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リュシアン2

リュシアン・フォン・グラフェンベルクにとって、大図書館3階最奥にある固定閲覧台横のソファーは、何よりも落ち着く自らの城だった。

冷気すら孕む静寂と、古書が放つ黴とインクの匂い。そこは、高潔さを気取る貴族も、才能の欠片もない凡才たちも寄せ付けない、彼だけの聖域であるはずだった。


――数日前までは。


「……ここが主文の動詞で、過去分詞の接頭辞が……っ」


まただ。

リュシアンは深くソファに沈み込み、開いていた魔導理論書を力任せに閉じた。

ソファの端から見える視界の先では、数日前から居座るようになった平民の少女、コレットが、昨日と同じように必死の形相で羽ペンを走らせている。


数日前、あの忌々しい『大辞典』に噛り付いて課題を解いて以来、彼女は毎日のようにこの場所へ通いつめるようになった。


最初は冷たく突き放し、嫌味で追い返そうと試みた。だが、彼女は「はい、すみません……でも、この定義だけ確認させてください!」などと図々しく居座り、懲りずに翌日もやってくる。


(……図太い神経だ。もはや気味が悪い)


リュシアンは苛立ちを露わに、わざとらしく椅子を軋ませた。


だが、その視線は知らぬ間に彼女の横顔を追っている。


真剣な表情で辞書をめくる彼女の、蜂蜜色の髪の束。インクで少し汚れた指先。

リュシアンの「意地悪な指摘」に涙ぐみながらも、一度も折れずに課題を終わらせたあの時の光景が、何故か脳裏にこびりついて離れず、小さくため息をついた。


「おい、小娘」


リュシアンが低く声をかけると、コレットの肩がビクッと跳ねる。

彼女はバッと顔を上げ、怯えたような、けれどどこか隠しきれない期待を含んだ瞳でこちらを見た。


「ひ、ひゃい……っ! な、なんでしょうか……っ」


「……お前の解いてるその課題、もう三日目だろ。まだ終わらないのか。どんだけ無能なんだ」


「うっ……! それは……その、課題の難易度が……!」


コレットがシュンと肩を落とす。リュシアンはその反応に冷ややかな嘲笑を返しながらも、立ち上がって彼女の閲覧台へと歩み寄った。


影が彼女の手元を覆う。コレットは身構えたが、リュシアンはそのまま彼女の横へと長身を寄せ、無言で彼女のノートを覗き込んだ。


「……貸せ」


「えっ」


リュシアンは彼女から羽ペンをひったくると、空いている余白にサラサラと数式の補足を書き入れた。


「……あ、これ……! 昨日の理論を使うと、こっちの係数も……っ!」


「……自分で気付け。バカじゃねぇの」


リュシアンはペンを彼女の手元に投げ返すと、ふいっと顔を背けた。


コレットは目を丸くし、その数式を何度も見返すと、心底嬉しそうに顔を輝かせた。

その濁りのない笑顔を直視できず、リュシアンはわざとらしくソファへ戻り、再び冷酷な仮面を被り直す。


「……勝手に解いたんだ。礼など言いに来るなよ。耳障りだ」


「はいっ! でも、本当にありがとうございました……っ!」


彼女は深く頭を下げると、再びノートに向き直る。

その背中を盗み見ながら、リュシアンは胸の奥で小さく毒づいた。


(……チッ。俺の邪魔をするなと言ったのに)


かつて、この静寂は自分を隔離するための防壁だった。

だが、今のこの空間には、静寂だけではない何か――彼女の規則的な呼吸音や、羽ペンが紙を擦る小さな音、そして何より、彼女がここにいるという微かな気配が混じり合っている。


それは、自分一人だった頃よりも、なぜか悪くない居心地だった。


リュシアンはソファに深く背を預け、誰にも聞こえない声で、小さく息をつく。


(……明日もまた、来るんだろ。どうせ)


紫の瞳が、窓の外の茜色に染まる空を見つめていた。


◇


学府の講義棟を繋ぐ連絡通路は、放課後の黄昏時ともなれば人影も疎らになる。


リュシアン・フォン・グラフェンベルクは、退屈しのぎにその薄暗い回廊をふらりと歩いていた。相変わらずの不機嫌を纏い、行き交う学生が自分を避けていくのを当然のように眺めながら。


「……ん?」


ふと、柱の影から聞こえる、押し殺したような抗議の声に足を止めた。


覗き込めば、そこには見知った背中があった。ここ数日、図書館の閲覧台でみっともなく鼻を鳴らしている、あの薄汚い小娘だ。


彼女と居るのは、あまり評価のよろしくない、子爵家の三男坊だった。


「僕に目をかけてもらえるなんて、お前のような平民には一生ない奇跡だろう? 感謝して、少し楽しませろよ」


男は心底傲慢な笑みを浮かべ、逃げ場を塞ぐようにコレットを壁際へ追い詰めている。コレットは顔を青ざめさせ、必死に身を捩っていた。


(……阿呆が)


リュシアンは冷ややかに目を細めた。


貴族という看板に胡座をかいた、薄っぺらな権力誇示。見飽きた光景だ。

リュシアンは興味を失い、踵を返そうとした。


しかし。


「――っ、やめてください……っ!」


悲鳴に近い懇願が聞こえた瞬間、男が強引にコレットの腰へ手を回し、その唇へと顔を寄せた。コレットの大きな栗色の瞳から、恐怖に濡れた涙がぼろりとこぼれ落ちる。


その涙を見た瞬間、リュシアンの思考回路で何かが鋭く断絶した。


「――おい」


冷え切った声が通路に響く。


子爵家の三男坊が「あぁ?」と苛立たしげに振り返ったその瞬間、リュシアンの姿はすでに目の前にあった。


「フェ、フェロー・リュシアン……!? なぜ……!」


学府きっての悪魔的大天才にして問題児、リュシアン・フォン・グラフェンベルク。

その顔を見ただけで、男の顔から血の気が引く。リュシアンは何も言わず、ただ静かに、しかし獲物を狙う獣のような鋭い紫眼で男を射抜いた。


リュシアンは男の耳元へ顔を寄せ、低い声で何かを囁くと、男は青ざめ、コレットを突き放すようにして逃げ出した。


コレットは壁にへたり込み、肩を激しく上下させていた。恐怖で真っ白になった顔を上げ、救い主を見上げる。


視界に映ったのは、逆光に浮かび上がる、息をのむほど美しい横顔だった。


「……あ……天使、さま……」


恐怖から解放された安堵と、極度の緊張の糸が切れたのか。

コレットは力なく瞳を閉じ、そのままリュシアンの足元へと崩れ落ちた。


「……っ、おい!」


リュシアンは慌ててその身体を抱き止めた。


「……チッ。俺としたことが、こんなもん拾ってどうすんだ」


毒づきながら、リュシアンはコレットを抱きかかえ、学府の教授陣や極一部の上級研究員のみが所持を許される、大図書館の通用口の魔導錠に触れた。青白い光が彼の掌を認識し、カチリと冷たい金属音が響く。


リュシアンは苛立たしげに、使い慣れた通用口から静まり返った館内へと足を踏み入れた。


足音一つ響かない暗闇の中、彼が占拠している地下1階の部屋へと向かい、柔らかなロングソファにコレットをそっと横たえた。


(つまらん平民相手に、何をやってるんだ)


ふと、溜息のような思考が脳裏をかすめる。


彼女の顔には、先ほどの恐怖の名残か、蜂蜜色の髪がハラリと乱れてかかっていた。


リュシアンはそれに気づくと、何かに導かれるように――彼女の髪を指先ですくい上げた。

柔らかな毛先が指の腹をくすぐるのを感じながら、それを耳の裏へとそっと流す。


そのまま指先で彼女の頬のラインをなぞるように顎先まで滑らせると、リュシアンは深い溜息を落としたあと、ソファの端に深く腰を下ろし、静かに目を閉じた。


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