リュシアン
冷気すら孕む大図書館の空気は、羊皮紙と古いインクの匂いに満ちていた。
「……うう、あと三時間……っ。絶対、夕食までに終わらせなきゃ……!」
袖のない学士衣姿のコレットは、両手に抱えた羊皮紙の束とノートを落とさないよう抱え直し、引きつった笑みを浮かべながら奥へ奥へと足を早めていた。
ハーフアップに結んだハニーブロンドの柔らかい髪が、焦りで揺れる。
元凶は、同郷で雇用主でおバカ代表のバルタザールだ。
『おいコレット! 今日の『基礎言語学』の課題、俺様の代わりに解いとけ!』と、分厚い羊皮紙を叩きつけられて早数時間。貧しい実家で事務仕事を手伝ってきたコレットにとって、計算や書類整理はお手の物だが、最高学府で扱う言語学の基礎構文は、流石に一筋縄ではいかない。
自力で解くためにコレットが目指しているのは、大図書館の3階の最奥にある『固定閲覧台』だった。
そこにしか置かれていない『古代ルーン・帝國語対照大辞典』。
あまりに価値が高く、また盗難や損壊を防ぐために、重厚な閲覧台に太い鉄の鎖で頑丈に繋がれた、圧倒的な厚みを誇る巨大な革装丁の古書だ。貸出はもちろん、他の席へ持ち出すことすら固く禁じられている。
「……あった! この辞書さえ引ければ、きっと構文の歪みを修正できる……!」
安堵の溜息を吐きかけた、その時だった。
「……あぁ? なんだお前。失せろ、鬱陶しい」
重厚な静寂を切り裂いたのは、あまりにもガラが悪く、低い男の声だった。
コレットは思わず「ひっ」と短い悲鳴を上げて足を止めた。
固定閲覧台のすぐ横にある、重厚な革張りのソファ。
そこに長躯を横たえ、行儀悪く足を放り出していたのは、一人の青年だった。
猫のように柔らかく波打つ亜麻色の髪。息をのむほど整った眉目秀麗な顔立ちをしているというのに、その瞳――妖しく光るアメジストパープルの紫眼には、隠そうともしない不機嫌さと冷酷な棘が宿っていた。
ゆるく羽織ったフェロー・ガウンの下から、高級なレースやシルクをあしらった上質な服を覗かせているが、その立ち振る舞いはおよそ貴族のそれではない。学府きっての悪魔的大天才にして問題児。21歳の最年少研究員、リュシアン・フォン・グラフェンベルクだった。
リュシアンは半開きの目でコレットを一瞥すると、心底鬱陶しそうに鼻を鳴らした。
「なんだぁ、その薄汚ぇ貧相な服。……あぁ、噂の成金が連れてきた、貧乏な雑用係か。平民の臭いが鼻につくんだよ。さっさと消えろ」
(確か、研究員のリュシアン様よね……!?な、なにこの人……!? とんでもなく綺麗な顔してるのに、口がものすっごく悪い……! ぜ、絶対に関わっちゃダメな人だ……!)
コレットの背中に冷や汗が流れる。
怯えた瞳で後ずさりしかけたが――視線が、閲覧台に太い鎖で繋がれた『大辞典』に吸い寄せられた。
(ダメ……! この辞書がないと、課題が終わらない! 提出できなかったら、バルタザール様に何を言われるか……っ!)
「あの、すみません……っ! 私、その……この辞書を使いたいだけで……っ、すぐ終わらせますから……!」
コレットは必死に声を絞り出し、ペコリと頭を下げて閲覧台へと一歩踏み出した。
リュシアンと目を合わせないよう、存在感を極限まで消しながら、鎖の繋がれた重厚な辞書に手を伸ばす。
その瞬間。
ガスッ!!
「――ッ!?」
リュシアンが乱暴に伸ばした長い足が、閲覧台の脚を蹴りつけ、鎖がジャラリと不穏な金属音を立てて跳ねた。
さらに、彼の手元にあった雑多な書類が、コレットの手元へと突き放すように放り投げられる。
「言葉が通じねぇのか? 『消えろ』ってんだよ。人の持ち分に勝手に踏み込んできてんじゃねぇ」
紫の瞳が、凍てつくような冷たさでコレットを射抜く。
「……っ~!」
理不尽な圧迫感と恐怖に、コレットのくりっとした栗色の瞳に一瞬でじわっと涙が浮かぶ。
だが、コレットは溢れそうになる涙を制服の袖でぐっと拭うと、震える手で重い辞書を開き、ノートと羽ペンを強く握りしめた。
(泣いても、課題は終わらないもん……! 絶対に、引き下がらない……!)
逃げ出さず、恐怖に肩を震わせながら黙々と辞書をめくり始めたコレットの姿。
それを見下ろすリュシアンの眉が、不快そうにひそめられた。
「……チッ」
静まり返った閲覧エリアに、舌打ちの音が低く響いた。
ソファに深く背を預けたリュシアンは、半開きの紫眼で、閲覧台にしがみつく少女の背中を睨みつけていた。
威圧すれば泣き叫んで逃げ出すか、あるいは「学府の研究員様」と気付いて媚びを売ってくるだろうと、そう高をくくっていた。
だが、その予想は完全に外れていた。
「……〜〜っ、うぅ……っ」
コレットは、ぽろぽろと大粒の涙を零し、引きつる唇を噛み締めながら、黙々と重厚な古書をめくっていた。
恐怖で肩を小さく震わせ、リュシアンの方を一切見ようとしない。しかし、決してその場所から逃げ出そうとはしなかった。
(なんなんだよ、こいつは……)
リュシアンの胸の奥に、不快なイラつきが込み上げる。
これまで自分に近づいてきた連中は、誰も彼もが同じだった。
アルテンブルク公国の伯爵家という高貴な血統と、卓越した才能。それらを利用しようと、薄汚い欲望を隠して笑顔で擦り寄ってくる大人たち。
あるいは、自分の素行の悪さと鋭い棘に恐れをなし、陰口を叩きながら蜘蛛の子を散らすように逃げ去る学府の学生たち。
だが、目の前の平民の少女はというと。
恐怖に泣きながら、自分に一言も助けを求めず、媚びも売らず、ただひたすらに鎖の繋がれた『大辞典』と手元のノートの間を視線で行き来させている。
その背中は、リュシアンの知る「人間」のどのパターンにも当てはまらない、気味の悪い異物だった。
「……おい」
リュシアンはソファから長身を起こすと、足音もなくコレットの背後に立った。
影がコレットの手元をすっぽりと覆い隠す。
「ひっ……!?」
コレットは跳ね上がるように肩をすくめ、羽ペンを握りしめたままバッと振り向いた。
くりっとした栗色の瞳は涙でうるうると濡れ、鼻の頭を真っ赤にしている。
「な、なんでしょうか……っ! 私、声も出してませんし、静かに辞書を引いてます……っ!」
「うるせぇんだよ。必死こいて鼻すすってる音が耳障りなんだよ」
リュシアンは冷酷に言い捨てると、長身をかがめ、コレットのノートを上から覗き込んだ。
そこには、びっしりと細かな文字で古代ルーン語の語幹と、帝国語の構文が書き連ねられている。
「……ハンッ」
ノートを一瞥した瞬間、リュシアンの薄い唇が嘲笑の形に歪んだ。
「おめでたい頭してんな。3行目の動詞変化、根本から間違ってんぞ。そんな基本のキも分からねぇで、代筆人気取りか?」
「えっ……!?」
「名詞の格変化に引っ張られて、時制の接尾語を見落としてんだよ。……バカじゃねぇの。その程度の頭でこの辞書引いてたって、日の暮れるまでに終わるわけねぇだろ」
わざわざ間違いを指摘したのは、もちろん親切心からではない。
「お前の努力は的外れで惨めだ」と突きつけ、諦めさせて追い払うための、意地の悪い嫌がらせだった。
「……〜〜っ!?」
言われたページを見返し、自分のミスに気付いたコレットの顔が、一瞬で蒼白になる。
目頭が熱くなり、ぽろぽろと新たな涙が溢れ出す。
(悔しい……! すごく嫌な言い方……っ! でも、言われた通り、間違ってる……っ!)
リュシアンは、これで折れてノートを閉じるだろうと冷ややかな視線を送っていた。
だが。
「……っ、ありがとうございます……ッ!!」
コレットは涙を袖でゴシゴシと力任せに拭うと、真っ赤な目でリュシアンを見上げ、深々と頭を下げた。
「教えてくださって、ありがとうございました……っ! 私、もう一回やり直します……!」
「……はぁ?」
想定外すぎる反応に、リュシアンの整った顔が初めて完璧に固まった。
コレットは嫌味を言われたことへの悔し涙を流しながらも、すぐに羽ペンを持ち直し、ガリガリと音を立てて間違いを修正し始めた。
辞書をめくる手つきには、先ほどまでの恐怖だけでなく、長く厳しいネルトリンゲンの冬で培われた「絶対に諦めない根性」が宿っていた。
涙で濡れた顔で、黙々とノートに向かい続けるコレット。
その無防備で、あまりにも真っ直ぐな背中を見つめながら、リュシアンは苦いものを噛み潰したように眉をひそめた。
(……チッ、ほんと、なんだよ、こいつ……)
◇
大図書館3階の最奥部に、羽ペンが羊皮紙を滑るガリガリという音と、鎖がかすかに擦れる音だけが響いていた。
リュシアンからの冷酷な指摘を受けてから、優に二時間が経過していた。
「……ここが主文の動詞で、過去分詞の接頭辞がここに隠れてて……。だから、格変化は……っ」
コレットは腫れ上がった目をこすりながら、必死に羽ペンを動かしていた。
ハーフアップの髪からこぼれた蜂蜜色の毛先が、焦りと熱気で頬にへばりつく。
涙はもう出なかった。泣いている時間すら惜しかったからだ。
『大辞典』の分厚いページを何度も往復し、指先をインクで真っ黒に染めながら、彼女は一つひとつ、絡まった糸を解きほぐすように文法を組み直していった。
閲覧台から少し離れた革ソファでは、リュシアンが肘を突き、不機嫌そのものの顔でコレットの様子を眺めていた。
(一眠りして起きてみたら……まだやってやがる)
どうやら従属学生の少女は二時間もの間、ひたすら課題にかじりついていたようだ。
「おい」
リュシアンが低く声をかけると、コレットの背中がビクッと跳ねた。
「ひ、ひゃいっ……!?」
「……いつまでそこに居座る気だ。閉館時間になんぞ」
「あ……っ!」
コレットは慌てて壁の時計を見上げた。長針がすでに閉館の刻限を指しかけている。
しかし、コレットの顔に浮かんだのは絶望ではなく、ぱっと花が咲くような喜びだった。
「で、できました……っ! 最後の構文解読、完璧に辻褄が合いました……っ!」
インクで汚れた手でノートを胸に抱きしめ、コレットは涙の痕が残る顔で、ぐっと小さくガッツポーズを作った。
「〜〜っ、よし……! これで、バルタザール様に怒られずに済みます……!」
自力で解き明かした達成感に、くりっとした栗色の瞳が輝く。
リュシアンは呆れ果てたように吐き捨てた。
「……ハッ、バカじゃねぇの。たかが教養学部の基礎課題一つで、よくそこまで泥臭くなれるな。時間の無駄だろ」
「無駄じゃありません!」
コレットは即座に振り向き、キッとリュシアンを見つめた。
言葉遣いは丁寧だが、その目には引き下がらない強い光があった。
「最初はすごく難しくて、フェロー・リュシアンに意地わ……いえ、間違いを教えていただいた時は悔しくて泣きそうになりましたけど! でも、自分で辞書を引いて解けたから、ちょっとだけ自分の力になった気がします!」
「……」
まっすぐな瞳でそう言われ、リュシアンは気色悪さに思わず言葉を詰まらせた。
( なにいってんだこいつ。そもそもとっくに泣いてただろ、ボロボロと……)
コレットは急いで筆記具を鞄に詰め込むと、入り切らなかった羊皮紙を抱えてペコリと深く頭を下げた。
「フェロー・リュシアン、お邪魔してすみませんでした。間違いを教えてくださって、本当にありがとうございました!失礼します!」
パタパタと足音を立てて、コレットは駆け去っていった。
静まり返った大図書館の奥。
リュシアンは一人残されたソファで、コレットが去っていった通路をしばらく見つめていた。
(ありがとうございました、か…。)
リュシアンは長い足を組み直し、コレットが去っていった廊下に向かってつぶやいた。
「……ハン。……次から、ここで鼻すするような真似してみろ。今度こそ蹴り飛ばす」
近くの机には、リュシアンが投げ散らかした書類が、きっちりと整え置かれていた。




