ライナー2
夕暮れ前。コレットはレガリア大学が誇る荘厳な大図書館へと足を進めた。
天井まで届く重厚な本棚が幾重にも立ち並び、静まり返った館内には、乾燥した羊皮紙と古いインクの匂いがひっそりと漂っている。 あの日の夕暮れ、あの書架の陰で背伸びをしていた自分を思い出しながら、コレットは小さな胸を少しだけ高鳴らせていた。
目指したのは、一般の学生が立ち入ることを許されない、大図書館4階にある特待生専用の研究室。
「あの……失礼します」
前回の森での実技演習の帰り際、ライナーがどこか素っ気なく、けれど確かに言い捨てた言葉を、コレットはちゃんと覚えていた。
重厚な木製の扉をそっと押し開けると、高い天井から差し込む夕陽が、幾筋もの光の帯となって舞い散る埃を照らし出している。
部屋の一角、書籍の山に囲まれた長机の向こうで専門書をめくっていた銀髪の少年――ライナー・フォン・ロゼンタールが、ぴくりと肩を揺らして顔を上げた。
光の角度によって白銀にも薄い月光色にも見える、絹糸のように繊細な銀髪。16歳ならではの瑞々しい艶をたたえたその髪が、彼の揺れ動いた視線に合わせて月光の光子を散らすように美しく揺れる。 知性的な銀縁メガネの奥、氷のように冷ややかな輝きを宿した翡翠色の瞳が、驚愕で見開かれた。
「……君ねえ。本当にやって来るとは思わなかったな。ここは有象無象が立ち入る場所ではないんだが?」
「すみません……! でも、以前『放課後、分からないことがあれば……いつでも聞きに来るといい』って、ライナー様がおっしゃってくださったから……っ」
一歩、部屋へと踏み出したその時だった。
敷かれていた厚手の高級絨毯の縁に、コレットの足元がふと引っかかった。
「あっ……!」
体の小さなコレットは、あっけなく前へとバランスを崩した。
支えようと伸ばした手がライナーの机の端を捉え損ね、倒れ込んだ身体は、そのまま椅子に座っていた彼の胸元へと放り出されるように勢いよくぶつかった。
「ちょっ、待ちなさ――!」
慌てて立ち上がろうとしたライナーの華奢な胸元へ、コレットの体重が丸ごと覆いかぶさる。 ガタッと激しく木製の椅子が引きずられ、ライナーの背中が背後の書架へとドンと押し付けられた。
「うぅ……ご、ごめんなさい……っ!」
「っ……く……!」
重なる二人の身体。
コレットのハニーブロンドの柔らかな髪がライナーの頬をかすめ、甘い香りが彼の鼻腔をくすぐる。コレットの胸元がライナーの繊細な少年体型の胸板に直接押し付けられ、お互いの鼓動の早さがそのまま伝わってくるほどの密着だった。
(あ……ライナー様……すごく良い匂いがする……。それに、身体が引き締まっていて……冷たい体温が伝わってくる……っ)
目と鼻の先には、繊細な皮膚の薄さと儚げな透明感をまとった、まるで彫刻のように美しいライナーの顔があった。細い鼻筋の先に、息を呑む彼の薄い唇。
至近距離すぎるあまり、互いの熱い吐息までが肌に吹きかかる。ライナーの翡翠色の瞳が間近で大きく揺れており、コレットは心臓が口から飛び出そうなほど跳ね上がるのを感じた。
「っ……ち、近い! 近すぎるだろう! 離れたまえっ! な、何をしているんだ君は急に……! 平民にはパーソナルスペースという概念すらないのかい……っ!?」
顔を耳まで真っ赤に染めたライナーが、動揺で震える白皙の手でコレットの肩を必死に押し返した。
押し倒される格好になっていたコレットも、自分の体がライナーの上にすっぽり乗っかっていたことに気づき、弾かれたように跳ね起きた。
「ご、本当にごめんなさい……! 足元が引っかかっちゃって……お怪我はありませんでしたか!?」
コレットもまた顔をリンゴのように真っ赤にしながらバタバタと身なりを整え、深々と頭を下げた。胸の奥が、ライナーの冷たさと温もりが混ざった感触の余韻で熱い。
「……はぁ。怪我をしたのは僕のプライドだ。まったく、勝手に転んで僕の聖域を荒らさないでほしいな……心臓に悪い」
後半のボソボソとした不機嫌そうな呟きに首を傾げつつも、コレットは持参したノートと筆記具を机の端にそっと並べた。
「あの……実はですね、先日の実習のあと、自分でももう一度あの『月光花』の魔力伝導率の計算式を解き直してみたんです。ここまでは合っていると思うのですが、この最後の係数の導き出し方が、どうしても自信が持てなくて……」
差し出されたノートを見た瞬間、ライナーの背筋がピンと伸びた。
先ほどの激しい赤面と動揺を隠すように、彼はわざとらしく不機嫌そうに喉を鳴らし、メガネのブリッジを華奢な指先でクイッと押し上げた。
「……どれ。見せてもらおうか」
ライナーは椅子を引き寄せ、コレットの隣に腰を下ろした。
ノートを覗き込むために二人の距離が再び急接近する。ライナーのさらりとした銀髪がコレットの肩に触れ、彼のほのかな品のある香りが漂ってくる。
(近い……。ライナー様、すごく真剣な横顔……)
横顔の美しさにコレットが密かに息をのむ中、ライナーはすらすらとペンを滑らせていった。どこが間違っているのか、どうしてその数式になるのかを、高慢だが淀みない洗練された言葉で解説していく。
「――ほら。ここをこう置き換えれば、魔力回路のロスが消えるでしょう? 君がさっきまで悩んでいたのは、初期条件の定数を読み違えていたからです」
「わあ……っ! 本当だ、すごくすっきり分かりました……!」
コレットはパッと顔を輝かせ、満面の笑みをライナーに向けた。
その濁りのない、純粋な敬意と感謝が込められた瞳。打算など一切なく、まっすぐに自分を頼ってくれる存在など、これまでのライナーの人生には一人もいなかった。
(……なんなんだ、この顔は)
胸の奥が締め付けられるようにこそばゆい。
嬉しいなんて微塵も思っていないという顔を取り繕うため、ライナーはわずかに視線をそらし、ふんと鼻を鳴らした。
「……別に。君に感謝されたところで、僕の評価が変わるわけでもないからね。……だが」
少しだけ言葉を濁すと、ライナーは机の引き出しから、先ほどとは別の、より高度で複雑な資料が記された羊皮紙を一枚引き抜き、コレットのノートの横にそっと滑り込ませた。
「……その、なんだ。基礎課程の人間がそこまで自力で追いつこうという努力は、まあ、認めてやらなくもない。この資料を参照するといい。一般の閲覧室には置いていない、僕の私的な覚え書きだ」
「えっ……! これ、こんな貴重なものをいただいていいんですか?」
「あげるわけがないだろう! 貸すだけだ、貸すだけ! ……いいかい、僕のいないところで変なトラブルに巻き込まれて、また泣きつかれても困るんだ。僕の効率的な研究時間を邪魔されるのは御免だからね」
ツンと尖らせた高慢な言い方とは裏腹に、差し出された指先はほんの少しだけ照れくさそうに揺れていた。
コレットは胸があたたかくなるのを感じながら、「はいっ、大切に使わせてもらいます! ありがとうございます、ライナー様」と、ふわりと柔らかく微笑んだ。
夕陽がすっかり沈みかけ、窓の外に群青色の夜空が広がり始める。
ノートに向かって必死にペンを走らせるコレットの横顔を、ライナーは気付かれないようにそっと盗み見た。
(……まったく。あの無神経な成り金男に振り回されている愚かな平民だと思っていたけれど)
ペンを走らせる彼女の華奢な背中を見つめながら、ライナーは誰にも聞こえない声で、静かに息をつく。
(……僕がこうして目を光らせて指導してやらないと、この冗談みたいに素直な彼女は、いつの間にかどこかで利用されて折れてしまうかもしれないからね。……フン、仕方がない。僕の寛大さに感謝してほしいものだな)
不機嫌そうな言葉とは裏腹に、ライナーの翡翠色の瞳には、ほんのわずかな優しさが宿っていた。
静かな研究室の中で、二人を包む時間は、先ほどまでの焦燥とは違う、穏やかで少し甘い温もりに満ちていくのだった。




