いはさせないと。……でも、いま君を一番泣かせそうになっているのが僕だとしたら、僕はどうすればいい?」
「違……違います……っ! クロード様のおかげで、私、今すごく幸せで……っ!」
必死に訴えるコレットの素直な言葉に、クロードの胸が熱く跳ね上がった。
「なら……証拠を見せて」
低い囁きとともに、クロードの顔が急接近する。
「ん……っ!?」
重なったのは、驚くほど柔らかく、そして熱い唇。
ただの触れ合いではない。コレットの唇の輪郭を確かめるように、夢中で食むような深い深いキス。 コレットのハニーブロンドの柔らかい髪にクロードの指が滑り込み、頭の後ろを優しく固定される。逃げ出すことなんて、最初から許されていない。
「ん……ぁ……っ、くろー、様……」
何度も角度を変えて重ねられるキスに、コレットの頭の中は甘い花火が打ち上がったように真っ白になっていく。 息がうまく吸えなくて、胸が苦しいのに、甘くて、溶けてしまいそう。 すがるように掴んだクロードのジャケットの胸元が、自分の手のひらの中でシワになっていくのを感じる。
離れそうになる唇を追うように、クロードはコレットのうなじへと唇を滑らせた。 ブラウスの襟元が少し乱れ、白く華奢な首筋に、熱い吐息とキスが降ってくる。
「……っあ、ダメ、そこは……っ」
身体が跳ねるような感覚に、コレットは声にならない悲鳴をあげた。 初々しい反応に、クロードの胸の奥で暗い独占欲がさらに大きく渦巻く。
「ダメじゃないよ。君のすべては、もう僕のものだ。……あのバカにも、他の誰にも、指一本触れさせない。この部屋からも、出してあげたくないくらいだ」
耳元で囁かれる、甘く危険な言葉。 彼が見せる、自分だけに向けられた泥臭く激しい独占欲。 それが嬉しくて、コレットの目からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
クロードはその涙を、そっと唇で掬い取る。
「……涙まで甘いね、僕のコレット」
「もう……私をからかわないでください……っ」
赤くなった顔を覆おうとするコレットの手を優しく解き、クロードは彼女を抱きしめたまま、ゆっくりと執務室のソファへと移動した。
自分の胸の中にコレットをすっぽりと収め、背中を優しくトントンとなだめる。
「からかってなんていないよ。本気だ。……疲れたでしょう? ここで少し休みなさい」
「でも、お仕事が……」
「雇い主の命令だよ。僕の腕の中で、甘えて眠ること」
クロードの身体から伝わる心地よい温もりと、包み込まれるような安心感。 深く重なるキスと甘いお仕置きで疲弊したコレットのまぶたが、急激に重くなっていく。
「クロード様……」
「なぁに?」
「私……こんなに甘やかされたら、クロード様がいないと駄目になっちゃいます……」
微睡みの中で消え入りそうな声で呟くコレットに、クロードは愛おしさに満ちた笑みをこぼし、彼女の額に優しく口づけた。
「いいよ。僕が責任を持って、一生甘やかしてあげるから。……おやすみ、僕のコレット」
クロードの胸に顔を埋めながら、コレットは溢れ出そうな幸せと高鳴る鼓動を抑えきれず、嬉し涙を滲ませながら静かに瞳を閉じるのだった。




