キース
「……うう、もう足が動かない……っ」
夕暮れ時の学府、人気が減った中央講義棟3階の静かな廊下。
コレットは、両手に抱えた分厚い資料の山を落とさないよう必死に支えながら、千鳥足で歩いていた。
元凶はもちろん、同郷で雇用主でバカのバルタザールだ。
『おいコレット! この資料を全部運んで整理しておけ!』と言い残して遊びに行ってしまい、気づけば数時間が経過していた。実家の手伝いで鍛えた根性があるとはいえ、少女の体でこなすにはあからさまに限界を超えた労働量だった。
目の前がチカチカと霞み、膝がガクガクと震える。
(だめ……ちょっとだけ、壁に寄りかかって休もう……っ)
そう思った瞬間、ぐらりと視界が大きく傾いた。
「あっ――」
資料の山とともに床へ倒れ込む、そう覚悟して目をギュッと瞑ったコレット。
だが、衝撃は訪れなかった。
代わりに包まれたのは、驚くほど柔らかく温かな感触と、ほんのり漂う香ばしい紅茶と甘くパウダリーなムスクの匂い。
「おや……ボロボロの小鳥さんが、私の足元に落ちてきたね」
頭上から降ってきたのは、低く甘い、濡れたような大人の男の声。
「ひゃい……!?」
コレットが慌てて目を開けると、そこには優しげな目元をした青年の顔が至近距離にあった。
学府の特別招聘講師、キース・フォン・アルデンヌだ。
彼は倒れかけたコレットの腰と肩を、大きな手で軽々と支えて抱きとめていた。
第一ボタンがゆるめられたシャツの襟元からは綺麗な鎖骨が覗き、どこかアンニュイでセクシーな雰囲気を醸し出している。
「キ、キース先生……っ!? ご、ごめんなさい、私っ、足がすべって……!」
顔を真っ赤にして離れようとするコレットだったが、キースはふっと柔らかな苦笑を浮かべると、彼女の腕から重い資料の山をいとも簡単に取り上げてしまった。
「謝る必要なんてないよ。それより、こんな無茶な量の資料を持たされて……またあの成金坊ちゃんに扱き使われていたのかい?」
「あ……えっと、それは……」
「言葉を濁さなくていい。君の震える指先を見ればわかるさ」
キースは空いた方の手でコレットの手首をすっと優しく握ると、そのまま彼女を4階にある講師用の個人執務室へと引き入れた。
重厚な木製の扉が静かに閉じられると、廊下の冷気は一新され、部屋を満たす温かな空気と甘い香りがコレットを包み込んだ。
「さあ、立ちっぱなしは体に毒だ。そこに座りなさい」
部屋の奥にある重厚で深々としたソファへと促される。
コレットがおずおずと腰を下ろすと、まるで包み込まれるような柔らかさに「ふあぁ……」と情けない吐息が漏れてしまった。
「ふふ、可愛い声を出すね」
キースは資料をデスクに置くと、手際よくティーカップに淹れたてのミルクティーを注ぎ、湯気の立つカップをコレットの手に持たせた。さらに、小さなお皿に乗った焼きたてのクッキーまで添えてくれる。
「甘くて温かいものを飲むといい。緊張が解けるよ」
「あ、ありがとうございます……っ。あの、でも、先生のお邪魔じゃ……」
「まさか。可愛い教え子が目の前で倒れそうなのに、追い返すような冷酷な教師に見えるかい?」
キースはソファのすぐ隣、コレットの身体が触れ合いそうなほど近い位置に腰を下ろした。
ふわっと漂う彼特有の大人びた香水と甘い紅茶の香りに、コレットの心臓がドキンと跳ね上がる。
(な、なんだかキース先生……距離が近い気が……?でも、すごく……やさしい……)
「ほら、冷めないうちに召し上がり」
キースに促され、コレットは両手で包み込んだカップから温かいミルクティーを一口口に含んだ。
芳醇な茶葉の香りと濃厚なミルクの甘みが、こわばっていた体と心へじんわりと広がっていく。
「ふはぁ……おいしい……」
思わず頬がゆるみ、緊張で突っ張っていた肩の力がふっと抜ける。
そんなコレットの様子を、キースは隣で愛おしそうな目を細めて見つめていた。
「いい顔になった。やっぱり君には、そんな風に柔らかく笑っていてほしいな」
「あ、あの……! キース先生、本当にありがとうございます。私、助かりました……っ」
「お礼なんていいんだよ。頑張りすぎる君を甘やかすのは、私のささやかな楽しみでもあるんだから」
キースはそう言って優しく微笑むと、「少しだけ仕事を片付けさせてね」と立ち上がり、自身のデスクへ向かった。
引き出しから取り出したのは、細かな文字が並ぶ紙の束と、細い銀フレームのメガネ。
スッとメガネを耳にかけ、真剣な眼差しで資料に目を通し始めるキース。
(……わ、すごい……。メガネをかけると、なんだかすごく『大人な先生』って感じがする……っ)
コレットが思わず見とれていると、キースは視線に気づいたように顔を上げ、メガネのブリッジを指で軽く押し上げながら悪戯っぽく微笑んだ。
「どうしたんだい? そんなにじっと見つめられては、照れてしまうな」
「ひゃっ!? い、いえっ! メガネがすごくお似合いだなと思って……っ!」
慌てて顔を真っ赤にするコレットに、キースはクスクスと低く喉を鳴らして笑うと、メガネを外してデスクに置いた。
そのまま静かな足取りで再びソファへ歩み寄り、コレットのすぐ隣へと腰を下ろす。
「君に見つめられるのは悪くないけれど……今は、君のお世話をする方が優先かな」
「え……?」
キースは優しく手を伸ばすと、コレットの頬に触れた。
長くて温かい指先が、さっきまで流していた涙の痕を、慈しむようにそっとなぞる。
「……こんなに目元を赤くして。泣くほど辛かったんだろう?」
「それは……っ」
「平気な振りをしなくてもいいんだよ、コレット。……君がどれだけ健気に頑張っているか、私はちゃんと見ているからね」
至近距離で見つめられる、深みのある瞳と低い声。
大人の包容力と、ほんのり漂う甘い色気に包まれ、コレットの胸がギュッと締めつけられる。
(だめ……こんなに優しくされたら、涙が出ちゃう……っ)
「先生の前だと、なんだか……すごく甘えたくなっちゃいます……」
ポロリとこぼれ落ちた小さな本音に、キースは目元を緩め、コレットを撫でる手に一層の愛しさを込めた。
「甘えていいんだよ。……ううん、もっと私に甘えてごらん」
キースの甘く低い声が、耳元を心地よく揺らす。
頭を撫でる温かな指先と、自分を慈しんでくれる大人の眼差し。その優しさにすっかり毒気を抜かれたコレットは、とろんとした目でキースを見つめ返していた。
(あたたかくて……すごく、安心する……)
心身ともに解きほぐされ、すっかり元気を取り戻したコレットは、ハッと正気に戻ったように顔を上げた。
「あ、あの……っ! キース先生、すっかり長居してしまってすみません! おいしいミルクティーまでごちそうになって、本当にありがとうございました!」
「もう行くのかい?」
「はい! バルタザール様に言われたお仕事も途中ですし、早く戻らないと怒られちゃいますから!」
コレットが「よしっ」と気合を入れてソファから立ち上がろうとした――その瞬間。
「……ダメだよ」
「えっ……きゃあっ!?」
ぐっと強い力で腰を抱き寄せられ、コレットの体は浮遊感とともにすっぽりとキースの膝の上へと引き戻された。
あまりの出来事に目を白黒させるコレット。
気がつけば、彼女の背中はキースの胸元に密着し、逃げ場を塞ぐように太くしなやかな腕が腰に回されていた。
「き、キース先生……!? こ、これ、どういう……っ!?」
「逃がすわけないだろう? 君をそんなボロボロにする奴のところへ、おいそれと返すつもりはないよ」
首筋に触れる、キースの少し熱い吐息。
第一ボタンの開いた胸元から漂う大人の香水と男性特有の体温がダイレクトに伝わってきて、コレットの顔は爆発しそうなほど真っ赤になった。
普段の優しく穏やかな先生とは違う雰囲気に息が詰まりそうになる。
「せ、先生……っ、近いです……っ!」
「ダメかな? こんな風に君を閉じ込めておけたら、どんなにいいか……」
キースは抵抗しようとするコレットの手首をそっと握ると、その小さな手の甲へと、慈しむように唇を落とした。
チュ……と静かな部屋に落ちた甘い音に、コレットの背筋をぞくぞくと甘い痺れが駆け抜ける。
「ひゃあ……っ!?」
「君が頑張りすぎるから……私の中の悪い大人が、君をどこにも行かせたくなくなってしまうんだ」
耳元で囁かれる、過保護で濃厚な甘い言葉。
「キース先生……」
「もう少しだけ、このままでいさせておくれ。私の可愛い小鳥さん……」
コレットの頭は完全にパニックになり、大人の色気と過保護な抱擁に捕らわれ、彼の腕の中から逃げ出すことができなくなってしまうのだった。
―― 学府の特別招聘講師という立場は、一見華やかに見えて、その実ただの泥沼だ。
貴族の息がかかった学生たち、権力争いに明け暮れる教授陣。
25歳という若さで特別講師の座に就いたキース・フォン・アルデンヌの周りには、常に計算と欲望が渦巻いていた。
(どいつもこいつも、私を『利用価値のある看板』としか見ていない)
微笑みを貼り付け、スマートに接しながらも、キースの心はとうの昔に冷めきっていた。
そんな泥濁りの世界で、ふと目に飛び込んできたのが、コレットという一人の少女だった。
初めて彼女を見かけた日のことを、キースは今でも鮮明に覚えている。
成金坊主のバルタザールに理不尽な命令を下され、両手いっぱいに資料を抱えて汗をかいていた少女。
貴族の令嬢なら一分と持たずに泣き叫んで放り出すような雑用を、彼女はボロボロになりながらも、まっすぐな瞳でやり遂げようとしていた。
(……バカな子だ。そんなことをしても、誰も褒めてなどくれないのに)
最初はただの物珍しさだった。
しかし、観察すればするほど、彼女の異質さが際立った。
コレットは、誰かを蹴落とそうともしない。自分の利益のために嘘をつくこともない。
どれだけ不当に扱われても、自分が決めた仕事から逃げず、ただ泥臭く一生懸命に生きている。
そして、何よりコレットは、キースの肩書も容姿も見ずに、ただの『優しい先生』として素直な目を向けてくれた。
計算だらけの人生の中で、彼女のその純粋さは、毒に侵された喉に注がれる甘く清らかな水そのものだった。
「……ずるいよ、コレット」
自室のソファで、自分の腕の中で真っ赤になって息を整えている少女の蜂蜜色の髪に、キースは静かに顔をうずめる。
彼女が一生懸命に頑張れば頑張るほど、胸の奥が愛おしさで締め付けられる。
それと同時に、彼女をこんな目に遭わせる外の世界から隠し、この温かな部屋で自分だけのものとして可愛がり続けたいという、醜く重い独占欲がうずくのだ。
「君が私に無防備な笑顔を向けるたび、私は『良い先生』の仮面を脱ぎ捨てたくなる……」
コレットが自分に救いを求めてくれるのが、たまらなく愛おしい。
だからこそキースは、彼女がどこにも逃げ出せないよう、極上の甘さと優しさという名の檻で、静かに彼女を包み込み続けるのだ。




