ライナー
熱気に満ちた酒場をそっと抜け出し、コレットはレガリア大学が誇る荘厳な大図書館へと足を進めた。
天井まで届く重厚な本棚が幾重にも立ち並び、羊皮紙と古インクの匂いが漂う静寂の世界。コレットは大きな閲覧机の上に自前のノートを広げ、参考文献を探すために高い書架の立ち並ぶ列へと踏み込んだ。
「ええと……『東方諸公家系譜』は……あ、あんな高いところに」
小柄な身体を伸ばし、華奢な腕を精一杯上に伸ばす。しかし、爪先立ちになっても指先すら届かない。無理に本を引き抜こうと体を揺らした、その時だった。
「……はぁ。届かないなら、踏み台を使うくらいの知恵は働かないのかい?」
頭上から、氷の結晶が触れ合うような、気品に満ちた冷徹な声が降ってきた。
コレットの頭上からすっと伸びた白皙の指先が、目当ての厚革装丁の本を一切の無駄なく引き抜く。
「あ……」
驚いて振り向いたコレットの視界に飛び込んできたのは、月光を束ねたかのような銀髪をなびかせる美少年だった。
端正に仕立てられた羅紗の学士衣を一切の乱れなく着こなし、知性的な面立ちの上に銀縁のハーフリムメガネを光らせている。まだ16歳らしい繊細な身体つきでありながら、その佇まいにはすでに完成された上流階級の気品と、他人を寄せ付けない冷厳な雰囲気が漂っていた。
モルダウ公国の子爵家出身にして、16歳で専門高等学部の特待生に名を連ねる天才——ライナー・フォン・ロゼンタール。
手助けをしてくれたライナーの姿に心がぱっと明るくなったコレットは、頬を淡桃色に染めて微笑んだ。
「ありがとうございます……! お手数をおかけしてしまって申し訳ありません」
「勘違いしないでほしいね。無謀に引き抜いて貴重な羊皮紙を傷つけるような愚行を、見過ごせなかっただけだ」
ライナーは氷のように冷ややかな翡翠色の瞳で、コレットの纏うノースリーブの学士衣を一瞥すると、薄い唇から淡々と冷酷な言葉を滑らせた。
「金銭の力で無試験編入を果たした男の、女従属生とは君のことか。なるほど……この歴史ある学び舎に相応しい知性も品格も、何ひとつ持ち合わせていないわけだ」
言い捨てるや否や、ライナーは学士衣の裾を美しく翻し、優雅に隣の書架へと去っていく。
(すごく綺麗な方……でも、なんだか近づきがたい雰囲気……)
コレットはそっと胸をなでおろし、受け取った本を抱えて閲覧机へと戻った。広げられたノートに向かい、再びペンを走らせ始める。
しばらくして、隣の書架から本を選び終えたライナーが、コレットの机の脇を通りかかった。その際、ライナーの鋭い視線が、コレットの作成している緻密な講義ノート——バルタザールのためのカンニングペーパーに留まる。
「……呆れた愚行だな」
ライナーは足を止め、優雅に眼鏡のブリッジを押し上げながら息を吐いた。
「教養すらおぼつかない粗野な成り金のために、知性の乏しい従属学生が手を貸したところで、結果など目に見えているというのに」
16歳ならではの瑞々しさを残した美貌から、容赦なく吐き出される冷淡な評価。しかし、コレットは悲しむ風もなく、まっすぐな瞳を向けた。
「……そうかもしれません。ですが……私、バルタザール様の為にお仕えするのは嫌ではないんです。あの方は少し大雑把ですが、とてもお心が温かい方なんですよ 」
陰りのない、透き通った瞳。 ただ一人の主に寄り添う、献身。
(……何なのだ、この者は )
権謀術数と選民意識が渦巻くこのレガリア大学において、これほど一切の利害なく他者を尊ぶ者を、ライナーは知らなかった。その「歪みのない献身」は、完璧を誇るライナーの美学に小さく、だが確かな波紋を広げた。
ライナーはわずかに眉をひそめると、動揺を隠すように視線をノートの図表へと逸らした。
「……フン。」
ライナーは冷ややかな態度を保ったまま、不機嫌そうにぽつりと付け加えた。
「歴史の構造化に関しては、一定の努力が認められるな。……その年代記の補強であれば、その本のすぐ隣にある『第二巻』も参照するといい」
「はい! ありがとうございます、ライナー様! 」
パッと顔を輝かせるコレットに背を向け、ライナーはもはや興味を失ったかのように颯爽と去っていく。
去っていくライナーの美しい後ろ姿を見送りながら、コレットはそっと深く頭を下げるのだった。
◇
翌日。昼の講義が終わる時間帯。コレットを引き連れたバルタザールは、廊下を歩くライナーを見つけ出すとズカズカと歩み寄った。
「おい!昨日はコレットが助けられたようだな!俺も助かった!」
大きな手でバシバシと肩を叩かれ、ライナーは露骨に不快感を示し、その手を素早く払いのけた。
「……気安く触らないでいただきたい。身だしなみも規律も整えられない方と接触するのは苦痛でしかない」
「ライナー様っ」
コレットも慌てて一歩前に出ると、胸元で手を重ね、深々と腰を落として頭を下げた。
「昨日教えていただいた本のおかげで、その後もとても助かりました。本当にありがとうございます!」
太陽のような、一切の陰りもない純粋な笑顔。
ライナーはその眩しさに一瞬息をのむが、不意に胸の奥で跳ねた鼓動を隠すように、細い指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……礼には及ばない。用件がそれだけなら、失礼する」
それだけ素っ気なく告げると、ライナーは学士衣をなびかせ、一歩も乱れのない洗練された足取りで立ち去っていった。
「なんだあいつ、相変わらず気取ったヤツだな 」
首をひねるバルタザールを横目に、コレットは去っていくライナーの背中を、感謝と温かみを込めた眼差しで見送っていた。
◇
一人になり、特待生専用の研究室へと続く静寂な回廊を歩くライナーの歩調は、どこか乱れていた。
「……くっ」
ライナーは美貌を歪めて小さく不満を漏らし、胸の奥のざわつきを振り払うように頭を振った。
不意に脳裏に浮かぶのは、コレットのあの笑顔だ。飾り気もなく、一切の計算もない純粋な表情が、いくら払いのけても胸に焼きついて離れない。
(……なんなのだ、まったく)
ライナーは眉間に深いシワを寄せ、自分に言い聞かせるように冷ややかに自己完結させた。
(……そう、僕はあの粗野でデリカシーの欠落したネルドリンゲンの成り金男が気に食わないだけだ。だから、あの男の従属学生である彼女まで無駄に視界に入ってしまうのだ……)
己の心の中に強引な理屈と整合性を打ち立てながら、ライナーはいつもより少し早い足取りで、誰の侵入も許さない静寂な研究室の扉を開けるのだった。
◇◇◇
「では、本日の本草学実技特別合同演習について説明する」
演習場の中央で、担当教授の声が響き渡った。
「大学裏手に広がる森の第二区画へ入り、指定の魔導薬草『月光花』を採取。その場で簡易分析を行い、結果を報告せよ。なお、今回は三人一組のグループワークとする」
教授が張り出したグループ名簿を目にした瞬間、ライナーの整った美貌がこれ以上ないほど露骨に引きつった。
『ライナー・フォン・ロゼンタール』
『バルタザール・アイゼンヴァルド』
『コレット』
「……何の悪戯だ、これは」
ライナーの冷ややかな呟きに、隣に並んだバルタザールが豪快に笑いながら、ドシドシと肩を叩いてきた。
「ハハハ! 奇遇だなメガ……いや、ライナー! 森なら俺の庭みたいなもんだ、任せとけ!」
「……気安く触るなと、昨日お伝えしたはずだが? まったく、規律を欠いたネルドリンゲン男と、平民の従属学生と組まされるとは……不条理な試練にもほどがあるな」
「まあまあ、ライナー様、バルタザール様。足を引っ張らないよう精一杯頑張りますので!」
コレットが焦ってフォローを入れるが、ライナーの不機嫌は収まらない。彼は静かに溜め息をつくと、学士衣の裾を揺らして森の入口へと歩き出した。
木々が鬱蒼と茂る森の奥深く。目的の薬草『月光花』の生息域に到着すると、ライナーは早速足を止め、慎重に周囲を観察し始めた。
「いいかい、月光花はきわめて繊細な魔導植物だ。そして厄介なことに、外見が酷似した有毒植物『偽月光花』が混ざって群生している。素人が適当に摘めば、毒胞子を浴びて一週間は高熱にうなされることになる」
「ふん、面倒くせぇな。根こそぎ吹き飛ばせばいいんじゃねぇか?」
「……正気を疑うね。提出物を灰にして何になる? 黙ってい給え」
バルタザールの物騒な提案を一蹴し、ライナーがポケットから銀細工の鑑定用レンズを取り出そうとした、その時だった。
「ライナー様、これのことでしょうか?」
ふいに立ち上がったコレットの手元には、見事に摘み取られた一輪の青白い花があった。
「っ!? 馬鹿者、確認もせずに触るなと言っただろう! それが偽物だったら——」
「大丈夫です。葉の裏の脈が細かく三股に分かれていますし、茎からほのかに甘い香りがしますから、こちらは本物の『月光花』です。あちらの岩陰に生えている群生は、葉が厚くて無臭なので『偽月光花』ですね」
ライナーは目を見開いた。慌ててレンズを覗き込み、コレットが指し示した二つの株を交互に確認する。……寸分の狂いもなかった。
「……なぜ、それが見分けられる? 基礎課程の範疇を超えているぞ」
ライナーの問いに、コレットは少し照れくさそうに微笑んだ。
「ネルドリンゲンは冬がとても長いんです。だから、雪が溶ける短い夏のうちに、冬越しのための薬草や高山植物を家族総出で山に入って採り集めて乾燥保存するんです。毒草と間違えると命に関わりますから、子供の頃から見分け方は徹底的に仕込まれていて……」
厳しい風土の暮らしの中で培われた、生きるための生きた知識。
「……なるほど。平民の生臭い知恵とやらも、時には役に立つと認めざるをえないな」
「おいコレット! 高い崖の上に、さらにデカくて綺麗なやつが生えてるぞ! 取ってきてやる!」
「あ、バルタザール様、危険ですっ!」
コレットの制止も聞かず、バルタザールは身体能力だけで軽々と垂直の岩壁を登り始めた。そして、圧倒的な筋力と強引な魔力操作で安全を確保しつつ、極上の『月光花』の大株をあっさりと摘み取って飛び降りてきた。
「ほらよ! これなら文句ねぇだろ!」
「……成果の質だけは評価しよう。やり方は相変わらず野蛮極まりないがね」
ライナーはため息をつきつつ、渋々といった様子で頷いた。
◇
「では、採取したサンプルの簡易分析に移ろう。薬草の液汁を抽出し、魔力伝導率を計測するのだが……」
ライナーは手本を見せるため、コレットの隣に腰を下ろした。
「コレット、試験管の角度が甘い。液汁の粘性が高いから、もう少し傾けないと——」
「あ、すみません、こうでしょうか?」
「違う、このくらい傾けるんだ」
正しく指導しようと、ライナーが手元へ手を伸ばした瞬間——彼の白皙でしなやかな手が、コレットの手の上にそっと重なった。
(ライナー様の手……!少しひんやりしているけど、とても滑らかでやわらかい……。それに比べて私の手、かさかさしていて恥ずかしい……!)
自分の不器用さと手荒れを恥じ、コレットが瞬時に耳まで真っ赤になったのに気づくと、ライナーも弾かれたように激しく手を引き、早口でまくしたてた。
「か、勘違いしないでほしいね! 単なる物理的な指導だ! これだから女が崇高な学び舎に混ざるのは困るのだ……!」
コレットは目をパチクリさせながらも、深々と頭を下げた。
「は、はいっ! 細かいところまでお気遣いいただき、ありがとうございます!」
(……なぜお礼を言われているんだ私は!?)
ライナーは沸き立つ混乱と羞恥を必死に抑え込み、手元の試験管を握りしめた。
◇
コレットの生きた薬草知識、バルタザールの規格外な野性味、そしてライナーの完璧に培われた理論と分析。
異色すぎる三人だったが、彼らの班はどのグループよりも早く、課題のサンプル提出と報告を終えた。
演習場の出口で、コレットは課題の内容をまとめたノートを愛おしそうに抱え、顔を輝かせた。
「ライナー様のおかげで、とっても勉強になりました! あんなに綺麗に液汁を抽出できるなんて凄いです。……あの、もしよろしければ、また色々と教えていただけたら嬉しいです!」
打算のない、純然たる尊敬と親愛に満ちた瞳で見つめられ、ライナーは息を詰まらせた。
(また教えてほしい……? この僕に……? なんと不躾な……)
そう思いながら自然と口から出た言葉は、全く違うものだった。
「……大閲覧室は騒がしい。有象無象の邪魔が入る」
ライナーは眉間に皺を寄せながら、眼鏡のブリッジを押し上げ、視線を逸らしながらボソリと告げる。
「図書館の特待生研究室なら、僕くらいしかいない。放課後、分からないことがあるなら……いつでも聞きに来るといい。……そこなら、そこのガサツな邪魔者も入れないからね」
その言葉を聞いて、コレットは花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「本当ですか!? ライナー様の研究室に伺ってもいいんですか!? 嬉しいです、ぜひ伺わせてください!」
「……フン。僕は効率的な学習環境を提示したまでだ」
ライナーは素っ気なく言い捨てると、逃げるように早足で歩き出した。
(何を提案しているのだ、僕はーーーーっ!?)
澄ました顔の裏で、理性が絶叫を上げている。
特待生研究室は、ほぼ己の聖域とも呼べるプライベート空間だ。そこに平民の、たかだか従属学生。しかも女性をいつでも来ていいと招き入れるなど、これまでのライナーなら天地がひっくり返ってもあり得ない暴挙だった。
「おいメガネ! 待てよ! 俺を仲間外れにするな!」
後ろから粗野に追いかけてくるバルタザールと、それに笑いながらついてくるコレットの気配を感じながら、ライナーは赤くなった耳元をごまかすように学士衣の襟をそっと立てた。
激しい困惑と、胸の奥で高鳴る不慣れな鼓動。それらを払いのけるように、ライナーは普段の倍の速度で歩を進めるのだった。




