クロード2
王立学府の中央区画——講義棟に隣接する、学士会館二階にある『筆頭執行員室』。
そこは、学内における学生側の執行・伝達組織。貴族社会の縮図であり、同時に膨大な金と権力が渦巻く心臓部でもあった。
在校生随一の家格を誇る、レオポルド大公国侯爵家嫡男のクロード・フォン・ヴァルテンベルクは、この監察委員会の会計長として、学内のあらゆる予算配分を差配している。
各貴族家から学府へ納められる多額の寄付金、研究室への助成金、サロンの維持費——それら莫大な利権の調整役として、クロードは弱冠十九歳にして見事な手腕を発揮していた。
「……今年度の法学研究会への追加予算、承認するよ。ただし、来期の寄付金枠は五%削減だ。異論はないね?」
「は、はい! ありがとうございます、クロード様!」
穏やかな笑みを絶やさず、数々の貴族学生たちの要望を裁いく。
誰もが彼のサファイアの瞳に見つめられれば平伏し、その計算し尽くされた手腕に舌を巻いた。クロードにとって、この程度の政治は優雅な茶会と変わらない。
……そのはずだった。
「——失礼する。ヴァルテンベルク君」
重厚なオークのドアが無遠慮に開かれ、部屋に入ってきた人物たちを見て、室内が一瞬で静まり返った。
現れたのは、学府の財務監督を担うヘーゼン教授と、その後ろに控える数人の監査員。そして……クロードと対立する貴族派閥の急先鋒、ドーブ子爵子息の姿があった。
ドーブ子爵子息は口元に薄汚い笑みを浮かべ、クロードを睨みつけている。
「ヘーゼン教授? 監査の予定は来月だったはずですが……何か問題でも?」
クロードは羽ペンを置き、優雅に立ち上がったが、教授の引きつった表情にかすかな違和感を覚える。
「ヴァルテンベルク卿。……大変言いにくいことだが、君に『学府寄付金の不正流用および管理怠慢』の疑いがかけられた。直ちに財務特別審査会へ同行願いたい」
「……僕が、不正流用ですか?」
クロードは短く眉をひそめた。
「身に覚えがありませんね。全ての帳簿は僕の管轄のもと、正確に処理されているはずですが」
「そうはおっしゃいますまい、ヴァルテンベルク卿!」
後方からドーブ子爵子息がせせら笑いながら前に出た。
「教授! 匿名で提出された『先期寄付金名簿の原本』と、ヴァルテンベルク卿が教授会に提出して承認させた『最終帳簿』の差額をご覧になりましたでしょう! 差額は金貨二百枚——それがどこへ消えたか、あるいは誰のポケットに入ったのか!」
ヘーゼン教授は重い溜め息をつき、一枚の羊皮紙をクロードのデスクに叩きつけた。
「……これが、内部通報とともに届いた証拠の控えだ。君の承認印が押されている。」
クロードのサファイアの瞳が、わずかに揺れた。
叩きつけられた羊皮紙——そこに記された数字は、確実にクロード自身の記憶にある数字と「異なって」いた。だが、承認印は間違いなくクロードのものだ。
(……やられたな)
クロードは脳内で瞬時に思考を巡らせる。
敵の狙いは、クロード自身に直接手を下すことではないだろう。
恐らく、「届けられた雑な書類を、クロードが確認もせず漫然と承認し、多額の寄付金を失墜させた」という『管理責任の欠如』を突くことだ。
もし届け出た側のミス、あるいは不正だとしても、最終責任者は承認印を押したクロードになる。
完璧と謳われたヴァルテンベルク侯爵家の嫡男が、「杜撰な仕事を見抜けず、学府の金を行方不明にした」となれば、彼の政治的信用は地に落ちる。
(……なるほど。僕の『目の粗さ』を問うわけだ)
「しらばっくれても無駄だ!」とドーブ子爵子息が声を張り上げる。
「提出者が数字を跳ねさせたのか、あるいは君が人を使って裏金を作らせたのか……どちらにせよ、君の不祥事には変わりない! さあ、教授会で弁明を聞こうじゃないか!」
クロードは完璧な仮面を崩さず、静かに教卓へと歩み出るも、内心、焦りが生じる。
このまま審査会へ行けば、濡れ衣を着せられたまま一時的に停職、あるいは財務統括の権限を剥奪される。挽回しようにも、証拠となる「正しく処理されたはずの過去の控え」は、すでに敵の手によって処分されている可能性が高かった。
——その小一時間ほど前。
学士会館の一階、埃っぽい過去資料保管庫。
「う~……バルタザール様たら、なんでこんな昔の寄付者名簿まで引っ張り出せなんて言うのかなぁ……」
コレットは、自分の背丈ほどもある書類の山と格闘していた。
鼻の頭に少し墨をつけて、古い羊皮紙をめくっていたコレットの手が、ふと止まる。
「……あれ?」
コレットはヘーゼルブラウンの瞳をしばたたかせ、手元のノートと、棚から引っ張り出した先月の台帳を見比べた。
「この先月分の寄付金名簿……私がバルタザール様に言われて清書して、評議会に回した時の数字と……何かが違う?」
コレットは特別に頭が良いわけでも、魔法のような洞察力があるわけでもない。
ただ、バルタザールから毎日毎日、嫌になるほどの雑用と代筆、帳簿つけを押し付けられてきた。その結果、彼女の指先と目には、「自分が書いた筆跡」と「日常的な数字の並びの違和感」が、嫌でも染み付いていたのだ。
「私、あの時、アイゼンヴァルド家からの寄付額は『金貨五十枚』って書いたはず……でも、この保管庫にある控えだと『金貨三十枚』になってる? でも、私が取っておいたメモの計算だと、絶対五十枚じゃないと全体の合計が合わない……」
コレットは首をかしげ、自分の小さな手帳を開いた。そこには、真面目な彼女が念のためにと残しておいた、手書きの計算下書きがびっしりと残されていた。
「これ……もしかして、誰かが後から数字を書き換えた……? でも、なんで……?」
コレットは青ざめた。
もしこれが自分の書き間違いだとしたら、書類を受け取ったクロード様に恐ろしいご迷惑がかかってしまうのではないか——と。
「ど、どうしよう……! 確認しなきゃ!」
コレットは腕まくりをすると、埃まみれの保管庫で、たった一人で過去数年分の膨大な履歴をひっくり返す作業へと飛び込んでいくのだった。
◇
「……弁明は、特別審査会でお伺いしようか。ヴァルテンベルク君」
学士会館二階、筆頭執行員室。
ドーブ子爵子息がせせら笑い、ヘーゼン教授が重々しく促す。
クロードはサファイアの瞳に冷徹な計算を走らせながらも、その美しい顔に一切の動揺を見せず、静かに学士衣の袖を整えた。
ここで取り乱せば、それこそ相手の思うツボだ。
(僕の承認印を押した提出用控えがすり替えられている以上、この場での反論は厳しい。だが、審査会までの時間にどうやって地下の過去履歴を……)
クロードの脳裏に、苛立ちに近い焦りが渦巻いたその時——。
バンッ——!
重厚なオーク材のドアが、大きな音を立てて弾け飛ぶように開いた。
「っ……!? な、なんだ!?」
ドーブ子爵子息が思わず声を裏返らせて振り返る。
そこに立っていたのは、呼吸を激しく乱した一人の少女だった。
蜂蜜色の髪は乱れ、袖を捲り上げた腕や頬には埃と墨がべっとりと付いている。指先は過去の羊皮紙をめくり続けたせいで真っ黒だ。
「はぁ……っ、はぁ……っ! あっ! ごめんなさい! 私ったら焦って……っ!」
「……コレット?」
クロードは思わず瞳を細めた。
なぜ、バルタザールの従属生徒である彼女が、全身埃まみれで飛び込んで来たのか。
「な、なんだこの無礼な平民は! 教授会と評議会の話し合いの場だぞ! つまみ出せ!」
ドーブ子爵子息が不快そうに叫ぶが、コレットはそれを無視して泥臭く前に踏み出した。その手には、ボロボロの手帳と、何枚もの古い羊皮紙がしっかりと握られている。
「大切なお話中、申し訳ございません!」
コレットは小さな身体をぺこぺこと折りながらも、言葉を続ける。
「でも、でも、これだけご報告させてください! 寄付金名簿が改ざんされているのを見つけたんです!」
「なんだと……?」
ヘーゼン教授が眉をひそめる。
「っ……!? じゃ、邪魔だと言っているだろう!」
ドーブ子爵子息がコレットを無理やり追い払おうとするも、ヘーゼン教授が制した。
「君、続け給え。」
コレットは息を整えながら、ヘーゼン教授の目を見てこくりと頷き、抱えていた羊皮紙をバッと執務室の大きな長机に広げた。
「私は今、この学士会館の一階保管庫にある過去三年分の寄付者名簿と、自分の所持する下書きの控えを全部引き出して照合してきました! ほら、ここを見てください!」
コレットの指先が、黒ずんだ紙面の一点を力強く指し示す。
「今提出されている『最終帳簿』では、アイゼンヴァルド家からの寄付額が『金貨三十枚』になっていて、全体の合計から二百枚跳んでいます。でも! 私が先月清書した時の『原案下書き』と、過去の寄付傾向のログでは、絶対『金貨五十枚』なんです!」
「はっ! そんなものはただの平民の下書きだろう!」ドーブ子爵子息が嘲笑う。「従属学生のお前が計算を間違えて清書したのを、クロード卿が見落として承認印を押した! それがすべての真相だろ——」
「違います!!」
コレットのまっすぐな声が、執務室に響き渡った。
「私が清書する時、インクの癖で数字の『五』の上の横棒を、ほんの少し跳ねさせて書く癖があるんです。でも、教授の手元にある『書き換えられた控え』の『三』という数字……これ、私の筆跡を真似て書かれていますが、インクの滲み方と筆圧が全然違います! ほら、この二枚を並べて陽の光にかざせば、羊皮紙の表面が一度ナイフで削り取られて、上から書き直されているのが分かります!」
「な……っ!?」
ドーブ子爵子息が息をのんだ。
ヘーゼン教授がすかさず羊皮紙を奪い取り、窓際の陽光にかざす。
「……確かに、削り痕がある。筆跡も、意図的に模倣されたものだ。『二重帳簿の捏造』……誰かが意図的に書類を改ざんし、ヴァルテンベルク君を陥れようとしたのだな」
「そ、そんな馬鹿な……っ!?」
ドーブ子爵子息は顔面を蒼白にし、ガタガタと震え出した。
「ドーブ卿」
それまで沈黙を守っていたクロードが、静かに一歩前へ出た。
サファイアの瞳には、氷のような冷徹な光が宿っている。
「僕の管理責任を問う前に……『誰がどのような目的で、西棟の書類保管庫に侵入し、筆跡を模倣して改ざんを行ったのか』。財務統括として、今から特別審査会で徹底的に追及させてもらうよ」
「ひっ……! ぼ、僕は関係ない! 審査会は延期だ!」
ドーブ子爵子息は逃げるように執務室を飛び出していき、ヘーゼン教授もまた「失礼した」と青ざめた顔で頭を下げ、事態の収拾のために去っていった。
静寂が、執務室に戻る。
クロードは手帳を閉じ、ふぅと短く息を吐いた。
完璧な立ち回りではなかった。下人のすり替えという陰湿な罠に、一瞬とはいえ後手に回らされたのだから。
(……だが、助かった)
クロードはカシミアの学士衣を揺らし、インクと埃で汚れきった少女へと歩み寄った。
いつもの『光の貴公子』の微笑みを浮かべて。
「……見事だったよ、コレット。まさか君が、地下の過去ログをすべて洗って証拠を見つけるなんてね」
「へへ……よくわからないけど、お力になれてよかったです」
コレットは鼻の頭の汚れを拭おうとして、逆に墨を広げながら照れくさそうに笑った。
「それにしても、不思議だな」
クロードはサファイアの瞳を細め、彼女の顔を覗き込む。
「君はこれを僕に知らせることで、僕の敵対派閥から目を付けられるリスクもあったはずだ。……なぜ、僕を助けたんだい? 貸しを作って、何か見返りでも欲しかったのかな」
貴族社会は取引だ。金か、権力か、身分の保証か。
クロードはいつものように、相手の「打算」を予測し、正当な対価を用意しようとした。
だが。
「え……? 間違いは当然、正さないといけませんし……見返りなんて、むしろ私がお返ししなきゃいけないくらいなんですよ?」
コレットは本気で驚いたようにヘーゼルブラウンの瞳を丸めると、素朴な笑みで続けた。
「クロード様にとっては、つまらない事で覚えていらっしゃらないでしょうけど……。前にサロンの物陰で、私が書類をぶちまけちゃった時、クロード様は嫌な顔ひとつせず、一緒に拾うのを手伝おうとしてくださった事があったんです。……私みたいな平民の従属学生に、なんて優しい方なんだろう!って、すっごく、すっごく嬉しかったんです! だから、少しでもクロード様のお役に立てたなら、よかったです!」
「…………」
クロードの思考が、完全に停止した。
あの日、散らばった書類を拾おうとしたのは、意地の悪い戯れだ。
だが、コレットの胸に残っていたのは、侯爵家嫡男としての肩書でも、光の貴公子という仮面でもない。
ただ、物陰で掛けられた一言の優しさに対する、純粋でまっすぐな感謝だけだった。
胸の奥が、焼けるように熱くなる。
指先が微かに震え、全身の血液が跳ね上がるのを感じた。
「クロード様……? 顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
「いいや、なんでもないよ」
クロードは一度瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐き出すと、目を開けた。
「……コレット。君にはこれからも、僕の為に働いてもらおうと思う」
「えっ? でも私、バルタザール様の従属学生ですし……」
「その点なら、何も心配いらないよ」
クロードはサファイアの瞳をいたずらっぽく細めたのだった。
◇
翌日。西棟3階にある、陽光が燦々と差し込む豪華な貴族専用サロンの個室。
ふかふかの革張りソファに深々と腰掛け、優雅に紅茶のカップを傾けるクロードの前に、呼び出されたバルタザールが立っていた。
バルタザールは机の上にどっかと肘をつき、不機嫌そうに眉をひそめる。
「おい、クロード。わざわざ呼び出しておいて何の用だ? 俺は今、来期の『公開討論会』の準備で忙しいんだ」
クロードはいつもの『光の貴公子』の微笑みを深めた。
「まさにその、公開討論会と課題のことだよ、バルタザール。……君、従属学生に負担をかけすぎじゃないかい? 正直言って、今の君の勉強ペースでは、討論会の準備なんて到底間に合わないだろう」
「っ……!? な、なんだと?」
バルタザールは顔をしかめたが、それ以上は言い返せなかった。図星だったからだ。進級や評価がかかった公開討論会は、彼にとっても一番頭の痛い課題だった。
「彼女は生真面目だが……率直に言うと、所詮は平民だ。基礎が違う。高度な学術議論の組み立てや、貴族相手の討論対策までは教えられない。このまま彼女に雑務を押し付けて共倒れになり、二人そろって合格が取れなくなったら……困るのは君じゃないかい?」
クロードはゆっくりと言葉を重ねる。まるでバルタザールの将来を心から案じているかのような、心地よさを響かせて。
「だから、提案なんだけどね。君には僕の派閥から、討論会対策にめっぽう強い優秀な貴族学生を『専属チューター』として紹介してあげよう。彼なら君の成績を確実に引き上げてくれるはずだ」
「な……! 本当に人手を回してくれるのか!?」
思わずバルタザールは身を乗り出した。
「あぁ。そしてチューターをつけている間は、彼女——コレットの手は空くだろう? その分、僕の助手として一時的に雇用させてもらおう」
バルタザールは思案する。悪くないどころか、これ以上ない提案だ。
しかし、思い直したように目を細める。
「……待てよ。お前が俺にそんな親切をするわけがない。一応、俺はお貴族様に好かれていないって自覚くらいあるんだ。……一体何が目的だ? 代わりに何を要求するつもりだ?」
バルタザールにしては鋭い指摘だった。貴族社会において、無償の親切ほど怪しいものはない。
クロードはサファイアの瞳を少し伏せ、学士衣の袖口を整えながら、心底楽しそうにクスリと笑った。
「ふふ……さすがはバルタザール、察しが良いね。……それなら、包み隠さず話そうか」
クロードは身を乗り出し、声を一段落として、バルタザールだけに聞こえるような低い声で囁いた。
「どうして僕が君にそんな親切をするのか、不思議かい?……ふふ、簡単な取引さ」
クロードは、まるで極上の悪だくみを共有するかのように、いたずらっぽく片目を細めた。
「僕はね……君の実家が所有している、あの『新鉱山』の採掘権と流通利権に興味があるだけさ。将来のために、今のうちに君に大きな恩を売っておこうと思ってね」
「……! な、なんだ……そういうことか!」
バルタザールは一瞬で緊張を解き、ハッと手を打った。
「侯爵家の狸が、うちの鉱山利権を狙って親切ごかしをしてきた」——バルタザールにとって、それはこれ以上ないほど納得のいく、分かりやすい貴族の強欲な計算だった。
「いいだろう! 鉱山の話なら、親父に『クロード卿に大変お世話になっている』と口添えしてやる! その代わり、最高のチューターを速攻で寄越せよ。コレットの身柄くらい、好きに貸してやる!」
「交渉成立だね。君とビジネスができて光栄だよ、バルタザール」
満足そうに鼻歌交じりでサロンを去っていくバルタザールの背中を見送りながら、クロードはゆっくりとティーカップを置いた。
その唇に浮かんでいたのは、先ほどまでの「強欲なビジネスマン」の顔ではない。
獲物を完全に罠へと追い詰めた、冷徹で、けれどどこか甘やかな征服者の笑みだった。
(……愚かなバルタザール。君が手放したのは、鉱山の利権なんかより遥かに価値のある、唯一無二の宝物だというのに)
「……さて、外堀は埋まった」
クロードは手袋を嵌め直し、静かに立ち上がった。
◇
数日後。
「し、失礼します……クロード様。今日からこちらでお手伝いをさせていただくことになりました、コレットです……」
西棟3階、クロードの執務室のドアを恐る恐る開けたコレットは、部屋の光景に思わず息をのんだ。
陽光が柔らかく差し込む大きな窓辺には、コレットの小柄な体型に合わせて新調された、美しい木製のデスク。
その上には、長時間の作業でも手が疲れない特別製の羽ペン、にじみにくい最高級のインク、そして立ち上る甘い湯気——コレットの好みに合わせた、飲みやすい温度のハーブティーが用意されていた。
「やあ、いらっしゃい、コレット」
クロードは書類から目を上げ、とびきり優しく、甘い笑みを向けた。
「あの……クロード様。私、バルタザール様から『お前はしばらくクロード様のところで働け。鉱山の取引のためにしっかりお仕えしてこい』と言われて来たのですが……本当に合ってますか? このお部屋、私には豪華すぎるというか……」
コレットは申し訳なさそうに身を縮こまらせる。
「そんなことはないよ。君にはこれから、僕の膨大な事務作業を完璧にこなしてもらわなければならないからね。作業環境を整えるのは、雇い主として当然の責務さ。……それに、君の丁寧な仕事がないと、僕は本当に困ってしまうんだ」
そう言って、クロードは困惑するコレットの手に、優しく温かなハーブティーのカップを握らせた。
「君のおかげで、僕は命拾いをした。……その恩返しだと思って、甘えてくれていいんだよ?」
「く、クロード様……っ」
コレットの頬が、ぽっと赤く染まる。
「バルタザール様のため」「クロード様のお役に立つため」と自分に言い聞かせながら、コレットは用意されたデスクに着き、驚くほどの書きやすさで作業を始めていく。
「何だか、すごく仕事がしやすい気がする……」と無頓着に首をかしげる彼女の横で、クロードはティーカップを傾けながら、その横顔を愛おしそうに見つめていた。
コレットはまだ気づいていない。
バルタザールの元へ戻る選択肢も、彼女自身の時間も、そして逃げ道の一筋すらも——目の前で優しく微笑む『光の貴公子』の手によって、完璧に、優雅に奪い尽くされているということに。




